恋は炭酸の味がする。
楠木千歳
第1話
恋は炭酸の味がした。
なんて、分かったようなフリをして書いた。
まさか本当に、やけつくように喉が痛くて。ちょっと息が苦しくて。弾けていく爽やかな香りに、胸が痛くなったりするなんて。
私はそんなこと、ちっとも知らなかったのだ。
「あーゆーみ。ぼうっとしてないで。ほら、部活いこ」
ふっ、と思考が現実に引き戻される。
友達の菅原香織が、呆れ顔をして教室の入り口に立っていた。
「あ、うん。ごめん」
「もー、文化祭も近いんだし、やることいっぱいあるんだから。急いで急いで」
慌ててカバンに荷物を詰めて、香織の元へ急ぐ。彼女の待つ廊下へ出れば、ざわざわとせわしなく歩くたくさんの生徒たちがいた。
彼女は同じ文芸部に所属する、数少ない友人のうちのひとりだ。どちらかというと口下手で、無口になりがちな私のよき理解者でもある。勝手に私が親友認定しているだけかもしれないが。
「今日は美術部と表紙の打ち合わせをして、印刷の確認作業ね。あゆみの原稿は……まだ無理そう?」
部室へと続く階段を降りる。私と香織の足音が、同じリズムで響いていく。
「……ごめん、あと少し……」
「まあ、無理しなくていいよ。もうちょっと時間あるし。どうしても書ききれなかったら、この間まで書いてたファンタジー作品の続き載せてもいいしさ」
「……ありがとう」
ああ、情けないな。友達に気を遣わせていることも、締め切りを守れなかったことも。ちょっとした後悔に苛まれながら、私は階段を一番下まで降りて、部室への道をとぼとぼ辿る。
文化祭で発行する部誌に載せる、その予定の短編が書ききれない理由なら、ある程度見当はついているんだけど。まだ友達にそれを打ち明けられるほど、私の心は強くない。
文芸部副部長、という肩書きが、今は少々重苦しい。
ガラリ、とその部屋の扉を開ければ、見慣れた白い長机とたくさんのパソコンたちが待っている。放課後、部室として使わせてもらっているこのパソコン室は、実質活動人数が四人の文芸部にはもったいない広さだ。便利なのでありがたく使わせてもらっているけれども。先輩も後輩もまだ来ていなくて、今日は私たちが一番乗りだった。
「あ、あゆみ。もしよかったら、原稿のつづきやってていいよ。美術部は私が行ってくるから」
「え、あ、でも」
「ほらほら、原稿第一。終わってない人は遠慮しない」
「うっ」
それを言われるとつらい。香織はてきぱきと必要な書類をカバンから取り出して、「がんばれー」なんて声をかけて出て行ってしまった。
たぶん、一人にしてくれたんだろう。私が集中して書けるように。
ありがたい反面、どうしたって一人になると思い出してしまうのは『彼』のことだ。
私はため息をついてパソコンの電源を入れた。
『吉野さん、あの、付き合って欲しいんです』
あれは、ひと月ほど前になる。二学期が始まってすぐの頃のことだ。
誰もいない教室へ呼び出されて緊張気味に伝えられたその言葉に、私はまんまと勘違いをした。
「え、あの、わ、わたし?」
目の前にいる彼は、話したこともない隣のクラスの人。顔と名前しか知らない、知人以下の男子だ。
確か、藤原朝飛くん。同じクラスになったことはないけど、朝を飛ぶと書いて「あさひ」と読むなんて、カッコいい名前だなと思ったから覚えている。
眉毛にかからないくらいの黒髪に夕日が当たって、柔らかな茶色に見える。優しさが滲み出ている雰囲気をまとっているのは、ちょっとタレ目気味な顔だちのせいだけではないだろう。
二人の間に静寂が横たわっていた。小説の主人公のようなシチュエーションだな、などと、脳みそが一瞬現実逃避した。
なんて答えたらいいんだろう。断る、断らないの選択肢の前に、戸惑いと焦りの方が勝ってしまう。この人が、私を好き、ってこと? えっと、何で? というか、付き合うって、どういう意味だっけ。何をするんだっけ。
たぶん、その静寂は一瞬のことだったと思う。けれど彼はその静寂にはっとして、慌ててぶんぶんと首をふった。
「いやその、なんていうか! ああいやその、うん。そんなに構えなくていいんだ。ちょっと……文化祭で使う写真撮るのに、付き合ってほしくて……」
