第2話

 それからというもの、彼──もとい、藤原くんは時々私を誘いにくるようになった。

 誘う、と言っても、遠出をしたり遊びに行くわけではない。ある日の昼休みには、校庭の花壇で『恋にふさわしい』花探しとアングル選びに付き合った。また別の日は、運動部を窓から眺めて無意味に二人でたそがれてみるなどした。図書室で好きな本について語り合ったり、何度か一緒に下校したりもした。こうやって列挙してみると、まるでデートでもしているかのような錯覚に陥りそうになる。違うのに。全然そんなものではないのに。


 目の前のパソコンを見つめてみる。開いたファイルには、こないだ『つづく』としてしまった恋愛小説の書きかけが鎮座していた。依然として続きは空白のままだ。


 藤原くんに付き合っていたら、何か私の作品にも流用できる部分があるのではないか。そう思って、いくつかのシチュエーションを参考にして書き出してみたのは書き出してみた。のだが、今度は別の壁にぶち当たって筆が止まってしまった。


 だって、やっぱりあまりにも、恥ずかしいではないか。


 夕日に染まる帰り道を二人で歩いた時は、びっくりするくらい手に汗をかいた。緊張で喉の奥に声が張りつきそうだった。それでも「嫌だ」とはまったく考えられなくて、二人の間に落ちた沈黙ですら大切にしたいと思ってしまう自分がいて。

 斜め十五度、見上げてぶつかる視線の先に、夕日を浴びて柔らかに輝く君を見つめてしまった時。


 ああ、恋に落ちたのだ、と思った。


 理由なんてものはない。存在を認識して数週間だというのに、そんなものが芽生えるはずもないと、もし友達の話なら鼻で笑って聞いている。けれどどうしたって、誤魔化しようがないのだ。ただ単純に、彼と過ごす時間は心地よく穏やかで私のしあわせなもの、だった。降り積もった暖かい感情に名前をつけるならそうなった、というだけの話だ。たぶん。

 

 すすめられたとはいえ、知らなかったとはいえ、何故こんなものを書き始めてしまったのだろう。

 自分には経験もない。語彙力もない。

 はずだったのだけど、今は逆に、このざわりと心の波打つ感触を言葉にするのが難しい。


 恋は炭酸の味がした。

 なんて、知らずに書いたけれどその通りだった。

 思っていたよりももっと強烈で、苦しい方がずっと多いけれど。

 息をするその先に君の姿が見える時、ふわりと浮き上がる自分の心が、まるで泡のようだなんて。


 間違っても、本人に知られたくはない。


 藤原くんは私の見えている景色を知りたい、と言ってくれたけど、むしろ今は私が、彼に見えている景色を知りたい、と思う。藤原くんにとっての恋とは、どんなものなのだろう。撮影現場には居合わせているのに、彼は「当日のお楽しみにしておいて」などと言って頑なに撮った写真を見せてくれない。

 藤原くんは写真のアングルを決める時、よく両手の人差し指と親指で長方形を作って、それを覗き込んでいる。指先で作った窓の向こう側に、いったいどんな景色を切り取っているのか。


 私も同じようにしてみたら、見えるのかな。


 ふと些細な興味が湧き起こって、私は両手を自分の前に持ってきた。

 右手を向こう側へ、左手をこちら側へ。そうやって互い違いにして、歪な長方形をかたち作る。どう頑張っても、きちんとした四角になることはない。その長方形を、自分が先ほど入ってきたパソコン室の入り口に向けてみる。

 自分の視界が、少しだけ狭くなる。片目をつぶって、中を覗き込んだ。枠の外の風景は、ピントがぼけて見えるような気がした。

 なるほど、こうやって世界を『作る』のか。私が小説を書く時に表現を選んでいく作業と、少しだけ似ている。

 余計なものはぼかして、大事なところを切り取って。けれど余韻は残せるように、最新の注意を払う。

 どれくらい指先の景色を眺めていただろうか。


 ふいにガラリと扉が開いて、その先に思いがけない人物が現れた。私は思わず「ひゃあ」と情けない声をあげて固まった。


「あ、吉野さん。どうしたの」

「ふ、ふふふ藤原くん」


 ここにいるって聞いたんだけど、と現れた藤原くんは、私が作った指先の四角に気づいたらしい。ずんずん近づいてきて、指の窓枠からひょい、とこちらを覗き込む。


 ぶわり、と顔に熱が集まるのを感じた。

 近い。近い近い。なんだこれ。


「なにしてたの?」

「あの、えっと、これは、うん」


 言えない。藤原くんの世界を覗き見したかったなんて、恥ずかしいを飛び越えてドン引きだ。言える筈がない。

 答えられない私をよそに、彼はふは、と声を出して笑った。私を覗き込んでかがんでいた体を起こし、私と同じように指先でカメラを作る。


「『ファインダーの向こうに、君の心が見えればいいのに』──なんて」

「え?」


 一瞬、心を読まれたのかと思った。思わず聞き返したら、彼は指先のカメラを解いてそっぽを向いた。


「そんなセリフ、使えそうじゃない? どう? 使ってよ」

「え、あ、ああ……小説の話」


 それ以外、ないというのに。

 私は今、何を期待したのだろう。


「……主人公、写真部じゃないよ」

「そうだね。写真部じゃなきゃ言わないか」


 ファインダーなんて単語、使う人少ないかなあ、などと藤原くんは笑っている。私は心臓のあたりをぎゅっと掴んで、この苦しさが逃げていくのを待った。

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