眠れるようになった俺はひさしぶりにあった君とアップルパイを作って食べる

くれは

アップルパイの約束

 久しぶりに会った真夜まやは、相変わらず夜空のような黒い瞳と夜の中に溶け込んでしまいそうな長い黒い髪をしていた。けれど暑い夏の空気の中で彼女は長い髪を後ろで束ねて透き通った花の飾りがついた髪留めでまとめている。

 夏の強い陽射しに負けることなく彼女の髪はきらきらと輝いていた。

つくるくん、顔色がよくなってる!」

 開口一番、俺の顔を見て真夜が笑う。自分でもその自覚はあったし、なんなら目の前の真夜だって同じだ。顔色だけじゃない。輪郭も少し柔らかくなっていて──つまりは前よりずっと健康そうだった。

 そもそも俺と真夜が顔を合わせていたあの頃は二人とも不健康のどん底だったのでそれに比べたら大抵の状況は健康的になってしまう気がするのだけれど、それを考慮に入れても劇的な変化だと思う。お互いに。

「真夜もな」

 夜の中で息を潜めるようにおやつを食べていたあの頃とは違って、俺たちは陽の光に晒されてもそれを跳ね返せるくらいに強くなっていた。




 アップルパイを一緒に作って食べる。真夜とそれを約束した時、その未来はこないのかもしれないと思っていた。きっと真夜も同じだったと思っている。それでも俺たちは約束をしたし、そのおままごとみたいな約束にすがって生きてきた。

 ちょっとしたことがあって真夜は少し離れた親戚の家に引き取られていった。真夜の状況は改善して、それと共に夜中に公園で会うこともなくなって、それっきり。

 連絡先は交換したし連絡も取り合っていたしなんなら自撮り写真も送られてきていたから彼女の状況は知っていたけど、それでもこうやって並ぶ林檎を見比べてはしゃいでいる様子を目の前にしてほっとする。

 彼女にせがまれて自分の写真も撮って送っていたから彼女もきっと同じ気持ちだと勝手に思ってる。自撮り写真とかみんな普通に撮るものなんだろうか、とても恥ずかしい思いをしたのだけど。でもまあ彼女に自分の無事を伝えられていたのならそれで良いか、なんて思ったりしていた。

 林檎はどれを選ぶ? レモンも使うの? パイシートってどこにあるの? バニラアイスはどれ? 高いの買っても良い? この大きいの買うの?

 近所の、別にどうってことないスーパーの買い物で、真夜ははしゃぐ。久し振りに会った緊張で俺はうまく喋れなくなっていた。いや、久し振りじゃなくて夜じゃないからかもしれない。前は夜中の公園の街灯の灯りだけの暗い中だったから喋れていただけなのか。

 そうやって思い返して、やっぱりそれも違うなと考える。もともと俺はあの夜の公園でもそんなに喋っていなかった。ずっと真夜のお喋りに引っ張られていただけだった。

 セルフレジで精算して二人で袋詰めして、そんなことすら真夜は楽しそうにやっていた。




 俺の家の台所に真夜をあげる。二人でエプロンを着ける。エプロンの紐を首にかけて腰の後ろで紐を縛る彼女の姿を横目に見てしまう。エプロンの紐がかかったうなじ。ほっそりとした──でも以前より丸みを帯びた腰。

 俺の視線に気付いたのか真夜が俺を振り返って首を傾けた。俺は気まずさに目を逸らしてエプロンの紐を掴む。変に慌てたせいで結び損ねて、解いて、もう一度結ぶ羽目になる。

「それで、最初は何をやるの?」

 二人で手を洗って、その手を拭きながら彼女がそう言った。俺は頭の中で手順を思い浮かべる。

「林檎のフィリングを作って、冷やして……あ、パイ皿も冷やしておいて……オーブンは……あ、違う、だから最初は林檎を切って、あ、それだと刃物使うけど」

 自分一人で作った時には迷うこともなかったのに説明するとなると言葉が出てこない。しかもうっかりしていたけど刃物を使う。真夜は刃物が駄目だったはずだと思い出して溜息をついた。

