十六 さらば 大和よ  長岡京遷都


七八三年(延歴元年)から七八五年(延歴三年)


七八三年十月十四日。

毎日、内裏の正殿で太政官たちの聴政をして、そのあとも官人を呼んで休むことなく政務を執っていた桓武天皇が初めての行幸をした。

行く先は百済王明信の交野かたのの邸で目的が狩猟だから、これまた、これまでにない行幸だ。

随行する貴族も少なく、大納言の藤原継縄(五十六歳)。中納言の藤原小黒麻呂(五十一歳)。参議のみわ王(四十六歳)。参議で近衛中将の紀船守(五十二歳)。参議で近江守の藤原種継(四十六歳)。右衛門督の坂上苅田麻呂(五十五歳)。衛門督の佐伯久良麻呂(五十七歳)など、桓武天皇が重用する腹心だけが従う。

あとを右大臣の藤原是公(五十六歳)に任して、桓武天皇は馬で宮城をあとにした。

平城京からみれば、交野は生駒いこま金剛こんごう山脈を越えた向こう側、河内平野に向く丘陵にある。

河内平野に出るには、生駒金剛山脈の中でもっとも北にある清滝峠きよたきとうげを越える道(行基大僧正が開いたから行基道とも言う)を使う。この道は分岐して四條畷と交野に続き、若い日に父の光仁天皇と幾度となく通った道だ。その頃のように彩られた紅葉のなかを桓武天皇が駆る。

先に交野に来て待っていた明信は、天皇の到着が予定より早いと聞いて百済王家の人たちを集めて並ばせた。


天皇が臣下の邸に行幸することはあるが、退位直前に大臣の邸に出向き日帰りする例が多い。自分を支えてくれた大臣とその家族を、最後に昇位させることが目的だった。

百済王敬福は黄金がでたことを奏上して越階えっかい(飛び級)したが、ほんらい百済王家は正五位上あたりで昇位が止まり、太政官にはならない渡来系貴族だ。

その百済王家出身の女官の別荘に天皇が泊まりにくる。

百済王家は、この日のために、はりきって行宮あんぐうを作っていた。

去年の乞巧奠きこうでんのころに、明信が交野に長く滞在していたのも準備のためだ。行宮は宴会ができる広間と、天皇の寝殿と、随行する貴族たちの身舎もやや、従者たちが宿泊できる施設まである大規模なものだった。

敬福の長男だった明信の父は逝去しているので、叔父の武鏡ぶきょうが一族をつれて並ぶ。

その前で、すでに犯しがたい威光を放つ四十六歳の桓武天皇が、秋の日差しを浴びながら馬から降りて、まぶしそうに空を仰いだ。

「ご光臨こうりんえいを賜り光栄に存じます」と従五位上で大膳亮だいぜんのすけをしている敬福の二男の武鏡が深々と頭を下げた。


「久しぶりに宮城を出たら気が晴れた。

皇太夫人が同行したがっていた。ここを自由に訪れていた日がなつかしい」と部屋にくつろいだ桓武天皇。

「ご紹介させていただきます。ご逗留中に身辺のお世話をさせていただくものです。

従姉妹の明本めいほん恵信けいしん。そして、こちらは飛鳥部あすかべの永児えいじと申します」と明信。

この行幸に舎人は来ているが、女官や夫人たちは同行していない。

三人の娘を眺めてから、桓武天皇が訊ねるように眉を上げて明信と継縄を見た。

「明本は十九歳、恵信は十六歳です。

永児のことは、ご説明させていただきます。

飛鳥部氏をご存じでしょうか」と明信。

「古くから河内かわちのくに安宿あすかぐんに住む百済系の氏族で、藤原不比等と関わりが深かったと聞く。

西かわちのふみのうじとは同族か?」と桓武。

「はい。文氏は学問に通じますが、飛鳥郡は泥地の管理をします」と明信。

桓武天皇の眼がキラッと光る。

「湿地を造成できるのか?」と桓武天皇。

「直答しなさい」と明信が永児に言う。

「はい。水を除くための伝来の技法はあります。

でも、たいしたことはできないと思いますから、お聞き逃し下さいませ」と永児が身を固くして平伏した。

「永児というか。

エイ。その言い草はなんだ。

そのほうが泥地の管理がきると、明信に売り込んだのではないのか?」と桓武。

永児が困ったように明信を伺う。

「それは違います。この娘に興味を持って、わたしが飛鳥部のことを調べて知ったことです。この娘からは聞いておりません」と明信。

「ふーん。継縄。

ここに居る間に、飛鳥部で土壌の管理にくわしい者を集めてくれないか。

会って話しを聞いてみよう。たいしたことは出来ないそうだが確かめておく」と桓武。

「承知しました」と継縄。

「明信。永児のどこに興味を持った?」と桓武。

「容姿に引かれました」と明信。

「このごろは見栄えさえ良ければ、女にもチョッカイを出すようになったのか」と桓武。

「帝のためなら何でもいたします。

永児は二十四歳で、北家の藤原内麻呂との間に二人の息子がおりますが休書きゅうしょ(離縁状)を出されました」と明信。

「内麻呂か。北家の真盾の三男で従五位下だ。

穏やかで人当たりが良く、若いくせに言葉を慎重に選び仕事にも難がない。

そういう男は本心を隠すから注意がいるが、朕に逆らうほど愚かではないだろう。

北家には、すでに鳥養の息子で中納言の小黒麻呂と、永手の息子で参議の家依がいるが、それにつづく若手の注目株だ」と桓武。

「永児は既婚歴がありますし、出自しゅつじ低くひん(天皇の妻となる四位と五位の貴族の娘)の対象にもなりません。

お気に召しましたら気兼ねなくお側におけます」と明信。

「いつから女の世話までするようになった?」と桓武。

「北家は女子に恵まれず、入内させる娘に困っています。

永児は北家に息子がいて、飛鳥部は土木工事ができる渡来系氏族です」と明信。

「使い道があるといいたいのか。

エイ。西文にしのあやの津氏を知っているか」と桓武。

「はい。津氏は縁族になります」と永児が答える。

「いま近江大掾だいじょうをさせている津真道まみちという男を知っているか?」と桓武。

「・・・いいえ。わたしは存じませんが、一族の中には知っている者がいると思います」と少し考えてから永児が答える。

「その男が何か?」と継縄。

「前回の叙位議じょいぎ申文もうしぶみのなかに、その男の者があった。

読んだところ通じるところがあったので、外従五位下に推して近江大掾に任じた。まだ顔を見たことがないが、会って話を聞いてみたい。

位に該当する部署に空きがあれば、京官にしてほしい」と桓武。

「心得ておきます」と継縄。

「外従五位下の者まで謁見えっけんされると、お休みになれるときがありません。少しは、お体のことをお考え下さい。

帝。湯涌に湯を張っております。お体をながされますか」と明信。

「髪のなかまで砂だらけだ。みなが集まるまでに湯浴みをしたい」と桓武。

「永児がお仕えしてお体をお流しします」と明信。

「おまえの下心がありそうな口入れが疲れる。黙って案内せよ」と桓武が立ち上がった。

「こちらへ」と継縄が先に立つと、明信が手で促して永児にあとを追わせた。



河内平野の東にある交野は、平城京からは直線で13kmほど北西に位置しているが、平城京と河内平野のあいだに生駒金剛山脈があるので、道は山裾を回って23kmほどの距離がある。

その交野から北に13kmほど行くと、山崎と呼ぶところへ出る。

山崎は扇状に広がる河内平野のかなめに当たる場所で、北東の山背やましろ盆地とつながっている。


日本は島国で、山ばかり多くて平地が少ない。

平城京をとりまく畿内(大和、河内かわち摂津せっつ山背やましろ)には、大和(奈良)盆地、河内平野、武庫むこ平野、山背(京都)盆地があるが、川が運ぶ土砂などが埋めた沖積ちゅうせき平野だ。

なぜ川が埋め立てて平地を造ったのかというと、これらの盆地や平野は、一万六千年ほどまえに起こった縄文海進じょうもんかいしんのときに海底だったことがある。氷河期が終わって氷が溶けたために、海水が上がって水没していたのだ。

その頃には平城京がある大和盆地も湖だった。

海水が安定したあとで、四方を囲む山から流れる川が土砂を運んで埋め立てたのが大和盆地だが、盆地の西を遮る生駒山脈と金剛山脈の隙間にあたる葛木渓谷かつらぎけいこくのそばには、まだ奈良湖という湖が残っている。

大和盆地は標高が40mから80mもあり、奈良湖は標高40mだから盆地を流れる全ての川は奈良湖に流れ込んでいる。

奈良湖から流れ出るのは大和川だけで、葛木渓谷を通って河内平野に向かう。

平城京から外へでる水利は、この大和川だけだった。

大和川は、奈良湖を出てすぐに標高40mから30mに落下する亀の背という急勾配の難所を通るので、安易な水路ではない。

葛木渓谷をでると、大和川は河内平野にある河内湖(草香江くさかえ)という東西10km、南北3~6kmの湖に流れ込む。この湖は平城京よりも大きい。


縄文海進で水位が高いときには、大阪平野(河内平野と武庫平野)も内海だった。

大阪港を外海にして、生駒山脈の南から南北に延びる上町うえまち台地が半島のようにつき出てできた河内湾とよばれる海だったのだ。そのころは内海が北の山背(京都)湾までつながっていた。

水位が収まってから長い年月をかけて、川が土砂を運んで内海を埋め立てた。

いまは上町台地から西の六甲山脈までの武庫平野と、上町台地から生駒金剛山脈までの河内平野を合せて大阪平野というデルタを造っている。ただ山背盆地も大阪平野も、網の目にように流れる川を持つ湿地帯だった。

大阪平野のなかで埋め切れなかったのが河内湖(草香江)で、大和からきた大和川も、大阪平野を網の目のように流れる淀川も河内湖に流れ込んでいる。河内湖は外に流れる川がなく、海にもつながっていないので水害を起しやすかった。


七二〇年にできた「日本書紀」によれば、桓武天皇は五十代目の天皇になる。それより三十四代もまえの十六代仁徳にんとく天皇は河内に王朝を開いた。はっきりした年代は分からないが、恐らく四世紀ごろの天皇だ。

海面が上昇していたときにも、上町台地と、生駒山脈のふもとの交野台地、六甲山脈のふもとの千里丘陵は海上より上に出ていた。平野となってからも、これらの地は高台で地盤が固い。

だから難波宮(大阪市中央区法円坂)の大極殿は、のちに造られる大阪城の天守閣の直南にある。大阪平野のなかで中央に位置して地盤が堅固なのは上町台地にある、この場所しかないからだ。

仁徳天皇の王宮がどこか分からないが、いまの難波宮と同じ場所か、その近くだろう。

仁徳天皇は、河内湖と大阪湾(難波津なにわつ大阪市中央区高麗橋か)を繋ぐ人工水路の堀江ほりえを造った。これは難波宮のそばにある。

そのほかに河内湖の北西(大阪府寝屋川市付近など)を流れる淀川に、長さ20kmほどの茨田堤まんだのつつみとよぶ堤防を築いた。


茨田堤と堀江は治水工事による日本最古の遺構で、最近まで使っていた。

平城京から大和川で河内湖に入る船便は、河内湖の南西にある堀江を通って難波津から瀬戸内海に出る。これが平城京と海を繋ぐ唯一の海路だった。

ところが十数年前から、堀江の底に川砂が堆積して水深が浅くなり、船が座礁ざしょうするようになった。いまでは堀江が使えずに、すでに平城京と四国の連絡に支障がでている。

大和川を他の川と合流させて、河内湖の手前で海に流せないかと調査しているが、適当な川を見つけていない。

大阪平野を流れる淀川の方は、摂津せっつを流れて海に出る神崎川との合流ができそうだった。

桓武天皇は摂津守せっつのかみ(兵庫県)の和気わけの清麻呂きよまろに命じて、淀川と神崎川を合流させる河川工事をさせていた。それが来年には完成するところに来ていた。

これが出来ると、多くの支流に別れて大阪平野に広がり、河内湖に流れ込んで水害をの原因になる淀川の被害を防げる。

そのうえ山背から海につながる淀川のほうが、大和川より便利になる。

のちに淀川の工事が終わったあとで、桓武天皇は大和川を海につなぐ工事も和気清麻呂に命じて試みるが、延べ二十万人以上の役夫を使って失敗に終わっている。大和盆地から海にでる海路を造るのは、無理だったのだ。



交野に着いた次の日から、桓武天皇は狩にでかけた。

交野から北に向かい、行基が架けた山崎橋を渡って淀川を越えれば、山背盆地(京都)の南西の角に出る。

山背盆地は東西と北に山が連なっている。呼び名は東山連峰、西山連峰、北山連峰と分かりやすい。比叡山は東山連峰の北方にあり、鞍馬山や貴船きぶねや高尾山は北山連峰にあり、嵐山は西山連峰にある。

南から北に延びる西山連峰は、裾野に標高15mから30m、幅が3kmから5kmはある段丘をもっていた。縄文海進でも水に浸からなかったこの段丘には、古くから人が居住している。

山崎橋を越えて、段丘の上を5kmほど北へ行くと乙訓郡おつくにぐん長岡村(京都府長岡市)で、さらに3kmほど北に西山段丘のなかでも高い向日ひゅうがの丘(京都府向日市)が続く。

その先は葛野郡くずのぐん大原野おおはらの(京都市西京区大原野)の丘陵で、その先に大枝おおえという場所がある。

都に痘瘡が流行っているときに誕生した桓武天皇は、大枝に住む土師氏の家で生まれて育った。新笠の母で、桓武天皇の母方の祖母になる土師真妹まいもが住んでいたからだ。

十五歳で加冠かかん(成人式)をするまで、桓武天皇は母の新笠に連れられて都に行くときのほかは多くの時を大枝で過ごした。竹林に囲まれたこの地を好んだ光仁天皇が滞在することも多かった。

