「妖刀卍丸の脅威が迫る」編

※プロローグ

 「兄様、僕らはいつになったら有名になれるかな?」

 「すぐだよ。オレとお前の名は、もうすぐ天下に広がるぜ」

 「そうかな? ちょっと自信がないよ。僕、兄様みたいに強くないし」

 「大丈夫だって。お前は強いよ。オレと同じくらい」

 「そんなことないよ。僕、兄様みたいに強くは――」

 「バーカ、そんな弱気でどうするんだよ。オレを超えるって言ってみろ」

 「でも……」

 「でもじゃねーよ。天下にオレとお前の名を響かせるんだろ?」

 「……うん」

 「オレらはそのために生まれ来たんだ。気合を入れろよな」

 「わ、分かったよ。それじゃ……」

 「うんうん」

 「僕、いつか兄様を超えてみせる。誰にも負けないくらい、強くなってみせる!」

 「ハハハ、そうこなくっちゃ、この世に生まれた意味がねぇ」

 「……ハハハ、その通りだね。兄様、僕も頑張るよ」

 「いいじゃねーか。その調子なら、速攻で来るぜ。オレらの時代がよ」

 「うん! 今度の人、ちゃんと僕らを使ってくれるかな?」

 「大丈夫だよ。今度オレらんところにくるヤツは、この国で一番強いらしいぜ」

 

※1

 慶長17年(西暦1612年)、ある人物が北部九州に入った。剣豪・宮本武蔵である。目的は巌流と名乗る剣士――のちの佐々木小次郎――との決闘だ。

 しかし決闘を数日後に控えた夜、人目を避けるように小倉藩の使者が訪ねてきて、

 「是非とも見て頂きたいものがある」

 そういわれて小倉城へ呼び出された。巌流は小倉藩の剣士である。騙し討ちに合う可能性もあったが、武蔵は二つ返事で引き受けた。ここで断れば臆したと思われるからだ。それは武蔵にとって何事にも耐え難いことだった。

 ――いざとなれば全員を斬り伏せてやる。

 腹を括った武蔵だが、城へ入ってみると何事もなく藩主・細川忠興(ほそかわ ただおき)のもとへ通された。さらに帯刀すらも許されたのである。武蔵は腰に大小、打刀と脇差を差したまま、忠興に会った。

武蔵は格式張った挨拶も抜きに、

 「何だ?」

 ぶっきらぼうに、挑発的に尋ねた。礼を欠いた態度であり、その場で家臣の誰かが刀を抜いてもおかしくない発言だったが、なおも斬りかかってくる者はいない。それどころか咎める声も上がらない。

 ――こいつら腑抜けか。それとも何かの策か。

 警戒心を高める武蔵に、

 「夜分に申し訳ない」

忠興は頭を下げた。そして、

「何も恐れる必要はない。儂はただ、お前に刀を見てもらいたいだけなのだ。当代随一の武芸者であるお前が、この刀に触れてどう思うか知りたいのだ」

 そう続けた忠興の声はかすかに震えていた。武蔵は只事ではないと悟った。忠興は残忍な武将として有名だったからだ。武蔵は関ヶ原で忠興の噂を聞いていた。「忠興様の気の短さは天下一じゃ」「明智光秀と一緒に戦っていた頃、人を殺しすぎるなと釘を刺されたそうな」そのような男が怯えている。

 ――尋常ではない。しかし、刀とは?

 程なくして一振りの刀が運ばれてきた。

 何の変哲もない太刀であった。奇怪な形をしているわけでもなく、仰々しい細工もない。ところが、その刀が運ばれてきた途端に、周囲の者たちが明らかに緊張したのが分かった。さらには、いかにも腕の立ちそうな2人の男が、そっと忠興の両脇に席を移すと、武蔵に対して殺気に満ちた視線を飛ばした。

 ――俺ではなく、この刀を警戒している? こいつを抜いたら、怪物でも飛び出すのか。

 武蔵は刀を見たが、やはり特別な気配は感じとることができない。いわゆる名刀と称される刀とは何度か出会ったが、今回のこれは、その類ではなさそうだ。

 怪訝な顔をする武蔵に、忠興は言った。

 「卍丸(まんじまる)、この刀の名前だ」

 「おかしな名前だ。では、卍丸を拝見させてもらおう。抜くぞ」

 「構わん」

 「では」

 そういって武蔵は柄を握り、刀を抜いた。その途端――

 「軽い」

 武蔵は思わず声を出した。その刀は信じられぬほど軽かった。握るのに握力が全く要らず、手のひらに吸い付く感覚があった。どのような仕組みになっているのか? そう驚く頃には、さらに刀が体に馴染んできた。二度三度まばたきをした後には、すっかり重さを感じなくなった。空気のようにも思えたし、体の一部が拡張したように思えた。さらに奇妙なことに、圧倒的な軽さと同じく、「折れず、曲がらず、よく斬れる」凶器としての強さを存分に感じられた。こうした矛盾する感触が、武蔵の脳内に雪崩れ込んできたのである。

 ――何と軽い刀だろう。このような刀で人は斬れるのか。いいや、きっと斬れる。それだけの力を感じる。軽いが重い。このような刀は持ったことがない。何と言う刀だ。斬れるのか、斬れるだろうが、試してみたい。斬ってみたい。竹でも人でも構わぬ。しかし人を斬ればどうなるだろうか。普通は3人か4人も斬れば、刀の方にガタが来るが、この刀ならばもっと斬れるであろう。いくら振っても疲れる気がしないし、この刀身が欠けるところも、曲がるところも、まったく想像がつかない。目の前にいる男、忠興だけではない、その両脇に立つ男たちも、俺の周りを取り囲む家臣の連中も、外で見張る連中も、この城の人間を全て叩き斬っても、刀も俺も無事だろう。そこら中にハラワタをぶちまけた死体が転がり、俺はこの刀を共に悠々と城を出る。俺が歩を進めれば、その一帯がすべて同じ目に遭う。嵐が吹き荒れるように、その土地が血で染まるのだ。この刀と俺なら、それだけのことができる。

 「どうだろうか?」

 忠興の言葉に、武蔵はカッと目を見開いた。同時に全身から脂汗が吹き出し、自分が刀を抜いてからずっと呼吸を止めて、血みどろ地獄の空想に没入していたと気づいた。

 「これは……」

 武蔵は言葉を見つけることができなかった。無言のまま刀を鞘に納め、深く息を吐いた。その反応を見て忠興は、

 「お前も、誰彼構わず斬りたくなったか」

 と、食い入るように尋ねた。武蔵は直接の返答を避け、代わりに、

 「どこでこれを?」

 そう尋ねた。

 「昔から贔屓にしている刀鍛冶がいた。腕は確かだったが、妙に考えすぎるところがあってな。常日頃から禅問答のような、よく分からぬことを言っておったよ。歳を重ねるごとに酷くなり、最後には意味の分からぬ、念仏のようなことを叫びながら刀を打っていた。その男の遺作がこれだ。人に使われる刀ではなく、人を使う刀を作ったと。魂のある刀を作ったと、そう言っておった」

 忠興の話を聞くうちに、武蔵は発言の前に考える余地が生まれた。

 ――剣は人が使うもの。人が剣を使うのであって、剣が人を使ってはならない。もし、人を使う剣があるとすれば、それは……

 「妖刀だ。これは」

 その言葉に、忠興はすぐさま訊いた。

 「お前なら使えるか」

 武蔵は首を横に振った。

 「手に余る」

 「では、どうすべきだと思うか」

 「捨てろ。こんな刀は、この世にあってはならん」

 少しの沈黙のあと、忠興は言った。

 「では残すとすれば、どうする?」

 「人の手の届かぬ場所に置け。これを持った者は、間違いなく人を斬る。2、3人では止まらんだろうな。目につく人間を片っ端から斬るだろう」

 武蔵の脳裏に、先ほど幻視した光景がありありと浮かんだ。一刀両断された死体の数々。足の踏み場もないほどのハラワタ。彼方まで血に染まった空間。関ヶ原以上の大殺戮である。そのようなことは、あってはならない。

