第3話

# 恋 # 恋 # 恋 #





 恋は炭酸の味がした。


 なんて、恋愛に全く興味のなさそうな君が衝撃的な言葉を綴るものだから。

 俺は焦ってしまったのだ。


 眺められるだけでいいと思っていた。ただふわふわとそこにあって、いつか消えていくだろう、くらいの淡い感情だと思っていた。

 彼女──吉野あゆみ、という名前の彼女を目で追うようになったのは、いつの頃からだったかはっきりしない。2組にかわいい女の子がいるらしいよ、と友人たちがひそひそやっていて、それで興味を持った。最初はただそれだけだった。

 物静かでおっとりしていて、あまり感情の起伏を表に出さない。一人でいることが多いけれど、一人が好きなわけではないらしい。

 友達といる時に見せる、はにかんだ笑顔が最高にかわいい。


 ……その事に気づいた頃には、言い訳できないくらいに気持ちが育ってしまっていた。

 だからといって付き合いたいとか、声をかけたいとかいうものがあるわけではなかった。これは俗にいうところの『憧れ』なのだと、そう言い聞かせて自分を落ち着けていたのだ。


 あの日、あの文章を読むまでは。



 読書も趣味の一つである俺は、当然のように毎度文芸部の部誌を読んでいた。途中からは彼女のことを少しでも知りたくて読み込んでいた部分はあったけれど、そこまでなら「興味」の域を出てはいないはずだった。彼女の書くファンタジーは重厚で面白かった。純粋に続きを楽しみにして手に取ったその日の部誌に、まさか彼女初の『恋愛小説』が載っているなんて思いもしなかった。


『恋は炭酸の味がした。』


 その書き出しに、俺は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。しばらくその冊子を抱えて呆然とするくらいには、ショックが大きかった。

 彼女は、恋を知っているのか。

 彼女は、誰かにその感情を向けるのか。


 当たり前のその事実に、胸ぐらを掴まれて。

 ああ、そうか。俺は彼女に、名前と部活とふとした仕草しかしらないあの子に、喉の焼けつくような、強烈な炭酸味の恋をしていたのだと、その時初めて気がついた。


 その後自分がとった行動は支離滅裂で、無我夢中だったといっていい。

 いつのまにか彼女を呼び出して告白していたし、あれ? と思う頃にはそれすら誤魔化して強引な約束を取りつけていた。「写真撮影に協力してほしい」などというノープランの出まかせで、よくもまあ彼女が頷いてくれたものだとびっくりする。明らかに不審そうだったけれども。


 ふっと思わず笑みが溢れる。あの時のぱちぱちと瞬きをして驚く彼女も可愛かったな、なんて、これは結構重症だ。


 だからこそ。

 君にもう一度、伝えなければならない。


 文化祭の展示に出す写真を選びながら、俺はその決意を強くした。






# 恋 # 恋 # 恋 #






 文化祭の当日がやってきた。

 ざわざわといつもより人口密度の高い校内をかき分けて、私は目的の教室──写真部の展示がある、視聴覚室を目指して進む。

 朝一に任されていた自分のシフトは終わって、時計は十一時になろうかというところ。藤原くんには昨日会って「じゃあ明日」と挨拶したきりだ。もちろん、というのもおかしな話だけれど、文化祭を一緒に回ろうとか、そういった甘酸っぱい話は一切しなかった。しなかったというよりは、私が自分のことで精一杯になり過ぎて話を途中で切り上げてしまったせいでもある。何か話したりなさそうな雰囲気ではあったのだが、遮ってパタパタと帰ってしまったのだ。とにかく私は、今日この日にどうしてもやろうと決めたことで頭がいっぱいだった。


 なんとか……なんとか完成を見た私の恋愛小説は、それはもう恥ずかしい仕上がりとなった。自分の心情を全て晒して出来上がったそれは、もはや読み方によってはラブレターとでもいうべき形になってしまって、正直頭を抱えた。でもいい。これでいい。私はこれを手渡して、藤原くんに告白しに行く。

 つい最近まで、こんな感情を知られたくないだとか言っていた私がどうして意見をひっくり返したのか。それはまあ、ありきたりな話なのだけれども、ちょっとうっかり藤原くんとお友達との会話を立ち聞きしてしまったせいである。


『なあ朝飛ぃ、俺これ言うべき? 待つべき?』

『いやそんなの、君の好きにしたらいいと思うけど』


 議題は藤原くんのお友達が、好きな人に告白すべきか否か、というところらしい。

 二、三駄々をこねるご友人の言葉を軽く聞き流していた彼は、『でもさ』と呆れるような口調で呟いた。


『俺はそのまんま指を咥えて見てる間に、誰かにかっさらわれるのだけは死んでもゴメンだなと思う』


 ぽつり、と地面に落ちたその言葉に、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 胸の奥から込み上げる熱いものは、炭酸の泡なんて可愛いものではない。あまりに激しくてしんどくて、心臓を掴まれるような衝撃。

