十五 振りかざす大鉈  氷上川継の乱


七八一年(天応元年)から七八三年(延暦えんれき元年)


七八一年六月。

石上宅嗣と南家の藤原乙縄と藤原縄麻呂が亡くなり、京家の藤原浜足は太宰府へ更迭こうてつされ、七十九歳になる右大臣の大中臣清麻呂が辞職したので太政官が補足がされた。

左大臣は、藤原魚名うおな(北家)六十歳。

魚名は六男で唯一残った北家の二世代目になる。

藤原田麻呂(式家・五十九歳)は大納言になり、藤原継縄つぐただ(南家・五十四歳)は中納言として残った。

田麻呂も五男で、式家で唯一残った二世代目だ。

継縄は南家の三世代目だが、右大臣だった豊成の息子の中で一人だけ残った二男になる。

参議の太政官には、すでに藤原家依いえより(北家・三十八歳・永手の長男)、藤原是公これきみ(南家・五十四歳・乙麻呂の三男)、大伴伯父麻呂(六十三歳)、大伴家持(六十三歳)、石川名足(五十三歳)、みわ王(四十四歳)、陸奥討伐をやめて帰京し解任中の藤原小黒麻呂(北家・四十八歳・鳥養の長男)がいたが、新しく大中臣子老こおゆと紀舟守(五十歳)が加わった。

大中臣子老は引退した右大臣の清麻呂の二男で、ずっと神祇じんぎに関わる職をしていた。

紀船守は「仲麻呂の乱」のときに、田村第から武装して内裏に向かった矢田部やたべのおゆを射貫いた授刀舎人だ。



桓武天皇は践祚せんそというかたちで即位して、最初から天皇として官人の前にのぞみ、休むことなく政務を続けて定員外の官人を解雇したあとに、太政官で京家の藤原浜足を無能だと太宰府に左遷している。

新天皇の即位のあとは短い行幸や宴や恩赦や昇位などの恩恵があって、おめでたムードが続くものなのに、桓武天皇は鞭ばかり振るってアメを与えていない。

そこで九月三日に、五位以上の貴族を内裏に集めて宴を催した。


貴族は一位、二位、三位の、貴族なかでも特別に公卿と呼ばれる人々が合わせて十三人まで、四位は十五人まで、五位が七十七人までと、一応、上限に定員がある。四位と五位は地方官として京を離れている人がいるから、百官が揃うと表現するが都にいる貴族がすべて集まっても八十人足らずだ。

これまでの宴席では位階はあるが散位で仕事のない皇族が上席に着き、その下に臣下が縦横に広がった席に上位の人から順に座るのが定石だったが、桓武天皇は間仕切りを取った細長い部屋を用意して、北面に天皇と皇太子の席をおき、皇族も含めた貴族全員を位階の順で両サイドに向き合う二列で並ばせた。

濃い紫色の礼服を着用する一品を持つ親王も一位を持つ臣下もいないから、左大臣で正二位の藤原魚名が右の列の一番前の席に座り、対面する左の一席には正三位で大納言の藤原田麻呂が座る。続いて中納言で従三位の藤原継縄と参議で正三位の藤原是公。この二人は供に藤原南家で同じ歳のイトコになる。そのあとに桓武天皇の異母弟で三品の稗田ひえだ親王や、高麗こま改氏姓かいしせいした高倉福信などが薄い紫色の礼服を身につけて座った。

濃い朱色の服を着た四位の席には参議の太政官が多いが、ほかに坂上苅田麻呂かりたまろ、伊勢老人おきな三方王みかたおう、近江から都に戻ってきたばかりの式家の藤原種継たねつぐ(四十四歳)、桓武天皇のいとこの壱志濃いちしの王、数日前に従四位下をもらった桓武天皇の甥になる五百枝いおえ王、淡海おうみ三船、佐伯今毛人いまえみし、藤原魚名の長男の鷹取たかとりなどが座っていた。

その先に五位の席がある。薄い朱色の礼服を身につけた五位は、貴族全体の三分の二以上の人数を占めている。

他の席と同じように五位も、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下と身分の順で座っていて、最下位の従五位下の席からは天皇の席は遠い。


皇太子時代は侍従のように控えていて即位後に強く出た桓武天皇は、重厚な赤地に金糸で龍を刺繍をしたほうを着て、やはり赤色の袍を着た早良皇太子を連れて、御簾を降ろした正面の席に座った。

まだ陽が落ちるまえで、木々が色づき始めた内裏の庭にキイーッと甲高い百舌鳥もずの声がする。

すでに膳は配られていて、中務なかつかさ卿で中納言の藤原継縄が挨拶をした。

「・・・すぐに対処せねばならぬ事案が多く、えー‥親睦を深める機会もありませんでした。みなさんも政務に追われて疲れたでしょう。

本日は、みなさんと親交を深めるために、帝のお計らいで・・・このような席を設けていただきました。

日頃の多忙を忘れるために、ここでは年功序列を忘れて・・・え~‥無礼講ぶれいこうといたします。

献杯が終わりましたら自由に過ごされて、お互いの交友を深めてください」と話し下手の継縄の、下手な挨拶がみんなの緊張感を和らげる。

継縄の挨拶が終わると女官たちが入ってきて酒を注ぎ、左大臣の魚名が献杯の音頭をとった。

ただ新天皇が催す初めての宴席で、音曲も踊りもなく自由にしろと言われても勝手が分からない。向かい合っている席は距離があるから、とりあえず隣の人と挨拶を交わすぐらいで官人たちは女官たちの酌を受けた。

大納言の藤原田麻呂が席を立って、桓武天皇のまえに挨拶に行く。

「連日の激務でお疲れでしょう。帝がお健やかで、帝の世が平安でありますように」と田麻呂。

「これからも朕を支える柱となって欲しい」と桓武天皇。

そのあと御簾の中から女官が酒と杯を持って現れ、田麻呂に杯を渡して酒を注いだ。

田麻呂は、それを飲み干すと杯を懐に収めて礼をして午前を下がった。

天皇にご挨拶に行くときの先鞭をつけたのだ。

それを見ていた三位以上の公卿が何人か、桓武天皇と杯を交わすために動きだした。

四位の席にいた参議の大伴伯父麻呂は、向かいの席にいる佐伯今毛人のところに動いた。伯父麻呂は陽気で話し好きの酒飲みで、こういう宴席には欠かせない緩和剤かんわざいだ。病になって遣唐大使を逃げた佐伯今毛人は、官人たちの非難を浴びて都を離れて太宰帥をしていたが、少し前に都に戻されたばかりだ。もともと宴席は苦手な上に、いまは立場上もすごく座りづらい。伯父麻呂は、それを和らげに行ったのだ。

正四位下で参議の神王も、斜め前の席にいる淡海三船のところに動く。淡海三船は従四位下で、文章博士、大判事などの学者畑を歴任している。

大舎人おおとねりのかみで従四位上の壱志濃王は、三位の席にいる高倉福信のところまへ行った。井上内親王を改葬していて、見送ることができなかった奈貴王の最期を聞きにいったのだ。

七十一歳になる福信は十六年も前に従三位になっているが、弾正だんじょうのかみをしている。高倉福信や坂上田村麻呂や亡くなった百済王教福は渡来系の官人で、実力や功績があって位階は公卿と呼ばれる高位に昇っているが、参議になることはなく政に関われる太政官にはなっていない。

規則はないが渡来系の官人は太政官として政務に関われない。それを考えると、渡来系の母を持つ桓武天皇の特殊な立場がわかる。

先帝の勅で即位したが渡来系の血が混じる桓武天皇を、まだ官人たちは完全に受け入れ切れていない。


宴席の末席近くに、従五位下で散位の氷上ひかみの川継かわつぐがいた。

父は臣籍降下した反逆者の塩焼王で、本人も流刑になった罪歴があるが、母の不破内親王は三品の聖武天皇の皇女だ。草壁皇子の血をあがめた奈良時代で、生き残っている唯一の草壁皇子系の血を引く成人男性だった。

川継の右隣には、二ヶ月半前に太宰員外いんげ帥に追いやられた京家の藤原浜足の長男で従五位下の継彦つぐひこ(四十二歳)が、左隣には左大臣の藤原魚名の三男で従五位下の末茂すえしげが座っている。

三位と四位が席を立って動き始めたので、五位も動き始めた。数が多く若い人もいるから、五位の席は一気に入り乱れて騒がしくなった。

何杯か酒が入ると、氷上川継のところに挨拶に来る人がふえた。その人たちから川継は杯を受けている。

「それぐらいにして、体調が優れないからとでも言って、杯を伏せられた方が良いのじゃありませんか」と隣に座った京家の藤原継彦が心配そうに注意した。継彦の妹が川継の妻なので、二人は義兄弟になる。

「まだまだ、大丈夫ですよ」と川継。

「さあ、もう一献」と反対隣の藤原末茂が杯をさしだす。

末茂は現左大臣の魚名の三男だが、二男の鷲取わしとりが一年半前に亡くなっているからコネを求めて挨拶に来る人が多い。

黄昏れて内舎人うとねりが灯りをともし始める。酔ってほてった頬をなぜる夜風が気持ちよい頃には、座は賑わっていた。

「あの赤いほうを召した、お若い方はどなたでしょう?」と川継が五百枝王を目で指して聞いた。五百枝王は初代の造東大寺長官だった市原王の息子で、母は桓武天皇の同母姉の能登内親王だ。

「さあ。お見かけからすると、まだ二十代の半ばです。いきなり四位に昇位されたから帝の勅命があったのでしょう。ご縁族だと思います。

ご親族なら、あなたがご存じでしょうに?」と末茂か聞き返す。

「わたしは廃された皇后の親族しか存知ません」と川継。

「帝のご家族のことは、父もよく知らないそうです。

早良皇太子も還俗げんぞくして立坊されるまで、先の帝に出家した親王がおられることすら知らされていなかったそうです」と末茂。

さりげなく京家の継彦が席を立って、南家の継縄の息子の真葛まくずのそばに移った。そのあとに白髪交じりの官人が入ってきて座り込む。

「わたしは天文博士と甲斐かい守をしております山上やまのうえの船主ふなぬしです。左大臣さまのご子息ですか?」と山上船主。

「はい。末茂です」

「こちらは氷上川継さま。不破内親王のご子息でいらっしゃいますね」と船主。

「・・・」と警戒した川継が、黙って目を細めた。

「わたしが従五位下を頂いたのは、ずっと昔でしてね。三十四年も前です」と船主。

「従五位下のままで三十四年ですか?」と末茂。

「あなた方が誕生される前か、よちよち歩きをしてらした頃から、わたしは従五位下におりました」と船主。

「それは・・・なんとも」と末成。

「ずうっと昔のことですが、称徳天皇のご治世に祥瑞しょうずいの五色の雲が現れたことがありましてね。そのときに陰陽すけをしておりましたから、祥瑞にあやかって従五位下を賜りました。

そのあとで陰陽かみになれると思っていましたが、大津大浦おおつのおおうらという陰陽師が追放先から戻ってきたので、わたしは允のままでして・・・」と船主が川継と末茂の杯に酒をつぎ、自分の杯も満たして三人で杯を空けた。

「大浦が亡くなったあとで陰陽頭になりましたが、そのまま陰陽寮に閉じ込められていました。陰陽寮にいたら出世もできません。

昨年になって、やっと陰陽寮から抜け出せて、この春に正五位下になりました」と船主。

「じゃあ、このような帝の宴には慣れておられるのですね」と末茂。

「五位でも貴族で、陰陽頭ですから宴には呼ばれます。行幸されるときもお供させていただきました。

称徳天皇が由義宮ゆげのみやで開かれた歌垣うたがきや宴の華やかさは、いまも覚えています。あのころは草壁皇子の血統が重んじられておりましたが、いまでは、すっかり様変わりしてしまいました。

本来は草壁皇子の血をつぐ他戸王おさべおうが座られるはずの帝のお席に、いまは、なんとも・・・つかみ所のないお方が居られて、草壁皇子の血をつぐ川継さまが、かような末席におられるのを目にしますと胸が痛みます」と船主が首を横に振る。

「たしかに得体が知れない方だと、父も言っております。

先の帝は、なにごとも父に相談して、太政官から奏上するようにと根回しをされたそうです。

今の帝は父にも知らせずに、いきなり詔勅しょうちょく員外いんげの役人を切るようなことをなさる。

解任された官人たちは父に当たります。父の苦労も大変です」と末茂。

「太政官たちは、いまの帝とは折り合いが悪いのでしょうか」と船主。

「さあ。そこまでは聞いていませんが、だれのおかげで帝になれたと思っていらっしゃるのでしょう。先帝を擁立した父たちが苦労したからじゃないですか。

その恩をないがしろにされるとうれいてはいますねえ」と末茂。

酔っ払いが動くので、ひさげを捧げていた女官が酒をこぼした。

貴族たちの席の後ろに立って宴の進行を監視している年季の入った女官が、素早く内舎人や女官を集めて処理を指示した。

「近ごろは、女官の質まで落ちたようですな。

帝のところは挨拶に伺う方が群れていますからご遠慮して、どれ、わたしは大伴家持に嫌みの一つでも言ってまいりましょう」と船主。

「家持さまを、ご存じなのですか?」と川継。

大伴家持は、早良さわら皇太子の春宮大夫と左大弁を兼任している。

「あちらは正四位上の参議の太政官で、わたしは正五位下で地方官兼任の天文博士ですが、あちらの父君の旅人たびとさんと、わたしの父に和歌の交流がありましてね。ご紹介いたしましょうか?」と船主。

「お願いします」と川継が言った。

「ちょうど三方王と話されています。三方王は、ご存じですか?」と船主。

「いいえ」と川継。

「淳仁廃帝の甥になられます。和気王のイトコですよ」と船主。

「じゃあ舎人親王のお孫さんですか」と川継。

「はい。舎人親王には天皇位が追贈されましたから二世王になられます。一緒にいらっしゃいますか」と船主。

「まいります」と川継と船主が席を立った。末茂も後を追う。

貴族でも五位の貴族となると、女官の顔や名を知らない者が多い。

川継の席の後ろにはたちばなの真都我まつがが立っていて、女官や内舎人を監督していた。酔っ払いは自分の声が大きいことに気がつかない。

船主と川継と末茂の会話は、真都我の耳に入った。

橘真都我は、この宴で中納言に任じられる南家の藤原是公これきみの夫人だった。



客たちの後ろに立って接待の監督をしていた古参の女官たちが、宴が終わって集まっている。飯高笠目も、吉備由利も、久米若女も、大野仲千も亡くなった。藤原百能は邸で伏せっている。内裏を仕切る古参の女官の顔ぶれも変わった。