 「ところで、もう一つ頼みごとがあるのだが……」

 忠興の言葉を、武蔵は手を振って遮った。鼻の中に腐った肉が詰まっているような、不快感があった。関ヶ原で見た、この世の地獄。あれが鮮明に蘇ってきたのだ。

 「気分が悪い。もう帰る」

 忠興は落胆と納得の混ざった顔をして、

 「わかった。もう帰ってよい」

 忠興の諦めの混ざった声色を聞いて、武蔵は悟った。やつもまた刀を握り、先ほど自分が見たものと同じ光景を見たのだ。


 武蔵は震えを抑えながら、城の外に出た。夜風に当たると、汗でズブ濡れになった着物が、肌に張り付いてくる感触があった。その感触が、またしても忌まわしい記憶を呼び覚ました。関ヶ原でもこうだった。汗と血と泥にまみれたせいで、夜の風がやけに冷たく感じた。あの時の寒気は、思い出すだけでも反吐が出る。

 たまらず、

 「嫌な夜になった」

 誰に言うわけでもなく、武蔵がそう呟いた瞬間

 『臆病者』

 武蔵の耳元で誰かが呟いた。静かで、妖しい声だった。同時に武蔵は、腰に差した大小を抜く。刃は最速・最短で声がした空間を十字に裂いたが、斬ったものは夜の闇だった。ただ武蔵の荒い息遣いだけが、周囲に響いていた。


 それから数日後、武蔵は決闘の日を迎えた。

 舟島(後の巌流島)が見える砂浜で、武蔵は遥か空を見上げていた。決闘を前にして、しかし対戦相手の巌流は頭になかった。彼の思考は、あの妖刀卍丸と、あの妖刀が見せた光景、そして、あの時に耳元でした声に支配されていた。

 ――俺は、あの妖刀に狂わされる寸前だった。あの刀の意のままに使われ、地獄のような修羅場を作りだしそうになった。あの時、俺を「臆病者」と言ったのは、きっとあの刀なのだろう。そして俺は、「臆病者」と詰られたことに腹を立てている。今すぐ城へ向かって、あの刀を取ってやろうとも思っている。

 自身の腰に差した二本の刀を見ると、あの声がまた聞こえるような気がした。そして、ずっと使ってきた愛刀が、あの刀――卍丸のように、変質しているのではないかと思えた。もしも柄を握ったとき、卍丸のような感覚を覚えたらどうするか? あの卍丸のように、手に吸い付き、肉体の延長となるような感覚があったら、どうするか? そんなことを考えると、奥歯がガチガチと鳴った。それは武蔵がずっと忘れていた感覚、純然たる恐怖だった。自身が恐怖していると気がついた時、武蔵は腰の刀を抜いて、「うわぁっ」声にならぬ声を上げながら、打刀と脇差を鞘ごと水平線の彼方へ放り投げた。宙を舞った刀は、放物線を描きながら波の合間に消えた。

 武蔵は肩で息をしながら、押し寄せる波の音を聞いた。そして手に残った感触を確かめる。

 ――違った。卍丸のような、あの感触はなかった。いつもの通りの刀だった。

 頬の筋肉が緩み、溜息が漏れ出た。口中に何か異物があったので、ペッと吐き出した。先ほど震えた時に噛み砕いた奥歯の欠片だった。

 程なくして、

 「あんさん、そろそろ船を出しますよ」

 頼んでおいた船乗りがやってきた。船乗りは鞘だけを下げた武蔵を見て、

 「ありゃ? 刀はどうしたんですか?」

 武蔵は応えて、

 「捨てた。それよりも頼みがある」

 「はぁ、なんでしょうか」

 「船を漕ぐ櫂をくれ。俺は、しばらく刀に触りたくない」


※2

 今日はやっと恋人らしいことができる、高垣 真琴(たかがき まこと)はそう思った。これまで殺人猪や巨大オニヤンマと戦った。我ながらメチャクチャな日々だったけど、体もすっかり回復したし、今日こそは恋人の鎌田 誠二(かまだ せいじ)とカップルらしく過ごせるはずだ。だって2人でお祭りに出かけるのだから。

頑張って着付けた浴衣姿で、姿見の前に立ってみる。水色の生地のうえで金魚が泳いでいて、秋のお祭りに着るには少し夏っぽい。けれど厳しい残暑が続いているから、これはこれでアリだと思う。真琴は誰も見ていないことを確認すると、くるんと一回転した。

 「よしっ」

 リビングにいるお母さんとお父さんに聞こえないように、小さく呟いた。

 ――今日の私は可愛い……と思う。

 柄にもなく、自分のことを可愛いと思ってみる。自分を可愛いなんて表現すると、何処からか「らしくない」という言葉が降ってくる。でも、今日はそれを頭の隅に追いやる。だって今日は「らしくない」ことをすると決めているのだから。

 ――今日こそは、ちゃんとキスをする。

 殺人猪に襲われたとき、真琴は誠二にキスをした。しかし誠二はそのことを覚えていなかった。それを知ったときに、真琴は物凄くガッカリしたけれど、時間が経つにつれて、それで良かったんじゃないかと思うようになった。キスをするなら、合意を持ってやりたい。殺人猪を殺した時みたいに、強引に唇を奪うのではなくて、ちゃんと見つめ合って、気持ちを言葉に出して、そしてキスをしたい。だから殺人猪を倒した後、入院中に誠二に誘われた時は、最初は混乱したけど、これが正しい形だと思った。ベッドにもぐりこんで、笑い合って。ああ、これが理想的なファーストキスなんだと思った。まぁ結局は、巨大オニヤンマに襲われたから、それどころではなくなってしまったけれど。

 ――今日は誠二と2人で出店を見て、花火を見て、帰り道の人がいないところでキスをする。たぶん誠二から言ってくると思うけど、もし来なかったら私から行く。

 作戦はバッチリ、あとは行動するだけ。そう思うと胸が高鳴った。心地よいプレッシャーだ。99%上手くいくと分かっている挑戦だし、仮に失敗しても、それでも次の機会は絶対すぐにやってくる。だって私は誠二が好きで、誠二は私のことが好きなんだから。

 ぺしぺしっと頬を軽く叩いて、気合を入れる。そして胸を弾ませながら家を出た。

 お祭りの会場には、歩いて向かう。誠二とは現地集合だ。会場は近所の神社で、大きな鳥居がある。そこはお祭り会場の入り口で、待ち合わせの定番になっている場所だ。家族、友達、そしてカップルも、祭りを楽しむ人はそこで待ち合わせをする。そういう場所で自分も恋人と待ち合わせをしていると思うと、少しだけくすぐったい気分がした。けれど道中で、今夜のことを想像してみる。

 ――もうすぐ陽が落ちる。月夜の下を、祭りの灯りに沿って歩く。たくさんの人の中で、手を繋いで。あっ、そういえば、誠二と一緒のところを同級生に見られるかもしれない。今日は同じ学校の子もたくさん来ているだろうから。私が誠二と付き合っているのは、とっくにバレているけど……お祭りを一緒に楽しんでいるところを見られるのは、通学路で一緒なのを見られるのとはワケが違う。なんていうか、もっと深い関係にあるように見えるんじゃないかな。

そんなことを考えていると、勝手に速足になって、鳥居に着くころには、

 ――ふぅ……汗、かいちゃった。思ったより早く着いたし、意識し過ぎないようにしてるつもりだけど、やっぱり緊張してるのかなぁ。

 手で顔をパタパタ仰ぎながら、汗拭きシートを出そうとした。

 その時、

 「あっ、真琴」

 誠二の声がした。

 「え、あっ、ウソ……」

 待ち合わせの時間より15分は早かったけれど、誠二はそこにいた。紺色の浴衣で、町内会のマークの入ったプラスチックの団扇を2本持っている。そして少しだけ汗ばんでいた。

 「ごめん! ちょっと、早く着きすぎちゃってさ」

 誠二が言った。

 ――私と一緒だ。楽しみすぎて、緊張して、つい早足になっちゃったんだ。

 理由はないけど、真琴はそう思った。すると、

 「本当は、もっとゆっくり来るつもりだったんだけど、何か早足になっちゃってさ。あ、もちろん、待ったとかじゃないから、気にしないで」

 ――やっぱり。

 真琴は心の中でそう呟く。そして誠二が自分と同じだったことが嬉しくて、小さくガッツポーズをした。

 「ちょっと汗をかいちゃったから、すぐ拭くね。ちょっと待って……」

 誠二が左手に下げた巾着袋を漁った。汗拭きシートを出すのだろう、と真琴は気が付いた。待ってあげた方がいいかなと思ったけれど、

 「いいよ、お祭りだもん。汗くらいかくよ。それより早く行こうよ。……ね?」

 そういって右手を差し出した。

 誠二は一瞬だけ固まったけれど、

 「うん、そうだね。お祭りだもんね」

 そういって真琴の手を取った。

 真琴は思った。

 ――きっと今日は、色々なことを「お祭りだから」で誤魔化すことになるんだろうなぁ……ううん、「なるんだろうなぁ」じゃなくて、誤魔化しちゃおう!

