十四 天下に君臨する  桓武天皇の即位


七七七年(宝亀ほうき八年)から七八一年(天応てんおう元年) 


七七七年。

年の始めから雨が続いた。

光仁天皇が即位して七年。山部皇太子が立坊して四年がすぎた。

光仁天皇は六十七歳、山部皇太子は四十歳になる。奈良の都で、これほど高齢の男性天皇と壮年の皇太子が在位したことがない。

七年が過ぎて気がつくと、光仁天皇に意見を言える人は誰もいなくなっていた。

ずっと付き従っている山部皇太子も臣下のようで、天皇に意見を言う姿は一度もみていない。

右大臣は七十五歳の大中臣清麻呂で、仕事にまちがいがなく穏やかな性格だが、高齢なので何度となく辞職を願いでている。

内大臣と名称が変わった式家の藤原良継(六十一歳)は、身内だけを引き立てると悪評が高く、その結果が太政官に反映していた。参議の藤原楓麻呂と藤原蔵下麻呂が欠けても藤原氏を補充するので、ほとんどの太政官が藤原氏だ。

大納言は藤原魚名うおな(北家 五十一歳)だけで、中納言も石川豊成が亡くなったので、物部もののべの宅嗣やかつぐ(四十八歳)と藤原縄麻呂ただまろ(南家 四十九歳)の二人だけだ。

参議の太政官には、藤原田麻呂(式家 五十三歳)。藤原継繩つぐただ(南家 五十歳)。藤原百川ももかわ(式家 四十五歳)。藤原浜足(京家 五十三歳)。藤原是公これきみ(南家 五十歳)。藤原小黒麻呂(北家 四十四歳)。紀広庭(五十八歳)。大伴伯父麻呂(五十九歳)がいる。

継縄と縄麻呂は藤原豊成の二男と四男で、是公は豊成の三弟の乙麻呂の息子。小黒麻呂は、北家ので早世した長男の鳥養とりかいの息子になる。

藤原氏は不比等の子供の代に四家に別れていて、始祖の不比等のひ孫の世代に入った。四家の始祖からは孫の世代になるので、縁が薄くなり互いに競い合うようになってきた。

太政官の中で光仁天皇より年上なのは、右大臣の大中臣清麻呂だけだ。

良嗣の勝手を非難しているあいだに、天皇が思いどおりに政ができる親政しんせい体制ができあがっていた。

これまで多くの太政官を出してきた古代豪族からは、右大臣で高齢の大中臣清麻呂と、一昨年の暮れに自ら奏上して石上を物部に改姓した中納言の物部宅嗣。一昨年の九月に蝦夷との戦で功を認められて参議になった鎮守府将軍の大伴駿河麻呂と、おなじときに参議になった紀だけだった。

紀広庭は弟の鯖麻呂とともに「仲麻呂の乱」で功をたて、そのあとは藤原百川の下で河内すけをしていた。今は美濃守(不破関がある)を兼ねていて、実力のある官人だ。

参議になっても東北に留められた駿河麻呂は、ときどき戦勝を報告して捕虜を送ってきていたが、去年の七月に陸奥の地で亡くなってしまった。

その後釜として、鎮守府将軍には副将軍だった紀が、参議には光仁天皇と個人的に仲の良い大伴伯父麻呂がなった。紀広純は、参議の紀広庭の亡兄になる宇美うみの息子になる。広庭が叔父で、広純が甥だ。



群司を務める地方豪族とは別に、古代豪族系といわれる中央官人の派閥がある。

古代豪族系官人は、まだ天皇を大王おおきみと呼んでいたころに大夫まえつきみと呼ばれて、大臣おおおみ大連おおむらじのもとで国政を合議で決議していた権威ある氏族だ。

むかし大臣の蘇我入鹿そがのいるかを誅したあとで、難波に都を移した中大兄なかのおおえ皇子(天智天皇)は「大化の改新の詔」(六四六年正月)で、私地私民を王に返納する公地こうち公民制こうみんせいを敷いた。広大な私有地と大量の私有民を持っていた大夫たちの権力を剥奪しようとしたのだ。つぎの天武天皇は大夫たちの不満を和らげるために、彼らの地盤のあるふるさとの飛鳥に都を戻した。

大夫を出していた古代豪族には、阿部おみ采女うねめ臣、大市臣、小墾田おはりだ臣、葛城かつらぎ臣、巨勢こせ臣、蘇我そが臣、高向たかむこ臣、平群へぐり臣、紀臣、大伴連、安曇あずみ連、佐伯連、中臣連、物部連らがいる。このなかの蘇我氏は石川氏を名乗り、物部氏は石上氏を名乗っている。

いまの奈良の都には、下級官人を含めると一万人余の官人がいる。その多くを古代豪族系や、その枝族の子孫が占めている。しかし太政官や三位以上の公卿になっている者は少なく、ほとんどが四位か五位、あるいは五位以下だ。

一方、中臣氏の枝流だった不比等が藤原氏を名乗るのは六九八年からで、藤原氏はできてから七十九年しか経っていない新しい氏族だ。大王とともに戦って大和朝廷をつくりあげた古代豪族をおさえて、その藤原氏が要職のほとんどを押えている。古代豪族系にとっては、これは実に腹立たしいことだった。



三月一日。

光仁天皇が田村旧宮で酒宴を行った。

恵美押勝(藤原仲麻呂)の邸だった田村第のなかで、孝謙天皇が使っていた宮が田村旧宮となり、恵美一族が住んでいた邸の一部は南家の参議の藤原是公の私邸となっている。

是公は、仲麻呂が軍事面を任せていた四弟の乙麻呂の長男だ。乙麻呂は、橘諸兄の弟になる佐為さいの末娘を妻にしていたが、橘氏への弾圧が続く中で妻を離縁して、若く身分も低く仲麻呂と距離がとれる息子に嫁がせた。

是公は体躯も大きいが器も大きい筋の通った男で、光仁天皇の即位後に重用されている。



「なつかしい」と飯高笠目が眼に涙を浮かべた。

元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇(称徳天皇)、光仁天皇と五代四人の天皇に仕えた笠目は七十九歳で従三位になった。数え年では八十歳なので、正月に光仁天皇から多くの祝いの品をもらって、この酒宴にも招かれた。

「まるで、そこに光明皇太后さまのお姿が見えるような気がします」と笠目。

「あのころの面影が宮や庭には残っているのに、人は変わってしまいました」と従四位下で六十五歳の久米若女。

「わたしは長い夢を見てきたような気がしますよ。忘れられない方々が去ってしまわれました」と笠目。

「人の世は、あっという間に行き過ぎてしまいますねェ」と藤原永手の未亡人で従三位の大野仲千と、藤原豊成の未亡人で正三位の藤原百能がうなずきあう。

「酒人内親王さまが、ようやく人前にお出ましになられましたね」と従四位下で三十五歳になった藤原諸姉もろね人数ひとかずに向かって言った。

「お綺麗ですね」と人数。

「大変な立場におられるのに、艶やかで華があるお方ですね」と、四十三歳のたちばなの真都我まつがも言う。父と息子に嫁した橘佐為の娘で、是公の妻だ。

「これから、どんな人生を歩まれるのか、わたしは見ることはないでしょうが、お幸せになっていただきたいものです」と笠目。

「由利さん。酒人さまは、若いころのあの方にる思わない?」と久米若女が、うしろを振りかえった。

振りかえった先には、百済くだらのこにしき明信みょうしんがいた。兵部卿ひょうぶのかみで参議の南家の藤原継縄つぐただ夫人の明信も、正五位上で三十八歳になった。真都我の夫の是公と、明信の夫の嗣縄は、おなじ歳のイトコだ。

「わたしも由利さんを思いだしていました。きっと、ここに一緒に来ていますよ。

酒人さまのことでしょう。

異母兄妹ですから、皇太子さまのお若いころに似ておられます。

ここには美しい方たちが集まっていらっしゃるのに、酒人さまは一味ちがいます。

どこか謎めいて危険な感じは、お若いころの皇太子さまとおなじです。

それに血のつながりはないけど、皇太子さまの母君とも似ておられませんか?」と明信。

「あら、そう? あなたには、そう見えるの」と若女。

「はい。若女さんも似てますよ」と明信。

「わたしが? 冗談でしょう」と若女。

「姿じゃなくて、いさぎよくて強いものを放っておられます」と明信。

「ありがとうと言いたいけれど、わたしは潔くはないわ。しぶといだけよ」と若女。

「しぶとくなければ、潔くもなれませんよ。

わたしも、しぶとく皇太子さまにお仕えいたします」と明信。

ちょうど不破内親王が息子の氷上ひかみの川継かわつぐをつれて、酒人内親王のそばに近寄ってきた。どうじに山部皇太子がそばにより、ていねいに酒人内親王を別の場所に案内する。

宴席にいる人のほとんどが見ないふりをしながら、それを見ていた。

「酒人さまと川継さんはイトコで年頃も合いますから、不破さまは酒人さまを息子の夫人にしたいのでしょうか」と明信が言った。

「川継さまの父君の塩焼王は謀反人よ。帝が許可されないわ。

不破さまは姪の酒人さまと、親しくなさりたいだけでしょう」と若女。

「それに川継さまは、京家の浜足の娘のところに通っておられます」と浜足の姉の百能。

「アラ!」「そうなの!」「ホント?」と明信と若女と真都我がどうじに答えた。

「不破さまも、ご苦労の多い人生でしたから、表立つことはおやめになって静かに余生を送られますことをねがいます」と仲千が言う。


人々からはなれると、酒人内親王が皇太子を睨みつけた。 

「なによ。どうしてくれるの!」と、二十三歳になる酒人。

「なにが? 川継と話したかったのか」と四十歳の山部皇太子。

「子供はつらないと決めたでしょう!」

「異母兄妹だから、子供はあきらめたほうが良い」と山部。

「注意するのは、そっちの責任でしょう。ズーッとウーンと年上だし、男だし」と酒人。

「えっ。もしかして・・・できた?」

「なんだか変だから診てもらったら、四ヶ月過ぎだって」と酒人。

「うれしい。酒人とわたしの子だ。おまえを抱き上げて叫びたいほどだ」と山部。

「わたしは素直に喜べない。戸惑いの方が大きい。

つわりで気持ちが悪いの。早く帰りたい」と酒人。

「帝とは気まずい別れ方をしたままだろう。ごあいさつを済ませてからにしたらどうだ」と山部。

「帝には、つわりが酷くて酒人は帰りましたと、ちゃんと説明しておいてよ!」と酒人。

「三日後の夜なら抜け出せる」と山部。

「来なくていい!」

「行く。岡田綱を呼んでくれ」と山部。

「一生、ワガママを言うのは、わたしの方でしょう! 