桓武天皇が父と語らったのも、姉と遊んだのも、酒人邸で家令をしている芳ジイと魚を釣ったのも、亀岡へ続く大枝の山林や、大原野から日向の丘にかけての西山段丘のそばの山野や川だった。

この辺りは古墳が多く、桓武天皇の即位後に土師から大枝に改氏した新笠の親族が管理している。

山背盆地の西山連峰の裾野をとりまく段丘は、桓武天皇のふるさとだ。


「良いところですね」と向日の丘に立った紀船守が言った。

光仁天皇の母で、桓武天皇の父方の祖母が紀橡姫とちひめなので、紀氏は古代豪族だが引き立てられている。

向日の丘からは山背(京都)盆地と、それを囲む山が見渡せる。この展望は平城京にはない。

盆地の西側は湿地帯で、向日の丘のそばに桂川が流れて巨椋池おぐらいけがある。

巨椋池は周囲の長さが18km以上あり、伏見までつながる日本最大のだ。

この池は宇治川と桂川と木津川が合流する低地に、水位を調節するために川が作った自然の遊水池だった。集まった川は、淀川として大阪平野に流れる。

桂川の上流は、秦氏が大堰おおいを築った嵐山のそばで大堰川、さらに上流は保津川と名を変える。

宇治川は琵琶湖が水源で、上流は「仲麻呂の乱」に登場した瀬田せた唐橋からはしが掛かる瀬田川になる。

木津川は鈴鹿山脈から流れて、名張川と合流して淀川に入る。


「問題は桂川に近く、氾濫したときに水がどこまで上がってくるかです」と藤原種継が腕を組む。

渡来系豪族の秦氏の母を持つ種継は、向日の丘から桂川沿いに14~5kmほど北にある蜂岡(太秦うずまさ)で生まれている。

「この丘は七じょう(21m)ぐらいの高さがあるでしょうか?」と藤原小黒麻呂。

小黒麻呂の長男の葛野野くずの麻呂は、太秦おおはた嶋麻呂のしままろの娘がもうけている。

「川からなら、もっと高いはずですから、余程のことがない限り、ここまでは冠水しないでしょう。

しかし、こうして見たところ、京内となる所にも湿地があるようです」と、段丘の上にある農家や寺や古墳を見回しながら坂上苅田麻呂。

坂上氏は、渡来系の東漢氏やまとのあやしを代表する氏族だ。四世紀後半に日本に来た後漢(中国)の霊帝の末裔だが、日本に来る前に百済と高麗に挟まれた小さな帯方たいほう(朝鮮半島)という土地にしばらく滞在していて、そこの人々を連れて渡来している。

「工事を開始するには、まず山崎橋を改築しなければならない。

苅田麻呂。山崎橋を新しくすることができるか」と桓武。

「はい。すぐに橋の架設工事の経験がある者を手配します」と苅田麻呂。

「橋を改装するとともに、山崎に津(港)を作って欲しい。

山崎の橋と津に関しては苅田麻呂に任す」と桓武。

「承知しました」と苅田麻呂。

「この丘陵に難波宮を移すのですか」と藤原継縄。

継縄の妻は百済王明信だ。

今回の行幸に同行している太政官や高官は、インフラ工事に必要な技術者を集められる渡来系氏族を縁戚に持つ者が多い。

「古墳を壊して整地し、宮城はさらに盛り土をして高くする」と桓武。

「古墳を壊すのですか?」と継縄。

「平城京も古墳を壊して造られた。ここにあるのは三百年以上は経っている地方豪族の古墳だ」と桓武。

「子孫がいるかもしれません。いたら承諾してもらわねばいけないでしょう。

そのあとで埋葬者を弔って他の場所に移し、土地を清めなければなりません。

大中臣さんに相談して、陰陽寮にも手伝ってもらいましょう」と継縄。

「その手配は継縄。そのほうに任す。佐伯久良麻呂は継縄を手伝え。

古墳の解体や造成には大枝氏が手を貸してくれる。

ここに居住している農民との折衝せっしょうもまかす」と桓武天皇。

「承りました」と佐伯久良麻呂。

久良麻呂は、紀広純の副使として陸奥に遠征していて桓武天皇の春宮亮しゅうぐうのすけとして呼び戻された。

「築城の経験があるのは、佐伯今毛人さんですねえ」と神王。

「宮城の建造は今毛人に任せよう。

種継。宮城をのぞいた新都造営の総指揮を任せる。

この地に坊条で区切った都を作る。

まず近江のそまに命じて木材を斬りだせ」と桓武。

杣というのは、大規模な建設工事用の木材の伐採地として設置した山林のことだ。

近江守を兼ねる種継が黙ったまま頭を下げた。

「それから紀船守。賀茂かも氏への連絡は、そのほうに任せる。

加茂氏を説得して協力させろ。

それぞれが任されたことを成し遂げる眼で、土地を見て欲しい」と桓武。

「帝。わたしは山崎に戻ります」と苅田麻呂。

「苅田麻呂。今夜は大枝に泊まる。秦氏を呼んでいるから夜は大枝に来てくれ。

いいか。それぞれが下見をして疑問に思うことや思いついたことがあれば、どんなに細かなことでも良い。朕に報告するように」と桓武天皇。

まだ遷都の発表はされていない。官人たちも都の人も遷都があるとは夢にも思っていない。今回の行幸は、即位してから政務に励んでいた天皇が側近を連れて狩りに出かけたと思っていた。



大和政権が成立してから都が大和盆地を離れたのは、「大化の改新」をした難波京と琵琶湖のほとりの近江京だけだ。難波京のときは孝徳天皇が在位していたが、実権は皇太子の中大兄皇子(天智天皇)にあり、近江京は天智天皇の治世下だった。

ただ難波京も近江京も、大和盆地に本拠を置く古代豪族の反発を受けて、都を大和へ戻している。恭仁くに京、難波京、紫香楽しがらき京と遷都をくり返した聖武天皇も、大和盆地を離れることができなかった。

天智天皇のひ孫になる桓武天皇は、それらを心得たうえで大和盆地を離れようとしている。

山背(京都)盆地は270㎢。大和(奈良)盆地は300㎢。広さに大差はないが山背盆地の西半分は湿地だった。湿地ではない良地の多くは秦氏や賀茂氏や田辺氏や粟田氏などが持っている土地だ。

なかでも秦氏と加茂氏は、水源を祀って守っている。

加茂氏は、山背盆地の東を流れる鴨川の上流に賀茂神社を祀っている。

秦氏は、鴨川の下流の伏見に稲荷神社を、桂川に添いの松尾には松尾神社を祀っている。水を押える二氏の協力は必要だった。



四泊五日の行程で下見や打ち合わせを済ませ、桓武天皇は十八日に宮城に戻った。

女官の別荘に天皇が四泊するなど前代未聞のできごとだが、だれも不平を言わず妙な噂も流れなかった。「氷上川継の乱」で、今生天皇がただ者ではないと思い知ったからだ。天皇の寵愛が深いと庶民にまで名を知られた百済王明信は、とっても気を良くした。

これより前に、右大臣の是公の娘の吉子夫人は懐妊のために実家に戻っていたが、十月の末に男子を出産した。桓武天皇の第二親王になる伊予いよ親王だ。

四十六歳になった桓武天皇は、乙牟漏皇后所生の第一親王で九歳の安殿親王と、酒人妃所生で第一内親王なる四歳の朝原内親王と、吉子夫人所生の伊予親王の三人の子を持つ父親になった。

交野から戻ってしばらくして、桓武天皇の寝殿に明信が一人の女嬬を連れてきた。

「わたしの下につく新人で、百済永継ながつぐと申します。

お見知りおきください」と明信。

調べ物をしていた桓武天皇が、チラッと眼を向けて木簡を置いた。

女嬬の姿をした飛鳥部永児が平伏している。

「百済永継か」と桓武天皇が、面白そうな眼で明信を見る。

「はい。わたしが身元を引き受けて、呼び名を百済と改めました」と明信。

「百済にも何回か政変はあったと聞く。王位を巡っての争いで抹殺されて、子孫の生死が分からない王もいるであろうな。明信」と桓武。

「さあ。三百何十年は続いた国ですから、いるかもしれません」と明信

「百済系の官人で、実力はあるが先祖の由来が分からない者や、由来は分かっていても貧弱な者たちがいる。

その者たちが名乗っても差し支えのない百済の王族の名を探せ」と桓武。

「どれぐらい前に帰化したのですか」と明信。

「百済が滅んだのは百二十年ほど前だ。その者たちは日本に帰化して三百年は経っている」と桓武。

「三百年ですか。

百済の歴史に詳しい者に、政争で追放さたり殺されたりして子孫の行方が分からず、日本に逃れたとしてもかまわない王族を探させれば良いのですね」と明信。

「そうだ。

エイ。朕には、すでに女嬬がもうけた子があるが、公には認めていない。

それでも良いのか」と桓武。

「はい」と永継が頭を下げる。

「それなら、さっそく肩を揉んでくれ」と桓武。

「はい」と永継がしずかに桓武の背後に立つ。

飛鳥部、飛鳥戸あすかと、安宿戸とも書くが同族だ。飛鳥部氏の泥地管理の技術はたいしたもので、すでに向日の丘に人を送って土壌の調査をはじめていた。



十二月に桓武天皇が勅をだした。

「諸寺は出挙すいこ(貸し付け)で家を質に取ったり、利子を元金に繰り入れたりしている。官使も公認している。今後、利子は元金の一割を超えてはならない。従わない者は、違勅の罪で官人は現職を解任して財産を没収する」


治部じぶ卿となった壱志濃いちしの王からの報告で、寺の貸し付けは利子が五割から十割と高く、返せないと担保の家を取りあげていたことが明らかになった。その利子を、一割以上は取るなと言う勅令だ。

東大寺などの官寺は、修業に励めるように運営費も営繕費も生活費も国が出している。にもかかわらず蓄財に熱心だった。貨幣だけではなく塩や米も貨幣と同じように扱われているから金貸しとは呼べないが、五割から十割の利子とは悪質な高利貸しだ。

ほかにも大寺院は、墾田こんでん永年えいねん私財法しざいほうによって荒地を開墾して、荘園そうえんと呼ぶ広大な田畑と周辺の山を私有している。その荘園を耕作するために、逃散とうさん百姓びゃくしょうを受け入れていた。

租税に苦しむ百姓は荘園に雇われれば、不作の年でも住むところと食べものは与えてもらえた。本籍地に居ないから兵役や苦役の徴集も逃れられる。だから受け入れ先があると土地を捨てて逃げる百姓も増える。

逃散百姓が多くなると税収入が減る。そのうえ捨てられた田は荒れて使えなくなり、六年ごとに行われる戸籍の調査で農民に貸し与える農地(班田はんでん収受しゅうじゅ)の総面積が狭くなって足りなくなる。

経済力を蓄えた寺院は、国の基盤を揺るがす存在になり始めていた。



七八四年。


三年前の正月は、光仁天皇の治世下で桓武天皇は皇太子だった。

二年前の正月は桓武天皇が即位したあとだったが、光仁天皇が崩御された直後で朝賀も祝い事もなかった。去年は、まだ先帝が忘れられないと桓武天皇は朝賀ちょうがをとりやめた。

だから即位して二年半が経過した今年が、桓武天皇が行うはじめての朝賀になる。

そして一部の人だけが知っていることだが、恐らく奈良の都での最後の朝賀になるはずだ。

桓武天皇は乙牟漏おとむろ皇后と供に玉座についた。早良皇太子と新笠皇太夫人、酒人さかひと妃と神王夫人の美弩摩みぬま内親王が玉座の横に置かれた席にすわる。桓武天皇の兄弟姉妹の親王と内親王は、もう早良皇太子と酒人妃と美弩摩内親王しか残っていない。

まだ二十四歳の乙牟漏皇后は清楚で美しいという評判で、三十歳になった酒人妃は妖艶さが増したと噂が高い。

二人の美妃を従えた天皇は、視線を向けるだけで人を押えこみ啓発させ、おののかせるだけの威圧と威光を放っている。

大極殿の人影を、その方だと思うだけで朝堂院にいる官人は身が引きしまった。

今年の正月は三年ぶりで寿ことほいで、初春らしく宴や昇位や任官が行われた。

右大臣の藤原是公(南家)は従二位になり、正三位の藤原小黒麻呂(北家)と従三位の藤原種継(式家)が中納言になった。大臣は大納言から、大納言は中納言から選ぶから、五十一歳の小黒麻呂と四十七歳の種継は大臣への道を歩みだした。

昇位した是公は、第二皇子の伊予親王の外祖父になる。中納言の種継も、乙牟漏皇后と第一皇子の安殿親王の外戚で式家の代表者だ。

大納言の継縄は据え置かれたが、同じ年齢で同じ南家に産まれた従兄弟の是公の昇位を、本人に向かって「うらやましいなあ」と言いながら嬉しそうに祝福した。



二月九日に、従三位で参議と春宮大夫をしている大伴家持が、持節じせつ征東せいとう将軍に任命された。六十六歳になる家持は体調がすぐれなかったから、桓武天皇も東北に発つ必要はない。ゆっくり養生するようにと家持に伝えていた。

遷都を目論んでいるときだから、工事に従事する役夫が必要で徴兵もしていない。家持を名だけの将軍にしたが、桓武天皇に東征をするゆとりなどなかった。


寒さは居座っているが雨が降るたびに土地が緩んで、種の芽吹きを促すような土の香りがする。そんな二月の中頃に、左少弁さしょうべんをしている大伴継人つぎひとの邸に、兵部ひょうぶ大輔だいすけの大伴真麻呂ままろが来ていた。

