「巨大オニヤンマに襲われる」編

※1

 ――僕は、高垣 真琴(たかがき まこと)とキスをした……と思う。この「思う」というのが問題だ。はじめてのキスは一生の思い出だ。けれど僕には、そのキスの記憶がない。僕はいいとしても、相手にとって、とても申し訳ないことだ。いくら殺人猪に突き飛ばされて、死ぬところだったとしても。

 鎌田 誠二(かまだ せいじ)は溜め息をついた。そして目の前にある柵に体を預け、辺りを見渡した。病院の屋上からは、北九州の中心街である小倉が一望できる。大小さまざまな道が複雑に入り組み、平屋とビルが数十メートルの高低差を無視して隣り合わせている。レゴをひっくり返したような、都市計画も何もない雑然とした街だが、まぎれもない故郷の景色だ。

 誠二は深く息を吸って吐いた。悩んだ時は深呼吸が大事なのだ。これは色々な本で読んだし、真琴に借りた漫画にも書いてあった。深呼吸を終えると、突き抜けるほどの青空の下、再び難題に取り組むことにした。

 少し前、誠二は殺人猪に襲われて重傷を負った。今はもう痛みもなく、後遺症もない。普通に走ることだって出来る。さらに一緒に襲われた最愛の彼女、真琴に至っては、殺人猪に立ち向かい、コンパス一本で猪を殺害・解体してしまった。奇跡に次ぐ奇跡が起きて、自分は救われたのだ。しかし……。

 ――“人生は何も変わらない。目の前の問題が解決しても、すぐに次の問題が浮かんでくる”……誰の言葉だっけ? 洋楽の大御所の人がそんなことを言っていたけど、まぁ、誰でもいいや。こうして生きていることは、ぼんやりと景色を眺めていられるのは、とても素晴らしいことだけど、それはそれとして、ファーストキスの記憶がないのも問題だ。だって……。

 「誠二、考え事?」

 後ろから真琴の声がした。おかっぱで、太い眉毛で、眼鏡をかけている。まだ所々に包帯を巻いているが、彼女もまた日常生活を送れるように回復していた。医者はこれも奇跡と言った

 「ちょっとね」

 そう答えた途端、誠二は後悔に襲われた。しまった、わざわざ暗い顔をして「ちょっとね」と意味深に答えるなんて。無難なボカしておくべきだった。そんなことを言ったら、真琴は――。

 「やっぱり、まだあの日の記憶が曖昧なの?」

 明るかった真琴の顔に、さっと影が走った。ここでいう「あの日」とは、殺人猪に襲われた日のことだ。

 誠二は「あの日」の記憶が飛んでいた。覚えている最後の光景は、ごろんと内臓を投げ出して転がっている猪と、その横で倒れている血まみれの真琴だ。真琴の無事を確かめようと何歩が歩いたけれど、足が折れていたから、倒れてしまった。その時、真琴が自分の手を握った。血でベトベトしていたけれど、柔らかくて暖かい、いつもの彼女の手だった。その手が乱暴に自分を引っ張り――誠二の記憶は、そこで途絶えている。

 そして「あの日」の翌日、真琴は言った。ミイラみたいに包帯でグルグル巻きになっていたけど、その下は満面の笑顔だと分かる弾んだ声で、

 「キス、しちゃったねっ」

 真琴の言葉に、誠二はどう答えるべきか悩んだ。「そうだね」と嘘をつくか、「覚えていない」と事実を語るか。「嘘だっていい。『優しい嘘』って言う概念もある」とも思ったが、真琴にはどんな形でも嘘はつきたくなかった。誠二は嘘をつくのが大嫌いだった。ましてや大好きな真琴には、絶対に嘘なんかつきたくない。だから、

 「ごめん、それが……気絶していて、覚えてないんだ」

 正直に答えた。途端に真琴の目から輝きが失せた。真琴は「そう……まぁ、仕方ないよね」と呟いた。真琴らしくない、乾いた声で。

 あれから時間は経った。誠二も真琴も回復し、肉体を縛るものは何もない。キスだって、それ以上のこともできる。けれど2人の時間は、あの殺人猪に襲われる前か、それよりも前に戻ってしまった。真琴はどこかよそよそしくなったし、誠二は後悔をしてばかりだった。それも初めてするタイプの後悔だった。今までの人生で嘘をついて後悔することはあったが、本当のことを言って後悔するのは初めてだった。

 ――あの時、嘘でもいいから「覚えているよ」って答えるべきだった。真琴に、文字通り命がけで僕にキスをした真琴に、あんな悲しい顔をさせるなんて。僕は真琴の思い出を台無しにしてしまった。『真琴に嘘をつきたくない』って気持ちだって、突き詰めれば僕の自己満足にすぎない。僕は自分の気持ちを優先して、真琴の想いを踏みにじったんだ。

 誠二は深く溜息をついた。前に進むための深呼吸ではない、やるせない思いを吐き出すだけの溜息だった。すると、

 「ハハハ、そんなに落ち込まないでよ。記憶が無いくらい、何てことない……いや、何てことはあるんだけど……」

 真琴がそう言って笑った。けれどそれは、あの乾いた作り笑いだった。誠二にはハッキリと分かった。真琴は誰よりも優しい。優しくて、真面目で、正義感が強くて、いざという時には物凄く頼りになる。僕はそういう真琴を好きになった。けれど、

 「っていうか、生きてて良かったよね。2人とも。うん、生きててよかった。生きてるだけで十分だよ。オツリが来ると思うなぁ、私は。ハハハ……」

 今はその真琴の優しさが、針のように心に刺さった。耐えかねた誠二は、真琴に頭を深々と下げ、

 「ごめん。心配かけて」

 素直に思ったことを口にした。しかし、すぐにまた後悔した。

 ――しまった、こんなことをすれば……

 「いやいや、大丈夫だよ。そ、それは、もちろん初めての……キスは、やっぱり特別なことだし、大事だけど……でも、あれは事情が事情だし、それに、こっ、これから、これからだよ。これから、その分だけのイイ思い出を作ればいいと思う。そうじゃない……かな?」