これじゃ良いように振り回されている。まったくムカつく!」と酒人。

「吐きたいなら、ホラ、わたしの袖に吐け。体に障るから怒っちゃだめだ」と山部。

「理恵たちが待っているところへ、わたしを送らせて。そして目の前から消えてよ!」

皇太子の従者をつれて、酒人内親王が宴席をあとにした。


遠目で興味深く眺めていた人たちには、酒人内親王が山部皇太子に苦情を言っている姿だけが見えた。井上内親王と他戸王が亡くなってから、始めて衆人のまえに姿を現した酒人内親王が恨みをぶつけているようにも見える。

若女が肘で明信をつついた。

「なに?」と明信。

「あの怒りかた?」と小声で若女。

「親の仇を相手にしては熱すぎるね。ああいう怒り方は、夫婦のように馴染んだ男女がするものよね」と明信。

「ほんとうに、しぶといお方かも」と若女がささやく。

二日後の三月三日。光仁天皇は曲水の宴を開いたが、酒人内親王は現われなかった。


それから三か月近くが過ぎた五月二十八日に、伝説の女官の飯高笠目が亡くなった。

飯高笠目は飯高諸高もろたかともいう。地方豪族だった伊勢氏を、中央官人に引きあげた女性だ。



百年以上も前のことだ。

中大兄皇子が、朝鮮半島の新羅国に滅ぼされた百済国を再興するために白村江はくそんこうへ兵をおくったとき(六六三年)に、唐は新羅と同盟して日本軍を含めた百済国再興軍をほろぼした。

この敗戦のあとで中大兄皇子は即位して天智天皇となり、在位三年にも満たさずに亡くなるが、唐は軍団を率いて玄界灘げんかいなだ(九州の福岡、佐賀に接する日本海)まで来て、つぎの天皇に天智天皇の皇子を立てないように牽制したという。そのころの唐の帝王は李氏だった。

七五五年から八年もつづいた「安史あんしの乱」で、長安を世界一の都にした李氏の本家筋が滅び、今の皇帝は代宗皇帝という。

光仁天皇は、百年ぶりの天智系男性天皇だ。だから唐に即位の報告をして認めてもらうことは国内を治めるうえで重大なことで、去年の八月に遣唐使を派遣していた。

その遣唐使の船が風向きが悪くて唐まで行けずに大宰府に戻ってきていて、今年の八月の再出航を待っている。


この遣唐大使に任命されたのが、正四位下の西大寺造営長官で五十八歳になった佐伯今毛人いまえみしだった。

去年、渡航に失敗したあと、大宰府で風をまつために待機せよと命じられていたのに、今毛人は都に帰ってきて遣唐大使の節刀せっとうを返し官人たちのゴーゴーたる非難をあびた。

武門の恥でも腰抜けでもいい。ナニがナンでも今毛人は水が怖い。大海を渡るくらいなら殺される方がましだ。節刀を返して今毛人は自宅で蟄居ちっきょしていたが、そのあいだも大海原を渡航する恐怖に悩まされていたから本当に体をこわしてしまった。

四月二十三日に、光仁天皇は佐伯今毛人を呼び出して、もう一度、遣唐大使として節刀を授けた。今毛人は都の外にでる羅城門らじょうもんまでくると気分が悪くなり、それでも輿に乗せられて摂津せっつ(兵庫県神戸)まで運ばれたが、そこで起き上がれなくなった。

それで大使が急病のために、副使に代行させて遣唐使を送るはめになった。



八月十五日。

「大丈夫だろうか」と山部皇太子。

「まだですね」と芳ジイ。

「まだか」と山部。

「まだです」と芳ジイ。

「早くするように言ってくれ」と山部。

「だれに?」と芳ジイ。

「んー」と山部。

「ここでいきんでも、なんの助けにもなりませんよ」と芳ジイ。

山部皇太子と芳ジイが待つ梅亭に、常足が走り込んできた。

「女の子です」と常足。

「酒人は無事か!」と山部。

「母子ともにお健やかです。よろしゅうございました」と常足。

「おめでとうございます。アレ、山部さま。どちらに?

いけません! 悪い風邪が流行っています。

お二人にうつるといけませんから、庭越しにお会いできるようにしてからお呼びします。勝手に近づかないでください!

酒人さまとお子さまは、この土師芳岳がお守りします!」と芳ジイが、そばにあった竹ぼうきを構えて山部皇太子をさえぎった。

三月の田村旧宮の酒宴から姿を見せなくなった酒人内親王が、ひっそりと娘を出産した。山部皇太子は葛野かどの(京都)に住むはた氏の枝族の朝原小妹と言う乳母を探して酒人につけた。



去年の暮れに、海難事故に遭って半数の使者を失いながら新天皇即位の祝いに来日していた渤海使ぼっかいしは、今年の五月まで都に滞在した。そのあいだに高熱と咳を伴うウイルス性の感冒が徐々に都に流行りだした。日本は島国だから新型のウイルスは他国から入ってくることが多い。

内大臣の藤原良継も、七月から病の床に伏している。

「気を確かにもってくださいよ。涼しくなれば体力ももどります」と見舞いにきた久米若女が、心配そうにはげます。

元気で頭もしっかりした高齢者は珍しく多くは五十代で亡くなるから、六十一歳の良継は老齢といってよい。

「夏を超えられそうにありません」と良継。

「弱音を吐かないでください。まだ式家には、あなたという大黒柱が必要です。

皇太子さまが心配して、何度も使いをよこしてくださっています。

乙牟漏おとむれ安殿王あておうのためにも養生して、早く元気になってください。病に敗けてはなりません」と若女。

「若女さんに会ってから、もう四十年になります。

あのころは、こんな日が来るとは考えてもいなかった。

なにも満足にできない男なのに、ありがたい。ほんとうにありがたい」と良継が涙を流す。

九月十八日。内大臣の藤原良継が亡くなった。

良継が亡くなったあとで、「井上内親王の祟りだ」という噂が広がり始めた。

井上内親王と他戸王は山部皇太子に毒殺されたという噂も、再び勢いを盛り返した。

十一月に入ると六十七歳の光仁天皇が病に倒れる。

十二月になると、山部皇太子と奈貴王が相次いで床に伏した。



百川ももかわさま。わたしが、おそばにおりますから少しお休みください。

もう三日も寝ておられません」と百済王明信が勧める。

山部皇太子が熱を出して倒れてから、藤原百川は政務が終わると東宮に来て付き添っている。

「このままでは、百川さまが倒れられます。

あちらに部屋を用意いたしましたから横になってください。

変わりがあったら必ずお起しします」と勧める明信もゲッソリとやつれている。

「では…」とフラリとしながら百川が立ち上がって、山部が寝ている部屋から下がった。

明信は山部皇太子の寝殿の回りの部屋を、医師や薬師が寝泊まりできるようにしている。その空き部屋の一つを百川のために設えてくれていた。


「中納言の物部もののべさまが参られましたが、いかがいたしましょう」と、水で絞った布で百川が顔を拭いているときに、東宮の女官が聞きにきた。

「皇太子さまは休んでおられますが、わたしでよければ、お目にかかりたいとお伝えください」と百川。

中納言の物部さまは、石上いそのかみ宅嗣のやかつぐのことだ。

「皇太子さまは?」と席につくなり宅嗣が聞いた。

「高熱が下がりません。咳も激しく食事も取っておられません。水分と薄い重湯と、はちみつを入れた牛の乳だけは、少しづつ口に入れています」と女官を下げて二人きりになってから、百川が伝える。

