武蔵野の白狼

沢田和早

武蔵野の白狼

 文月の夜は重く淀んでいた。

 時折吹く風の生温さは昼の名残りの熱気だけでなく魔の瘴気もはらんでいるのだろう。厚い雲に覆われた新月の夜の闇が、我らの行く手を阻むように体にまとわりついてくる。


「急がねば」


 気ばかり焦る。武蔵御岳山の雑木林を駆け下り広々とした荒野に出ても、我が四肢は遅々として一向に進んでいないように感じられる。


「ハク、疲れましたか」

「なんの。あるじ様こそお疲れでしょう」

「私の心配は無用です。先はまだ長いのですから無理はせぬように」

「はっ」


 背に乗せた我が主、巫女様の声にいつもの覇気は感じられぬ。無理もない。荒野に出るまでに射た破魔矢の数は百本を超えている。襲い掛かってくる獣たちを何度噛み殺そうとしたことか。その度に巫女様は我を諫めた。


「あの者たちは魂を魔に染められているだけ。命を奪ってはなりませぬ」


 相手の身を傷つけず魔を払う矢、破魔矢を巫女様は射続けた。体力だけでなく精神力をも消耗させるこの矢は強者つわものといえど十本射るのが精一杯。それを百本以上も射続けたのだ。心身はもはや限界に達しているに相違ない。


 ――命に代えても必ずかの地まで御身をお運びいたします。


 無言の覚悟を刻み込んだ我が胸中に、在りし日の巫女様の姿がまざまざと蘇った。あれからもう十年の時が流れたのか。


「おまえの名はハク。今日より私のしもべとして仕えるのです。さあこの蒼石を飲みなさい」


 初めて目にした巫女様はまだ年端もいかぬ女童めのわらわであった。そして我は武蔵野をねぐらにする粗野な白狼に過ぎなかった。もちろん人語など解さぬし神通力も持たぬ。だが巫女様より賜った蒼石を飲み込んだ途端、我は神の眷属として生まれ変わった。その石は素盞鳴尊すさのおのみことの力を宿した宝玉であった。


「私は天照大御神あまてらすおおみかみの力を宿した宝玉、紅石を持っています。力を合わせて武蔵野の守護に励みましょう」


 我らの神社には言い伝えがあった。今より千年の昔、武蔵野には魔の瘴気が蔓延し人は獣の如く欲に駆られるままの暮らしをしていた。

 この地に住む国造りの大男、大太郎法師だいだらほうし様はそれを嘆き、東征途中の日本武尊やまとたけるのみことの力を借りて魔を封じ込めた。

 しかし封は完全ではない。時とともにその効力は薄れやがて魔が解き放たれる日がやってくる。その備えとして日本武尊は神社に御神木を植え、神の力を宿す二つの宝玉、蒼石と紅石を残していった。

 以来、この神社では巫女と白狼が宝玉の持ち主となり武蔵野の平安を保っている。


「魔を退けるのに命を奪ってはなりませぬ」


 巫女様はいつも我にそう言い聞かせた。悪しき心があれば魔は生じる。魔の瘴気を封じ込めてもそのことわりは変わらない。日々生じる小さな魔を消滅させる、それが千年の長きに渡って巫女と白狼が励んできた務めであった。


此度こたびの魔は違う」


 異変は数日前から始まった。これまでとは比較にならぬほど魔の数が増え力が大きくなったのだ。

 野山では魔に染まった獣が荒れ狂い、野心に駆られた武士たちは武蔵野だけでは飽き足らず大挙して上洛を始めた。封が破れようとしている、そうとしか考えられなかった。


「再び魔を封じる時が来た。急ぎ我が元へ参られよ」


 そして今日、封印陵の守護者である大太郎法師様の呼びかけに応じて我と巫女様は山を下った。錫杖の法力と二つの宝玉の力なくして魔を封じることはできぬ。

 気掛かりは大太郎法師様のお力であった。人と狼の寿命が尽きるごとに代わる代わる務めを果たしてきた我らとは違い、法師様はこの千年の間ただお一人で封印陵を守ってきた。もはや力はほとんど残されてはいまい。急がねば。こうしている間にも解き放たれた魔の瘴気によって大太郎法師様の力は削られているのだから。


「あそこです」


 巫女様の力強い声が聞こえた。星一つない暗闇の中でも近づいてくる封印陵の気配はわかる。だが大太郎法師様の気配は少しも感じられぬ。

 嫌な予感に襲われながら封印陵の頂に登った。仄かな光を放つ大太郎法師様の錫杖が地に突き刺さっている。その薄光に照らされながら我の背から巫女様が降りた。


「間に合いませんでした。力を使い果たした大太郎法師様のお体はこの封印陵と一体になってしまわれました」


 巫女様に返す言葉が見つからぬ。我は無言で巫女様を見つめた。緋袴は泥に汚れ白い小袖には血が滲んでいる。巫女様に残された力もまた多くはないはずだ。


「こうなれば私たちだけで魔を封じねばなりません。大太郎法師様は錫杖に魂を残してくださいましたが、それに二つの宝玉の力を合わせても魔を封じるわざは発動しないでしょう。もう一つ、大きな力が必要です」


