スペース・オランウータン20XX

@1gho

人外魔境にて

「これはいったい……どういうことなんだ?」

 バートランドはひどく狼狽した。

 彼らの目の前には四散した人体があった。それらは幼児用のブロック玩具、もしくはペッツのように無邪気に捩じ切られ、連続性と機能性──かってそこにあったはずのほっそりとした造形美を破砕されていた。表面積を削ぎ落し、以前よりもはるかにすっきりした胴体から連なる頸部はぐるりと螺子のようにひだを重ね、あらぬ方向へと固定された顔面は恐怖に塗り潰されている。質の悪いゴム人形のように限界まで変形したそれは、紛れもなくアーロンのものだった。

「そんな、どうして……」

 かつて同僚だった生命の残骸を前に、バートランドは掌を頬に押し当て、力なく声を漏らしていたが、

「これは……事故、ではないな」

 オディオールの冷静な声色にはっと我を取り戻す。

 そうだ。この凄惨なまでに損壊された人体は、偶発的な事故で起きたとは思えなかった。となれば、人為的なそれが介在すると思われたが──。

「だとしても、誰が……?」

 殺人事件である。それはたしかに常識を逸した現象だが……しかしここが地上なら、そういうこともありえたかも知れない。……。

 バートランドとオディオールの眼前を、球体化した水の球がふよふよと頼りなく通過した。その球はどす黒い赤褐色に彩られ──それは損壊したアーロンの身体から漏れ出た血液だった。重力のくびきから解き放たれた赤血はその場に流れ溜まることなく浮遊し、表面張力によって球状に変形する。

 それは無重力が支配する国際宇宙ステーション〈エッシャー〉内ではありふれた光景だった。

 とりあえずふわふわと浮かび、パーツ毎に漂いだしたアーロンの身体を申し訳程度に毛布を被せ、これ以上ちらばらないようにロープで固定した。それが適切な処置なのか自信がなかったが……もとより、無重力下でのバラバラ死体への対処法などマニュアルに載っているはずがなかった。

 ともあれ、ふたりはアーロンの行動履歴を洗い出す。ステーションの計器が異常を検知したのがおよそ二時間前。通常、十センチ以上のデブリに関してはあらかじめ地上のレーダーによって監視しており、接近が予測されると基地自体の軌道を変更するためまずぶつかることはないのだが、それでも計器は重量の増加を検知していた。

「きっと計器の誤検知でしょう。そうじゃなかったら、ひと足はやくサンタクロースが挨拶しに来たのかもしれないわ──」

 そういって宇宙服を着込んでアーロンは船外調査へと乗り出したのだが──結果はあの通りだ。バートランドは網膜に焼き付いた惨状を想起する。死体は宇宙服ごと捩じ切られていた。船外へと乗り出すアーロンは数人のクルーが確認しており、だとしたらステーション内に戻ってきたところで彼女は殺害されたことになる。

 いったい誰が、どうやって──?

 バートランドたちは泳ぐように浮遊しながら連結された各ノードを移動して、ほどなくして他の乗組員が集まっているであろう実験モジュールへと辿り着いた。狙い違わず、船長コマンダーを務めるレベジェフとダンは微小重力と微小対流を用いた宇宙実験に取り組んでいた。ふたりは丁寧に断って実験の中断を促し、船長たちに今しがた目の当たりにした惨劇のありさまを淀みなく説明する。

「信じられない……! ああ、生神女よ──!」

「そんな……! あの誰よりも陽気でお茶目だったアーロンさんが、どうして……!」

 目にみえて色を失うレベジェフとダンを尻目に、オディオールは顎先を撫でながら問いかけ「疑っているわけでないのですが、おふたりはいつからここに?」

「アーロンを見送った後、それからずっと僕たちはここで作業をしていました」

「作業、っていうと……」

「ええ、無重力下でどれだけ人間のお尻に異物が入るかを、船長自ら実験体になって実践されていました。ダンベルのあと、優勝トロフィーを半分くらいまでは入れることが出来たのですが、その先は──」