「何日目です」と宅嗣。

「三日になります。あと二日以内に粥を召し上がれるとよいのですが。

帝はいかがです?」と百川。

「昨夜から微熱に戻られました。今朝は軽い食事を召し上がりました」と宅嗣。

「よかった」と百川が涙ぐんだ。

「ご高齢で持病をお持ちですから養生が必要ですが、もう心配はありません。

意識も、はっきりしておられます」と宅嗣。

「宅嗣さんは、この疫病が祟りせいだという噂を聞いておられますか」と百川。

「はい」

「お願いがあります。

できるだけ早く、井上さまの墓所を改葬してまつり上げたいのです。

太政官を通しますと時がかかります。

直接、帝のお許しを頂けませんでしょうか」と百川。

「そんなことをしたら、噂を認めることになりませんか?」と宅嗣。

「ここまで広がると、打ち消せば、かえって真実味が加わります」と百川。

「分かりました。帝の許可をいただいて、わたしが改葬まで見届けましょう」と宅嗣。

「帝についておられてお疲れでしょうに申しわけありません」と百川。

「百川さん。良継さんは逝ってしまわれましたが、わたしを遠ざけないでくださいよ。政治家としては藤原氏だけを擁護するつもりはありませんが、式家はわたしの兄弟です。

物部を名乗ったのは豪族系官人の不満を押さえるためで、わたしは変わっていません」と言いながら、宅嗣が百川のそばに寄って肩に手を置いた。

「体が、こんなに冷えて固まっている。

あなたが倒れたら、だれが皇太子を補佐するのです」と宅嗣が、百川の肩と腕を擦った。

十二月二十五日に、皇太子の病気平癒へいゆを祈る使者が神社にだされた。

十二月二十八日には、井上内親王の遺体を掘りだして墓を造りなおす作業がはじまった。その改装の責任者としてに大和に派遣されたのは壱志濃いちしの王だった。



七七八年。


皇太子の病が重く、正月の朝賀の儀は行われなかった。 

一月二十九日に光仁天皇は、山部皇太子の母で高野たかのと氏を変えた新笠にいがさに従三位を与えた。



「帰ってくれ」と、はっきりしない言葉で奈貴王なきおうが言う。

「うつるからと誰も彼も追い払って会わないようだが、わたしはダメだ。

追い出したければ、いつものように生意気な口をきいてみろ」と高麗こまの福信ふくしん

六十八歳になる福信は、従三位で造宮卿と近江守を兼任する公卿になっている。

山部皇太子と同じころから病に伏せっていた奈貴王は、快方に向かいかけたのに高熱がぶりかえして肺炎を起こした。

奈貴王が激しくセキ込む。

「水を飲むか」とセキがおさまると福信が聞く。

「気持ちが…わるい…」

福信が抱きかかえて奈貴王の体を斜めに起こすと、看護のために雇われた僧がささげる椀の水を布に浸して口元をぬらした

「こうして体を起こしている方が楽か」と福信。

「ああ」

「寒くないか」

「口と舌が…しびれて…足も手も…さきのほうが」と奈貴王。

奈貴王が息をするたびに、ヒューヒューと風のような音が胸から聞こえる。

「目は開けられるか」と福信。

「…れない」

「耳は聞こえるのだな」

「…どうしてる」と奈貴王。

「皇太子か。おまえと同じようなものだ。百川が、つきっきりで看病している」

「わたしの…分も…い…」と奈貴王。

「そう伝えよう。おい。奈貴王。聞こえるか?」

血中の酸素濃度が低下して唇と舌のしびれが強くなった奈貴王は、浅い息をするだけで答えない。

「おまえは、だれとも会わないが、みんなが、おまえを心配している。

宅嗣や田麻呂や継縄が、何度も訪ねて来たそうだ。酒人内親王の使いも来ている。

おまえの子供だと名乗る者たちが、その母親たちと一緒に、この邸の仏間に集まって快癒を祈っている。そこに皇太子の代理だと、神王が居つづけて祈っている。

突っ張ってないで、いいかげんに認めろ。

おまえは、だれからも好かれる性根のやさしい良い男だ。

おい。まだ聞こえるか。耳を澄まして聞いてみろ。弓の音が聞こえるだろう。

庭で、坂上苅田麻呂かりたまろと、その息子の田村麻呂たむらまろと、伊勢老人おきなが、おまえの回復を祈って千本矢を射ている」と福信。

微かに弓弦ゆんづるが、はじける音がする。矢が風をきる音がする。奈貴王は目を閉じたままで、空から庭にいる三人の武者の姿を見ていた。

抱きかかえている福信の筋肉が、ときどき動く。まるで水面に浮いているようだ。

蓮の花が咲く沼に木漏れ陽がチラチラと‥…きれいだ…とても、きれ・・・。

二月八日。地方の国守を兼任していたが、ずっと内裏を離れずに侍従として仕えた従四位下の奈貴王が四十四歳で亡くなった。



奈貴王が亡くなったという知らせは、酒人内親王邸の人たちにもショックだった。

その数日後、書吏の常足つねたりが酒人の部屋に告げに来た。

高野たかのの新笠にいがささまと、女官の久米若女さんが見えられたので、客殿にお通ししました」

「前もって伺いもせずに勝手に客殿にあげたの? いったい、どなた?」と理恵。

「新笠さまは山部さまのお母君で、久米さまは太政官の藤原百川さまのお母君です」と常足。

赤子の寝顔をながめていた酒人が、それを聞いて顔色を変えて飛び出した。

「皇太子さまの、ご容体は?」と客殿に走り込んだ酒人。

芳ジイと大場おおばを相手に談笑していた女性客が立ち上がり、大場は礼をして出ていった。

「二日まえから食事の量がふえました。

ただ熱が完全に引かず咳も止まりませんので、安静にされております」と久米若女が答える。

ホッとした酒人がよろめいた。横にいた高野新笠が受け止める。

酒人のあとを追ってきた三人の女従が、新笠の手から酒人をあずかった。

「お姿は拝見しておりますが、始めてごあいさつをさせていただきます。

女官の久米若女と申します」と六十六歳になる若女が、流れるような仕草で立礼をする。

「山部の容体を、一番に聞いてくださってありがとうございます。

山部の母の新笠です」と五十八歳になった新笠は、名乗ってから酒人の目を、しっかり捕らえた。

「酒人さま。あなたのお母上さまと弟君さまの身に起こったことを、お詫び申しあげます。申し訳ございません」と新笠が深々と頭を下げる。

酒人は、その姿をポカンとながめた。相変わらず新笠がハデに着飾っていたからだ。

「頭をお上げください。

母と他戸を利用して皇位につき、死に追いやったのは、わたしの父と兄です。

新笠さまに罪はございません。どうぞ、お座りください」と気を持ち直して酒人が勧める。

山部の母の姿かたちは知らなかったが、氏素性うじすじょうなら酒人も聞いて知っている。


大王と呼んだころから、大王の母となれるのは皇女(内親王)だけだった。

大王を凌ぐ力があった古代豪族の蘇我氏も、まず自分の娘を大王の妃の一人にして、その娘が生んだ皇女を次の大王の大后おおきさきにし、生まれた曾孫ひまごを大王に擁立して外戚として力を保った。

その一世代分の手間を省いて、長女の宮子が生んだ孫の聖武天皇を擁立したのが藤原不比等だ。聖武天皇は臣下出身の母を持つ初めての天皇で、それゆえの圧力もあったのか母の宮子は生涯を閉じこもって過ごした。

そのあとで藤原四兄弟が、不比等の三女を聖武天皇の皇后にした。初めての臣下出身の光明皇后だ。

そのあとで、さまざまなことが起こって草壁皇子系の男性皇族はいなくなった。

光仁天皇の母は古代豪族の紀氏だが、高齢になっての即位だから、すでに母も母方の祖父や叔父や兄弟も近い親族は故人になっていて大きな問題にはならなかった。

山部皇太子の母は、和(大和)氏を父に土師氏を母に生まれている。和氏は百済から帰化した外国人で、土師氏は巨大古墳時代に活躍した氏族だが、人がさける忌みごとを扱う。山部皇太子は、これまでにない階級の母系を持つ皇太子になる。

すでに悪評が高い山部皇太子を否定するのに、この母の出自は格好の材料だった。

この年の始めに、光仁天皇は新笠に高野朝臣という氏姓と従三位を与えた。高野は称徳天皇が名乗った名とおなじだ。

光仁天皇が出自を工夫したのに、とうの新笠は攻撃してくれと言わんばかりにハデで和氏を名乗っている。


「母と他戸のことのために、お訪ねになられたのですか」と酒人。

「わたしは明日から、高野新笠として内裏に移ることになりました。

しきたりに縛られずに、お目にかかれる最後の日ですから、ありのままの姿であなたと会って、自分の言葉でお詫びがしたかった」と新笠。

「新笠さま」と若女が注意する。

「明日からは、言葉づかいにも気をつけるわよ。今日は和新笠でいたいのよ。

それから酒人さま。欲を言えば一目だけでも、孫娘の姿を見せていただけませんか。

内裏に移れば、会う機会も少なくなるでしょう」と新笠。

「新笠さま?」と若女が目をむく。

「分かってるって!」と新笠。

「孫娘って、どなたです? 

まさか、皇太子さまと酒人さまのあいだにですか?」と若女。

「アレ。知らなかったの」と新笠。

「すでに皇太子さまの、お子がおられるのですか?」と若女。

「はい。安殿あて王とおなじで公表はしていませ娘がいます」と酒人。

「安殿王。えっ。安殿王のことも、ご存じなのですか?」と若女。

「いずれ皇太子さまの跡を継がれると聞いています」と酒人。

「なんてこと!」と若女が胸に手を当てた。

「お顔が真っ白です。久米さま。ご気分が悪いのですか?」と芳ジイ。

「大丈夫です。のけ者にされたようで衝撃を受けただけです」と若女。

「気つけに、お酒をお持ちしましょうか?」と芳ジイ。

「そうだわ。娘をつれて来させますから、お二方も誕生を祝って一緒に召しあがってくださいませんか?」と酒人。

「もちろん、いただく。いただくわよ」と新笠。

「下火になったとはいえ、流行り病は終わっていません。

朝原さまを、お酒の席へお連れするのはよろしくありません!」と芳ジイ。

「庭には抱いて出られているの? 外の空気や日差しは必要でしょう。

それなら庭越しでいいわよ。

芳岳。近寄らないから会わせてちょうだいよ」と新笠。

「芳ジイ。そのように支度をして。久米さま。大丈夫ですか」と酒人。

「びっくりしたので取り乱しました。

おめでとうございます。酒人さま」と若女。

「あなたは、式家から皇太子の正妃と後継者をだそうと必死でしょう。

酒人さまにお子がおられたら正妃は酒人さま。だから取り乱したの?」と新笠が面白そうに若女に聞いた。

「わたしはね。新笠さま。ほかの藤原氏の娘が正妃になって、そのお子が日嗣ひつぎ御子みこになるなら噛みつきますよ。

臣下の娘が安殿王と乙牟漏を脅かせば、なんとしてでもつぶしに行きます。

でも内親王が正妃になられるのは、当然のことと思っています。

そのへんの勘違いをするような女ではございません!」と若女。

「若女さん。わたしは皇后になりたくありません。だいたい兄の妃になったと知られたくありません。

みんなが母と他戸のことを忘れてくれるまで、静かに朝原と過ごしたいだけです。

朝原が娘で良かったと思いますし、ほかに子をつくるつもりもありません」と酒人。

ちょうど乳母が、赤子を抱いて庭伝いにやって来た。新笠が立ちあがって庭の方に身を乗り出す。

「乳母の名をとって朝原あさはらと呼んでいます」と酒人。

「かわいい子。ほんとうに、かわいい。朝原さま。朝原さま! 

おばあさんです。こんにちわ。見えますか。朝原さま。こっちを向いてちょうだい。

いつか、いっしょに、お遊びをしましょうね。

元気に育ってくださいね。たくさん、お乳を召し上がってくださいよ」と新笠が朝原のいる庭に向かって、手を振りながら話しかける。

山部と奈貴王と神王が誕生を祝ってくれたが、ほかの親族には祝ってもらえなかった娘だ。

夢中で手を振って朝原に話しかけている新笠の姿を、酒人がうれしそうに見た。

酒と簡単な料理が運ばれてくると、乳母の朝原小妹おいもは赤子を抱いて去った。新笠は、いつまでも、その後ろ姿に手を振っている。

「お義母かあさま」と酒人が声をかけた。「お義母さま!」

「おかあさまって、わたしのこと?」と新笠がクルッと振りかえる。

「ええ。お祝いのお酒をどうぞ」

「はい。ちょうだい」と席に戻ってチョンと座った新笠が、女従の理恵に杯を突き出す。

「酒人さま。さっき皇太子の妃と知られたくないとおっしゃいましたね」と若女。

「ええ。兄とわたしの関係は複雑ですから」と酒人。

「じゃあ、朝原さまのために乾杯!」と新笠。

「朝原さまのお誕生を祝って、おめでとうございます」と若女も杯を空ける。

「酒人さま。いまは祟り騒ぎで大変ですから、朝原さまのことは伏せてもいいでしょうが、これから先も隠すおつもりですか?」と二杯目を干しながら若女。

「朝原いると分かったら、わたしが、どんな目で見られか分かりますか?」と酒人。

「母君と弟君を殺した仇と結ばれたと、好奇の目で見られます。

好奇の目は、まだ許せます。なかにはあわれみの目を向けて来る人もいます。どんな気持ちで仇と一緒になったかと想像して、見当違いな同情をよせる人もいます」と若女。

「分かってくださるの?」と酒人。

「でも人にあわれまれるほど、わたしは落ちぶれてはおりません!」と若女。

「はい?」と若女の過去を知らない酒人が、首を捻って若女を見る。

「気にしないで。ちょっと混乱しているだけだから。

さあ、若女さん。もう一杯空けて」と新笠。

「朝原さまのお幸せを」と若女が飲み干す。

「さあ、もう一杯」と新笠が進める。

「人の噂や視線に敗けてはいけませんよ。酒人さま。

朝原さまが皇太子さまのお子であることは、朝原さまの権利です。

朝原さまのためにも、胸を張って立ちあがって、好奇の目や憐みの目を向ける人を黙らせましょう!」と若女。

「ハイ。ハイ。分かったから、もう一杯。グーッと飲んで。

でもね。人はそれぞれよ。若女さん。酒人さまが望むようにされれば良い。

静かに過ごされたいのなら、そのように帝や山部に頼みましょう。

酒人さま。疲れたでしょう。

あなたはね。よく生きていてくだすった。それだけで充分よ。

生きていてくださって、ありがとう。ほんとうに、お疲れさま。

そして一人で可愛い孫娘を生んでくださった。ありがとう。ありがとね。

心細かったでしょうに。よくやった。あなたは立派よ。

わたしは、あなたを尊敬するわ。わたしに出来ることなら何でもする」と新笠が言う。

急に酒人は胸がつまった。

こんな風に母と打ち解けて話してみたかった。孫娘の誕生を喜ぶ母の姿を見たかった。そんな思い出を一つも残さずに、井上内親王は逝ってしまった。

新笠が、やさしく酒人の肩を抱いた。

「わたしも、酒人さまを応援します」とほろ酔い若女が酒人の手を両手で包む。

「宮中の礼儀作法しか教えられないくせに!」と新笠。

「歌って踊って着飾るだけの、新笠さまよりマシです。マシ!」と若女。

酒人は、新笠にもたれかかってみた。新笠が優しく腕をなでる。

新笠からは幼いころに抱いてくれた、父と同じこうかおった。



六年前に井上皇后を廃した次の日に、光仁天皇は曲水きょくすいうたげをした。さすがに、それからは三月三日に曲水の宴をするのを避けていたが、去年から再開している。

三回目になる今年の会場には、内裏の庭があてられた。

庭に流れる川の両側に、歌人たちの席がつくられて盃が流されてくる。盃が止まった席にいる歌人が歌をむ。歌が書かれた札は係りの役人が受けとって、すべての歌人が詠み終えてから、天皇が御座する部屋のまえでみ人が声も高らかに詠みあげる。そのあとで選者たちが最も優れた歌を決める選考に入る。

そのあいだ招かれた貴族たちは、正夫人をつれて内裏の庭をそぞろ歩いていた。

天皇がおられる部屋に皇族や公卿も同席しているが、この曲水の宴で初めて宮中行事に参加すると聞いている山部皇太子の母の高野新笠の姿までは見えなかった。


天皇がおられる部屋のきざはしの上下で侍従や舎人たちが動き始めた。

後世より厳しくはなかったが、五位以上の貴族でも天皇の姿を目にすることはまれで、宴などで几帳の外に出られるときしか拝めない。

まず公卿たちが階を下りて庭に居並ぶ。右大臣で七十六歳になる大中臣清麻呂は欠席しているので、高官は大納言の藤原魚名をはじめ八人までが藤原氏で、藤原氏のほかには大伴伯父麻呂と皇嗣系の神王だけが出席している。