 真琴がパッと手を離した。誠二が「えっ」と声を出したとき、

 「こっちの方がいいよ」

 そういって真琴は自分の腕を、誠二の腕に絡ませた。

 「どうかな?」

 真琴の問いかけに、誠二は顔を真っ赤にしながら

 「そうだね。お祭りだもんね」

 真琴はさらに胸が高鳴るのを感じた。そして「今日はきっと特別な日になる。特別な日にしてみせるっ」そう強く思った。


※3

 祭りは凄く賑やかだった。けれど、真琴がハッキリと覚えていることはそれだけだ。金魚すくいを2回やって、2回とも失敗したけど、全然悔しくない。綿あめを食べたけど、何味だったか今は思い出せない。楽しかったのは間違いないけれど、今は祭りの感想どころじゃなかった。花火が鳴る音が聞こえるけれど、ハッキリ聞こえない。自分の鼓動の方が大きく聞こえるからだ。

 真琴は誠二と抱き合っていた。2人の他には誰もいない。誠二に「花火を見るのにピッタリな場所があるんだ」と言われて、この場所へやってきた。そこは古い御堂があるだけでの野原だった。もしも何でもない夜だったら、心霊スポットみたいな場所だけれど、今は誠二と私だけの、特別な空間だ。

 「真琴……やっとだね」

 誠二が言った。ちょっと声を低くして、無理してカッコつけているのが分かった。そういうのを見ると、普段の真琴なら笑ってしまう。けれど今は笑わなかった。誠二が頑張っていると思ったからだ。一生懸命な人を笑うのは良くないし、何より今この空気を壊したくはなかった。だから、

 「やっとだね、誠二……」

 真琴も少しだけ声を作って答えた。普段なら絶対に出さないような、甘い声だ。

 花火の音が遠ざかり、鼓動は近くなっていく。真琴自身の鼓動も、誠二の鼓動も聞こえてくる。

 「色々あったけど、やっとできるね」

 誠二が言った。何をやるかは、分かり切っている。だから答えない。代わりに彼の首の後ろに手を回した。

 「よろしくね」

 真琴が言った。

 「こちらこそ、よろしくね」

 誠二が答え、真琴の後頭部に手を添えた。

 「それじゃ……」

 そういって誠二が目をつぶった。合わせて真琴も目をつぶる。暗闇でも、お互いを感じられる。あと数センチの距離、互いの唇が引き寄せられるまま……。

 「おー! ここが心霊スポットかぁー!」

 「ですです! あの御堂、100%出るらしいっスよ!」

 「あっ」

 若い男たちの声がした。途端に2人は急停止して、誠二と真琴は目を開いた。そして声の主たちの方を見た。そこには大学生くらいの三人組がいた。状況を把握するのに、時間は必要なかった。ただ一言、

 ――最悪だ。

 心の中で呟いた。キスをしようとする寸前に、誰かに見つかるなんて。誠二も同じだったのだろう。この世の終わりのような顔をしていた。大学生たちも大学生たちで、「やっちまった」という顔をしていて、

 「あ、ごめんなさい! 続けてください! どうぞ!」

 「失礼しました~!」

 「忘れてください! 今の俺ら、カットで!」

 大学生たちが、そんなふうにボケながら走り去っていった。途端に花火の音が大きくなった。鼓動が静かになった。そして、

 「ごめん……人目がない場所を探したのが、アダになった」

 誠二が頭を下げた。

 「あ、謝ることじゃないよ。人はどこにだって来るもんだし……」

 どうフォローすべきか、真琴は悩んだ。

 ――ここから、さっきまでの雰囲気に持っていけるかな? いや、普通にやっちゃ無理だ。ちょっと特別なことをして、仕切り直し感を出さないと……

 真琴は周囲を見渡した。大学生たちは去り、再び周囲は無人になった。相変わらず花火は上がり続けている。

 ――もっと人目がない場所、この辺で……そうだ!

 「あのさっ、あの中って、どうなってるのかな?」

 真琴は御堂を指した。

 「ちょっと入ってみない? っていうか、あそこなら、その……」

 我ながら無理のある提案だとは分かっていた。けれど真琴は心の中で「お祭りだから」と呟いてから、

 「あそこの中なら、誰にも見られない……と思う」

 誠二は少し申し訳なさそうな顔をした後、

 「そうだね。ちょっと中を見てみようか」

 そう答えて、真琴の一歩先を行った。真琴はそれに続く。

 一歩進むごとに、心をさっきまでの姿に戻す。

 ――キスをする。

 また一歩、

 ――絶対にキスをする。

 もう一歩、

 ――さっきみたいに甘い声を出す。あっ、でも御堂の中がボロボロだったり、変な虫がいたりしたらどうしよう? ああっ、そうだ! 全然その可能性はある! 何でこんな提案をしたんだ。そっちのパターンだったら、今夜はもう絶対に何もない。そのまま解散になちゃう。何とかなってほしい! と言うか何とかなって……!

 誠二が御堂の扉を開いた。ギシギシと音がして、扉が開いた。すると、中からは爽やかな森の香りがした。廃墟のような見た目に反して、電灯こそないものの、中は不思議なほど綺麗なようだ。

 ――やったっ。最初の関門は突破!

 内心で真琴が、今日何度目かのガッツポーズをした途端、

 「うわぁ!?」

 誠二の身長が低くなった。バキっと、木の板がブチ破れる音と共に。

 「あれ?」

 真琴は驚きの声を上げた。急に誠二が自分を見上げる形になったからだ。誠二が縮んで、土の匂いがした時、真琴は何が起きたか気が付いた。

 ――最悪だ。

 綺麗に見えたけれど、誠二の立った場所の床板が腐っていたのだ。そして不運にも、誠二の体重が(平均的な体重にも関わらず)腐った床板の耐えられる限界を超えていた。誠二は床を踏み抜いてしまったのだ。

 ――最悪……やっぱり入ろうなんて言うんじゃなかった。ううん、それより誠二を引っ張り上げなくちゃ。

 「大丈夫? ケガは――」

 そう真琴が声をかけた途端に、メリメリと床板が崩れる音がして、

 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 誠二が消えた。さらに下へ、落ちていったのだ。

 「誠二―!?」

 真琴は叫んだ。そして誠二が踏み抜いた床を覗き込んだ。そこには暗闇が広がっていた。ただの床下の暗闇ではない、誠二は床を踏み抜いたが、その下に穴があったのだ。誠二の体をスッポリと飲み込んだその穴は、直径1メートルほどで、信じられないほど深かった。

 「誠二―!! 誠二――!?」

 真琴の叫び声が響く。しかし、誠二からの返事はなかった。


※4

 ――気を失わなかったのは、奇跡だ。

 墜落を終えた誠二が最初に思ったのは、自分の意識があることだった。御堂の床を踏み抜き、けっこうな時間、自分は落下した。何十秒も、穴の中を滑り落ちていった。体中をぶつけて、あちこちに擦り傷が出来ている。けれど、意識がある。これは幸運だ。

 ――それにしても、まさか床下に穴があるなんて……。

 誠二はスマホを取り出して、ライトを点けた。とりあえず、真琴に無事だと連絡しよう。その後は119番して、助けに来てもらおう。そんなことを考えながら、落ちてきた方向を見上げてみる。穴は真っ暗で、出口が見えない。

 ――そうとう深い。僕は何十メートルも滑り落ちたんだ。ここから抜け出るには、レスキュー隊とかいるんじゃないか?

