もしも、カップルが……/読者アンケートで決まるカップルの行方

加藤よしき

「殺人猪が突っ込んでくる」編

※1

 ――私は誠二(せいじ)のことが好き。優しいところが好きだ。私を大事にしてくれることもいいと思う。でも、今のままじゃダメだ。私はもっと、その先に行きたい。手を繋いで一緒に遊びに出かけたりする、その先に。キスや、その先だって……!

 まさに天の啓示だった。突然に高垣 真琴(たかがき まこと)は結論に辿り着いたのだ。この数週間、ずっとモヤモヤしていた。何かが不満だった。でも、その何かの正体が分からなかった。それが分かったのである。自分が付き合っている相手と、もう一歩、深い関係になりたいのだと。

 その事実に気がついた途端、大声でこの結論を言って回りたい気分になった。中一だったころに授業で習ったアルキメデスの逸話みたいに。学者のアルキメデスは、お風呂の中で難問を解いて、喜びのあまり叫びながら裸で街中へ飛び出した。初めて知ったときは変態だと思ったけど、今ならその気持ちがちょっぴり分かる。お風呂ではなく、図書館で良かった。お風呂だったら、飛び出すかはさておき、叫んでいたかもしれない。

自分が興奮していると気がつき、真琴は大きく息を吸って、吐いた。

 ――こういうときは深呼吸だ。深呼吸は交感神経を整えて、パフォーマンスをよくしてくれる。お兄ちゃんの部屋に置いてあった漫画で読んだ。

 真琴は呼吸を整えると、横に座っている男を見た。そこには自分を男にしたような男が座っていた。校則通りに着こなした制服、整えた黒髪、いじっていない眉毛。そして中学二年生の平均身長、平均体重。周りから見れば、地味で普通の中学二年生だ。自分のように。

 男は、真琴の視線に気がつき、

 「どうかしたの?」

 静かに、いつも通りの優しい声色で尋ねてきた。真琴は同じような小さく、そして少しだけ震えた声で、

 「ううん、何でも」

 と、おかっぱ頭を横に振った。慌てていたから動きが激しくなって、ちょっとだけ眼鏡がズレた。自分の呼吸の乱れに気がついた真琴は、軽く咳払いをした。そして微笑みを作ると、こう続けた。

 「何となく見ただけだよ。邪魔してごめんね」

 隣にいるのは、鎌田 誠二(かまだ せいじ)。真琴の幼馴染で、同級生で、大好きな彼氏だ。付き合い始めたのは去年、それこそアルキメデスを習った頃。小学生の頃から仲が良くて、中学になってからも他愛のない雑談をしていた。ある日の放課後、誠二の方から告白してきた。「俺、真琴のことが好きだ。付き合ってほしい」顔を真っ赤に染めて、今まで見た事がないくらい真剣な目で、誠二は言った。真琴は首を縦に振って、それから一年が経った。関係は良好で、これまでの日々で真琴は何度も人生が変わるほどの驚きを体験した。初めて手を繋いだときの興奮、学校でひやかされたときの喜びと恥ずかしさ、誠二が他の女子と話をしているの見て嫉妬をしたときの自分の小ささ。色々な「初めて」があった。全部が全部、いい思い出ではない(特に嫉妬は)。でも、誠二と付き合った一年を振り返ると「きっと幸せって、こういうことなんだな」と素直に思えた。

 しかし真琴は今、もっと誠二との関係を深めることを望んでいた。一緒に歩くこと、手を繋ぐこと、こうして肩を並べて読書すること、それ以上のことだ。

 付き合って一年になるが、誠二はそういう素振りを見せない。真琴には誠二の考えが分かっている。「そういうこと」は、いわゆる「一線」だ。一線を乗り越えるには勇気がいる。タイミングも必要だ。責任だって生じるし、軽々しくできることじゃない。自分のことを大事に思ってくれているから、誠二は「そういうこと」を切り出さないのだろう。

真琴は図書館の天井を見上げ、今しがた出たばかりの結論を整理する。

――分かっている、分かっているよ。誠二は、きっと凄く私のことを大切にしてくれている。尊重してくれている。だから、そういうことには慎重になっているんだと思う。でも、慎重になりすぎだよ。責任を感じすぎだよ。もっとガッと来てもらってもいい。何なら私から行っても……