恵美仲麻呂も息子や弟で太政官を占領しようとしたが、二十代や三十代が多くて脆弱きじゃくな感じがした。いまの藤原氏は四家から四十代半ばから五十代初めの熟年層を、太政官として揃えている。

光仁天皇のもとで、藤原氏は臣下最高の地位を揺るぎないものにした。その藤原氏を束ねているのが魚名だった。古代豪族系の貴族たちの胸のうちは穏やかではない。

光仁天皇が階に出御しゅつぎょした。いつもは中風ちゅうふうで左側の腕や足が不自由な天皇を山部皇太子が介添えしているが、今回は皇太子に代わって中納言で中務卿の物部宅嗣が支えている。宅嗣一人では八人の藤原氏に対抗できないが、それでも多少の緩和はできる。


光仁天皇が庭に下りて、公卿たちが周りを囲んだ。

続いて皇族たちが階に姿を現した。

親王しんのう内親王ないしんのうには品位ほんいと呼ぶ階級がある。

臣下がもらう位階いかいと違って一品から四品までしかなく、一品は亡くなってから遺贈いぞうされることが多い。品位は貴種性と年功の序列のようなもので、皇族でも王や女王には位階が与えられる。

光仁朝の最高位は、亡くなる直前に二品になった姉の難波なにわ内親王だった。

いまの皇族は三品が最高で、文屋大市の妻で光仁天皇の異母姉の坂合部さかいべ内親王と、皇后所生で伊勢斎王をした酒人内親王(二十四歳)と、聖武天皇の三女の不破ふわ内親王(五十八歳)の三人がもっている。

しかし高齢の坂合部内親王は病の床に伏していて、酒人内親王は伊勢から戻ってからは、去年、チラッと田村宮の宴に顔を見せただけだ。

光仁天皇は、出家している一男の開成かいじょうと三男の早良さわらの親王宣下を行っていないから、四品は娘の能登のと内親王(四十五歳)と弥努摩みぬま内親王、四男の稗田ひえだ親王(二十七歳)がもっている。

能登内親王は山部皇太子の同母姉で、稗田親王の母は光仁天皇の姪の尾張おわり女王にょうおう。弥努摩内親王の夫は、光仁天皇の甥で参議の太政官になった神王みわおうで、これが互いをよく知っている光仁ファミリーだ。

この光仁天皇の一族と、酒人内親王を挟まないと縁がないのが不破内親王だった。



光仁天皇につづいて、女房を従えて階を下りて来たのは不破内親王だった。

不破内親王も、波乱の人生に翻弄された皇女だ。

子供のころは病弱だったというが、母のあがた犬養いぬかい広刀自のひろとじは聖武天皇が愛した夫人だったし、藤原氏を嫌う大伯母の元正太上天皇が元気だった。親戚になる橘三千代や、その息子の橘諸兄の庇護もあった。

だが夫の塩焼王が聖武天皇の怒りをかって流刑になり、皇位を継承できるはずの弟の安積あさか親王が亡くなった。

孝謙(称徳)天皇の治世下では守ってくれる人々が次々に亡くなり、「橘奈良麻呂の変」のあとで外戚の縣犬養氏も没落していった。

「恵美仲麻呂の乱」では夫の塩焼王が反逆して殺された。そのあと不破内親王も呪詛の罪で娘たちと都を追われ、息子の氷上川継は土佐に流刑になった。都から追放された直後は食べるものにも困ったという。

不破内親王を皇籍にもどして、まえの四品より高い三品という品位を与えたのが光仁天皇だが、姉の井上内親王を呪詛の罪で廃して死ぬまで幽閉し、毒殺した疑いがあるのも光仁天皇と山部皇太子だ。

庭にでると不破内親王は、光仁天皇とは違う方向に足をすすめた。

光仁天皇の即位で親王や内親王になった他の皇族と違い、生まれたときから内親王として育てられた気品が不破内親王には備わっている。招かれた貴族のなかから、従五位下で散位の氷上川継が寄ってくる。不破内親王が歩みを止めて、息子の川継と言葉を交わしはじめた。免罪されて戻っている石田女王や忍坂女王や、草壁皇子系皇族と親しかった貴族が寄ってくる。

藤原氏に囲まれた光仁天皇と、氷上川継をつれた不破内親王の二つのかたまりができた。残った貴族たちは、その二つの塊を見くらべる。

藤原氏は氏族としての総数がまだ少なく、百人ほどいる貴族たちの多くは古代豪族や、その枝族で、この席にはいないが五位以下の官人は古代豪族の係累が占めている。

春の陽光なかで見る六十九歳の光仁天皇は老いが隠せない。天皇が交代するのは、そんなに先ではない。

今日は病で欠席だが、山部皇太子は光仁天皇と同じように藤原氏を優遇するだろう。このままでは古代豪族系官人の力は、どんどん削がれてしまう。

氷上川継は父が謀反人で、本人も連座で罪科があり臣籍降下もている。しかし父方の祖父は生前に一品を賜った天武天皇の皇子の新田部にいたべ親王で、母方の祖父は聖武天皇だから血統は尊い。

京家の藤原浜足が、不破内親王と川継に近づいて話し始めた。古代豪族系官人にとって、この浜足の動きは注目に値した。


四品の稗田親王や内親王たちも庭に出てきた。光仁天皇の夫人たちもつづく。

能登内親王だけは留まって、最後に現れた初老の夫人の手をとってきざはしを下りはじめた。

あれが高野新笠だろうと、不破内親王と浜足を眺めていた貴族たちの視線が移る。

天皇の夫人の規定どおりの衣装を上品に着こなした新笠は、気負いも緊張もなく自然な動作で階を下りると、あまり宮室から離れずに能登内親王をつれて立ち止まった。

新笠を囲んで女官たちがならぶ。大野仲千、藤原百能、久米若女、阿部古美奈、藤原諸姉、藤原人数、橘真都我と、すでに三位から五位の位階を持っていて藤原氏に影響力を持つ女官たちだ。

微かに微笑んでいるような表情の新笠は、控えめでありながら気品と存在感が備わって、ずっと前から天皇の夫人として場に馴染んでいたような自然さがある。

想像していた卑母とは違う新笠の姿に、ホーッというざわめきが起こった。


そのとき酒人内親王が一年ぶりに階に姿を見せた。

もともとつややかな内親王だったが、その妖艶ようえんさを際立たせる装いを身にまとっている。女房を従えて庭に下りた酒人内親王が歩き始めた。

その姿に、貴族たちは声も無くアングリと口を開けた。

のちに柳の葉が風に舞うようだと評される左右に身をくねらせる歩き方だ。千二百年も後の二十世紀に、美しいハリウッド女優が映画のなかでセクシーな歩き方をして世界を席巻せっけんしたように、酒人内親王の妖艶な歩みが周囲を取り込んでいく。

「欠席されると思っていたのに」と庭にいた壱志濃いちしの王が、うれしそうに駆け寄って話しかける。神王も夫人の弥努摩内親王と一緒に寄ってきた。

「その髪型、どのように結い上げるのかしら?」と弥努摩内親王。

酒人内親王のまわりには光仁天皇の親族が集まりだした。立ち止まった酒人内親王の服や髪は、連れている三人の女房が素早くととのえる。


「衣装が間に合ったのですね」と久米若女が、新笠にささやいた。

「曲水の宴に着るものを見立てて欲しいと、あの娘が女従をよこしてくれたのよ。

糸を染めさせて布を織らせる間がなかったから、手持ちの布で作らせたけれどイマイチね」と新笠。

「充分、目立ってお美しいですよ」と若女。

「わたしは貴族が官服を着て集まるところを見たことがないから、こんなに派手だと思わなかったわよ。貴族って薄い朱色のほう(上着)を着てるのねえ」

「あれは五位の方たちの朝服です。貴族の大多数が五位です」

「つぎは集まる人の色味も考えて、もっと際立つものを作るわ」と新笠。

「あの歩き方も新笠さまが?」と若女。

「もし良かったらと、あの三人の女従に教えておいた」と新笠。

「やりすぎだと思われないでしょうか?」と若女。

「わたしは見惚れました。まるで唐来とうらいの名画のなかの天女が動いているようです」と能登内親王。

「見てよ。えんな女を見たら、男って袍だけじゃなく頭のなかに桃の花が咲くみたい」と新笠。

「桃の花って?」と若女。

「頭が桃源郷とうげんきょうになってるってこと。

あの娘は、きっと宮中の人々を魅了する時代の華になるわよ。

後の人が何を書き残そうと、あの娘が今を華やに楽しく過ごせれば、それで良いの。物思いを忘れる日が重なって、少しでも心が軽くなれば、それで良い。

化粧も髪形も歩き方も、わたしの助言を上手く活かしてる。

あの娘の三人の女従たちは、なかなかの優れものだわね」と新笠。

「酒人さまの女房として参内に付き添えるように、それなりの名を付けて大舎人寮おおとねりりょうに届けておきました。

井上さまが好まれた方たちとは異なる女たちです。

もしかしたら井上さまが自分に足りないところを補うために、娘を想って選ばれた女たちかもしれません」と若女。

「そうかもしれない。でも、せっかく華々しく戦い始めたのよ。

今、母君の想いを察したら、あの娘の心は引き裂かれる。

いつか自分で気がつくまで黙って見守るのね。

さてと、ここまで来る人がいたら、ごあいさつを受けましょうか」と地味で上品になった新笠が、仏さまを真似て習得した優しい眼差しと仕草で庭を見回した。



去年の暮れに山部皇太子が病に伏してから、光仁天皇は病気快癒を願って色々のことをした。

まず井上内親王の遺骨を改葬して、その墓を御墓とした。三月の終わりには淡路島に葬った淳仁じゅんにん廃皇の墓を山陵とし、その母の当麻たいまの山背やませの墓を御墓とする。つぎに大赦をして、皇太子のために三十人を出家させた。大祓おおはらいも行い、伊勢神宮とすべての神社に幣を奉納して、境界になる地で疫病の神を祀った。

このようすは、光仁天皇にとって山部皇太子は掛け替えのない存在なのだということを官人たちに分からせた。そこまで山部皇太子を寵愛するのは、常に父親に寄り添い忠実に従っているからだろうと官人たちは思った。


五月の末には光仁天皇の異母姉で、文屋大市の夫人の坂合部内親王が亡くなった。



六月の末に陸奥国と出羽国で蝦夷討伐をしている人が昇位されて、按察使で鎮守府将軍の紀広澄に従四位下と勲四等が、副将軍の佐伯久良麻呂に正五位下と勲五等が、朝廷に帰順した蝦夷の伊治公これはるのきみ呰麻呂あざまろに外従五位下が、早くから従軍している百済王俊哲しゅんてつに正六以上と勲五等が授けられた。

従四位下に昇位した紀広は、先の将軍だった大伴駿河麻呂が参議に任じられたときとおなじ位階になった。ちょうど一年前に参議で美濃守をしていた紀広が亡くなってから、参議が補充がされていないことは家族が知らせてくれる。太政官や各省の卿が亡くなったときに同族が跡を埋めることがあるから、参議になれるかもしれない。

駿河麻呂は参議になっても陸奥按察使と鎮守府将軍として留められたが、紀氏は光仁天皇の縁族だから恩寵があっても良い。太政官として都へ戻れるかも知れないと広純は期待した。

伊治呰麻呂は伊治の地を治める蝦夷の族長で、十年前の七六七年に称徳天皇が伊治城(宮城県栗原市築館城生野じょうの)を造ったときに協力をした。それからは郡司の大領たいりょうとして伊治城を治めている。伊治城は三年前に襲われた桃生城より北に位置して、陸奥の海道蝦夷と山道蝦夷の居住地に最も近かった。