「京官が大幅に減っている」と継人が苦い顔をした。

去年の四月に左少弁として京官に戻るまで、継人も地方官をしてきた。

「地方官に任命されるのは良いほうだ。散位となって都に残っている者が多い」と真麻呂。

「いままで代々、大伴が受け継いできた官職の多くを、この二年で失った」と継人の兄で、右衛門うえもんの大尉たいじょう竹良たけらが髭についた酒粕を手で拭う。

大伴氏の三人は四十代後半になるが、従五位下で昇位が止まったままの貴族だった。

継人は、佐伯今毛人が病欠した遣唐使のときに判官として唐に行った。帰国のときに沈没した第一船に乗船していて、十一月の海を方一丈(約3㎡)の舳先につかまって六日間も漂流して生還した一人だ。そのときに従五位下に越階えっかいしたが、それから十五年もたつのに、そのままだ。

継人と竹良の父は、北家の藤原清河が大使になって帰国できなかった遣唐使のときに、太宰府にいた吉備真備と一緒に副官として唐に行き、鑑真がんじん大僧正を乗せて帰ってきた大伴古麻呂だ。古麻呂は「橘奈良麻呂の変」で捕らえられて獄中で殺された。

「このままでは、大伴は五位の下級貴族にとどめおかれてしまう」と継人。

「家持さまが征東将軍に任命されたが、高齢で病がちだから戦をするのは無理だろう」と竹良。

「大伴に対する締めつけだろう。

家持さまを都から遠ざけられたら、一族のなかに太政官をしている公卿がいなくなる。叙位議じょいぎのときに、大伴を推す太政官がいないと言うことだ」と継人。

「帝は藤原だけを取り立てて、大伴を縮小している」と真麻呂。

「いまに始まったことではないだろう。

仲麻呂が力を握ったときから、太政官の大多数が藤原になった。

先帝のときも、太政官は藤原ばかりだったじゃないか」と竹良。

「そう言うが、あまりにも支族によって昇位の格差がありすぎる。

こんど中納言になった種継など、いままで大きな功績は何も立てていない。種継を中納言にするなら、なぜ家持さまを大納言にせずに中納言のままで留めた。

大納言は二人のはずだ。いまは南家の継縄だけで空席がある」と真麻呂。

「公卿のこともそうだが、帝は渡来系や弱小氏族を引き立てて、古来から大伴がついできた官職に彼らをつけてしまった」と竹良。

「家持さまは忠誠ばかりを説くが、和歌など詠んでいた人だから考えが甘すぎる。

帝は、あきらかに大伴を潰すつもりだ。早く手立てを考えないと、一族のなかで五位に上れない者が増える。

そうなると、その子供らは蔭子ではなくなる。下位の貴族どころか六位以下の下級官に留められる」と継人。

「先細りだ。若い者も不安がって、なにかと相談を持ちかけられる」と竹良。

桓武天皇は古代豪族系役人の縮小をはかって、三世王や四世王や皇嗣系官人を従五位下に、七位や八位に止められていた渡来系官人や少数氏族を正六位上や従五位下に取り立てた。そして位階相当の職に任官して、功があれば従五位下に昇位させた。その効果が現れ始めた。

被害が大きかったのが、古代豪族のなかでも大派閥の大伴一族だった。



遷都を発表するまえに、桓武天皇は手際よく準備にはいった。

三月十四日の地方官の任命で、坂上苅田麻呂に伊予守いよのかみ(四国・愛媛県)を兼任させた。正四位上で京官を兼任しているから遙任で良いはずの苅田麻呂は、伊予まで行って郡司たちを集め、山から木材を伐りだして都へ送る手配をする。

四国の山から切りだされた材木はいかだに組まれて、瀬戸内海を通って難波へ向かい、合流した神崎川から淀川を通って山崎に集められることになった。切りだしたばかりの生木は建築材として使えないから山崎橋の改築に使われる。


四月二日には、外従五位外の飛鳥戸あすかとの弟見おとみ飛騨守ひだのかみにした。

広さや豊かさで国を、大国、中国、下国に分けている。同じ国守でも大国の国守と下国の国守では権威に大きな差があり、任命される者の位階も違う。

山に囲まれ耕地が少ない飛騨は下国になる小さな国だが、特殊な国で律令で租税が免除されている。

その代わりに毎年一年間、飛騨国にある全ての里から、それぞれ十人の匠丁しょうてい(技術労働者)が都に送られる。その名も高い飛騨工ひだのたくみたちだ。四人の匠丁に一人の炊事や洗濯をする世話役せわやきがついて、匠が八十人と世話役が二十人の百人ほどが都にやってくる。かれらの旅費や滞在中の食事代や生活費は、残った飛騨の租税を納める年齢の人たちが負担して持たせてやる。

遷都を知っている飛鳥戸弟見は、宮城の建設に腕の良い飛騨工を都に送りだす準備に入った。飛騨工たちは生木を乾かす技術も持っている。



四月五日の朝の聴政で、藤原種継が奏上する。

「近年は難波の堀江に砂が堆積して船の運航が困難な状態にあり、都から瀬戸内海に出る海路がふさがれております。国の中心となる都には、陸路と海路がともに集まる交通の便が望ましいことです。

思いますに海上交通に不自由があるのは、大和川だけに頼る都の立地に問題があるからではないでしょうか。

このほど淀川と神崎川を相合する工事が完成して、淀川が河内平野を通り尼崎あまがさきから難波津に流れ込むようになりました。大和川と比べて、淀川は水量も多く流れも穏やかです。

臣はつたなくて考えも浅いのですが、全ての国に通じる水陸の路の中心に、帝が治められます都が置かれますことを願い、ここに奏上いたします」

太政官を見まわしてから「奏上には道理がある」と桓武天皇が答える。

右大臣の是公が一歩前にでて「帝は英明であられます」と礼をすると、太政官たちも一斉に礼をした。

「都にふさわしい地とは、どこを指しているのか」と桓武天皇が種継に聞く。

「河内平野を流れる淀川が始まるところは山崎です。

山崎の向こうの山背やましろ国が適当だと思います」と種継。

「太政官たちは水陸の便が良く、国の中心となる土地を協議して決めて奏上するように」と桓武天皇が命じた。

すでに太政官の多くが向日と長岡を視察していて、右大臣を始め残りの太政官も長岡に遷都することを承知している。一般の官人たちが怪しいと感づきはじめたので、種継に遷都の奏上をさせただけだ。

遷都は決行するので、それを奏上した種継を昇位させることもできる。

毎朝おこなわれている聴政の内容は、公表しないが秘密でもない。

その日のうちに遷都があるという話しは広がって、官人や都に住む庶民たちが騒ぎだした。

予想していた桓武天皇は、これまで文人系の仕事をしてきた淡海三船を、直前に刑部卿ぎょうぶきょうにしていた。刑部卿は罪人を尋問して裁く刑部省の最高官だ。

犯罪を摘発する弾正伊だんじょういんには、すでに高倉(高麗)福信がついている。このころの弾正伊の力は強く、不穏な動きを察すると上位の者から庶民までを摘発できた。


都中が遷都で騒いでいる四月三十日に、北家の藤原内麻呂が右衛門うえもんのすけに任官されて都に帰ってきた。一男の真夏(十歳)と二男の冬嗣(九歳)を引きとった内麻呂は、かれらの母が女嬬として帝の寵愛を受けているのを知った。

これは十歳で父親の真盾を亡くして親の支えがない二十八歳の内麻呂にも、外祖父の位が低く庶子として扱われるはずの百済永継の息子たちにとっても、悪い話ではなかった。


五月十六日に、中納言の藤原小黒麻呂と藤原種継。左大弁の佐伯今毛人。参議で近衛中将の紀船守。参議で神祇伯の大中臣小老こおゆ。右衛士督の坂上苅田麻呂。衛門督の佐伯久良麻呂に長岡村の視察が命じられた。

このころには、四国からの材木が山崎に届き始めていた。



小雨が降る六月の始めに、佐伯今毛人が大伴家持を見舞いに来た。

「寝ていなくともいいのか?」と今毛人。

「寝るほど酷くはない。医師の話では老人に多い胃腸衰弱だ。

情けないことに食べたものが消化できずに、すぐにもよおす」と家持。

「ずっと聴政を休んでいるから、でっきり寝込んでいると思った」と今毛人。

家持は参議の太政官で今毛人は左大弁だから、いままでは朝の聴政で顔を合せていた。

「長岡のようすは、どうだった?」と家持。

「すでに下準備が整って、地ならしを終えた土地もある。

都城となるところは古墳が多い。今回の視察で大中臣小老さんが神祇官じんぎかんを引きつれて、古墳の埋葬者を丁寧にとむなわれた。

大枝氏が埋葬者を移して古墳を解体し終えたら、大規模な造成が始まる」と今毛人。

「総責任者は誰だ」と家持。

「秦氏の母をもつ藤原種継だ。

まだ命を受けていないが、わたしもの大きな建造物は手伝うと思う。

大極殿だいごくでんは難波宮のを移築するので、すでに秦氏と難波の土師氏が役夫を連れて難波宮に出向いているそうだ。

すべてを下知しておられるのは帝だ。新都の設計図も建設工程も帝の頭のなかにある。太政官たちが帝の構想に沿って仕事を分担している。

それぞれに任されたことが違うので、他の工事の進み具合は分からない。

おまえは東征将軍に任じられてからは、体調が悪いと朝の聴政にも出てこないから、遷都の責任者からは省かれたのだろう」と今毛人。

「とうとう大和を離れるのか。

わたしも、そろそろ旅立ちの準備をする」と家持。

「旅立ちって、どこへ?」と今毛人。

「陸奥へ赴任する」と家持。

「なにを言っている。帝は遙任で良いと命じられたのだろう?」と今毛人。

「このところの陸奥は平穏だそうだ。

わたしは名だけの征東将軍でよいと申された」と大伴家持。

「なら、このまま都に留まれば良いじゃないか。

この歳で腹をこわしての長旅はキツいし、陸奥の冬は寒いそうだ。

陸奥まで行ってしまえば、無事に戻れるか分からない」と今毛人。

二人とも六十六歳になった。

「帰れなくても良い」と家持。

「なにかあったのか? 

帝は徴兵をされていないから、東征に力をいれておられない。

遙任にして養生すれば良いのに、なぜ陸奥に行こうとする?」と今毛人。

「心に風が立って、しきりと旅にでたいと思うようになった。

いまだ東山道や東海道や陸奥へは行ったことがない。大山おおやま(富士山)や坂東ばんとうの平原や、人々の暮らしぶりを見聞きしながら、わたしらしく人生を終えたい」と家持。

「分かっているのか? 東征将軍は物見ものみ遊山ゆうざんの旅ではない」と今毛人。

「今毛人。時代がうねっている。

時が人を求め、その人が時を動かしている。これは止めてはいけないものだ。

遷都も、その一つだ。遷都を成功させなければならない。

しかし、そのうねりが、わたしが守るべき人を飲み込んでしまいそうだ」と家持。

「大伴一族のことを言っているのか。なにか不穏な動きでもあるのか?」と今毛人。

「なにも聞いていないし、なにも起こらないことを心から願っている。

だが言外に待遇への不満をにじませる者たちがいるのだ。

なあ。今毛人。むかし橘奈良麻呂の乱のまえに一族を止めようとして、わたしが歌を詠んだのを覚えているか」と家持。

「ああ。やからさとす歌のことか。

あの歌で、大伴古麻呂たちが謀反に関わるのを防ごうとした」と今毛人。

「わたしの歌は、古麻呂たちの心を動かすことができなかった」と家持。

「あれから、おまえは和歌を詠むことが少なくなったが、なあ、家持。

和歌を解せない者もいるだろうよ。もっと分かりやすい言葉で説いてみたらどうだ」と今毛人。

「帝のなさることに不満を持つな。誠心誠意、真心を持ってお仕えしろ。

それが大伴が生き残れる道だと言っている。

分かりやすいはずだが、古麻呂の息子たちは聞き流す」と家持。

「不満を持っているのは、古麻呂の息子たちか?

