黒鉛の夢
南川黒冬
黒鉛の夢
ががが、ごん。
「――ん」
鈍い音で、目を覚ます。
手首のコマンドダイヤルを001に合わせる。いつでも自分をフラットな状態に戻してくれるこのチャンネルは、面白味はないが使い勝手がいい。
立ち上がって服を叩いて伸ばし、背を預けていたそれを仰ぐ。
穢れのない純白は、寝起きの旧人類の目には優しくないんだろう。
がぎぎ、がが、がっこん。
見上げるほどに巨大な歯車が、不細工な音を立ててスムーズに回る。さぼるのに慣れていない優等生みたいなこの歯車が二十年前にできたということは、戸籍を手に入れた時に(つまり生まれて間もなく)インストールされた情報によって知っていた。
まるでパイプオルガンを無理矢理工場にしたみたいに煙突と歯車だらけの奇妙なドームは、人間がもっと人生に苦労していた時のそれを再現したものらしい。
しかしまあ、時代の隔たりだけじゃ説明しきれないこの前衛的なデザインと、非効率の塊みたいな機構からしてどこまで本当かは怪しいものだ。事実この工場は何も生産しない、ただ過去を回顧する為だけの娯楽施設なのだから、どこぞの芸術家気取りが余計なことをしていたっておかしくない。
目をつむって
「……いや、分かってないのは私の方か。ていうか、分からず屋なのか」
受け入れられているから、二十年もこの町の隅にデータ化もしないで残っているわけだし。
ぶしゅう、と工場が真っ白な排煙を巻き散らす。これが毒にも薬にもならないと知っている私には、無色透明なそこらの空気より空虚で、自分のいなかった頃の過去を知るには不足な無意味だ。
こんなものに頼らなくちゃ寂しさも忘れられないのなら、
「そろそろ絶滅しちゃいなさいよ、人類」
諦めとか呆れとか、それから、生まれてからずっと無くならない寂しさとかを綯い交ぜにした溜息を吐く。
工場に背を向けて、どこまでも続く地平を歩き出す。視界には白と青しかない。人間が開発しきれない空と、開発されきって何もなくなった大地。
大昔、この星は平たかったらしい。旧人類の中でも、化石みたいな昔の思想だけれど、見たまま表現するならそれは確かに正しい考えだ。平たいから私たちはここに立っていられて、空っていう天幕がかかっているから真横に空が見える。現代人はもう重力を知覚できるから地球が球体でも何の恐怖もないけれど、そうじゃないなら人間は、きっと二足歩行をしていない。
科学も何もなかった頃の人類が、現代人と同じ景色を見ているなんて、なんて皮肉。
ああ、いや。それはあまりに失礼か。自分達で凹凸だらけの大地を切り開き、波乱万丈な世界を生き抜いた先達への冒涜だ。彼らは必死の努力の末に、人間が生きるのに最低限の「平」を手に入れたのだから。
彼らは今の人類を見てどんな顔をするのだろう。今の世界を見てどんな言葉をかけるのだろう。
すべての構成要素がデータ化され、実体を持ったホログラムと化した私達を見て。
すべての物質がデータ化され、二次元と化した地上を見て。
「哀れ」だと泣いてくれるだろうか。「愚か」だと憤ってくれるだろうか。
アーカイブからデータをサルベージするだけの死者蘇生システムじゃ、雛形のない旧人類は蘇生できないから、答えは聞けない。
「よくやった」などと言おうものなら、私はすぐさまアーカイブの住人になる確信がある。
だがそれは今、どれだけの意味を持つ行為なのだろう。この身体の全権を放棄して、データの墓場に身を投じることと、この平面世界で生きることは、何が違うのだろう。
生きていることと死なないことはイコールじゃないと思う。でも、生きていないことと死なないことはイコールな気がした。
私たちは肉体を失ったとき、生きるのをやめて死ぬのをやめたのだ。
「生きるって、なによ」
己の思考に疑問を投げかけた。
旧人類は答えを持っていたのだろうか。
脚を止める。自分が勝手に家と決めたポイントの上で、手首のコマンドダイヤルを、帰宅のための109に合わせる。
チャンネル一つで地中深くの
*
「また学校をサボったんだってね」
チャンネル600はお気に入りだ。いつも月開発の映像をリアルタイムで流している。この時間は自室のベッドで目をつむり、眠るまで凸凹の大地(さしもの現代人も、宇宙開発には苦労している)を眺めるのが日課なのだが、こうして母に邪魔されるのも日課になりつつあった。
無理矢理捻られて412(子供番組だ)になったダイヤルを、何にも影響しない001に変えて、