副将軍の佐伯久良麻呂は昇位のあとで、山部皇太子つきの春宮亮に任命されて都に帰った。

始めから討伐軍に加わっていた百済王俊哲は、まだ軍にいるが武勇に長けている。


その頃には山部皇太子も回復していた。

「伯父がきました」と酒人家の用心棒の岡田豪が、日に焼けた体格の良い壮年の男をつれてきた。

久しぶりにお忍びでやってきた山部皇太子を囲んで、酒人内親王と従者たちが梅亭に集まって飲んだり食ったりしている。

「綱。病のあいだもいちの噂を集めて伝えてくれていたと、百川から聞いている。ごくろうだった。

良継が亡くなったのは私欲が強く罰が当たったからで、わたしの病が直らないのは、幼い弟を亡き者にして立坊したからだと言われているそうだな」と山部。

「へい」と綱。

「わたしにお兄さまの子供がいると分かると、冷酷なうえに好色な幽鬼ね。

最低じゃない!」と酒人。

「酒人さまは美しいと評判で、どんな服をお召しになったとか、髪の形はどうだとかと娘たちが話題にしておりやすが…」と綱。

「が、なによ?」と酒人。

「つらい経験をされたから、それで少し頭がおかしくなって、みさかいなく男を誘うのだと…」と言って綱が汗を拭いた。

「ほらみろ。あんな歩き方をすれば男狂いだと噂も立つ。少しはつつしんだらどうだ」と山部。

「口を出さないで。好きなことをして良いって約束よ。

噂って、尾ひれをつけて解釈までするのね」と酒人。

「そこがおもしろい。見た目や姿形から噂の人の性格までがつくられる。

これから広げて欲しい噂は酒人に伝えておくから、綱。市で流してくれるか」と山部皇太子。

「へ。たまわりやした」と綱。

「ねえ。そこの方。そんなに遠慮しなくていいのよ。もっと体の力を抜いたら」と理恵が、山部がはじめてつれてきた若い従者に声をかけた。

「あなた。名前は?」と酒人が聞く。

「大和乙人おとひとという。身辺に置いて、密かに外に出るときの護衛をさせている」と山部。

「そう。乙人ね。なんだか、お兄さまと似てるような気がする。目元や鼻筋が良く似てるわ。大和氏なら親族なの?」と酒人。

「いえ・・・」と乙人が顔を伏せる。

「護衛ならお酒は飲めないでしょうけど、ここでは気楽に話すことが誠意なの。

あなたが誠実につとめたいなら、本音で皇太子と話すことね」と酒人。

「いつのまに、わたしのことを思いやっていたわるようになった?」と山部。

「いまより非情で冷酷になるつもりでしょう。

そのことで後悔したり自分を責めたりすると大局たいきょくを見失しなう。

この邸は、あなたを一人の人として迎えて、素にもどれる場所にしてほしいって頼まれたのよ」と酒人。

「・・・奈貴王・・か?」と山部。

「うん。最後に合ったときに、あなたはやさしくて情が濃くて、そのうえ冷徹な頭脳をもっているから一人で全てを抱え込む。もしも自分に何かあったときは、息抜きができるようにしてやって欲しいって。あれが遺言になってしまった・・・」と酒人。

「なにが大局だと言った」と山部。

「正しい法で制定し、それを守れる国をつくること。不作がつづいても民を飢えさせない財力のある国をつくること。そして余計な経費と官人の削減をして、民のための政治をすることよ」と酒人。山部が上を向いいて涙をこらえた。


 

十月になって佐伯今毛人が行かなかった遣唐使船の第三船が、肥前びぜん国(九州の長崎)の近くに戻った。遣唐使船は四隻で出航するが、着くときは時も場所もまちまちだ。

最初に帰ってきた第三船の判官が都に送った奏上では、唐の代宗だいそう皇帝は遣唐使を歓迎して、返礼の品を持たせた五十六人の使者を同船させて帰ってきたという。


この報告を聞いたあとで、闘病中に回復を祈ってくれていた伊勢大明神に山辺皇太子がお礼の参詣にでかけた。

皇太子が宮城をでて朱雀大路すざくおうじを通る時刻が噂で流れて、民が見物に集まった。民が皇族の姿を見る機会などないが、山部皇太子は馬にのって姿をさらした。

うれいを含んだ表情の皇太子は、目が合うとやさしい笑みをつくって、かすかにうなずく。民の目が集まれば集まるほど、その笑みが輝きと親しみを増してくる。衆目を浴びると、どうしようもなく動き始める非凡な資質、百済王教福が人転がしと呼んだカリスマ性がにじみ出るのだ。その姿に民の目は釘付けになった。


十一月に、遣唐使船の第二船が薩摩さつま国(鹿児島県)に戻ってきた。

しかし一緒に出航した第一船は、途中で激しい風雨と高波にあって船体が二つにおれて、日本の遣唐使三十八人と、唐から来日しようとしていた返礼の使者二十五人が波にのまれて亡くなってしまった。佐伯今毛人が乗っていたはずの船だ。

折れた舳先へさきにしがみついた四十人余りが日本に生還した。

水もなく食料もなく、手を放したら波に飲み込まれる極限状態で、十一月の冷たい海を六日間も漂って四十人もが生きのびたのは驚くべきことだ。

そのなかに判官の大伴継人つぎとがいた。継人は「奈良麻呂の乱」で囚獄中に尋問で殺された大伴古麻呂の息子だった。

もう一人、遣唐大使として唐へ行ったきり帰れずに客死した、北家の藤原清河の娘の嬉娘きじょうもいた。

光仁天皇は、第三船に乗ってきた五十六人の唐からの使者を太宰府にとどめ、都へ迎えるための準備に入った。朝貢のために日本から遣唐使はたびたび派遣しているが、唐から日本に使者が来たことは、ほとんどない。


 

七七九年。

 

例年通りに大極殿で朝賀の儀がおこなわれた。

光仁天皇は即位して九年目で七十歳になる。山部皇太子が立坊してからでも六回目の正月で、いつものように渤海国からの使者も出席した。

 

正月明けからは、大宰府にいる唐の使者をむかえるための準備が始まった。長いあいだ唐からの使者が来ていないし、今回は唐の皇帝からの国書を持っている。

おじぎの仕方一つにしても失礼がないようにと細かく決めて、それが統一できるように使者が通る街道の役人たちに通達しなければならない。唐へ帰国するときに送っていく船も造りはじめて、唐の使者が都に入るときに迎える騎馬兵を集め、宿泊施設になる客殿の改装も始めた。

正月をすぎてからは、唐の使者を迎える準備で国中が活気づいた。



「百川さん」と太政官会議が終わったあとで、物部宅嗣が声をかけた。

宅嗣は中納言で五十歳。百川は参議で式部卿の四十七歳。二人とも従三位の太政官で政府の重鎮だ。

「一緒に帰りませんか」と宅嗣がさそった。

「まだ中衛府で、唐使を歓迎するときに朱雀大路に並ばせる騎兵の責任者を選ばなければなりません」と百川。

「責任者を選ぶのは、明日でもよいのではありませんか」と宅嗣。

「なにか、急なご用でも?」

「ゆっくり話しをしたいのですが、あなたは、いつも忙しくして時間がない。

思い切って口にした今日は、ぜひとも一晩、わたしの邸でゆっくり過ごしていただけたらと思っています」

宅嗣を見て百川がうなずいた。

「中衛府に顔をだしてから、のちほど、お宅に伺いします」


「いまは参議と式部卿と中衛大将を兼任しているのですか」と、その日の夕方に邸をたずねてきた百川に宅嗣が聞く。

「はい」

「それだけの仕事をこなしながら、皇太子が病臥中は夜は東宮に詰めておられた。

ほとんど休んでいないでしょう。

この二十年で、どれぐらいの職を兼任しました?」

「さあ。どれぐらいになりますか。多いときは五から六の職を兼任していましたから」と百川。

「どの仕事も、完ぺきにすると聞いています。

そこまで仕事にうち込むのは、もしかして母君のことがあるからですか」と宅嗣が聞く。

「宅嗣さんは、いまは物部と名乗ってますね。出家もされましたが、父君のことを考えられてのことですか」と百川が問い返す。宅嗣が笑みを浮かべた。

「いいえ。父のことは、もう、こだわってはいません。

姓を変えたのは太政官の中に、古代豪族系がいることを示したかっただけです」

「宅嗣さん。おぼえていますか。子供のころから、わたしは細かいことにこだわり、なんでも最後までやりたがったでしょう?」と百川。

「そうでした。とんでもないところに引っかかって、細かく調べていましたね」と宅嗣。

「わたしは、そういう生まれつきなのです。さっき宅嗣さんに聞かれて、母のことで気負いがあったのかとビックリしたぐらいです」

「あなたは子供のころから、よく熱をだすことがありましたからね。

あなたは、だれもが認める最高の能吏のうり(仕事ができる官人)ですよ。すこしは力をぬいてください。

なんとなく顔色が優れないように見えて気がかりなのです」と宅嗣。

「しかし今回の唐使は、失礼のないようにもてなして唐へ送り届けなければなりません。唐からの使者がくれば、天智天皇の孫の光仁天皇の即位をとやかく言う人はいなくなるでしょう」と百川。

「あなたは休むことなく走りつづけている。

わたしは、あなたのことを心配しているのです。

せめて今夜はくつろいで、昔語りをしながら酔って二人で寝ましょうよ。

あしたは一緒に太政官会議に遅れましょう。

わたしも、あなたも真面目だと言われでいますから、一日ぐらい、そんな日があっても良いじゃないですか」と宅嗣。

「昔語りですか。わたしが藤原氏の家に引き取られたころがなつかしい。

あなたは、わたしの初めての友です」と百川。

「ええ。あのころの、わたしたちが一番なつかしい。わたしたちと、わたしたちの周りにいた人たちが、なつかしいですねえ」と宅嗣。

四十七歳と五十歳。もう初老と言っても良い歳だが、宅嗣も百川も優雅で美しい公卿だった。



唐からの客人は、四月三十日に都についた。

国をあげての大行事だから、都の外で着飾った騎兵二百人と、帰順した蝦夷二十人が唐使を迎えて客殿に送った。

それからは、朝堂で行なわれた唐の皇帝の国書と光仁天皇の勅のやり取りをはじめ、何回か宴の席がもうけられた。客をもてなす儀式や宴で、いつも光仁天皇のそばには山部皇太子が控えている。光仁天皇が即位してからズーッと山部皇太子は側にいるが、いつもは控えめで目立たない。いつもとと変わりないようすなのに、なぜか唐使のまえでは存在感が際立っているように官人たちには見えた。

そして唐の客人は礼儀にかなった良い待遇をうけたと礼をのべて、五月二十七日に都をはなれ、新しく用意された二隻の船に乗って日本の送使に送られて帰って行った。

遣唐使の派遣。唐使の来日。その、もてなしと送りだしが、とどこおりなくおわった。

「安史の乱」のあと唐は衰退の道を歩み始めているが、日本人にとっては唐は唐。巨大な先進国だ。唐使の来日は光仁朝の大きな成果だった。

遣唐使をつとめた人は昇位された。第一船に乗って六日間も舳先へさきにつかまって漂流して帰国した判官の大伴継人つぎとも従五位下になった。

 

この唐の使いから、むかし遣唐留学生として唐に渡った阿部仲麻呂の死亡が確認される。友人の吉備真備の死から四年が過ぎていて、ほかに気遣ってくれる人がなかった遺族は、死亡をきいても葬式が出せないほど貧しい生活をしていた。

阿部仲麻呂。唐名の朝仲満は、全盛を誇った前唐で官人として活躍した唯一の日本人だ。

 