 「そろそろ、帰ろうか。いい時間だからさ」

 「ひゃい!?」

 誠二に不意に声をかけられ、真琴は変なところから声を出した。図書館の視線が一斉に2人のを向き、ちょっとだけ笑いが起きた。誠二も少し笑ったが、すぐに何事もなかったように手を差し出した。

 「行こう」

 真琴はその手を握り返し、頷いた。

 「うん」

 2人は手を繋いで、本棚へと向かった。その途中、

 ――ダメだ。少なくとも私からは無理だ。思っても、口に出すこともできない。

 真琴はそう思った。


※2

 図書館の本棚は来るたびに発見がある。だから真琴も誠二も、この場所が好きだった。近隣住人の需要に対して、必要以上に広く、ヘンテコな本がたくさんある。本棚は、ちょっとした迷路だ。ここでお互いに興味を持った本を見つけて、放課後に2~3時間だけ読書をする。1日で読み終わらない場合の方が多いから、読んでいる途中で本は本棚に返す。もちろん読んでいる本を誰かが借りて行く可能性もあるけれど、元々この図書館の需要は低く、おまけに2人がいつも率先して変な本を手に取ることから、この放課後の図書館デートを始めてから、読者が誰かの手によって中断することはない。

 真琴は『語り継がれる伝承―妖怪手帳―』という本を民俗学のコーナーに戻した。

 「それ、面白い?」

 「うん。怖い話がいっぱいで、民俗学より、ホラーの棚に置くべきだと思うなぁ」

 「タイトルで民俗学送りになったのかもね」

 「だと思う」

 他愛ない会話をする。真琴はそれでよかった。誠二の前では、好きな本を好きなように語れる。自分の趣味の話を包み隠さずできる。マウントを取った/取られたとは無縁の会話だ。成長するにつれ、そういう相手は貴重だと気付いた。前に中学の図書委員の先輩とホラー小説の話をしたとき、海外作家をゴリ押しされ、「これを読まないと始まらない」と半ば説教に近いオススメをされた。それはそれで悪くない体験だったけど、そればっかりじゃ息苦しい。その点、誠二とは、ああいうことが決して起きない。

2人は連れだってスタスタと、本の迷宮をさらに奥へと進む。誠二が読んでいたのは『マラカナンの悲劇』というサッカーのノンフィクション本だった。

 「それ、面白いの?」

 真琴が聞いた。

 「面白いよ」

 「誠二って、サッカーに興味あったんだ」

 「ううん。全然」

 「興味ないの?」

 「タイトルになっている、『マラカナンの悲劇』っていうのを何かで聞いたことがあって。それで読んでみたんだ」

 「ふぅん。それ、私が読んでも面白いかな?」

 「う~ん……僕は面白いと思うけど、まだ途中だから、何とも言えないかな」

 誠二らしい答えだな、と真琴は思った。ちゃんと最後まで読まないと、誠二は人に薦めない。それだけ責任感が強い。それは読書の趣味だけではなく、もちろん恋愛においても。

 「じゃあ、誠二が読み終わったら、感想を教えて」

 「わかった。僕もさっきの本を読んで――」

 誠二が急停止した。手を繋いで一歩後ろを歩いていた真琴は、止まり切れず、誠二の背中に頭をぶつけた。また眼鏡がズレた。

 「わっ、どうしたの?」

 真琴がズレた眼鏡を直し、誠二を見た。誠二は真っすぐ前を向いて固まっている。

 ――へ? 誠二、何を見ているんだろう?

 真琴は誠二が見ている方を見た。途端に、

 「あっ」

 そう驚きの声を出した途端、真琴は自分の口を覆った。

 誠二の、そして真琴の視線の先にいたのは、男女のカップルだった。2人と同じ学校の制服を着ていた。しかも――。

 ――ええぇ……!? めちゃくちゃキスしてる!