 真琴のギクシャクとした笑顔を見て、誠二も笑顔を浮かべる。しかし、自分でも不自然な作り笑いになっていると分かった。きっと今の真琴のように。

 ――また真琴に気を遣わせてしまった。どうすればいいだろう? どうすれば、この埋め合わせをできるだろう? 真琴の笑顔を取り戻すためなら、僕は命を懸けてもいい。それこそ真琴がそうしたように――

 「ケホッ……」

 不意に真琴が咳き込んだ。次に、ひどく懐かしい匂いがした。親戚のおじさんの家で嗅いだ匂い、タバコの匂いだった。

 ――誰だ? 病院でタバコなんて、非常識な……。

 そう思いながら、誠二はタバコの主の方を見た。ぎょっとした。タバコを吸っていたのは、ベンチに腰かけた老人だった。頭は禿げ上がり、血色の悪い顔には深いシワが刻まれている。しかし、そうした老いの証は確かにあるが、一方で水色の患者衣には不釣り合いな、太く逞しい肉体を持っていた。たくし上げた袖から覗く腕には、色鮮やかな模様が刻まれている。丸太のような二の腕に、荒波を遡る鯉の刺青が彫られていた。そして何より異様なのは、男のタバコを持つ右手だった。指が2本しかないのだ。人差し指と親指。それ以外はバラバラの高さで欠損していた。

 老人が何者か、誠二にも一目でわかった。

 ――ヤクザだ。どこからどう見てもヤクザだ。北九州といえば暴力団だけど、こんなコテコテな人も今時は珍しい。

 そう気がついたとき、反射的に誠二は真琴の一歩前に出た。同時に誠二は「しまったな。ちょっと焦り過ぎた」と思った。こんな分かり易く「お前を警戒しているぞ」と告げるような動きを取れば、当然――。

 「あん? なんかちゃ、アンちゃん」

 老人は言った。低い声だった。別に凄んでいるわけではなかったが、声に自然の凄みが宿っていた。

 しかし、誠二は更に一歩、前に出た。そして思ったことを口にした。

 「タバコはやめてください。ここは禁煙です」

 その時、誠二は背後で真琴が息を飲むのを聞いた。真琴は小声で「いいよ、大丈夫だから」と続けた。誠二は振り向き、真琴を見て「いいや、こういうことは、ちゃんと言わなきゃダメだよ」と言った。

 「あぁ? お前ら、なんをコソコソ喋りよるとか? お前ら揃って、この俺に命令すんか?」

 老人が立ち上がり、一気に距離を詰めてきた。タバコの匂いが一層濃くなった。すると、真琴が一歩前に出て、

 「あ、あの。大丈夫です。何でもありませ――」

 真琴の言葉をさえぎって、誠二が更に一歩前に出る。

 「タバコはやめてください。ここはケガした人や、病気の人がいる場所です。そういう場所では、やめるのが常識だと思います」

 所々で舌を噛んだが、誠二はそう言い切った。

 すると老人はさらに一歩前に出て、ゴツンと誠二に額をぶつけた。

 「うるせぇな。こちとら還暦までヤクザ一本なんぞ。もう人生のゴールが見えとる。お前らも見りゃ分かるやろ? 俺のこの顔ば、よ~く見てみぃや。ロクな死に方できんヤツの顔をしとろうが。タバコくらい許してくれや」

 誠二は、額はジリジリと熱くなるのを感じた。「痛っ」と声を出すのを我慢した。ここは退いちゃダメだと思ったからだ。誠二は嘘と同じくらい、正しくないことが嫌いだった。犯罪者や不良も嫌いだった。向こうに正統な理由があるならさておき、こういった輩の脅威に屈してはいけないと考えていた。それは特別な理由があるわけではない。誠二の生まれ持っての性格だった。

 「それでも、ダメです」

 今度は舌を噛むことなく言えた。

 すると老人はサッと下がって、再びベンチに座った。

 「ははは。ようやるわ、兄ちゃんは」

 老人はタバコを床に捨て、踏み潰しながら笑った。

 「いい根性しとるのう。けどよう、根性フッかける相手を間違えんなよ。俺みたいな老人やなかったら、くらされるぞ(※くらされる 福岡弁でボコボコにされるの意)」

 誠二は背中で、真琴が「ほっ」と溜息をつくのを感じた。しかし誠二は、まだ警戒を解いていなかった。

 「そのタバコ、拾って、ちゃんと捨ててください」

 「えっ」と真琴は驚きの声をあげた。

 老人は、またガハハと笑った。

 「おうおう、分かっとるちゃ」

 老人はそう言いながらクシャクシャになったタバコを拾った。

 「モヤシみたいな若モンやと思うたら、大した貫禄やんか。面白いヤツや。俺は福田 勝(ふくだ まさる)ちゅうて、五階におる。暇やから、お前が暇ときに遊びに来てくれ。そこの隣のガールフレンドと一緒に来てもええど」

 「……行きません」

 その誠二の答えを聞くと、勝はまた大きく笑って、足早に屋上から出ていった。

 途端に誠二の肩と膝から力が抜けた。心臓が忘れていたように高鳴り、軽い眩暈にも襲われた。思っていた以上に緊張していたようだ。

 「ふぅ……」

 そう漏らしながら、真琴の方を見た。真琴は感心したような、呆れたような顔をしていた。そして、

 「お疲れ様。相変わらず、変なところで頑固だよね」

 そう言って誠二の手を握った。手汗がたっぷりと滲み出ている感覚があったので、誠二は慌てて手を放そうとしたが、

 「いいよ。手汗なんか気にしないで。ヤクザの相手をした後だよ?」

 そう言って真琴は誠二の手をギュッと握り、満面の笑みを浮かべた。作り笑いではない、自然な笑顔だった。その笑顔を見るうちに、誠二は自分の頬が緩むのを感じた。自分の体温がジッと上がるのも。真琴は、笑うと普段の何倍も可愛く見える。思わず釣られて笑ってしまうほど。

