Eva la blanca

ギヨラリョーコ

前編

 私の通っていたカレン・ディルオーグと言えば『女子刑務所』と揶揄されるほどの厳格さで知られた女子寄宿学校だったが、そんな中でもそれなりの楽しみというものはあった。

 わけても、似たような経験は誰にでもあろうが、先生に隠れて手紙を回すのは流行り廃りを超えた一つの伝統じみていた。


 他に凝るようなものもない、髪の結び方から靴下の丈まで校則に縛られたようなカレン・ディルオーグでは、少女たち特有のただでさえ凄まじい凝り性は先を絞られた結果、偏執じみた域まで高められて小さな紙切れにぶつけられていた。

 ノートの切れ端に速記で書いたメモなど回したら、即座にそんな無粋なやつは誰かと突き止められて吊し上げられた――勿論、直接にではなく、教室中を駆け巡る手紙の中でだが。

 その一方で例えば便箋が洒落ているだとか、凝った装飾文字にしてあるとか、綺麗な挿絵がついているだとか、そういった手紙を作る娘は一目置かれて、みんながそういった手紙が名指しで回ってくることを待っていた。綺麗な手紙そのものが嬉しかったし、そういう手紙を寄越すような娘は大体がカレン・ディルオーグの中でも選り抜きで育ちのいいお嬢さんだったのだ。まるでお姫様のような彼女たちに、「あなたに」と手紙を送られて喜ばないほうがおかしいというものだ。

 とにかく、そんな具合でみんなが手紙に熱中していたから、あの問題の日も速やかに、かつ精一杯かわいらしく仕立てられた手紙が教室のあらゆる場所を駆け巡った。私のところにも10通は来たし、あのがさつなクララ・ガルエのところにさえ2、3通は回ったはずだ。紙の色や折り方なんかは微妙に違っていたけれども、書かれていることは大体同じだった。


『見た?』


『見てよ!』


『あの髪の毛!』


『見た? もう見た?』『あの髪の毛、見た?』


『あの転校生、髪の毛が真っ白よ!』



 エヴァ・エステソは私たちとまったくお揃いの、白いブラウスに限りなく黒に近い紺のジャンパースカートといういでたちで現れたが、仮に明るいピンクのドレスで来たところで誰も何も言わなかったろう。リボンタイの結び方が間違っていることなんて当然ながらその時は誰一人気づかなかった。彼女の訛りにも誰も注目しなかった。

 先生の紹介すら私たちはちっとも聞いていなくて、ただ彼女のおさげに結われた、輝くばかりに真っ白な髪をじっと見ていた。そして先生が背中を向けた瞬間にみんなが一斉に便箋とペンと取り出したのだから、エヴァはきっと気づいただろう。

 しかしエヴァはまったく落ち着き払って先生に示された一番後ろの右の隅の席に腰かけた。そのとき6月の太陽の光が窓からさっと滑り込み、エヴァのあの真っ白な髪は、真珠のように光っていたのだった。



 私たちは当然、彼女の髪の毛に興味津々だった。だったが、なまじ育ちのいい私たちには、ちょっとエヴァの肩を叩いて、『あらあなたの髪って真っ白なのね!』などと言うことは恥知らずであるばかりか残酷な振る舞いだと分かっていたので、仕方なしに彼女の髪がまるで私たちと何ら変わらない金や茶であるかのように扱うこととなった。髪の話題は慎重に避けられた――実際の会話では。

 人懐こい娘たちはエヴァとは勉強や、姉の結婚や、リゼットの持ち込んだ恋愛小説の話をして、授業中に回される手紙の中では、まとめて一冊の小説本をこしらえられそうなくらいに膨大な、あの白い髪にまつわる空想を交換し合った。白のきらきらとした光沢紙が流行ったのは偶然ではないだろう。


『かわいそうに、うんと怖い目にあったのよ』

『実はうんとおばあちゃんなんだわ、お化粧して皺をごまかしてるの』

『白いハトみたいなものよ、幸福の証ね、彼女にうんと優しくすべきね』


 モリー・ラーソンの『雪の妖精の娘よ』という説は真偽はともかくとして私も気に入った。確かに彼女の髪は初雪のような色をしていたのだ。そういう罪のない空想は、もちろんエヴァ当人からは注意深く隠された。彼女をバカにしていると思われては困る。