いま女官を統率しているのは、阿部古美奈こみな、百済王明信、藤原諸姉もろね、藤原人数ひとかず、橘真都我たちだ。

「あら。明信さん。早いのね」と真都我が、部屋に入ってきた明信を見上げる。

「お疲れになったらしく、今夜は早々にお休みになられたわ」と明信。

百済王敬福の孫で、中納言の藤原継縄夫人で四十二歳になる明信は、皇太子時代から桓武天皇の身辺の世話を任されている。

「わたしも疲れた」と諸姉が伸ばした足を手で叩く。

「舎人たちが部屋を元に戻したかを確かめるまで、わたしたちも、お酒をいただきながら待ちましょう」と古美奈が杯を配るように女孺を促す。

阿部古美奈は、大野仲千の後任として尚蔵しょうぞうになっている。

人数ひとかずさんは?」と真都我が聞く。

「ここ」と寝転んでいた人数が、身を起す。

四十八歳の阿部古美奈は式家の藤原良継の未亡人で、桓武天皇の嫡男をもうけた乙牟漏おとむれの母。諸姉と人数は良継の娘で、同じ四十一歳の異母姉妹だ。

諸姉は叔父でもあった百川ももかわの未亡人で、娘の旅子が桓武天皇の後宮こうきゅうにいる。

人数は藤原魚名の二男の鷲取わしとりの夫人だったが、一昨年に夫を亡くした。

橘真都我は、聖武天皇のときに左大臣だったたちばな諸兄もろえの弟になる橘佐為さいの四女だ。祖母が持統天皇、文武天皇、元明天皇に女官として使えて信頼された橘三千代で、三千代は藤原不比等と再婚して光明皇后をもうけているから、光明皇后の姪にもなる。

父の乙麻呂の夫人から息子の是公の夫人へと前半生は波乱が多かった真都我も、四十四歳になったいまは是公の長男と次男と三男と、娘の吉子の母で正夫人だ。吉子は、桓武天皇の後宮にいる。

「わたしの前に、左大臣の三男と氷上川継さんの席があったのでね。

もとの陰陽頭にそそのかされて、左大臣の三男は川継さんと一緒に三方王のところに挨拶に行ったわ」と肩を叩きながら真都我が言う。

「三男というと末茂さんね。やさしいけれど流されやすい人だわ」と人数。

「川継さんと三方王は、帝に不満を持ちやすい人たちの拠り所でしょう。

まずいんじゃない?」と明信。

「左大臣は家で不満をこぼしているらしいけど、知ってる?」と真都我が人数に聞く。

「夫が亡くなってからは、お義父さまに呼ばれることが少なくなったから知らない。けど、家でも穏やかな人よ」と人数。

「左大臣は信心深い方と聞いていますし、どなたにも丁寧な対応をされますが、どんな不満をもたれているのですか?」と古美奈。

「信心深くて穏やかな人が、悟りの境地にいるとは限らないわよ。

この頃の仏教は教論を講じるのが好きだし、日和見ひよりみをする人だって表面は大人しそうに見えるわよ。なにを聞いたの?」と明信。

「左大臣はね。帝が相談もせずに詔で員外の官人を切り捨てたりするので、官人たちの突き上げを喰って、きっと板挟みなのね。

先帝を擁立して支えてきた人をないがしろにすると、家でグッチってるらしい。

わたしね。家でグチる男って嫌いなの。

言いたいことがあるのなら、息子にこぼさずに帝に直言すれば良いじゃない」と真都我。

「左大臣は六十歳で帝は四十四歳です。帝は即位されて間もないし、たしかにご自身の考えで政を進めておられるように思えます。

それを年長者として、危ぶんでおられるのではないでしょうか。

でも、たしか、北家で先帝の擁立に功があったのは二男の永手さんと三男の真盾さんで、五男の魚名さんは兄上に従われただけだったと覚えていますけど」と古美奈。

「それならお義父さんは、どうして左大臣になれたの?」と人数。

「先帝の擁立に功があった太上官で、存命なのは大中臣清麻呂さんと魚名さんの二人だけでしょう。

みんな亡くなって最後に清麻呂さんが右大臣、魚名さんが内大臣として残っていたから、即位のあとで帝が左大臣に据えたのじゃない?」と明信。

「ふつうなら経験が長くて七十九歳になられる清麻呂さまを左大臣にして、魚名さんを右大臣にするはずですが、どうして右大臣の席を空けたままでの左大臣なのでしょう?」と古美奈。

「わたしに聞いて分かると思う? 知ってるわけないでしょう。

でも夫の継縄も同じことを言ってた。

左大臣は名誉職だから空席にしても良いように高齢者を立てるのに、どうしてかって。

それに、このところ左大臣が養女を入内じゅだい(天皇の配偶者として内裏に入ること)させたがっていて、帝も困っていらっしゃる」と明信。

「養女って、だれ?」と人数。

「養女として育てた孫娘だと聞いてる」と明信。

「お義父さんに入内できる年頃の孫娘なんていたかしら?

長男の鷹取たかとりさんのところは男子が三人続いて生まれて、三男とわたしの息子が同じ歳なの。わたしの息子は八歳よ。三男の末茂さんのところも一番上は男子で、うちの子より下。四男の真鷲さんは本人が十九歳よ」と人数。

「ほんと?」と明信。

「孫娘でしょう? 娘はいないわよ」と人数。

「アッ。あの子は幾つになるの?」と諸姉。

「あの子って、どの子?」と人数。

「あなたの夫の鷲取わしとりさんの葬儀のときに、郡司の娘が連れてきた子よ。

ほら。魚名さんの邸に行儀見習いに来ていたときに、鷲鳥さんの子を身ごもって郷里帰って、産んで育てたという娘を連れてきた女性がいたでしょう。

鷲取さんが、自分の娘として届けたと言ってたはずよ」と諸姉。

「たしか藤子って子? あの子は、確かあのころ、十二か三歳ぐらいだった。

えっ? まさか。わたしは、なにも聞いてないわよ。

藤子は、母親の郷里で産まれて育ったはずよ。都育ちじゃないのよ。

それに鷲取の娘よ。わたしに相談もなく養女にするなんて、それはないでしょう」と人数。

「だれにしても、ともかく左大臣が養女にした孫娘って話しが、怪しいのね」と明信。

「入内と言いますと、左大臣が養女を連れて内裏に上がられて、そのあとで宣下せんげがあるということですね。

現職の左大臣の孫で養女なら、その方に夫人宣下がされるわけですか?」と古美奈。

「入内の日と夫人宣下を、控えめな物言いだけれど左大臣が何度も持ち出すので、帝はウザがっておられる。

帝は皇后も立てていないし、皇太子のときに入内された方たちに妃や夫人の宣下をしていないでしょう。

いまは決めるおつもりがないのに、左大臣が正式の手順を踏んで養女を連れてきたら、放っておくわけにも行かなくなる」と明信。

「妃は二人、夫人は三人までと決まっていますね」と古美奈。

「妃になれるのは内親王だけ。夫人は父親が三位以上の公卿の娘と決められているわ。

吉子は皇太子のときに帝のもとに上がったけど、今夜、中納言に任じられた父親の是公は正三位よ。夫人の資格があるわ。

左大臣のところは養女でしょう。それなら先に吉子に夫人宣下をだして欲しいわよ」と真都我。

「旅子の父の百川も亡くなったときに従三位で、すぐに二位を追贈されたわ。

旅子も皇太子のときに入ってるのに、まだ夫人宣下をされてないわよ」と諸姉。

「ホラ。こんな、あさましい騒ぎになる。

だから帝は、ジワッと急かされるのを嫌っておられる」と明信。

「なぜ左大臣は、入内と宣下を急がれるのでしょう?」と古美奈。

「太上天皇のご容態が良くないからよ」と明信。

「まさか諒闇りょうあん(喪中)のまえにと?」と古美奈。

「ほかに急ぐ理由がないもの。

太上天皇を案じて帝は何ごとも控えておられるのに、そのお気持ちを踏みにじるようなものよ」と明信。

「いくら人当たりが良くても、家でグチって自分の思惑だけを通す男って、好きじゃない」と真都我が諸姉の杯と自分の杯に酒をついだ。

「わたしだって好みじゃない」と杯をかかげて諸姉。

「帝との相性も悪いでしょうね」と明信が言った。

この日の宴で、明信の夫の嗣縄も中納言を任命された。



八月に、陸奥按察使の藤原小黒麻呂が帰京した。帰京した日の夜に小黒麻呂を呼びつけた桓武天皇が聞く。

「書面で大体の状況は理解した。しばらく副使だけで陸奥を持ちこたえられそうか」

「若いですが、百済王俊哲は陸奥に長く・・・」と小黒麻呂。

「それは、すでに書状で知っている。

朕が聞きたいのは、そなたが感じたことや思ったことだ。

話を聞いて喜びたいわけではないから、ありのままを素直に伝えて欲しい。

朕は、畿内しか知らないから東国のことが分からない。

ほんとうのことを知りたい」と桓武。

小黒麻呂が眉間にシワをよせて少し考えた。

「わたしは、若いころに上野こうずけ国(群馬県)に赴任しておりました。

始めて東国に赴いたときに、自然が違うことに驚きました」と小黒麻呂。

「どう違う」

「東国には高い山があります。川も広く流れが急です」と小黒麻呂。

「それは、すでに聞いて知っている」と桓武。

「紅葉も赤くなりません」と小黒麻呂。

「紅葉が赤くない?」と桓武。

「はい。都や畿内のように真っ赤にならずに、すこし赤っぽい枯れ葉になります。

それを上野の人は美しいと愛でます。

自然が違いますから、暮らす人の性格も違います。

上野の場合は、都人より雑な性格ですがサラッとしていました。慣れるとつき合い易い人たちです。

上野から先は、秋津島あきつしま(日本列島)の中央に高山が連なる山脈(奥羽山脈)が通っています。

多賀からは、海側も山が連なる高地(北上高地)になります」と小黒麻呂。

山道さんどう蝦夷えみしが住むところは、山脈と山脈の間にできた盆地だと聞いている」と桓武。小黒麻呂が眉を寄せる。

「ちがうと思うなら、思いどおりに話せ」と桓武。

「そう聞いて、わたしは大和盆地や山背盆地(京都盆地)や、大きくても関東盆地のようなものを想像しました」

「違うのか」と桓武。

「わたしは玉造城と桃生城と多賀城までしか行っていません。

そこは、ほんの入り口です。それでも風景に圧倒されました」と小黒麻呂。

「荒々しいのか」

「・・・荘厳です」

「荘厳とは、神々しいまでに美しいのか」

「美しく雄大で、厳しいところです。

金剛山の倍の高さがある山を幾つも含んだ山嶺が、ずっと北へ向かっています。

山脈と山脈に挟まれた平野(北上平野)は、幅は大和盆地ほどと狭いのですが、限りなく北へと延びています。

冬には何ヶ月か、山も平野も雪に覆われます。

蝦夷は自然をあがめ太陽や巨石を信仰すると聞きましたが、数百年も千年もあの地に暮らしていれば自然の中に神を感じるでしょう。

平野には御陵や水田があり、はるか昔から塩や鉄を造っていたそうです」と小黒麻呂。

「御陵があるのか」と桓武。

「昔の豪族の陵墓だそうです」と小黒麻呂。

「だれから聞いた?」

「交戦中ですので蝦夷に聞くことはかなわず、移民の老人たちから聞きました」

桓武天皇が目を細めて、小黒麻呂の顔を見た。

「それで、軍を解散したあとで朝廷の城は持ちこたえられそうか」と桓武。

「壊された外郭の修理はすんでいます。戦になれた強者たちが外郭の門を厳重に守っています。

敵は死傷者を出していますから、大軍が引き上げれば大人しくなると思います」と小黒麻呂。

「戦には侵略のための攻撃と、防御のための攻撃がある。

呰麻呂の一件から続く蝦夷の攻撃は防御のためだと判じたが、その方も現地でそれを確認したらしい。

防御のための攻撃なら、こちらから攻撃しない限りしずまるだろう。

苦労であった。

ところで小黒麻呂。妻子はいるな」と桓武。

「はい。おります」と四十八歳の小黒麻呂が、けげんな表情を浮かべる。

「正妻は魚名の娘か」と桓武。

「はい」

「妻になって、どれほどになる」

「十年余りになります」と小黒麻呂。

「その妻に姉妹はいるか」と桓武。

「姉が一人おりまして、南家の豊成さんの一男の妻になっています」

「十年余り、まえにだな。魚名の娘は、それだけか。

大秦おおはたの嶋麻呂しままろの娘も、その方の妻の一人か」と桓武。

「はい。最初の妻で三十年ほどの仲になります」

「勝手に軍を解散したとがで、しばらく自宅待機を命じる。

呼び出すまで出仕しなくとも良い。

その間に、最初の妻も正妻も労ってやるよう。

最初の妻の父親とは、招くなり行くなりしてつねより親しくよしみを結ぶように命じる」と桓武。

「ハッ?」と小黒麻呂が頭を下げた。



十月に入った夜の内裏。

「それで?」と桓武天皇が聞く。

治部省じぶしょうで調べたかぎりでは、左大臣が提出された書状に間違いはないようです」と従四位上で左大舎人頭をしている壱志濃王が答える。

壱志濃王は光仁天皇の兄の湯原王の子で、四歳年上の四十八歳になる桓武天皇のいとこだ。

「左大臣の二男の鷲取は二年前に病で亡くなっています。最終官位は従五位上です。この二男に、今年で十五歳になる娘がいます」と壱志濃王。

「娘の名は?」と桓武。

「戸籍には女と書かれているだけですよ。

この孫娘を養女にして入内させたいということですから、嘘はないでしょう」と壱志濃。

「娘の母親は、藤原式家の出身なのか?」と桓武。

「治部省にある記録には鷲取の娘と書かれているだけで、母親の名はありません」と壱志濃王。

「魚名は、祖父は魚名で祖母は式家の宇合うまかいの娘。父は二男の鷲鳥で母は式家の良継の娘と書いてきた」と桓武天皇。

「わたしも、そのように読んでいましたが、この左大臣が出した書状を良く見てください。祖父母のところは良いのですが、父は鷲鳥、正夫人は良継の娘となっています。母とは書いていません。

治部省に母親の名を届けてないなら、おそらく有名氏族の出身ではないでしょう」と壱志濃王。

「治部省が管理している戸籍は、娘の名も母親の名も記載しないものなのか?」と桓武。

「ふつう女の名は表に出さないでしょう。それに産まれたときに名をつけるかどうかは、家によってちがうでしょう。五歳を過ぎてから名付けたり、そのあとで名を変えたりします。