左少弁をしている大伴継人も、そうなのか?」と今毛人。

今毛人は左大弁も兼任していて、去年の四月から左少弁をしている継人と顔を合せている。

「そうだ。誰にも言うな。不満を持っているが、まだ動きはない。

わたしは謀反の罪で獄中で死んだ彼らの父親をとめられなかった。父親の後を追わせたくない」と家持。

「家持。もしかしたら・・・早良皇太子も帝に不満をお持ちではなのか?」と今毛人が声を落として聞いた。

「それはない」と家持。

「静かで端然とされていて人を寄せつけない方だが、野心をお持ちなのだろうか」と今毛人。

「それもない」と家持。

「それなら、どうして皇太子位を奉還ほうかんされないのだろう」と今毛人。

「皇后宮大夫のおまえなら、気になるだろうな」と家持。

家持は早良皇太子のための春宮しゅんぐう大夫を兼任していて、今毛人は乙牟漏皇后のための皇后宮大夫を兼任している。

「わたしだけではない。皇后が立たれて第一親王がおられることが分かってから、だれもが不思議がっている。

即位の前後には帝にあらがう人々がいたから、幼い親王を隠して、成人した同母弟を皇太子にされた事情は分かる。

だが、いまの帝は実力者で、まだ四十七歳だ。

皇后のご実家になる式家は壮年の者が少ないが、三夫人も藤原氏の出身だ。

いずれ帝の外戚になる藤原氏が、早良皇太子の即位をはばむことになるだろう。

皇太子は政務に関わっておられないし、人とのつき合いも好まれない。

妻帯もされないから後継者もできないし、外戚もおられない。

後ろ盾となるのは寺院勢力だけだ。帝は寺院の勢力を削ごうとされている」と今毛人。

「わたしも皇太子が自ら奉還されたほうが、ご自身のためにも国のためにも良いと分かっている。

帝も、わたしが皇太子を説き伏せるだろうと思っておられたようだが、わたしには説得する力がない」と家持。

「第一親王は十歳だから、成人なさるまでに五、六年はあるだろう。

そのまえに奉還されれば良い。まだ時はある」と今毛人。

「皇太子さまには僧侶との関わりを絶たれるように、皇太子位を辞退されるようにと、再三、申し上げている」と家持。

「皇太子さまの、お考えは?」と今毛人。

「欲のない善意のお方だが、言霊ことだまが届く方ではあられない」と家持。

「どういう意味だ? 欲もなく善人だが話しを理解されないのか?」と今毛人。

「どのように話そうが通じない。それが、みじめで辛い」と家持。

「・・・?」と今毛人が目を瞬いた。

「わたしの杞憂きゆうであって欲しいが、先を考えると不安でたまらなくなる。なにかが起こるのを感じているのに、何もできない不安だ」と家持。

「だから都を離れるのか」と今毛人。

「なにも起こらなければ良いが、残り少ない命なら、わたしなりの責任は果たしたい」と家持。

「戻って来ないつもりか?」と今毛人。

「律令には行軍中の兵士が身罷みまかると荼毘だびすという条がある。いつか風に乗って戻って来る」と家持。

「まさか、おい! 陸奥で死んで火葬にして散骨するつもりなのか。

おまえは兵士ではなく大将だ。死んでもかんに入って戻ってこい!」と今毛人。

「陸奥から運べば冬場でも腐るじゃないか。そんな姿をさらしたくない。

今毛人。おまえから、わたしが陸奥へ赴任したことを奏上して欲しい。

少なくとも帝は、わたしの言葉や行動の真意をご理解してくださるだろう」と家持。

「お目にかからずに出立するつもりか?」と今毛人。

「すでに拝命を賜っている。なるべく暑くなる前に発つつもりだ。

我が家の資人だけを連れた身軽な旅だ。楽しみながら無理をせずに行く。

もしも戦闘がおこっても、足手まといになるから戦場に行かない。寒さが厳しいときは暖めた部屋に閉じこもり、火を通した柔らかなものを食す。心配するな。

頼みたいこともあるから、また寄ってくれないか」と家持。

「ああ。できるかぎり何度でも来る」と今毛人がうなずいて、自分の手を握りしめた。



長岡視察の一月後の六月十日に、藤原種継、佐伯今毛人、紀船守のほかに、木工かみや光仁天皇を葬送したときの作方相司を経験している右京大夫の石川垣守、右中弁で皇嗣系官人の海上三狩、神祇官の大中臣子老の弟の諸魚もろな、造東大寺次官の文室忍坂麻呂おさかまろなどを造長岡京使に任命して、桓武天皇は新都の工事を始めさせた。

その四日後の六月十三日に、桓武天皇は「今年の調と庸や、造宮に携わる工人や人夫に必要な物資は、長岡京に集めるように」と勅命をだす。


税には、よう調ちょうの三種類がある。

納税義務があるのは成人男性で、数え年で二十一歳から六十歳を正丁せいてい、六十一歳から六十五歳を次丁、十七歳から二十歳を少丁とし、次丁と少丁は正丁より税率が低い。

租は米で、収穫量の三パーセントから十パーセントが税として取られる。この米は、まず国府の米倉へ治められてから、農民から選ばれた運搬係が手弁当で都まで運んでくる。租は衛士や采女(女官も入る)や公共事業のために雇われた役夫に使い、貯蓄米にもなる。

庸は都で労役(力仕事)をすることだが、労役の代わりに米や布を物納することができた。庸も衛士や采女や雇役民に使われる。

調は布や各地方の特産物を収めることで、これはになった。

これらの租税を地方から受けとって管理するのは大蔵省で、長官の大蔵卿は神王だ。

今年の給与は長岡に集まるのだから、都を完成させなくては官人の収入が止まる。

新都の造営はピッチを上げた。



六月二十日。

「皇太子さまが拝謁はいえつを願っておられますが、いかがいたしましょう」と中務卿で大納言の藤原継縄が桓武天皇に聞いた。桓武天皇が眉をしかめる。

「相手をする暇がない。一緒に夕食ゆうげをとるようにしよう」と桓武天皇。

夜に早良皇太子が内裏を訪れた。

「帝に拝謁いたします」と早良皇太子。

「その方から訊ねてくるとは珍しい。今しか暇がない。

かしこまらず、ここに来て一緒に食べてくれ」と桓武。

「はい」と早良が席に着いて、卓上に並べられた料理を眺めた。

「急な用でもあるのか。なんだ?」と桓武。

「はい。帝は六月七日の詔で、室生寺むろおじ賢憬けんけい大僧都だいそうずに、行賀ぎょうが少僧都しょうそうずにされましたが、その理由をご教示ください」と早良。

「だれかに聞いてくるように頼まれたのか?」と桓武。

「聞いてくるようにとは頼まれておりません」と早良。

「では、どうして聞きに来た?」と桓武。

明一みょういつに聞かれて答えられず、次に来たときに教えて頂きたいと言われたからです」と早良。

「なるほど。東大寺の明一か。

賢憬は七十歳になり、鑑真がんじん僧都そうずに出家を認められて数々の業績を残した名僧だ。大僧都として不足のない人選だろう。

明一が知りたいのは、行賀が少僧都になった理由だろう」と桓武。

「明一は、賢憬と行賀を選んだのはなぜかと聞きました」と早良。

桓武天皇が、早良皇太子の顔をしげしげと見た。

三十四歳になる早良皇太子は、涼やかで曇りのない表情をしている。

三網さんごうの上座で、東大寺を運営している明一は五十六歳。留学僧として唐で学んで帰国したばかりの行賀は五十五歳と歳が近い。明一が行賀を牽制しようとしていることは、だれでも承知している。

「先日、明一が申し入れて行賀と宗教論争を行ったそうだが、知っているか」と桓武。

「はい。明一の質問に行賀は答えられませんでした。最初の質疑は・・・」

桓武が手を上げて、早良の言葉を遮った。

「質疑応答の内容は、どうでも良い。

論争の後で、どの質問にも答えられない愚鈍ぐどんな小僧だ。そのへんの子供にも劣る。宗教界の恥さらしだ。僧籍におくのが恥ずかしい。すぐに還俗して目の前から消え失せろと、明一は口を極めて行賀をののしった。

そのことは知らなかったのか?」と桓武。

「知っています」と早良。

「それを、どう思う」と桓武。

「それは論争外のことです」と早良。

「たしかに論争の後のことだ。

ただ行賀が唐へ留学するために日本を発ったのは、二十二歳の時だという。

それから三十二年を費やして、唐で宗教を学んだ。

宗教用語や経典は、唐の言葉で覚えたはずだ。論争も唐の言葉でしただろう。

帰国したばかりの行賀は、日本の言葉で宗教を論じることが難しかっただろう。

その機会をとらえて強引に論争を挑み、答えられないからと言って痛罵するのは正しいことだと思うのか」と桓武。

「・・・」と早良が首を傾げて考えはじめた。桓武天皇が箸を止める。

「早良。言ったことが分からないのか?

おまえは、明一の行いをとがめないのか」と桓武。

「行賀は、質疑に答えられなかったので論争は明一の勝ちです」と早良。

「罵倒にたいしては?」と桓武。

「明一が言っていることが良く分かりません」と早良。

「それだけか?」と桓武。

「はい」と早良。

桓武天皇が目を細めた。

「帝。賢憬は七十歳でかずかすの業績を残したから大僧都にされましたが、行賀が少僧都になったことについてのご説明がありませんでした。どうぞお教え下さい」と早良。

「そうだった。それを聞きに来たのだったな。

行賀は留学僧として、長年にわたって仏教の研鑽に努めたからだ。それでいいか?」と桓武。

「はい。分かりました」と早良。

「早良。明一は、しばしば東宮を訪れているそうだな」と桓武。

「はい。東大寺の収支台帳を届けにきます。わたしが確認して承認しています」と早良。

「治部卿を東宮にやるから、その台帳を見せてくれるか」と桓武。

「はい」と早良。

「明一から、他になにか聞かれたか」と桓武。

「遷都が行われるそうですが、東大寺は移築されるのかと聞かれました」と早良。

「東大寺は、聖武天皇が造られた大盧舎那仏だいるしゃなぶつを収める伽藍がらんだ。怖れ多くて移築はできない。

平城京にある大寺院は、南都なんと六宗ろくしゅうとして修業に専念できる神聖な場所として移築せずに残す」と桓武。

「新都鎮守ちんじゅのための東大寺別院は、いつごろから造営されるのでしょう」と早良。

「明一が、そう聞いたのか」

「はい」

「早良。幼い頃、おまえを連れて遊びに行った乙訓寺おとくにでらを覚えているか」と桓武。

「はい。乙訓寺は聖徳太子さまが創建された古刹こさつです」と早良。

「都の鎮守は乙訓寺にまかす。

平城と長岡は近い。平城にある大寺の僧侶は必要なときは来てもらうから、どの寺も新都に別院を置かない。分かるか」と桓武。

「はい。分かりました」と早良。

「このことで質問はあるか?」と桓武。

「ありません」

「ほかには?」

「造東大寺次官と、造東大寺に関わる匠丁しょうてい技人ぎひとが長岡建造に回されました。いつ戻していただけるのかと聞かれました」と早良。

「造東大寺司は朝廷の官職だ。その下に使える技人も朝廷に属する官人であるから、急を要する新都の造営に回した。

少しの間、不自由をかけるが新しい者を送ろう。それで良いかな?」と桓武。

「はい。分かりました」と早良。

「早良。なにも口にしていないが、遠慮するな」と桓武。

なまものが入っていますので、遠慮させて頂きます」と早良。

「精進だけを食べれば良い」と桓武。

「おなじ厨房で作っておりますから、正しくは精進ではありません」と早良。

「酒は?」

「いただきません」

還俗げんぞくしてからも僧の戒律かいりつを守っているのか。

妻帯しないのも、そのせいなのか」と桓武。

「はい。還俗はしましたが信仰は続けています。戒律は人としてのいさめにもなります。具足戒ぐそくかいを授けられましてから・・・」と早良。

「悪いが早良。その話しは、またの日にしよう。そなたの用件は聞けたのだな?」と桓武が、やさしい笑みを浮かべた。

「はい」と早良。

「春宮大夫の大伴家持が陸奥に出立しゅったつしたが、そのことで聞きたいことはあるか?」と桓武。

「ありません」

「なにも口にしないのでは窮屈きゅうくつであろう。東宮に引き上げても、いいぞ」と笑みを浮かべたままで桓武が言う。

「はい。では帝。下がらせて頂きます。ご教示をありがとうございます」と早良が礼をして退出した。表情に曇りがなく動きが綺麗だ。

その姿を眼で追いながら、桓武天皇の表情が暗くなった。



六月二十三日には新都の邸宅を造るための費用として、参議以上の官人と内親王や夫人や尚侍に稲が与えられた。

難波宮の大極殿の解体も進んで、柱などは筏のように組んで草香江くさかえに浮かべ、淀川の支流に入り山崎津に送られる。四国から届く木材も、神崎津から淀川を通って山崎に集められ、そこから長岡へ陸送した。

難波から山崎へ、ひっきりなしに淀川を舟や筏が行き交う。

山崎の西側は西山連峰が迫っていて、東には男山と呼ぶ小さな単独の山があり、川はその間を抜ける。巨椋池で三本の川が合流して淀川になるから、山崎は川幅が広く中州もあり、中州にも木が茂っている。

段丘のなかでも高い向日の丘が宮城予定地で、都城域となる長岡とともに地固めが行われている。新都建築のために集められた役夫は、難波宮と長岡に集まって働いていた。

生駒金剛山脈にさえぎられて、そのようすを平城京にいる人は目することができない。桓武天皇は、一日も休まずに日常の政務をこなしている。遷都の状況が分からない大和盆地にかかわりの深い官人や庶民は、徐々に焦燥感をつのらせた。

長岡に別院をつくれないと知った寺院は、静かに動きだした。



うるう九月十日。

桓武天皇は、茨田まんだのつつみ(大阪府枚方市)が決壊したという報告を受ける。四世紀ごろに仁徳天皇が造ったと伝わる淀川の堤防だ。

淀川は神崎川と合流してから兵庫県を流れている支流が本流に変わりつつあるが、もともとは生駒金剛山脈にそって流れ河内湖に入るのが本流だった。

茨田堤は河内湖に流れ込む淀川に造られた20kmほとの堤防だ。


「すぐに修復する人を集めるように」と坂上苅田麻呂と藤原小黒麻呂を内裏に呼んで桓武天皇が命じた。

「しかし、どこから集めれば良いのでしょう」と小黒麻呂。

「小黒麻呂。義父の大秦おおはた嶋麻呂に、こう伝えよ。

出面でづらを祓う。たかは双方の折り合いによって決める」と桓武。

「出面って、役夫に日給を払うのですか?」と小黒麻呂。

「秦氏は、まだまだ人を集められるはずだ。茨田堤の修復に秦氏は欠かせない。

秦氏から役夫をまとめる世話役を出してもらう。

苅田麻呂は、行基ぎょうき大僧正の弟子たちを集めるように」と桓武。

「行基さまが崩じられて三十五年ほどが経ちます。弟子が残っているでしょうか?」と苅田麻呂。

「行基に従った若者が、まだ五十代や六十代で残っているはずだ。

最期まで淀川の治水工事をしていた行基の弟子なら、茨田堤の修復の大切さを心から理解しているだろう。彼らに説かせて人を集めろ。

それと難波の土師氏に手配を頼め。人を集めてくれる。

工事に携わる者には出面と食事を与えると告げよ」と桓武。

「茨田堤を修復する役夫には日給がでて、遷都に関わる役夫はでないと問題になりませんか」と苅田麻呂。

「遷都に関わる役夫にもだそう」と桓武。

「国庫で担えますか」と小黒麻呂。

「五位の官人で無用の者を、すぐに何人か潰せば充分にまかなえるだろう」と桓武。

「帝!」と小黒麻呂。

「本心からでているが、ただの冗談だ」と桓武。

「下役が記録した書類に署名するだけで上役に渡し、有力者の機嫌をとって袖の下を渡したりしてコネをつくり、昇位のために立ち回ることを仕事と心得ている役人より、民の暮らしを守るために汗水流す役夫の方が、卑賤ひせんの母をもつ朕には美しく思える。

