第3話 私という人間の実存について
仔犬というのは存外に忙しい生き物だ。お腹が空いたらお乳を飲む。お腹がいっぱいになったら眠くなる。眠って起きたらお腹が空いている。
やがて母犬がお乳をくれなくなった。
私は離乳食を与えられるべき時を迎えていた。
だが悪徳ブリーダーのやつめは、そんな丁寧なことはしてくれない。
決まった時間に固形のエサをドドンと皿に盛っておく。それにわらわらとサモエドたちが群がる。サモエドはかなりの大型犬なので、皿の周囲はすぐに埋め尽くされてしまう。
仔犬の私たちはおとなの犬が去るのを待つしかないが、犬というのは猫と違って、ごはんを残すということがあまりない。のんきに待っていたら取り分がなくなる。
そこで私は、果敢にも皿に向かってゆく。
行動するというのが、いちばん大切なことであった。
犬たちの間には仲間意識があるから、幼い私が懸命に皿に向かって突進しているのを見ると、私がお腹を空かせているのを分かってくれる。だから、スペースを空けてくれるのだ。
初めてもふもふの巨体が私に道を譲ってくれた時には、思わず私は感涙した。私は最大限に尻尾を振って犬たちに感謝を示しながら、食べつけない固形フードをがっついた。
こうして私はなんとか生き延びることができていた。
せわしなく時が過ぎる中、私は合間を縫って、三つ目の問題について考えていた。
・心身一元論をとる場合、転生という現象をどうとらえるか。
これは難問だった。
心身一元論と転生は明らかに矛盾する。
そして心身一元論は正しい。
となると、転生の定義を変えればいいのだと、私は気づいた。
実存という概念がある。
人間はどのように現実的に存在するのか。
人間はただ存在するものではない。
自分自身の存在を常に問い続けるような存在である。
そのような存在のあり方のことを実存という。
これにのっとると、存在とはその時々の各人の認識によるものだと考えられる。非常に流動的なものなのだ。不変の存在などはない。
人間の細胞は次々と新しいものに置き換わっているが、人間はその身体を自分自身だと認識している。
不幸な事故で体の形が大幅に変わったとしても──たとえば片足が急になくなったとしても、人間は自分自身の存在を見失うことはない。足があったはずだとは思うが、足がなくなったら自分ではないとは思わない。
これと同じだ。
私は人間の体を持っていたはずだ。それが何故だか犬の体になってしまった。しかし体が犬の形になったからといって、私は私が私ではないとは思っていないのだ。
転生とは、精神が元の身体を離れて、別の身体に乗り移ったようなものだと考えていた。だがそうではない。
どちらの体も私なのだ。別のものではない。私が私になった。ただ体の形がちょっと変わったに過ぎない。
こう考えれば、私の経験した事件は、心身一元論と矛盾しないのではないのだろうか。
続いて、四つめの問題を見ていきたい。ええと、確か。
・犬であるということは、人間であるということとどのように違うのか。
人間の実存というものは、当の本人によって知覚されることによって成り立っている。これはつまり、人間が己をどのように認識するかについて、五感が大きくものを言っていることを意味する。
私の言いたいのは、「人間が自分自身を知覚する」ことと「犬が自分自身を知覚する」ことの間には、大きな隔たりがあるのではないかということだ。
犬の知覚。
人間であった時は視覚がおそろしく優位的であった。とはいえ、犬の目でものを見るのに違和感はない。この感覚は私が犬として生まれた時からきちんと段階を踏んで得たものであり、ちゃんと私の体に馴染んでいる。
嗅覚もそうだ。犬になってから、匂いはこうやって識別するものであると知った。それを人間の言葉で表すのは難しいが、犬の言葉ではちゃんと分かっている。
このような知覚を持つようになったことは、私の中では非常に大きな事件だ。知覚の体系が犬になってしまった。そういう意味で私は疑いようもなく犬だ。
幼児だった頃を思い出す。
人間は自分にまつわる過去の記憶を覚えているが、その当時の実存にについて、まるまる覚えているのではない。
現実にあるのは、そういう過去を持っている自分という存在が、常に新しく定義され続けている、という事実のみだ。
過去の存在のあり方と、現在の存在のあり方は、常に違う。幼児の頃の実存と、大人になってからの実存は違う。しかしだからと言って、私が私でなくなることはない。
私は確かに過去において、ヒトとしての知覚を通して己を認識し、そのように実存していた。現在は、イヌとしての知覚を通して己を認識し、やはり私として実存している。
実存のあり方こそ違うが、私は私だ。
ここで、初心にかえって、人間という言葉を再定義したいと思う。
人間とは考える葦である。
私は考える葦である。
よって、私は人間である!
見事な三段論法だ。
ヒトであろうがイヌであろうが、私という人間は実存するのである。
人間である私、という大きなくくりの中に、ヒトであった私と、イヌであった私が、共存している。
ヒトとしての実存と、イヌとしての実存は、確かに違う。しかしいずれも、人間としての実存なのだ。
私は考える。考え続ける限りにおいて、私は人間なのだ。
ここでこれまでのことを確認したい。
・私の体の形がちょっとイヌの形に変わるという事件があった。
・イヌとしての知覚を通して、私という人間が実存する。
かくして、五つめの問いに対する答えもおのずと出てくる。
・私は犬であるか、人間であるか。
・私は犬でもあり、人間でもある。
「キャンキャン」
私は嬉しくなって、じゅうたんの端にかじりついた。
ひとしきりじゅうたんを引っ張ったあと、寝そべりながらじゅうたんをカミカミした。
口の中でほつれてゆくじゅうたんを噛み締めながら、何だか私は安心したのであった。
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