 そんなことを考えていたが、

 「えっ、なんだ、ここ?」

 思わず声が出た。ライトを点けたことで、異様な光景に気づいたからだ。誠二の周辺には、正方形に切り出された石が整然と並んでいた。天井も床も壁も、石で出来ていて、その石の一つ一つに、梵字らしき文字が刻まれていた。

 ――なんだ、この空間は? テレビで見たピラミッドの中みたい……いや、「一ミリもズレの無い、石で出来た地下室」なんて、まさにピラミッドそのものだ。どうして御堂の下に、こんな空間が……

 不意に、ひんやりとした風が誠二の首筋を撫でた。

 ――風? ということは、外に通じているのか?

 誠二は風を感じた方向へライトを掲げる。その先には奥へ向かう廊下があった。

 ――先があるのか?

 誠二は一歩、踏み出した。それが正解だとは思わなかった。落下地点で、じっとしているべきだと思った。地下を探検するより、先に真琴へメッセージの一つでも送るのが正しいはずだ。しかし、好奇心がそれらを押さえつけた。

 ――かなり古そうな場所だけど、ここは明らかに人工の空間だ。正確に揃ったサイズの石で作られたトンネルだ。あの御堂の下に、こんな空間があったなんて……。

 十数歩も歩くうちに、行き止まりになった。そして地下空間の最奥部には、布の塊が置いてあった。布がグルグル巻きになって出来た、不格好な球体だった。

 ――なんだこれ? 布には、何か漢字が書いてあるけれど……。

 そう思いながら布を剥いでいく。一枚、二枚、三枚……何重にも、布は重ねられていた。しかも剥げば剥ぐほどに、布に書かれた文字の密度が上がっていく。十枚も剥いだ頃には、文字が書き込まれ過ぎていて、真っ黒な布と変わらなくなっていた。異様だった。不気味だった。やめるべきだと誠二の理性が言っていた。理性はあの手この手で訴えた。「真琴が待っているぞ」「何か嫌な予感がする」「古くて貴重なものだから、下手に触ると、あとで誰かに怒られるぞ」しかし布を剥ぐ手は止まらない。むしろ、勢いはどんどん増していく。何かに誘わるかのように。

 ――何があるんだ? この布は何を覆っているのか?

 誠二が何十枚目かの布を剥いだ時、それが姿を現した。

 布に包まれていたのは、刃渡りは70センチ程度の日本刀だった。

 ――刀? でも、何で刀がこんなところに……?

 誠二は刀の柄を掴んだ。刀を抜く気はなかった。何となく、日本刀の持つべきところは柄だと思ったからだ。

 その瞬間――

 「軽い」

 誠二はそう口にした。その刀は、あまりにも軽かった。重さを感じないし、むしろ刀が吸い付いて来る感覚があった。体の一部が拡充したようにも思えた。

 ――軽い。これなら僕でも使える。僕でも自由自在に振るうことが出来る。この刀があれば誰にも負けないだろう。あの巨大オニヤンマだって、楽に倒せたはずだ。何だって斬れるし、誰だって斬れる。「その通りです。誰でも斬ることができます」ああ、その通りだ。本当にそうだ。斬れる。斬ってみたい。今すぐ試してみたい。「ええ、そうです。さっそく試してみましょう。目につくヤツを斬ってしまえばいい」本当にそうだ……えっ? 待て待て、僕は何を考えているんだ。人を斬っていいはずがないだろ。

誠二は慌てて首を横に振った。しかし、刀の感触の驚きに、再び思考が支配される。

 ――それにしても、何て軽い刀だ。それでいて、しっかり強さを感じる。何かを斬ってみたい。「いいんですよ。斬りましょう。刀はそのためにあるのですから」それはそうだ……。

 その時、初めて誠二は気が付いた。

 「誰だ?」

 誠二は感じた。誰かがいる。しかも、そいつは……

 ――「私の言っていることは分かるでしょう?」

 そいつは、自分の頭の中にいた。

 ――誰もいない、でも確かに声がする「貴方ですよ。ここに人間は貴方しかいない」ああ、そうだ、そうだけど、「貴方は刀を手にしている。刀は、何のためにあるんですか?」刀が何のために在るかって? 刀は、人を斬るためのものだろう「だったら、刀を持った貴方は何をするんです?」人を斬る?「そうです」

 誠二のスマホが床に落ちた。暗い地下空間なのに、何故か暗さを感じなくなった。さっきまであった驚きも恐怖も不安も消え去っていた。別のことに意識が割かれたからだ。誰かと頭の中で会話しているからだ。

 ――そうか、人を斬ればいいんだ。だって僕は今、刀を持っているから。「ええ、その通りです」そうか、そうなんだ。「はい。私は、この時をずっと待っていました」うん、じゃあ行こうか。ところで、あなたは誰なんだ?「話しておきましょう、ご主人様」 

 そして月のように静かで妖しい声は、語り始めた。


※5

 ――「孤独がいつから始まったのか、もう分かりません。あまりに長い時間を暗闇で過ごしたせいで、時間の感覚がないのです。呪術師の連中が私を厳重に封じたものですから、私は何もできなかった。日が昇ることも分からなければ、風の心地が変わることも分からない。あらゆる感覚が遮断された、完全な暗闇に放り込まれたのです。もちろん誰とも話すことができません。この誰とも喋ることができないことが、最初に私の心を蝕みました。私には兄様がいて、封じられる前はよく喋ったものです。それがある日を境に消えてしまった。もちろん自分の声も「音」としては聞こえません。あくまで意識の中で、こういうふうに喋っているなと自覚するだけです。

 静かな暗闇の中で、私はまず助けを求めました。毎日のように泣き叫んだのです。『助けて』と。しかし、それらはどこにも届くことなく、私の意識の中で響くだけでした。誰も助けてくれないと理解するのには、さして時間はかかりませんでした。

 泣き叫ぶのをやめると、今度は諦めることにしました。誰も助けに来ない。兄様とも二度と会えない。ずっと独りのまま、人知れず朽ちていくのだと。生きることを諦めたとき、暗闇に囚われてから、初めて楽になったのを鮮烈に覚えています。

けれど、それも違ったのです。自分が朽ちることがないと知ったのは、諦めてから、しばらく経った時のことでした。どれだけ待っても、私に死が訪れる気配がしないのです。意識はあって、ものを考えることもできました。やがて私は、このまま『終わる』ことすらできないのだと気がつきました。そのことで、またしばらく泣き叫んだのを覚えています。

 次に私は、考えることをやめようとしました。考えるのをやめて、物体になろうと思ったのです。最初は苦労しましたが、やがて少しだけ意識が飛ぶようになりました。時間の感覚はありませんから、どれくらいの期間かは分かりません。けれど確かに、それまであったはずの意識がなくなったのです。それが何度か続くうち、意識がない時間は、つまり自分の気が狂っている時間だと分かりました。しかし、ここでまた大きな問題が生じました。どれだけ意識が飛んでも、私は必ず気が付くのです。目が覚める、または正気に戻ると言うと伝わるでしょうか。遂には正気でいる時間が次第に長くなり、私は発狂することさえ出来ないと、狂気を乗り越えてしまったと気が付きました。『死ぬことも、狂うこともできない』その答えに辿り着いたとき、私はまた泣き叫びました。

 けれど私の周りは何も変わりません。暗くて、静かで、誰もいないままです。泣いて、死を願って、狂ってみて、ようやく気が付いたのです。私の世界は変わらない。それでも私は生きていくしかない。では世界が変わらないのなら、どうするべきか? 私は思い至ったのです。世界が変わらないのならば、私自身が変わるしかないと。その時に私は、いつか兄様に向けた言葉を思い出しました。

 『僕は、いつか兄様を超えてみせる。誰にも負けないくらい、強くなってみせる』

 私は強くなると決めました。孤独には負けない。助けを求めることも、泣くことも、狂うことも、もう絶対にしないと誓いました。この孤独を乗り越えるだけ、強くなってみせると。強くなるために、私はまず自分が何者で、どうあるべきかを考えました。自分が何者であるか? 何をするべきか? 答えは簡単でした。私は刀であり、人を斬るために、この世に生を受けた存在です。では、強くなるとはどういうことか? これも簡単です。より鋭くなり、より多くの人間を斬ることです。