 「そんな大したことじゃないよ。当たり前のことを言っただけだし……っていうか、それを言ったら、真琴なんて殺人猪を倒してるわけで」

 「あ、あれは流れでああなっただけだよ。猪を見た途端、カーッとなって……。普通なら、あんなことできないよ」

 「そうかな?」

 「当たり前じゃない! もう! 私を何だと思ってるのよ。猪と戦うのは特技でも趣味でもないんだから、そのことは忘れようよ。全部そこに戻っちゃうから」

 不機嫌そうに、しかし楽しそうに、真琴は笑った。釣られて誠二も笑った。その時、気がついた。

 ――真琴が笑っていると、僕も笑ってしまう。僕が笑うと、真琴も笑う。僕は真琴が好きだけど、真琴と一緒にいる時間も好きなんだ。こうやって笑い合っている時間が大好きなんだ。

 「ああ、そうか」

 誠二が言った。

 「えっ、何が?」

 真琴が聞いた。

 「いや、その……」

 ――そうか。僕が変に取り繕っていたから、真琴の笑顔を不自然にしてしまっていたんだ。僕が作り笑いを浮かべていたから、真琴も作り笑いになっていたんだ。真琴を笑わせたいなら、まず僕が笑わなくちゃ。僕の方から、動かなくちゃ。状況が変わるわけがない。そういえば、殺人猪に襲われた時だって、真琴からキスの提案を受けた。埋め合わせをしたいなら、真琴に一緒にいたいなら、そのために僕が動かなくちゃ。何でこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう?

 「どうしたの、誠二?」

 「いや……僕、あれこれ考えすぎだと思ってさ。さっきの人を注意するみたいに、自然にすればいいのに。理屈ばっかり考えて、行動を起こせなかった」

 「え? え?」

 真琴が戸惑う。けれど、誠二は続けた。

 「変に考えすぎていたよ。僕は……僕は、真琴が好きだ」

 誠二がそう言った途端に、真琴は口をキュッと閉じて、両肩を釣り上げた。顔はすぐに真っ赤になり、

 「ちょっ、急にこんなところで何を言って……」

 そう言って誠二の言葉を止めようとしたが、彼は止まらなかった。

 「伝えておきたいんだ。だって、これは今の僕にとって一番大事なことだから」

 誠二がそう言い終えると、真琴は真っ赤な顔で、俯きながら、

 「……ありがとう。私も……誠二が好き」

 そう振り絞った。

 誠二は軽く咳払いをした。

 「コホン、そ、それでさ……」

 「な、何かな?」

 「それで……そろそろ入院が終わるし、せっかくだから、今夜……会わない?」

 「えっ、ええぇ!? 会うって、どこで?」

 「僕の部屋って、1人部屋だから。その……夜にこっそり入れると思う。入っても、たぶんバレないよ」

 「それって……」

 少しの沈黙を挟んで、真琴が尋ねた。

 「そういうこと?」

 真琴の問いに誠二は頷き、言った。

 「迎えに行くよ。それで、その後……2人で、会いたいんだ。さっき真琴が言った通りだと思う。これから思い出をたくさん作りたい。一日だって無駄にしたくない。だから――」

 「ごっ、ごめん! それはさすがに考えさせて!」

 真琴が高速で回れ右して、屋上から出ていった。

 「あ、ま、真琴!」

 誠二が止めようとしたが、真琴は一切こちらを振り向かずに走り去っていった。「あぁ……」という力ない溜息を漏らしながら、誠二は真琴の背中を見送る。

 ――しまった、やりすぎた……。距離感を間違えた……。

 またしても、誠二は後悔の溜息を漏らした。


※2

 夜になり、誠二は誠にスマホでメッセージを送った。「昼間はごめんね。」「変なこと言った。」「忘れてもらえると嬉しい。」3件のメッセージを送ったが、既読マークはつかない。またしても、深い溜息が出た。

 ――やってしまった。焦りすぎだ。真琴が笑うと、僕も笑う。僕が笑うと、真琴も笑う。だから以心伝心みたいな気分になっていたけど、そんなわけないんだ。特に、こういう繊細な話題の場合はもっと考えるべきだった。思えば、あのヤクザを注意したのは良くなかったのかもしれない。ヤクザという存在を追い払って、真琴に手を握られて、それでどこか気分が大きくなっていたような気もする。だからあんなふうに、勢いだけで誘ってしまったんだ。常識的に考えて、病院はそういうことをする場所じゃないし。ああ、とにかくやってしまった。最悪だ。僕は理屈っぽくなるところと、そうじゃないところの配分がいつもおかしい。いつもこんなふうになってしまう。もう嫌だ。色々と……。

 誠二はスマホを閉じた。こういう時は寝るしかないと思った。

 その時、病室の扉が開く音がした。そして、

 「き……来て、来てみました」

 真琴の声がした。

 誠二は「嘘っ!?」と叫び声を上げそうになったのを紙一重で堪えた。代わりになんて答えるべきか、頭をフル回転させた。

 ――ええっ! 来たって、本当に真琴が来ちゃったのか? え、こういう時って、なんて答えればいいんだろう? 「よく来たな」? いや、それじゃ魔王とかラスボスだ。とりあえずは、挨拶だ。夜だから。夜の挨拶だ。

