転生哲犬~人間は考える葦だと言われているが、そのことについて考える私が犬に転生してしまった件について;私の本質は犬なのか、それとも人間なのか~

白里りこ

第1話 転生という概念について

 私は犬であるらしい。名前はまだない。

 私はこの家の中で生まれた。この家の中のことしか知らない。

 私はここで初めて――いや厳密には初めてではないのだが、とにかく人間というものに会った。


 しかも後で聞くとそれは悪徳ブリーダーという人間の中でもいちばん獰悪どうあくな種族であったそうだ。しかしその当時はなんという考えもなかったから、べつだん恐ろしいとも思わなかった。ただ彼に取り上げられてコロンと転がされた時に、なんだか悲しいような感じがあったばかりである。


 さて転がされた私は考えた。どうやら私は犬であるらしいと。目の前に、己の母親がいる。それから、生まれたばかりのきょうだいたちが。

 彼らはうごうごと力なく手足を動かしているように感じられた。ミイ、ミイと泣いているそやつらは、母親のお腹の中にもぐりこんで、我先にとお乳を飲みだした。


 ここにきて私は思い知った。ここは弱肉強食の犬の世界であると。さっさと私も母親のところに行かないと、お乳の取り分がなくなってしまい、生まれ落ちて早々に餓死する羽目に陥ると。

 そこで私は遅まきながら、己の心もとない四肢を懸命に動かして、母親のもとまで這って行った。


 それからしばらくは、己が生存することにのみ、集中していたように思う。飲んでは寝て、飲んでは寝てを繰り返した。そのようにしてただ生存していく中で、やがて私は鼻で嗅ぐことを知り、目で見ることを知り、立って歩くことを知り、きょうだいたちとたわむれることを知った。そして私は徐々に確信を持って行った。


 私は、どう考えても犬である。

 だが、考える犬とは、これ如何に?


 その時、電流のように、私の脳裏にはっきりと去来したものがある。


 以前は私は人間であったという記憶である。

 しかも私は人間の中でもとりわけ厄介な種族――哲学を学ぶ人間であった。


 私はかつて、哲学に感心を持つようなひねくれた一人の学生であった。それが何やら不幸な事故に遭い、気が付いたらこうして犬として生きていた。

 こういった経緯、および己が感覚からして、私は人間から犬に転生したのだと考えるのが、妥当である。


 転生!

 これは重大かつ不本意な問題だ。


 だいたい、心身二元論――心と体がべつべつのものであるという考え方は、今ではほとんどの学者によって否定されている。私は哲学を学び始めてまだ日が浅いはずだが、このことはさすがに知っている。

 「我思う、故に我あり」で有名なデカルトはここでいう「我」を精神的なものとして捉えていた。しかしデカルトのこの二元論的な側面は、スピノザの登場によって完膚なきまでに否定されてしまった。

 スピノザは、精神と身体は不可分であるという説を支持した。以後の西洋哲学はこの流れの中で論じられている。これ以降の説はこの潮流の中で生まれている。


 哲学は真理を求める学問だ。

 古い説を新しい説が乗り越えることによって、人間の考えはより真理へと近づいていく。

 完全に否定されてしまった古い説というのは、科学的にも誤りだということだ。


 つまり何かというと、心身一元論は、間違いなく真理に近い考えである。そして、心身二元論は、である。


 本来不可分であるはずの魂が体から引きはがされて、別の体にのりうつるという現象は、科学的におかしい。


 転生という現象は、本来この世界にありえない。


 だが実際問題として、私は人間から犬に転生してしまっている。


 これではまるっきりファンタジーである。ないものをあるとして仮定するならまだしも、ないものがあるものとして。この事態を哲学的にどう解明すべきか。


 この「実際にある」「現実的に存在する」つまり「実存」という課題についてはのちのち考えることにして、今は転生問題だ。

 とにかく異様なことに巻き込まれたのは間違いない。


 私は考えるべきことを大急ぎで整理した。


 ・転生とは本当にある出来事なのか。

 ・転生以後の世界では転生前の世界と同じ法則がはたらくのか。

 ・心身一元論をとる場合、この現象をどうとらえるか。

 ・犬であるということは、人間であるということとどのように違うのか。


 ああ、書きものができる手と道具が欲しい……。

 そう願ったところで、グウと私の腹が鳴った。

 これまで感じたことのないような、猛烈な空腹感におそわれる。


 そうだ。ゴチャゴチャ難しいことは抜きにして、現に私は今、しがない一匹の仔犬である。考えすぎては、腹も減る。


 私は頼りない足取りで、母親の犬のもとまで駆けていった。

 走りながらも考える。思えばこの四肢の感覚もずいぶんと犬に慣れてしまった。あたりを取り巻く世界も、犬としての知覚を通してしか認識できない。

 何より、私はかつてよりもいっそう弱い存在となった。数時間おきに母親に栄養をもらわねば、生きてゆかれない体に。

 

 ――人間は、自然のうちで最も弱い、一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。


 有名な哲人、パスカルはこのように述べている。


 人間は大きな宇宙に比べると、途方もなくちっぽけで矮小な存在である。しかし人間は考えるという行為によって、宇宙をつつみこむことができるのであり、その点において宇宙よりも尊い。

 考える力こそ、その人間を尊厳のある人間たらしめるものだ。


 私は今もこうして、考えている。

 だが、私は犬である。

 

 私は小さな脳の片隅に、メモを一つ付け加えなければなるまい。


 ・私は犬であるか、人間であるか。

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