第8話

「八田に着くよ、九鬼の小父さん」

 早苗は自分の気持ちを鼓舞した。彼女の視線は絶えず白い帽子の男にあった。

 白い帽子の男は、今すぐにでも外に出たいのか、そわそわしているのが見て取れた。扉が開けば、すぐに走り出す気でいる。

 八田駅に着き、扉が開いた。

 白い帽子の男、金谷登は走り出した。

 「さえちゃん」

 龍作が叫ぶ。

 「分かっているよ、小父さん」

 早苗がよく知る地下鉄の中だ。ホームのどの辺りが波打ち、どの辺りの舗装が欠けているのか、彼女は熟知している。慣れないホームを走っている龍作を追い抜き、早苗の走力は若いということもあって、一気に金谷登に迫る。

 「多分、指令室から連絡が入っているはず」

 だから、今日の八田駅には誰がいるのかしらないけど、私が間に合わなければ改札口で止めてくれる筈だ。

 金谷登が階段を駆け上り始めた。八田まで来ると、乗客は少ない。

 「あっ!」

 早苗の足が止まった。

 その前に、白い帽子の男の動きが止まったのだ。


 「お兄ちゃん、ピックルさん、本当に、ここなの?」

 ビビ。

 「ここだよ、いくよ。先生の足音が聞こえるよ」

 ケンが一気に地下鉄へ降りる階段を一気に駆け下りる。

 すぐに改札口が見えた。

「ビビちゃん、もう一回大きく飛ぶから、しっかり捕まっててよ」

ケンが自動改札口を飛び越えた。

「ワッ!」

 とビビ。

 それを見て、改札口の前に立っている八田駅の大村職員が、

 「こら!」

 改札口を飛び越えた犬に怒鳴った。

 「何処へ行く、待て・・・」

 「待て、と言われても、言うことを聞けない時もあるのよ」

 ケンは吠えた。

 「いた、いたわよ。ビビちゃん」

 驚いたのは金谷だった。なぜ、こんな所に犬がいるのか・・・しかも、牙を剥き、俺を睨んでいるではないか・・・。

 「どけ!」

 金谷はこのまま駆け上がろうとした。だが、彼の足は止まったままだ。犬が牙を剥き、今にも飛び掛かろうとしているではないか。彼の身体は無意識に震え出していた。というのは、子供の頃、六つくらいの時、彼は野良犬に噛まれたことがあった。それ以来。金谷は犬が嫌いになった。

 むろん。ケンには全然関係ないことだし、知らない。だから、ケンは金谷登に唸り、飛び掛かって行った。

 こうなると、金谷も死に物狂いだ。もがき、必死に逃げようとするが、なかなかそうはさせてくれない。

 この時、ビビは、

 「あっ!」

 叫び声を上げた。

 金谷がケンを突き飛ばしたのだ。キャンと声を上げたケン。

 「あっ、お兄ちゃん」

 ビビは悲痛な声を上げた。

 「よくもお兄ちゃんを・・・」

 ビビは全身の毛を逆立てて、金谷登の顔に飛び掛かって行った。そして、ビビは金谷の顔に飛び掛かった。顔を引っ掻き始めた。

 「ウギャ」

 金谷の顔をがむしゃらにひっかき始めた。

 「ワッー」

 金谷の悲鳴が八田駅の地下に響き渡った。

 ビビの引っ掻きの波状攻撃は止むことを知らない。

 「止めてくれ・・・!」

 金谷の顔面は引っ掻き傷で血が滲み出ている。

 「ビビ、もういいよ。お止め・・・」

 早苗は叫んだ。

 「もう・・・いいよ」

 早苗はビビを優しく抱き上げた。

 「どう・・・女を怒らすと怖いんだからね」

 ビビの心臓はまだ激しく波打っていた。

 「ビビちゃん、女の子だもんね」

 ビビの声分はまだ収まらない。

 「「びび、よくやったな」

 龍作はビビの小さな顔を覗き込んだ。

 