「百川。養生して元気に戻ってくると約束しろ」と山部太子。

三日まえから勤勉な百川が登庁をしなくなった。自宅で伏せっていると聞いた山部皇太子が夜になって百川の邸に忍んできた。山部が見ても百川の顔に生気がない。

「奈貴王が逝った。良嗣が逝った。

これからが大事なときだ。ここで、お前にまで先立たれたら、わたしは、どうすればよい。おいて行かないでくれ。治ると誓ってくれ」と山部。

上半身を支えられた百川が、静かな眼差しを山部にむけて力のこもった声をだした。

「真備先生は、わが国に律令と、その細部を決めた格式かくしきがしっかり根づき、法の秩序のもとで民が穏やかに暮らせることを願っておられました。

それができるのは皇太子です。わが国の未来を安定させられるのは皇太子だけです。皇太子ならできる。ムダを省いて国力を安定させ民を富ませることが、あなたに与えられた天命です。やりとげてください」

最期の命をふり絞って、百川は山部皇太子を激励した。


参議で式部しきぶ卿と中衛大将を兼任する藤原百川が、七月九日に四十七歳で逝った。

親に先立つのはゆるせない、わたしが長く生きすぎたと、百川の亡骸なきがらのそばで放心していた久米若女のところに、山部皇太子の文が届いた。

「百川の血を皇家に残したい。喪が明けたら百川の娘の旅子を、わたしのもとへ入内させてほしい。息子の緒嗣おつぐは、わたしが父親の代わりになろう。あとのことをうれうことなく逝くようにと、百川を送ってほしい」と字が乱れて、ところどころが涙の染みがにじんでいる。

哀しみを綴るより実務的で短い文から、若女は百川に対する山部皇太子の愛情を感じた。甘え上手な山部王は、ただの人転がしではなかった。井上皇后と他戸王を利用する冷酷さ持ちながら、亡くなった若女の息子を思いつづけ、その血を生かしつづけようとする深い情があった。



九月に入ってから、光仁天皇は寺院の勢力に手を入れはじめる。

聖武天皇と孝謙天皇(称徳天皇)と、仏教を保護する天皇の治世が四十六年もつづいたので寺院の力は強い。いまは僧尼や官寺は僧網そうもうという寺の僧職が管理をしていて、朝廷は内情がよく分からない。

光仁天皇は治部省じぶしょうに調べさせたが、出家してからの僧尼が住んでいる場所でさえ、はっきりしない。それだけでなく出家前の名には死亡届が出ていたり、地方の国分寺や国分尼寺にいると届けられている僧尼が都の寺にいたりと、メチャクチャになっていた。

光仁天皇は、まず僧尼にあたえる公験くげん(証明書)を、正しく朝廷に届けるようにと僧網にたいして詔をだした。公験は国が僧尼を認める証明書なのに、国に届けずに寺院が勝手に出していたことが分かったからだ。

 


七八〇年。


正月あけに、都のあっちこちに雷が落ちて新薬師寺や葛城寺かつらぎでらが火事になった。寺は高層建築で塔があるから落雷されやすい。

この雷がおこした火災を理由に、光仁天皇は僧網にたいして次の詔をだす。

「このごろ天がとがめて火災が寺の建物に集中している。朕の不徳は咎めをうけても仕方がないと思うが、仏門の人たちも、また心に恥じることはないであろうか。

近年の僧侶の行為は俗人とかわらず、上は罪か福かを考えもせずに、権力者に自分の出世をたのみこんでいる。人員ばかりが多くて損害が多い。このような不正は、ほっておくべきではない。よろしく国を守る仏法を修め、禍を転じて福とする、すぐれた因縁をひろめよ」

寺院にたいする宣戦布告状のような詔だ。即位して十年。立場を安定させた光仁天皇の改革が始まった。


僧網にあてて二回だされた詔は、僧尼の身元を調べて確かな人数を朝廷に届け、正しく仏法を修めた者に出家の許可をするようにと言っている。暗に身元や住所が不明な者や修行の足りない者は、やめさせろと人員整理をうながしている。寺院に雷が落ちたことを理由にして発令したことをのぞけば、国のためになる正しい詔だ。

公験を授かった僧尼は官僧になる。官僧は官人と同じように八位以上の給与を国から与えられる。衣食住は国が保証していて軍役は免除され租税もとられない。その僧尼が所在不明だったり、亡くなった人の名で届られたりしているのだ。

官寺は国から運営費をもらっているから、寺院の関係だけで多額の国財を消費していることになる。

大陸では仏教を廃止して僧尼を還俗させて働かせ、還俗した僧尼からとる税金と、それまで寺の維持費に使っていた費用をなくして、国の財政を立て直した皇帝の例がある。

それと比べれば緩い勧告だが、甘やかされてきた寺院勢力は反発して光仁天皇に対立した。



去年の暮れに、従三位で中納言の藤原縄麻呂(南家・豊成の四男)が五十一歳で亡くなった。それより先に参議の紀広庭と藤原百川が亡くなっていたので、二月一日に太政官が新しくなった。

すでに要職にいるのは、右大臣で七十八歳の大中臣清麻呂。大納言で五十九歳の北家の藤原魚名。中納言で五十一歳の石上宅嗣。宅嗣は光仁天皇の勅で氏を石上に戻している。

参議は中務卿の藤原田麻呂(式家、五十八歳)。藤原浜足(京家、五十六歳)。藤原是公これきみ(南家、乙麻呂の一男、五十三歳)、兵部卿の藤原継縄つぐただ(南家、豊成の二男、五十三歳)、藤原小黒麻呂(北家、鳥養の二男、四十七歳)、藤原乙縄(南家、豊成の三男、五十二歳)と大伴伯父麻呂だ。

この中で藤原魚名が大納言から内臣に、石上宅嗣が中納言から大納言に、藤原田麻呂と藤原継縄が参議から中納言になった。 

新たに参議として太政官に加わったのは、「仲麻呂の乱」のときの太政官だった石川豊成の甥で右大弁の石川名足と、左大弁になっていた大伴家持(六十一歳)と紀広純だが、広純は陸奥国の按察使と鎮守府将軍を兼任しての任官だった。他の地方官が参議になれば、地方官を遙任ようにんにして都へ戻る。

小競り合いが続く陸奥の将軍は、次の将軍が来るまで陸奥に留まらなければならない。しかも次の将軍を選ぶ気配もない。

参議になったが陸奥に留め置かれたままの広純は、大伴駿河麻呂の副将軍として陸奥に来てから、すでに八年目になる。広純は討伐の拠点として、肝沢いざわ(岩手県水沢市佐倉河)に城を築きたいと願いでた。

七十一歳になる光仁天皇は退位の時を見計らっていて、在位中に始めておきたい財政立て直しのための改革を決行しはじめた。


三月十六日に、国庫に米がなく人々の礼儀が失われているのは、官人の数が多すぎるからだと太政官たちが奏上する。

役人の給与で国の財政が赤字になり、気候不順がつづくと救援物資もくばれずに餓死者がでる。ふだんから節約をして浪費をへらし、上下が心を一つにして農耕にはげめば、すぐに米蔵に米が満ちて、人々も欲をもたず、恥を知るでしょうという内容だ。

これは、あたかじめ光仁天皇が決めて、内臣の魚名に太政官をまとめさせて奏上させたから、すぐに許可がおりて官の合併と役人の数をへらしはじめた。

光仁天皇の目標は、役所の簡素化と役人の小数化、つまり役人の人員整理だった。

役人の数をへらせば、財政の立て直しは早い。早いが僧尼の数をへらすときには良策だと言った役人が、自分のこととなると猛反対しはじめた。

日本の律令は、前唐の律令制を模範にしてつくっている。

そのなかで大きくちがうのが役人登用の規定だ。唐律には科挙かきょという試験があって、だれでも受けることができ合格したら役人になる。

日本の場合も登用試験はあるが、受けられるのは役人の子だけだ。五位以上の役人の子は蔭子制で無試験で役人になれる。そのために日本の役人は世襲されて派閥をつくりやすかった。

役人のリストラは、役人たち派閥を結束させて天皇の地位さえ揺るがしかねない。

光仁天皇は譲位のまえに、反発が大きい役人の縮小を決行した。


このとき太政官たちは、もう一つの奏上をしている。

国ごとに百姓から徴兵している兵士は米の納税を免除されているが、弓矢を射たことがなく馬にも乗れない者が多いから、戦にだしても役に立たない。かれらを戻して、米をつくらせた方が良い。という意見だ。

これも光仁天皇が太政官たちに言わせたことで、すぐに蝦夷討伐に徴兵する兵士の数をへらした。

そして、この日に光仁天皇の甥で娘婿になるみわ王を参議に加え、三月十日に亡くなった女官の大野仲千のあとに阿部古美奈こみな尚蔵しょうぞうとした。ほかの太政官より若い神王は山部皇太子のイトコで、古美奈は皇太子の嫡子の安殿あて王の祖母になる。



蝦夷討伐は人と金を消費していた。

桃生城を攻撃してから、しばらくの間は紛争が続いたが、光仁天皇は討伐軍を徐々に縮小して本当はやめてしまいたかった。やめるための踏ん切りがつく出来事でもあれば良いのだが、紀広純からは肝沢いざわというところに城をつくりたいと言ってきている。

紀広純がいるのは多賀城で、その北に桃生城があり、もっと北の内陸に伊治城(宮城県栗原市築館城生野)がある。紀広純が城をつくりたいと言っている肝沢は、伊治城よりさらに五十kmほど北にある場所だ。蝦夷の郡司が直接支配していて、納税のときに多賀城へおさめにくる。胆沢を制覇すれば蝦夷を制圧できて蝦夷討伐を終了することにできるなら、それに越したことはない。

光仁天皇は広純の奏上を許可した。


三月の末に、いつも戦闘に勝利したと成果を報告していた陸奥国から、訃報がとどいた。

三月二十二日に、陸奥の伊治城で、鎮守府将軍の紀広純と牡鹿郡の大領たいりょうの道嶋大楯おおだてが、伊治郡の大領の伊治これはるのきみ呰麻呂あざまろに殺されたというのだ。

大領は郡司の長官で、その地方で実力がある豪族がなる。

殺された道嶋大楯も、殺した伊治呰麻呂も帰順した蝦夷だ。この二人が殺し合っただけなら問題にはならなかった。

参議になって太政官として国政に参加するはずだった、鎮守府将軍の紀広純が殺されたというのだ。これは大ごとだ。


人払いをした光仁天皇の夜の御座所に、山部皇太子と、大納言の石上宅嗣と、中務卿で中納言の藤原田麻呂がいる。陸奥から来た言上書を、宅嗣が皇太子に捧げた。

「紀広純は、肝沢を視察をするために帰順した蝦夷の兵をひきつれて、多賀城を出て伊治城に入りました。途中まで出迎えにきていた伊治これはる呰麻呂のあざまろが、彼らを案内して伊治城に用意した宴の席に通し、そこで紀広純と道嶋大楯を殺したと言上しております。

