後編

 恋をしている、と気づいたことは私の中でふたつの感情を加速させた。

 ひとつは、「気付いてほしい」という思いだった。私に気付いて、私の心に応えて、それが無理なら、せめて私の心を知って、その思いに駆られて私は躍起になった。

 今までにましてエヴァ、エヴァ、と彼女について回ろうとし、精一杯彼女との会話を続けようとした。彼女が面白いと言った本は何でも読んだし、彼女のことはなんだって褒めた。彼女が気を悪くするようなことは絶対にすまいと、今まで以上に固く誓った。あの美しい白い髪はタブーを超えて私の中でひとつの聖域と化していた。自分のみならず他人がそこに触れることも厭わしくてたまらなかった。


 ふたつめの感情は、聖域に手垢をつけられる怒りだった。


 クララ・ガルエはもはや私の宿敵だった。あの筋張った指がエヴァの髪に触れるたびに、やめてと叫びだしそうだった。やめて、その髪に触らないでと。実際には私は押し黙り、非難の目つきでクララを見つめるだけだった。クララは私の方などちっとも気にせず、ひとしきりエヴァを驚かせると例の意地悪い笑みを浮かべてどこかへ行ってしまい、私はむしょうに置き去りにされたような心地を味わう羽目になった。今度こそ止めてやる、非難してやる、と毎回毎回そう思いながらも、いいのよ、と笑うエヴァのことを思うとどうにも声を上げられず、ただただ心の中で呻くことしかできなかった。

 やめて、触らないで、その髪に触らないで、私さえも触ったことがないのに。


 私は彼女を愛しているのに。愛している私ですら触らないのに。





 一体何が引き金だったのだろうと思う。いや、原因はクララであることはわかっているのだ。ただ、なぜあのときだったのだろうとは、少し不思議に思う。だがもう過ぎたことだ、あらゆることが過ぎ去った後だ。

 あのとき、クララの筋張った指がするりとおさげにされたエヴァの髪に絡み、そして軽く引くのを見たとき、あんな扱いを受けるだなんて、エヴァも本当はさぞ屈辱だろうと思ったとき、普段なら喉の方に向かってせりあがっていく怒りが、すとん、と胃の方に落ちていくのが分かった。奇妙なほど落ち着いて、エヴァがそうするように微笑みさえ浮かべながら私は算段をつけ始めた。




 その翌々日の真夜中、自分の掛布団の中に枕を詰めて精一杯中に人がいるように見せかけながら、もしこれからすることを人に見つかったら夢遊病のフリをしよう、と考えていた。とても得策であるとは思えなかったが、それ以外に何も思い浮かばなかったのだ。

 エヴァの部屋の鍵を壊しておくのは簡単だった。自分の部屋に忘れ物をしたと言って授業の前に寄宿舎へと戻り、前の日に自分の部屋で試したようにドアの隙間から鉛筆を削るためのナイフを差し込んでがたがた揺すると、ほどなくしてばきりと不穏な音を立ててドアが開いた。これで夜中も入り込めるようになる。もちろんエヴァも気づくだろうが、先生に申し立てたところで直してもらえるのは明日以降だろう。

 年季の入った非常用のカンテラとハンカチを持ってそっと廊下に出ると、真っ暗な廊下には予想よりも足音が大きく響いた。足で床を擦るように足音を殺して、エヴァの部屋まで進んでいく。何かの鳥が鳴く声が聞こえる。廊下の窓は外を映していて、そこだけがぼうっと藍色に浮かんでいるようだった。見回りの先生が曲がり角から出てくるのではないかと思うと、自然と早足になり、耳はありもしない足音を聞きつけて私を怯えさせた。

 ドアが細く開いていたから、エヴァの部屋は簡単に見つかった。無理に鍵を壊したせいで蝶番の具合も悪くなったらしい。息をつめ、音をたてないように扉を開くとさっとすべりこみ、そのまま扉を出来る限り閉めてしまうと、どっと緊張がほぐれて、じっとりと汗をかいていたのが分かった。気を落ち着けるために、目をつむり、大きく深呼吸してまた目を開く。


 エヴァがそこにいた。眠っていた。私がここにいるともつゆ知らず、安らかな寝息を立てている。真っ白な髪の毛が、頭の横に波打つように広げられている。夜闇の中でそこだけが輝くようだった。


 顔に光がかかって起こしてしまわないように気を付けながらカンテラをかざすと、ろうそくの温いオレンジの光を受けて、瞬くように白い髪がいっそうきらめく。おさげにしているよりもずっとずっと美しい。もったいないことだと思いながら、カンテラをそっと床におろし、ハンカチを開いた。中からは裁縫用の裁ちバサミが出てくる。

 また心臓が騒ぎだし、血の巡るどくりどくりという音で頭がいっぱいになった。早く済ませなければ、見つかるわけにはいかない、そう思いながらエヴァの髪へとハサミを持っていない方の手を伸ばす。指先が震え、嫌な汗が体中からどっと噴き出す。中指がそっと、彼女の髪をなでた。さらりとした、絹のような感触をおぼえた瞬間、私は指だけの生き物になってしまったような気がした。手櫛を通すように彼女の髪に指を潜り込ませる。何の抵抗もなく白い髪の間を滑っていく自分の指しか見えなかった。

 今私は彼女の髪に触れている。愛してやまない彼女の髪に触れている。髪をこうして梳いてやるのはなんとも恋人のようだとさえ思った。出来ることならずっとそうしていたかったが、彼女がわずかに身じろぎしたため我に返った。

