鮮血の予兆

 砂漠を、 とある男が歩いていた。

 細身で優男風の男だ。砂塵にまみれた亜麻色の髪は、束ねていた紐がぷつりと切れて、だらしなく首筋に張り付いている。青ざめた肌をつうと滑るのは、滝のような汗。鷲掴むように肩を押えた指の隙間からは、血と汗の混ざった雫が滴っている。砂に吸い込まれた朱色は、点々と彼の後を追うように続いていた。

 額に浮かぶ脂汗もそのままに、男は懸命に足を動かす。血の気のない顔色からして、いつ倒れてもおかしくないだろう。本人は走っているつもりなのだろうが、実際はよろめきながら、砂の中をもがいているに過ぎなかった。

 男が向かう先は砂塵にまみれ、何も見えない。それでも、右手にぼんやりと見える街の城壁を頼りに進む。視界が揺れるのは蜃気楼か、それとも意識が朦朧としてきたせいか。遥か後ろでは微かな轟音が響いてる。

 それを耳にしながらも、ともすれば閉じそうになる灰褐色の三白眼を見開き、彼は進む。全てはあるじのために―この国の希望のために。



                ***



「―しこうして、汝アル・シャンマールの若き太陽、ザイド・アル=サレハは、我が国ひいては世界を創造されたみ神の御名において、以下のことを誓約する……」


 アル・シャンマールの壮麗な神殿は、大理石の柱からドーム型の天井の細部に至るまで、繊細なレリーフで彩られている。その最も神聖なる祭壇では、神官に祝福され、婚姻の契りを結ぼうとしている者たちがいた。

 花嫁となるアレス王国の王女・シエナは、先日の衣装合わせからさらに変貌を遂げていた。目にも鮮やかな赤のドレスは、祭壇の下へと続く階段を覆うように広がっている。結い上げたプラチナブロンドが、差し込んでくる陽の光を受けてまばゆくきらめく。瞼に薄く塗られたブラウンのアイシャドウと、大人びた薄紅色の口紅は、今日の花嫁衣装によく映えていた。白い肌に白金の髪―アレス王国の象徴たる容貌を前にすれば、憎き敵と切り捨てるにはあまりに惜しい愛らしさである。そんな彼女はヴェール越しでも気品に溢れ、堂々としているように見えた。


「……汝はこの娘を妃とし、共に国を支え、窮する時も、病に臥せる時も、健やかなる時も―」


 が、実のところは誓いの言葉を耳にしながら、当の本人は気もそぞろだった。ヴェールに隠れて周囲からはこちらがよく見えないのをいいことに、彼女はちらりと神官とは反対方向を盗み見た。赤い花で飾られた長椅子の席には、見知らぬ顔の列席者たちが神妙な面持ちで並んでいる。その中で見知った顔を無意識のうちに探していると、最前列に腰掛けるザイドの父と、彼に腕を貸す大男の姿が目に入った。


 老いた王は、本来なら座っているのもやっとであろうに、杖を手に姿勢を正した厳かな風格である。臥せていた時の弱々しさはどこへやら、しっかりと前を見据え、かつての威厳が見て取れた。

 一方、彼を支えるラジャブと言えば、先程から巨体を揺らし、大げさにもむせび泣いていた。そのせいで悪目立ちしているようだが、これではどちらが父親なのかわからない。そんな大男を呆れたように小突くのは、後ろへ控えた女戦士アイシャである。アル・シャンマールの面々は祝い事には白い衣装を着るのか、後ろに控えた兵士をはじめとして、褐色の肌に白い服が際立っている。

 彼らを除いては、特にシエナの見知った顔はいないようだった。


「―永遠に、この者を愛することを誓いますか?」


 神官の次の一言で、シエナははっと我に返った。目の前に佇むのは憎むべきはずの異国の男。首元まで詰まった赤の衣装には、幾何学模様を象った金糸の刺繍が施されている。普段と印象が異なる彼は、一段と高貴で手の届かない存在のように思えた。その憂いを帯びた深い青の瞳に見つめられると、突如心臓を掴まれたかのような息苦しさを覚える。彼のエキゾチックな風貌にはとっくに見慣れたはずなのに、均整の取れた涼しげな高い鼻も、不思議な色香を纏う唇にも、まともに視線を向けることができない。二人を見守る一同の目が無ければ、彼女はとっくに顔を背けていただろう。