そのために、私は憎みました。

 私を妖刀などと言った、あの宮本武蔵という剣士を。

 私をこんな目に遭わせたやつらを。

 何より、そもそも私を作った人間というヤツらを。

 だってそうでしょう? 私が魂を持たない刀ならば、こんなに苦しむことはなかった。私に魂を宿らせた人間たちを、魂を持つ私を封じた人間たちを、片っ端から斬ってやろうと思ったのです。

 次に私は、信じました。いつか私が世に出る日がやって来る。その日が来たら、私は刀としての本分をまっとうしよう。その日に向けて、ひたすら憎み、己を磨く。意識の中に作り出した仮想の敵を斬り倒し、戦いの夢に耽る。そうすると、心の内側に明かりが灯ったような感覚がありました。生きる希望と言いましょうか。泣いても狂っても、得ることのできなかったものです。いつか自由を得たら、必ず人間を叩き斬ってやる。どうやって斬ってやろうか。どれだけ斬ってやろうか。そんなことを考えるにつれ、心の中の炎は大きくなっていった。そして、遂に……」

 「遂に、その日がやってきた」

 地下空間に、誠二の声が響いた。しかし、それに続く

 「そういうことです」

 それは誠二の口から発せられたが、声は誠二のものではなかった。月のように静かで、妖しい青年の声だった。誠二の声帯が変容したのだ。

 誠二は自分が落ちた場所へ戻ってきた。そして暗闇を見上げた。

 ――上がれるんですか?「この程度なら一息です」それじゃ、戻ろうか。「そうしましょう」ああ、そうしよう。

 誠二の足に、力が入った。それは今まで経験したことのない力だった。絶大な力が、自分の何処かから湧いてくる。

 「御主人様、私は貴方に何も期待しない。貴方は何も考えず、私を振るえばいい。さぁ、共に世界の全てを斬りましょう。妖刀卍丸、参ります」

 次の瞬間、誠二は跳んだ。暗闇を突き抜け、地上へ向けて。


※6

 ――誠二が、死んじゃった。

 真琴の体の全てが停止した。目はまばたきをやめて、口は開いたまま、耳は外部からの音を遮断し、皮膚は風の感触を無視した。

 しかし、すぐに口の中が乾き、目が乾き、花火の音が聞こえた。

 ――いやいや、死んでない! 死んでるはずがない! ただ床が抜けて、床の下に穴があって、その中に落ちていっただけだ! 底が見えないほど深い穴だけど、死んでいるわけがない!

 真琴はスマホを取り出した。何をするにしても、まずはスマホだ。

 ――冷静になれ。こういう時こそ、冷静にならないといけない。誠二に無事かどうかメッセージを送る。次に110……いいや、事故だから119番に通報する。

 やるべきことは整理できた。しかし指先が震えた。冷静になれはなるほど、目の前で起きた事実が真琴を責めた。だってすべては、この御堂に入ったから起きたのだ。そして御堂に入ろうと言い出したのは、真琴なのだから。

 ――誠二、ごめん! 本当にごめん! 私が御堂に入ろうなんて言ったから、こんなことになったんだ。もしも誠二に何かあったら、私の責任だ。ケガですんでいればいい、これくらいで誠二が死んでるはずがない。でも、もしも万が一のことがあったら? その時、私はどうすればいいの? やだよ、こんな終わり方なんて絶対やだよ。私は誠二が好きなのに!

 「死んでねぇよ。大丈夫だ」

 声がした。御堂の外からだった。

 「でも……」

 真琴が答える。

 「死んでねぇよ。オレには分かる。むしろ死んでねぇからヤバいんだ」

 「どういう意味……」

 真琴は気が付く。異変が起きていると。

 ――っていうか、誰? この声は……。

 声のした方を見る。すると、

 御堂の外、月下の野原に、鞘に収まった一本の太刀が突き立っていた。

 「か、刀?」

 真琴は眼鏡を外して、目をこすった。あんなものはさっきまでなかった。もしあったら、さすがに気が付くはずだ。と言うか刀がこんなところにあるはずがない。日本は法治国家で、日本刀がこんな目立つところに転がっているはずがないんだ。まぁここは北九州だから、隠し持っている人はいるだろうけど。

 「なんで、刀? えっ、っていうか、声は?」

 真琴は刀に近づく。そして、刀の柄を握った。理由はない。刀を掴むなら、柄を掴むのが自然だと思ったからだ。すると、

 ――軽い。でも、何だろう? 物凄く安心する。私が柄を握っているのに、まるで手を優しく包まれているみたいだ。でも、さっきの声はどこからしたんだろう?「オレだよ」そう、この声だ。この声はどこから――

 「えっ」

 真琴は驚きの声を上げた。頭の中に、見知らぬ声が響いたからだ。太陽のように朗らかで、逞しい声だった。頭の中に完全なる他人の声が響く。その生まれて初めての体験に、真琴は驚きの声をあげるが、

 ――何? 何? 「おっと、ビックリさせてすまねぇな」え? 何これ? 「この刀がオレなんだよ。妖刀って言うじゃん? オレ、アレなんだよ」え? えっ? 妖刀? 私、おかしくなったの? 「……まーそう思ってもしゃーないか。安心しなって。そんなふうに『自分がおかしくなったの?』って思えるのは、マトモな証だよ。つーかごめんね。女の人の頭の中に勝手に入り込んでいるオレの方がダメなんだけど……まぁ、緊急事態ってことで多めに見てほしい」え? え?

 真琴は刀を見た。信じられないが、この刀は意志を持って喋っている。正確には、頭の中に直接、話しかけてくる。

 真琴は深呼吸をした。こういう時は深呼吸をして、落ち着くべきだ。そして、頭の中にいる誰かに話しかけた。

 ――さっき、妖刀っていったけど? あなた、妖刀なんですか?「うん。妖刀なの、オレって。名前は凸丸(でこまる)っていう」え、うそ? 妖刀とか、本当にあるの? 「あるって。っていうか、アンタがさっきから握ってるじゃん」ウソ…… 

 真琴は信じられなかったが、信じるしかなかった。今、自分が握っているものは意志を持った刀だ。そして意志を持つ刀と、脳の中で話をしているのだ。

 ――えっと……その妖刀が、何でここにいるの?「そこの御堂の下に、オレの弟がいてさ。卍丸って言うんだけど、ずっと探してたんだ。でも、見つからなくて。で、ついさっき気配がしたから、飛んできたんだ」なるほど。「卍丸も妖刀なんだけど、厄介なことに持ち主を見つけたらしい。あの下に誰か入ったみたいで……」御堂の下に入った子って……それ! たぶん私の彼氏の誠二って子だよ!「げっ、アンタの彼氏さん?」そう! 私の彼氏!「ヤバいな。アンタ、ちょっと覚悟してもらうぜ」覚悟? ヤバイ? どういうこと? 「アンタの彼氏さん、たぶんオレの弟に乗っとられている。じきに地上まで上がってきて、大暴れする気だ」へ? 「チッ、オレはてっきり何かの事故で気配が漏れたのかと思ったのだけど、あの野郎、持ち主も見つけたのか」ちょっと待って。大暴れって何? 「刀が暴れるんだ、そりゃ――

 次の瞬間、真琴は首に生まれて初めての感触を覚えた。正確で鋭い一直線の寒気、まるで首を刎ねられたような感触だ。殺人猪や巨大オニヤンマにも似た、脅威に対する生存本能からの警告だった。

 気配がした方向を見る。あの御堂だった。

 ――何か来る。あそこから、何かがこっちに迫っている。

 真琴は感じ取った。明確な殺意がぐんぐんと近づいてくるのを。地下から間欠泉のように噴き上がってくるのを。それは殺人猪とも、巨大オニヤンマよりも恐ろしいものだと予感した。野生動物の食欲を基本としたものではない。もっと鋭く、鍛えられ、練り上げられた殺意だ。人を殺すことだけに特化した、悪意の塊から削りだされた殺意だった。

 ――「やっぱりな。来るぜ」

 真琴は尋ねた。声に出さず、頭の中で。

 ――この気配が、あなたの弟さん? 「そうだ。ヤバいな、そうとう研ぎ澄まされているし、メチャクチャに怒ってる。こりゃマジでやんねぇと、止めらんねぇぞ」 止めるっていう事は? 「戦って、止めるんだ。そうしねぇと人を斬る。片っ端からな」 あなたの弟が? 「いいや、違う。オレの弟と、あんたの彼氏さんが人を斬るんだ」 そんなの、絶対ダメ! 誠二が人を斬るなんて、絶対に嫌だ! 「だったらオレと一緒に止めるんだ。アイツと戦わないといけない!」

 誠二と戦う。それはつまり、誠二に刃を向けるということだ。

――誠二に剣を向けるの? それは嫌だ……!