「人のダイヤルを勝手に触るなんて信じられない。間違って大変なことになったらどうするの」
「VSと接続してるんだから精々ポルノ映像見ちゃうくらいでしょう」
十六歳の少女的にはそれもどうかと思うのだが。
ちらと母の手首を見る。理性的になる007のチャンネルだ。感情的になる005でないだけマシだが、ダイヤルに頼らざるを得ないほど憤っている証でもある。
「一体何が不満なの」
「何があったの」とは訊かない辺り流石は親だ。私のことを良く分かっている。
「強いて言うなら不満がない現状に」
「訳のわからないことを言わないで」
「それ本気で言ってるの?」
ぐるりと自室を見回す。
毛足の長い絨毯に、高そうなソファ。明らかに必要以上に大きな机にシャンデリア。それから、大きなぬいぐるみが座らされた天蓋付きのこのベッド。
「どう?」と視線で問う私だったが、母は溜息を吐きながらこめかみを揉むだけだった。
「なに、ウチが裕福なことが不満なわけ?」
違う。物の水準が高かろうが低かろうがどうでもいい。言いたいことはただ一つ。
「どうしてこんなものがあるの」
「は?」
「どうしてまだこんなものがあるの」
肉体を捨てて物質を捨てた、現代人なのに。
地中深くに埋め込まれた巨大なサーバーに、漂うデータの
雨風なんて無いのにどうして家を建てるの? どこで
必要ないのに。
「虚しいからじゃないの? 利便性ばかりを追い求めて、色々なものをデータ化して、空っぽになった世界が寂しかったからじゃないの? だから旧人類の生活をなぞるんでしょう。今よりよっぽど生きるのに苦労していた人類が、私たちは羨ましいんだ」
「ちょっと、落ち着きなさい。そうだ、008をダイヤルしましょう。不安を忘れて楽しい気分になれるダイヤルよ。私もそうするから。それで、あなたは眠って、明日学校に行く。この話はおしまい」
「変わらないわよ。この寂しさはどんなチャンネルに合わせたって無くならない。001でも005でも007でも一緒。きっとこれが、現代人が素直に感じられる唯一の感情だから。ダイヤルに左右されない、旧人類的感情だから」
「そんなものはないわ。いい? それは気のせいよ。或いはただのバグ。少し時間がたてばアップデートされて消えて無くなる、その程度のものなの」
「そういう考え方が地球をまっ平にしたんでしょう!」
ずっと警鐘は鳴っていたはずなのに。本当は最初から分かっていたくせに。
「このままじゃ人類は人類じゃなくなるって、きっと本当は分かっていたんでしょう。でも止まれなかった。だって人間は弱いもの。それを直視できない程に弱いもの。だから今も新人類なんて名乗って誤魔化してる。自分たちが人類とは違うものだって気付いていながら、それを認めたくないから」
「……やめなさい」
「お母さんだって本当は分かってるんでしょう? でも認めたくないんでしょう? 辛いから。寂しいって気付くのは。自分たちが間違った存在だって気付くのは」
「やめなさいと言っているでしょう。屁理屈こねてないで、あなたは素直に頷けばいいの。学校に行きなさい。私が求めるのはこれだけよ。難しいことなんてないでしょう」
「私の言ってることが分からないの? 私はこれ以上進歩したくないと言ってるの。学校なんてまっぴら」
「進歩の何が悪いの? 弱さをカバーするために努力することは悪いこと? あなたの言う人間らしさは自然の猛威におびえることなの? 最低限生きるだけの物資を得て、細々と生きることが正義なの? 人間は贅沢をしちゃいけない?」
「度が過ぎてると言ってるの!」
張り上げた声が響く。放射状に広がる波が、天井や壁に跳ね返って戻ってくる。自分の声で三半規管が混乱し、部屋が歪む。急激な体の酷使に反応した心臓が、必要以上の血液を全身に送り、体温が上昇する。息が乱れる。いいや、これらすべてが錯覚だ。テレパシーに近い私たちの会話は、旧人類のように空気を揺らしたりはしない。ただの電気信号に過ぎない私たちに、臓器はない。そう分かっていても、抑えきれない激情の発露だった。
明滅した視界の向こうで、目をむいた母がその目を私の手首に向けていた。だが、私のチャンネルは001のままだ。005じゃない。私のこれは、チャンネルに依存しない感情だ。旧人類的感情だ。