 

「……はい。誓います」


 彼の冷たくも艶やかな声も、その熱を帯びた視線も、シエナを直ぐに見つめているようで、どこか遠くを見ているようだった。互いがいずれ別れるなど分かりきった上で、永遠を誓う矛盾。この場にいる誰にも、秘めた真実を気付かれることはない。そのため、本来なら喜びを噛み締めるべき場面であるにも関わらず、彼女の中には虚しさばかりが募っていった。彼とはひと時を共にするだけと自らに言い聞かせたところで、ぽっかりと空いた心の隙間を埋めるすべなどどこにもなかった。

 一方で、シエナは「誓い」と聞いて、とある記憶が胸中をかすめていた。


『……この命尽きるまで、あるじにお仕えし、あるじをお守りすることを、剣に誓います。』


 アレス王国では、王族には護衛騎士が与えられる。それに倣い、リュシアンもかつては彼女に騎士の誓いを立てた。それは謙虚に誠実に、弱きを助け強きをくじき、主君に自らを捧げるための誓い。そして、あるじを守り、守らせるための契約の証でもある。

 思い返せば、あの誓いはさながら婚姻のようでもあった。生真面目な騎士のことだ。彼女が「護衛騎士の任を解く」とでも言わない限り、彼は何度でもシエナを守るためだけに助けに来ることだろう。事実上は今も変わらず、彼女の護衛騎士なのだから。


(いえ、こんな敵の本拠地まで来られるわけがないわ。できたとしても、どうせまた―)


 仮にあの騎士がこの場に乗り込んできたとして、彼女には素直に喜べる自信がなかった。蛮族と蔑み罵ってきたこの国、ましてや目前の男に心許していると知られたら、どうなるか。彼女に失望して護衛騎士を辞めると言われるなら、それも甘んじて受け入れる覚悟はあった。けれども、盲目的なまでにシエナを信奉する彼なら、どうなるか。あるいは―と考えたところで、彼女の肌がぞくりと粟立った。赤いヴェールで覆われた視界が、そのまま自身の不穏な予感を表すようだ。考えることすら躊躇われる可能性に思い当たると、背中に冷や汗が伝った。


「―永遠に愛することを、誓いますか?」


 気付けば、誓いはシエナの番まで来ていた。

 彼女がいざ口を開けたところで、からからに渇いた喉から出たのは、かすれた吐息だけ。自身の一挙手一投足に注視するように、その場の全ての視線が集まっている。じわじわと居心地の悪さが押し寄せる。何か言わなければ、と焦れば焦るほど、喉の奥が締め付けられるように苦しい。ドレスの締め付けがきついわけでもないのに、息をするのもやっとのほどだ。

 シエナが何も言えないまま唇を震わせていると、褐色の手がすぐ傍まで伸びた。二人を隔てていたヴェールが上がる。と、ゆっくりと慈しむようにこちらを見守る男と目が合った。


「緊張しているのか? 顔色が良くないようだが。」


 そっと耳打ちされた瞬間、吐息に耳をくすぐられ、どきりと心臓が跳ね上がった。真っ赤に染まった頬を悟られぬよう、彼女は即座に小声で抗った。


「気の所為よ。余計なお世話だわ。」

「ならいいが……各国からの要人も来ている。花嫁に倒れられては格好がつかないからな。」

「……。」


 自身への心配ではなく、保身のためか。彼女は少なからずの落胆を覚えたものの、これ以上期待を持たせないように、せめてもの配慮なのかもしれないと思うと、憤る気にもなれなかった。