 「こ、こんばんは」

 誠二が言うと、

 「こんばんは」

 真琴も返した。

 途端に真琴は吹き出した。

 「ははっ、『こんばんは』って」

 釣られて誠二も吹き出す。

 「だ、だよね。『こんばんは』はないよね」

 そう言いながら、真琴の方を見た。

 視線が合う。ただそれだけで、2人はまた少しだけ笑った。

 そして足早に真琴はベッドの中に潜り込み、誠二の隣で横になった。誠二は胸が苦しくなって、生唾を飲んだ。瞬時に緊張は最高潮に達した。これくらいの近距離で真琴と話したことは過去に何度もあった。しかし夜の静けさと、穏やかな月の光、そしてお風呂から上がったばかりのシャンプーとリンスの匂いは、初めての感覚だった。五感の全てで、真琴を感じているように思えた。誠二は耐えかねて、口を開いた。

 「言い出しておいて、ごめん。かなり緊張してる」

 「私も。猪を相手にした時より、ドキドキするかも」

 「それは言い過ぎじゃない?」

 「そうでもないよ」

 2人は見つめ合う。そして誠二は、今一番言うべきだと思ったことを口にした。

 「好きだよ」

 真琴は深く頷き、答えた。

 「……私も。好きだよ」

 誠二は真琴の頬に触れた。

 「今ここで、ちゃんとキスしない? 最初のじゃないけど……」

 すると真琴が小さく首を横に振った。

 「ううん。さっ、最初だよ。これを最初にしよう」

 「あ、ああ……そうだね」

 やさしい月明かりに照らされ、眼鏡のレンズの向こうにある真琴の目が見えた。目をつぶっている。何を求めているか、何を待っているか、誠二も分かった。誠二はそっと近づき、自身も目をつぶる――次の瞬間、月の光が消えた。

 「ん?」

 一瞬の違和感と同時に、今度は凄まじい揺れが襲ってきた。病院全体が震える強烈な衝撃だった。「うおっ」と驚きの声が飛び出ると同時に、ベッドが弾み、誠二と真琴は空中に投げ出された。けたたましい音と共に、窓ガラスと蛍光灯が全て砕け散った。床に叩きつけられた誠二は、すぐさま真琴を抱きしめた。「何? 何?」と混乱する真琴を強く抱き、誠二は何が起きたかを確かめるため、周囲を見渡した。

 ――なんだ? 何が起きた? 地震? いや、揺れはあったが、一度だけだ。それよりも、この暗さはなんだ? 地震だったとして、暗さの説明がつかない。何故さっきまであった月明かりが、綺麗サッパリ消えているんだ?

 誠二は窓の外を見た。木っ端微塵になった窓ガラスの向こうは真っ暗だった。真っ暗すぎた。まるで壁が出来たように真っ暗だ。誠二の呼吸が少し落ち着いてくる頃、ようやく実態が見えてきた。窓の外にあるのは、暗闇ではない。壁だ。確かに窓の外に何かが存在して、月明かりを遮っている。さらに目を凝らす。ちょうどその時、砕けた電灯から火花が散った。その光を受けて、壁は輝いた。それで気がついた。外にあるのは平坦な壁ではない。光を受けて輝きが変わる、丸みを帯びたパーツを組み合わせた、巨大なオブジェのようなものだ。しかし、それも正解ではなかった。何故なら目の前のオブジェは動いていたからだ。確かにオブジェは一定のリズムで動いている。「何故動いているのだろうか?」「そもそもこれは何なのか?」この二つの問いに対し、誠二は先に前者への解答へ辿り着いた。直感したと言っても良い。

 ――『生きている』? この動きは呼吸か、鼓動か?

 「それ」が壁ではなくて生き物だと思い至ると、ようやく全容が掴めてきた。大きすぎて分からなかったが、「それ」は生きていた。呼吸して、鼓動を打っている。「それ」を見るほどに、誠二は冷静になった。そして、目が月明かりの無い暗闇に慣れるにつれて、「それ」が特徴的な黒と黄色のパーツで構成されていることに気がついた。「そもそもこれは何なのか?」ベッドから投げ出されて10秒を超えた頃、その問いかけへの答えが見えた。これが生き物だとしたら、先ほどの揺れは、こいつがこの病院の側面に衝突、もしくは着陸した衝撃だろう。だとしたら……。

 誠二は知っていた。こういう色をしている生物を。目の前の窓を覆っているのは、その生物の腹部だ。

 ――こいつはオニヤンマだ。ただし、普通のオニヤンマじゃない。巨大オニヤンマだ。腹だけでこの大きさなら、羽を全長として15メートルは超える。全長15メートルの巨大オニヤンマだ。

 誠二がそう気づいた途端に、病院中から悲鳴が上がった。再び衝撃と轟音がした。巨大オニヤンマが足を振り上げ、病院に突き刺したのだ。そして誠二は、その光景を見た。咄嗟に、

 「見るな!」

 そう叫んで真琴の目に手のひらを当てた。オニヤンマの足に人が突き刺さっているのが見えたからだ。その人は悲鳴を上げながら上方に、オニヤンマの口があるであろう場所へ運ばれていった。

 誠二は、本で読んだオニヤンマの知識を思い出した。

 ――オニヤンマは肉食。顎が発達していて、獲物を噛み砕く。そしてトンボ類は、時に自分の体重と同じだけの餌を食ってしまう。あの大きさのオニヤンマと同じだけの肉は何キロになるのか。何人分になるのか。この病院の人間、全員か。それよりもっとか。いいや、そんなことはどうでもいい。今は逃げることだけ考えろ!