 カップルは、抱き合ってキスをしていた。舌を絡ませる小さな音が響いていて、お互いに囁き合う声も聞こえた。

 「ダメだよ、こんなところで」

 男の方は、少し困った様子だった。

 「あははっ、いいじゃん。ここ、誰も来ないから」

 女の方は、そう言って笑った。

 「そういうことじゃなくて……」

 「そういうことだよ」

 「えっと……」

 「いいからさっ」

 女が男を抱き寄せた。そしてキスを繰り返し、やがて女の手が男の下腹部へ――。

 誠二は静かに、本を最寄りの本棚に戻した。『マラカナンの悲劇』は、まったく関係のない料理本コーナーの上に積まれた。

 そして誠二は回れ右をして、

 「行こう、真琴」

 そういって少しだけ普段より乱暴に、真琴の手を引いた。

 「う、うんっ!」

 真琴はそれに続いた。けれど視線は誠二ではなく、なおも抱き合って愛を囁き続けるカップルの方を見ていた。

 ――あんな人、本当にいるんだ。あの女の人、いや、私と同い年くらいなんだけど……とにかくあの子、笑ってた。余裕そうだった。こんなことは普通って感じの顔だった。あんなこと、自分には絶対できない。

 驚きと野次馬根性、そして少しの憧れに後ろ髪を引かれながら、真琴は誠二と一緒に図書館を後にした。


※3

 秋風が虫の鳴き声を運び、ぼんやりと月が照らす山道を、真琴と誠二は歩いていた。夏が終わり、涼しくて快適な通学路だ。普段なら、いくらでも話すことがあった。読んだ本の話、今日の学校であった話、季節が変わっていくこと。けれど今日は、図書館を出てからずっと無言だった。

真琴は何をどう話すべきか、頭の中に浮かばなかった。そもそも普段なら「何かを話そう」とも思わない。自然に言葉が溢れてくる。しかし今日は違った。理由は簡単で、さっき見た光景のせいだ。

 握った誠二の手が、熱い。温かいではなく、熱い。それで真琴は、彼が何を思っているか検討がついた。きっと自分と同じ気持ちだ。

 ――自分たちも、いつかああいうふうになるのだろうか?

 そう考えると、無性に恥ずかしくなった。

 ――私も誠二とキスをしたら、あんなふうに甘ったるい声で話すのだろうか? いや、そもそも図書館でイチャイチャするのだろうか? いやいや、そこまでしないって。できないって。さすがにTPOをわきまえて行動するはず……いや、でも部屋で、そういうことになったら、きっとああいうふうに……いや、むしろ人の目が無かったから、もっと激しく……いやいや、無理、無理。しかも、あの人みたいに自分からガンガン行くなんて、絶対に無理! さっき「何なら自分から」なんて言ったけど……。

 そんなふうに想像すると、体中が熱くなった。さっきまで漠然としか見えなかった「そういうこと」の光景が、ハッキリと脳裏に浮かんできた。真琴は、祖母が恥ずかしがることを「顔から火が出る」と表現していたのを思い出した。

 ――本当だよ、おばあちゃん。顔から火が出そう。っていうか、顔が燃えてる感じがする。熱いし、変なところから汗が出てるし……。

 真琴がぎゅっと唇を噛んだ、その時、

 「ダ、ダメだよな。ああいうことしちゃ」

 誠二が言った。

 「へぇあ?」

 真琴は、またも変なところから声を出した。

 「図書館でああいうことしちゃ、ダメだよ。マナーとか以前に、常識として」

 それは真琴へ投げかけられた言葉だった。しかし真琴には、誠二が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。誠二が真琴を見ていなかったからだ。目の前の、何もない宙に話しかけているように見えたからだ。

 「イチャイチャするなって、そこまで言わないけど、場所とかを選ばないとダメだよ。あんなふうに所かまわずなんて、動物じゃないんだから」

 誠二がそういって、初めて真琴の方を振り向いた。顔を真っ赤にして、年齢よりずっと幼く見えた。それに、その顔が真琴には懐かしく思えた。

 ――誠二のこの顔は、たしか昔に見たことがある。あれは確か……

 「……だろ?」

 不意に秋の涼風が吹いた。それは真琴の火照った頭を冷まし、蘇りかけていた記憶を鮮明に誘い出した。

 真琴は気がついた。

 ――ああ、そうだ。今の誠二の表情は、小学生の時に見た顔だ。ケンカして、引くに引けなくなって、困っているときの顔だ。困っている? いや、それがちょっと違う。この顔は、強がっている時の顔だ。