「間違いない。ダン君の身の潔白は私が保証するよ。もっとも、私の後ろの純潔は永劫に失われてしまったがね……?」とレベジェフは意味深長に口角を持ち上げてみせた。

「なるほど。非常に興味深い答えです」

 オディオールは頷く。いちおう、レベジェフとダンのアリバイは保証されたというわけだ。互いに嘘をついているのでなければの話だが……。

「ちなみに、俺とオディオールは居住モジュールでエクササイズに勤しんでいました」と先んじてバートランド。

「間違いないのかね?」

「ええ、オディオールのやつがヒートアップし過ぎてエルゴメーターを派手にぶっ壊しましたからね。居住モジュールに三等分になった機材がまだ浮かんでいるはずです」

「皆の共有物を、すまない……」

 恥じ入るようにして、オディオールは膨らんだ頭髪をぽりぽりと掻いた。

「ここにくる前、オディオール君はオリンピック候補だったからな。無理もない。……しかし、だとしたら──」

 レベジェフは目を細める。巌のように刻まれた彼の懸念の意味を、一同は理解していた。アーロンが他殺されたとすると、残る容疑者はあと一人で……。

 誰ともなしに地を蹴って居住モジュールへと向かう。

 非番のヨショットのもとへ──。

「そういえば、ヨショットさんは……」

「ああ、日頃からアーロンと折り合いが悪かった」

 空間をスライドしながらバートランドは首肯して、ただでさえストレスのたまりやすい閉鎖空間での暮らしである。いつも上機嫌で笑みを絶やさないアーロンと比べて、どちらかといえばヨショットは陰気な性格だった。性格の不一致のためか、ふたりが激しく諍う光景はクルーが何度も目撃していて──特に決定的だったのは二日前、休憩中にVtuberの配信を観ていたヨショットにアーロンが「それってけっきょく、陰キャ向けのキャバクラよね?」と心ない言葉を掛けたのだ。それが致命的な契機となった。

「なによ! いつも誰彼構わず色目を使って! いつもいつもいつもいつも……他の連中と一緒にあたしのことを馬鹿にして、蔑んで……宇宙ステーションの『姫』ってやつ? さぞかし良い気分でしょうね!」

「違う! 私はただ、あなたにもっと私のことを見て欲しくて……!」

 口論はいつしか取っ組み合いの大喧嘩へと推移し(何故だか執拗にヨショットの口元に顔を寄せ、頭突きするような素振りをみせるアーロンの姿が目撃されていた。「顔面へのヘッドバットは効果的な戦法だ」とオディオールは冷静に分析している)、あやうく必要以上に責任を感じた船長が潔く自死しようとして──ともかく、ヨショットにはアーロンを殺害するだけの理由があった。

「仮にこれがクルー同士の殺人事件だとしたら、国際法的にはどうなるんですか? その、……?」

 道すがら、ダンの疑問にレベジェフは答えて「国際宇宙ステーション内では各国における現行法は適用されない。基本的にはクロス・ウェーバー──いわゆる当事者同士の『紳士協定』の範疇に収まるが……しかし、殺人は重罪だ。とりあえず地上に報告して指示を仰ぎつつ、この悲劇を引き起こした真犯人はしかるべき処置がくだるまで拘束することになるだろう」

「なるほど……!」

 果たして、一同はカプセルホテルよろしく壁面に埋め込まれた個室を取り囲むようにしてその場に浮遊する。蜂の巣のようにみっちりと敷き詰められ、恐るべき殺人者を内包しているであろう個室群は死体留置所の冷たさを内包していた。

「おい、ヨショット。話がある。ここを開けろ。開けてくれ」

 オディオールは声を張り上げるが返事はない。

「おい、寝ているのか? 大事な話があるんだ。ヨショット、返事をしろ!」

 待てど暮らせど、ヨショットから返事はなかった。

 オディオールはバートランドと顔を合わせて、直後、強行突破することにした。

 ふたりは強引に個室の扉に取り付き、それを強引に押し開けた。直後──、

「うおっ──!?」

 猛烈な勢いで空気が移動し、反射的にふたりは扉を封鎖した。

 肩で息をしながら、バートランドは顔を見合わせて、

「今の、って……?」

「ああ、間違いない……」

「くそっ、一体全体、どうなってやがるんだ……?」

 バートランドは全身から吹き出た冷や汗を拭い、間違いない。個室の壁面には、「」が空いていた。ほんの一瞬だったため正確な大きさはわからないが、それでも人ひとりが通れそうな大きさは余裕であったはずだ。無論、そこにいたはずのヨショットの姿はなかった。