 病院は依然として揺れていた。悲鳴があちこちから聞こえた。誠二は自分がするべきことをした。真琴の手を握って、病室から駆け出す。あのオニヤンマから、一歩でも遠くへ逃れるために。


※3

 「くそぅ、くそぅ」

 福田 勝は、信じられないものを見た。だから闇雲に走りながら、見た光景をそのまま口に出した。口に出さずにいたら、気が狂いそうだった。先ほどの光景は、頭の中に押し込めるものではなかった。

 「なんや、なんや、あのデカいオニヤンマは。アイツ、俺の同室の向井さんを食いやがった。向井さんは、真面目で、まだまだ働き盛りのイイやつやった。なのになぁ、あの黒くて長い脚が部屋ん中に入ってきて、向井さんを突き刺しよった。そんで向井さんはバクッと上半身から食べられて、食べカスになった向井さんの足が二本、俺のベッドに飛んできよった。なんちゃコラ、どういうことかちゃ。ブッ殺すぞ」

 病室を飛び出して、階段を駆け下りる。しかし、足を滑らせて、転がり落ちてしまった。その痛みが、勝を冷静にさせた。

 「いやいや、ブッ殺すなんて、無理やん。これは、あれや、天罰や。こんなん天罰に決まっとる。俺が悪い事ばっかりしてきたけん、こんなことが起きたんや」

 勝は断言できた。ヤクザになって、良かったことなんて一つもない。ヤクザになってから、自分の人生は転がり落ちる一方だ。上には上がいると人は言うが、下には下がある。俺の人生は、いつまでも転がり落ちるままだ。

 勝が自分がドン底にいると実感したのは、懲役にいった兄貴分に同情された時だ。兄貴は、もう死ぬまで刑務所だと決まっていた。家族もいないし、友達だっていない。勝が面会に行ったのだって、半分は義理だ。人間関係もグチャグチャなら、本人の体もメチャクチャだった。糖尿病で内蔵を壊し、目もほとんど見えていない。勝が知る限り、一番不幸な境遇にいる男だった。そんな男に同情されたんだ。兄貴は明後日の方向を見ながらこう言った。

 「勝、お前は不幸な男やなぁ。俺はヤクザとして、美味しい思いができたよ。金もあったし。それに何より、自分はヤクザにしか出来んことをやったって胸を張れる。ヤクザらしい仕事が出来たんよ。違法やけど、誰かがやらんといかんこと。まぁ、いわゆる任侠やな。任侠やなと思える仕事ができた。そういうことがある時代に、俺は生きることができた。充実感っちゅうか、やりがいちゅうか、そういうのや。お前は、そんなん感じたことがないやろ?」

 答えられなかったけど、確かにその通りだった。ヤクザの仕事で充実感なんて感じたことがない。胸を張れることなんて、生まれてこのかた何一つやっていない。組に任された仕事は、どれもこれも終わった後に胸糞が悪くなる、ケチなヨゴレ仕事ばかりだった。

 「そういう誇れる過去があるからかなぁ、こんなふうになっても、そこまで後悔しちょらん。でも、お前はもう無理やろうなぁ。そういう時代でもないから。ヤクザが必要な時代やないから。お前はこれからどんどん惨めになるぞ。それを思うと、お前が気の毒でなぁ」

 そう言われた時、勝は面会室のアクリル板を思い切り殴ってしまった。頭に来たのだ。俺はそんな惨めなのか、これからもっと惨めになるのか。そんなわけないだろう。俺は違うんぞ。そんな惨めな人間になってたまるか。今はヨゴレ仕事ばかりだけど、いつかは自信と誇りに満ちた、胸を張れる男になるんだ。

 しかし、現実は兄貴の言う通りだった。まず収入が減った。次に周りから人が減って、体を壊した。ここ数年は、ずっと病院を出たり入ったりしている。病院の外にいる時は、組の若手に顎で使われ、もっぱら雑用ばかり。「ああなったら終わりだな」と笑われても、「おう。お前らもこうはなるなよ」と愛想笑いの冗談で返すしかない。人生はドンドン惨めになっていく。

 「天罰か、天罰か」

 言葉に出す。すると、まるで誰かに言われたように感じた。

 ――天罰、俺の最後は、デカいトンボに食われて終わりか。

 そう思った途端、

 「はぁぁぁ~~~!?」

 勝が怒鳴った。

 「クソボケコラァ、天罰なワケあるかい。こんな天罰があってたまるか。俺が死ぬんやったら分かる。クズやからな、ヨゴレやからな。けどな、向井さんは何で食われたんや? その隣におった山村さんだって。木口さんも。みんなトンボに食われて人生終わるような、そんな人間やない。これは天罰やない。天罰であってたまるか。たまたまデカいトンボに襲われただけや。ふざけんなよ、デカいトンボが。俺を殺そう言うんやったら、俺がお前をブチ殺しちゃる。俺は曲がりなりにも還暦までヤクザやった男なんやぞ」

 勝は立ち上がった。

 「ブチ殺しちゃる、ブチ殺しちゃるわ」

 そう呟きながら、また走り始めた。しかし今度は闇雲に、ただ巨大オニヤンマから離れるためではない。目的地があった。

 ――トンボをブチ殺すには、あそこじゃ、あそこに行かんといかん。

 再び勝は走り出したが、またしても階段を踏み外し、転がり落ちた。一番上から一番下まで。全身を強打したが、立ち上がらなければならない。視線を上げる――と、目の前に2人組が見えた。それは、昼間に屋上で絡んだ、若いカップルだった。


※4

 誠二の足元に、福田 勝が階段から転がり落ちてきた。「昼間のヤクザ?」そう誠二が思った時には、真琴が倒れた勝に手を差し伸べて、

 「大丈夫ですか?」

 そう聞いた。勝は真琴の手を取って、立ち上がると

 「ありがとな。お前らも逃げろや。俺が、あのオニヤンマをブチ殺しちゃるけん」

 その言葉を聞いて、誠二は思った。

 ――『オニヤンマをブチ殺す』だって? ああ、ダメだ。この人は狂ってしまっている。確かにこの状況は狂うには十分な状況だ。

 勝の発狂を確信した誠二だったが、しかし、

 「やっちゃるわ。ロケットランチャー、ブチかましたる」

 その勝の言葉に、誠二は考えを改めた。

 ――違う。発狂してるんじゃない。この人は、本当に巨大オニヤンマを倒す方法を持っているのかもしれない。

 一呼吸を置いて、誠二は勝に聞いた。

 「待って、今、なんて言いました?」

 「ロケットランチャーちゃ。あの大きさのオニヤンマに鉄砲やらマシンガンやらは効かんやろ。けどロケランなら別や。戦車も吹っ飛ばせる威力やけん、あのオニヤンマだって撃ち落とせるはずちゃ」

