魔がさす

はちやゆう

第1話

 ヨハンは画家になりたかった。各地を旅してはその風景を絵画にし、働くことをしなかった。自分の描いた絵は売れると信じていたが、彼の絵はついぞ売れたことはなかった。

 この日、ヨハンは国境の街にきていた。嶮しい山が国境を挟んでいたが、交易は盛んで、街は活気にみちていた。ヨハンは貴族の屋敷、地主、商人の家に絵を売りこんでまわった。しかし、よれよれのシャツとズボン、汚れた革靴の姿では門前払いだった。ここでもヨハンの絵は売れなかった。


 ヨハンは耐えがたい空腹に襲われていた。そのときに市場の店先にあったバゲットがヨハンの目にとまった。ヨハンは革財布をとりだし硬貨を確認した。わずかに足りない。パン屋の店主はとなりの果物屋の主人とおしゃべりをしていた。間が差しただけであった。ヨハンの右手はパンを掴んでいた。盗んだだけならば、彼の境遇を考えると、罪は重いものではなかったのかもしれない。しかし、パンを盗んだヨハンを追ったパン屋の店主がたまたま通りがかった馬車に轢かれてしまったのだった。ヨハンは振りかえりその光景を目にしながらも、国境に向け走りだした足はとまらなかった。


 山道を慣れない靴でもうずいぶん登っていた。すっかり日は落ち、山道はわずかな月明かりが照らすのみでほとんどなにもみえなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、ヨハンは自分のおこないを悔いていた。あの店主は無事であろうか、無事であったのなら、真摯に謝罪をすれば赦してもらえるのだろうか、いや、もし無事でなかったのなら、あの事故はわたしの責任になるのだろうか。あれは事故なのに。パンを盗んだばっかりに。あのとき戻らなかったせいで。さまざまな思いがヨハンのなかを駆けめぐり、それが足元の注意をうばい、なんどか転げて服は泥だらけになっていた。ヨハンを追ってくるものはいなかったが、もう戻ることはできないと考えた。ヨハンはこのまま国境を越えることを決意した。


 山頂が国境だった。ヨハンは国境を越え、麓の街に向かった。ヨハンが麓の灯りを頼りに山道を下っていると、麓の灯りとは別のなにかの灯がみえた。それはおそらくはランタンの灯であるように思えた。その灯はこちらにむけて登ってきているようだった。

 こんな時間に山にくるなんて夜盗かもしれない。ヨハンは最初こそ身震いしたが、自分から奪えるものはその命よりほかはなく、もはやその命さえ自分に価値のあるものではない、と開きなおってからは堂々としたものだった。

 ヨハンは山道の真ん中を歩いた。橙の灯が近づく、男たちの話し声が聞こえる。ヨハンはなにも持たなかった。もうどうにでもなってしまえと思っていた。だが、その男たちの声が近づくにつれ、逃げ出したいという本能が心の奥底からせり上がってくるのを抑えることはできなかった。逃げよう。そう決めたヨハンがからだを反転させたとき、地面がヨハンに近づいた。

 腰が抜けてしまった。道のど真ん中でヨハンはしりもちをついた。男たちは近づいてくる。ヨハンは陸に打ちあげられた魚のように口を閉じたり開いたりしていた。もうだめだ。殺される。男たちのわらい声がした。目を瞑った。だれか。助けて。

 「動かないで、静かに」

 恐怖で言葉がでなかった。目を開けると、灯りが三つ揺れていた。ヨハンは羽交い絞めにされ、あやつり人形のように、路肩の林に引きづられ投げ捨てられた。

 「静かに」

 耳元で男がささやいた。ヨハンはなにが起こったのかわからず固まっていた。やがてランタンを片手にもった男たちがすれ違った。男たちのもう片方の手には槍が携えられていた。青いおそろいのチョッキを着ているのが見えた。男たちの野太い声がした。