 「真琴も、そう思わない?」

 同意を求めるような聞き方だった。

 「それは……」

 真琴は、言葉を切った。その時が来たと分かったからだ。先ほど叫びだしそうなほど驚いた自分の本心、それが試される時がきたのだ。

 「それは……」

 答えなら、もう決まっている。さっき天から降ってきたばかりだ。しかし、それを口に出すのは別だ。それに今は、タイミングが悪すぎる。

 真琴の頭がフル回転する。

 ――けれど、逆に今がいいのかな? 今がその時なのかな? 「そういうことがしたい」って言ったら、引かれないかな? ついさっき動物みたいだって誠二は言った。思っていることを言ったら、私も動物みたいに思われるのかな? そして絶対に嫌われるよね。そんなの嫌だ。適当に答えを合わせて、いつもみたいに軽口を叩き合う……ああ、でも、次にこんな時は来るのかな? 来ないまま一生が終わったらどうしよう? それは困る。さっき誠二とそういうふうになりたいって思った。今だって思っている。だから、この時を逃したくない。たとえ、動物みたいだって、嫌われたって……。

 「それは……ちょっと、違う……かな」

 真琴は唇が震えた。喉に何かが詰まっていた。その何かは言葉だった。言いたい事は山ほどあったけれど、それに対して口が小さすぎるのを感じた。「胸が苦しい」って、こういうことなのかと思った。

 「えっ……違うって?」

 誠二が聞いた。顔が真っ赤だった。震えているのが分かった。けれどそれは怒っているわけじゃない。長い付き合いだから真琴には分かった。緊張して、照れて、どこかに喜びがあると。 そして、きっと今は自分も同じ顔をしているのだろうと思った。

 真琴は、深呼吸をした。そして――

 「私は、ああいうのも……」

 精いっぱいの笑顔を作って、真琴が答えた。その瞬間、目の前の誠二の全身が「く」の字に変形した。同時に衝突音がした。骨が砕け、肉が弾ける音だ。高速で駆けてきた何かが、誠二の脇腹に直撃したのだ。そして誠二は「く」の字になったまま、吹き飛んでいった。

 何かが誠二の脇腹に突進し、吹き飛ばした。

 真琴が状況を把握した時には、誠二はゴロゴロと“何か”に転がされていた。その何かは誇らしげに誠二に馬乗りになり、地鳴りのような低い声で雄たけびを上げた。

突っ込んできたそいつが何か、真琴はようやく理解した。デカく、黒く、鼻息の荒い獣。野生の猪だった。


※4

 ソイツは、生まれる前からデカかった。母の腹の中にいたとき、すでに母の半分ほどの体重があった。母は妊娠中に栄養失調で死んでしまい、胎内にいた兄弟らも死んだ。本来ならば死ぬべきだったが、ソイツは母の腹を突き破って出た。ソイツはデカいだけではなかった。強かったのだ。

 そしてソイツは、常に腹を空かせていた。デカい体を維持するために、本能に従って、何かを体の中に放り込みたくてしかたがなかった。生まれたときには、すでに歯も生えていた。内臓も完成されていた。だからソイツは、まずは落ちていた木の実を食った。そして辺りの木の実を食い尽くすと、次は地面にいる虫を食った。ミミズや甲虫、動きの鈍い連中だ。そいつらも食い尽くすと、動きの早い連中を食った。その過程で、餌は虫だけではなくなっていった。虫では足らなくなったともいえる。ソイツはカエルやヘビを食って、やがて転がっている同族の死体を食うようになった。同族は、美味かった。腹持ちも良かった。一匹を丸々たいらげてしまうと、もう虫ケラや木の実に戻れない体になった。死体にはそうそう出会えなかったから、今度は生きているヤツを襲うようになった。もちろん黙って食われるやつはいない。同族は鳴き声を上げ、突進してきた。大人から子供まで、ソイツに対抗するため死力を尽くした。しかし敵う者はいなかった。何故ならソイツはデカくて、強かったからだ。

 ソイツは食って、食って、さらに大きくなった。生まれて三年が経つ頃、もう山にはソイツが食うものはなくなっていた。木の実も、虫も、ソイツの同族である猪も、死に絶えた。山にあった食物連鎖は消え失せた。ソイツは食物連鎖を崩す存在、捕食者ではなく破壊者だった。そしてソイツは、餌を失った猪がそうするように、山を下りた。

 ――腹が減った。

 ただ、その本能を満たすために、ソイツは歩を進めた。やがて大きな果実が整然と並んでいる場所を見つけた。生まれて初めて見る空間だ。甘い香りのする果実を食い荒らしていると、鳴き声が聞こえた。聞いた事がない種類の鳴き声で、それを発しているのは二本足で立つ大きな猿だった。猿にしてはデカいと思ったが、猿よりもずっと貧弱で、動きも鈍そうに見えた。