 巫女様が正面から我を見据えた。もう一つの大きな力、それが何か我にはわかっている。巫女様は何も言わぬ。言えぬのだ。ならば我が言うしかない。


「我が生に未練などありませぬ。この命、魔を封じるためにお使いください」


 言い終わるや身の内の蒼石を吐き出した。神通力を失った我が体は縮みこそすれ人語を操る能力はまだ残っている。


「有難うハク。おまえの忠義は決して忘れませぬ」


 巫女様は蒼石を懐に仕舞った。そして背の弓を手に取り弦を外した。弓には小枝と葉が付いている。御神木の枝をそのまま弓にしたのだ。


「ここに日本武尊の御神木を植え魔の封所といたす。地に満ちる魔の瘴気よ、我が足元にひれ伏すがよい」


 御神木の弓が錫杖の横に突き刺された。巫女様の懐から蒼と紅の光が漏れだす。全身から力が抜けていくのがわかる。二つの宝玉が我が命を吸い取っているのだ。


「ハク、おまえの身体はここで最後を迎えます。けれども魂は消えませぬ。私の非力では千年も経たぬうちに封は破れ武蔵野は再び魔の瘴気に覆われることでしょう。その備えとしてこれよりおまえに転生の業を使い魂を封じます。後の世で魔の封が弱くなった時、おまえの魂の封は破れ新たな命を得るのです。その命を使って再び魔の瘴気を封じる、それがおまえの新たな役目です」


 巫女様の声が遠ざかっていく。しかし言葉の内容は理解できた。ほとんど動かぬ口で最後の言葉を言上する。


「我がお役目、しかと承りました。後の世にてお会いできる日を楽しみにしております」


 薄れる視界の中に巫女様の笑顔が見える。流れるような黒髪を飾る花、あれは武蔵御岳山に群生する蓮華升麻れんげしょうまだろうか。白いがくと薄紫の花弁を持つ蓮華に似たこの花を巫女様は特に好まれた。いつかもう一度巫女様とともに山腹の茂みを駆け回りたいものだな。それにしてもなんと穏やかな心持ちであろう。主様に見守れながら今生を終えられる我はまことに果報者であった。


 * * *


 目を開ければすでに日は高く昇っていた。眠っていたのか。ここはどこだ。いやそれよりも巫女様だ。


 ――主様ー! どこにおられるのですかー!

 そう叫んだつもりだった。だが我が耳に聞こえてきたのは、

「キャン、キャン」

 という実に間の抜けた吠え声であった。


 四肢で立ち上がり周囲を見回す。見たこともない風景が我を取り巻いていた。石造りの高い建物。木のように立ち並ぶ石棒。そこに張り渡された何本もの綱。道は土ではなく固められた泥のようなもので覆われ、その上を方形の箱が大変な勢いで走っていく。


 ――落ち着け。これまでの我が身を思い出せ。


 目を閉じて記憶をたどる。満ち始めた瘴気、残された錫杖、転生の業を使う巫女様……

 そうだ。我は転生したのだ。とすればここは後の世なのか。信じられぬ。一体どれだけの時が経てば荒野しかなかった武蔵野がこうも変貌するのか。


 ――少し歩いてみるか。


 固い道を歩く。すれ違う人々に驚かされる。奇態な衣装をまとっているだけでなく異常なまでに背が高い。


 ――まさかここは大太郎法師様の国なのか。


 その考えが間違っていることはすぐわかった。道に面して立ち並ぶ半透明な鏡が我の姿を映し出したからだ。


 ――な、なんだこれは。我は犬、しかも子犬ではないか!


 人が大きいのではなく我が小さかったのだ。狼ではなく犬に転生した理由はわからぬ。だがどのような姿であろうと我に課せられたお役目は果たさねばならぬ。

 差し当たり神社でも探してみるか。人語は喋れぬが理解はできる。力のある御神木ならば意思疎通ができるやもしれぬ。


「あ、ワンちゃんだ」


 突然我の前に小娘が立ち塞がった。赤い方形の荷を背負っている。


「迷子になったのかな」


 しゃがみ込んで話し掛けてきた。無視して通り過ぎようとすると甘く香ばしい匂いがする。


「ビスケットだよ。あげる」


 急に空腹を感じた。舐めてみる。うまい。一気に食べてしまった。


「お腹空いてたんだね。かわいそうに」

「キャイン」


 思わず鳴いてしまった。小娘がいきなり我の体を両手で持ち上げたのだ。


「もう大丈夫だよ。うちで飼ってあげるから」

 ――我を飼うだと。この小娘、身の程をわきまえるがいい。


 逃れようと身悶えするが小娘にがっしりと抱きすくめられて身動きができぬ。無用な努力はせぬに限る。大人しく抱かれるとしよう。

 程なく小娘の住まいに着いた。驚いた。神社だった。御神木がある。


 ――この木……


 気配でわかった。紛れもなく日本武尊由来の御神木だ。居ても立っても居られなくなった。


「ワンワン」

「あっ、こら」


 油断していた小娘の懐から飛び出し御神木の根元に立った。心の内で呼び掛ける。


 ――御神木よ。我が声が聞こえるか。そなたの声も聞かせてくれ。


 返事はなかった。が、それほどの落胆はなかった。樹齢が若すぎるのだ。せいぜい数十年といったところか。この程度の若木では如何に御神木であろうと言葉を交わすのは難しい。


「はい。お飲み」


 小娘が差し出した皿には白濁した水が入っていた。獣の乳のようだ。水面に一輪の花が浮いている。


 ――この花、蓮華升麻か。


 巫女様が愛した花、蓮華升麻。我は小娘を見上げた。にっこりと笑うその表情には巫女様の面影がある。


 ――まさか、この小娘が……


 白濁した水を舐める。うまい。腹は決まった。どうせ行くあてはないのだ。しばらくここで厄介になるとするか。


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