 それにクララ・ガルエも空想からは遠ざけられた。私たちはクララを信用していなかったのだ。彼女はがさつで、制服の着方が悪い、授業の受け方が悪いと先生からもしょっちゅう怒られていた。

 そばかすくらいならリゼットにもあるが、どう櫛を通したのかと思わされるような縺れ方だったのをある日ハサミでひと思いにぶっつり切ってしまってからというものの結うには中途半端な長さで放っておかれているあの茶の髪や、硬いばかりの石ころみたいな黒い眼と合わさるとどうも粗野な感じを受ける。

 それに第一彼女の方も私たちとか、もっと上品なお嬢様たちとか、厳しい先生たちとか、果てはスープを配る炊婦さんまで、言ってしまえばカレン・ディルオーグそのものが気に入らなかったようだった。彼女の両親はきっと娘がこの学校にいる間に少しでも淑やかになってほしかったのだろうが、かわいそうにその目論見は失敗していた。


 

 そう、クララ・ガルエ、彼女はタブーを破ったのだ。あれはエヴァがやってきてから一週間ほど経った日だった。

 私たちの中でも特に社交的な娘たちは初めこそ寄ってたかってエヴァの案内役を買って出ていたが、彼女がこの学校に慣れるにつれて潮が引くようにそれは落ち着いた。つまり食堂へと向かうあの廊下で、ちょうどエヴァは連れもなく歩いていたのだ。その後ろからいつも通り一人でやってきたのがクララだった。


 彼女は足音高くエヴァに迫ると、背中で一本のおさげにされた純白の髪を掴み、ぐっと引っ張ったのだ。


 きゃあ、と高い声が廊下のはるか上の天井まで響いた。私以外の全員の目も二人の元へと集まった。あのときのクララの意地悪そうな笑い方と言ったら! 

 とっさに振り向いてそれを見たエヴァの顔は、みるみる耳まで赤くなっていった。目は零れるんじゃないかというくらいに見開かれ、青い瞳がぐらぐらと揺れていた。クララは非道い笑みを崩さないままに、こともあろうにエヴァの頭をぱんと軽く叩くとすたすたと廊下をあるいていったのだ。

 私たちも、エヴァも、誰も何も言えずにその背中を見送った。私はというと、彼女の顔からゆっくりと赤みが引いていくのを眺めながら、白い肌に青い眼というのに白い髪とはなんと綺麗なのだろうと今更のように考えていた。モリーがあんなことを言い出す理由も分かろうものだ。

 その日クララ・ガルエの姿を食堂で見ることはなかった。誰かが先ほどの事件を先生に伝えたのだろうか。

 しかし私はそんなことに構っている場合ではなかった。その日私は初めて食堂でエヴァの隣に座っていたのだから。私はわけもなく緊張していて、スープの味もろくろくわからなかった。ちらりとスープを飲んでいる彼女の方をうかがっては目を逸らし、口を開いてはそれをごまかすようにスープを流し込んでいた私は、自分の皿にもうあとスプーンで5杯程度しかスープが残っていないのに気付いて、ようよう決心を固めると、彼女の方にぎこちなく向き直った。


「ねえ、エヴァ、コショウ壜取ってくれない?」


 エヴァは私の、8割がた飲まれたスープ皿をちらりと見たが、特にそれに対してのコメントはなかった。彼女は少し腰を浮かすと、腕を目いっぱい伸ばしてコショウ壜をとってくれた。私のために、あの白く輝く髪を揺らして、そして壜を差し出した。


「どうぞ、シャーロット」


 私の手は震えていたと思う。対してエヴァは転校初日のあのときのようにさっぱりと落ち着いていた。当たり前だ。彼女にしてみれば隣の席の人にコショウ壜を取ってやっただけ、取るに足らないレベルの親切だ。けれども私にとってはそうではなかった。初めて彼女と一対一で交わした会話だったし、それに、彼女に、名前を呼ばれたのだ。

 コショウの振りすぎで辛くなったスープを飲み干してから、私は考えた。なぜ学友に初めて名前を呼ばれたということが、こんなにも心を揺さぶるのだろう? 