「ごめん、刃物使うこと忘れてた」

「え、ああ……」

 真夜は俺の言葉に、なんでもないことのように笑った。

「そうだね。わたしはまだ駄目だから……そこは創くんお願い」

「俺が使ってるの、見てても平気か?」

「んー……多分? 自分が持たなければ大丈夫だと思う。でも、こっちには向けないでね」

「無理はするなよ」

「ありがと、大丈夫だよ。前よりはね」

「なら良いけど」

 それでも俺はまだ不安だった。真夜の顔色を気にしながらまな板とナイフを取り出すと、真夜はもう一度「大丈夫」と笑った。ちらりとナイフを見てちょっと目を伏せる様子に、俺はそっとナイフを遠ざける。

「それと」

 俺はもう一度溜息をついて別の話を切り出した。

「今まで一人で好き勝手に作ってたから、人に説明するとかできなくて……その、二人で作るって約束だったのに」

 俺の言葉に、真夜は大きく口を開けて笑った。今度は屈託のない笑顔だった。

「あのね、わたしが言ったのは『焼きたてのアップルパイにバニラアイスを添えて食べたい』だよ。一緒に作れば焼き立てが食べられるねって話はしたけど、別にわたしは作りたかったわけじゃないんだよね、食べたかっただけで」

「え……じゃあ、俺が作って真夜は食べるだけで良い?」

「わたしはそれでも良いよ。創くんに一人で作らせるのはなんだか申し訳ないなって思ってたんだけど……創くんがやりやすい形でやってくれたら良いよ。わたしは見てるし、手伝えそうなことがあれば言ってくれたら手伝うから」

「あ、いや、別に真夜が食べるだけでも良いならそれでも構わないけど……いや、待て、いや、でもだな、せっかくこうして顔を合わせてるわけだし」

 真夜は林檎を一つ持ち上げて俺の前に差し出してきた。

「創くんのアップルパイ、食べるの楽しみにしてきたんだ。だから、また作ってよ。今度こそ焼き立てを食べるつもりで来たんだから」

 真夜の大きな瞳は夜空のような色だ。その中にきらきらと星が瞬いている。その星の瞬きに何も言えなくなって、俺は彼女が差し出す林檎を受け取った。




 林檎を切って砂糖とバターで煮ると、甘酸っぱいにおいの黄金きん色になる。シナモンを少しふりかけてかき混ぜて火を止める。バットに移してよく冷めるようにならして──菜箸で一切れ摘み上げて、ふうっと息を吹きかけて冷ますと、隣でぽかんと開いていた真夜の口に押し込んだ。

 真夜の桜色の唇が艶やかに濡れる。火傷するほどじゃないとはいえ、突然放り込まれるには温かな林檎を持て余したのか、真夜は唇をはくはくと動かした。きっと舌の上で林檎を転がしているんだと思う。

 真夜の瞳がうっとりするように細くなる。

「味はどう?」

「ん、あま……おいひい」

「なら良かった」

 俺も一切れ持ち上げて味見をする。くってりと柔らかくなった林檎を噛むと中に籠もっていた熱がシナモンの香りと共に吐息のように唇から漏れた。林檎の酸っぱさと砂糖の甘さが溶け出した水分が喉に落ちてゆく。その出来栄えに俺は頷いた。

 冷蔵庫で冷やそうとバットにラップをかけたところで、真夜の手が俺のエプロンを掴んだ。真夜は舌を出して自分の唇を舐めると、上目遣いに俺を見た。

「もっと欲しい」

「アップルパイに使う分が足りなくなるぞ」

「う……でも……美味しかった」

「アップルパイに詰めて、余ったら食べて良いから」

「ほんと!?」

「余ったらな」

 その言葉の意味を真夜は本当にわかっているのかどうか。真夜は俺が持ち上げたバットの中身を見て、ふへへと幸せそうな顔をした。




 底になるパイ生地は先に少しだけ焼いておく。その上に粗く砕いたビスケットを敷き詰めてから、よく冷やした林檎のフィリングを乗せる。

 上から被せるパイ生地を網目模様にしようかと思ったけど、真夜は首を振った。

「前に創くんが作ってくれたのと同じが良い」

 正直なところ、あの時はそこまで見た目を気にしていなかったからだったんだけど──でも、真夜はきっとあのアップルパイが食べたいんだろうと思って言われた通りにあの頃を再現する。パイ生地をそのまま上から被せてナイフで何箇所かに切れ込みを入れた。