「いまなにか音がしなかったか」

「そりゃあ、山なんだし獣もいるだろう」

「なんだってこんなとこにおれが・・・・・・」

「どこにいてもおまえは同じこというだろう」


 大声で談笑しながら男たちは国境のほうに登っていった。男たちの声が遠くなるとヨハンは大きく息を吐いた。顔面蒼白だった。あれは夜盗ではない、衛兵に違いない。国境を挟む山を馬かなにかで迂回して国境の向こうから追っ手を差向けてきたのだとヨハンは直感した。

 青年は山道の木の陰に隠しておいた大きな袋からランタンをとりだし、なかのろうそくに火を灯した。銀色で天使の装飾がされた立派なランタンだった。

「どうして君はこんなところにいるんだい」

 山道には不釣合いな仕立ての良いコートを身にまとった青年だった。彼はヨハンにたずねた。

 ヨハンは自分の置かれた絶望的な状態から、言葉を発することができなかった。

「こんな時間に、それに泥だらけじゃないか」

「あなたこそどうしてこんなところにいるんだ」

 ヨハンは質問をオウム返しすることが精一杯だった。

「ああ、僕かい。お恥ずかしい話だが、麓の街のご婦人といい仲になってよろしくやってたんだがね、婦人が帰ってこないといっていた夫が突然の帰宅。寝取られ夫はたいそうなご立腹でね、わたしは斧をもったやつに追いまわされて、命からがら街を抜けてきたってわけさ」

 軽薄な口調は、おそらく彼は敵ではない、とヨハンにそう思わせるに充分だった。

「それで、君はどうしてまたこんなところに」

 青年は再び同じ質問をした。ヨハンはどのようにいったものか答えあぐねた。

「わ、わたしも似たようなものさ。文通相手が麓の街にいてね。お互いに会う約束をしてたのだが、思ったよりたいへんな道のりでね、いつの間にか夜になってしまうわ、ずっこけてしまうわ・・・・・・今夜の約束だったのだけれど、もう時間を過ぎてしまっているかな」

 ヨハンの声は震えていた。話をあわせて適当な嘘をヨハンはついた。嘘がバレてしまわないか、ヨハンは不安だった。青年の顔を凝視した。

「なるほど、なんの準備もせず情熱のまま走り出してしまったわけだ」といって軽薄な口調の青年は笑った。

 どうやら嘘はバレていないらしく、ヨハンは安堵した。

 青年はこちらをみてすこし考えるようなしぐさをして言った。

「うむ。だとしたら、君のその格好はちょっとまずいんじゃないかな。彼女はまだ待っているかもしれない。せっかく恋した相手に対面するのに泥だらけというのもね。困難な道を君のために歩いてきましたっていうのはたいそうなロマンスかもしれないが、それはあくまでこちら側の都合で、相手にしてみたら、そんなのは知ったことじゃない。君は苦労したかもしれないけれど、それを語るのはいちいち野暮だろうよ。こっちだけで勝手に盛りあがって、相手が興醒めなんてことになったら、目も当てられない。もう仕立て屋も開いてはいないだろうし、どうだい、よければ僕の洋服を貸そうじゃないか。翌日の日没に麓の街の広場で待ち合わせしよう」と彼は言った。

 ヨハンは嘘をついていたので、後ろめたい気持ちだった。青年には助けてもらったうえに、洋服をだまし取ることにもなってしまう。迷っていると青年は続けた。

「僕のことは気にしないでくれていい。そろそろ寝取られ夫も落ちついたころだろう。もう少し星でもみたら、自分の家にもどるさ。君の服も洗濯しておいてやろう。明日、乾いているかは天気次第だがね、生乾きになってしまっていても文句はいうなよ」

 ヨハンと軽薄な口調の青年とでお互いの服を交換した。パンを盗んで、パン屋の主人を殺してしまったかもしれない自分は、今度は恩人に嘘をつき、その嘘の辻褄あわせに高級な衣服をだまし取ろうとしている。さらに衣服を取り替えることで、おそらくわたしが追っ手に追われることはない。このわたしを助けてくれた青年が衛兵に捕まることになってしまうかもしれない。そう思うとヨハンは罪悪感にかられずにはいられなかった。もし仮に青年が捕まってもすぐにひと違いであることが判って衛兵から解放されるだろう。わたしはその間に街を抜け、またどこか遠くにいかなければならない。そのようなことを考えながら着替えているとヨハンは暗いなかでズボンを前後裏返しに履いてしまった。青年はそれをみて愉快そうに笑った。