左大臣は孫娘の名を藤子としておられますが、これも藤原氏の娘を示す通称でしょう。おそらく藤原一族の邸の外で育ったから、藤子と呼んでいるではないかと思います。でも、そのほうが、祖父母が引き取ったという話しに合います」と壱志濃。

「租税の対象の根幹こんかんになるから、各戸の戸口は明確でないと困る。

僧籍を調べさせたら、死者が生きていたりと乱れていた。

官人たちの戸籍にも、あいまいなところがあるだろう。

壱志濃。こんど治部省を担当して、戸籍の整理と寺院の粛清しゅくせいに手を貸して欲しい」と桓武。

壱志濃王が眼をしばたいて、あごひげをなぜた。

「帝。できるかぎりのことはしますがね。

知ってのとおり、もともと、わたしは大したうつわじゃないのです。

藤原百川や石上宅嗣のような知恵袋は、どこを探っても出てきやしません。

申しつけられたように、田原天皇(志貴皇子)の三世王や四世王に勤労意欲を持たせることぐらいはできます。ほかの王族や臣籍降下した真人まひとたちが何をしているのか、どんな男なのかも調べられます。

提出されている戸籍を整理して、不明のことは調べます。

しかし寺となると、歯が立たないどころか噛みつく前に気が萎えます」と壱志濃王。

「無理なときは、なぜ無理なのかを報告してくれれば良い」と桓武。

「このまま寺院を敵に回すつもりですか」と壱志濃王。

「切り離したい。

草壁皇子の血統も、人を集め富を蓄える寺院も切り捨てたい」と桓武。

「どうやって切り捨てるのです。

深く入り込んで根を張っているじゃないですか」と壱志濃王。

「逃げるが勝ちというではないか。

まあ良い。今夜は仕事の話しはやめた。寝酒につき合ってくれるか」と桓武。

「酒で釣るつもりですか。

しかし、わたしは、酒のつき合いだけは断らない主義です。

すぐに酒と肴を用意させてくださいよ」と大舎人頭の壱志濃王が、内舎人たちに命じた。



十一月十三日。

桓武天皇が大嘗祭だいじょうさいを行った。

新天皇が即位したときに行われる新嘗祭にいなめさい(収穫祭)だ。

のちに大嘗祭はもちろん、毎年行われる新嘗祭も派手になるが、まだ神事が主体の厳かな式典だった。

二日後の十五日に貴族を招いた宴が内裏で催され、今度は雅楽うた寮の楽人に庭で音楽を演奏させた。

大嘗祭の後で、何回かにわたって昇位が行われた。

大伴家持は従三位に、不破内親王は二品に、阿部古美奈は従三位に、橘真都我と百済王明信と藤原諸姉は従四位上に、和気広虫と弟の和気清麻呂と、藤原人数は従四位下になった。

そして酒人内親王が内裏に入って妃の宣下を受けた。娘の朝原女王も内親王の宣下をされた。

左大臣の魚名の孫で鷲鳥の娘も入内したが、すでに入内している夫人達との兼ね合いがあるからと、夫人の宣下は下されなかった。



それから一ヶ月が経った十二月十七日に、三十歳の稗田ひえだ親王が急死する。

稗田親王は、光仁太上天皇を父に尾張女王を母にもつ桓武天皇の異母弟だ。尾張女王は光仁太上天皇の兄の湯原王の娘で、稗田親王は叔父と姪との近親婚で生まれている。近親婚で誕生すると疾患を持っていて長命でないことがある。

それでも稗田親王の死に、桓武天皇が関わっていると噂が流れた。

「稗田の葬儀は?」と後宮に住むようになった酒人内親王が聞く。

「全てを壱志濃に任せた」と桓武天皇。

壱志濃王は尾張女王の異母弟だから、稗田親王の叔父になる。井上内親王を改葬したのも、文室大市の室であった坂合部さかいべ内親王の葬儀を取り仕切ったのも壱志濃王だから、皇族の葬儀を行うのにも慣れてもいる。

「お父さまが重体なのに、帝が殺したという噂がたつ。

姿を隠して噂を流す人たちは、この極月ごくげつ(十二月)の寒さより冷えた心を持っている」と酒人。

「稗田とは、もっと会って酒を酌み交わしたかった。どんな夢を持っているのか聞いてやれば良かった。こんなに早く逝ってしまうとは人の世ははかない。

志貴皇子の親族は仲が良かったから、壱志濃が心を込めてとむらってくれるだろう。

酒人。おまえと朝原に宣下をだしてしまったが、どうだ?」と桓武天皇。

「好奇心の視線が音を立てて刺さってくるわよ。

もともと、わたしがどうなるかは興味の的だったから、妙に納得した人もいるみたい。

お父さまは、稗田が亡くなったことをご存じなの?」と酒人。

「すぐに箝口令かんこうれいを敷いたが、知ってしまわれたようだ」と桓武天皇。

譲位をしてから急に老いてしまった光仁太上天皇は、娘の能登内親王につづく稗田親王の死を知って憔悴しょうすいしてしまった。


稗田親王が亡くなって三日後に、桓武天皇が詔を出す。

「朕は徳が足りない身でありながら天子の位を受けついだ。朝は早く起きて夜は遅く寝て、正しい政治の道を求めている。己に打ち勝ち心を働かせて、孝行とと敬愛を目指しているが天を感応させることが敵わず、太上天皇のお体が思わしくない。

我が身の徳のむなしく薄いことをかえりみれば、責任は朕にある。ことを処して過ちはなかったかと思うと、心に恥じて怖れるものがある。霊のあるものの中で人間より大切なものはない。そこで太上天皇の病気回復の助けに大赦をする」

まず自分を卑下してから本題に入るのが儀礼だった。しかし皇太子の位を簒奪さんだつしたと非難された桓武天皇は、自分は徳が薄くて身近に起こる悲劇の責任は自分にあるという悔いを、この先も生涯に渡って心に背負い続ける。

ただ、このときの大赦だが、通常は大赦に適応されない偽金造りや故意の殺人犯まで解き放ってしまう。おそらく、これほど誰もかもを解き放った大赦も始めてだ。

事をなすときの半端のなさも桓武天皇の性格の一片だった。

大赦をしても光仁天皇は良くならなかった。

十二月二十三日に、光仁太天皇は盟友たちとの約束を果たし、七十二歳の天寿をまっとうして永眠した。

父を亡くした桓武天皇は、喉を潰すほど泣き叫んだ。

哀しいとき、とくに大切な人を亡くしたときに、天まで届けと大声で泣き叫ぶのが礼儀だ。男は人前で泣かないという後世の礼儀より、喉には悪いが哀しみの昇華がはやく切り替えもはやい。

天皇が目を腫らし声を枯らして泣き叫んでいるので、官人たちも大声で泣いた。

この父がいてこその桓武天皇だ。そして、この息子がいてこその光仁天皇だった。

初七日の日には、七大寺に竹の祭壇をつくり竹を飾って法会した。それから七日ごとに京内の寺で法要を行った。



七八二年。

光仁天皇の崩御が年の瀬だったから正月の行事もなく、正月七日に光仁天皇は御陵に葬られた。

正月十六日の任官で、散位だった氷上川継が因幡(鳥取県)守に任じられた。


光仁天皇の葬送が済んだ一月の末に、大伴家持は天皇から呼び出しを受けた。

呼び出しの刻限のまえに、春宮しゅんぐう大夫の家持は早良さわら皇太子が住む東宮とうぐうに寄った。皇太子のことを春宮とも東宮とも呼ぶ。居住するところが内裏の東にあるから東宮で、ふつうの皇太子は若いから春夏秋冬の春で春宮だ。

光仁太上天皇が崩御されたときも法会のときも葬送のときも、桓武天皇と対照的に早良皇太子は動じなかった。僧籍にいたからか、泣きもせずに端然と座っていた。

「お心は落ちつかれましたか」と家持が聞いた。

「お尋ねの意味が分かりません」と早良皇太子が、家持の目を真っ直ぐに見て言う。

「太上天皇がご崩御された哀しみから、立ち直られましたのでしょうか」と家持。

「命には限りがあります。父の帝は与えられた命のときを昇華して、御仏のもとへお戻りになりました」と早良皇太子が手を合わせる。

この皇太子は、いつも静かで清々しい。

机の上に東大寺の簿記が置かれているのを見た家持が訊ねる。

円智えんちさんがみえたのですか」と家持。

円智は、早良が出家してから世話をしていたという東大寺別当べっとうで、皇太子として東宮に入るときにつき添ってきた。

「円智は、昨年の十二月月二十日の巳の刻を過ぎたときに帰りました」と早良。

「いまは一月の終わりになりますが、それから見えていないのですか」

「はい」

「この東大寺の簿記は、どなたがお持ちになったのでしょう」と家持。

明一みょういつです」と早良。

僧網そうごうの上座におられる明一さまですか」と家持。

「はい」

明一は良弁亡き後、東大寺を切り回している五十四歳になる僧正だ。

「明一さまとは、お親しいのですか」と家持。

「明一は慈訓じくんに師事し、天平勝宝四年に東大寺で盂蘭盆会経うらぼんえきょうの講師を務めました。そのあと」と早良が息を継いだ。

「これは簿記のようですが、いつまで東大寺の管理をされるおつもりでしょうか?」と、ほっておくと明一の経歴を聞かされるから、素早く割り込んで家持が聞いた。

「良弁さまから引き受けた勤めは果たします」と早良。

「先の帝は、奈良の寺院の僧尼の数をただされされようとなさいました。あまりにも授戒じゅかいを受けた僧が多く、不明な点があったからです。

今の帝も同じように授戒を受ける僧尼をへらし、寺院に厳しい政策をとられるはずです」と家持。

「はい」

「そうなりますと、奈良の大寺は朝廷に反発するでしょう」

「はい」

「東大寺は各地の国分寺の総本山です。奈良の大寺も東大寺に従っています。

いつまでも東大寺との関係を続けられたら、皇太子さまは僧院と帝に挟まれて苦しい立場に立たれることになります」と家持。

早良皇太子が不思議そうに家持の顔を見た。澄んだ目だ。

「お分かりになりますか?」と家持が聞く。

「はい。大夫は、わたしが東大寺の管理をすると、帝と寺院に挟まれるとおっしゃっております」と早良。

「どういうことか、お分かりになりますか?」と家持。

「不正に授戒を受けた僧尼がいるのなら、調べて糺すのは正しいことです。

わたしが官寺を手伝うことと、授戒に不正がみつかることは関係がありません。

東大寺は国が有する官寺です。わたしは東大寺に長くおりました。

東大寺の管理は良弁さまの遺言で、わたしが引き受けた勤めであります。

朝廷に抗うことではありません。

すべては仏のえにしによって結ばれております。わたしが東大寺で修業して出家したのも、帝の弟であるのも縁です。

わたしは仏のお導きによって、今生こんじょうを生きております」と早良。

曇りのない早良皇太子の顔を、家持は困ったように見つめた。

「皇太子さまは仏門にいらしたときと、東宮で暮らされている今と、どちらのお暮らしがお好きですか?」と家持。

「寺におりましたときは六十華厳けごん(華厳宗の教え)を学ぶのが好きでした。いまは養老律令ようろうりつりょうを興味深く学んでおります」と早良。

寒いので空気がピンと張りつめている。家持は澄み渡った冬の空を仰いだ。

早良皇太子は、まじめで努力家で気品があって記憶力の良い人だが常人と違う反応をする。話し合うことが難しいのだ。

「なにか、わたしにご用はございますか」と家持。

「ありません」

「では、わたしは下がらせていただきます」と家持が席を立った。

「お見送りいたします」と早良の側にいた侍従の五百枝王いおえおうがついてくる。

五百枝王は桓武と早良の甥で、光仁天皇と皇太夫人の天野新笠の孫になる。

「お仕事には、お慣れになりましたか」と歩きながら家持が聞く。

「はい。皇太子さまにお仕えするだけですから楽なものです」と、まだ二十二歳の五百枝王が笑顔で答える。

「皇太子さまは、少し・・・」と言いかけて、家持が口をにごした。

「変わっておられます。祖母は感情がないと言いますが、そうかもしれません。

人との付き合いを好まれませんので、わたしが補佐するようにといわれております。でも知識は豊かで実務能力も高い方ですので、わたしが役に立つことはありません」と五百枝王。

「お父上もさらりとした性格で拘りのない方でしたが、似ておられますね」と家持。

「わたしのことですか?

早くに亡くしましたので、父の思い出も少ししか残っていません。

大夫さまは、父とお知り合いでしたか?」と五百枝王。

「はい。むかしは、よく歌会を開きました。

お父上や、あなたの大叔父さまの湯原王は歌会の常連で、良い歌を詠まれました。

お父上は管弦かんげんも得意で、和琴わごんをみごとに弾いておられました。

わたしは、みなさまが詠まれた和歌を集めて編纂へんさんしております。

五百枝王。お父上が残された和歌がお宅にありましたら、拝見させていただけませんか」と家持。

「何首かありますから、こんど持って行きます」と五百枝王。

「お知らせをいただければ、いつでもお待ちしていますよ」と柔和な笑顔で家持が言った。


「大伴家持さまがまいられました。お通しいたしますか」と侍従から伝言を聞いた明信が伝える。

内裏の昼の御座所で、読んでいた奏上書から桓武天皇が目を上げた。

「通せ」

拝謁はいえついたします」と案内されてきた家持が拝礼した。

「他の者は下がるように」と桓武天皇が声をかける。

「従三位を賜りましたことを、お礼申し上げます」ともう一度、家持が拝礼をする。

「誰もいない。そばに寄るよう」と桓武天皇が火桶のそばにある席を指した。

「すこし話がしたい。不敬は問わぬ。根にも持たぬ。思うままのことを聞かせてほしい」と言いながら桓武天皇も火桶のそばに移った。

「朕のまつりごとに大伴氏が不平をもったなら、その方はうじ長者ちょうじゃとして一族を押える力はあるのか?」と桓武。

「大伴が、なにかを企てているのでしょうか?」と家持。

「これからの話しだ」と桓武天皇。

家持が目を上げて桓武天皇を見た。

四十五歳になる桓武天皇は、気負いのない自然体でいる。

「これから、なにか起こるのでしょうか」と家持。

「大伴だけではない。すべての臣下に君臣くんしんの礼をただし、官吏の数を削減して国費の負担を補う。従えば活かし、反発を感じれば叩こうと思っている」と桓武天皇が、さびしそうな眼を家持に向けた。