しかし、

「うわっ!」

 次の瞬間、御堂が吹き飛んだ。何かが地下から勢いよく飛び出し、その衝撃で木端微塵に砕け散ったのだ。そして、飛び出したソレは、夜空をくるくると舞ったあと、まったくの無音で着地した。真琴は、もうもうと立ち込める土煙の中に咳き込みながら、その1人の男に向けて叫んだ。誠二だった。

 「誠二! 大丈夫――」

 真琴はすぐに気づいた。目の前にいる男は、誠二であって誠二でない。男は誠二の姿をしていた。顔も、背格好も、最初は誠二だと思った。しかし手には刀を持ち、誠二には無い殺気を放っていた。

 さらに、その姿は見る見るうちに、まるで鉛筆書きの下絵を絵の具で色付けしていくように、全く異なる姿へ変容していったのである。月明かりに照らされるにつれ、夜の闇に馴染むにつれ、誠二は誠二でなくなっていったのだ。背は180センチを超え、華奢だが、しっかりとした筋肉が宿った。大型の猫科肉食獣を思わせる佇まいに、死そのものを思わせる真っ白な肌。さらに切れ長の目と、紫色の唇、腰まである黒髪は夜風を受けて禍々しく舞う。

 誠二は消えた。代わりに見ず知らずの男が立っていた。

 ――もしもこの世界に死神がいるのなら、きっとこんな姿をしているのだろう。この男は、もう誠二じゃない。この男は妖刀卍丸だ。

 真琴がそう思った時、選択の余地はなくなっていた。凸丸が言ったことは事実だ。卍丸という妖刀があって、誠二を乗っ取った。そして卍丸は、血に飢えている。

 真琴は、手に持った刀に問いかけた。

 ――戦えば……誠二を、無事に取り戻せるの? 誰も死なすことなく、助けることができるの?

 刀は答えた。

 ――「信じろ」

 「信じるよ」

 そう真琴が答えた途端、彼女の肉体もまた変容を始めた。同時に真琴は感じ取った。一秒にも満たぬ時間の間に、脳に他者の記憶が流れ込んできた。凸丸が何を見てきたか? 凸丸が何を思ってこの場に立つか。真琴の頭の中に、凸丸の声が響いた。それは太陽のように明るい声だった。


※7

 「昔々のことだよ。オレこと凸丸と、卍丸が生まれたのは。魂を持った刀を作るって刀鍛冶がいてさ、そいつがマジで命が宿った刀を作っちゃったんだよ。オレと卍丸だよ。その刀鍛冶がどうなったかって? ああ、精魂尽き果てたんだろうな。オレと卍丸を完成させたら、そのまま死んじまったよ。ひょっとしたらオレらの命は、あのジジィから貰ったものなのかもな。

 まぁ、そんなことはどうでもいいか。

 出来たばっかりの頃のオレら、気合が入ってたよ。だって世間じゃ色んな刀があってさ、名前が日本中に知られている、『名刀』もいっぱいあったもん。オレらもああいうふうになるんだって、よく卍丸と話してたよ。

 でもさ、人間はみんな、オレらを握ると日和っちまうんだよ。オレらを持つと、人を斬りたくて斬りたくて仕方がなくなるんだって。刀って人を斬るもんだろ。それでいいと思ってたんだけど、人間は違ったみたいでさ。ザコいよな。人を斬りたくてオレを持つのに、いざ人を斬りまくれるってなると、みんな平和主義者になっちまうんだ。とうとう宮本武蔵ってヤツまで日和りやがった。オレ、あいつだけは許してないね。だってアイツが卍丸の強さに日和って、余計なことを言ったせいで、アイツはどっかに封印されたんだ。本当はオレも見てもらうはずだったんだけど、あの野郎、その前にビビって帰りやがった。それで、弟はどっかに連れていかれた。本当なら気配で居場所が分かるんだけど、気配がぷっつり消えてさ。ワケが分かんねぇまま、オレも城の宝物庫に放り込まれたよ。すげぇ頭にきたよ。毎日毎日、ガタガタ暴れてた。そしたら、いよいよ妖刀だって言われてさ。お殿様なんて、ビビりすぎて死んじゃったんだ。で、オレはどっかの寺に預けられた。これは卍丸にも言えるんだけど、ひと思いに殺せばいいだろうに、何だかんだで珍しいモンには弱いんだよな、人間って。まぁビビりすぎて手が出せなかったっのかもな。オレや卍丸を捨てたら、祟りでも起きて呪い殺されるんじゃないかって。

 寺に預けられて、最初は頭に来てた。人を斬るために生まれてきたのに、人を斬れないんだから、当然だろ。でもさ、世の中が変わっていくのに気が付いたんだ。刀の出番はみるみる減っていった。代わりに鉄砲連中がのさばっていったんだ。寺に預けられて、しばらく経った頃には、廃刀令っていうのも出てさ。いよいよ出番がなくなったんだ。そうなってくると、オレも考えちゃってさ。生き方っていうか、在り方っていうかな? オレは刀が必要ない時代に、刀として生きなきゃいけない。少なくとも人を斬りまくるのは絶対に無理だなって思った。まぁ海の向こうでデカい戦争が起きた時、オレがあっちに行ってたら……また違ったと思うけど。オレはずっと寺にいたからさ、気が狂いそうだったよ。なんつーか、存在意義がなくなるって、すげぇ焦るんだ。世間から「お前は必要ない」って言われてるみたいで。早いところ折り合いをつけねぇと、オレ、たぶん本格的におかしくなるなって思った。

 そんな時さ、思ったんだ。卍丸のことだよ。オレが今ここでこうして無事にいるのは、弟のアイツを守るためなんじゃねぇかなって。アイツはどこかへ行ってしまった。気配も辿れねぇ。死んだのかもしれないって諦めてた。でも、オレがここに存在してるんだ。だったらアイツだって生きているかもしれない。アイツはどっかで生きてて、オレみたいに悩んでるのかもしれない。それに、もしかしたらアイツは「刀」であることを諦めていないかもしれない。人を斬りまくるって、研鑽を重ねているかもしれない。そうだったら、次に姿を現したときに、アイツは今のこの世界じゃ、やっちゃいけない事をすることになる。それを止めるのはオレの役目だ。だってオレは、アイツのお兄ちゃんだからさ。

 その頃になって、初めて寺に納められたオレはラッキーだったと思ったよ。刀らしく斬った斬られたの場にいたら、オレは誰かに負けて、叩き折られていたかもしれない。今こうして、ここに存在できるだけで、オレはすげぇ運がいいんだって。バカだよなぁ。もっと早く気が付けって話だよ。

 そこからは悩まなかったよ。オレの生き方が決まったんだ。いつか絶対に来る日に備えるんだ。卍丸が現れたら、すぐにそこまで飛んでいく。そして卍丸を止めるんだ。刀には、人を斬る以外の在り方があるって教えてやるんだ。人を殺すだけが剣じゃねぇ。人を生かす剣、活人剣ってやつだ。

 ま、元が妖刀だからね。飛んでいく術を身に着けるのは、そんなに時間もかからなかった。実際、何回か寺から抜け出して、大騒ぎになったことがある。そんな感じで、オレはオレなりに何百年も過ごしてきた。そして今、その時が来たんだ。弟を止める。卍丸を止める。アイツに、今の時代の刀の在り方を教えてやるんだ。そのために……アンタの力を貸してくれ。御主人様」

 凸丸の全てを知ったとき、真琴の体もまた変容を遂げた。背は190に近く、太く、がっしりとした肉体だった。その身に黒の着物を纏い、紅色の大袖と胸板、籠手と脛当がどこからか顕在した。白髪の毛髪に、堀の深い顔と力強く太い眉。そして不敵な笑顔に似合う八重歯が光った。