「ヨショットさんはアーロンさんを殺したあと、壁に穴をあけて、逃げ出した……とか?」

「馬鹿なことを言うな、ダン」オディオールは自身に言い聞かせるように続けて「宇宙服の準備もなく、生身で外に逃げたのか……? あんな狭い個室の中にはヘルメットやバックパックは持ち込めるはずがない。そもそも外に出て、それからどうする? 行き先なんてない。真空に包まれた死の世界か、あるいは引き摺られれば最期、空力加熱で骨まで焼き尽くす大気の層があるだけだ。つまりこの考えは……ナンセンスだ」

「だとしたら……いったい……?」

 ダンは押し寄せる不条理に困惑して、突として、彼の股の下からずぼりと毛むくじゃらの腕が差し伸ばされた。勢いよく突き出された腕は床面を貫通し、赤褐色の体毛に覆われた腕の先にある掌はダンの股間をむんずと掴み取っている。

「は……?」

 おおよそ理解し難い光景を前に、ダンはひどく呆けた声を漏らし──それが彼の最期の言葉になった。音もなくダンは下方から湧いて出た腕にずるりと全身を引き摺られ、そのまま姿を消した。悲鳴はなかった。真空中では音波は伝播しないからだ。

 今しがた穿たれ、ダンが消えた孔から先ほどと同様に大気の流出が始まる。与圧壁から空気が抜け切れるまでまだ猶予がある。降り注ぐアラートを浴びながら、粛々と閉鎖モジュールの閉鎖が始まった。

「ダン!」

 ダンが消えた先へ慌てて駆け寄ろうとするバートランドをオディオールは手で制し、

「──諸君、力の限り逃げるんだ!」

 レベジェフの鶴の一声で、撤退が始まった。ひとまず、三者は勢いよく反転して居住モジュールから離れるが、しかしこの閉鎖環境下で、何処へ──?

「なんだ、あいつ? あの『毛もくじゃら』は……ゴリラか?」

「いや、あの体毛色と腕の細さは、おそらくチンパンジーか、あるいはそれに類した……」

「どっちだっていい! なんだって宇宙にエテ公がいるんだ! ああ、くそっ、俺は狂っちまったのか……? 畜生……!」

 バートランドの疑問ももっともである。なんだかわからないが、常識を逸した異常事態が加速度的に顕現しつつある。それを体現するかのように、明滅する非常灯が彼らの全身を小刻みに深紅に染め上げている。

「船長、あいつは一体……?」

 端から解答は期待していなかった。それでも、なにかしら納得できる答えを求めてしまうという自身に埋め込まれた脆弱性にオディオールは苦笑するが、

「……聞いたことがある」

 意外にも、レベジェフ船長には心当たりがあるらしい。

「冷戦時、かつての祖国が繰り返していたという宇宙開発実験の一環で、公表されていないものがあったという」

「ああ、あのライカ犬の……」

「多くは秘匿され、歴史の闇に葬られたが……中には宇宙戦闘を想定して人為的に改造を加えられた動植物もあったらしい。その多くはそのまま宇宙空間に廃棄され……恐らく、あれはその時に生み出された、恐るべき殺戮兵器ヴァイナー・ムシーヌイ……」

「だったら、その実験の中で生まれた軍用生物が、我々を襲っていると……?」

「馬鹿言え! 宇宙ステーションは秒速七.七キロの速度で飛行しているんだ! 五十年以上真空中に放り出されていた猿が、俺たちのステーションに追いついてきただって!? そんなことがあるわけ……」

「かつて、祖国のロボ超人の中には一二〇〇万パワーを発揮する者もあったという。それが事実なら──ウヒャーッ!?」

 刹那、船長の身体は吸い込まれるようにして横方向へスライドした。

「船長!」

 船長の全身は複雑に配線とパイプが交差する通路の奥間へと引き摺り込まれ、めきめきと、筋骨が軋むような異音が壁面の向こうから聴こえてきた。続けてばりばりと、筋線維と頭髪、その他の部位を毟るような擦過音が漏れ聴こえ──、

