プロローグ②
一体何が起こっているのだろうか。
少女は息を切らしながら、ただひたすらに走り続けていた。夕暮れ時、薄暗い街を、北の方向へ。
理由などわかるはずがなかった。何でこんなことが起きているのか、全く理解できない。今、少女を追いかけている男に聞けば答えてくれるのかもしれないが、それは死を歓迎するのと同義だ。
ふと背後を一瞥すれば、男が血走らせた鬼のような表情で追いかけてきている。オレンジ色の作業着に黒いジャケットを羽織った男は、まさに不審者そのものだ。
止まれば死が待ち受け、止まらねば永遠に逃げまとうことになる。流れゆく人々は、何事かと少女と追いかける男を見つめている。警察が目撃してくれれば幸運だが、こういう時に限ってそういう運は働かない。少女は路地裏や住宅街のような入り組んだ場所に入りながら逃げ続けていた。
四月の穏やかな風を感じる余裕などなく、この男から逃げることが精いっぱいな少女はさらに走り続け、気が付けばこの街の二つの地区を分ける境界、
少女の通う高校からこの柳川大橋までは相当距離がある。直線距離でも四キロはあるのだから、随分と長い間逃げ回ってきたということになる。少女は息を切らし、橋の中央でひざまずいた。後ろを見れば、男もまた息を切らして一歩、また一歩と歩いてきていた。どこまでもしつこい男である。
「何なの、あんた……!」
逃げる体力がなくなった少女は男を睨み付ける。
「体力があるな、お前は……」男は半開きのジャケットのポケットに手を入れた。「昔から、変わってない」
「学校終わりのうちを待ち伏せてここまで追い回して……、ストーカーもびっくりだよ」
「偉そうな口を利ける体力は……、あるんだな」
男も相当体力を消費したようで、未だに呼吸が乱れている。
少女は、じりじりと近づいてくるこの男に見覚えがあった。
昨日の夜、少女が宿題を終えてベッドに寝そべりながらスマートフォンを眺めていた時だった。メール機能も備えた世界的に有名なソーシャルネットワーキングサービス、「
“少年院から十六歳の男が逃走”
と見出しがつけられた記事は、投稿からものの数秒で拡散され、大きな反響を呼んでいた。
脱走した囚人は未成年であるため、実名では報道されなかったものの、インターネット上の住人が顔と名前を割り出し、その個人情報という名の
少年は刑務官をなぎ倒し、塀を飛び越えて逃走したと記事には書かれていた。だいの大人がたった一人の少年に力負けするとは考えにくく、何か裏があるのではないかと考えた少女はその特定された逃走犯の顔写真と名前を睨み付けていた。
その逃走犯が、今日学校帰りの少女に突如として襲い掛かってきたのである。
オレンジ色の作業着は少年院の服であるのだ。
「ここまで来るのに、よくも警察に捕まらなかったよね……!」
少女は男を精いっぱい睨み付ける。
「少年院から出てこれたんだ。簡単に警察に捕まったりなんかしない」
男は内側のポケットから一本の注射器を取り出した。
「ちょっと! 何それ!」少女は声を荒げて言った。
状況理解が追い付くとともに、恐怖感が込み上げてくる。この男が持っている注射器は、予防接種で使うものよりはるかに大きい。
中に充填されている液体は危険な薬物なのか、はたまた毒物なのか。
「ちょっとした代物だ。れい、俺は昔、お前にいじめられたんだったよね?」
「はあ? 何言ってんの? いじめてたのはあんたでしょ! うちの教科書に落書きした挙句、上靴に毛虫を仕込んだでしょ!」
「そうだっけか。まあ、そんなことはどうでもいいな。もっと大事な用があるんだ」
「なに……!」
少女は勢いよく立ち上がり、再度走り出そうとした。しかし、踏み出した足は体を支えることができず、滑って転んでしまった。
「痛い……」
「さ、警察が来る前にチャッチャとやってしまうぞ」
男は少女の前に立つと、注射器の針を向けて腕を一度空へ上げた。
「やめて……! お願い……!」
男の悪魔のような笑みが見えた瞬間、少女の視界が一瞬で暗転した。
徐に目を開けると、少女の視界に黒色の学生服が飛び込んできた。
「堕ちるとこまで堕ちたな、田島」
その声の主は、制服を着た少年であった。
「え……」少女は思わず呟いた。
少女は自分の身体が無事であることを確認し立ち上がった。すると、見慣れた少年の左腕にあの太い注射器が深々と突き刺さっているのが見えた。
「にんちゃん!」少女は制服の少年の名を呼んだ。
制服の少年こと
「てめえ……! 何でこんなところに!」
田島と呼ばれた囚人は深々と刺さる注射器を勢いよく引き抜いた。にんの腕から僅かに深紅の雫が滴る。
「脱獄した挙句、れいを殺そうするなんてな。そんなの、俺が許すわけがないだろう」
にんは腕を押さえながら田島を睨み付けた。痛みは強く、にんの表情が僅かに険しくなる。
「殺そうとなんかしてない!」田島は血相を変えて叫んだ。
「じゃあそれはなんだ!」にんも同じ勢いで声を荒げた。
「秘密だ、バーカ」
田島が道路に唾を吐いた瞬間、中央区の方角からけたたましいサイレンと共にパトカーが数台接近するのが見えた。
「ちっ、ポリ公が!」
田島はそのまま橋の柵を飛び越え、街を流れる川を見下ろした。
「田島! 逃げる気か!」にんが取り押さえようと駆け出した瞬間、田島は策を掴む手を離した。
呆気にとられるほかなかった。田島は巨大な川に身を投じ、そのまま姿を消したのである。この川は深く、流れが速いため川の中心部で転落すれば命の保証はない。それでも飛び込んだということは、それなりの勝算があったからなのだろうか、とにんは考えた。
「にんちゃん……」
「大丈夫さ、このくらい。何か注射されたけど、この通りピンピンしてる」
にんは満面の笑みをれいに送るが、れいは笑顔で返事をすることはできなかった。
「……」
申し訳なさそうにもじもじしているれいを見たにんは、沈みかけの太陽に目をやった。
「俺が学校帰りに晩御飯を買いに行ってた時さ。れいがすごい勢いで走っていくもんだから、何事かって思ったんだ。んで、後ろから田島が追いかけてたから、これは何かあると思って追いかけてきたんだ」
「そうなんだ……」
すると、パトカーが三台柳川大橋に停車した。
「さ、警察に事情を説明しよう」
れいはただ黙って頷いただけであった。
悪夢の花が咲く街へ 白いのりとり @shirasagi513
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