「それは・・・官人の削減さくげんをなさるということですか?」と家持。

「餓死者がでる民の租税を上げるわけには行かない。

官職を簡素化して官人を減らし、官費をへらす」

「国費に影響がでるほど大幅に解雇されるおつもりですか。大騒ぎになります」

「覚悟している」

「まだ帝の血統への反発と、井上さまと他戸王さまへの同情が残っています。

官人を解雇するという噂が流れただけで、すべての官人が帝の敵になりましょう。

大伴は支族しぞくがふえて大きくなりすぎました。なかには血気にはやるやからもいます。

最善をつくしますが、わたしは大伴を押さえる自信はありません」と家持。

宿や宅嗣や今毛人と、その方は、いつも一緒にいた。

時を戻すことはできないが、過ぎた日々を忘れることもできない。

過ぎた日々は、かけがえのない朕の人生の宝だ。そなたは、その日々のなかにいる。

それでも必要とあれば、大伴一族の長として、そなたに責任を問わなければならない」と桓武。

桓武天皇の表情を、家持はしばらくながめた。おだやかでさびしげだ。

「漏れ聞いたのですが、大伴駿河麻呂は陸奥で失態を犯したのでしょうか」と家持。

「くわしいことを知っているのか」と桓武。

「いいえ。なにかあったのではないかと聞いただけで、あとは存じません」と家持。

「駿河麻呂は和歌を詠んだという。親しかったのか?」と桓武。

「会えば挨拶をするていどです。

わたしに、小うるさい叔母がいたのを覚えておられますか」と家持。

「ああ。坂上郎女さかのうえのいらつめだ。なつかしい」

「若いころに駿河麻呂は、叔母に恋文を送っていました。二人の相聞歌そうもんかが残っています。それで挨拶をするぐらいの仲なのです」と家持。

「ならば陸奥のことは知らなくとも良い。あれは、わたしの失政だ」と桓武。

家持が、いぶかしげに桓武を伺った。

「冷えたろう。湯を持たせよう」と桓武が女儒を呼ぶ。

女儒が差しだす釉薬ゆうやくを塗った陶器の器のなかに、黄菊の花が入っている。そこに桓武が湯を入れて、家持に渡した。

「帝・・・。もし、この先、大伴が反逆したら迷うことなく、わたしを断罪して下さい」と椀で手を温めながら家持がポツリと言った。

「ん・・・?」

「この正月に、反抗を企てる者がいれば、その拠り所となる氷上川継を因幡守にして、都から遠ざけようとされています。

これから、ただならぬことをなさるような気がいたします。

わたしには大伴を押さえるだけの器量がありません。

断罪してくだされば、多少は大伴の力を削げましょう」と家持。

「考えすぎだ。家持」

「覚えておられますか。恭仁京の空を」

「よく思い出す。幼かったから空を色を、いまより深く感じた」と桓武。

「わたしは安積あさか親王を亡くしてから、恭仁の空は哀しみの色をしていると思っておりました。しかし、この歳になって思い返すと輝いているのです。

宿奈麻呂や百川や宅嗣や奈貴王は、帝を擁立ようりつすることに一生を燃やしました。帝の世が来ることが、わたしのともがらの、生きる目的だったのです。

その帝が官人を削減して官費を減らし、国の財政を立て直そうとされている。

官人が失職するほかは、どこも悪くない。国を思う善政です。それに比べて保身だけを考えて、帝に反抗するのは大逆罪です。

一族を守ることに右往左往して、帝と大伴の板挟みになって苦しむよりも、わたしの心は友のあとを追いたい」と言って、家持は菊花茶をすすった。


この年は一月が閏月うるうづきだった。

太上天皇の葬送をした一月が終わったあとに、もう一度、閏の一月が来る。

その閏一月十日。風は冷たいが、よく晴れた日だった。

二十八歳になった酒人内親王は、三歳になる娘の朝原内親王や女房や乳母をつれて、高野皇太こうた夫人(高野新笠)を見舞うために中宮院を訪ねていた。六十二歳の新笠は元気なのだが、光仁太上天皇が亡くなり心細いだろうから見舞いに行ってくれと、桓武天皇から頼まれたのだ。

平城宮ができたときの中宮院とは場所も変わって幾度か建て直しされているが、これまでの中宮院のあるじは悲劇の人だった。

光仁天皇の在位中は夫人として内裏の後宮にいた新笠が、桓武天皇の即位のあとで皇太夫人として中宮院に移ってからは雰囲気が変わった。官庁や内裏がある東の区域と離れている中宮院は、政とは縁のない、のどかな宮室になっている。

女官を束ねているのは四十二歳の和気広虫で、亡くなった能登のと内親王の娘の五百井いおい女王も女官として中宮院で暮らしている。

中宮大夫は参議で左大弁を兼ねる従三位の大伴伯父麻呂で、ヒマがあるとやってきて新笠と話し込んで行く六十四歳になる公卿だ。

中宮すけは大伴乙麻呂で、五十一歳になるのに従五位下と出世が遅い。だが大伴氏の中でも血統は良く、父が大伴古慈斐こじひで、本人も左衛士うえじすけを兼任している。


朝原内親王が昼寝をしたあとで、新笠たちは居室で談笑をしていた。

「皇太夫人。中宮亮が拝謁を求められています」と女孺が知らせに来た。

「とうに昼は過ぎたのに、まだ宮城に残っていたのか。まあいい。ここへ通しなさい」と新笠。

「わたしたちは?」と酒人。

「むずかしい話しで来るわけがないから、このまま居ればいい」と新笠。

「皇太夫人に拝謁いたします」と大伴弟麻呂が入ってきた。

「どうした」と新笠。

「さきほど、武器をおびて宮中に入った男を、近衛の舎人が捕まえました」と弟麻呂。

「ほう。それが?」と、不審そうな表情を新笠が浮かべる。

「なにも、ご存じなかったのですか?」と弟麻呂。

「ここまで騒ぎは聞こえなかった。いつのことだ?」と新笠。

「一刻ほど前です。まだ正式な発表はありませんが、刀を帯びて内裏のそばを歩いていた男がつかまりました」と乙麻呂が話しを止めて、ギョロ目で新笠を見つめた。

新笠も眼を大きくして「それが何だ?」と聞く。

「捕まった男は、氷上川継さまの従者で大和やまとの乙人おつひとと名乗ったそうです」と弟麻呂。

新笠が、眼を瞬いた。

「何人かの賊が入り、その男が捕まったのか?」と新笠。

「連れはおりません」と弟麻呂。

「ただ刀を所持して歩いていて、捕まったのか?

衛門舎人が、武器を持った男を宮城内に通したのか」と新笠。

「さあ・・・その男がどうなるかお知りになりたいのでしたら、ご報告にあがります」と弟麻呂。

「知らせて欲しい。帝に言われて来たのか?」と新笠。

「では緊急配備につかなければなりませんので、わたしは下がらせていただきます」と弟麻呂が礼をして出て行った。

「新笠さま。大和乙人さまとは、帝が外歩きをなさるときに護衛としてお連れになっていた、まだ若い三十歳ぐらいのお方でしょうか?」と酒人つきの女房の毛野が聞く。

「そうだ。会ったことがあるのか」と新笠。

「幾たびか、酒人さまのお邸に連れてこられました。ご親族ですか?」と女房の理恵。

「わたしが引き取って育てた子だ」と新笠。

「もしかして帝の隠し子? どことなく似ているから」と酒人。

「縁者だが隠し子ではない。よその邸で従者をする必要はないはずだ」と新笠。

「武人のほかは、宮城に武器を持ってはいれません。どんな罪になるのでしょう」と理恵。

「どこに囚われている?」と新笠。

「近衛が捕えたと言ってましたから、囚獄も尋問も近衛府がするはずです」と五百井女王。

「近衛府の責任者は、だれだ?」と新笠。

「大将は、大納言の藤原田麻呂さまです」と毛野。

「・・・やらせか」と新笠。

「どういうこと?」と酒人内親王。

「酒人さんは、帝から聞いていないの?」と新笠。

「昨夜、朝原を連れてお義母さまの見舞いに行くようにと伝えられただけ」と酒人。

「乙人が氷上川継の邸に従者として務めていたなら、帝に命じられたからだろう。

捕まったのも、捕まるために宮城内に入ったからだろうよ。

今頃は尋問されて、あるじの罪を告白してる」と新笠。

「主って、川継の?

川継を陥れるために、帝が乙人を邸に潜入させて捕まるように手配したってこと?

やるなら、もっと上手くやれば良いのに。

大和氏が告発したら、帝がはかったと分かってしまうし、お義母さまに迷惑でしょう」と酒人。

「帝が謀ったと、分からせたいのだろう」と新笠。

「どうして?」と酒人。

「皇太子のときから非難が多かった。即位のあとも中傷が絶えない。

太上天皇が崩御されたいまは、いつ反乱が起こっても不思議ではない。

それをを防ぐために、先に帝が反旗をひるがえした。

初段しょだんなたを振るうつもりだな」と新笠。

「冤罪をでっち上げて、川継を粛清することが?」と酒人。

「氷上川継は、帝を軽んじる人を黙らせるために叩きやすい石の目だった。

川継を警戒したのではなく、目標は役人たちだ。

川継とは仲の良いのか?」と新笠が酒人内親王に聞く。

「仲が良いわけではないけど、子供のころから知っているイトコだから気にはなる。

石の目って、なに? お義母さま」と酒人。

「硬い石にも、目を突くと割れると言われる打ち所がある。

わたしが口添えしても、川継を宮中から追放することは止められないだろう」と新笠。

「不破のおばさまも連座で裁かれるのかしら」と酒人。

「不破さまは、帝の反対分子の拠り所にされるお方だ。

だが諒闇中のことだから、酷刑こっけいにはしないはずだ」と新笠。

「・・・不平分子が集まりやすい人は、わたしでも遠ざける」と酒人。

「しばらく、ここに留まってくれないか。

酒人にとっては、近い縁族が罪に問われる日が続く。

近くで、それを見聞きするより、ここにいた方が良い。

さっきのすけが成り行きを知らせてくれるし、壱志濃や神も伝えてくれる」と新笠。

「そうする」

「皇太夫人」と女官の和気広虫が部屋に入ってきた。

「大舎人寮から連絡がございまして、舎人の数を増やしたので、こちらに挨拶に来るそうです。近衛府からも増員をしたと知らせが来ましたが、どうしてでしょう。

なにか、ございましたか?」と広虫。

「こざいましたよ。客人の相手もせずに、いままで、どこにいた?」と新笠。

「橘の実を摘んでおりました。良い香りがしますので干して白湯に入れます。

酒人さま。ごゆっくりなさいますか?」と広虫。

「しばらく留まる」と酒人。

「アーラ、うれしい! 一足早く春が訪れたように、中宮が華やぎます。

じゃあ橘の実をお湯に浮かべて湯浴みをされたら? 身体が温まりますよ」と五十二歳になる広虫が、冷たい外気で赤くなった頬をほころばせた。



そのころ桓武天皇は、中務卿の藤原継縄と近衛大将の藤原田麻呂を呼んでいた。

「氷上川継が謀反を計画しているとの証言があった。明日、事情を説明するように勅使ちょくしを使わして、川継を召喚しょうかんする。川継には、その旨を通達してある。

すぐに召喚の勅書を用意して、勅使を選ぶように」と桓武天皇。

うけたまわりました」と、この命が下されることを事前に知っていた二人は拝礼して下がった。

官庁は夜明けとともに始まり、昼には朝堂院を閉めてしまう。午後は官人たちは、各省の官衛で残余の仕事をしていた。左大臣の藤原魚名たちは、今日は朝堂院が閉まったあとで帰宅しているはずだ。

内裏を出て太政官曹司ぞうしに向かって歩きながら、継縄がつぶやくように田麻呂に話しかけた。

「この日が来てしまいました。川継さんは、謀反を企てておられたのでしょうか」

「武器を持って宮城に侵入した従者の証言では、帝に不満を持つ人が川継さんの周りに集まって、帝を誹謗ひぼうしては川継さんが帝になるべきだと語らっていたそうです。ほかからも同じような話しを聞きましたから事実でしょう。

捕まった従者は、謀反の段取りを証言しています。

川継さんのもとで、たびたび、帝を謗議ぼうぎ(悪口を言う集まり)していた。そのさいに、こうすれば良いと謀反の計画も話したのでしょうが、実際に企んでいたのではなく酒に酔っての勢いだったかも知れません。

ただ帝を批判して謀反の計画を口にすれば、たとえ机上きじょうの空論でも大逆罪にあたります」と田麻呂。

「どうして、そういう方々を寄せつけられたのでしょうかねえ」と継縄。

「寄ってくる人を、ご自分で選んで分けることがことがお出来になれなかった。

ご自身の考えかもしれません」と田麻呂。

「わたしの叔父の仲麻呂は反逆者です。

父の豊成が叔父とは違う立場をとってくれましたから、まだ生き易かったと思います。

それでも子供の頃から従兄弟にあたる仲麻呂の子や、その母親たちを知っていました。知っている人が斬首されるのは、なんとも・・・」と継縄。

「わたしの兄二人も挙兵しましたから、間違いなく反逆者です。

異母兄弟でしたが、子供の頃から兄として馴染んでいました。

兄たちが斬首されてから、その斬首の光景を、どうしても思い描いてしまいました。

兄たちの気持ちを想像したりと、斬首されたことが頭から離れませんでした」と田麻呂。

「川継さまの場合は、お父君ですからね。川継さまは、お幾つですか?」と継縄。

「たしか三十四歳です」と田麻呂。

「すると塩焼王が亡くなったときは・・・十六歳ぐらいですか」と継縄。

「わたしが兄たちを亡くした年頃と同じです」と田麻呂。

「塩焼王も自分の意志で、わたしの叔父と太政官印を持って逃走しましたから、冤罪ではなく反逆者です。それでも息子なら、いろんな感情が湧くでしょうね」と継縄。

「兄に対しての怒りや恨みもありましたが、情もありますから、わたしは兄を殺したものへの拘りを、なかなか絶てませんでした」と田麻呂。

「絶って欲しかったです。帝に不満を持つ人や、一旗揚げようと企む人と交際されると、これから先も火だねとしてくすぶりつづけます。

帝が消そうとされるのは、もっともなことだと思いますが・・・ハーァ」と継縄がため息をつく。

「では勅書の準備をしましょうか」と田麻呂。

内記ないき弁官べんかんを呼ばなければなりません。

左大臣に知らせて、ほかの太政官たちを集めなくても良いのでしょうか」と継縄。

「命じられておりませんから、知らせないほうが良いのでは?」と田麻呂。

「すぐに川継さまの耳に入りますね」と継縄。

「すでに帝が、勅使が向かうことを川継さまにお知らせになったとおおせでした。

邸に留まって勅に従われると良いのですが、お逃げになったら謀反が成立します」と田麻呂。

「父は三弟の乙縄おつただが橘奈良麻呂と親しく、叔父の仲麻呂が捕縛に来るらしいと耳にしたときに乙縄を縛って待っていました。

さぞ辛かったと思いますが、父の分別が乙縄の命を救い南家の存続につながりました。

その分別が川継さまにおありなら、帝への不満を口にする者を寄せつけられなかったでしょう。

帝は人の性格を読み、すべてを計算されておられます」と継縄。

「兄弟が親しくさせていただきましたので、若いころから帝を存じております。

調子の良い方だと思っていましたが、とんでもない。

冷静で怜悧れいりで豪胆です。これほどの帝はおられないでしょう」と田麻呂。

「わたしなぞ、始めて親しくお目にかかったときは妻の恋敵だと思っていました。

完敗ですよ。完敗。何一つ、わたしは帝に勝てません。

完敗した方には、一生、従順に従います」と継縄。

人柄の良さでは桓武天皇に勝る中納言の継縄と大納言の田麻呂の二人が、互いを見てうなずいた。



次の日の閏一月十一日。

この朝、天皇の勅使が氷上川継の邸を訪ねたときには、すでに川継は姿をくらましていた。朝議に出ようとしていた桓武天皇は、知らせを聞くと、すぐに三関さんげん固関史こげんしを送り、川継を探して逮捕するようにと全国に勅令を出した。そして氷上川継の家族の邸を包囲して遠流おんるにする用意を、近衛大将を兼任する藤原田麻呂と、参議で兵部ひょうぶ卿の藤原家依いえよりに言いつけた。家依は、藤原北家の永手の長男だ。