 ヨハンは泥だらけのみすぼらしい服を着た青年を、青年は仕立てのいいコートを身にまとったヨハンを、お互いにみた。対照的ないでたちだったが、その足元の靴は両者汚れたものであった。

「じゃあ、また明日」ヨハンは言った。

「また明日。あとで洗っておくから」といって青年は樹のない脇道に、泥だらけのヨハンの服で、仰向けに寝転がった。


 麓の街の家々のやわらかい灯が街の広場をあわく照らしていた。ヨハンは広場の中心にある井戸から水をくみ上げ飲んだ。そして石畳の段差のうえに腰を下ろした。夜が明けたらこの街もあとにしよう、もっと遠いどこかへ、と考えていると、ヨハンはなに者かが自分をみていることに気づいた。視線はひとつではなかった。ヨハンはまわりを見回した。ぐるりとまわりをみると、ヨハン以外の全員がヨハンをみていた。


 まもなく手に槍をもった三名の衛兵にヨハンは囲まれることになった。

「賊が。もう逃げられないぞ」黒い髭をたくわえた衛兵がヨハンに言った。

「な、なんのことでしょう」ヨハンは震える声ですっとぼけた。

 広場にはヨハンと衛兵を中心に人だかりができはじめていた。

「しらを切ろうといってもそうはいかないぞ。こちらには目撃者がなんにんもいる」衛兵はそのように言い、一人の女に手招きした。

 女は黒と白の給仕服に身をつつんでおり、ヨハンは見たこともない女だった。

 女は衛兵のほうをみて大きく頷き、ヨハンを指さして言った。

「こいつで間違いありません。屋敷から逃げたのは、こいつで間違いありません」

 ヨハンはなにをいっているのかわからなかった。屋敷ということはどこかの貴族の家のメイドなのだろうか。ヨハンは記憶をたどろうとたずねた屋敷を思い出したが、心当たりを見つけることはできなかった。

 女は続けた。

「こいつが屋敷に忍び込んで、旦那様を殺して、宝石と旦那様の服を奪い、屋敷から出て行ったのをあたしはみました。こいつの着ている服は旦那様のコートです。それがなによりの賊の証拠です」と言った。

 ヨハンは口をあけたまま、言葉を失っていた。言われていることの意味は理解したが、どこか他人事のようにその意味がからだのなかに入ってはこなかった。女の言葉が自分のことをさしているという実感がまるでなかった。