 『ロケットランチャー』その言葉に、誠二は自分の置かれた状況がガラりと変わるの予感した。「真琴を連れて逃げる」だけで頭がいっぱいだったが、『ロケットランチャー』という単語を頭に打ち込まれた途端に、他の選択肢がおぼろげながら浮かび上がってきた。

 誠二は勝に尋ねた。

 「あなたはロケットランチャーを持っているんですか?」

 「当たり前っちゃ。お前、ここは北九州で、俺はヤクザぞ。この病院から徒歩5分の位置に、うち組の武器庫がある。そこにロケットランチャーがあるんちゃ。一か月前、俺が直々に点検した。使えるはずや」

 誠二の脳内に浮かんだ曖昧な選択肢は、今やハッキリとした文章になった。

 ――『ロケットランチャーを撃ち込んで、巨大オニヤンマを倒す』老若男女の悲鳴はやまない。病院の揺れもやまない。鉄筋コンクリートのビルを、巨大オニヤンマの足が削り貫く音も止まらない。このままでは病院の人間は皆殺しにされてしまう。その後、あの巨大オニヤンマは街を行く人々を襲うはずだ。もっとたくさんの人を食う。もっとたくさんの人が死ぬ。けれど、もしもここで巨大オニヤンマを倒せたら、多くの人を助けることができる。ただ、真琴はどうする? 僕は今、巨大オニヤンマとの戦いを選択しようとしているけれど、それに真琴を巻き込むわけには――

 「やりましょう、それ」

 真琴が言った。

 「はぁ?」

 勝が間の抜けた声を上げる。

 しかし誠二は吹き出した。真琴は、やっぱり真琴だ。優しくて、真面目で、頼もしい。僕が好きになった真琴だ。

 誠二が吹き出した途端、真琴も笑った。目を輝かせ、誠二を見た。

 「お前ら、なんを笑いよんかちゃ?」

 勝が怪訝な顔で聞いたが、

 「気にしないでください」

 誠二はそう軽く流して、

 「それ、僕らも手伝います」

 「はぁ? 何でか?」

 「アイツから逃げるだけじゃダメなんです。アイツは倒さないと、もっと多くの人が死んでしまう。僕は、それを見過ごせない」

 誠二がそう言うと、真琴がほほ笑んだ。

 「……誠二、そういうところ」

 そしてこう付け加えた。

 「私があなたを好きになったのは、たぶん、そういうところだよ」

 「僕もそうだ。真琴を好きになったのは……」

 勝が怒鳴った。

 「イチャイチャはやめぃ! それより巨大オニヤンマじゃ!」

 「すみません!」

 「ごめんなさい!」

 誠二と真琴は同時に頭を下げた。

 そして誠二は、頭を切り替える。深呼吸をして。

 ――勝の言う通り、今は巨大オニヤンマについて考えるべきだ。光明は見えたけど、もっと確認が必要だ。

 誠二は尋ねた。

 「ロケットランチャーですけど、弾は何発あるんですか?」

 「弾は一発だけじゃ」

 「一発? 外したらどうするんです?」

 「外さんかったらええやろうが!」

 「相手はトンボですよ! 自由に空を飛ぶんなら、ロケットランチャーを避けることだって出来るはずだ」

 「そらそうかもしれんけど、ここは賭けるしかないやろうが」

 話しながら、誠二は作戦を練った。状況から逆算して。

 ――こちらの武器はロケットランチャーが一発。外せば終わり。確実に当てる必要がある。確実に当てるにはどうすればいいか? 巨大オニヤンマの動きを止めればいい。それじゃ、巨大オニヤンマをどうやって止める? ああ、そうだ……!

 「僕に考えがあります。あいつを止める方法がある」

 「お前コラ、デタラメ言うたらつまらんぞ」

 「多分、大丈夫です。二手に分かれましょう。僕は巨大オニヤンマの動きを止めます。勝さんは真琴と一緒に、ロケットランチャーを取りに行ってください」

 すると真琴が誠二の胸倉を掴んで叫んだ。

 「どうして? 私は誠二と一緒に行くよ!」

 誠二は言った。出来る限り、静かな声色で。

 「ダメだよ。この作戦は、とても危ないと思う。真琴は連れていけない。真琴に万が一のことがあったら、耐えられない。僕だけでいいんだ」

 「だったらなおさらだよ! せっかく殺人猪を倒したのに、こんなところでお別れなんて――」

 「お別れじゃない!」

 誠二は声を荒げた。そして真琴の両方の肩を掴み、続けた。

 「絶対に上手くいって、また会える!」

 真琴は深く息を吸ってから、言い返そうとした。

 「でも……!」

 しかし、真琴の言葉は途切れた。ビルが大きく揺れたのだ。巨大オニヤンマの足が壁を突き破り、進入してきた。スプーンで残り少ない瓶のジャムを集めるように、巨大オニヤンマの足が、病院の奥へ奥へと、人の肉を求めて病院の中を暴れまわる。揺れが収まって誠二が顔を上げると、もう目の前に真琴と勝はいなかった。かわりに誠二と2人の間には、グチャグチャに崩れた豆腐のような、コンクリートの山ができていた。しかしその山の向こう側で、勝の怒鳴り声がした。

 「嬢さん! あのガキを信じるか信じんか、今すぐ決めぃ! あのガキは言ったな、トンボを止められるって。ロケットランチャーさえ持ってくれば、トンボをブチ殺せるって。それは信じていいんか? 信じて大丈夫なんか?」

 「大丈夫です!」

 即答だった。

 「誠二は約束は守る!」

 「よっしゃ、だったら行くぞ! おい、ガキ! お前は生きとるよなぁ!?」

 勝の怒鳴り声に!