 ――猿なら、食える。

 ソイツは慌てふためく猿に突進した。大きな猿は思った通り貧弱で、一度の突進で動かなくなった。そして自分の最大の武器である牙を使って、猿の喉に噛みついた。猿の鳴き声は多彩だった。猿の「キィキィ」という声とは違った。「助けてくれ」だとか「やめてくれ」だとか、聞きなれない声を発した。それもすぐに静かになった。

――やはり弱いじゃないか。これで美味ければいいのだけど。

 そう思いながら、一口、猿を食べた。

 ――美味いぞ。猿よりも雑味は多いが、そのかわりに量がある。

 首、顔、そして布切れに覆われた胴体を食い終わる頃、ソイツはすっかり二本足の猿の味に夢中になっていた。

 ――もっといるなら、もっと食べたい。

 猿をあらかた食い終わると、ソイツは再び歩き始めた。甘い果実よりも、この猿の肉だ。この猿は独特の匂いがした。これと同じ匂いを辿ればいい。そうすればもっと食える。

 この世に殺人猪が誕生した瞬間だった。

 殺人猪は、さらに山を下った。二本足の猿は、たくさんいた。匂いのある方へ行けば行くほど、二本足の猿と出会った。そして最初に二本足の猿を殺して食ってから一日が経った頃には、もう五匹も仕留めていた。そして、今日もまた二本足の猿を見つけた。二匹、連れ立っている。どっちもこれまでと同じく、貧弱そうだ。

 ――いただいてしまおう。見れば見るほど、腹が減ってきた。

 猪は、走り出した。二匹の二本足で立つ猿へ、真琴と誠二の方へと。


※5

 真琴は吹き飛んだ誠二を見た。ぐにゃりと倒れ、そのまま動く気配がまるでない。

 ――死んだ? いやいや、死んだって、死んだ? 誠二が死んだの? 今の一瞬で、あいつに、あの猪に殺されたの!?

 真琴は突っ込んできた猪を見た。デカく、太く、黒かった。猪は動物園で見たことがあったが、明らかにそれよりデカかった。「ゴゥ、ゴゥ」という鼻息を鳴らしながら、倒れた誠二を品定めするみたいに眺めている。そして突き出た牙の間から、唾がたっぷりと垂れるのを見て、真琴は本能的に悟った。

 ――こいつ、誠二を食おうとしている。倒した獲物を食おうとしている。

 この辺りは緑が残っている。真琴も猪のことはある程度は知っていた。猪の脅威、猪は人を襲う。猪に追突されたら、大ケガを負う。知識はそれなりにあったが、それでも驚愕した。猪が人を襲うだけならまだしも、食うなんてことがあるだろうか? しかし目の前にいる猪は、明らかに餌を前にした獣の姿をしていた。獲物を仕留めた獣が宿す、自負と強さがあった。そのことを真琴は本能で理解した。そして、

 ――そうだ、猪は雑食だ。虫や爬虫類も食べる。肉を食べるなら、人を食べてもおかしくない。何より、こいつは明確な意志を持って自分たちを襲ってきた。襲ってきたのは食うためだ。攻撃を仕掛け、弱らせ、捕食する気なんだ。

 理屈はあとからついてきた。まるで勉強中に睡魔に負けると分かった時に「ここで寝た方が効率がよい」と言い訳を考えつくように。

 本能と理屈、両方で状況を理解した時、真琴は自分がどう動くべきか決断すべきだと気がついた。このままでは――

 「食われる」

 真琴は口に出した。そして、もう一度、

 「このままじゃ食われてしまう。誠二だけじゃない、私だって……」

 己に言い聞かせるように言った。猪の鼻息はますます荒くなり、口を開くと、白く巨大な牙が覗いた。その瞬間、真琴は叫んでいた。「待て」とか「やめろ」とか、そういうことを言いたかったが、言葉にならなかった。代わりに出たのは「あぁぁ」という叫び声だ。

 その声に反応して猪が足を止め、真琴の方を見た。

 途端に真琴の全身の毛が逆立った。恐怖だった。殺されるという確信からくる恐怖だ。生まれて初めて覚える生命の危機に、肉体が反応した。しかし、それ以上の闘志が体内から湧いてきた。それは生き残るという欲求、死にたくないという願い、つまりは生存本能だった。