そのときに呰麻呂は人を集めて、長年の私怨しえんによって討ち取ったことを声明したようです」と藤原田麻呂。

式家の兄弟で、一人だけ残った田麻呂も五十八歳になる。

「紀広純は帰順した蝦夷だけでなく、朝廷軍も連れていたはずだ。

身辺も授刀舎人が警護しているはずだが、それでも身を守れなかったのか」と四十三歳になった山部皇太子。

「かれらは、殺されるか、逃げるかしたのでしょう」と田麻呂。

「つまり呰麻呂が一人で衝動的にしたことではなく、計画を立てて仲間を連れて行ったことなのか」と山部。

「広純を殺したあとで、呰麻呂は陸奥すけで副将軍の大伴真綱まつなと、陸奥じょうの石川浄足きよたりをつれて、陸奥国府がある多賀城に移りました」と宅嗣。

「二人を殺して北に逃げずに生かして国府に戻ったのは、なんらかの交渉でもするつもりだったのか」と山部。

「ただ捕虜となった陸奥の介と掾が、すきをみて多賀城から逃げました。

それを知った呰麻呂も、多賀城に火を放って消えてしまったそうです。

わざわざ人質を取って国府まで来たのですから、なにかの企てがあったのでしょうが分かりません」と宅嗣。

「人と金を消耗させる蝦夷討伐を縮小しようとしていた矢先だ。

交渉をしてくれれば、対応できたかもしれないのにおしいことをした。

消えたというのは、呰麻呂は逃げて追跡ができなかったということだな」と山部。

「そうでしょう。多賀城に努める役人の連名で書かれています。

内容からみて、伊治城まで同行したようすです」と田麻呂。

「陸奥は広大だと聞く。捕まえられるのか」と山部。

「これから追捕しても期待できません」と宅嗣。

「将軍が殺され副将軍は逃げて行方知らずだ。このまま見過ごすわけには行かない」と山部。

「つぎの将軍を送りますか」と田麻呂。

「状況を調べるために、まず征東せいとう大使を送る。だれが適任か」と光仁天皇。

「ここは上位の貴族に行ってもらったらどうでしょう」と山部が光仁天皇にたずねる。光仁天皇がうなずいた。

「太政官たちから選びますか?」と田村麻呂。

「わたしが、まいりましょうか」と宅嗣。

「その方たちは、ここで必要だ」と光仁天皇。

「今回は、討伐のための派遣ではない。

朝見のときに伊治呰麻呂を見たことがあるが、なかなかの男だった。

あの男が計画していて逃げたのなら、おそらく捕まらないだろう。

しかも私怨で殺したと声明したそうだ。私怨なら蝦夷が反逆したことにはならない。

ただ陸奥の現状は、早々に知りたい」と山辺。

「陸奥で何が起こっているのかを調べて、かたよりのない正直な報告をして、当面の処置ができ、陸奥まで行ける年齢の太政官でしたら、藤原是公これきみと藤原継縄つぐただがいます。二人とも南家で五十三歳です。

あとは北家の小黒麻呂がいます。小黒麻呂は四十七歳で、正直で一本気な男ですから信用できます」と田麻呂。

「どなたも適任ですが、わたしは継縄が良いと思います。

不遇時代に関東方面の国司を歴任していましたから、あるていど東国に慣れています。それに百済王俊哲しゅんてつが当初から従軍していますから動きやすいでしょう」と宅嗣。

「俊哲は、まだ若かったな」と山部。

「はい。三十代になったばかりのはずです。従軍したときは従六位下で、戦功によって正六以上と勲五等を授与しています」と田村麻呂。

「いかがでしょうか」と山部。

「よかろう」と光仁天皇。

「わたしのところに春宮亮しゅんぐうのすけとして、広純の副将軍をしていた佐伯久良麻呂が仕えている。

陸奥国のことを問いただしているが、どうも歯切れが悪く、このごろは体を崩してしまった。

久良麻呂は、生来は善良な性質をしている。隠さねばならない後味の悪い事情を抱えているように見える。

大伴駿河麻呂は、地方情勢を知るために按察使あんさつしとして陸奥に送った。駿河麻呂を送るまで、陸奥は租税を治めて朝見にきても穏やかだった。

ところが陸奥のようすを調べるために送った駿河麻呂が、蝦夷が反抗するから討伐軍を出して欲しいと言ってきた。

当時からあいまいな奏上で、いま考えると信用に値しないものだ。

ただ按察使の主帳を覆す理由もなく、駿河麻呂を鎮守将軍に任じて討伐軍を派遣した。

桃生城が襲われたのも、今回の呰麻呂の件も、蝦夷が目に見える形で反乱したのはあれからだ。

蝦夷にも反乱を起すだけの理由はあるはずだ。それを知りたい」と山部。

「わかりました」と田麻呂。

「宅嗣。田麻呂。

朕は体調がすぐれないゆえ、譲位じょういを考えている」と光仁天皇。

宅嗣と田麻呂が目を見張った。

「山部の即位に反対する者が多い。

ゆえに意識がはっきりしているあいだに生前譲位をする」と光仁。

「いつごろですか」と宅嗣。

「一年後を考えている。

そうなると当分は陸奥に関わる余裕はないだろう。できれば討伐軍も一度は引き上げたい」と光仁。

「これまで陸奥のことは念頭に入れてなかった。

まず蝦夷のわだかまりが、修復できるかできないかを知らなければならない。

それによって、いずれ対策を講じる。そのためにも今は正しい情報が必要だ」と山部。

「継縄を大使として送ることは朕が命じよう。

譲位のことは伏せるように」と光仁。

「かしこまりました」と宅嗣。

「では継縄と是公を召せ」と光仁。

中務卿の田麻呂が、継縄と是公を呼ぶために立ち上がった。

宅嗣も下がろうとしたら、光仁天皇が止めた。

「その方たちは同席するよう」

「陸奥からの言上が届いたあとで、だれが帝に召されたかを太政官たちはすでに知っているだろう。

継縄と是公を召したら、すぐに内臣の藤原魚名うおな参内さんだいの許可を求めに来る。継縄と是公には、いま話したことを二人から詳しく伝えて欲しい」と山部皇太子。

「譲位のことは、いかがいたしましょう」と宅嗣。

山部皇太子が光仁天皇を見る。

「伝えるように」と光仁天皇が言った。


蝦夷征伐のための征東大使は藤原継縄。副使には呰麻呂に捕まってから逃げて都に戻ってきた副将軍の大伴益立と、紀古佐美こさみがなった。

兵を集めて食料や武具を用意するための勅が、それぞれの担当地方に送られて討伐軍は都を立った。



長い矢が音を立ててまとの真ん中を射た。

夕陽に照らされると烏帽子から出た髪が金色に輝く若者が、高揚こうようした顔で道嶋みちしまの嶋足しまたりをふり向いた。

「スゴイな。嶋足にしか引けない大弓を引いた」と伊勢老人おきな

「やっと当てたか」と坂上苅田麻呂かりたまろ

「的が射れるようになったら、あの弓をやる約束だ」と嶋足。

「一度、当てたぐらいで弓をやるな。まぐれだ。自在に引けるようになってから、くれてやれ」と苅田麻呂。

四月はじめの嶋足の邸の庭には、馬酔木あしびの花のかすかな香りが漂っている。

牡鹿おじかから道嶋へと氏をかえた嶋足は四十七歳で正四位上。ふるさとに近い下総しもうさ(茨城県、埼玉県)国守をしていて、陸奥に兵士を補給していたが都に呼び戻された。

伊勢老人は四十三歳。従四位上で中衛中将をしている。

坂上苅田麻呂は五十二歳。正四位下で右衛士かみだ。

淳仁天皇が返納した内印と駅鈴をうばいに来た恵美巨勢麻呂や田村第資人を、授刀衛じゅとうえいの舎人だった三人が打ちとってから十六年が過ぎた。

すでに「恵美仲麻呂の乱」は昔話として語りつがれ、琵琶湖畔で活躍した官人討伐隊も、大将だった藤原蔵下麻呂くらじまろや、佐伯今毛人の息子で先行した討伐隊で活躍した佐伯三野をなど、亡くなる人がポツポツでてきている。


「殺された大楯は近親なのか」と苅田麻呂が聞いた。

「大楯の父の三山が、わたしの父の甥になる」と嶋足。

「伊治呰麻呂を知っているのか」と苅田麻呂が聞いた。

「名前だけなら知っている。わたしより若いはずだ」と嶋足。

「評判は?」と苅田麻呂。

「呰麻呂は人望があると聞いている」と嶋足。

「紀広純と大盾にうらみを持っていて犯行におよんだと報告されているが、私怨で人を殺すような男なのか?」と苅田麻呂。

「わたしも聞いてるが、これまでの話からから考えて、呰麻呂は私怨で参議を殺し国府を焼くほど、おろかな男だと思えない」と嶋足。

「私怨でなければ、なんなのだ?」と苅田麻呂。

「さあて、なんだろう」と嶋足か首を捻る。

「わたしにまで、とぼけるのか?」と苅田麻呂。

「いや、本当に、なんなのかと考えている」と嶋足。

「六年前に蝦夷が桃生城を襲いました。

桃生城を襲った海道蝦夷の拠点は、大伴駿河麻呂将軍が壊滅かいめつさせて捕虜を都に送ってきました。

それからも何度か小競り合いはあったけれど、いつも朝廷軍が勝って捕虜が都に送られて来ています。紀将軍に代わってからも、反抗した蝦夷は捕らえられて送られて来ます。

蝦夷の反乱は制圧された聞いていますが、ほんとうでしょうか」と伊勢老人。

「わたしも老人が言ったように聞いている。

ただ、少し違うのではないかと思うところがある。

わたしは牡鹿半島を本拠にして早くから朝廷に帰順し、重用されている蝦夷の血が入った移民の出だ。

海道蝦夷に入るのだろうが南の端に生まれたから、多賀城までは行ったことがあるが、桃生城の周辺の地理も知らない」と嶋足。

「そもそも、なぜ蝦夷は反乱を起した?」と苅田麻呂。

「朝廷と蝦夷のあいだに、蝦夷の土地は蝦夷が治めるという約束がある。

朝廷から国守を送らず、蝦夷の族長を群司にして土地を治めさせる決まりだ。

その代わり正月には族長が朝廷に挨拶に来て、戦をせずに大和朝廷に従うと誓う。

しかし黄金が出てから、朝廷は蝦夷の土地を直接支配しようと城を造った」と嶋足。

「恵美仲麻呂が造らせた雄勝城と桃生城と、称徳女帝が命じて造らせた伊治城のことですね。

でも、あれらの城は土地の族長の協力があってできたはずです。城ができたあとは、その族長が管理していると聞きました」と老人。

「造るときには協力した。殺された大楯の父親も協力して出世した。

だが城ができて、それを守るために都から兵士が送られて来た。城のまわりにさくが造られて、そこに都の移民が移り住んだ」と嶋足。

「柵ってなんです?」と老人。

「秋から春にかけての短い間だが、わたしも多賀城に赴任したことがある。

多賀城の政庁も、ほかの国府の政庁と同じで正殿しょうでん後殿こうでん脇殿わきでんが一町のなかに並んでいる。違うのは東西にろう(見張り台)があることだ。政庁の回りは築地塀でかこまれて、屋根はほとんどが瓦葺かわらぶきだった」と苅田麻呂。

