自由な人
中原恵一
自由な人
昔、僕がIM(インスタントメッセンジャー)――つまりインターネットで無料で音声・文字チャットができるソフトウェア――で外国語を勉強していたころ、知り合いの中に日本語が異様に上手い人がいた。
その人は日本語以外に何ヶ国語もしゃべる人(話しによると十ヶ国語ぐらいは会話なら問題ないそう)で、しかも何語をしゃべっても一瞬ネイティブと聞き違えるほど上手い。初めて話したとき、僕は彼が日本人で僕をからかっているのだと思ったぐらいだ。
しかしそれは、僕が知り合いの中から日本語をしゃべれる中国人やフランス人を連れてきてグループ会話をしたときも同じだった。異口同音に「こいつは嘘つきで、でなければ天才だ!」という。おそらく、耳がすごくいいのだろう。
今でも彼のしゃがれた笑い声を時折思い出す。当人は三十歳独身だ、と言っていたが、どう聞いても五十代ぐらいだった。そして後に奥さんがいることも判明した。
僕は彼を尊敬していた。彼のようにたくさんの外国語が話せたら、どんなに自由だろう、と思った。
しばらく話して仲良くなり、夜毎に連絡を取り合っていた。彼は日本語のスラングやら方言に詳しかった。日本語をタイプする分にはほぼ完璧で、間違いのほうが少なかった。
ただ漢字については手で書くのが難しいが、読めはするのだという。
「あなたでも漢字を書くのは難しいのか」と言ったら、「まあ、俺の母語はアルファベットだからね」と快活に笑っていた。
やがて三ヶ月ぐらい経って、夏になった。
今度は音声通話が中心になった。「最近字を打つのが億劫になってね」と、相変わらず渋い声で言った。僕は額面どおりにその言葉を受け取って、英語や色々な言葉について教えてもらっていた。
僕は二週間、ヨーロッパ旅行に行くことにした。
有給休暇と夏の盆休みをギリギリまで使い切って、二週間。じゃっかん短いが仕方ない。
今まで訓練した語学の腕試しと、各地を回るついでに彼の家を訪ねようと思った。
もう既に彼の家が東欧のとある国にあることを知っていた。(あるとき、手紙を書きたい、と言ったら住所を教えてくれたのだ)
しかし当の彼は声色を変えて、来るな、と一言口にしてきたのみだった。前日まで、旅行の話をしても取り合ってくれなかった。
僕はただ、彼がどんな人なのか会ってみたいと思っただけだった。
実を言うと、知り合いは彼だけではなく、他にもいるペンパルや大学時代の留学生たちも訪ねるつもりだった。
そして旅行がはじまり、成田からまずイタリアのナポリ国際空港へ飛んだ。
夏の地中海沿岸は非常に暑かった、ということを覚えている。
そこから、さまざまな観光地を巡った。
僕は海外に行くのははじめてではないので、友人数人(彼らも数ヶ国語を喋る人たちだった)とも無事合流でき、卒なくスケジュールをこなすだけだった。だが、頭にずっと彼のことがあった。
七日目、旅行開始から一週間後、僕は電車で国境を越え、友人と「すごい男がいる」ということについて談笑しながら、彼の祖国へ入った。ほとんど全部のページにスタンプが押されて、ぼろぼろになったパスポートを握り締めて。
一言で表すと、田舎。
農場と平屋の家屋、あとはいかにもヨーロッパの森と平原、といった感じだった。
東洋人が珍しいらしく、コンパートメントに座っていると他の客にジロジロこちらを見られた。白人の車掌に「キタイスキ?」とロシア語で訊かれたが、彼はすぐに「Chinese?」と言いなおした。「ヤー・イポンスキ(日本人だ)」と答えると、彼は、ふん、と言って何か意外な表情をした後、そそくさと去った。ロシア語ができないと思ったのだろう。
暫くして、とある小さな駅で僕は下車した。本当に何もないところだった。
ただ駅構内から出ると、それなりに車は走っていたし人もいた。民家の白壁と、教会(どの宗派なのかは分からない)、偉人と思しき銅像、モスクも建っていた。
友人と道を聞きながら、ようやくその小さな安アパートの一室にたどり着いた。
正直、貧しい、という外観の建物だった。
ノックすると、年配の女性の声がした。わずかに語気が荒いように思ったが、ドアを開けて我々を見るなり、あっ、と一瞬驚いた顔をした。
数秒もしない内に、現地の言葉でさっと何かを口にした。後で友人に聞いたら「あー、夫がいつも話してるあの日本人ね、遠いのによく来たわね、ありがとう」などということを喋っていたらしい。とにかく彼女の表情は、笑ってはいたものの硬かった。
彼女に案内されて、狭い廊下を通ってある一室に通された。
そしてはじめて、我々はベッドに横たわる全身不随の中年男性を目にすることになった――
想像より彼は小さく縮んでしまって、以前くれた写真のころよりも明らかにやつれていた。
寝たきりの彼の腕には、点滴らしき管が何本か痛々しく突き刺さっている。
ベッドにはテーブルがついていて、上にはパソコンが一台。
複雑にコードが絡みあっていて、どうやら音声認識機能があるらしい。
三年前の交通事故のせいで首から下が麻痺し、脳も損傷したらしく後遺症で最近は失明寸前だという。
彼は我々が部屋に入ってきたとき、言葉を発しようとして口を開こうとしたが、ためらったのか何も喋らなくなってしまった。
奥さんは目に涙を浮かべて、「彼が自由でいられるのは、インターネット上で人と話しているときだけで、このごろはあたしが来ても、出て行け、としか言わない」と言った。友人は臨時の通訳をしながら、押し黙ったまま横たわる彼を悲痛な面持ちで見つめていた。
僕は、彼の語学学習に成功した秘密を、こんな形で知ることになってしまった。
自由な人 中原恵一 @nakaharakch2
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