反逆者
武市真広
反逆者
彼は他人の善意を食い物にするような男だった。食い物にされる側も自分たちが良いように弄ばれていることに気がつかない。彼はクラスの人気者で、誰もが彼を良い奴だと思っていた。どうして誰も彼の軽薄さに気が付かないのか。それ以上に腹が立ったのは、彼女──幼馴染が彼を好いてしまったことである。
私は彼を憎悪した。あの男の微笑も巧言令色も何もかもが憎らしかった。そして、彼を許容し続ける「現実」に対しても失望した。教室の隅で私は現実とその土台たる世界を呪った。いっそ大地が二つに割れて地上にいるあらゆる人間が吸い込まれてしまえばいい。そう思った。
あの男は善意を食い物にしている。誰彼構わず笑顔を振り撒いて他人を騙すのだ。相手が心を許して相談事や秘密を打ち明けると、彼は精一杯の演技で笑顔を見せたり心を痛めるフリをする。内心で相手を嘲りながら! 私だけがそんな彼の裏面を知っている。私は決して騙されなかった! 初めてあの男と会った時に見た、あの笑顔にある薄気味悪さを私は決して見逃さなかった。
現実を憎悪したところで何も変わりはしない。そのことぐらい自分の小さな脳髄は知っている。そこで私は自分の出来の悪い頭なりに考えた。善意を食い物にする人間に対して如何に立ち向かうべきか。嘘吐きに対しては真実を告げれば事は足りる。夢想家に対しては現実を見せつければいい。だが、善意を食い物にする人間に対してはどうか。
そう思い至った時、私の絶望はより一層深くなった。自分にはもう打つ手が無いのだと気づいたのだ。食い物にする人間と食い物にされる人間がいる。両者が共依存の関係にある時、どちらか片方を倒したとしても、私は非難を受けるだろう。
学校の授業をサボって公園のベンチに座って考え続けた。そして、他人の善意に寄生して悪事を働く人間に対しては悪意によってしか打ち倒すことはできないという結論に達したのだった……。反逆することが必要なのだ……。
* * * * * *
そう思い立ってから数日後、私は下校途中一人になった彼を殴りつけた。腹に二発、顔に一発。しかし彼は反撃しなかった。他人から同情を引くための浅ましい策であることは明白だった。私は余計にそれが不愉快で、足蹴にした後何も言わないでゆっくりと歩きながら立ち去った。走り去るのを逃げと思われるのが嫌だったからだ。
殴ってやって清々するかと思ったが、結果はむしろ逆だった。実に忌々しい。道端の小石を蹴るだけでも飽き足らず、何度も踏みつけてやった。そんな八つ当たりでも気分は少しも晴れなかった。
模範的な優等生を殴った私は停学を命じられた。両親は私の行動を批判するだけで、自分たちの息子が如何なる意図からこんなことをしたのか考えることすらしなかった。そんな親の姿を見ているとクラスの連中も同じなのだろうと予想された。
停学を命じられてから三日目に幼馴染が訪ねて来た。
「……どうしてあんなことしたの?」
開口一番に彼女はそう訊ねた。私は机の上に置いてあった鉛筆を弄んでいた。尖らせた鉛筆の先を人差し指の腹に当てた。私は必死に嘲笑するのを抑えた。
「どうしてだと思う?」
私はあえて挑戦的な口調で質問を返した。
「嫉妬」
予想の範疇を出ない回答に私は失望した。鉛筆の先に視線を落として何と言うべきか思案した。以前、尖らせた鉛筆を見たクラスメートがお前の神経のようだと形容したのをふと思い出した。
「嫉妬か。嫉妬と思うんだね」
「ええ。貴方とは何年も一緒だもの。お見通しよ」
嘲笑的な気分が急激に言い様も無い不快感へと姿を変えた。
「君と話すことなんてないよ」
「彼に謝って」
持っていた鉛筆で刺してやろうかと思った。そんなことをしても彼を殴った時と同様気分は晴れないだろう。
「断る」
彼女は何も言わずに出て行った。愛想を尽かされたことぐらい自分にもわかった。だがそれでいいのだ。あんな人間を好くような女に何と思われようと……。
彼女がいなくなったのを見計らって私は鉛筆を床に叩きつけた。誰からも理解されないことを嘆くのはやめよう。それは不毛なことだから……。
私は声を出して笑ってみた。そんなものが空元気に過ぎないことは分かっていた。だが私は笑いたかったのだ。騙されている人間が自分は騙されてなどいないと言い張っている。この滑稽さを。