「うっ」

 思わずバートランドは呻く。眼前にゆるやかに浮流してきたのは無数の歯と眼球、それと数珠繋ぎになったビーズだった。それらは赤色の球形を伴い、つんと濃厚な鉄の臭いが鼻孔を刺激する。

「気をつけろ。来るぞ──!」

 オディオールは警戒して、続けざまに、船内の狭い隙間から這うように長い体毛に覆われた怪生物がするすると身をくねらせながら二者の前に姿を現す。

 あたかも蠕動するまだらの紐のように、体毛のみならず全身をロープ状に纏め上げたそれは全身の筋骨をばきばきと鳴らしながら元の形状へと変移させ──、

「──ぃおーっ、ごぉーっ、ごぉー……!」

 果たして、絶え間なく降り注ぐアラートと深紅のランプモニタを引き連れながらオディオールたちの前に顕現したそれは類人猿で──殺戮に飢えたオランウータンが、牙を剥き出して咆哮した。

「こいつが……!」

 オランウータンの顔面にはフランジと呼ばれる発達した「頬だこ」があった。オランウータン内のヒエラルキーを現わすその部位は同族を持たない宇宙空間内では虚しくその存在感を誇示するだけで、冷戦時代から宇宙空間を漂い続けてきた人類の汚点は殺意に濡れ、威嚇するように喉袋から異音を発する。

 人類活動の最極地である宇宙ステーション内で見えた人間と人類遠の間に一触即発の空気が充満するが──先に動いたのは人類だった。

「こなくそッ──!」

 すかさずバートランドは勢いよく床を蹴ってオランウータンの背後に回り、一か八かの攻撃に転じる。

「やめろ! バートランド! 無茶だ!」

「うおおぉーーーッ! どうにかなれーーーッ!」

 バートランドには格闘技の覚えがあった。養蜂家業を営んでいたかつての祖父から受け継いだ忌まわしき殺人格闘術──〈バリツ〉。その封印を、ここで解く──! 

 バートランドは背後から殺意に濡れた手刀を捻じ込み、憎っくきこの殺戮オランウータンの心臓を抉り出そうとしたが、しかし──ぱかんと、バートランドは顎先を真上へ向け、そのまま顎から上の部位をはらはらと撒き散らしながら勢いよく浮上した。

 オランウータンの後ろ脚が──ソ連が誇る暗黒生物バイオ工学によって植え付けられた異常脚力によって、銀色の流星よろしく跳ね上げられた後ろ足の一線を浴びせ掛けられたやすく絶命したのだった。

「バートランド……!」

 オディオールの眼前には船長の残骸と絶命したバートランドの亡骸が浮かび、彼らだけではない。アーロン、ダン、そしてヨショット。国家の威信をかけて送り出された宇宙飛行士たちが無惨に殺害されたのだ。目の前のこのオランウータンに……!

「もはや、ここまでか──」

 ひとり残ったオディオールは肌身離さず隠し持っていた戦斧をそっと取り出し──宗教祭具と言い張ってステーション内に密かに持ち込んでいた人類最後の武器を構える。

 奇しくも、オランウータンの属名である〈pongo〉はオディオールのルーツであるアフリカ大陸で発見された「人型の怪物」に由来するという。──そう、「怪物」だ。

 この世ならざる世界から送り込まれた魑魅魍魎。それがこれだ。

 地上から四百キロ離れた領域に媚びりつく、前時代から続く人類の罪悪に絡め取られた悪しき魂──それを精霊の世界へと送り返すのが彼の最期の使命なのだと、そのようにオディオールは悟っていた。

「さぁ、こい!」

 オディオールは戦斧を持つ手に渾身の力を込め、殺戮オランウータンの身体が無重力の中を滑るようにして迫った。



 その日、夜を引き裂くようにして無数の流星が地上に降り注いだ。

 原因不明の事故によって爆発四散した宇宙ステーション〈エッシャー〉の残骸は世界各国で観測された。〈エッシャー〉が爆発四散する直前、地上の宇宙センターにクルーによってなんらかのインシデントが報告されたが、原因の究明には至っていない。

 観測された破片の一部はパリ郊外のとある街に落下したらしいが、その行方は名探偵も知らない。

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