桓武天皇に呼ばれた太政官たちが、内裏の南門に揃うのを待っている。

「大納言の田麻呂さまが来ておられませんね。参議の家依さんもまだですか」と中納言の藤原是公が言う。

「宮城内に賊が侵入したそうですから、お忙しいのかも知れません。

待たずにまいりましょう」と参議の神王が答える。

内裏の南殿で太政官たちの拝礼を受けた桓武天皇は、いつもと全く変わらない態度で話しはじめた。

「昨日、氷上川継の従者が、刀を帯びて宮城に侵入して捕まった。

川継に事情を聞こうと、今朝、召喚の勅使を送ったが川継は逃げてしまった。

それで氷上川継を反逆者として捕まえるように、すでに全国へ指示を出した」

「帝? なんと仰せられました。氷上川継さまを反逆者としたと仰せられましたか」と左大臣の藤原魚名。

桓武天皇が目線だけを中納言で中務卿の継縄に向けて、うなずいた。

「申し上げます。

捕らえました川継の資人しじん(従者)の大和乙人が、氷上川継に叛心はんしんがあると供述しました。

事実か否かをを確かめたいから、今日、召喚の勅使を送るから応じるようにと、昨日の午後に川継に伝えました。

今朝、勅使が邸に着いたときには、すでに川継は逃げてしまっていたと先ほど知らせがありました」と継縄が告げる。

「そんな・・・。わたしは、なにも知りません。

帝。申し上げます! 小者の申すことなど、あてにはなりません。

氷上川継さまが謀反を企てたという、確たる証拠にはなりません」と左大臣の魚名。

「勅使が向かうことは、昨日のうちに知っていたのですね」と参議の神王が口をはさむ。

「はい」と継縄。

魚名がうるさそうに神王を見て、少し前につめ寄った。

「帝に申し上げます!

謀反という大事は、事実を確認しないと冤罪えんざいを生むことになります。

小者の証言だけでは、根拠が不足しています。

われわれが捜査をするまで結論をお待ちいただきたい。

まず、その小者をわたしに渡して、事の真偽を確かめさせてください」と魚名。

「中納言にお尋ねします。

帝は、氷上川継に叛意があるという小者の証言を確認するために、勅使を送って川継を召喚されたのですね」と中納言の是公が声を上げた。

継縄と同じ中納言で同じ五十四歳だが、大柄で動じない是公の存在感は大きい。

「はい」と継縄。

「川継は、勅使が来ることを知っていたのですね」と是公。

「はい」と継縄。

「帝は、小者の証言を確かめるために川継を召喚されました。

犯罪の有無を調べるために帝から召喚をうけたのに川継は逃亡しました。それだけで反逆になります」と是公。

「是公。若輩ものは控えなさい!

まず太政官が協議して、その決定を帝に奏上して決めて頂くのが恒例です」と六十歳の魚名。

「緊急時にも、そのような先例がございましたか」と是公。

「すべてを勅で決められては、太政官の立場がありません。

まず、その小者の再尋問をお任せ下さい」と魚名。

「すでに朕が命を下した。この件を二度と取りあげることを禁じる。

では通常の政務で、なにか報告することはあるか」と桓武天皇が静かに言て、太政官を見まわした。

次の日も、その次の日も、桓武天皇は内裏に官人を呼び、何事もなかったように通常のまつりごとの話しを聞いて過ごした。

官人たちの間では、氷上川継の母の不破内親王と、川継の姉妹になる不破内親王の娘たちの身柄が移されたらしいという噂が流れていたが、宮城内に特別な動きはなかった。


閏一月十四日に、氷上川継は大和のかつらぎ上郡かみぐんでつかまった。平城京から、ほど近い。

そのあとで天皇は詔をだして、はじめて氷上川継の反乱を説明した。

「氷上川継の従者である大和乙人が、十日の昼に武器を帯びて宮中に侵入して捕まった。これを問いただすと、川継は、この日の夜に人を集めて北門から攻め入り朝廷をくつがえそうとしている。そのために宇治王を一味に入れるように説得しに来たと自白した。

そこで川継を召喚したが逃げてしまった。このたび川継が捕まったので、罪一等を減じて伊豆の三嶋(伊豆諸島)に遠流にした。妻(浜足の娘)は望んで遠流に従った。

また川継の母の不破内親王と川継の姉妹は、すでに淡路島に配流した」という内容だ。

この間に魚名は、川継を捕らえたら担当官を選んで尋問するという奏上書を書いて、度々、拝謁を願ったが桓武天皇は会わなかった。

天皇より十五歳年長で左大臣の魚名は、これまでの臣下の最高位にいると自分では思っていた。持統天皇と元明天皇を補佐した藤原不比等のように、孝謙天皇と淳仁天皇を補佐した藤原仲麻呂のような立場だ。聖武天皇と左大臣の橘諸兄は友人で、光仁天皇は高齢で右大臣の中臣清麻呂は真面目で控えめな人だったが、臣下最高位の大臣たちは、どれも天皇と親密で大事は相談するものだった。

渡来系の母を持ち、立坊のときに弟を害したと噂されてマイナス要素が多い桓武天皇は、もっと慎重な行動をとるべきだと魚名は思った。

ところが、桓武天皇が目指しているのは、天皇が政を動かす親政しんせいだ。

自分を信頼して動く有能な臣下は欲しいが、自説を通そうとする魚名は、年功序列で大臣になっただけの無用の長物だった。



閏一月十八日に、また桓武天皇は勅をだす。

「氷上川継は謀反人として罪人になった。太宰員外いんげ帥である藤原浜足の娘は川継の妻である。浜足も川継の一味

そこで参議と侍従の職を解く。太宰員外帥は、そのままで良い。

また川継の一味の山上やまのうえの船主ふなぬしを隠岐介(隠岐の島)とし、三方王を日向介(鹿児島県)として左遷する」

無能だと太宰府に送られていた浜足だが、参議と侍従の職は帯びたままだった。

これがあると俸禄が入るし、免罪されれば参議に帰り咲くことが出来る。取りあげられたら太宰員外帥の収入と待遇しかなくなり、赦免されても戻れる職がない。

隠岐と日向に左遷された山上船主と三方王は、このあと桓武天皇を呪詛じゅそしていたと発表されて、三月二十六日に同じ場所で左遷から流刑に代わった。三方王の妻の弓削女王(舎人親王系)も、呪詛に関わったと夫と同じ日向に流刑になる。

こちらは流刑に変わったので罪人の扱いを受けることになった。

謀反が発覚して捕まると、厳しい尋問で自白を強要して首謀者や仲間を割り出す。仲間とされた人も獄に捕らえられて、厳しい尋問を受ける。そして家族や友人が連座の刑で裁かれた。それが、いままでのやり方だった。

桓武天皇は勅だけで、氷上川継を首謀者とする謀反人の仲間を特定して断罪した。

どっちみち捕まれば自白を強要されるのだが、官人の多くは左大臣の魚名に近い感覚を持っていたから、天皇の勅だけで裁く処置に目をむいた。

天皇が仲間という勅をだせば、だれもが謀反人にされてしまう。

そして、それは杞憂きゆうではなく現実となった。



閏一月十九日にも、またまた、桓武天皇が勅をだす。

「左大弁の大伴家持、右衛士督の坂上苅田麻呂、散位の伊勢老人、大原美毛、藤原継彦の五人は、官職にあるものは解任し、官職にないものは居住地を京外に移した。それ以外の三十五人も、日頃から氷上川継と親しくしたり姻戚であったりするので連座にした」

大伴家持は従三位。坂上苅田麻呂は正四位上。伊勢老人は正四位下だ。大原美毛は敏達びだつ天皇という古代大王の血をつぐ皇嗣系こうしけい官人で、藤原継彦は浜足の息子だった。

官人たちの緊張は、ますます高まった。

家持も苅田麻呂も伊勢老人も、地位が高いだけではなく世に知られた有名官人で、それほど氷上川継と近かったわけではない。

それが天皇の勅だけで解任されたのだ。

この間、政務は滞りなく行われている。怠けたら川継の仲間と連座にされるかもしれないから、いつも以上に官人たちはセッセと働いた。

そのあいだに桓武天皇は、皇室に関係する造宮省ぞうぐうしょう(宮城の修理営繕)と勅使省ちょくししょう造法華寺司ぞうほっけじのつかさ鋳銭司ちゅうせんのつかさを、無駄を省いた簡易な政治をしたいと廃止にした。

桓武天皇の一存で手近なところから官衛が閉鎖させられて、官人の省略がはじまったのだ。。造宮省の廃止は、すでに平城京からの遷都を見つめてのことだった。



二月の半ばに佐保川のそばの大伴家持の邸を、佐伯今毛人が訪ねてきた。二人とも六十三歳になり、家持の邸も広く立派に建て替えられている。

家持が解任された左大弁さだいべんを、今毛人が継いだ。

蟄居ちっきょしていなきゃ、いけないのか」と今毛人。

「いや、制約はない。解任されただけだ。見張りもいない」と家持。

「氷上川継と、そんなに親しかったのか?」と今毛人。

「不破内親王とは会えば挨拶もするし話しもするが、川継さんとは、ほとんど話したことがない。坂上苅田麻呂も伊勢老人も淡海三船もそうだろう」

「川継と親しくもないのに連座か」と今毛人。

「見せしめだ」と家持。

「なんの?」

「先帝が、今の帝に譲位されたときの詔をおぼえているか」と家持。

「ムカデの足か?」

「いつまでもグズグズしている官人たちをいさめるための見せしめとして、帝は今回の処断をされたと思う」と家持。

「つまり、あれこれ言わずに黙ってついてこいということか。

だから解任されたのが、これから帝を支える力量のある方々ばかりなのか。

それだったら、しっかり成功している。

みんなピリピリして不平も言わずに仕事に励んでいる。

なにしろ詔だけで解雇だからな」と今毛人。

「なあ、今毛人。おまえは文字がはっきり見えるか?」と家持。

「いや。画数の多い字はにじんでしまう。カンで読んでいる」と今毛人。

「寝不足が、翌日に響かないか?」と家持。

「もう無理はできない。仕事にも踏ん張りが利かなくなった。疲れが残る。

酒量も若いころの半分以下だ。口は欲しがるが、飲み過ぎや食べ過ぎは胃のがもたれる」と今毛人。

「これから帝は官費を減らすために、官職を整理されるそうだ」

「官人を切るのか。それへの反発は大きいぞ」

「帝へ不満を持つ者を一族の中から出したくないが、これからがキツいな」と家持。

「十年、若ければなあ」と今毛人がぼやいた。


五月の半ばには、大伴家持も坂上苅田麻呂も伊勢老人も、ほかの官人たちも復官して、もとの位に戻った。

戻らなかったのは氷上川継と、その母の不破内親王と川継の姉妹たち。藤原京家の浜足と子供たち。氷上川継に接触してあおっていた山上船主と三方王と妻の弓削女王だけだった。

この「氷上川継の乱」の最中の二月三日に、家持たちと同様に解官されていた参議で中宮大夫の大伴伯父麻呂が亡くなった。その代わりに三月末に従四位上の藤原種継(式家・四十五歳)が参議になり、五月半ばに左大臣の魚名の嫡男の藤原鷹取たかとり(北家・正四位下)が中宮大夫になった。



「中宮大夫を仰せつかりました藤原取です」と鷹取が新任の挨拶にきた。

「頭を上げて立つがよい。

よろしく仕えるように」と椅子に座った新笠。

「はい。皇太夫人にお仕えいたします。

ご不自由なことや、必要なものはごさいませんか」と鷹取。

「いまは足りている」と新笠。

「用がございましたら、いつでも参上いたします」と鷹取。

「ご苦労だった。下がって良い」と新笠。

鷹取が下がると、新笠が広虫たちを招いた。

「魚名の息子と聞いたけど、歳は幾つ?」と新笠。

「たしか四十一歳と連絡書にありました。左大臣さまのご嫡男です」と広虫。

「帝より三歳下になる。一年ぐらいは一緒に大学へ通っているはずだけど、名を聞いたことがないから目立つ子じゃなかったか、通わなかったかだ」と新笠。

蔭子おんしの子は成人すると大学に通う義務があったので、歳の近い蔭子は十代で知り合うことが多い。ただ大学制度の成立は早いが、蔭子の全てが通ったとは限らない。聖武天皇が「大学へ通うように」と詔を出した直後に成人した百川や種継や山部王だった桓武天皇は通ったが、その前に成人していた良継は通っていない。

