波の奏線(かなでせん)、青終駅(あおばて)行き

みずまち

波の奏線《かなでせん》、青終駅《あおばてえき》行き

 うとうとと重い瞼が勝手に切符を切り、夢の改札口へ入ろうとしていた時でした。

電車内のボックス席に座っている私の左肩に誰かが手をのせた、ような気がしてはっと驚き背凭れから少し背を浮かせてそちらへ顔をやったのです。

 そこには誰かの手ではなく、小さなマスコットキーのクマがのっておりました。

安心して再び背凭れへ上体を預けると、膝にのせ読みかけていた本をそちらへ少し傾けて私はそっとクマに左頬を寄せてみました。

「なに、お前も読みたいの」

 私の隣へ立つ、マスコットキーの主である女学生には聞こえないように声を潜ませ聞いてみるも、学生鞄から吊るされただけの毛羽立ちしたクマは窓の外から零れる光をその小さな黒目に反射させているだけです。

反応のないクマに私はただ独り言を続けていきました。

「そう。このお話はね、星の道を行く列車のお話なの。外国には宇宙を走る列車があるらしいわよ。素敵ね、行ってみたい」

 青いカバーの本を愛しげに人差し指で撫でては車窓へと顔を上げ、朝の素晴らしい水色の空とはまた違った濃い青色を全体に持つ海を見つめます。

(今日は潮が引いているわね)

 比較的波が穏やかな自国の海には浅瀬にこうして線路が引かれており、海の上を走る列車として栄えておりました。

満潮時には車輪に跳ねた塩水が窓に沢山かかるので車窓は締め切られていますが、こうした干潮時には少し窓は開けられて優しい潮風を浴びる事が出来るのです。

 夏はもう終わってしまいましたが、その時期になると夏休みを楽しむ学生達が自前の釣竿を背負ってエヘンと電車へ乗って来るのです。

『厳禁 車窓からの釣りキケン!』と車内に所々張り紙がされているのはその夏の名残でありました。

 かたん、と電車が一度揺れ停車すると左肩に乗っていたクマも揺れて私の頬をかすめました。

それと同時にクマの頭に飾られていた小さな鈴がリンと鳴り響き、それが目覚まし時計かのようにクマが一度瞬きをします。

「ああ、すっかり眠ってしまっていた。今は何駅ですか」

 漸くクマから返事がきたのです。

とうなみ駅よ。私は終点の青終あおばて駅で降りるのだけれど、あなたは」

 嬉しくなった私の声に、寝ぼけたクマはふらふらと身体を右へ左へ揺らし、そしてまたリンリンと鈴の音を可愛らしく鳴らしては大きな欠伸をして見せたのです。

ゆうるり駅、ゆうるり駅で降ります。この子のお家がそこから降りてずうっと坂を登った天辺にあります。夕日がとても美しく海に映るその光景は、私たちのお気に入りなのです」

 この子とは、今私の隣に立つ女学生の事でしょう。やはりこの女学生がクマの主人なのです。

「まあ羨ましいわ。坂道は大変そうだけれど私はこの国の夕日にずっと昔から片想いして

いるの」

「おや、奇遇ですね。わたしは生まれた時からですよ」

 ふふっとクマと私は笑って内緒話を続けていきます。

クマとの会話は私の心をちょんちょん突いてきて、それは少し擽ったくもあり、塩っぱい潮風を頬に受けた時に似ておりました。

「嗚呼、でももうここの夕日ともお別れがきてしまいますね」

 光をその小さな黒目にあて続けてクマはぽつりと呟き、それきり黙り込んでしまったのです。ここは私が続きを問いかけてやるべきなのでしょうか。

「何故」

 どこまで聞いていいのやら迷って、とりあえず私は短く問いかけてみる事にしました。

しかしクマは窓の外で走り去る白泡の波を、じっと見つめるばかり。

「西へ行くんです。わかるのです。わたしはね、この先何年か後にここよりもっとずっとずっと遠くて風の強いお国へ行くことになるんですよ。そこはこの国みたいに海はなく、代わりに湖がいっぱいある国ですね。この子の家族は今、とてもとても幸せです。それはもう。でも、消えてしまいます。いつか見た夏の夜空に、大きく花が咲いている時に、この子と一緒に食べたわたがしのように縮んで消えます。みんな離れ離れになります。でもこの子は強い子ですから。そしてその湖の国でわたしは捨てられます。この子が過去とお別れするためにそれは必要なことなのです。うん、うん、でもやはりわたしは幸せものなんです。だってこの子の手で捨てられるんですもの」

 クマの語りに私は思わず涙を流してしまいそうになり、ぐっと下唇を噛み締めました。

眼に涙が薄ら膜のようにはってきたので、私は黒目を動かしてその膜を追い払うので必死になります。

「青終駅まであなたは行くのですね」

「ええ。終点よ」

 ずずりと鼻を鳴らして、アメジストのような深色のクマの声に短く頷きました。

「あそこは確か、竹林が波のように鳴り響きますね。一度でいいからその風を浴びてみたかったです」

「そうね、青い海が少し遠ざかっていって、淡い緑いっぱいの竹林へと入っていくから青終。私ね、明日の朝に妹と一緒に星と竹のお祭りをするのよ」

 するとクマはその言葉に喜ぶようにリンリンと鈴の音を再び鳴らします。

 夏が終わり秋の扉を叩いている今の時期、私のお家ではちょっと変わった小さなお祭りがやってくるのです。母方の実家はこの島国から少し西へ行った大陸にあるのですが、そこは夏になると笹の葉を飾り、星に願い事をするという祭りごとが盛んに行われているみたいです。母はずっとそのお祭りを、我々子供達に教えてきました。

「私のお家のそばには沢山の竹林があるの。朝早くにそこへ入るとね、朝露がいっぱい竹の節間についていて。それをちぎった笹の葉ですくうのよ。そしてその朝露を墨へ入れてそれを筆に通して細い紙にお願い事を書くのね。そのお願い事を星降る夜に笹の葉へ飾るの」

 私の物語にクマは健気に耳を傾けて聞き、そしてその黒目を輝かせておりました。

「それはとても美しいことですね。ねえ、それではわたしの願いごとも書いてはくれませんか」

 と続けて答えてきたので、私は青い本を閉じてクマの声に何度も頷き、そのお願い事を耳に入れてとうとう涙を零してしまったのです。

「どうか願ってくださいまし。この子との幸せが最後まで暖かいものであるようにと。そして今日も一緒にこの夕日を共に見れますように」

 私は思わずクマの持ち主である女学生へと顔を上げて早々に願ってしまいました。クマのお願い事はそれはとてもとても悲しく残酷なものだったからです。

「ええ、ええ! 勿論書くわ。書いて満天の星空に、竹林の波音と共に願いを送りましょう」

 私の返答を聞けばクマはほう、と一度だけため息のような小さな優しい風を長く私の左耳へ送りました。それと同時にかたん、とまた電車が停まりました。夕るり駅です。

 私の左肩は軽くなり、さよならの鈴の音が鳴りました。

 閉じていた青い本をまた開くか迷いましたが、車窓からはそれはそれは真っ赤な見事な夕日が映っていたので流していた涙を暖めてもらう為に私はそちらへ顔を向けたのです。




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