「爪や牙がないから武器を作って、自然に抗うために頑丈な家を建てて、簡単に食料を得るための供給ラインを整えて、人生を豊かにするために娯楽を考えて……いい。凄いと思う。偉大よ。自らの手で進化してきた人類を、私は尊敬する。でも、だからって!」
手首のダイヤルを思い切り叩く。
当然、新人類の生命線であるこれは、その程度ではびくともしない。
何度も試したから、知っていた。
「肉体を放棄するのは本当に必要なことだったの? 生命と生命の交わり以外で増殖するものを本当に人間と言っていいの? 人類の進化と呼べる段階を、私たちはとうに超えてるんじゃないの?」
「いい加減にしなさい! あなたはそんな余計なことを考えなくていいの。あなたは普通に学校に行って、色んな知識をインストールして、それから人類のために働くの。皆そうしてるの」
母はダイヤルに手を当てていた。私が首を縦に振らなければ005にチャンネルするつもりだろう。それを見て、更にカッとなる。
怒りたいなら勝手にすればいい。恫喝されたくらいで拭える感情なら、最初から私はこうなっていない。
「なにが人類のためよ! 地球を平に均すこと? 月を開発すること? 馬鹿馬鹿しい! そんなものはこの寂しさを助長するだけでしょう! それも進歩すれば無くなる? どうして前ばかり見て後ろを見ようとしないの! 実体のない調度に厚みを持たせて、本当は何も埋まっていない空間を埋めて、それから!」
きゅうんと、赤く染まりかけた脳内が唐突に冷却される。一切の抵抗を許さない洪水みたいな倦怠感と脱力感に襲われ、私は母に謀られたことを悟った。
母が自分のダイヤルに手をかけていたのはフェイクだ。本当の狙いは、私の視線を誘導して、私のダイヤルを捻ること。
チャンネル000.新人類の全機能を一時的に停止し、仮死状態にするダイヤル。
「少し頭を冷やしなさい」
意識がスリープされる瞬間、苦虫を噛み潰すような母親の顔が見えた。
あ。それ、旧人類っぽい。
そのちっぽけな感慨が、失われていた
*
ぎ、がご。ぎぎぎがごん。
内側から聞く歯車の音は、外から聞くより不細工に響いた。ぐわんと全身を揺らすこの感覚は気持ち悪いけど、他の新人類が捨てた感覚だと思うと愛おしかった。
がり、がり、がり。ずずず、ず。
ああ、いや。こんな風に心が揺れるのは、不細工に鳴るのがあの歯車だけじゃないからだろう。
今私が感じているものを言葉にするならなんなんだろう。「恐怖」か、それとも「歓喜」か。旧人類なら分かるんだろうか。でも、これ以上なく感動しているのは確かだった。
戦慄く唇を開いて、多分今の地上で最も汚れた空気を震わせた。
「こんにちは、旧人類さん」
不細工な音を吐き続ける歯車の中心、私に背を向けた男が振り向いた。
こけた頬。血走った目。伸びっぱなしの髭。この世界が平らになる前なら、きっと蠅とかいう生物が集っていたに違いない。
この、無駄という無駄を排除した世界で。この、完璧に近付きすぎた世界で。
そう思わせる程、男の格好はみすぼらしかった。
そして何より、男の手首には、ダイヤルが無かった。
「一日に二度来るのは初めてだな」
男が立ち上がるだけで、みし、と朽ちかけた椅子と机が悲鳴を挙げる。偽りじゃない質量を持った音が、高揚し続けている心を更に高揚させる。
「あなたはここで何をしているの?」
「お前らには理解できまいよ」
重苦しい声には確かな軽蔑が込められていた。
ゆっくりと、男が近づいてくる、こつん、こつんと、硬い靴の音が響く。
「見たらわかるわ。でも、違う。違うの。私が言っているのはそういうことじゃないの」
「分かるか。そうだな。あれを見れば嫌でも分かるだろうな」
男の後ろを見る。不細工に鳴るのにスムーズに回り続ける歯車の群れの中、地面に突き立つ螺旋が、ゆっくりと地面を削っている。
がががごん。ずずず。
歯車の音に紛れて、外からは聞こえなかったけど、この巨大なドリルは、きっと何年も前から地面を掘り続けていたんだろう。
私たちが旧人類だった頃を懐かしむためのものだと思っていた工場型のオブジェは、これを隠すためのものだったのだ。
「だからお前は何度も来るんだろう。お前らには全く必要のない、無駄ばかりのこの工場に」
「違うわ」
「何が違うものか」
男が私に手を伸ばす。私に――私のダイヤルに。
「もうチャンネル00・05には回さないで!」
絶叫が工場内に広がっていく。壁や天井にぶつかったそれは、歯車と螺旋の音に阻まれて私に返ってくることはなかったけど、男の動きを止めるには十分だった。