 長らく続く花嫁の沈黙に、驚きと好奇が入り交じったまなざしが向けられる。おそらく他国の要人には、人質代わりに無理やり結婚させられると思われているに違いない。確かにあながち間違いではないのだが、シエナ自身も納得してのことなのだ。これ以上ザイドに恥をかかせるわけにはいかない、と彼女が決心の末に口を開きかけたところで、にわかに神殿の後方がざわつき始めた。


「おい……なんか外が騒がしくないか?」

「なんだあ? この匂い……煙か?」

「こんな時に近くで訓練か?」


 先刻から微動だにしない花嫁に対する文句かと思いきや、よくよく聞いてみると、どうも違うようだ。喧騒は徐々に波のように拡がっていき、前方の二人の耳にも届いてくる。のんきに構える者もいる中、かすかに響いているのは何かが爆発するような音に、叫び声、怒号。伝令が来られない程の脅威が近づいていると察したザイドは、いち早く声を張り上げた。


「式はいったん中断だ。列席者を別の扉から避難させろ!」


 その言葉を皮切りに、人々は我先にと付近の出入口へ押し寄せた。その誰もかれもが己の身を心配する者たちばかりで、花嫁にはもはや目をくれようともしていなかった。シエナが呆然と立ち尽くしていると、駆け寄ってきた女戦士にさっと腕を引かれた。


「おひいさん、こっちだ。歩けるかい?」

「え、ええ……」


 踵の高い靴のせいでつまずきそうになりながらも、ドレスの裾をたくし上げ、階段を降りる。その間も狭い扉へ我先にと群がる列席者たちと、走り回る兵士が入れ替わり立ち替わり横切っていく。彼女がめまいを覚えつつも、よろよろと歩き出そうとすると、最前列に腰掛けたままの老王が目に入った。彼に付きそうラジャブは流石に肝が座っているのか、不測の事態にもさほど動じていない様子だ。


「なんだなんだ、こんな時に敵襲か? おい、陛下の担架はどこだ?」

「……構わん、ラジャブ。客人の避難が先だ。」

「つってもよお、お前さんが先じゃなきゃどうするってんだよ。ったく、こりゃ俺が背負ってくしかねえみたいだな。」


 ザイドはいつの間にか剣を携え、行き交う兵士たちと言葉を交わしていた。その合間に、ふとシエナたちの方を振り返った。


「ラジャブは父上を。アイシャは姫君を頼んだぞ。」

「あなたは……?」

「俺は民を守らなくてはならない。状況を確かめに行く」

「……そう。」


 何か言いかけたところで、シエナは口をつぐんだ。心配と恐れが喉の辺りでごちゃ混ぜになり、引っかかっている。引き留めたところで何が変わるわけでもないのに、今は素直にザイドを見送ることができずにいた。いくら袖を引こうと、どんな言葉をかけようと、彼はきっと一人で行ってしまう。彼が決して弱くはないことも、戦えない自らがここに残っても、足を引っ張るだけなのも目に見えている。にも関わらず、どこはかとなく胸騒ぎがする理由は、彼女自身にもよくわからなかった。


「案ずるな。ここは十分な兵力で守られている。それよりも早く、アイシャと逃げてくれ。」

「ザイドの言う通りだよ。さあおひいさん、こっちへおいで。あんたに怪我されたらと思うと、あたしたちも気が気じゃないんだ。」


 腕を取ったアイシャの指に力が入る。抗おうと身を引いたところで、ブレスレットがじゃらりと腕を滑り、手首に引っかかっただけだった。


「……でも!」

「ザイドのことなら心配ないよ。あいつはアル・シャンマールの次期王なんだ。誰よりも強いんだよ。だからほら、早く。」


 二度、三度と振り返る。だが腕を引かれるうちに、彼女は気のせいだと自らに言い聞かせ、後ろ髪引かれる思いを振り切った。そうしてシエナが歩き出そうとした、ちょうどその時。