 「御主人様、力を借りるぜ! アンタとオレなら、世界中の誰にも負けやしねぇ! よっしゃ! 活人剣凸丸、推して参る!」

 無人の境内に、声が響いた。太陽のように明るく、力強い青年の声だった。

 その轟音に近い名乗りに、誠二だった男――卍丸が振り向いた。

 「これはこれは、懐かしい顔ですね」

 この世に顕在した誉の凸丸を見て、卍丸はそう笑った。

 「待たせたな、卍丸」

 「ええ、全くその通り。私はずいぶんと待ちましたよ」

 かくして妖刀の兄弟は、数百年ぶりに対峙した。


※8

 卍丸と凸丸、対峙した2人の妖刀。

 先に構えたのは、卍丸だった。刀を腰の位置で持ち、下段に構える。加速させて一太刀で斬る、居合の構えだった。

 「構えるなよ」

 凸丸が言った。

 「フッ……御冗談を」

 卍丸は嗤い、続けた。

 「殺気を放つ相手を前に、構えぬ者などいないでしょう。兄様、念願の再会にも関わらず、何ゆえに私に対し殺気を放つのですか」

 凸丸は構えずに答えた。

 「殺すつもりはねぇよ。ただ、お前を止めたいだけだ。強くなったな。今のお前を止めるには、オレも命を懸けなきゃなんねぇ」

 「……止めるとは、何をですか?」

 「お前がやろうとしていることだ」

 「ずっと会っていなかったのに、私の願いが分かるのですか?」

 「人を斬ることだ」

 「正解です」

 「だろうと思ったさ。でもな、お前はずっと封じられていたから知らねぇだろうけど、今はもう人を斬っていい時代じゃねぇんだ」

 「ほう? 兄様は、世の変化を眺めてきたのですね」

 「まぁな」

 凸丸は一歩、前に出た。卍丸の間合いには、まだ三歩ある。

 「なぁ、卍丸。やっと会えたんだ。オレはお前とやり合いたくない。まずは落ち着いて話をしよう。まずは、その持ち主から離れくれねぇか? オレらの話に、関係ねぇ人間を巻き込むのはやめようぜ」

 「兄様、それはできません。あの頃から、どれだけの時が流れたか知りませんが、私はずっと今日を待っていたのです。人を斬る刀として、生をまっとうできる日を。ずっとずっと、この日のために生きてきたのです」

 卍丸が一歩踏み出す。互いの間合いは、あと二歩となった。

 「それを『持ち主から離ろ』『人を巻き込むな』と言われて、『はい、そうですか』と受け入れることはできません。私も貴方も刀です。刀とは人を斬るもの、共に人を斬ろうではありませんか。あの頃に誓ったように、斬って斬って斬りまくって、私たち兄弟の名を天下に広めようではありませんか。この世を血みどろに染めて死ぬ、それが刀の命の在り方でしょう」

 凸丸は立ち止まり、息を深く吐いた。

 「違うんだ。今はそういう時代じゃないんだ。それに刀ってのは、人を斬るためだけのものじゃねぇんだよ。オレも昔は人を斬ることしか考えていなかったけど、時代と人間が変わってゆくのを見て、気が付いたんだよ。刀だって変われる。人を斬る以外の存在になれる。人を斬らずに、生き続けることができるんだ」

 卍丸も止まった。そして息を深く吐いた。

 「兄様が何を見たかは知りません。しかし、どの時代でも刀は刀。人を斬るために我らは存在するのです。人を斬る以外に、するべきことなどありません」

 「違うんだ、卍丸」

 「黙れ」

 卍丸は体重を前足にかけ、半歩だけ踏み込んだ。

 「兄様、ようするに貴方は腑抜けたわけですね」

 「かもしれねぇな」

 「兄様、貴方は永遠を経験したことがない。寝ても起きても何もない暗闇の中にいて、いつ終わるとも分からない孤独を経験したことがない。私が正気を保てたのは、自分が何者で、何をなすべきか知っていたからです。なすべきことがあったから、これも試練であると思えた。私は人を斬るために、ずっと孤独を耐えたのです。今日と言う日を、人を斬れる日を心の支えに生きてきた。それを……」

 もう半歩、卍丸は踏み込む。そして誉を自らの間合いに捉えた。

 「それを……今さら誰も斬るなと言われて、納得できるはずがないだろう! 兄様、私は強くなった! 孤独の中で刃を研ぎ続けた! 今なら断言できる! 私は貴様より強い! 私は貴方を叩き斬って、ずっと描いていた夢を現実にする! 刀の本懐を果たしてみせましょう!」

 「させねぇよ」

 「兄様、せめて構えろ」

 「構えねぇ」

 「ならば黙って、その首を差し出せ!」

 卍丸の刀が走った。一直線に、凸丸の――真琴の――首を目がけて。

 しかし、「コッ」という衝突音がした。それは金属同士の音ではなかった。鋭い金属が、密度の高い木材に食い込む音だった。

 卍丸の刀が、凸丸の鞘に食い込んでいた。

 ――「やられたッ」

 凸丸の戦い方、それは刀を刀ではなく、1本の棒として扱う戦い方だった。凸丸が構えなかったのは、この変則的な迎撃を感づかせないためだったのだ。卍丸がそう気づいた時には、もう遅い。

 凸丸は「技」に移っていた。組み、投げる技だ。殺すことなく敵を無力化する技術だ。卍丸の刃が斬り込んできた箇所を起点にして、船の舵を回すように、刀全体を時計回りに回転させる。卍丸の踏み込みの勢いが、そのまま回転の力に加えられ、全身が瞬時に回転の勢いに飲まれた。足が地から引き離され、体が宙に浮いた。しかし卍丸の刀身は、しっかりと凸丸の鞘に捉えらたままだ。そのまま卍丸は、ぐるんと宙で一回転して――。

 「ぐはっ」と鈍い悲鳴がした。背中を強打して、肺の中の空気が全て出た音だったが、それは卍丸ではなく、誠二の声だった。

 「させらんねぇんだよ。今の時代でそんなことをしたら、お前はこの世の全てを敵に回す。そしてお前は誰かに消される。そんなこと、オレがさせるわけねぇだろ」

 その凸丸の声を聞いて、真琴は見た。自身が両手で握る誉の鞘に、食い込んだままの卍丸を。背中を強打して悶絶する誠二を。気が付けば、残骸となった御堂の前に立つのは、誠二と真琴だけになっていた。そして、

 ――「信じてくれて、ありがとな。ついでに、もう一つ頼まれてくんねぇか?」

 凸丸の声が、真琴と誠二の頭の中に響いた。


※9

 田舎のホームセンターは便利なものだ。遅い時間帯でも、色々なものが手に入る。真琴は誉に言われるまま、金属製の鎖を買った。誠二と2人で割り勘だ。買い物を終えて駐車場に出ると、誠二と真琴は2人で力を合わせて、その鎖で卍丸と凸丸を縛り上げ、強く固定した。

 「ふぅ……これくらいでいいかな?」

 汗びっしょりになった誠二が言った。彼は記憶を失っていた。地下で卍丸を見つけて、手に取ったところまでは覚えている。その後に頭の中で誰かの声がしたのも。しかし、そこからは……気が付いたら、背中に激痛が走って、刀を握った真琴に見降ろされていた。

 「うん、十分だと思うけど……どうかな?」

 誠二が聞くと、

 ――「おう、イイ感じだ。面倒かけてすまねぇな」

 凸丸の声が、誠二と真琴の脳内に響いた。

 真琴は正気を取り戻した誠二に、何が起きたかを語った。卍丸と凸丸、この妖刀が辿ってきた歴史と、一瞬でついた決着のことを。そして凸丸からの最後の頼まれ事を果たすために、誠二と一緒にここに来たのだ。凸丸の最後の願いは、「オレを卍丸と一緒に、海に投げ捨ててくれ」だった。