「官位は?」と新笠。

「正四位下です」と広虫。

「亡くなった伯父麻呂がしていた参議に式家の種継がなり、中宮大夫に北家の鷹取がなった。

歳は種継の方が上だが、位階は鷹取の方が上だから、さぞかし左大臣は不満だろうな」と新笠。

「酒人さまから聞いたのですが、鷹取さんは姪を入内させられたそうです」と五百井女王が告げる。



六月三日。

「大人しくしてくださいよ。よろしいですか。

諒闇りょうあん中なので、帝は同衾どうきんを避けておられますし、わたしも同席するようにと命じておられます。

こちらに見えても、一緒に夕餉ゆうげを召し上がってお話をされるだけでしょう。

それでも帝が来られるのですから、念のために身体を清めなければなりません」と人数が言う。

「正夫人さま。この人たちをどこかにやってくだされば、一人で身体ぐらい洗えます!」と藤子。

「人数さん。正夫人さまって呼ばせるのは止めさせたらどうなの?」と諸姉。

「東殿に住む方が鷲取の娘だと知ったのは、わたしだって今年に入ってからでしょう。

左大臣からは何の連絡もなく、どう接して良いかが分からなかったから会ってなかったのよ。

ねえ。藤子さま。わたしのことは人数と呼んでください」と人数。

「いつも一人で沐浴されているの?」と諸姉が、藤子の女嬬に聞く。

「沐浴のときは、わたしどもが側にいるのをひどく嫌われて、遠くへ追いやられます。お体を拭こうとしても自分ですると人払いされます」と女孺。

「いいわ。大人しくしていてもラチがあかない。

みんなで藤子さまを押えて、サッサと身体を拭いて、髪を結い上げて着物を着せましょう!」と諸姉が女孺たちに命じた。

「やめて! やめてったら、やめろ! クソ! やめろ!」と藤子が抵抗する。

「なんと、まあ、口の悪い方ね。イタッ! 噛むんじゃないわよ。 

左大臣の養女で帝に入内したって、わたしだって負けてないわよ。

お願いですから藤子さま。大人しくしてちょうだい!」と諸姉。

去年の大嘗祭の後で、祖父の魚名に連れられて入内したときに挨拶をしただけで、東殿と呼ぶ内裏の中の身舎もや(建物)に住んでいる藤原藤子は、桓武天皇と会っていない。それが今日の夕餉は東殿でするから、人数も来るようにとのことづてが昼頃に届いた。

それでも桓武天皇が顔を見せたときには、かろうじて藤子も着飾って挨拶をすることができた。

「藤子か。どうだ。慣れたか」と桓武天皇が聞く。

「はい」と藤子。

「歳は幾つだった?」と桓武。

「十六歳です」と藤子。

「酒は飲めるか」と桓武天皇。

「はい」と藤子。

「それは頼もしい。では、おまえも飲め。ゆっくり過ごしたい。他の者は下がれ」と桓武天皇が、杯を藤子に差しだした。

それに酌をして自分の杯にも酒を満たし、藤子が人数の杯を見る。人数が首をひねりながら杯を差し出した。

「さあ、二人とも飲むがいい。料理も食べれば良い。遠慮はするな。

ところで人数。魚名の長男が鷹取。二男が鷲取だったな」と桓武。

「はい」と人数。

「魚の子が鷹と鷲だ。

息子への期待は分かるが、まぎらわしい名をつけたものだ。

亡くなったのはタカかワシか?」と桓武。

「ワシです」と人数。

「おまえの夫は亡くなったワシか?」と桓武。

「はい」と人数。

「藤子はワシの娘か?」と桓武。

「はい」と人数。

「母親は、だれか?」と桓武。

「たしか郡司ぐんじの娘ですが、名は覚えていません。

夫の遺産の相当分を送るようにしましたが、家令に任せてしまったので詳しく存じません」と人数。

「藤子の母親に会ったことはあるのか?」と桓武。

「ワシの、いえ。夫の葬儀のときにチラッと挨拶をしました」と人数。

「藤子とは会ったことがあるのか」と桓武。

「そのときに」と人数。

「この娘だったか?」と桓武に問われて、人数が藤子を見て声を上げた。

「そんなに頬張ほおばっちゃいけません!」

「藤子。その食べっぷりは、なんだ。おい。口にものを入れて話そうとするな!」と桓武。

「藤子さま。食べるときは箸の先で小さなものを挟んで、口に入れなければいけません。食べ物を頬張るのは、そこいらのリスやムササビがすることです」と人数。

人数が説教をしている間に、モグモグと噛んでいたものを藤子が酒をあおって飲み込んだ。

「遠慮するなと言った。叱らずとも良い。

葬儀のときに見たのは、この娘にまちがいないか?」と桓武。

「はい」と人数。

「藤子。おまえの母親の名はなんという」と桓武。

「小姉です」と藤子。

「それは通称だろう。それとも、それしか名がないのか。

じゃあ、母方の祖父の名は?」と桓武。

「祖父は、美津みつおびと吉浄よしきよです」と藤子。

「なにをしている」と桓武。

「郡司です」と藤子。

「どこの?」と桓武。

「滋賀郡」と藤子。

「ホウ。近江軍士団か。おまえは、どこで育った」と桓武。

「祖父の家で生まれ育ちました」と藤子。

「それは滋賀郡にいる祖父の家だな。母親も一緒か?」と桓武。

「はい」と藤子。

「食べながらでいいぞ。あまり頬張るな。すぐに飲み込んで話せるぐらいに食べろ。

それで、いつ魚名の邸に来た」と桓武。

「魚名って、だれですか?」と藤子。

「左大臣よ」と人数。

途端に藤子が固くなって、杯に酒を入れて空けた。

「いつ、都に来たの。あなたの父上が亡くなったことは知ってるわね。

葬儀のときに、お母さんと来てくれたでしょう。わたしに会ったわね」と人数。

「はい。正夫人さま」と藤子。

「人数と呼んで。その前? その後?」と人数。

「・・・」 また杯を満たして藤子が酒を飲む。

「それぐらい覚えているでしょう?」と人数。

「後です」と藤子。

「どれぐらい後?」と人数。

「左大臣さまのお使いが来て、わたしが欲しいとおじいちゃんに言いました。

おじいちゃんは断ったけど、お使いはあきらめずに毎日来て、追い返そうとしたおじいちゃんを寄ってたかって棒で殴った。恐かったから、その日がいつだったか覚えていません」と藤子。

「あなたの母方の祖父に、迎えの従者が乱暴をしたというの?」と人数。

「おじいちゃんは血を流して倒れてた。おじいちゃんが死んじゃうと思った。

あいつらなんか、あいつらなんか、死んじまえばいい!」と藤子が泣き出した。

「帰りたいか」と桓武。

「帰りたい。おじいちゃんとお母さんに会いたい。おじさんやおばさんや従兄弟たちに会いたいです。

でも大人しくしていないと、おじいちゃんを殴り殺すと言われた。

わたしが一緒に行かなければ、お母さんも小さなイトコも殴り殺すって言われた。

左大臣さまは偉い方だから、おじいちゃんみたいな下郎げろうは殺してもかまわないって。だから左大臣さまのお邸についてきました」と藤子。

「それは、いつのことだ?」と桓武。

「去年」と藤子。

「去年のいつ?」と人数。

「山の紅葉が赤くなるころ」と藤子。

「去年の大嘗祭の少し前に、むりやり連れてこられたようですね。

だから、ろくに行儀作法も教えられていないのでしょう」と人数。

「左大臣なんてクソくらえ! 藤原氏なんてクソくらえだ!」と藤子。

「酔ってしまったようです。

資人が勝手にやったことでしょうが、これまで心細かったでしょう」と人数。

「雇い主がいい加減だから、資人が権力を笠に着て傲慢ごうまんになる。おい。藤子」と桓武。

「なんだ。クソ!」と藤子。

「はじめてクソと呼ばれた。おい。藤子。もう休め。

おまえもおじいちゃんも、朕をたばかった訳でないと分かった。

だれかいるか。ゲロを吐く前に、このクソ娘を楽な格好にして寝かせてやれ。

魚名の養女として入内したのだ。すぐに追いだすわけにもいかないだろう。

都へ来たときのいきさつが、小娘の話どおりか調べさせる。

もし外祖父にケガを負わせて連れ出したのなら、魚名を叱責しっせきする。

人数。おまえの夫の娘だ。世話をしてやれ」と桓武。

「はい。夫の母親とわたしの父は兄妹ですので、夫とわたしはイトコになります。藤子はイトコの子ですから、まんざら他人ではありません。

これからは母代わりとして面倒をみてやります」と人数。

「それなら皇太夫人に事情を話して手を貸してもらえ。

たしかクソ娘のじいちゃんの美津首は、百済からきた渡来系のはずだ。

中宮大夫をしているのはタカだが、魚名の係累には気づかれるな」と桓武天皇が言った。



六月十四日。

藤原魚名が左大臣を免職されて、兼任していた太宰帥として太宰府に送られた。中宮大夫をしていた長男の鷹取は介として石見いわみ(島根県)へ、三男の末茂も介として佐渡へ、四男の真鷲は父に従って太宰府に左遷された。

魚名が罪を犯したからと桓武天皇は勅命を下したのだが、罪の内容は公表されなかった。

仲麻呂の言いなりだった孝謙天皇が、仲麻呂の兄で右大臣をしていた藤原豊成を太宰員外の佐にしたときと同じで、豊成と同様に魚名も摂津(大阪)まで来ると病気を奏上して治るまで滞在する許可を得る。

魚名を更迭こうてつした後で、桓武天皇は立て続いて任官を行う。

大納言で正三位の藤原田麻呂を右大臣にして、中納言で正三位の藤原是公を大納言にした。

参議で従三位の大伴家持は、陸奥むつ按察使あぜち鎮守将軍ちんじゅしょうぐんに任命された。

従四位下で越前守と侍従をしている五百枝王には右衛士督を兼任させ、従四位下で右兵衛督をしていた紀家守を参議にした。

二十二歳の五百枝王は女官をしている五百井女王の兄弟で、桓武天皇の甥になる。

五十七歳の紀家守は、皇太子時代に春宮亮として桓武天皇に仕え、実直な人柄を信頼されていた。

桓武天皇が即位して九ヶ月後に起こった「藤原川嗣の乱」は、飛鳥時代から奈良時代までの約百年のあいだに受けつがれてきた草壁皇子系天皇の血統を断ち、左大臣の藤原魚名を降ろし、藤原浜足の役職を取りあげることで藤原京家の政治生命を止め、新閣僚を揃えて終了した。

不破内親王と三人の娘は十三年を淡路島で暮らし、そのあとで和泉国(大阪府南部・河内周辺)に移されたが、以後の消息は分からない。

浜足は太宰員外佐いんげのすけのままで八年後に亡くなる。そのあと藤原京家は政治の中核から遠ざかり、芸術や芸能を継承して有能な芸術家を輩出して行く。



七月七日。

宮中では相撲の節会せちえがある日なのだが、まだ光仁天皇の諒闇中なので取りやめになった。そこで暇をもらって、久しぶりに百済王明信が交野かたの(大阪府枚方市)にやってきた。

祖父の百済王教福が建てた百済寺は、参詣人で賑わっている。

中納言と中務卿を兼任する正三位の藤原継縄夫人で、自分も従四位上の位階を持つ四十四歳の明信は、名実ともに日本を代表するの貴婦人の一人になった。継縄とのあいだに産まれた息子の乙叡たかとしも二十一歳になって、正六位上の内舎人として桓武天皇の側に仕えている。

「奥に部屋を用意してございます。そちらでお休みになりますよう」と参詣が終わったあとで僧が勧める。

「喪服ばかり見てうんざりしてるの。人を眺めている方が良いわ」と明信は百済寺の境内に足を向けた。

「では、お席を用意させましょう」と僧たちが困ったように一行を見まわす。

「明信さまのお席だけで結構です。われわれは立っております」と明信が側においている小女房こにょうぼう(女官に仕える女)が言う。

明信も気軽に出歩けなくなった。交野に来るのにも衛士や女房を何人も連れている。寺が用意してくれた縁台に座って冷えた清水を飲みながら、行き交う人々を明信は楽しそうに眺めた。

交野では七月七日は乞巧奠きっこうでん(七夕)で、境内には竹を組みあわせたやぐらが立てられて、笹の葉に刺した針に通した五色の糸が風になびいている。櫓の前にはお供え物を置いた机があり、そこに礼拝している人々もいる。織り姫に織物や針仕事の上達を願ったり、さらには芸事が上手くなるように祈る女たちだ。

ズッーと昔、まだ百済寺が建設中で、継縄との婚姻がさけられなくなった若いころのことだ。

上弦じょうげんの月がかすむむ七夕の夜に、明信は寺の近くを流れる天ノ川のほとりを大好きな人と二人で歩いたことがある。そして夏の草いきれの中で、その人の腕に抱かれて唇を重ねた。今では現実だったのか妄想だったのかも分からないささやかな思い出だが、その人のために今も明信は生きている。

乞巧棚きっこうだなのまえで祈りを捧げていた女が、立ち上がって二人の少年に声を挙げた。

「走ってはだめです。人さまに迷惑でしょう!」

その声で女に眼をやった明信はホウーッと眼を大きくした。小さめの少年のような顔。小柄だが手足が長く美しい肢体。人混みのなかでも際立つ魅力がある女だ。

「ご存じの方ですか」と、女を凝視いている明信に女房が聞く。

「いいえ。でも、あの方をお連れしてくれないかしら」と明信。

二人の少年を連れた女が、女房に導かれて明信のそばに来た。

「百済王明信さまと伺いました。はじめてお目にかかります。わたしに、ご用でしょうか」

形良く生えそろった眉、少し上に向いた鼻、クリッとした目、ふっくらした唇は口角がキリッと締まっている。だから少年のような雰囲気があるのだが、声や態度は控えめでやさしい。

「少し、あなたはのことを伺ってもよろしいでしょうか」と明信。

「はい」と怪訝そうに、それでも素直に女が答えた。

「あなたは、どちらの方ですか」と明信が聞く。

「都から知人をたづねてまいりました。

従五位下の飛鳥部あすかべの奈止麻呂なとまろの二女でございます」

羽曳野はびきの飛鳥あすかのきみの一族なの?」と明信。

飛鳥公は、河内国かわちのくに安宿郡あすかべぐん(大阪府羽曳野市)を本拠地にする百済系の渡来人だ。三百年ほど前の、百済の二十四代の国王だった東城王の末裔なので、桓武天皇の母の新笠と同系だ。

「あなたは、どういう名で呼ばれているの?」と明信。

「ヨウジです。永と児と書きます」と永。

「そのお子達は、ヨウさんのお子ですか」と明信。

「はい」と永児。

「お子達のお父上は、どなたかしら?」と明信。

「藤原北家の内麻呂さまです」と永児。

「内麻呂さんというと?」と明信。

「藤原真盾またてさまの三男です。去年、大嘗祭のあとで従五位下をたまわられました。いまは甲斐守かいのかみ(山梨県)をしておられるそうです」と永児。

明信が考えるように女を見てから、二人の少年に目を移した。

「あなた方は、そこに立っていてもつまらないでしょう。

少しお母さまと話しがしたいから、好きなところで遊んでいらっしゃい。

子供たちがケガをしないように護衛を一人つけて」と明信。

少年たちが去るのを待って、明信が永児を側に招いた。

「話しがしたいから横に座ってちょうだいな」

永児が遠慮がちに、それでも横に座った。

「あの子たちの父親は、北家の藤原真盾さんの三男の内麻呂さんなのね。

内麻呂さんは幾つ?」と明信。

「二十六歳です」と永児。

「傍流の三男で二十六歳で従五位下なら、藤原氏でも出世が早いほうだわ。

あなたは幾つ?」と明信。

「二十三歳です」と永児。

「あの子たちの歳は?」と明信。

「どうして、そんなことをお訊ねになるのですか?」と困ったように永児が聞く。

「あなたのことが、とても気にかかるからじゃダメ?」と明信。

「あ・・・いえ。そうですか。はい。

息子は上の真夏まなつが八歳で、下の冬嗣ふゆつぐが七歳です」と永児。

「内麻呂さんがつけたの? そう。よい名だわ。

八歳と七歳なら、内麻呂さんが十八歳と十九歳のとき、エイさんが十五歳と十六歳のときに産まれたのね。最初の子?」と明信。

「はい。内麻呂さまの一男と二男になります」と永児。

「その下に、あなたの子供はいないの?」と明信。

「おりません」と永児。

「さっき内麻呂さんの任官を、人づてに聞いたような話し方をしたわね。

まだ二十三歳なのに、八歳より下に子供もいない。

今も付き合いは続いているの?」と明信。

「いいえ。長兄と次兄が亡くなって三男の内麻呂さまが嫡男になられてから、身辺を整理なさいました。そのときに暇を出されました」と永児。

「離状をもらったの?」と明信。

「はい」

「若いころは好きな人と恋をする。家を背負うと政略結婚をする。

貴族は、みんなそうよ。それで子供たちは、どうなるの?」と明信。

「内麻呂さまが京官になって戻られましたら、お邸に引き取られます」と永児。

「藤原氏になるのね。内麻呂さんには、ほかに妻はいるの」と明信。

「坂上苅田麻呂さまの娘さまを迎えられるはずです」と永児。

「アラ、おもしろい。

渡来系氏族の娘が好みなのか、先が読める人なのか。どっちかしら?