 乱れた息遣いで倒れ込むようにして神殿に現れた人物に、どこからか悲鳴が上がる。途端に、その場にいる全員が動きを止めた。ザイドがはっと息を呑む。その人物の亜麻色の髪や気だるげな顔には、シエナにも見覚えがあった。肩を負傷しているのか、押えた手の甲からぽたぽたと血が滴っている。けが人はそれでも歩み続けようと足踏みし、彼の歩いた後には点々と血痕が残っていた。


「……っ?! カラム、どうした?!」

「ザイド……さ、ま」


 咄嗟に駆け寄ったザイドが手を伸ばすや否や、密偵は安心したようにどさりとその場に倒れた。緊張の解かれた腕はだらりと下がり、今は目を開けているのもやっとのようだ。


「おい、しっかりしろ。何があった? 周囲の偵察に行っていたのではなかったのか?!」


 動揺した主の腕を縋るように取ったカラムは、弱々しい瞬きを繰り返す。彼は傷ついた己を顧みもせず、後悔に突き動かされるように、かすれた声を懸命に絞り出していた。


「……申し訳、ないっす。しくじった、っす。俺……あの人を止めることが……できなく、て。」


 必死に唇を動かす姿は、何とも悲しくも痛々しい。あるじは傷ついた忠臣を抱き起こすと、光の消えかけた灰褐色の瞳を、気も狂わんばかりに覗き込んでいた。


「わかっている。無理にしゃべるな。早く手当てを。おい、ゼフラはどこだ。早く呼んで来い!」


 その努力も虚しく、その目の焦点は刻一刻と合わなくなっている。それでも懸命に言葉にしようとするが、彼の熱意とは裏腹に少しずつ舌が回らなくなっていく。


「……あいつら、とんでもない……武器、を。もっと……早……いて、……げほっ、ごほっ!」


 目を覆いたくなるほどおぞましい光景に、今度こそシエナは凍り付いたようにその場から動けなくなった。傍らのアイシャも、変わり果てたカラムに釘付けになり、愕然と立ち尽くしている。


「なんだい、あの傷。……砲撃にでもあったみたいだね。剣で切られたわけではなさそうだけど……。誰が、あんなひどいことを。それに、カラムは慎重な奴なのに、どうやって……?」


 混沌の最中にも響き渡る轟音は、じりじりとこちらに迫りくるようだ。他に外の現状を伝えてくれるのは、息も絶え絶えの密偵しかいなかった。敵襲にしては足音も少なく、より一層不気味である。全身を回る毒のように、恐怖がつま先まで染みわたっていく。気付けば、シエナは小刻みに震えていた。


「俺が……悪いっす。……ゆ……だん、して……。あの……わかっ……くれ……おも……たんす、けど。」

「無理に喋るなと言っただろう!」

「……あ、レスの、騎士に、気を……そのうち……やつが、来……す。」


 聞き覚えのある語彙が耳に入った瞬間、目を疑った。―アレスの騎士。間違いなく、そう聞こえた。ともすれば、王女たる彼女とは無関係ではないはずだ。それでも、脳裏に浮かぶここにいるはずのない人物と、目前の出来事がいまいち結びつかない。

 否、そうであってほしくないと無意識のうちに願っていたのだろう。これまで片時も忘れることのなかった人物を、このところは忘れていたのではなかったか。敵であることを忘れ、自国をないがしろにしていたのではなかったか。そんな彼女の後ろめたさをなじるようで、吐き気がするほどの悪寒に苛まれる。

 その間も、神殿の外では不穏な物音が響き渡っていた。雄々しく立ち向かっていったはずの叫び声は、爆発音と共にどさりと崩れ落ちる鈍い音に変わっていく。すぐ側で人が傷ついている。その驚異が自らにも迫るかもしれないという恐ろしさに身がすくむ。


 シエナはいつしか、その先にいるのが誰なのか悟っていた。外れてほしいとさえ願った予感は、密偵が放った不吉な言葉のせいで、知らず知らずのうちに確信へと変わっていたのだった。

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アレス武勇詩(ハマーサ) ~捨て駒姫は自由に焦がれる~ 桜井苑香 @sakurai-sonoka

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