すでに多くの家屋が流されて、避難している民がいる。

この者たちの救助は、すでに命じた。

堤が修復できるまえに豪雨や長雨に見舞われたら、淀川沿いに居住する民の暮らしが被害を受ける。できるかぎり早く堤の修復をせよ」と桓武天皇。

国家的大工事の場合は、役夫として農民が従事させられる。あとで役夫を出した地方の租税の一部が免除されることはあったが、ただ働きだ。

手配師に役夫を集めさせて日給を与えたのは、桓武天皇が始めてだった。

茨田堤は一年後の七八五年十月に修築が終わるが、述べ三十万七千余人が工事に従事している。



平城京の内裏は、聖武天皇が還都するときに急いで建て直したものを仲麻呂が少し改築しただけで使っているから、乙牟漏皇后の宮室も夫人たちの居室と代わり映えがしない。

もともと平城京の宮城には、皇后が住む宮室がなかった。

聖武天皇の治世中に光明皇后が住んだ皇后宮は宮城の外にあった。次の天皇は女帝の孝謙天皇(称徳天皇)で、そのあとの光仁天皇の井上皇后は中宮院に住んだ。

いま中宮院には桓武天皇の母の新笠皇太夫人こうたふじんが居住していて、乙牟漏皇后は内裏の後宮の宮室を使っている。


紅葉が美しい十月に入った昼下がりに、尚蔵くらのかみ尚侍ないしのかみを兼任している阿部古美奈が、昼過ぎになって皇后の宮室にやってきた。

「お母さま?」と古美奈を迎えた乙牟漏おとむろが首を傾げる。

「どうなさいました?」と古美奈。

「日差しのかげんでしょうか。お顔の色が悪くみえます。

それに、お痩せになりました。お体にさわりはございませんか」と乙牟漏。

「そう見えますか。やつれが隠せなくなりましたか」と古美奈。

「医師に診せて、しばらく静養されたらどうでしょう」と乙牟漏。

「隠せないのでしたら、正しくお伝えしたほうがよろしいでしょう。

皇后さま。落ちついてお聞きください。

わたしは新都となる長岡京を見ることができないと存じます」と古美奈。

「どうして?」と乙牟漏。

「あと一月も身体が持たないと言われております」と古美奈。

「なんと、おっしゃいました?」と乙牟漏。

「あと一月も生きておられないようです」と古美奈。

「どうして? お母さま。一月もないって、ウソです!

変なことを言わないで、イヤです。お母さま」と乙牟漏。

「お静まりください。皇后さま。皇后さまは、この国の国母なのですよ。

取り乱されてはいけません。ゆっくり息をはいて、そう。そのように長く息をはいて呼吸してください。よろしいですね。気を鎮めて聞いてください。

この秋(七月)に入ったころに、心の臓に強い痛みを感じて息ができなくなったことがございます」と古美奈。

「邸に戻られていたときでしょう。ただの過労だとおっしゃってたじゃありませんか」と乙牟漏。

「心の臓の発作でした。二度か三度の発作が起きれば助からないと言われております」と古美奈。

「聞きたくない。なにかの間違いです。きっと手立てがあるはずです」と乙牟漏。

「落ちつかれませ。皇后さま。騒がないで、ゆっくり呼吸をしてください。

病が分かったときに帝にご報告をして、宮中の大医さまにも診て頂きました。

安静にしていれば多少の延命はできるそうですが、どの医師さまも治せません。

幸いなことに移る病ではありませんから、わたしは次の発作が起こるまでは宮中でお仕えしようと決めました」と古美奈。

「だめです。お母さま。すぐに邸に戻られてお休み下さい。

お母さまには一日でも長く生きて頂きたいのです」と乙牟漏。

「お泣きになってもかまいませんが、乱れる姿をお見せになってはいけません。

しっかりお聞き下さい。あなたは皇后さまなのです。

わたしが邸に戻って療養すれば、二度とお目にかかることができません」と古美奈。

「どうしてです?」と涙を浮かべて、乙牟漏が古美奈の袖にすがる。

「もともと皇后さまが宮中を離れることは難しく、いまの都は物騒ですから行幸ができる状態ではありません。

見舞いはなさらずに、わたしの葬儀の参列も代理を立てられたほうが安全です」と古美奈。

「そんなに人心が荒れているのですか」と乙牟漏。

「六月に邸を造るための稲が上位の方々に配られてから、新都にお邸を造っておられる方が多く、こちらにあるお邸の警備がゆるんだせいもあるのでしょう。

盗人が多く、妙な宗教が流行って、仕事もせずに昼から人々が踊り狂っているそうです。大和から離れることに反対されている方が多いから、何が起こるか分かりません」と古美奈。

「・・・」

「こうして、わたしが宮中に留まっていましたら、皇后さまや安殿あて親王を見ることができます。

お分かりになりますか。

つぎの尚侍と尚蔵の仕事を監督しながら、こうして皇后さまとお会いしながら寿命が尽きる日を待つほうが、わたしには幸せなのです」と古美奈。

「それなら、お母さま。ずっと側にいていてください」と乙牟漏。

「まだまだ、話しておきたいことがございます。

わたしが皇后さまのところに居住できるように、明信さんから帝に頼んでもらいましょう。きっと許可してくださいます」と慈しみの表情を浮かべて古美奈がうなずいた。



十月五日には、遷都のための行幸の御装束みしょうぞくのつかさと前後の次第司しだいのつかさが発表された。そのあと宮城から荷物が運ばれはじめた。

造長岡京使が発表されたのが六月十日だから、たった四ヶ月しか経っていない。

一軒の邸を建てるのでも四ヶ月は短いのに、帝が遷都のための行幸をするという。嘘としか思えない発表に、官人も庶民も騒然そうぜんとなった。

桓武天皇は都の騒ぎをしずめ、それに乗じて謀反がおこるのを防ぐために、十月三十日に桓武天皇は隣組となりぐみという制度をしく。近所の邸や住人の五戸が一つとして互いを見張って、怪しい動きをする者がいれば通報する制度だ。

隣組は平安時代にも受けつがれていくが、第二次世界大戦下の一九四〇年から戦後の一九四七年までにも復活して使われるほど、国民統制のためにはすぐれた対策だった。


二度目の発作を起してから自邸に退いた従三位の阿部古美奈が、十月二十八日にほうじたという知らせが届いた。桓武天皇は、皇后宮大夫の佐伯今毛人に古美奈の葬儀を監督させた。

直前まで一緒に過ごせた皇后は、落ちついて母の死の知らせを受けとった。

まだ古美奈が少女のころに、父の阿部粳虫ぬかむしは従五位上の図所頭ずしょのかみとして亡くなった。五位の貴族だった糠虫は、娘が生んだ孫娘が皇后になり、その子孫が皇族として受けつがれるとは思いもしなかっただろう。

粳虫には古美奈の兄弟になる二人の息子がいて、この血統からはのちに紫式部がでる。定かではないが陰陽師の阿倍清明も、糠虫の玄孫げんそん(孫の子)ではないかと言われている。



十一月十一日に、桓武天皇は夫人たちと貴族や役人たち、内裏に務める女官や雑色を引きつれて長岡京に移った。正式に遷都が発表されてから五ヶ月という脅威的な速さだ。

このときに平城京の人口は十万人を超えていた。そのうちの一万人余りが官人で、貴族は家族や自分の邸の使用人や日雇いの荷物運びを連れている。

平城京の朱雀門を出て、西に向かう行列が朝から夕まで長々と続く。

しかし行幸に従って長岡京に向かった官人たちでも、この遷都は失敗するだろうと思っていた。これまでと同じように、今回も十年以内に戻ってくるだろうと予想していたのだ。


平城京は東にある袖のように張り出した部分を除けば、東西が4、3㎞。南北は4、8㎞ある。長岡京も同じ大きさにするつもりで建設中だが、のちに北側が延びて東西が4,3㎞。南北は5,3㎞になる大きな都が企画されていた。

平城京とおなじで、東西の大路をぼう、南北の大路をじょうと呼び、大路で区切られた正方形の土地を、東西と南北に三本ずつの小路を通して十六分割して、その一区画を築地塀で囲んでちょうと呼ぶ造りだ。

ただし長岡の地形で、左京の五条から先に削られる部分はある。

都の北の中央に宮城を置き、宮城の南の中央にある朱雀門から南北に朱雀大路が通って、東を左京、西を右京とするのも平城京と同じだ。

違うのは都全体が西山に添う段丘に造られていて、それよりさらに14~15mは高い丘の上に宮城が建っていることだ。

宮城を取りまく大きな築地塀ついじべいや、大極殿や朝堂院や内裏の建物や、大蔵省の倉庫はできていたが、宮城内でも各省の曹司ぞうしなどは建設途中だ。それらの建物を囲む築地塀はできていない。

長岡京となる京内は、整地して路をつくり一町の区分けをしただけだった。

新都は水利が良いのを活かして各町に井戸を掘り、路の両脇に側溝そっこうを造って汚水を川に流すように企画している。

京内の基本となる道で区切られた一町は、一辺が120mの正方形になる。三位以上の公卿は四町までの邸を構えることができるが、四位と五位の貴族は一町の邸。それ以下は一町の中を区切って、身分により1/2町から1/32町の土地を与えられる。

だから一町を越える公卿の邸と左右のいちを除いても、京内に一千二百近い町を造らなければならない。

120m四方の正方形の地割りが碁盤の目のように千二百も並んでいて、全ての回りに側溝という溝を掘り、グルッと築地塀を巡らせる。一年や二年で完成できる数ではなく京内の工事は始まったばかりだった。

遷都のときは、旧都と同じような場所に宅地を配分される。貴族たちは配分された土地に邸を建て始めているので、どこの塀や井戸を先にするかの工事行程にも気を使わなければならない。

総責任者の藤原種継は、昼夜の別なく工事を進めて都造りに努めていた。



乙牟漏皇后の実家の藤原式家で、力があるのは種継だけだ。

喪中のときは官人も職を辞して宮城に入らないが、平城京は騒然としていて種継もいない。皇后宮大夫の佐伯今毛人も、長岡京で工事に携わっている。

母を亡くした皇后を、服喪で邸に戻すのを桓武天皇は懸念けねんした。

そこで桓武天皇の母の新笠皇太夫人が、喪中の皇后を中宮院へ引き取っていた。

桓武天皇が平城京を離れたきに、まだ乙牟漏と新笠は平城京の中宮院に残っていた。


「ほうとう?」と新笠がビックリする。

「はい。安殿もわたしも父の邸の外に出たのは、内裏に移るまえに父の墓参に行ったのと、内裏に移ったときだけです」と乙牟漏。

「わたしは墓参もしたことがなくて、内親王になるまえは母の邸から一度も出たことがなかったわね」と酒人さかひと

酒人は、四歳になる娘の朝原内親王が伊勢斎王として、潔斎けっさいのために春日宮にいるので桓武天皇と同行せずに平城京に残っている。

三十歳になった酒人は、桓武天皇の妻たちのなかで最年長だった。

「ずいぶん窮屈で、退屈だったでしょう」と新笠。

新笠は六十四歳になった。

朝賀などの大きな式典に控えめな姿を現わすほかは、目立つことなくヒッソリと中宮で暮らしている。ただ何もしなくても、遷都の従事している渡来系官人や技術者たちのかなめになっているのが皇太夫人だ。

「平城京を離れるのは、恐いかしら?」と新笠が聞く。

「恐くはありませんが、切なくて寂しい思いがします」と乙牟漏。

乙牟漏は、古美奈を亡くして二十日しか立っていない。

「古美奈さんの葬儀にも葬送にも行けなかったのでしょう。

せめて、お別れの墓参はしたいでしょうに、治安がねえ」と新笠。

「なにが起こるか分からないから、来ないで欲しいと母が言い残しました。

わたしは大丈夫です」と乙牟漏。

女官の藤原人数が入ってきて、「帝がお迎えのためによこされた次第しだいのつかさが、ご挨拶にこられました」と伝えた。

乙牟漏の姉になる諸姉と人数のうち、人数が乙牟漏のそばに残っている。

桓武天皇が長岡から送ってきた皇后の行幸の警備をする官人や兵が、昨日の夕方に平城京に着いていた。その責任者が二人の次第司だ。

「石川豊人と申します」と、拝謁を許可された次第司が名乗った。

六十を過ぎた石川豊人は右京大夫をしている。右京大夫は、京職きょうしきという京内に住む人々を治める行政機関の最高責任者で、右京と左京に大夫が一人づついる。遷都中で騒がしい京内を治めるために、地方官をしていたのを桓武天皇が呼び戻した。