離状をもらったのなら、これからエイさんが何をしようと前夫からの文句はでない。

でも、あなたは息子たちに会う機会がなくなるわね」と明信。

永児が寂しそうにうつむいた。

「おなじ渡来系でも坂上氏は正四位上。飛鳥部氏は最高位が六位までの氏族だから、あなたの息子たちにソコソコの援助しかできないでしょう。

ねえ、エイさん。あなた宮中で働いてみない?」と明信。

「わたしが? わたしなどが出仕できるのでしょうか?」と永児。

「女官の下に、女儒にょじゅと呼ぶ人たちがいるの。下働きの女官よ。

男の社会は、父親の地位で息子の出世が決まるでしょう。女も同じでね。

後宮におられる方も、内裏に仕える女官も親の力で地位を得る。なかには自力で一族を引き上げる方もいたけれど、それは本当にまれなことよ。

まだ内麻呂さんの妻なら出世は望めるけれど、離状をもらったのでしょう。

飛鳥氏の娘では、ずっと女儒のままかもしれない。

でも宮中にいれば、やがて出仕してくる息子たちを見ることができて、かれらの役にも立てる」と明信。

「わたしが、息子たちの役に立てるのですか」と永児。

「宮中のコネは、だれもが欲しがるものなの。

藤原北家は女子が生まれにくく、女官を送る余裕はないでしょうね。

わたしの女儒としてなら、あなたを推薦することが出来るかも知れない。

いつまで、ここにいるの?」と明信。

「息子たちと一緒の、最初で最後の遠出になりますから数日はおります」と永児。

「わたしも、しばらく交野にいるから、女儒になる気があるなら邸に訊ねてきてよ」と明信。

「あのう・・・いつごろ伺えば、よろしいでしょうか」と永児が聞く。

「その気なら、明日の今頃は?」と明信。

「はい。ありがとうございます。明日、伺わせていただきます」と永児が言って立ち上がった。そして、もう一度、頭を下げて息子たちの方に小走りに駆けていく。

「どう思う? あの娘」と去って行くのを見送りながら、明信が側にいる女房に聞く。

「綺麗な方ですね。それに、なんというか、気を使わなくても良いような気分にさせる方です。軽く見ているのではなくて、あの方は怒らないような気がします」と女房。

「しっかり見てたのね。人目を引くほどさわやかな容姿で、聞きたいことを口にできて知能も即断力もあるのに、人を構えさせない受け身の女。これは貴重だわよ。

飛鳥部氏は、確か土壌の管理ができると聞いている。

なんどか会って話をしてみて、芯の性格が善良だと分かったら使えるわ」と明信が微笑んだ。



八月一日に、右大臣の藤原田麻呂を始めとする太政官たちの奏上で、やっと宮中の人々が喪服を脱いだ。自分で選んだ太政官が揃ったので、即位後はじめて桓武天皇は太政官に根回しして奏上をさせるという形をとった。

魚名が更迭されて田村麻呂が右大臣になってから、桓武天皇は起きて顔を洗ってから、すぐに正装を着用して内裏の正殿(紫宸殿ししんでん)で太政官たちから政務の報告を受けて指示を出すのが日課になった。これを聴政ちょうせいという。

そのあとで平服に着替えて朝食を取る。

食事のあとも、多くの官人を内裏に呼んで会い執務を続ける。ともかく、どの官人よりも桓武天皇は勤勉で仕事熱心だった。

八月十九日に、元号を延暦えんれきと変え、ここから本格的な桓武天皇の統治が始まる。天皇交代のときに代わる伊勢斎王にも、酒人妃の娘で三歳になる朝原内親王が決まった。

国の根幹こんかんとなる国家の大事と賞罰のうちのは、「氷上川継の乱」を勅だけで判決と断罪をして自分が握っていると知らしめた桓武天皇は、昇位を決めるも掌中にあることを見せしめはじめる。


五位以上の官人の昇位や任官は天皇が位記いきに内印を押して認め、五位以下の官人の昇位や任官は勤務評価をみて太政官が決める。しかし五位以上の官人だけで百余人。六位以下でもスケやジョウなどの功績が評価されやすく将来が有望な職に六百人ほどの官人がいて、総数では一万人の官人がいる。

ふつう天皇は、皇太子時代からの側近と、身辺で世話をしたことのある有力氏族出身の内舎人と侍従と、側に仕える中務卿と、三位以上の公卿と太政官を除けば官人と親しく接する機会がない。

五位以上の任官を選考するときは、叙位議じょいぎとよぶ太政官たちの御前ごぜん審議しんぎに立ち会うが、審議されいる官人を書類上でしか知らないことが多いから口を挟むことは少ない。太政官の審議を通った官人の位記いきに内印を押すだけだった。

とくに聖武天皇からは、叙位の前に行われる叙位議に天皇が臨席することもあいまいになり、そのあとに政権を握った藤原仲麻呂の時代が入る。仲麻呂を追放してからも、叙位は太政官たちが審議して天皇には事後許可を得ていた。

光仁天皇がこれをただして、叙位の前には御前で叙位議が行われるように戻した。

桓武天皇は「恵美仲麻呂の乱」のときに従五位下になり、それから九年間は大学頭、侍従、中務卿を経験している。皇太子になってからの八年間は、光仁天皇の側で政務の補佐をしていた。十七年も官人たちを見知る機会があり、途中からは天皇になるつもりで性格や仕事ぶりを評価していたから、下位の官人たちも知っている。

叙位を決める叙位議の席でも、桓武天皇は積極的に意見を入れ始める。

式家の三世代目の藤原種継の昇進が、桓武天皇の即位後に目立つ。桓武天皇が即位するまえは、種継は正五位上の右京大夫だった。それが、たった一年で正四位下の参議の太政官になった。だが、このように気に入った人を勅昇ちょくしょうしてドンドン位を上げさせることは、これまでも珍しくない。

いままでと違うのは、叙位議の最初に行われる従五位下の審議に桓武天皇がこだわったことだ。

桓武天皇は、散位のままでいた諸王や真人まひと(臣籍降下した皇族のかばね)と、能力はあるが家柄が低くて七位や八位に留まっている渡来系氏族や弱小氏族の安都宿禰、田辺史、尾張連、健部連などの下級官人たちを推薦して、従五位下や外従五位下、あるいは正六位上に押した。官人の任期交代のときには、これらの人を位階相当の職につける。その結果、多くの新顔が五位から六位に任官されることになった。

位階を授けられると、罪を犯して免職されないかぎり剥奪はされない。しかし官職は五位以上の位階をもっていても席に限りがあるから、定期的に行われる交代の時に職につけない人が出てくる。

長いこと光仁天皇がおかれていた、位階はあるが無職の官人を散位さんいと呼ぶ。光仁天皇の場合は天智天皇の孫という貴種であり、洞穴どうけつ(鉱山)を所有していたから副収入があり、正妻が内親王だったから散位でも定期的に位階は上がった。

貴族の八割をしめる五位の官人が散位になると、そんなゆとりは無い。

位階は据え置きだから位階相当の収入はあるが、働いていないから報償は減る。そのうえ評価を認められる機会がなくなり昇進の可能性が落ちる。

一回の昇位と任官では大した変わりがないから誰も気にしなかったが、これがくり返されると、最下位の貴族である従五位下と、中級官人のトップの正五位上や正六位上に、王や皇嗣系と渡来系氏族と弱小氏族が集まることになった。

従五位外と正六位上は貴族と一般官人のボーダーラインだ。桓武天皇は昇位と任官のたびに皇嗣系や渡来系や弱小氏族を引き立てた。

この地位の職は、これまで古代豪族系官人が押えていたが、かれらの中に仕事を与えられない散位が増え始めた。


桓武天皇が即位して一年八ヶ月。父を亡くして一年が過ぎた。

十二月二十三日に、光仁天皇の一周忌が大安寺で行われた。

この一年で桓武天皇は、自分の政治を行うための基盤を作り上げていた。



七八三年。

一周忌は終わったが、まだ父の光仁天皇が忘れられないと元旦の朝賀はなかった。


一月は早春そうじゅんというが、一月半ばは最も寒い季節だ。

「若いころから、弟のように思っていた。

あいつのことが気にかかって仕方がなかった。どんどん寂しくなるなあ」と寒風に吹かれながら坂上苅田麻呂がつぶやいた。

五十五歳になった苅田麻呂は正四位上で、氷上川継の乱で一時解官されたが、五ヶ月後に復官して右衛士督に戻っている。

「このところ沈下していますが、東北は伊治呰麻呂が乱を起してから、朝廷軍が蝦夷の土地に入ると手強い攻撃にあって危険だそうです」と伊勢老人。

伊勢老人は四十六歳。苅田麻呂と同じ時期に解官されたが許されて、いまは正四位下の散位だ。

「うちの邸を乗っ取ろうと、よそ者が攻撃してきたら射落とします。

蝦夷がしていることは、それと同じことでしょう?」と坂上田村麻呂。

苅田麻呂の息子の田村麻呂は二十五歳で、蔭位で正六位上になり近衛将監をしている。

「帝が軍を引いたままにされていますから平穏なようですが、このさき蝦夷と和解することはないのでしょうか」と伊勢老人。

「深い恨みを作ってしまったから、もう共存はないだろう」と高倉福信。

七十四歳になる福信は、弾正伊として都の治安を守っている。

「内印と駅鈴を奪って逃げる恵美訓儒麻呂くずまろたちの前に、大弓を引いて立ち塞がった勇姿は忘れられません」と伊勢老人。

田村麻呂が墓前に大弓を置いて、「生き難かったろうが、勇士よ。安らかに眠れ」と福信が馬酔木あけびの生垣に囲まれた墓前に線香を置いた。

正月八日に、正四位上の道嶋嶋足が亡くなった。



二月一日。

二十三歳になった藤原乙牟漏おとむれが池の端で振りかえって、邸を見まわす。

「去りがたいですか?」と右大臣の田麻呂が聞く。

「わたしは外に出たことが無くて、この邸の中しか知らないし、ここには、お父さまがおられるような気がします」と乙牟漏。

「兄、そのもののような邸ですから良く分かります。

でも兄なら、あなたがどこにいても、そばで見守っていますよ」と言って、田麻呂が咳き込んだ。

「大丈夫ですか。お寒いのではございませんか」と阿部古美奈が気遣う。

「ご心配なく。年寄りの持病です」と田麻呂。

「ここに戻ることはないのでしょうね。この邸はどうなるのでしょう」と乙牟漏。

「帝に伺わなければなりませんが、しばらくは今までどおりに種継が管理してくれます」と田麻呂。

邸の主だった藤原良継は、息子の宅美が早世して跡継ぎがいない。田麻呂には子供がいない。百川は二人の息子を残したが、上が九歳で下は亡くなる直前に生まれたから四歳だ。

末弟の蔵下麻呂は、今年で二十四歳と二十三歳になる息子を残しているが正六位上になったばかりで、式家は男子が少なく存続が危ぶまれる状態にある。

「そろそろ、まいりましょうか」と古美奈が促した。

「じゃあ、安殿あてさま。お元気でいらしてくださいよ。

好き嫌いを言わずに召し上がるのですよ。

それから、毎日、文字を習って覚えてくださいね。お約束です」と安殿王の手を引いていた種継の娘で、十七歳になる薬子くすこが小指をさし出した。

「薬子は一緒に来ないの?」と九歳になった安殿王が聞く。

「わたしは、まいりません」と薬子。

薬子は安殿王が産まれたときから、ずっと遊び相手や話し相手に来てくれていた。

「どうして? 薬子も一緒に行こうよ」と安殿。

「薬子は、もうすぐ、お母さんになるの。

だから、いつまでも安殿と遊んでいられないの」と乙牟漏。

「貞本が生まれたあとも、薬子はやって来て遊んでくれたでしょう。

子供が生まれたら来てくれるよね」と安殿。

「薬子さんも、女官になられたらどうですか」と古美奈。

「お父さんが頑固だからだめです。式家の娘は、みんな家を捨てて宮中に行ってしまった。だれが式家を守るのか。

おまえは家刀自いえとじとして息子をたくさん産み、しっかり式家を守れと、うるさくて」と薬子。

「式家には、わたしのほかに種継しか残っていません。式家の存亡は種継にかかっていますから、どうも近ごろはかたくなになってきたようですな」と田麻呂が咳をしながら言う。

「じゃあ薬子とは、もう会えないの?」と安殿。

「わたしが出世して安殿さまに会いに行き、薬子のようすもお知らせします。

安殿さまも文字を覚えて、本をたくさん読んでください」と薬子より二歳上の兄で、十九歳になる仲成なかなりが言った。仲成の母親は「和気王の乱」に連座した元授刀衛じゅとうえいのかみの粟田道麻呂の娘だ。仲成も安殿の相手を良くしていた。