「あ、なんだ」
思わず何も考えずに声が出た。
そうか、写真部なのか。よく見れば彼の手元には一眼レフと呼ばれる立派なカメラがある。
「文化祭の記録用ってことだよね? うち、四人しかいないし当日もブースが賑わうとはあんまり思えないけど」
「い、いや! 活動記録で撮らせてもらうのはもちろんなんだけど、そうじゃなくて……写真部で毎年、コンテスト用の写真のほかに投票制のテーマ展示やってるのは知ってる?」
彼の質問に、私はコクリと頷く。写真部の人たちが同じテーマで写真を撮ってきて、匿名で展示する毎年大盛況の企画だ。参加者はいいと思った写真の番号を書いて投票し、文化祭最終日の結果発表で一位だった人にはささやかな景品がでるらしい。去年のテーマは確か「秋」だった。通りすがりだったけれど、私も一枚の写真に投票した。
「その企画、今年のテーマが『恋』なんだけど……まあ、恋っていっても、例えば自分の好きなもの、部活で愛着があるもの、みたいな感じでもいいんだけど」
「な、るほど?」
「でも実は俺、6月の文芸部の部誌に載ってた『恋は炭酸の味がした』っていう一文に、めちゃくちゃ、ときめいてしまいまして。もうそれが、忘れられなくって」
「え」
いや、待って待って待って。
その一文、私が書いた小説の書き出しなんですけど。
今度は違う意味で焦る。彼は私の冷や汗に気づかず、一生懸命にその魅力を語ろうとしてくれる。
「俺の中では恋っていうと、もっと『チョコレート』みたいに甘ったるいか、『ピンク』みたいなどぎつい単語しかなくて。なんか違うな、しっくりこないなと思ってたところに、『炭酸』っていう比喩がぴったり当てはまったというか。うわ、これだ、みたいな、もうそれは衝撃だったというか、むしろその一言に恋をしたというか」
「うわああああああ!」
突然奇声を上げた私に、びっくりして彼は言葉を止めた。
これはまずい。私の顔はゆでだこを通り越して火を噴きそうだ。真っ赤になった頬を夕日のせいにすることもできない。手近な机に置いてあったノートでそっと顔を隠す。
「あの……あれを、読んだんですか」
「うん? 文芸部の部誌は毎回欠かさず読んでるよ」
なん、だっ、て。
あまりに、あまりに恥ずかしすぎるでしょう。
六月のあれは、私が初めて書いた現代恋愛ものだったのだ。いつも冒険ファンタジーしか書かないから、たまには違うジャンルにもチャレンジしてみたら? と友人に勧められて、なんとなく書き始めただけの。
初恋さえまだの私にはとてもハードルが高かった。少女マンガやら恋愛映画やらを参考にしてみたはいいものの、最後まで書ききれなかった。主人公たちはすれ違いっぱなしだし伏線も張りっぱなしで結局回収できないまま、『つづく』と未来の自分に後編を託してしまった。
そんな、そんな中途半端な作品を、いや、中途半端で世に送り出してしまったのは私なのだけど。部誌なんて読んでいるのは顧問の先生と身内くらいなものだと思っていたのに、こんな真っ向から感想を言われる日が来るなんて思いもしないではないか。
「『話しかける前に、ちょっと息を吸って一回止める』っていう描写があるでしょ。あれとか本当に、まるで炭酸を飲んでいる時みたいな──」
「そ、それ以上は!」
もうダメだ。これ以上はもたない。命がいくつあっても足りない。
「恥ずかしすぎて、死にそうなので……う、嬉しいけど、その、ありがとう、だけど……」
消え入りそうな声でなんとか振り絞った言葉に、藤原くんは一瞬だけきょとんとして、それからふわり、と優しく笑った。
「よければ、吉野さんに見えている景色を知りたい、なんて思うんだけど」
「私に見えている景色って……大したことないし、あれはあくまで、聞きかじりで書いたもので、完結できていない未完成のシロモノで……」
「じゃあ、一緒に探してみない? 物語の続き」
俺は最後まで読んでみたい、なんて、君が当たり前のように言うものだから。
気づけば、私は首を縦に振ってしまっていたのだった。
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