善意を食い物にする彼に騙されているのは彼女だけではない。誰も彼もが「正しい」に目が眩んで奴の正体に気が付かない。それは彼らが愚かだからではなく、信念の問題なのだ。彼らは自分たちが騙されていることを決して認めようとはしない。それを認めることは彼らが全幅の信頼を置く「正しさ」を否定することになるからだ。
彼の偽りの笑顔は実に眩しい。彼の偽善も実に美しい。だからこそそれが「偽」であることを認めたくないのだ。彼らは自分たちを偽っている。そして、その偽を真と思い込んでいる。その信念を打ち壊すことは不可能だろう……。
* * * * * *
翌日、私は気晴らしに散歩に出かけた。 他人に対して僅かでも期待した私が誤りだった。彼に勝てないと思った挙句に悪意によって彼を打ち倒そうとした目論見に、私は一縷の望みを持っていたのではないか。彼を殴ることでみんなの目が覚めることを期待していたのではないか。
自問自答の末に私は自分を恥じた。殴ったことは後悔していない。しかしその覚悟が不徹底であった。だから彼女の態度に腹を立てたのだ。自分は最初から殴った結果もう彼女との関係は望めないことを覚悟すべきだった……。
彼女の態度に覚えた失望感を歩きながら思い返す。こうした出来事を通して人間は他人に期待しなくなるのだろう。他人に対して失望や絶望を繰り返すことでようやく気付くのだ。生きているのは自分自身であって他人ではない。他人がどうこうしたところで自分の道を歩いている。空を見上げてみればいい。こんな私を全く気にする風でもなく青空が広がっているではないか。
しばらく歩くと川の土手に出た。歩きたいだけ歩くことにした。足が疲れてもう帰ろうと思うところまで歩くことにした。澄んだ空が広がっている。なんてことない風景だが、今日はその風景がやけに愉快に映った。
遠くの方で立っている人影が私を方を見つめている。少しずつ近づいていくとうちの制服を着ている。さらに近づくと彼だと気付いた。
「こんな時間に何してる?」
私は近寄ると気さくにそう声をかけた。彼はギョッとして答えに窮したようだった。
「僕は散歩だよ。停学中だからね。もう長いこと歩いてそろそろ帰ろうかと思ってる」
「俺は……」
彼は言葉に詰まった様子でぽつりぽつりと話し出した。
「今日早退した」
「そうか」
「みんな心配してる」
「さぞ愉快だろう」
「君のことを」
「僕を?」
恐らく嘘だ。彼らしからぬ下手な嘘である。
「君はどうして俺を殴った?」
「昨日同じことを訊かれたけど答えなかった。彼女は嫉妬だと思っているようだが」
「違うのか?」
「違わない。嫉妬だ。けれども彼女の考える嫉妬とは違う」
「どういうこと?」
「僕は悪人が大嫌いだ。多分君もだろう。けれども僕も君も悪人なのだ。それも質の悪いことにお互い善人面をした悪人なのさ」
「俺は……」
「否定しても駄目だよ。君は悪人だ。善人面して他人を騙し、他人から吸い上げた善意を利用して自分を満足させている」
私は知っている。お前の内面を。お前が何を考えているかを。
「君は僕を不幸な人間だと考えている。顔を見れば解る。みんなが心配しているだって? そんな見え透いた言葉で僕の弱音を引き出そうと思ったのか?」
彼は何も答えずに突っ立っているばかりだった。
「君は自分が常に他人から嫌悪されないように心を配ってきたようだが、その利己的な姿勢が、他人の善意を利用して優越感に浸ろうとする行動の原因なんだよ。聡明な君のことだ。こんなことは僕に言われるまでもなく気づいているんだろう。気づいていて君はそれを野放しにしている。だから気に入らないのだ」
私はここまで言うと、短く「それじゃあ」と述べて、踵を返して家に帰った。殴った時よりも深い満足感に満たされて。
私が悪人と思われるのは当然のことである。事実私は悪人だから。
だが、私を悪人と呼ぶ彼らは、果たして悪人ではないと言い切れるのだろうか。自分の頭で決して考えることがなく、周囲に流されて善悪を判断するような人間だ。彼らもまた私と同じく悪ではないのか。
誰も何も答えない。
反逆者 武市真広 @MiyazawaMahiro
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