 エヴァはすでに席を立っていた。周り皆が親しい学友だというのに、なぜだか私一人が、限りなく黒に近い夜の海に取り残されたような、猛烈に寂しい心地がした。



 その日から私は、その感情が何なのかを突き止めるべくエヴァに近づこうと奮闘する羽目になった。大勢のうちの一人として彼女と話したことは何度かあったが、いざ改まって二人で会話しようとなるとなかなか難しい話だった。

 元の通り色とりどりになった手紙からわかるように彼女の人気は落ち着きつつあり、白い髪もそういうものとして受け入れられつつあったけれど、それでもまだ彼女は注目の的には変わりなかったし、なにより私には彼女に近づきたいという動機はあったが、彼女と何を話したらいいのかさっぱりわからなかった。リゼットやモリーとの会話では、話題は泉のように湧いてきて尽きないというのに、エヴァの前に立つとそれらはたちまちしぼんで、私は結局物言いたげに彼女をじっと見つめるしかなくなってしまう。それでようやく絞り出した言葉が「おはよう、いい天気ね」だったりするのだからもう目も当てられない。

 それでも私は日に一度二度、意味があるような無いような言葉をエヴァと交わし、彼女を見つめ、そのたびにざわつく心臓に手を当てて、どうしてこうも息が詰まるのか、逃げ出したくてたまらないようでひどく甘ったるい気分になるのかとそればかりを考えていた。


 腹の立つことにクララ・ガルエにはたびたび邪魔された。と言っても彼女には私に対する悪意などなかっただろう。彼女にあったのはエヴァへの悪意だ。

 クララは彼女のおさげ髪を引っ張るいたずらがいたく気に入ったのか、毎日毎日背後からつかつかと歩み寄ってはぐっと真っ白なおさげを後ろへ引っ張り、顔を真っ赤にしたエヴァをのけぞらせては例のにやにや笑いをするのだった。たまになど正面からやってきては彼女の襟元のリボンを引っ張ってほどいてしまい、彼女があたふたとそれを結びなおすのを揶揄するように彼女の頭を軽く叩いたりもした。

 私たちから無視されているから、まだカレン・ディルオーグの気風になじみ切っていないエヴァを構うのだろうというのが大方の意見だったし、私もそれに同意した。



 私が決定的な発見をした時もクララはその手を使った。授業が終わってみんなが教室から出ていこうとするとき、私がエヴァに話しかけようか迷っていたその一瞬に、さっと筋っぽい腕が伸びてきて、素早くリボンタイの端をつかむやそのまま引っ張ってほどいてしまった。短気なバーバラがちょっとクララ、と声を上げたときにはもう手を誰ともなくひらひらと振りながらすたすたと教室から出ていくところだった。


「ひどいことするわね」


 白状すると内心このクララの蛮行を糸口にできることを私は喜んでもいた。エヴァはもたもたとリボンタイを結びなおしていたが、私に気づくとああ、とため息のような音を漏らしてから微笑んだ。


「いいのよ、別にいいの」


 なんて優しいエヴァ・エステソ! 私は感動していた。彼女は自業自得で孤独なクララの蛮行を気にしていないというのだから。私なら絶対に先生に言いつけるが、そういえばエヴァが自分からそのようなことをしているところは見たことがない。

 綺麗で優しくて落ち着き払ったエヴァは、リボンタイをようよう結びおえたが、結び方が間違っていたのか変にタイは曲がっていた。


「エヴァ、タイが曲がってるわ」


 そんなぶしつけなこと一度だってしたことがなかったのに、気づけば手を彼女の襟元へと伸ばしていた。あともう少しで届く、触れてしまうというそのぎりぎりの距離で止まれたのは、エヴァがやはり穏やかな笑みで、「いいの、大丈夫よ」と言ってみせたからだった。

 そのままふっと体を翻して出て行ってしまったエヴァを見ながら、ばかみたいに宙に浮いていた手を引っ込めて、私は頭の中でぐるぐると回る言葉を追いかけた。


 エヴァに、触れようとしていた。あの優しくて綺麗な笑顔。綺麗なひと。触れなかった。触りたかった。触りたかった。


 ああ、私はエヴァに恋をしている。


 だとするとこれがきっと初めてだ。でもきっとそうだ。触れたくて、その人のすべてが美しく見えるのならばそれは恋だとリゼットの持っていた小説にも書いてあった。なんてこと、私もエヴァも女の子なのに。

 けれど私は、口さがないタイプの子たちが手紙に書いてくるように、『そういった』仲の女の子たちが何人かいることを知っていた。神様はお怒りになるわ、と初めて聞いた時は思ったけれども、今や私はそれを受け入れていた。それどころか、やましい、みだらな気持ちなど一片もない私のこの感情はなんら恥じるべきものではないという考えさえ浮かぶようになっていた。



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