 慌てて指を離し、とっさに床にかがみこんだ。私の中で最悪の想像がいくつも頭を駆け巡った。しかし彼女の悲鳴も、罵声も、いつまでたっても聞こえなかった。恐る恐る顔を上げると、彼女はやはり安らかに眠っていた。

 私は立ち上がり、そっと彼女の髪を掴んで持ち上げ、その下にハンカチを広げた。手の中で髪を束にし、ハサミを持ち上げる。


 私がエヴァを屈辱から救うのだ。私こそが彼女を愛しているのだから。


 じっとりと染み出す手汗がハサミを手から滑り落とさせそうになる。ぐっと力を込め、、ハサミを開き、二枚の刃で真っ白な髪を捉える。つややかな髪の集まりはは刃と刃の間で逃げるように広がっていき、しかし最後にはしょきん、と音を立てて落ちていった。手ごたえを失った手が激しく震えている。桃色のハンカチの上には、丸まって眠る小さな獣のような長い毛束がある。

 エヴァが何か小さく寝言を漏らした。何かを呼んでいる気がした。ハンカチで切り取った髪とハサミをくるみ、カンテラを持ちあげて、最後にエヴァを見つめた。童話の眠り姫のようだった。

 目覚めたとき彼女は驚くだろう。けれど大丈夫。もうあんなやつに意地悪をされることはない。明日会ったら愛を告げよう。たとえあなたの髪が白くても、私はそれを美しく思うと、そう言って抱きしめよう。そう満足感と、言いしれない幸福感に浸りながら、夜の廊下を戻っていった。帰り道、一本の髪がハンカチの隙間からこぼれ出た。星屑のようだと思うと自然と笑みがこぼれた。その晩は、不思議とよく眠れたものだ。



 次の日、エヴァは朝食の席に出てこなかった。私は興奮しきりで、思わず紅茶をこぼしバーバラに盛大な嫌味を言われたが何ら気にはならなかった。

 エヴァ、エヴァ、早く会いたい! それしか私の頭にはなかった。みんなで教室に移ったとき、誰もいなかったはずの教室の、右の隅の席にエヴァはいた。私たちの足音に気づいたのか、あげられた顔を見て私は立ちすくんだ。

 そのまぶたは赤っぽく腫れぼったく、直前まで泣いていたことは明らかだった。自分で体裁が整うように切りそろえたのか、私がやったよりもはるかに短くなった髪は少年のようでジャンパースカート姿にはどこか不釣り合いだったが、それでもエヴァの美しさが損なわれたとは私には思えなかった。私が我に返り、声をかけようとしたその時、私の脇から誰かが飛び出した。

 

 茶色の、中途半端な長さのざんばらな癖っ毛を振り乱し、クララ・ガルエはエヴァの方へと駆けていった。誰もがあっけにとられ、息をつめてそれを見守っていた。


「エヴァ!」


 クララの顔は私たちから見えなかった。けれどその切羽詰まった、まるで死にそうな声はみんなに聞こえた。エヴァは青い眼を見開き、そして、その目からぽろりと涙が零れ落ちた。


「エヴァ、どうしたのよ」


 クララがエヴァの前に立ちすくみ、問いかける。エヴァは何も言わなかった。

 ただ、静かに立ち上がると、クララのそれとは違って白く滑らかな腕を伸ばし、クララの背にそれを回した。誰かが息を詰めるのがわかった。クララはぎこちなく腕を上げると、指を優しくエヴァの頭に寄せ、短くなってしまった髪の襟足から滑り込ませて、猫をなでるようにかき混ぜた。

 今まで聞いたこともないくらい優しい声で、クララがささやく。


「エヴァ、大丈夫、綺麗だよ」


 エヴァがしゃくりあげる声が聞こえた。クララの腕もエヴァの背に回った。抱きしめあうふたりを、誰もが黙ってただ見つめていた。私の手は、ハサミの感触を思い出して震えていた。先生がやってきたのを見とがめたドロシーが騒ぎ出すまで私たちはそうしていた。私は内心ほっとしていた。抱き合う二人をこれ以上見なくて済むのだから。


 先生たちは私たちが気もそぞろなのには気づいていなかった。いつも通りに授業が始まり、案の定山のように手紙が回ってきた。


『見た?』

『あれ、見た?』

『クララ・ガルエとエヴァ・エステソ!』

『まさかあのふたりがだなんて』

『知らなかったわ!』


 私はと言えばみんなのように手紙を書く気分にはとてもなれなかった。頭の中では、すすり泣くエヴァの声と、クララにリボンをほどかれた時の微笑みが同時に立ちあらわれた。

 もし、もしもだ。もうできないことではあるけれど、もし彼女のおさげ髪を私が引っ張ったらどうなる? 彼女は笑って許すだろうか?

 肘の下に一通の手紙が差し込まれたのはその時だった。隣のサンデラは口の形で「あなたによ」と示すと素早く前を向き直った。私は先生の目も気にせずに手紙を開いた。真っ白な上質の便箋だった。


「あ、ああ、ああ」


 手が、力を失った。体中から水分が奪われて嫌な汗に変わっていく。視界が明滅した。眠っているエヴァの顔、初めて話しかけてくれた時の微笑みが、頭を一度きりよぎって、そして姿を消していく。


「シャーロット、どうしましたか、シャーロット?」


 許して、許してエヴァ、今はもうすべてが取り返しのつかないことだけれど。

 私はあなたを愛していたのだから。



 床に落ちた白い便箋には、大きなハサミの絵がひとつ。

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Eva la blanca ギヨラリョーコ @sengoku00dr

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