 「大丈夫です! それより、ロケットランチャーを!」

 「任せて!」

 真琴の返答を聞くと、誠二は走り出した。命を懸けて。だから気がつかなかった。勝が真琴に「すげぇ根性しとるのぅ、お嬢さんのボーイフレンド」と呟いたことを。


※5

 誠二は壊れた階段を駆け上がる。ケガをした人、すでに死んでいる人、多くの人が転がっていた。思わず立ち止まって手を貸しそうになったが、誠二は止まらなかった。何はさておき、あの巨大オニヤンマを何とかしないと、みんな死んでしまう。

 誠二は整理する。自分の作戦を。

 ――あいつはトンボだ。とんでもなくデカいが、トンボであることは間違いない。だったら、この手が通じるはずだ。

 誠二は落ちていた松葉杖を広った。そして、同じく落ちていたシーツをグルグルと巻き付け、消毒用のアルコールをぶっかけて、その辺を散っている火花で火を点けた。こうこうと燃える松明ができた。その松明を持って、階段をさらに駆け上がる。やがて、巨大オニヤンマの目の位置まで移動した。7階だった。

 病室の窓の外に、巨大オニヤンマの顔面が見えた。誠二の身長より大きな緑の目と、せわしなく動く口。強靭な顎の周りには、もはやどこの部位かも判別不能な、人間の食ベカスがベッタリと張り付いている。

 ――来た。あとは……乗るか、反るか。

 誠二は松明を持って、巨大オニヤンマの眼前に飛び出した。そして全身を使って、大きく炎の円を描いた。

 ――どんなに大きくても、トンボはトンボだ。トンボは目が悪い。指で円を描いて、トンボの動きを止めて捕まえる方法がある。あれは目を回すのではなくて、トンボが『判断不能』の状況に陥るからだ。規則性のある動きをする物を前にすると、トンボは『こいつは何だ?』と観察する習性がある。目が悪いから、獲物かどうか分からずに止まるのだ。この巨大オニヤンマも、トンボなら……

 不意に誠二の全身に、冷たい物が走った。静寂が訪れ、視線を感じたからだ。病院の揺れが止まった。建物の中に侵入した巨大オニヤンマの足が止まったのだ。巨大オニヤンマはあらゆる動きを止め、誠二を見ていた。巨大オニヤンマという圧倒的な捕食者の視線に肉体が反応したのだ。

 誠二は気がついた。作戦は成功したと。

 しかし、気がついた途端に、今度は手が震えた。足が震えた。巨大オニヤンマが自分だけを見ているという事実が、誠二の生物的な本能を刺激した。

 ――怖い。怖いよ。我ながら、何でこんなことをやってるんだ。逃げ出したい。今すぐにでも。何でこんなバカげたことを思いついたんだ。

 しかし誠二は、炎で円を描き続ける。

 ――いや、ダメだ。やるんだ。正しいことをするんだ。僕がやらなきゃ、もっとたくさんの人が死ぬ。今、少なくとも僕は巨大オニヤンマの動きを止めることが出来た。あと何分、いいや、何十秒、このままでいられるか分からないけれど、巨大オニヤンマが人を食べるのを止められている。今この時間を使って人が逃げているはずだ。人を救うことができているはずだ。だったら、やる価値がある。やらなきゃいけない。

 徐々に松明が重くなってきた。疲れてきているのだと分かった。筋肉が痛み始めた。元々、誠二は体力がある方ではない。松明を振り回して、大きく円を描き続ける運動は、誠二の体力を確実に削いでいった。何より、目の前にある恐怖は圧倒的だった。誠二を丸呑みできそうなほどの、巨大な捕食者の口がそこにあるのだ。このことが誠二の体力と気力を削り取っていった。

 しかし誠二は、恐怖と疲労、その両方から逃れる術を知っていた。考えることだ。

 ――真琴は、もう病院から出ただろうか。真琴は逃げきれただろうか。大丈夫だろうか。生きていてくれるか。生きていて、戻ってきてくれるか。いや、戻ってこなくてもいいんだ。そのまま逃げてくれていい。生きていてほしい。ロケットランチャーを取りに行くと言ったけど、戻ってこなくてもいいんだ。そのまま遠くへ、この巨大オニヤンマに見つからない場所へ逃げてくれていいんだ。もう逃げただろうか、もういいだろうか? もうやめてもいいだろうか――

 そこまで思い至った時、誠二は首を横に振った。自分の理性が動きを止める方に傾いていることを悟ったからだ。

 ――危ない、危なかった。今、僕は無意識のうちに円を描くのをやめようとした。言い訳をつけて、運動を止めようとしたんだ。違う、違うぞ。何があっても、この松明を回すのはやめない。やめちゃいけない。やめたら、アイツはまた人を食うぞ。アイツに人を食わせちゃいけない。ずっと回すんだ。死んでもいいから、永遠に炎を回し続けろ。

 誠二は松明を回し続ける。松明は今や、鉛のように重かった。全身から汗が噴き出た。息が乱れ、視界が曖昧になってきた。それでも誠二は腕を振るった。

 ――回せ、回すんだ。死んでもいいから、食われてもいいから、円を描き続けろ。

 その時、遥か下から

 「嬢ちゃん! ブチこんじゃれや!」

 ドスの聞いた声が聞こえた。そして、

 「おぉ!」

 大好きな人の、大好きな声が聞こえた。それは巨大オニヤンマの恐怖なんて、あっさりと消し去ってしまうほど頼もしかった。誠二が世界で最も頼りにする人物、真琴の声だった。