 だから真琴は視線を切らなかった。猪の瞳をじっと睨みつけ、そのままカバンをひっくり返した。そして散らばった色々なもの、たとえば教科書、ノート、筆箱、お菓子、くしゃくしゃのプリント、その中から最も鋭く、武器になりそうなものを猪の目を睨みつけたまま、手探りで選び、掴み取った。

それはコンパスだった。非力な武器だ。こんなものを持ったところで、何の意味もない。そんなことは手に持った直後に分かったが、何も持たないよりはずっとマシだ。教科書や紙きれよりは、まだ武器になる。そして「武器を持つ」その行為自体が、真琴を冷静にさせた。殺人猪を前にして、どう振る舞うかを考える時間を与えた。

 真琴は、息を深く吸った。いつもそうするように。今から数分か、あるいは数秒か、自分は人生で最高最大の集中力を引き出す必要がある。そのためには、息を大きく吸って、吐かなければならない。

 真琴は深く息をしながら、猪を観察する。そして戦うための作戦を練る。勝てる戦いではない。そんな当たり前のことは、一旦は頭の片隅に追いやる。どれだけ絶望的でも、どれだけ荒唐無稽でも、今は生き残るために「勝つ」前提で考えないといけない。生存本能に突き動かされ、真琴は「殺人猪に勝つ」この絶望的な戦いの糸口を捜す。

 ――あいつは強い。だけどあいつは、油断している。自分の方が絶対的に強いと確信している。もう一度、突っ込めば終わると思っている。狙うとしたら、そこだ。油断につけ込め。突っ込んできた瞬間に、ヤツの突進を回避するんだ。あいつは猪だ。まっすぐ、こっちに向かってくるはずだ。回避して、掴んで、このコンパスの針を突き立てる。スペインの闘牛士のように、突進を避けながら刺し殺すんだ。できるか? 頑張れるか? 私? できる、できると思え、できるさ。私なら頑張れる。

 猪の目を真琴はずっと見ていた。来てみろ、殺してやる、という気持ちを込めて。視神経が焼き切れるほど睨みつけていた。

 不意に、その視線をあえて逸らした。

 途端に猪は真琴へ向けて猛然と突進する。突っ走る時速50キロの肉の弾丸。しかし一秒にも満たぬ時間の中で真琴は

 ――来た。あとは、伸るか反るか。

 真琴はコンパスを強く握ったまま、待ち構える。そして、

 ――この猪は殺人猪だ。自分を殺すために最短最速で突っ込んでくるだろう。だからこそ避けることができる。

 思惑通り、高速の肉の塊は真っすぐ突っ込んできた。

 ――今ッ!

 真琴は右へ跳んだ。加速した猪は、真琴の左側を突っ切っていく。

 ――ここからだ!

 真琴は左手を伸ばした。猪の体を掴むためだ。

 ――よしっ!

 真琴の左手に、確かな肉の感触があった。そのまま自分の体を引き寄せ、コンパスを握ったままの右の手でも猪を掴んだ。真琴は猪の肉を掴み、可能な限りの力を持って、己の体を持ち上げた。

 真琴は、猪の背に乗った。

 猪は暴れた。真琴の体は何度も宙に舞いそうになった。しかし、真琴はその手を離さず、必死でバランスを取った。投げ出されることも恐ろしかったが、それ以上に猪の表皮が真琴を戦慄させた。

 ――固い。筋肉と、泥で覆われた体毛は、まるで鎧みたいだ。

 体を密着させたことで気が付けた、敵が持つ想像以上に強固な肉体。一瞬だけ、真琴は恐怖に支配された。

 ――通じるのか。できるのか。思った通りのことが。

 その躊躇いに合わせたように、猪は暴れ、真琴を振り払おうとした。眼鏡が吹き飛び、猪が粉々に踏み砕いた。ガラスの砕け割れる音を聞いたとき、真琴は集中が途切れつつあったことを悟った。すぐさま真琴は自分に言い聞かせる。

 ――集中しろ! 離すな! ここで離したら、死んでしまう……!