二十分ほど前、

「ば、ばあちゃん。とねおばあちゃん・・・」

 裕太は涙声だった。名古屋駅の切符売り場で、早苗が優しく対応した老婆を思い出したのだった。それが引き金となって、裕太のとねおばあちゃんも思い出したのだ。

「そうだ。あの時、とねおばあちゃんは・・・」

 それから、しばらくして裕太は、

 「左知さん、ちょっと出かけて来ます」

 と、言い、外に出ると、すぐにタクシーをひろった。

 「八田まで・・・急いで」

 こう言った後、裕太は黙ってしまった。


白い帽子の男は、まだ逃げるのを諦めてはいなかった。

 「待って。まだ、逃げる気なの」

 金谷の返事はない。彼は立ち上がり、逃げようとする。ふらついている。

だが、彼の足はまた止まった。

 「誰かが・・・そこにいた」

 「思い出したぞ、今、はっきりと」

 浮かび上がった人影を見て、早苗か、

 「あの人は・・・」

 裕太叔父さん・・・だ。

 「お前は・・・あの時・・・」

 裕太はゆっくりとしゃべり出していた。

 「あの時、お前は、千円を持って来いと俺に言った。確かに、お前はそう言ったんだ。お前は、俺が気弱なのを知ってか・・いや、単なる弱い者いじめなのだろう、もつともやってはいけない手段を使って、俺をいじめた。いや、命令したのだ。俺は言われるがままに、おばあちゃんからなけなしの千円をもらって、お前に渡した。おばあちゃんは、何に使うのか聞かずに千円を渡してくれた。そのおばあちゃんも、今はもういない。おばあちゃんに申し訳なくて、いまだに悔やんでいる。そして、お前はまた俺の前に現れ、俺をいじめようとしている」

 裕太は、

 「俺は・・・俺は・・・」

 と叫び、泣いている。

 「俺はお前を許さない。今度は、絶対に許さない」

 こう言うと、裕太は白い帽子の男に飛び掛かって行った。階段を転がるようにして、二人は下まで落ちて行った。

 それでも、裕太は金谷を話さない。

 「許さない、許さない・・・」

 「もう、止めて。叔父さん」

 早苗は叫んだ。

 「止めて上げて!」

 龍作は、

「分かった」

と、言い、裕太を引き離した。

パトカーのサイレンの音が近づいて来る。どうやら九重巡査部長のようだ。

          〇

 金谷登は最後まで金の入ったカバンを離さなかった。

 「あなたも参考人として聞きたいことがあるから、同じに来てもらえますか?」

 と頼まれ、村田裕太も同じに警察に行ってしまった。

 ケンも九重巡査部長と行ってしまった。

 「館まで、ケンを連れて行ってくれるかな!」

 「分かりました。ケン、じゃ、行こうか」

 「くぅ・・・ん」

 と、ケン。

 ビビは、ケンとまだ一緒に居たいようだが、

 「どうした・・・館に行けば、会えるじゃないか」

 龍作はビビの頭をちょこっと撫でた。ビビは早苗に抱かれたままだ。

 「どうなるのかしら?」

 「叔父さんは、大丈夫だよ」

 と、龍作は優しく言った。

 「でも、さえちゃん、よく、やつたね」

 「何だか、身体の中が空っぽになってしまった感じなの。倒れそう」

 早苗はビビの顔をつくづくと眺めた。

 「ビビも・・・頑張ったね。

 ビビは、早苗の頬に顔をよせ、

 「ニャー」

 と、鳴いて、摺り寄せた。

 「さあ、名古屋での冒険は終わったな。ビビ、そろそろ・・・行こうか」

 「えっ、そうか。もう、行っちゃうの!」

 早苗はびっくりしている。

 「おいで・・・」

 「ニャオー」

 「ダメだよ、また会えるから」

 龍作はビビを早苗から取り上げた。

 「ビビちゃん・・・」

 「ニャ」

 人と人にしろ、動物と人にしろ会えば必ず別れがあるものだ。

 「そうだろう、ビビ。さえちゃん、また会おう」

 「本当だね」

 「ああ、必ず名古屋に来るから」

 「約束だよ」

 「ああ・・・」

 「ニャ、ニャ」

 と鳴くビビ。

 どうやら、ビビは分かっているらしい。そして、ケンもビックルも、

 「何か・・・変」

 と、感じたやつだ。

 その時まで、名古屋ともお別れである。

 「おじさん、九鬼龍作って言うんだね。私・・・何処かで・・・何かで見て、知っているんだけど・・・よく思い出せないんだけど?」

 龍作は苦笑しているだけで、答えない。

 「じゃあね。その時には、また地下鉄の不思議な世界を教えてくれるかな」

 「いいよ、九鬼龍作おじさん、名古屋の地下鉄の先に何があるのか、知っている?」

 龍作は首を二回ばかり振った。

 「今度来た時に、何があるのか教えてあげる。そして、連れて行って上げる。ビビちゃんもね」

 龍作は無言だったが、ビビは、

 「ニャニャニャ」

 と三回鳴いた。

 早苗は小さく手を振っていた。

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九鬼龍作の冒険 地下鉄のさえちゃん 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog

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