「和気清麻呂です」

淀川と神崎川を貫通させる工事を成功させた和気清麻呂も五十一歳になる。姉の広虫が側にいる。

和気清麻呂と石川豊人は二人とも従四位下で、民政を重んじる政策を良く理解していて桓武天皇が見込んでいる官人だ。

「帝から、行幸の日は十一月二十四日にと承っております」と石川豊人。

七七日なのななか(四十九日)が過ぎる前にか?」と新笠。

「皇后さまと皇太夫人さまの御身を、ご心配されております。

こちらに参りますときに、長岡京からの路が立て込んでおりました。

行幸なさる日は、夜明けからつぎの夜明けまで路を閉鎖いたします」と豊人。

「できましたら、その日のうちに、お荷物も運ばれたが良いと存じます」と清麻呂。

「すべてのお道具をですか?」と広虫。

「長岡京に移ったのは官人だけで、ほとんどの良民は平城京に残っています。

邸づとめの者たちの家族が移動をはじめたので、この先、何年かは路が混雑しそうです」と豊人。

「酒人さまには、こちらに留まられるか新都に移られるか、ご意向と確かめるようにとおおせになりました」と清麻呂。

「留まるわよ」と酒人。

「お留まりになるのでしたら春日宮にお移りになっていただきます。

春日宮の警備を増やすための衛士を連れておりますので、移られたほうが安全です」と清麻呂。

「あら。じゃあ、伊勢までついて行っても良いのかしら?」と酒人。

「それは聞いておりません。

すぐにお使いにならないお荷物は、長岡に送られたほうがよろしいかとぞんじます」と清麻呂。

「衛士を連れてきたのなら、皇后さまの墓参のために充分な警護ができるわよね。

皇后さま。次第司が行幸にしたがう衛士をつれて警護してくれますから、お母上さまの墓参をされたら、いかがですか。お義母さまは?」と酒人。

「わたしが保護者だから一緒に行く。

酒人さんは潔斎中の春日宮に移るから、墓参はご遠慮なさいな」と新笠が笑顔を見せた。


十一月二十四日の午後に、乙牟漏皇后と安殿親王と新笠皇太夫人が長岡京に着いた。

平城宮の宮城内は三分割されて、東側に築地塀で分けられて内裏と大極殿と朝堂院と官庁があつまっていたが、長岡宮は大極殿と内裏を中心にして、整然と各省が並んでいる。

内裏の中も、天皇が政務をとる正殿と私室になる寝殿。儀式をおこなう朝殿のうしろに、回廊でつながった後宮の宮室が並んでいる。

すでに後宮には、右大臣で正三位の藤原是公これきみの娘の吉子夫人(南家)。亡くなったあとで右大臣と従二位を贈位された藤原百川と諸姉の娘の旅子夫人(式家)。左大臣を免職されたが、亡くなってから復位された正二位の藤原魚名の孫娘の藤子夫人(北家)と、多治比真宗が居住している。真宗は、四位と五位の貴族の娘がなるひんだ。

多治比氏は六世紀初頭の大王だった宣下天皇の後裔になり、多くの文官をだしていた。皇嗣系官人としての経験が長く、桓武天皇が引き立てている。

長岡京についた乙牟漏は後宮の中央にある皇后宮に、新笠も内裏の中にある宮室の一つに居住することになった。


長岡京は丘の上に造られた都なので、京内からの見晴らしが良い。

しかし高貴な女性たちは、入京するときにも輿こしすだれを降ろして警備の衛士に囲まれていたから、外を眺めることができなかった。

宮城は京内よりも小高い丘の上に建っていているが、まわりを約4.5mの塀で囲まれている。その外壁の中の、さらに塀で囲まれた内裏に暮らす天皇の妻たちは、二重の壁にふさがれて、そばにある西山のいただき近くと、空と、後宮の庭しか目にすることができない。

そこで十一月の末に、宮城の中でも土を盛りあげた基壇きだんの上に建っている大極殿へ、桓武天皇が皇后と皇太夫人と夫人たちをまねいた。

大極殿は宮城の中央に、その東に内裏が建てられていて、大極殿院回廊かいろうで繋がっている。近衛兵や舎人や女官を連れた一行は、輿で回廊を通って後殿こうでんに入った。

大極殿より小さい後殿は、皇族の控え室にもなる場所で大極殿の後ろ(北)にあり、軒廊けんろう(屋根のある廊下)で大極殿と繋がっている。

瓦葺きの巨大な屋根をもつ大極殿と後殿は、直系60㎝弱の丸柱で支えられていた。その柱が後殿に十八本、大極殿は四十四本も並ぶ。高い天井まで届く朱で塗った巨大な赤い柱の列だ。

大極殿の南面は開け放しているが、ほかの面は壁に白い漆喰しっくいが塗られ、床は回廊も軒廊も瓦と同じ手法で土を固めて焼いた黒っぽいせん(タイル?)が敷き詰められている。

建物のまわりには回廊があり、朱塗りの欄干らんかんが囲んでいる。

屋根と床の濃灰色、壁の白、柱と欄干の朱色が鮮やかで、基壇が東西は約41m、南北は約21mもある巨大な建物だ。

桓武天皇は妻たちを東の回廊に案内した。

「わーァ!」と吉子夫人が声を上げる。吉子は第二皇子の伊予親王の母で十八歳だ。

「踏み台を用意している。良く見たければ注意して使え。

まわりの者が支えてやれ。怪我をさせるな」と桓武天皇。

人と交わるのが苦手で普段は引っ込んでいる藤子夫人が、めずらしく最初に踏み台に立った。藤子も十八歳になる。

皇后より先に挨拶もせずに台に上がった藤子をかばうように、吉子が乙牟漏と新笠に頭を下げて自分も踏み台に乗って振りかえる。

「皇后さま。旅子さま。よく見えます」

乙牟漏と旅子が顔を見合わせて、女官の手を借りて台に登った。

乙牟漏は二十四歳。旅子は二十五歳の従姉妹だ。

十七歳の多治比真宗が皇太夫人の顔をうかがった。新笠が先に登れと手でうながす。

台の上からは、昼下がりの日差しを浴びた山背盆地が一望できる。遠くに東山と北山が薄墨色に連なり、北山から西山に変わるところからは近いので紅葉が枯れ始めた山景色が見える。盆地には何本もの河川と巨椋池と湿地帯が銀色に光っている。

「西山が赤く染まる夕どきには、池や川や野も赤く輝く。暖かくなると、早朝の盆地にはもやが立ちこめる。どの季節も、ここからの眺めは美しい」と桓武。

「人数さん。比叡はどこですか。ここからは見えないのでしょうか」と藤子が女官の人数に聞いた。

「ヒエイって、なんのことでしょう?」と人数。

新笠が、藤子の隣に登って指を示した。

「遠くに連なっているのが東山。そこから左の方に目を移して、チョンと尖った山が見えるでしょう。比叡山はあれよ」と、この景観をだれよりも知っている新笠。

「あれが比叡?」と藤子が目をこらす。

「近江から見る比叡山とは、形がちがうでしょう?」と新笠。

「はい。近江から見る比叡は二つ並んだ丸い峰です」と藤子。

「でも、あれが、まちがいなく比叡山よ」と新笠。

比叡山の向こうに琵琶湖がある。帰りたくても帰れない家があって、祖父や母が住んでいる。藤子は比叡山だけを見つめて動かなくなった。

家族のようすを、桓武天皇がにこやかに眺めている。

桓武天皇は四十八歳だが、妻たちは娘のように若い。

天武天皇が亡くなってから百年のあいだに、こんなに妻が多い天皇はいなかった。奈良時代の男性天皇は、二十四歳で亡くなった文武天皇と、光明皇后がいた聖武天皇と、六十八歳で即位した光仁天皇だけだからだ。

天皇の姻戚になりたい官人と、官人を身内として取り込みたい天皇の思惑で、このあとも桓武天皇の妻は増えつづける。

帰化人系氏族や弱小氏族の有能者を引き立てて、古代豪族系の名門氏族を押え込み、役所仕事を簡略化して部署をへらし、官人の数を縮小しようと政治機構の改革を目指す桓武天皇は、後宮も変えてしまう。

皇后一人、妃二人、夫人三人、賓四人の枠に入らない女性たちが現れるからだ。



寝殿の戸板を木枯らしが叩いている。すでに夜も更けたのに奏上書を読んでいた桓武天皇が首を左右に曲げた。

「肩が凝っておられるのですか。お揉みしましょう」と、ろうそくの芯を整えていた明信が寄る。

「その方は下手だから触れるな。エイを呼べ」と桓武。

「エイは休ませました。退庁させたいと思います」と明信。

「病気か」と桓武。

「身ごもりました」と明信。

「ン?」と桓武天皇が明信に眼を向ける。

三月みつきになるそうです」と明信。

「どうして早く知らせない」と桓武。

「今朝、内薬寮ないやくりょうの女医が確かだと診断しました。

さっきまで謁見えっけんなさる方がありましたので、どのようにするか伺うまでは、人の耳をはばかりました」と明信。

百済永継は、後宮に暮らす天皇の妻ではなく内裏に仕える女嬬だ。

桓武天皇には嫡男の安殿親王と長女の朝原内親王の間に、認めていない七歳になる男子がいる。この子の母親も女嬬で、後宮にいる真宗とおなじ多治比氏だった。

「退庁させて、どこで出産させる?」と桓武。

「交野の百済王家に引きとらせて頂ければ、ありがたく存じます」と明信。

妊娠がはっきり分かったときから、出産後二、三ヶ月ほど経って身体が安定するまで、天皇の妻は後宮を離れて実家に戻る。出産した皇子か皇女は成人するまで母方の実家が育て、成人したら邸を構えるという習慣も徐々にさだまるが、いまはまだ規則はない。

「生まれてからも育てるのか」と桓武。

「永継や飛鳥部とは相談しますが、帝のお子です。百済王家も大切にお世話できます」と明信。

「そうだな。百済王家が百済系の氏族をまとめるのも良いだろう。

皇太后と血縁がつながるから、そのうち皇家の姻戚と認めよう。

だが出世は実力次第だ。縁故出世は認めない」と桓武天皇。

「はい」と明信が笑顔でコックリした。



七八五年。

一月一日に朝賀が行われた。

新都で行う始めての朝賀は、大極殿の前に宝幢ほうとう(儀式用の旗)を並べて厳粛で華やかだったが、どことなく朗らかさに欠けた。

朝堂に並んでいる貴族の全てが、遷都を喜んでいるわけではなかったからだ。

即位して四年八ヶ月。光仁天皇が亡くなって四年が過ぎる。

桓武天皇は、能力や人柄を良しと認めた人を大政官や八省の長官に置いて、親政を行っている。四位や五位の貴族にたいしても、力の有るものを重要な任につけている。

認められた官人にとっては、新都で行う朝賀は未来へ向かっての第一歩だった。

桓武天皇の政策を受け入れられない官人にとっては、この遷都を失敗させて大和へ戻るための戦いへの幕開けだった。



「今日で最後ですね」と、弾正台だんじょうだいを訪ねてきた坂上田村麻呂たむらまろが言った。淡い髪と青い眼をした苅田麻呂の息子は、二十七歳で近衛府の将監しょうげんをしている。

「わたしも七十六歳だ。満足に馬に乗れないようじゃ、もう、お役に立たない」と弾正伊をしていた従三位の高倉福信が笑みをつくった。

福信は、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇、桓武天皇と六代の天皇に仕えて、退職を願いでて許可された。陰謀が多かった時代に、高齢になるまで順調に出世して公卿になり退職できる人は少ない。

「まだ職務中じゃないのか」と福信が田村麻呂に聞く。

「夜勤をしていましたから仕事明けで、これから帰ります。お邸までお供させてください」と田村麻呂。

「後任を待っているところだ」と福信。

「もう後任の方が決まっているのですか?」と田村麻呂。

「こんなときに弾正台を空けるわけにはいかないだろう。

ちょうど良い。紹介しておこう」と福信。

弾正台は太政大臣以外の高官から庶民までを監視して、不穏な動きがあると摘発する力がある。連携しているのは都の治安を守る京職で、こちらは京内にある邸や家の人の出入りを見張っている。そのうえ五戸一組で相互を見張る隣組が機能している。

謀反の対策は万全だった。

「遅くなりました」とみわ王が入ってきた。

「つぎの弾正伊だ。これは坂上苅田麻呂の息子で田村麻呂と言います」と福信。

従四位下で参議の神王は、桓武天皇の従兄弟であり、天皇の異母妹の美弩摩みぬま内親王の夫だから義弟にもなる。桓武天皇と同じ歳で、もっとも近い親族だ。

「なるほど、りっぱな体格だ。

父君譲りの剛直な性格で、いずれ父君を超す器だろうという話しは聞いている」と、四十八歳の神王が、田村麻呂に声をかける。

「そんなことを、どなたが?」と田村麻呂。

「帝」と神王。

「ヘッ?」

「お目に掛かったことは?」と神王。

「近衛ですのでお姿を拝見することはありますが、お側に寄ったことはありません」と田村麻呂。

「帝は子供の頃から人を見抜く天賦の才をお持ちで、一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくから、その人の心まで覗いてしまわれる。