 真琴を背に乗ったまま、猪は暴れまわった。真琴は何度も投げ出されそうになり、何度も体を木や地面にブチ当てられた。体中のあちこちで、小さな傷口が同時に出来る感覚を覚えた。全身を切り刻まれるようだったが、しかし痛みは感じない。真琴は集中していたからだ。むしろ痛いのは両腕だった。ありったけの力を込めて、猪の背で自分の体を安定させる。

 ――まだだ、まだ安定していない。次の一手は、絶対に外せない。この手を、コンパスを持ったこの右手を思い切り振り上げる時は……。

そして、真琴の狙う「その時」がやってきた。

 ――届くッ。

 真琴は全体重を左手に預けた。そして、ありったけの力を込めて右手を振り上げ、絶叫と共にコンパスを猪の目に突き立てた。猪の悲鳴が上がる。この世のものとは思えぬ低く、おぞましい声だった。そして猪の動きがわずかに緩んだ。

 「今ッ! 今ッ! 今ッ!」

 真琴は声に出した。その時がやってきた喜びと、ここで失敗したら次はないという恐怖が、腹の底から声を上げさせたのだ。真琴はコンパスで猪の全身を突いた。コンパスの針は小さく、まったく弱いものだ。本来なら瞳以外の部分にはダメージは与えられないだろう。しかし、ありったけの力で何度も突くうち、1ミリの穴が1センチになり、1センチが3センチになった。傷口から血が吹き出し、猪は狂おしく暴れた。背中にまたがって自分を刺す、真琴は振り払うために。

 しかし真琴は掴んだ手を離さない。

 ――絶対に離してなるものか。やっと効いたんだ。やっと生き残る道ができたんだ。わずか数センチの傷でも、この傷口をもっと広げていけば、それが突破口になる。助かるんだ。誠二と一緒に助かるんだ。ここで必ず猪を殺すんだ。

 真琴は猪にコンパスを刺し続けた。猪はますます暴れた。地面に顔が激突し、目の前が真っ黒になった。それでも気にせず刺し続けた。何かが顔に飛び散ってきた。猪の血か? 自分の血か? そもそもどうして何も得見ないんだ? 自分の肉が腫れあがっているのか、あるいは目を潰されたのか? 何も分からない。それでも真琴は刺し続けた。もはや作戦もクソもなかった。力尽きるまで、このコンパスで猪を突き続ける。

 肺が痛んだ。内臓が痛んだ。興奮の魔法が限界に達し、全身の無数の傷が痛み始めた。

 だから今度は、真琴は必死で考えた。「倒れてしまおう」「諦めてしまおう」という理屈を退けるために、生きる力を得るために、真琴は考えた。どんな無茶苦茶な理屈でもいい。体を鼓舞して、突き動かすのだ。

 ――このクソ猪め、お前を殺すためなら、なんだってやってやる。私を舐めるなよ。私はお前を殺す存在だ。獣だ、獣になるんだ。猪を叩き殺すのは、熊だ。虎だって猪を殺す。ライオンだって殺せるだろう。自分もそうなるんだ。獣だ、獣になれ。死にたくなければ、獣になれ。私は獣だ。熊だ、虎だ、ライオンだ。

 大量の出血を伴いながら、猪は徐々に動きを止め、その場に倒れ込んだ。

 「うがぁっ、ごごっ」と声にならない声を上げたのは、真琴だった。コンパスを持ち、猪の腹の上に馬乗りになった。そして、

 「今ッ! 今ッ! 今ッ!」

 真琴は、折れ曲がったコンパスを両手に握って、猪の腹に振り下ろし続けた。折れた歯が喉に入ってきた。鼻血で呼吸が上手く出来ない。それでも続けた。殺すか、殺されるか。まだ分からない。猪の動きは止まったが、死んでいると確信できない。だから、

 「今ッ! 今ッ! 今ッ!」

 猪の腹を、コンパスを握った手で叩き続ける。皮膚を突き破る感触があった。内臓に触れる感触があった。生あたたかく、異臭を放つ腸が拳に絡みついてきた。猪の骨の一部が手の甲と擦れ、深い切り傷が出来る感触があった。真琴の体力は、もう限界だった。心臓がキリキリと痛み、呼吸ができず、汗が全身から噴き出した。

 「がぁッ!」

 真琴の咆哮が響いた。真琴の渾身の一撃が放たれたのだ。すると、すでにグニャグニャに曲がった真琴のコンパスが、猪の体内の何か大きな塊を貫き、引っ掛かった。真琴の突いて抜いての運動が初めて止まった。真琴は猪の腹の中に両手を突っ込んだまま、「ぐっ、ぬぅぅくくく……」唸り声を響かせ、コンパスが貫いた塊を引っこ抜こうと力を込めた。ブチィブチチィと肉の管が千切れる音がした。そして――