「そんなはずはない。わたしはなにもやっていない」ヨハンは自分に言い聞かせるように口にだした。

「嘘をいうんじゃない。その立派な服はなんだ。それに比べその汚れた靴はなんだ」と髭の衛兵が怒鳴った。

「そんなはずはない。わたしはなにもやっていない」ヨハンは広場にいる全員に訴えた。ヨハン自身が驚くほど大きな声だった。

 それに気圧されるように一瞬、広場は静まった。静寂を破ったのは住民の声だった。

「旦那様があの服を着ていたのをみたことがあるぞ」

 一つそのような声があると次々に住民は声をあげた。

「あいつが屋敷から出てくるのをみたぞ」

「おれはあいつが屋敷に忍び込むところをみた」

「そうえばあいつの顔には見覚えがある。屋敷のまわりをうろついていたぞ」

 住民の証言が増えるにつれヨハンを弾劾する空気は熱を帯びた。やがて住民はヨハンを糾弾するのに熱狂した。

「証拠もある、証人もいる、もう言い逃れはできないぞ」と言って太った衛兵が槍の切っ先をヨハンに向けた。

「国境の山で男と出会い。お互いの衣服を取り替えたのだ。自分の身にやましいことはなにひとつもない」とヨハンは顔を高潮させ叫ぶように言った。

「嘘をいえ。こんな夜に誰が山道を渡って国境をこえようと思うものか。もしそんなものがいたら、やましいことがあるものだけだ」とのっぽの衛兵は言った。

「国境に向けた衛兵たちがいたはずだが、すれ違わなかったか」髭の衛兵はヨハンに聞いた。

「す、すれ違わなかった」とヨハンは答えた。思わず髭の衛兵から目をそらした。

「この嘘つきめ。山から麓に下ったのならばすれ違わなければおかしいはずだろう」と髭の衛兵はヨハンの態度をみて問いただした。

「いや、夜盗かと思い隠れたんだ」ヨハンは言い訳をした。

「嘘つきめ。いますれ違わなかったといったであろう。すれ違っているではないか。それならばすれ違ったときに衛兵とわかったはずだ。なぜ声をかけなかった。衛兵と山を下ればそれこそ夜盗に襲われる危険もないであろう」

「恐怖で思いつかなかったんだ。やましいことはなにもない。信じてくれ」ヨハンは目に涙を浮かべた。

「やましいことはなにもないならば、なぜわざわざこんな時間に国境を越えてきた」とのっぽの衛兵は再び質問した。

 ヨハンは弁明が裏目に出ていると感じ、自分の罪を懺悔した。

「わかった正直に話そう。わたしは国境の向こうの街でパンを盗んで逃げてきたのだ。やましいことがあるから逃げてきた。それなら道理が通るはずだ」

「嘘つきが。パンを盗んだぐらいで国境を越えて逃げてくるものがいるものか」

「パンを盗んだときにその主人が馬車に轢かれてしまったんだ。たまたまでわたしのせいじゃない。わたしのせいじゃないのだが、怖くなって逃げてきたのだ。だからわたしはやっていない」

 突然の罪の告白に、広場に集まった住民がざわついた。

「そんな都合のいいことがあるものか」広場を囲むものたちのなかから声がした。

「ほんとうなんだ。信じてくれ」ヨハンは誰ともなく声のほうに向かって言った。

「ではその服はどこで手に入れたのだ」と髭の衛兵が言った。

「交換したんだ。山でおそらく強盗の犯人とお互いの服を交換した」

「なぜ」

「嘘をついたんだ。この麓の街に女がいるといったらその男が親切を装って服を交換してくれたんだ。信じてくれ」

 ヨハンが訴えかけるも、住民は誰一人としてヨハンのことを信じてはいないようだった。あからさまに呆れているような仕草をするものもいた。そのひとりは髭の衛兵だった。

「なるほど。よくもまあ出来の悪い嘘を次々と。しかし、もしおまえがいうことが本当だったとしても、いずれにしろおまえは罪人じゃないか。もういい。ひっ捕らえろ。証拠と証言がおまえの罪を証明するだろう」髭の衛兵は二人の衛兵に命令した。


 山の獣の鳴き声は、この夜、街には届かなかった。祭りの夜のように、広場は明るかった。しかし、そこに陽気な賑わいはなく、あるのは正義の嵐であった。その中心には三名の衛兵と両手を後ろでに縛られた男ヨハンがいた。

「嘘つきが」

「人殺し」

「罪をわびろ」

 住民はヨハンにありとあらゆる正義の言葉を浴びせた。ときには石を投げるものもあり、その石が時どき衛兵をかすめた。

「石を投げるならしっかり狙え」と衛兵は言った。

「話を話を聞いてくれ。ぼくはやってない。やってないんだ」

 懸命に無実を、真実を、正義をヨハンは叫んだ。ヨハンにはもういっぽうの正義の言葉と時どき石が返ってくるのみだった。誰か話を聞いてくれるひとを探してヨハンは広場をみわたした。広場のはしの木に寄りかかってこちらをみている男がいた。ヨハンはみすぼらしい服を着た青年をみつけた。

「みつけた。あいつだ。あいつと山で服を交換した。あいつが殺した。あいつが殺してぼくに罪を着せたんだ」ヨハンは後ろ手に縛られながら狂ったように声をあげ、顎で青年のいるほうを差し、もがいた。

「また嘘か。いい加減にしないか」

 衛兵は暴れるヨハンの顎を槍の柄で殴った。ヨハンはたちまち昏倒した。

 昏倒する寸前にヨハンはみた。屈託なく笑う青年とその足元の靴の赤いシミを。

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魔がさす はちやゆう @hachiyau

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