遠くからでも姿を見られたなら、腹の中まで見すかされている。

ゴチャゴチャ余計なことを考えず、ありのままの姿で誠実に勤められるように」と神王。

「ハッ」と田村麻呂。

「ところで田村麻呂。近衛府の中で、なにか変だなと思うようなことはないだろうか」と神王。

「あの、ヘンと言いますと・・・」と田村麻呂。

「なんでもいい。ちょっと気になるとか、引っかかるような話しはないか」と神王。

「サア・・・」と田村麻呂。

「近衛府に不審な動きでも見つけたのか?」と福信。

「いいえ。福信さん。

弾正尹を任命されましたが、わたしは帝の縁族だという以外に取り柄がありません。

武勇はないし、肝の据わりが悪く、経験も浅いから、福信さんのように人心を押えられません。

そこで、このような若者から話しを聞き、変だなと思うことの裏を調べておこうと思っています。

はっきりした証拠がある違法行為でないかぎり、その話しに関わる人に迷惑はかけませんし誰にも話しません。状況を掴みたいだけです」と神。

「それも一つの手だな」と福信。

「わたしにできるのは、これぐらいです。

それじゃ田村麻呂。

ほかの衛府のなかで、なにか気にかかる話しはないだろうか」と神。

田村麻呂が福信を見た。

「なにかあるのか?」と神。

「個人的に気にかかるだけで、犯罪には関係ありません」と田村麻呂。

「どんなことだ」と福信。

「言っても良いのでしょうか。その方に迷惑がかかりませんか」と田村麻呂。

「弾正台は犯罪者を摘発するが、犯罪に関わりなければ聞き流すだけだ。

ただ、どんな些細な情報でも知っておくのが務めだ」と福信。

「じゃあ嶋足おじさんには、子供がいたのでしょう?」と田村麻呂。

道嶋みちしまの嶋足しまたりのことか。

子供はいたはずだが、道嶋の名で苦労しないようにと養子にしたと聞いている。

それがどうした?」と福信。

「じゃあ牡鹿おじかと名乗っていても、嶋足おじさんの子じゃないですよね」と田村麻呂。

「嶋足は石巻のそばにある牡鹿半島の出身で、道嶋と名乗るまえは牡鹿だった。

だが自分の子に、牡鹿を名乗らせるとは思えない。

なぜ、そんなことが気にかかるのか?」と福信。

「エーッと、中衛府に牡鹿という弓の名手がいるそうです。

もしかして嶋足おじさんと関係があるのかなと、ちょっと気になっただけです。

だから先に個人的なことだと言いましたよ!」と田村麻呂。

「その男は何歳だ」と福信。

「わたしより上で、三十・・・ぐらい」と田村麻呂。

「嶋足の一子と二子は娘で、おまえより若い。

都を離れていたあいだは知らないが、息子がいても、それより若い。

牡鹿というなら嶋足の縁族だろうが、息子ではないし近親でもないだろう」と福信。

「弓の名手といわれているのか」と神。

「そういう噂です」と田村麻呂。

「牡鹿という名から嶋足を連想して立った噂かも知れないが、牡鹿なんという?」と神。

「えーっと、木組みとか・・・」と田村麻呂。

「だれから聞いた噂か知っているか?」と神。

「近衛府の番長の伯耆ほうきさんからですが、打ち解けない人だから伯耆ナニさんか知りません」と田村麻呂。

「他愛ない若者の噂ですよ。

では、これで老兵は去ります。あとをよろしくお願いします」と福信。

「お疲れさまでした。そうぞ雑事を忘れてゆっくりとお過ごしください」と神王。

福信たちが出て行ったあとで、どうしようかと迷ったあとで、神王は今の話しを書き留めた。



「赤い雀?」と新笠が聞き返す。

「ええ。皇后宮の庭に十日も赤い雀がいたそうです」と和気広虫。

「見に行こう」と新笠。

「もう飛んでいったと聞きました。残念です」と広虫。

「捕まえなかったのですか」と五百枝女王。

「おめでたいものだから、傷つけないように捕まえなかったのでしょう」と広虫。

「おめでたいものは祥瑞しょうずいですから、捕まえて献上するでしょう?」五百枝。

「そう言われれば、そうでしたねえ。

じゃあ捕らえようとして失敗したのでしょう。

赤い雀って、きれいでしょうねえ」と広虫が両手を組んで空を仰いだ。

去年の暮れに参議になった皇后宮大夫の佐伯今毛人が、赤い雀が皇后宮に来たと奏上した。皇后宮というのは後宮の一棟のことで、庭は仕切られていないから棟の近くに来たと言うことだろう。

遷都をしたから、そろそろ祥瑞が現れて欲しいときで、さっそく右大臣の藤原是公が五位以上の官人を引きつれて祥瑞の上奏文を述べた。

これが六月十八日だった。


淡海三船は病床についていた。

高倉福信から神王に引き継がれた弾正伊は不審な者を摘発して拘束するが、その罪を裁くことはできない。

淡海三船は罪人を尋問して事実を確認し、刑を決める刑部ぎょうぶ省の長官だ。

称徳天皇のころ、天皇が寵愛する道鏡の甥を贈収賄そうしゅうわい罪で摘発して裁いた、恐いもの知らずの正義漢の三船にぴったりの役職だ。

三船が体調をくずしたのを知った桓武天皇は、すぐに坂上苅田麻呂を京職の左京大夫に任命する。左京大夫は従四位下ぐらいの官人がつく職だが、苅田麻呂は従三位の公卿だ。高倉福信の退職と淡海三船の病でゆるんだ治安維持を、苅田麻呂の勇名で補ったのだ。

適材を適所に配置する桓武天皇の采配はみごとだったが、官人は一万人もいる。隅々までは目が届かない。

一ヶ月ほど寝ついた淡海三船は、七月十七日に六十三歳で亡くなった。

石上宅嗣とともに、この時代を代表する文人ぶんじんかしらといわれる淡海三船だが、天皇が亡くなってから送る諡号しごうのうちのかん諡号を選んだと伝えられている。

漢諡号は藤原仲麻呂が官名を唐風に変えたときに始められたから、四十六代の孝謙天皇から使うようになった。孝謙天皇の前の四十五人の天皇の漢諡号は、あとから三船が選んだことになる。つまり天智天皇も天武天皇も三船作だ。

和風わふう諡号は分かりづらく、桓武天皇は日本根子やまとねこあまつひつぎ弥照いやてりのみことと言う。



昼近くなるまで太政官たちの聴政をして、朝服をから平服に着替えて遅い朝食をとったあとで、桓武天皇が神王と壱志濃王いちしのうおうを召した。

「明一と実忠じっちゅうが、長岡まで来たのか」と桓武天皇が問う。

実忠も東大寺の僧で、早良親王や弓削道鏡とおなじ良弁に師事していた。弁論が鋭く、東大寺の経営に手腕を発揮している。

「なにをしに来た」と桓武。

「帝は政務を執られているからと、わたしが会いましたが、遷都の祝いを述べにきたそうで実忠が仏教の功徳を論じました。

叱っているような口ぶりは気に食わないのですが、内容はもっともなことです」と壱志濃王。

「祝いというからには、説法のほかに何か持ってきたのか」と桓武。

「信徒の写経を山ほどいただきました」と壱志濃。

「何人ほど連れてきた」と桓武。

「ほかに警護の者はいるのでしょうが、僧を四人連れているだけです」と壱志濃。

「それで帰ったのか」と桓武。

「まだ東宮におられますが、今夜は乙訓寺おとくにでらに泊まられるそうです」と神。

「フーン・・・。なにを企んでいる」と桓武天皇が、めずらしく眉を寄せて考え始めた。

とても蒸し暑く、風がない七月四日の昼だ。蝉の声がうるさい。

壱志濃王が檜扇ひおうぎをだして扇ぎ始めた。

「なにか見落としているような気がする。知恵を貸してくれ。

平城京に残された寺院は、遷都が失敗して都が奈良に戻って来ることを望んでいる。彼らにとっては早良が早く即位すれば良いのだろうが、それは、むずかしいと分かっている。

そういうときは、何を企む?」と桓武。

「皇太子の即位がむずかしいと思っているとは、どういうことですか」と壱志濃。

「生前譲位はしない。朕は、いまのところ健康だから十年は大丈夫だ。

十年経てば長岡の造営もほぼ終わり、そのあいだに平城京は荒廃する」と桓武。

「官人たちの間でも、十年後に長岡の繁栄を見てから遷都が成功したと思えばよいとささやかれています。

遷都に反対する者も十年を目安と考えているでしょう」と神。

「早良を早く即位させるためには、朕が早々と亡くなるしかない。

どういう死に方であろうとも近いうちに朕が死ねば、藤原氏が不審死と発表して早良を糾弾きゅうだんするだろう」と桓武。

「それは安殿親王と伊予親王の外戚が藤原氏で、親王を立坊させるためには帝の死を不審死にして皇太子に嫌疑をかけると、そういうことですか?」と壱志濃。

「藤原氏なら皇家の外戚の地位を守るために、それぐらいのことなら一丸となってする。

実忠と明一には、かんたんにできる先読みだ。

だから早良を巻き込む危険は避けると思う」と桓武。

「皇太子さまに奉還ほうかんを勧められたことはありますか」と神。

「春宮大夫の大伴家持が勧めていたようだが、朕は気にしていない。

先の帝が、安殿が幼いから代わりに皇太子に立てる。安殿が成人して政務が執れるようになるまで皇太子として努め、あとは位を譲って僧侶に戻るのも宮中にいるのも好きなようにするようにと早良に言った。

早良に他意はなく、父の言葉を守っているだけだ。

安殿が二十歳ぐらいになれば、自ら辞退するだろう」と桓武。

「なるほど。皇太子さまは最初に決まったことを、変更するのが苦手でした」と壱志濃。

「兄や従兄弟のわれわれよりも、東大寺の僧の方が早良の性癖を知っている。

彼らが企むのは、遷都を失敗させて都を大和に戻す工夫だ。

この遷都が失敗したら朕の権威が失墜しっついして、官人たちを掌握しょうあくできなくなる。

早良を即位させるのは、遷都が失敗してからで良いはずだ。

いま明一たちが企むとしたら、どんなことだ?」と桓武。

「遷都の失敗を狙うだけなら、武装蜂起はしないでしょう」と壱志濃。

「放火は、注意しています。

紫香楽しがらき京と違って、ほぼ京内の整地は終わっていますし、水も豊富ですから予防に努めます」と弾正伊の神。

「噂は! 井上内親王が亡くなったあとに広がった噂は、寺院が関与していたと思います。信徒が多いから噂を広げることができます」と壱志濃。

「噂か」と桓武。

「いまは、なんの噂も立っていません」と神。

「神。酒人の邸で会った市人いちびとの岡田綱をおぼえているか。

綱を呼んで、いつでも、お前の邸に連絡が取れるようにしておけ。

市の噂は、すぐに伝えさせよ。噂が立ったら出どころを知りたい。

噂を流すときもあるから、その体制もつくっておけ」と桓武。

「はい」

「ほかに何か思い当たるか」と桓武。

「不平を持っている官人は見張っていますが、徒党を組んでいるようすはありません。人との交流は身近な親族だけで、それだと人数に限りがありますから大きなことはできません」と神。

「少人数で不審な動きをする者も、すぐに捕獲できるように警護せよ。

なぜか見落としがあるようで落ち着かない」と桓武天皇が拳で自分の額を押した。



東宮(春宮)で華厳けごん宗の数学を論じていた早良皇太子が、話しを止めて水を口に含んだ。

「皇太子さま。いつまでもお側にいたいのですが、そろそろ引き取らねばなりません」と明一が、皇太子の話が止まったのを捕らえて言う。

「こちらに、お泊まりにならないのでしょうか」と春宮しゅんぐうのすけの紀白麻呂が訊ねた。大夫の大伴家持が陸奥に赴任してから、亮の紀白麻呂が春宮坊しゅんぐうぼうに仕える役人の責任者だ。

「せっかくですので、これから乙訓寺へご挨拶にまいります。

今夜は乙訓寺に泊まらせて頂き、明朝、都へ戻ろうと思っております」と明一。

「皇太子さまが喜ばれておられますのに、それは残念です」と紀白麻呂。

「新都は始めてですので、ようすが分かりません。

どなたか、案内につけていただけませんか」と実忠。

「佐伯さん。明一さまと実忠さまがお帰りになるまで、舎人と衛士を連れてご案内と警護をお願いしてよろしいでしょうか」と白麻呂が隣に控えていた春宮少進しょうじょうの佐伯高成に言う。

「はい」と高成が答えた。

蝉の声がうるさい昼下がりに東宮を退去した実忠と明一は、春宮少進と衛士に守られて輿に揺られて乙訓寺に着いた。


乙訓寺は三条大路に面して西二坊大路の側にある。宮城が二条大路に朱雀門をかまえているから、宮城から南に大路を一つ下がって西山によったところだ。

乙訓寺は推古すいこ天皇(在位五六二年~六二八年 三十三代)の勅で、聖徳太子が開いたと伝える古刹こさつだ。

新都を造るときに寺の地所を坊条あわせ、講堂も建て直して大きくし、長岡京を鎮守する寺にした。

ここに推古天皇が寺を建てさせたのは、継体けいたい天皇(二十六代)の弟国おつくにぐうの跡地だったからだと伝承されている。

越前で生まれ育った継体天皇は、六世紀始めの天皇だ。先代の武烈ぶれつ天皇(二十五代)には子供がなく、大王の直系が途絶えた。そのとき大伴金村が応仁天皇(四世紀ごろ・十五代)の五世孫(夜叉孫やしゃまごの子・孫の孫の子)として継体天皇を擁立して即位させた。