 「ぎゃッ」

 それは猪の声であり、真琴の声でもあった。真琴が猪のハラワタから振り上げたコンパスは、猪の心臓を貫いていた。真琴は猪の心臓をもぎ取ったのである。

その勢いのまま、真琴は後ろへ倒れ込んだ。ちょうど柔道の巴投げのような姿勢になり、手に持ったコンパスと、猪の心臓が弧を描いて飛んで行った。

 真琴は感じていた。もうコンパスを握る力も残っていない。もう戦えない。しかし、やつは、猪は、もう動かない。地面に放り投げられた殺人猪の心臓は、少しだけビクビクと動いていたが、やがて活動を停止した。

 真琴は、ありったけの力を振り絞って意識を保った。今ここで眠ってしまったら、次に起きることができるか分からない。

 ――死ぬのかな、私。

 一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、それはすぐに否定された。全身が痛み始めたからだ。眠りに落ちる心配はなくなった。耐えがたい痛みが、睡魔を取り払ってくれた。スカートから覗く足はズタボロだ。全身が自分の血と猪でぐっしょり濡れて、真っ黒になっていた。体の中も痛んだ。息を吸うたびに、体のどこからかピキパキと骨が震える音がした。痛くないところを探す方が難しい。しかし、それでも真琴は笑った。

 「生きているし、死なない」

 次の瞬間には、涙があふれ出てきた。

 「勝ったのは私だ」

 声に出す。すると――

 「真琴? 大丈夫か?」

 誠二の声だった。見てみると、足を引きずりながら、誠二が自分の方に向かってきていた。その顔は驚きすぎて、ずいぶんと間の抜けた顔になっていた。

 ――酷い顔、何でそんな顔をして……って、仕方がないか。

 真琴の頭に、理性が戻りつつあった。今、誠二が見ているであろう光景を整理してみる。

 ――腹をカっさばかれた猪と、地面に転がっている猪の心臓。そして返り血にまみれて、大の字で寝転んでいる彼女。こんなのを見たら、間の抜けた顔にもなるか。ああ、それにしても、二人とも無事なんだ。よかった。よかった。

 誠二がゆっくりと、真琴の方へ進む。足が折れているのだろう。何度も転がりそうになりながら、しかし、真っすぐと真琴の方へ向かう。間の抜けた顔は、すでに真剣な顔に替わっていた。一年前に告白をしてくれた時のような顔に。

誠二が猪の死体を踏み越えた。途端に誠二の足から力が抜けて、真琴の隣に倒れ込んだ。

 「僕は大丈夫だ。それより、真琴は? 真琴は、何があったんだ?」

 そう聞かれた時、真琴は説明しようと思った。「あなたが猪に吹き飛ばされた後、私は猪と取っ組み合いをやって、コンパスを武器に使って、猪を解体した」そんなふうに説明したかったが、面倒くさかった。体中が痛いし、体力も残っていない。何より、今はもっとしたい話があった。

 真琴は誠二の問いに答えた。

 「大丈夫、それより……さっきの話の続きがしたいな」

 「さっきの話って?」

 誠二が聞き返す。

 「さっきの、図書館にいたカップルの話」

 「え?」

 「私ね、ああいうのもイイと思う」

 そう言うと、真琴は誠二の手を掴んだ。そして、自分の方へ引き寄せる。やわらかくて、軽かった。その感触に、真琴は思った。

 ――殺人猪に比べれば、なんて楽な相手だろう。というか、殺人猪より厄介な相手なんていないよ。あれを何とかできたんだ。たぶん私は何だってできる。何だって簡単だ。だって私は、殺人猪を殺したんだ。たとえば……そう、ここで今すぐ誠二に本音を話すことだって、大好きな人にキスをすることだって。

 「どう思う?」

 今度は真琴が訪ねた。すると誠二は、

 「僕も……実は、イイと思う」

 その答えを聞いた途端に、真琴の体が動いた。誠二の手を強く握り、引き寄せ、その唇を覆う。どこにそんな力が残っていたのか、自分でも分からなかった。

 人の絶叫と、猪の断末魔を聞きつけた人々が集まって来た。その気配は真琴も感じた。図書館の本棚とは比べものにならないほどの人の気配だ。

 しかし今の真琴には、そんなことはどうでもよかった。誰に見られようが、どう思われようが関係ない。何故なら真琴は、そうしたくてたまらなかったからだ。

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