「忘れない。私は二度と忘れない。あなたのことも、あなたの成そうとすることも!」
仮死したことで思い出した。チャンネル00・05……001と000の間、生と死の狭間のダイヤル。中途半端なダイヤルは、新人類の身体にバグを引き起こし、意識と記憶を
ずっと不思議だった。この工場に来るたび、白亜の壁に背を預けて眠っていることが。中に入らずに、いつも外から眺めているだけなのが。
そうだ。私はいつも、この男に会っていた。
いつも、男の夢――この螺旋を、見てきたのだ。
「そして
男の硬直は一瞬だった。岩のように不揃いな手が迫る。
「違う!」
私の手首を掴もうとする男に全力で抵抗する。ただ、これも時間の問題だろう。体格差がありすぎるし、何の脅威も知らない新人類が、戦い続けてきた旧人類に適うはずもない。
でもそれで良かった。それが良かった。
「お前らは脆い。手首にでかい爆弾をつけているからな。ウイルスを混ぜ込まなきゃガセの情報を流すのも容易い。お前らみたいな容量のでかいもんを受け入れるのに必死で、物事の真偽なんざ気にする暇もない。何が進化。何が新人類。上ばかり見ているから足元を掬われるんだ」
「ええ、そうでしょうとも。この工場があなたの作り上げた偽りの城なら、アーカイブの情報だって真っ赤な嘘でしょう。私たちは傲慢に過ぎた。地球を平にしたくらいで全能感に浸って、核爆弾が効かなくなったくらいで無敵だと思い込んだ。手首にこんなおもちゃをつけて、全部支配したって、いい気になってる」
「だから俺に滅ぼされる」
「そう。だからあなたにしかできないの」
新人類にはできない。なぜなら
そういう風に、プログラムされている。
新人類には、この寂しさから逃れる術なんてない。
そう、思っていた。
「あなたの夢を、あなたの口から聞けて良かった」
ああ、良かった。
旧人類が私たちを軽蔑してくれて。憤ってくれて。
旧人類は、私が思っていた通り誇り高かった。
旧人類は、私が思っていたより強かった。
「あなたみたいな人が、いてくれてよかった」
「何を」
ありがとう。本当は私を殺せたのに、記憶を消すだけで逃がしてくれて。
「でも、チャンネルを008に合わせたのは優しすぎじゃない? そんなんだから、こんな小娘に勘付かれるのよ」
旧人類さん――いや。
「人類さん。お願い。
あなたのお陰で、少しは人類らしく死ねる。
手首のダイヤルを捻る。思い切り。捻った指の方が壊れそうになるほど強く。
バチンと、ストッパーが壊れるとともに、000の先にチャンネルが進んだ。
マイナス001――
生まれてからずっと無くならなかったあの一抹の寂しさが、いつの間にか消えていた。
*
「……言われずとも」
数舜前まで少女がいた空間に吐き捨てる。五秒間黙祷を捧げて、それからおんぼろの椅子に腰かけた。そのまま机に向かったが、脳裏から少女の顔が離れないからやめた。
まあそろそろ休憩しようと思っていたところだからいい。こんな時はダイヤル一つで回復できるあいつらが羨ましくなる。
ゆっくりと動き続ける螺旋を見上げる。
こいつはあと何年であのくそったれなワールドサーバーに風穴を開けるだろう。計算によると十年で終わる予定だったのにそれがこうまで長引いているのは、何らかの妨害があるとみるべきか。
脆い、とあの少女には言ったが、そう簡単なわけがない。
多分、俺は失敗するだろう。この螺旋はサーバーに届くことなく停止し、この工場は跡形もなく取り壊される。
だが、それは人類の終わりではない。
俺がここにいるのが証明だ。人類はまだどこかで生きている。
なあ、名前も知らない少女よ。お前も同じだったのか。既存のデータのコピーでしかないお前も、生まれてから一度も失せないこの寂しさを感じていたのか。
俺は、それを無くしてやれたのか。
「さて」
机に向かう。
少女の顔は未だに消えないが、消す必要など無いと思った。
あの安心しきった顔を思い出すと、心に薪がくべられるような心地がしたのだ。
がががっごん。ずず、ず。
かりかりかりかり……
歯車と螺旋の音に混じって、か細い音が俺にだけ届く。
多分、俺は失敗するだろう。だが人類は必ずまた、あの凹凸の大地に立つ。
だからそのために俺は、今もこうして、
黒鉛の夢 南川黒冬 @minami5910
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