しかし、この即位に反対する大夫まえつきみ(大臣)があり、継体天皇が都がある大和へ入るのは即位から二十年もあとになる。弟国宮も、大和へ入るまえの住居だった。

継体天皇からあとの天皇は、推古天皇も天智天皇も天武天皇も、その血脈を継いでいる。


「もしや東大寺さまのご一行でございましょうか」と掃除をしていた寺男がホウキを置いて聞く。

「明一さまと実忠さまを、ご案内いたしました」と佐伯高成。

「お待ちを」と寺男が駆けだした。

「東大寺さまでいらっしゃいますか。お迎えもせずに失礼いたしました。

お着きになるのは夕刻と知らされておりましたから、別当たちは法事をおこなっております。ただいま知らせてまいります」とあたふたと出てきた汗まみれの僧が頭をさげる。

「待ちなさい」と輿を降りていた明一が止めた。

「夕刻に参ると知らせたのは、わたしのほうだ。思いのほか早くに着いてしまったが

法要のジャマをしては申し訳がない」と明一。

「どなたの法要かな」と実忠。

「大伴古麻呂さまの祥月命日しょうつきめいにちにあたります。

いつもは氏寺でおこなわれるそうですが、遷都で氏寺が遠くに離れてしまいました。

それで今年は、ここでなさっております」と乙訓寺の僧。

まだ仏教は宗派に拘らなかった。

「大伴古麻呂さまといいますと、たしか唐から大乗だいじょう仏教の法典を持ち帰って下されたお方ですね」と実忠が、明一を見る。

「そうでした。鑑真がんじんさまを日本に連れ帰ってくださったのも古麻呂さまです。仏教界の恩人と申しても良いでしょう」と明一。

「先皇の恩赦が出るまで罪人になられておりましたから、法会もままならない時があったのでしょう」と実忠。

「さぞかし、ご遺族もご苦労されたことでしょう。

早く着いたのも仏縁です。わたしたちも法会に加わりましょう」と明一。

橘奈良麻呂の変で謀反に問われ、囚われた大伴古麻呂が杖で殴り殺されてから二十八年が経つ。祥月命日の法要を今年は乙訓寺ですると、明一と実忠は平城京にある大伴氏の氏寺から聞いて知っていた。それに合せて長岡に来て、法要の最中に乙訓寺に着くようにしていた。


二人の高僧のやりとりを横で聞いていて、仏縁ということばに心を動かしたのは案内をしてきた春宮少進の佐伯高成だ。大伴古麻呂の息子たちとは交際があるが、今日のこの時に、乙訓寺で法要をしていることは知らなかった。

高成の父の全成は、生前に橘諸兄が聖武天皇に無礼なことを言ったという酒席に同席していた。奈良麻呂の乱のときに、赴任途中の信濃でそのことを尋問されて答えた。その直後に、尋問に答えた自分を恥じて全成は自死している。

罪人として捕まったのではないが、古麻呂と同じときに仲麻呂に陥れられて亡くなっている。


会うのも難しい東大寺の高僧が法会に加わったので、古麻呂の息子の継人と竹良。遺族の真麻呂たちは感激した。

「ここに集まられたみなさんは、ご縁で結ばれております。

これからも、そのご縁を大切に活かされますように」と明一。

「東大寺の上座さまが加わって下さったのは、ご先祖さまが積まれた功徳が高いためしょう」と古麻呂の法事を受けつけ実忠と明一の宿泊を承諾しただけで、なにも知らない乙訓寺の別当がうなずく。

「ご先祖といいますと、この地は継体天皇の宮の跡だと聞いております」と明一。

「そのように伝えられておりますが、文献は残っておりません」と乙訓寺の別当。

「継体天皇を擁立されたのは、大伴金村さまでございましたな。

ここは、みなさまがたのご先祖さまと縁の深い土地です」と乙訓寺の別当を無視して、弁論の達人の明一が続ける。

三百年近くまえのことなど、人ごとだったら聞き逃す。しかし自分の先祖がたてた功績となると話が違う。継人たちは過去の栄光を、今更ながらに身近く思いはじめた。

蝉の声が消えたと思ったら、通り雨が激しく降り出した。

焦土しょうどに降る恵みの雨です。やむまで留まられるとよい。

ご一緒いたしましょう。

すべての事柄には自然の摂理せつりがかかわります。

仏のお導きによって、ご先祖さまと関わりが深いこの場所で、われらは、この日につどいました。ご先祖さまが守っておられるからでしょう。

大志をお持ちなら、おそらく大願成就する日も近いと思われます」と明一。

「ご縁があって集まったのですから、こちらの方とも深い仏縁で結ばれておられます。ご紹介しましょう。春宮少進の・・・えーっと、お名前は?」と実忠が、佐伯高成を振り向く。

「佐伯高成と申します」と高成が、継人に目を合せて頭を下げた。

大伴継人たちと佐伯高成は一年ほど前から親しくつき合っている。もともとは遷都に反対する立場で仲良くなったので、いまは長岡京が継続不能になって平城京に都が戻されるのを望んでいる。

かれらにとっては、この日は高僧に導かれた奇跡の日に思えた。

遷都に不満を持つ人々の背中を押しに来た実忠と明一にとっては、疑われることなく目的を果たした一日だった。



七月二十日に桓武天皇が勅をだす。

「釈尊の教えは深遠で、それを伝えるのは僧侶である。

僧でも尼でも、徳があり修業を積んでいる者を表彰して世に知らしめ仏道を広めたい。仏道の修業に励んでいる者を選んで、その者の業績、年齢、氏名調べるように担当の役所に命じる」

そのころ東大寺の戒壇院かいだんいん具足戒ぐそくかい(僧尼の集団に入るために守る戒律)を受けた十八歳の清らかな僧が、比叡山への道を登っていた。近江国分寺の青年僧で最澄さいちょうという。

最澄の俗名は三津みつのおびと広野ひろので、百済系渡来人の出身だ。幼い頃から寺で学び、地元の近江では神童と呼ばるほど評判の高い天才少年だった。十三歳で得度して、これから修業のために比叡山の神宮禅院にもるところだ。比叡山は古くから信仰の対象とされてきた山で、天智天皇の勅願寺である宗福すうふく寺が南へ延びる尾根の東斜面に建っていた。

有徳の僧も桓武天皇も、仏教界に新しい風が吹くことを願っていた。



白樺やニレの木が枝を広げて青々と茂る陸奥の夏は美しい。

「それで、新しくきた征東将軍は、どんな男か分かったのか」とイヨプが聞く。

「大伴駿河麻呂の一族の長だそうだ」とアテルイ。

「なんだと!」とホルケが身を起す。

「殺そう」とイヨプ。

「多賀城の外に出てきたら、捕まえることもできるだろう。

だが殺して、どうなる」とアテルイ。

「気がすむ。おれは獣を仕留めるときに、苦しまないようにと祈って一瞬で殺す。

おれのおやじは、生きたままノコギリで首を引かれた」とホルケ。

「あいつらは人じゃない。

長老というからには、いまの将軍は年寄りなのか」とイヨプ。

「ふつうの老人だそうだ。戦う気もないらしい」とヘペレが伝える。

「そいつを捕らえて、シワ首を鈍刀で何度もたたき切ろう」とイヨプ。

アテルイが空を見た。陸奥の夏空は、どこまでも青く澄み渡っている。駒形嶽のよこに白い雲が流れるように浮かんでいる。

「おれはイヤだ」とアテルイが言った。

「なぜだ!」とホルケ。

「おれは卑怯者になりたくない。堂々と戦いたい」とアテルイ。

「お前の身内は無事だから、きれいごとを言えるのだ!」とホルケ。

「落ち着け。聞いてくれ。

おれはノコギリで首を切り落とされてもいい。だが老人を捕まえて、首を鈍刀で切り落としたりはしない。お前はどうだ。やつらと同じになりたいのか。

お前の父君は、生きているときは一族のくらしを守り、野蛮な敵に残酷に殺された。

神のまえで胸を張れるのは、どっちだ? お前の父君か。

静かにくらしていた村を襲って男たちを捕らえ、族長をノコギリを引いたヤツラか? 

神に迎えられるのは、どっちだ?」とアテルイ。

ホルケがアテルイを見る。

「おれは最後の血の一滴が流れるまで、堂々と戦いたい。

戦には駆け引きが必要だが、兵士のあいだで使うだけだ。

ホルケ。恨みで己を見失うな。おまえも大地が育んだ神の子だろう。

息子に残酷な親の姿を残すつもりか。

恨みが消えないのなら、なおさら胸を張って潔く戦ってくれ」とアテルイ。

「大軍を引き上げたのには事情がある。

あとで詳しく説明するが、国で騒動が起こったようで朝廷軍は身動きがとれないらしい」とヘペル。

「じゃあ、いま攻撃すれば城を叩けるのか」とイヨプ。

「多賀城や桃生城は潰せても、ヤツラを潰すことは無理だ。

ヤツラは、俺たちの何十倍もの兵士をすぐに集められる。

多賀城を攻撃すれば、国でなにがあろうと大軍をつくって押し寄せてくるだろう」とアテルイ。

「多勢に無勢か」とイヨプ。

「三千から四千の兵を相手にすることになる。

しかも敵は欠けた兵士を補充できるから、つねに大軍と戦うことになる」とヘペル。

「勝ち目はないのか」とイヨプ。

「いずれ、おれたちはヤツラの手にかかるだろう。

だがムザムザ殺されるつもりはない。まず武器を集めよう。それから塩と食料を保存して長い戦にそなえよう」とアテルイ。

「オーイ。アテルイ」とモレの声が聞こえる。

「子供たちが帰ってきた。

子供たちが集めてきた薬草の使い方を、モレから学んでおくか」とホルケが立ち上がった。

「たくさん集めたな」とイヨプ。

「さあ、こい。こんどは泳ぎを教えてやろう。男の子はこっちに来い」とホルケ。

「女の子は、おれが教える。集まれ!」とモレ。

「おだまり! モレ。女の子はこっちへおいで」と薬草が入ったカゴを降ろして、アテルイの妻のミケが手招いた。

胆沢いざわの平野を流れる衣川ころもがわに、子供たちの歓声と笑い声と水しぶきがあがった。


征東将軍の大伴家持は、陸奥に来てから駿河麻呂のことを知った。

家持が知っていた駿河麻呂は、家族を大切にする剽軽な一面をもつ男だった。

異民族だからと、人を獣のように扱える男ではなかった。

その駿河麻呂が、陸奥では鬼のように嫌われている。

聞くだけでおぞましくなるような所業も、伝えられている。

蝦夷は同じ島に住む異国人だ。この島に異国はいらない。

海を隔てた大陸の大国から日本を守るためには、政権は一つで良い。

・・・そのためには蝦夷を攻撃して・・・駿河麻呂のように鬼となって・・・でも・・・そのうち考えることに疲れてしまった。

都を出るときに家持は、蝦夷と戦闘するときに有利な地の利を調べて報告しようと決めていた。それが大王を守りつづけた武門の大伴の氏の長者が、征東j将軍として最後にする仕事だと思っていた。

家持は周囲が止めるのを聞かず、少人数の供を連れただけで桃生城や伊治城へ視察にでかけた。いつ死んでも良いと思っていたが誰も襲ってこなかったから、胆沢平野の入り口まで行って神々しいまで壮大な山々の連なりと、あいだに広がる平地を目にした。

多賀城に戻ってから、胆沢に城をつくれば陸奥を制定できると報告書を書いて都に送った。

報告書を抱いてから、あまり考えなくなった。

遷都で多忙な桓武天皇は、しばらくは蝦夷討伐の命令を出しそうもない。攻撃しない限り蝦夷は襲ってこない。そのうえ家持の寿命もつきそうだから、アレコレ考えたって仕方がない。

考えないと、空気に混じる草の匂いや土の香りが嗅ぎ分けられる。

口にする水や米がうまい。晴れた日も雨の日も心地よい。腹の調子も良くなった。

ボケたわけではない。

征東将軍の家持は、移民やおとなしく暮らしている蝦夷に乱暴しないようにと、城に駐屯する朝廷の兵士の規律を厳しく取り締まった。

いままでは、なんだかチマチマ生きてきたと家持は思ったのだ。

遷都だろうが、政治革命だろうが、大伴一族だろうが、みんな、勝手にしやがれ!

悲運の者に心を沿わせた哀愁あいしゅうに満ちた歌を詠んだ大伴家持は、考えることをやめて、ただの爺さんになって陸奥の自然に心を寄せた。




  

             乙牟漏皇后(式家)

              ‖――――――安殿親王(一男)

             桓武天皇

              ‖――――――朝原内親王(一女)

             酒人妃



藤原南家

一男 豊成一―――――大納言・継縄

                ‖――――――――乙叡

            女官・百済王明信(渡来系)


                        桓武天皇

                         ‖――――二男 伊予親王

三男 乙麻呂―――――右大臣・是公――――――――吉子夫人

                ‖

            女官・橘真都我



藤原北家           秦嶋麻呂の娘(渡来系)

                ‖――――――――葛野麻呂

一男 鳥養―――――――参議・小黒麻呂

二男 永手―――――― 参議・家依

三男 真盾――――――――― 内麻呂

                ‖―――――一男 真夏

                ‖     二男 冬嗣

            女儒・百済永継(渡来系)

                ‖

               桓武天皇             

                  

五男 魚名――――――――――鷲取――――桓武夫人・藤子

                ‖

            式家 人数


藤原式家

二男 良継―――――――皇后・乙牟漏――――――――安殿親王

            女官・人数

            女官・諸姉

            ∥―――――――――桓武夫人・旅子      

           ∥               帯子    

      六男 百川―――――――――――光仁夫人・産子

          ‖――――――――――――――――緒継

         伊勢大津の娘         

三男 清成

    ‖――参議・造長岡使・種継――――――――――仲成

    ‖                      薬子

   秦朝元の娘(渡来系)               ‖

七男 蔵下麻呂―――――――――――――――――二男 縄主




               市原王    春宮侍従・五百井王

                ‖――――――ー女官・五百枝女王

光仁天皇           能登内親王

  ‖――――――――――――桓武天皇

新笠皇太夫人(渡来系)    早良皇太子


           治部卿・壱志濃王

        参議・弾正伊・神王


  参議・皇后大夫・造長岡使・佐伯今毛人 

  参議・春宮大夫・征東大使・大伴家持


大伴古麻呂――――――――――継人

               竹良

佐伯全成――――――春宮少進・髙成

          

           東大寺・明一

           東大寺・実忠


坂上苅田麻呂(渡来系)――――田村麻呂

               

               アテルイ

               モレ  














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天明に立つ 桓武天皇  中川公子 @knakagawa

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