 次の瞬間、「キュン」っと何かが風を切る音と同時に、誠二の視界が光に包まれた。爆音と爆風が起こり、誠二は吹き飛ばされた。そして何かが飛んできた。液体と、固体と、その中間のような肉も。それらを全身に浴びながら、誠二は悟った。巨大オニヤンマは、木っ端みじんになったのだ。ロケットランチャーによって。


※6

 勝は、全身が、右手の五本指までもが震えるのを感じた。実際には二本しか残っていないのに。爆発し、炎上し、バラバラになって落下した巨大オニヤンマを見て、しばらくの間は全身の震えで動けなかった。まるで金縛りにあったように。

 しかし、誰かが「助かった」と歓声を上げた途端に、金縛りは解け、止まっていた思考も動き出した。

 ――やった、やったんだ。俺らは成功したのだ。あのガキがどうやったかは知らんけど、確かに巨大オニヤンマは動きを止めちょった。それで、お嬢さんと一緒にロケットランチャーをブチ込んでやった。俺は指がないから、お嬢さんを支える役しかできんかったけど。ああ、これで俺は、確実に警察に捕まるわ。何せ街中でロケットランチャーをブッ放したんや。組にも迷惑をかけるかもしれん。何なら組が潰れるかもな。でも、俺は人を助けたんや。2人の少年少女と一緒に。

 周囲の人々は、笑っていた。万歳をする声まで聞こえた。

 ――おお、みんな喜んどるやんか。そうやな、そうやろうな。あんなトンボを生かしておけんもんな。お前ら、感謝しろよ。俺がやったんぞ。あんなバケモンをブチ殺すのは、間違いなくロケットランチャーを持っている俺にしかできん。俺は、俺にしかできないことを、やるべきことを、正しいことをやった。そう胸を張れる。

 そこまで思い至った時、ふと勝は呟いた。

 「ああ、なるほど。これか。これがヤクザにしか出来ない人助け。任侠なんやな」

 真っ白な脳裏にそこまで思い浮かんだとき、勝は真琴が傍らから姿を消していたことに気がついた。

 「嬢ちゃん! 嬢ちゃんはどこ……ああぁ! 危ねぇぞ!」

 勝が見た。崩れかけている病院に向かって、真琴が駆けていくのを。

 真琴は、走った。

 地面に転がるオニヤンマの破片を踏みつけ、病院から這い出てくる人々をかき分け、走った。誠二がどこにいるかは知らない。けれど走らずにはいられなかった。

 「誠二! どこ! どこにいるの!?」

 その時、

 「ここだよ、真琴」

 その声を聞いた途端、真琴は止まった。

 「誠二?」

 誠二も止まった。真琴の姿を見た途端に、身も心も止まってしまった。彼女以外のことは、どうでもよかったから。脳内に情報として入れる必要を感じなかった。

 真琴は一直線に誠二に駆け寄り、力いっぱい抱き着いた。

 「よかった、生きてて、生きてて本当に良かった」

 「真琴も、無事でよかった。本当にロケットランチャーを撃ってくれたんだね。戻ってきてくれて、ありがとう」

 「当たり前だよ。約束したもん」

 真琴は笑った。それを見て、誠二も笑った。

 「そうだね。僕も、約束したから」

 そう言って笑い合っていると、

 ――今しかない。

 そう誠二は思った。周囲は瓦礫の山で、自分は土ぼこりと巨大オニヤンマの体液まみれだ。真琴だってロケットランチャーを撃った直後で、髪から何からボロボロになっている。ロマンチックとは程遠い。けれど、今が一番いいと思った。

 誠二は言った。

 「真琴、こんな状況だけど……」

 言い終わる前に、真琴が言った。

 「キスしたい?」

 心を見透かされて、誠二は息を飲んだ。すると真琴は続けた。

 「私ね、今が一番いいと思う。っていうか、今したい。あなたも私もボロボロだけど、今するのが一番いいよ」

 誠二は笑った。そして思った。

 ――僕が笑うと、真琴が笑う。真琴が笑うと、僕も笑う。でも常に以心伝心っていうわけじゃない。何もかもが上手く合うこともない。けれど時々、こんなふうに気持ちが繋がったと思える瞬間もある。そういう瞬間があれば十分だ。そういう瞬間がある限り、僕らはやっていける。

 誠二は真琴の肩を抱いた。

 「真琴、いい?」

 聞いた。

 「いいよ」

 真琴が答えた、その時だった。

 「お前ら、ありがとなぁ」

 勝の声がした。勝は警官に押さえつけられ、手錠をかけられていた。「黙れ」とか「おとなしくしろ」とか「お前、これロケットランチャーやないか」などと、警察官たちの怒声が聞こえた。しかし、それをかき消すほど、勝の声は大きかった。

 「正しく生きるっちゅうのは、やっぱりイイことや。人を助けるっちゅうのはイイもんや。俺はな、やっと胸を張れることをやったぞ」

 勝は警官たちに押さえつけられたまま、パトカーに押し込まれていく。何人かの警官は彼の口を手で覆って、黙らせようとした。しかし勝は叫び続けた。

 「お前らのおかげで、死ぬ前に一つ、やっと一つやけどよ、俺は自慢できることをやったぞ! ありがとなぁ!」

 勝がパトカーに詰め込まれた。そしてパトカーが走り出すと、誠二と真琴はパッと分かれて、2人ともパトカーに手を振って叫んだ。

 「こっちこそ! ありがとうございました!」

 「ロケットランチャーをありがとうございました!」

 誠二と真琴は、まったく同じ気持ちだった。聞こえているかは関係ない。聞こえていなくてもいい。2人は感謝の言葉を叫ばずにはいられなかった。

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