 フチの部分を手早く整えて、温めておいたオーブンに入れる。これであとは待つだけだ。

 この日のために買っておいた紅茶を淹れて、テーブルまでは真夜が運んだ。真夜が通った跡にお茶の良い香りが残る。

 四人がけのダイニングテーブルに隣り合って座る。公園のベンチではずっと隣に座っていたから、向かい合うよりもこの並びと距離感の方が話しやすいし落ち着く。そうやって温かな紅茶を飲んでふうっと息を吐き出したら、同じタイミングで真夜も同じように息を吐き出して、二人で顔を見合わせて笑った。

 味見をしたがっていた真夜のために林檎のフィリングは二切れ余らせておいた。小皿に乗せてつまようじを添えてある。真夜は紅茶のカップを置くと、小皿を手にした。

 そのまま小皿を口元に寄せて、唇を開く。つまようじで持ち上げたうっすらと透き通った林檎の欠片が口に入ってゆく。

「ん、おいし……」

 真夜の目が細くなったのを見て俺はほっと息を吐いた。今日はこうやって、真夜の様子を見て何度だって良かったと思っている。

「元気そうで良かった」

 俺の言葉に、真夜は小皿を持ったまま頷いた。

「うん、創くんのおかげ」

 真夜の言葉に俺はなんて返せば良いのかと言葉を詰まらせた。言えることが何もないような気もして──でも、ちゃんと応えないといけないような気持ちで、首を振った。

「俺は何もできなかったよ」

「そんなことないよ。初めて会った時から、あの時も、あれから今までだって、それに今もこれからも、ずっと……そんなことないよ」

 それは言い過ぎだと思ったけど真夜が真面目な顔をしているものだから、そうは言えなかった。困って目を伏せると紅茶の表面に自分の顔が映っているのが見えた。

 自分にもっと力があればもっと早く助けられていたんじゃないかとか、あれだって結局みっともなく走り回っただけで何かできたわけじゃないとか、そんな情けない考え事が全部、紅茶の中に溶け込んでゆらゆらと揺れているみたいだった。

 ぐい、と真夜の顔が近付いてきた。身を乗り出してきた真夜に顔を覗き込まれて紅茶から視線を上げると、すぐ目の前に真夜の夜空のような瞳があった。

「それにさ、自惚うぬぼれだとは思うけど、創くんが眠れるようになったのってわたしのおかげでしょ、きっと」

「え……それは、わからないけど……」

 俺の言葉が気に入らなかったのか、真夜は唇を尖らせてさらにぐいっと近付いてきた。あまりの近さに背中を少し反らしたけど、そんなものでは逃げられないくらいに、近い。

「嘘でも良いからそうだって言って」

「いや、え、あー……まあ、確かに、俺が眠れるようになったのはあの時からだから、真夜のおかげかもしれないな、うん」

 曖昧なまま頷いて、でも本当にそうかもしれないとも思った。いや、きっと本当にそうなんだと思う。俺は真夜と出会って真夜のことを知って真夜のために走り回って、みっともなく走り回って、それでようやく眠れるようになったのだ、きっと。

 真夜はまだ身を乗り出したまま俺の目をまっすぐに覗き込んでくる。星が瞬くような夜空の瞳で。

「多分これって依存とかそういうものだと思うしだから本当は不健康なことだとは思ってるんだけど、でも、そう思うことでわたしは元気でいられるんだ。だから本当に創くんのおかげ」

 そう言って真夜はふわりと笑った。スパイシーなシナモンと甘酸っぱい林檎の香りを漂わせて。その香りに誘われるままに、俺はすぐ目の前にある真夜の顔に近付いて、一瞬、本当に一瞬だけ、触れ合うだけのキスをした。

 真夜の目が見開かれた。彼女は持っていた小皿を落っことしそうだったので、そっと取り上げて自分が持っていたカップと並べてテーブルの上に置く。それでもまだ真夜は固まっていて、俺は頬と耳が赤く染まってゆくのを見て綺麗だなと思った。




 真夜が椅子に座りなおして困ったように顔を伏せたので、俺は謝った。

「ごめん」

「なんで謝るの」

「なんでって」

 俯く真夜の横顔を見る。怒っているのかどうかはわからなかった。嫌がられても仕方ないと思ってはいる。けれど、もう一度さっきの状況になった時に我慢できるだろうかと思うと自信はない。それでも、ここは俺が謝るべきだと思って俺は何度でも謝るつもりでいた。

「同意を取らずにやったのは良くなかったと思ってる。ごめん」

「同意」

 真夜は俺の言葉を繰り返して、少し沈黙した。俺はもう一度「ごめん」と謝る。真夜は居心地悪そうに眉を寄せて、口を開いて閉じて、それから意を決したようにもう一度開いた。

「それならわたしも謝らないとだ、ごめん」

「ん……?」

 真夜の言葉の意味がわからなくて俺は眉を寄せた。俺は同意を取らずに真夜にキスしたことを謝った。そしたら真夜も謝った。真夜は同意を取らずに、何をした? 俺に? いつの話だ?