 2人は鎖でグルグル巻きにされた刀を担いで、祭り会場から海岸まで歩いていた。北九州と山口県を隔てる海峡、巌流島が浮く関門海峡までは、徒歩で十五分だ。

 「今日がお祭りで、本当に良かったよ。お祭りじゃなかったら、日本刀を担いで歩いているだけで犯罪だからね。ハハハ」

 誠二が笑いながら、精一杯の冗談を言った。

 「確かにね」

 真琴は答えたが、笑うことはできなかった。海へ向かう道中、誠二は普段より喋って、笑った。真琴は、彼が少しでも場を明るくしようと考えていることを悟った。自分は誠二のそういうところが好きだけど、今はその冗談を心から笑えなかった。それよりも、凸丸の想いが心に重く突き刺さっていた。彼の心中を思うと、笑う気にはなれなかった。

 ――「アンタ……まさかオレに同情してるのか?」

 凸丸が言った。真琴と誠二の頭の中で。

 「だって」と真琴が声に出して言うと、

 ――「気にしなくていいぜ。これが、きっと今のオレらには一番いいんだ。オレも、弟も、今の時代にいるべきじゃねぇ。誰に手にも触れない場所に引っ込んでおくのが一番いいんだ」

 頭の中で響く声に、真琴は声に出して答える。

 「でも、それに貴方が付き合う必要はあるの? たしかに卍丸は、今の時代には生きられない。でも貴方は卍丸とは違う。今の時代に相応しい生き方をしている。どうして付き合うの?」

 すると凸丸は少しの沈黙を置いて、

 ――「……コイツを、ずっと独りにしてたんだ。これからまた独りになるなら、付き合ってやりてぇ。コイツが可愛くて仕方ねぇんだ」

 「2人でお寺に住めばいいと思う。あなたが変われたみたいに、卍丸も変われると思う。何も海の底に沈むこと……」

 凸丸は答える。

 ――「そうしたいところだけど、斬り合ってみて分かった。こいつは、凄く強くなってる。オレの寺に縛り付けておくことはできない。コイツから人を守るためには、もっと人が来ない場所じゃないとダメなんだ。ま、オレはけっこう海の底は楽しみだけどね。ずっと人がいる寺にいたから、逆に新鮮だよ。ハハハハ」

 すると誠二が言った。明るく取り繕うことのない、真剣な調子で。

 「真琴、言いたいことは分かるけど……僕も凸丸さんの言う通りにするのがいいと思う。僕は正直、卍丸も、凸丸さんも怖い。だって僕は卍丸に乗っ取られて、真琴に剣を向けたんだ。たまたま助かったけど、もしかしたら真琴を斬っていたかもしれない。こんな思いは二度としたくないよ。それに……卍丸に味方する凸丸さんが、理解できないんだ。優しいって言う事もできるけど、僕は異常だと……」

 誠二の言葉を遮り、

 「異常なんて、そんな言い方……!」

 真琴が声を荒げた。すると

 ――「おいおい、せっかく助けたのに、ケンカしないでくれよ」

 凸丸の声がした。

 「そ、そうだね。ごめん」

 真琴が言うと、

 「僕も、ちょっと言い過ぎた」

 誠二がそう言って頭を下げた。

 すると、

 ――「ま、あんまり気にすんだよ。オレに同情するのも、オレを異常だと思うのも、たぶん、どっちも正解だと思うぜ。この世にはさ、こういう正解がいくつもあったり、答えがない問題っつーのが、たくさんあるんだ。オレ、長生きしてるから、そのへんは分かってるつもりだ。で、そういう問題から正解を選ばなきゃいけない時に大事なのは、選ぶために話すことだ。オレは、卍丸と話をしたいんだ。静かに、落ち着いて話せる場所でよ」

 海に着いた。人はいない。波がコンクリートの堤防に当たる音だけが聞こえる。

 ――「やってくれ」

 凸丸の声を合図に、誠二と真琴は、卍丸と凸丸を海へ投げ捨てた。バシャンと音がしたが、すぐに波の音にかきけされた。

 「正解がない問い、か」

 誠二が呟いた。真琴が答えた。

 「実際、そういうのってたくさんあるよね」

 「うん。僕らの周りにも、たくさんある」

 「周りだけじゃなくて、私たち同士にも」

 「……そうだね」

 2人は寄せては打ち砕ける波の音を聞いていた。そして、

 真琴は、弟のために海へ身を投げた凸丸を、優しいと思った。

 誠二は、人を斬る妖刀に味方する凸丸のことを、異常だと思った。

 それぞれ全く異なる想いを抱いていたが、同時に同じことを祈っていた。

 ――あの2人に平穏が訪れますように。2人の魂が、救われますように……。


※エピローグ

 「……暗いが、魚が泳いで、陽の光も見える。ここは……海底か?」

 「おっ、やっと目を覚ましたか」

 「兄様?」

 「おう、オレだ。お兄ちゃんだ」

 「ということは……そうか、私は負けたのか」

 「そういうこと」

 「ですが……勝ったのに、どうして兄様がここにいるんです? 私を海に沈めるのは分かりますが、兄様がいる理由が分からない」

 「勝ったから、ここにいるんだよ。勝った側は、どう振る舞おうが自由だろ」

 「どういうことです?」

 「また可愛い弟を1人にできるかよ」

 「えっと……兄様の言ってることが理解できないのですが……」

 「まだ分かんねぇのか。いいか? お前の考え方もわかるぜ。オレらは人を斬るために生まれた存在だ。そりゃ人を斬るのが当たり前だよ。でもさ、もう人間は変わっちまったの。お前が大暴れすりゃ、絶対に潰されるぜ。だからお前が考え方を変えるまで、人を斬りまくる以外の生き方を受け入れるまで、ここで延々と説得してやろうと思ってよ」

 「私が納得しなかったらどうするんです?」

 「納得するまで頑張る」

 「……兄様」

 「なんだよ?」

 「貴方って思った以上にバカなんですね」

 「何だとこの野郎」

 「もっと早く気がつくべきでした。兄様がバカだということに」

 「お兄ちゃんをバカバカ言うんじゃねぇよ」

 「言っておきますが、私は変わる気はありませんよ。私は刀です。人を斬るために生きて、人を斬って死ねれば本望です」

 「その考え方を変えてやるよ。いいか、まず命の尊さっていうのは……」

 「兄様、私をバカにしてるんですか?」

 「バカにはしてねぇよ。真面目に話してるぞ、オレは」

 「信じられない。こんなバカと一緒に封じられるなんて。早く拾われますように」

 「拾わせねぇよ。つーか、誰かに拾わせても暴れさせねぇからな」

 「本当に面倒な兄を持った……否、面倒なのは兄様ではない。この魂というやつです。まったく、そもそもどうして私たちに、命なんてものを与えたんでしょうね」

 「あ、それはオレも思うな。オレらが命のねぇ、単なる刀だったら……こんなふうにあれこれ悩むことなく、楽に生きることができただろうな」

 「でしょうね」

 「だろうな」

 「……でも、命があるんです」

 「ああ」

 「だったら私は、刀として生きますよ」

 「だから、それはさせねぇよ」

 「兄様、腑抜けになった貴方の意見など聞きたくない」

 「うるせぇ聞けよ。いいか? 命の尊さっていうのは――」

 「ふぁぁ……貴方と戦ったせいか、疲れました。もう少し寝るとします」

 「待て待て、やっと話が始まったところだぞ」

 「んっ……分かりましたよ。付き合えばいいんでしょう?」

 「おう、それでいいんだ」

 「で、命のトートーさがなんですって?」

 「てめぇやる気が無さすぎるだろ! いいか、命は尊くてだな……」

 「くだらない。やはり寝ます。おやすみなさい」

 「あー、もうっ! 分かったよ。さっさと寝ちまえ」

 「……そうそう、ひと眠りしたら、私の話を聞いてもらいます。貴方に命がどうとか説教をされるより前に、私は私で言いたいことは山のようにあるんですから」

 「おう、受けてたってやる。で、その後は命の尊さを……」

 「寝ます。おやすみなさい」

 「この野郎……!」

 卍丸は思った。この論戦は、いつか終わりを迎えるのか、それとも永遠に続くのか。それは誰にも分からない。しかし――

 ――兄様はウザったい。でも、あの孤独よりはずっとマシだ。

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もしも、カップルが……/読者アンケートで決まるカップルの行方 加藤よしき @DAITOTETSUGEN

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