 ああそうか、何を勘違いしていたのだろう。彼とはただ、数ヶ月話しただけの間柄なのに。ようやく友達のスタートラインに立っただけなのに。

 この関係が壊れない物だと、どうして疑いもしなかったのだろう。


 藤原くんの隣で私ではない誰かが笑う未来。

 当たり前に起こりうるその事実に、呆然としてしまう自分がいて。いつのまにこんな感情が育っていたのだろうと、とても驚いてしまった。

 自分でも持て余すようなこの気持ちを、相手にぶつけるのは一体どうなんだと思いもする。馬鹿みたいに突っ走って、彼に蔑みの目でも向けられたらと思うとぞっとする。

 それでも。無かったことにするよりは。




 私が部誌を売っている間に買いに来なかった……ということは、まだ読んではいないはず。というか、先に読まれていたら困る。私は胸に抱えた部誌をもう一度抱きしめて、視聴覚室に飛び込んだ。

 衝立に並べて貼られた展示写真の数々が私を出迎える。コンテストに出されたもの、近くの公園に撮りに行ったもの、そしていちばん奥に、今年の投票テーマ展示『恋』と銘打たれた写真たちが並んでいて……



「えっ」



 一枚の写真の前で、思わず、私は声をあげて固まった。

 それは一見、何の変哲もない、上の階の教室から撮られたであろう校庭花壇の写真だ。

 斜め上のアングルから覗き込まれた画面の奥で、花壇の前にしゃがみこんだ女の子が花を撫でるようにして手を伸ばしている。後ろ姿しかわからない彼女は、たぶん、私だ。

 そしてその死角に、捨てられたものなのか、一本のペットボトルがぽつりと寂しく転がっている。

 それには、自販機でよく売られているサイダーのフィルムが巻かれていて──


「あ」


 すっかり聴き慣れてしまった声にはじかれて振り返ると、頬をじわりと赤く染めた彼と目があった。ざわざわと周りに人がいるのに、彼と私だけ、時が止まったかのように動けない。

 藤原くんのそばにやってきた写真部の人が「あさひ、どしたの」と声をかけるまで、二人でしばらく見つめあってしまった。ばっ、と我に帰った藤原くんが二歩、三歩と私に近づいて手をとる。抵抗できずに、引っ張られるまま、走りだした彼の後ろを私がよたよたと追いかける。

 周りの視線も、気にならない。目に入るのは彼の後ろ姿だけ。

 さらさらの黒髪が、少しの風になびく。掴まれた手はやけに熱くて、でもとても優しい。

 ああ、これが恋かと、また一つ私は知る。


 人混みを抜けた階段に来て、ようやく彼は私を振り返った。



「あ、の、ごめん、急に走り出したりして」

「ううん……」


 ちょっとだけ息を弾ませた藤原くんは、口をはくはく開けたり閉じたりして何かの言葉を探している。


「あれ……見た?」

「……うん」

「うん、そっか、」


 あれ、が先程の写真であることは明白だ。いつ撮ったの、とか、何故私なの、とか、聞きたいことは山ほどある。けれどどうしてか、それが口から出てこない。これって、自惚れていいのかな。そんな身勝手な気持ちさえ、むくむくと湧いてくる。


 彼は私の右手を掴んだまま離さない。その右手に、どくどくと緊張の音が、伝わる。

 

「ああ……ダメだ。言おうと思ってたこと全部ふっとんだ。いいやもう」


 小さく笑った彼が顔を上げて、私の瞳を捉えた。


「好きです。吉野あゆみさん。俺と付き合ってください」


 うわ。

 うわ、うわ。


 真っ直ぐに放たれた言葉が、私の心をいっぱいにする。

 胸に溢れる感情が熱い。熱すぎて息が苦しい。これは炭酸なんて、そんなかわいいものじゃない。


「私、も」


 声が震えた。それでも私は、彼から目を逸らさなかった。

 

「私も、藤原朝飛くんが、好きです。読んでくれますか? 物語の続き。私の気持ち、全部込めたので」


 抱えていた部誌を渡そうとすると、ぐらり、と体が傾いた。

 彼に引き寄せられてそのまま抱きしめられたのだ、と気づくまで、ちょっと時間が必要だった。


「あっ、あのちょっと、藤原くんっ」

「読む。後で読む。何回も読む。けど今はこうさせて」


 いつもの優しい声。それが耳元で聞こえるだけで、ここまで胸が締め付けられるなんて。



 恋は炭酸の味がする。

 なんて、分かったようなふりをして書いた。

 まさかその一言が、本物の恋を引き寄せるとも知らずに。

 幸せな気持ちも独占欲も、全てを泡に閉じ込める。甘酸っぱくて息苦しい、だけどやっぱり美味しい、そんな味。


 私にとっての初恋は、大人になってもきっと忘れられない『炭酸』だ。

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恋は炭酸の味がする。 楠木千歳 @ahonoko237

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