 真夜は顔を上げて俺を見た。目が合うと頬を染めて、でも目を逸らさずに上目遣いに俺を見上げてくる。

「前にね、その……創くんが寝ちゃった時に……」

「んん……?」

「あの時は、なんかこう気持ちが盛り上がっちゃったっていうか、ほら、創くんわたしのために頑張ってくれてそのまま寝ちゃってそれを見たら嬉しくなっちゃって思わずっていうかだったんだけど」

「いやちょっと待ってくれ、俺が真夜の前で寝たのってあの時だけだよな……?」

 真夜との最後の夜。その夜明け。ようやく再会できた真夜と二人で公園のベンチでオレンジピールをかじりながら、俺は気付いたら眠ってしまった──あの時?

 真夜は恥ずかしそうに目を伏せて、頷いた。

「そう、あの時」

「いや待って俺それ初めて聞いたんだけど」

「恥ずかしいから秘密にしてたし……ごめんね、同意も取らずに」

「いや同意っていうか……いやそもそも俺もだよって話だな、ごめん、ちょっと待って混乱してる、ごめん」

 溜息をついて真夜から視線を逸らす。目についた紅茶のカップを持ち上げて、一口飲む。紅茶の渋みに頭は少しすっきりしたけど、つまりは結局どういうことなんだというのがわからないまま。

 隣の小皿を持ち上げて、残っていた一切れを摘み上げて口に放り込む。ひんやりと冷たくなった林檎は熱々のときとはまた違った食感。甘酸っぱい身は口の中にしっとりと横たわって噛めばじんわりと甘さが広がる。その中に感じるシナモンの香り。

 喉を落ちてゆく林檎は冷たかったけれど、それが腹の中に落ちるとそこから体に熱が広がった。甘酸っぱさにのぼせてしまったんじゃないかと思うように顔が熱くて、脳みそまでなんだか煮溶けてしまったようだった。

「つまりだ」

 何も落ち着かないまま俺は口を開いた。けれど、視線を上げた真夜の夜空の瞳を見て、きっとそういうことなんだろうと確信を持つ。

「改めて、お互い同意をしたら良いってことだな」

「え、そういう話だったっけ?」

 真夜が困ったように首を傾けた。真夜の黒い髪が蛍光灯の光に青い夜のような色合いで輝く。俺は彼女の肩に手を置くと、顔を近付ける。

「そういうことだろ。だから、その……良いですか?」

 真夜が俺を見上げる。拒むとも誘うとも言い切れない手付きで、彼女の手が俺の胸に置かれる。

「待って。その……理由を聞かないと同意できません」

 彼女の言い分は全くもって正しい。それでもそれを口にするのは恥ずかしくて、三秒だけ、考え込んでしまった。

 パイが焼ける甘い香り。紅茶の香り。シナモンの香り。そんなものに助けられて俺は口を開く。

「好きです。本当はずっと一緒にいたい。もっと近付きたい。好きなんだ」

 真夜の手が俺の胸元のエプロンをぎゅっと握った。きらきらと輝く星のように、彼女は笑った。

「わたしも好きです」

 それで改めて、俺たちは同意の上で少し長いキスをしたのだった。




 昼間の明るい部屋の中で、俺と真夜は焼き立てのアップルパイを食べた。もちろん、バニラアイスをたっぷりと添えて。約束を果たした俺たちは、それを確かめるようにまたキスをした。多分二人ともアップルパイとアイスの甘さに浮かれていたんだと思う。

 今日が終わればまた、真夜とはしばらく会えなくなる。それでもまた会おうと約束をして、その約束と共に毎日を生きてゆく。それを繰り返していつか、その先のことなんて、まだ誰にもわからない。

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