「薬子。そのかんざしがほしい」と安殿が薬子が髪に刺している簪をねだる。

「これはダメ。夫からもらったのです。お餞別せんべつを用意してなくて、ごめんなさい。こんど手巾に刺繍をして夫に届けてもらいます」と薬子。

薬子の夫は、蔵下麻呂の二男の縄主ただぬしで内舎人をしている。二人のあいだには、すでに男子が生まれていて薬子は第二子を身ごもっている。

「姉妹のように過ごしてきたのに、これっきり会えないなんて、わたしもいやよ」と乙牟漏が薬子の手を取る。

「旅子さまのところには弟の緒嗣おつぐさんが遊びにこられますから、これからもお会いになれると思いますよ。さあ邸のみなに、ご挨拶をしてください」と手取り合っている薬子と乙牟漏に古美奈が勧める。こうして一緒にいると、乙牟漏と薬子は良く似て見える。

見送りに並んだ藤原良継邸の使用人たちの方に、乙牟漏が身体を向けた。

「これまで安殿とわたしに仕えてくれてありがとう。みなも元気ですごすように」と乙牟漏。

「安殿王さま。乙牟漏さま。幾久しくお幸せであられますように影ながら祈っております。お二人にお仕えできたことを誇りに思います」と家令が述べて、使用人たちが泣きながら見送りの礼をした。

この日、安殿王をつれた藤原乙牟漏が、右大臣の田麻呂の介添かいぞえで桓武天皇の元に入内じゅだいした。


「安殿王さま。乙牟漏さま。これなら寂しくないでしょう?」と入内の儀が終わって、乙牟漏に与えられた後宮の身舎もやに落ちついた田麻呂が言う。

乙牟漏の母の阿部古美奈、従姉妹でもあり姪にもなる藤原旅子。旅子の母で乙牟漏の異母姉の諸姉。やはり異母姉になる人数と、式家の女性たちが集まっている。

「はい」と乙牟漏。

「宮中でのことは、みなさんが助けてくださるから安心です。

お邸に住まわれている産子うぶこさまには、先日、お目に掛かって、あとのことをお願いしてきました。

こんなときに話すことではないのですが、こうして皆が集まる機会が無いので、ここで伝えておきます」と田麻呂。

産子は、光仁天皇の最晩年に入内した百川の娘で旅子の異母姉になり、光仁天皇夫人の称号を持つ。

「どうも身体の具合が良くないようです。本邸のことも使用人たちの身の振り方も考えてやらなければなりませんが、それまで持つかどうか分かりません」と田麻呂。

「田麻呂さま」と古美奈。

「わたしに万一のことがあったら、あなた方の後ろ盾になる式家で頼れるのは種継だけになります。帝が重用してくださっていますが、そのご期待に答えながら式家を守るのは、種継一人では荷が勝ちすぎるかも知れません。

もともと真面目で不器用な男ですから、これからさきの式家が安泰だと申せません。

安殿王も帝の嫡子であられるから、官人たちの思惑や陰謀に巻き込まれることがあるかも知れません。

あとのことは、みなさんにお任せいたします。

くれぐれも用心して暮らされるように、お願いします」と田麻呂が穏やかな眼で式家女性たちを見まわした。



つぎの二月二日。

午後に神王みわおう壱志濃王いちしのおうを召して話していた桓武天皇のところに、中務なかつかさ卿で中納言の藤原継縄つぐただがやってきた。

壱志濃王は治部じぶ卿で、神王は参議と大蔵卿を兼任している。

「エーッと、わたしは、おじゃまになりますでしょうか?」と継縄が聞く。

「かまわぬ。用か」と桓武天皇。

「藤原乙牟漏さまが安殿王をお連れになって入内されましたので、そろそろ親王と夫人の宣下せんげをなさるころではないかと進言しようと思ったのですが、出直してまいりましょうか」と継縄。

「親王宣下と夫人宣下はするつもりだ。

夫人は三人までと決まっているが、継縄。その方ならだれを選ぶ?」と桓武。

「夫人になれるのは、三位以上の公卿の娘と決められております。

入内されている方では、南家の吉子さま。式家の旅子さまと、式家の乙牟漏さまのお三方が該当します。

吉子さまの父は正三位で式部卿の是公これきみ。わたしと同じ五十六歳で元気で力のある方ですから、これからも出世なさるでしょう。旅子さまの父君の百川ももかわさまは従三位の式部卿として亡くなりましたが、従二位を追贈されております。乙牟漏さまの父君の良継さまは従二位の内大臣として亡くなられましたが、すぐに従一位を追贈されておられます。

考えなければならないのが藤子さまです。藤子さまは正二位の左大臣の魚名さまの養女として入内されました。しかし魚名さまは免職されておりますし、ご実父の鷲鳥さんの最終官位は従五位上です。お父上の最終官位では、夫人ではなくひんに相当します。

しかし、藤子さまは・・・」と言って継縄が言葉を止めた。

「何だ?」と桓武。

継縄はうつむいて、両手の親指を突き合せてはじき始めた。

「乙女でもないのにモジモジして薄気味悪い。言いたいことがあれば言え。

それが中務卿の仕事だろう」と桓武。

「はい。魚名さまと、その息子たちは追放されました。

これ以上、北家を叩くのは如何なものかと・・・」と継縄。

「魚名と息子たちは、そろそろ免罪して呼び戻し復官させるつもりでいる」と桓武。

「それは、よろしゅうございます。

復官させるのでしたら、魚名さまは左大臣に戻られるのでしょうか」と継縄。

「名誉職としてなら一考する」と桓武。

「でしたら、帝。京家から入内した方はおられませんが、式家からは夫人が二人、南家からは一人の夫人が立てられることになります。

北家出身の夫人もおられたほうが、藤原氏の間で均衡がとれます。

一つお伺いしたいのですが、皇后には酒人さまをお立てになるのでしょうか?」と継縄。

「酒人のほかに、入内できる歳の内親王はいない。

内親王だけが妃になるから、生涯、朕の妃は酒人だけになる。

酒人は先帝の娘であり朕の妹だ。これからも皇后と同格として丁重にあつかってほしい。だが皇后に立てるつもりはない」と桓武。

「夫人の中から皇后を立てられるのですか?」と継縄。

「第一皇子の母になる乙牟漏を皇后とする」と桓武。

「それでしたら立后の後に三人の夫人を立てることができますから、北家の藤子さまも加えられます。

皇后を立てられるまでは、その辺はモヤモヤっとごまかして藤原氏の四人を夫人にしましょう」と継縄。

「どのように?」と桓武。

「たとえば夫人の名を明かさないで宣下するとか。全員、藤原氏ですから藤原夫人とすれば、だれのことやら分からないでしょう」と継縄。

「妙な知恵は回るのだな」と桓武。

「ありがとうございます。

夫人の下のひんは四人までで、貴族の娘がなります。

従四位上の多治氏たじひ長野さまの娘の真宗まむねさまが該当します」と継縄。

「賓の宣下は、せずともよかろう」と桓武。

「分かりました。

それから妃や夫人や賓たちの身舎もや曹司ぞうしが古くなって、改装したほうが良いところもあります。皇后さまに皇后宮は必要でしょうか。

造宮省そうぐうしょうが閉鎖されましたので、こちらは、いかがいたしましょうか」と継縄。

「今のところは有るものを利用して使えばよい。直せるところは木工寮を仕え。

継縄。明信から何も聞いていないのか?」と桓武。

「何を?」と継縄。

「まだおおやけにはできないが、遷都せんとを考えている」と桓武。

「遷都。どこへ? いつ? で、ございましょうか」と継縄。

「これから定める。いまは遷都があるということを胸の内に閉まっておけ」と桓武。

「ハッ!」と継縄が胸を叩く。

「三日後に夫人を発表する。思うように勅の草案を作らせよ。

会場を準備して五位以上の官人を集めるように」と桓武。

「ハッ。すぐに準備してまいります」と継縄が胸に手を当てたまま出て行った。

「やっと官僚を押えたばかりです。

中務卿に遷都を告げても大丈夫でしょうか」と神王。

「あの継縄と、乙麻呂の嫡男の是公は、藤原南家で同年の五十六歳の太政官だ。

是公は裏表のない剛直な性格で、人を纏められる力量がある。

継縄は己の力をわきまえた人柄だから、信用に足りる。

遷都となると二人の力が必要だ。とくに継縄には陰で地固めをしてもらいたい」と桓武。

「大騒ぎになりますよ。

なんと言っても、この大和の地は日本が誕生した所です。

古代豪族系は大和に本拠地を構えていますから、反対する者が出てくるでしょう」と壱志濃王。

「この地は、都としてはあまりにも交通の便が悪い。

とくに近年は、難波の堀江ほりえに砂が積もって海に出るのが難しい。

それに、この地を去れば寺院を切り離すことができる」と桓武。

「光仁天皇の御陵を移されると聞きましたが、草壁皇子系皇族の御陵と離すためですか」と神王。

「われらは天智天皇、志貴皇子、光仁天皇と続く皇系だ。

この地に父の帝を残して遷都は出来ない。

さて、王たちの選考に入ろう」と桓武。

「叙位前の成人した王たちの名簿と本人の甲文こうぶん(自己推薦書)を持ってきました。

どんな性格で、どのような暮らしぶりかは、わたしたちが説明しますので、昇位に値する者を選んでください」と壱志濃王が文書を広げた。



二月五日。

桓武天皇は大極殿に官人を集めて、自ら叙位を行った。

最初に、亡き藤原百川に右大臣を追贈した。

そのあと三世王、四世王に従五位下を、夫人の藤原曹司ぞうしと藤原乙牟漏おとむろに正三位を、藤原吉子に従三位を贈る。昇位された三人の女性は、本人ではなく式部省の役人が代理で出席して位記いき(位を示した札)を受けとった。

乙牟漏と吉子は名を公表しているが、曹司は宮人が使う部屋のことで、太政官も各庁の長官も曹司を持っている。後宮の曹司に住む藤原氏の夫人が誰なのか、この昇位では分からなかった。

旅子の父の百川に右大臣を追贈して、この日に母の諸根も正四位下になったから旅子だろうと思った官人が多かったが、魚名の孫娘の藤子の可能性も捨てきれない、モヤモヤっとごまかされた公示だった。


桜のつぼみが膨らみ始めた三月十九日。

右大臣の藤原田麻呂が六十一歳で亡くなった。

藤原式家は、乙牟漏と旅子という現天皇の夫人をだしたが、その後ろ盾となるはずの第二世代の男性が、すべて亡くなってしまった。



四月十八日。

田麻呂が亡くなって一ヶ月後に、桓武天皇は夫人の藤原乙牟漏を皇后に立てた。

光明皇后、井上皇后につづく、日本で三代目の皇后だ。

この桓武天皇と乙牟漏皇后の子孫が、のちに皇室として受けつがれて行く。

そして、この日に参議の藤原種継に従三位を贈った。乙牟漏のイトコになる種継は四十六歳で、藤原式家の第三世代。式家で唯一の壮年男子だった。

これまでにも若くして従三位を授けられ参議になった人はいる。石上宅嗣は三十九歳で大宰帥と兼任して従三位の参議になった。宅嗣は若いころから秀才の誉れが高く、怜悧な頭脳で知られていた。藤原百川は四十二歳で従三位の参議になったが、多くの職を兼任して、いずれも完璧にこなすと評価される能史のうりだった。

この二人と比べれば、種継は地方の国司と左京大夫と左衛士督の経験しかない。これまでの仕事に失点はないが、特に高い評価も受けていない。この昇位には、種継自身も緊張するだけで喜べなかった。命じられたことをコツコツ努力してする種継には、喜べるゆとりがなかったのだ。

乙牟漏のための皇后宮大夫には、左大弁で従三位の佐伯今毛人が任官された。

七月十九日に大納言の藤原是公(南家)が右大臣になり、中納言の藤原継縄(南家)が大納言になり、大伴家持が中納言になった。

皇后には九歳になる安殿あて親王がいることを知って、春宮大夫として早良皇太子に付いている家持は不安を大きくした。


藤原魚名の息子たちは三月の末に免罪されて京に戻され、新しい職に任官されていたた。魚名も五月には京に戻されて邸で療養していたのだが、七月二十五日に六十二歳で病没してしまった。

桓武天皇は、魚名の官位をもとの左大臣に戻した。



閣僚        左大臣 藤原魚名   北家 左遷 没

          大納言 藤原田麻呂  式家      

          中納言 藤原継縄   南家

          中納言 藤原是公   南家

           参議 藤原浜足   京家 更迭

              藤原小黒麻呂 北家        

              藤原家依   北家

              石川名足  

              大伴伯父麻呂 没

              大伴家持   

              大中臣小老

              紀船守


「川継の変」後   右大臣 藤原田麻呂  式家 没 

          大納言 藤原是公

          中納言 藤原継縄

           参議 藤原種継   式家  


              


             故・市原王     

                ‖―――――――――五百枝王

             故・能登内親王      五百井女王

 天野新笠(皇太夫人)    早良皇太子

   ‖―――――――――――桓武天皇

故・光仁天皇          ‖―――――――――朝原内親王

  ‖――――――――――――酒人妃

故・井上内親王

故・湯原王――――――――――壱志濃王

故・榎井王――――――――――神王

                ‖

               美弩摩内親王(光仁娘)


故・塩焼王

  ‖――――――――――――氷上川継 流刑

  不破内親王 流刑



藤原式家  故・良継―――――諸姉(百川室 旅子母)                 

         ‖     人数(鷲鳥室)

        阿部古美奈――乙牟漏(桓武皇后)―――安殿親王             

      故・清成 

         ‖―――――種継――――――――――仲成

      故・秦朝元の娘              薬子(縄主室)

        田麻呂(大納言~右大臣 没)              

      故・百川―――――旅子(桓武夫人)

               産子(光仁夫人) 

               緒嗣

               帯子

      故・蔵下麻呂―――縄主

     

藤原北家          大秦嶋麻呂の娘

                ‖

      故・鳥養―――――小黒麻呂

      故・永手―――――小依

      故・真盾―――――内麻呂         真夏

                ‖――――――――――冬嗣

              飛鳥部永児

              

        魚名―――故・鷲取――――――――――藤子

               鷹取



藤原南家           百済王明信                

                ‖――――――――――乙叡

      故・豊成―――――継縄(中納言)        

      故・乙麻呂――――是公(大納言)―――――吉子(桓武夫人)

                ‖

               橘真都我


               氷上川継

                ‖

藤原京家    浜足―――――法壱


               坂上苅田麻呂――――――田村麻呂

                           又子

                           登子(内麻呂室)

               大伴家持

               佐伯今毛人

               伊勢老人――――――――継子

                           惟子

               道嶋嶋足 没















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る