「ほかの国府と同じですね。どこの国府も周りには役所があって、街道沿いに人が住み、その背後が田畑になっています」と老人。

「多賀城は、東山道のドンズマリだ。桃生城や玉造城などの他の城には街道が届いていない。

だから街道沿いに住居を造ることはなく、国府のまわりを外郭がいかくで囲んで居住地にしている。その外郭を柵という」と苅田麻呂。

「つまり都のようにですか?」と老人。

「そうだ。都のように外郭のなかは方丈に区切られている」と苅田麻呂。

「柵の中は、どれぐらいの広さですか」と老人。

「多賀城の外郭は方形でなかったが、百町(100ha)はあるだろう。

柵は築地塀や板塀でできていて、高さは都の宮城の外郭(5m弱)とおなじくらいだ。南と東西に門があり兵が守っていて、一部は湊に接している」と苅田麻呂。

「柵のなかに住んでいるのは、移民や朝廷が送った兵士たちと役人たちだ。

その地にくらしていた蝦夷は、柵の外に追いやられた。

族長の一族は郡司と認められているから柵の中に住む。

しかし兵や移民が、外の蝦夷の村を襲って娘を犯しても、若者をいたぶって殺しても、城をあずかる族長は手が出せない」と嶋足。

「なぜ?」と老人。

「交戦しないと誓った国から送られた兵や移民を、受け入れた側が処罰したらどうなる?」と嶋足。

「帰順した蝦夷は朝廷側の役人ですから、むずかしいですね」と老人。

「蝦夷は部族社会だ。

一人の族長が朝廷に逆らえば、それを口実に朝廷は蝦夷討伐を始めるだろう。

ほかの部族を巻き込まないためにもガマンするしかなかったのか」と苅田麻呂。

「もともと族長は自分の利益のためもあるが、戦を避けるために帰順している。

だから争うことをせずに十年も耐え忍んだ。

十年経ったら柵の外に住む蝦夷は、家畜かちくの扱いをされていた」と嶋足。

「十年というと、桃生城や雄勝城ができてから十年か」と苅田麻呂。

「そうだ。

今の帝が即位されたとき、待遇が変わるのではないかと族長たちは期待した。

だが帝が陸奥に按察使を寄こされたのは、即位されてから二年も経ってからだ」と嶋足。

「即位に事情がおありだった」と苅田麻呂。

「族長たちも知っていて、按察使あぜちが来たら兵や移民の所業を訴えようと耐えて待った。

ところが地方行政の悪いところを取り締まって朝廷につたえるはずの按察使が、兵士たちより酷かった」と嶋足。

「だれだ?」と苅田麻呂。

「大伴駿河麻呂将軍は、はじめ按察使として陸奥へ赴任したのですよ」と老人。

「按察使の駿河麻呂は、城門から中を覗いていただけの蝦夷の幼子を捕らえさせて、法を犯したと杖で殴り殺させた聞く」と嶋足。

「・・・」

「将軍になってからは、さらに酷くなった。

蝦夷が住んでいる村が襲われて、老人と女子供は殺され、男は反逆者として都に送られるようになった」と嶋足。

「蝦夷が反乱しているという駿河麻呂の奏上が都に届いたのは、その頃か」と苅田麻呂。

「桃生城を襲うまえに、蝦夷が反乱を起したと報告されている」と嶋足。

「話しが、ずいぶん違います。

大伴将軍は、はじめ蝦夷が帝の命を聞かないと奏上されました。そのうち、いまなら討伐できると言上されて将軍になられた。

そのあとで、蝦夷はコソコソものを盗むだけだと奏上されて、帝が報告に一貫性がないとお叱りになりました。

多賀城の外郭は一じょうしゃく(4.8m)ほどの高さがあります。桃生城や雄勝城も、多賀城と同じようなものですか?」と老人。

「地形はちがっても、外郭の高さは同じだと思う」と苅田麻呂。

「わたしなら、兵士が守っている外郭を越えて盗みに行きません。

その外郭を登っている間に見つかって、捕まる危険が大きすぎる。

ほんとうに蝦夷が米などを盗んだのでしょうか」と老人。

「じつは桃生城を襲った海道蝦夷の拠点と報告された、遠山村のことも腑に落ちない。

拠点というのは、何かを企むときに集まる場所のことだろう?」と嶋足。

「うん」と苅田麻呂。

「遠山村は桃生城より北上川の上流にある小さな村だと聞く。

襲うまえなら潜伏したかも知れないが、襲ったあとは北上川を使って下流に逃げれるのが普通ではないか。下流は海道蝦夷の本拠地だから保護してもらえる。

桃生城を襲ったあとで三ヶ月も留まって、朝廷軍に討ち取られたのか分からない」と嶋足。

「つまり関係のない村を討伐して、根拠地を壊滅したと手柄にしたと思うのか」と苅田麻呂。

「桃生城が襲われたあとで、多賀城も雄勝城も秋田城も蝦夷の攻撃を受けている。

各部族が一斉に立ち上がらなければ、こんなに大がかりな攻撃はできない」と嶋足。

「蝦夷が連動して動いていたのか」と苅田麻呂。

大墓たいものきみが若い者を送って多賀城を攻めさせたという噂もある。

そのあとで関係のない村が朝廷軍に襲われて滅び、男は反逆者として都に送られた。

だから大墓の若者たちは、村人を守るために見張り始めたという」と嶋足。

「タイモってっていうのは、どの辺りの蝦夷だ?」と苅田麻呂。

帰順した蝦夷の族長たちに、朝廷は支配している土地と同じ名を名乗らせている。

「山道蝦夷の大物だ。胆沢のあたりを何百年も支配してきた部族だ」と嶋足。

「胆沢って聞いたことがありますよ。

たしか伊治呰麻呂に殺された紀将軍が、城をつくりに行こうとした場所ですね」と老人。

「桃生城が襲われたあとで、蝦夷が一斉発起した。

こんどは多賀城と伊治城を焼かれた。このあと何が起こるのだろう」と嶋足。

「皇太子さまにお会いしたそうだが、いまの話しをしたのか」と苅田麻呂。

「真実は全てお伝えした。噂や憶測はお伝えしていないところもある」と嶋足。

「分かった。いま聞いた話しは人に言わない」と苅田麻呂が老人を見る。

「わたしもですよ! 嶋足さんは、いつまで、こちらにいるのですか」と老人。

「全ての蝦夷から嫌われているが、わたしは陸奥大国主おおくにぬしだ。

このまま都に留められると思う」と嶋足。

「家族は呼び寄せるのか?」と苅田麻呂。

「妻も子もない独り身だ」と嶋足。

「そうか。知らずにいてすまなかった。あの娘まで亡くしたのか」と苅田麻呂。

「道嶋の名は、蝦夷からは反逆者として恨まれている名だから重い。

息子も娘も、信頼できる家に養子にだした。

妻たちは子供と一緒に、下総で平穏に暮らしている」と嶋足。

「どこへいっても異端者あつかいか」と苅田麻呂。

「そういう立場に生まれただけだ。わたしは友に恵まれ妻子に恵まれた幸せ者だ。

苅田麻呂に娘はいるのか」と嶋足。

「二人いる。上の又子やすこは十六歳、下の登子とうこは十五歳だ。

男子は生まれるのだが上手く育たない。弓を射てるのは三男だ」と苅田麻呂。

「そろそろ連れ合いを探す歳ですね」と老人。

「老人には、十歳の惟子ただこと八歳の継子けいこという可愛い娘がいる」と苅田麻呂。

「娘たちは飯高笠目さんにあこがれていますから出仕させることになるでしょう。

アッ、また的を射抜いぬきましたよ。これで四本も的に当たっています。

あの大弓は、ゆずるべきですねえ」と老人。

弓を射ていた若者が、とくい顔で寄って来た。

奈貴王が亡くなるときに父親と一緒に庭で弓を射ていた苅田麻呂の息子で、二十二歳になる田村麻呂たむらまろだ。

体が大きく、髪の色が明るい茶髪で、とびのような深い青色の眼に色白の肌をしている。

「嶋足おじさん。今日から大弓を、わたしのものにしても良いですか」と田村麻呂が白い歯を見せて笑う。

「マダマダだ。しばらく嶋足は、ここに居るそうだ。

お前も任官まえで暇がある。せいぜい腕を鍛えてもらえ」と苅田麻呂。

伝説の勇者として語りつがれている三人のおじさんが、目元をなごませた。



六月二十六日。

去年の七月に亡くなった藤原百川の邸に、縁者たちが集まっている。

しばらく前から寝込んでいた久米若女の容体が、いよいよ危なくなってきたからだ。

若女の息子の百川の未亡人で、女官をしている三十八歳の藤原諸姉がいる。

百川と諸姉の間に生まれた十九歳の藤原旅子と、まだ五歳の帯子もいる。旅子は百川の裳が明ける一年後に、山部皇太子の夫人として入内じゅだいすることが決まっている。

伊勢大津の娘も百川の夫人で、六歳になる嫡男の緒嗣おつぐと、百川が亡くなった後に生まれて、のちに継業つぐなりと名付けられる二男を抱いている。

もう一人、十七歳になる娘で光仁天皇に入内した産子夫人もいる。

良継の未亡人の阿部古美奈もいる。百川の甥になる種継の娘で、十四歳の薬子くすこも来ている。諸姉と仲の良い姉妹の人数ひとかずもいる。

子供のころから内裏につとめ、宮中一の美貌の女官として和歌にうたわれた従四位下の久米若女は、この日の未明に嫁や孫や一族の女性に看取られて、息子の後を追うように六十八年の波乱の人生を終えた。

藤原式家の二世代目は中務卿の田麻呂しか残っておらず、三世代目の種継がようやく正五位下まで上がってきた。

良継は、娘は六人と恵まれたが、認めた息子は宅美だけで、すでに亡くなっている。

田麻呂には子がなく、百川の息子は六歳と産まれたばかりの赤ん坊だ。

蔵下麻呂は息子が多いが、上がまだ二十歳前後で官職につける年ではない。

種継も、長男の清成が十六歳だ。

式家は、すぐに官職につける二十代後半から三十代の男性がいなかった。



五月の末には蝦夷を滅ぼしているはずの討伐軍からは、六月の末になっても連絡がこなかった。

六月に征東大使の嗣縄を都に戻して、最初から従軍している百済王俊哲しゅんてつを陸奥鎮守府副将軍に任命し、皇嗣系官人の多治比たじひの宇佐美うさみを陸奥介にしたが、ヨロイを千りょうと綿入れの上着が四千領ほしいという要求が九月にきただけで戦闘の報告はない。

大伴駿河麻呂と紀広純が、度々、蝦夷軍と戦闘して勝利したと報告して捕虜を送ってきたことを考えると、討伐軍が一度も戦闘をしていないのは不思議な話だった。

年のはじめには備蓄米を貯めようとしていたのに、出費ばかりがかさむ。

九月には、参議の藤原小黒麻呂を征東大使に任命した。

十月二十二日には、「今年は討伐できません」という連絡が討伐軍から来た。


「どうすれば蝦夷討伐を終わらせることができるのか」と光仁天皇がなげく。

「なにをもって終りにするのですか。

嗣縄の報告では、多賀城のまわりに朝廷に反抗する者はいないそうです。

伊治城に立てこもっている人でもいれば、城を奪い返して勝利したことにできますが、いまは焼け跡でだれもいません。

つまり紀広純が報告してきた蝦夷の反逆軍がいないのです。

春になって討伐軍を伊治城に向かわせ、伊治城を再建すれば人々が納得するでしょうか?

とりあえず、この冬は多賀城や玉作城たまつくりじょうの跡地に駐留ちゅうりゅうさせて越冬させましょう。

余り、お気遣いなさいませんように」と山部皇太子がやさしくうなずく。

 


朝廷が支配している土地は、大きく五畿ごき七道しちどうに分けられている。

五畿は都を中心とした大和(奈良県)、河内かわち(大阪府東部と中央部)、摂津せっつ(大阪府北部、兵庫県東南部)、山背やましろ(京都府南部)、和泉いずみ(大阪府南部)の五つの畿内きないと呼ばれる国のことで、近いから土地柄や住む人を朝廷が分かっている土地だ。

七道は、五畿内から放射線状に延びる七つの官道に接する国を一くくりりにする。

七道の一つの東山道とうさんどうは山の道で、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県南)、飛騨ひだ(岐阜県北)、信濃(長野県)、上野こうづけ(群馬県)、下野しもつけ(栃木県)を通って陸奥国府がある多賀城(宮城県仙台市)に入って終わる。

多賀城より先の陸奥むつ(福島県、宮城県、岩手県、秋田県)は、まだ官道が通っていない道の奥(陸奥みちのく)になる。

七道と呼ばれる大きな官道は、十二メートル幅と広く平らにならされていて、ひたすら真っすぐに伸びている。これは歩きやすい。多賀城から先にも道はあるのだが、夏は草が生い茂り冬は凍結する細くてデコボコして高低がある悪路あくろだ。

つまり官道が通っていないところは、朝廷の支配が届いていない未開の土地だった。

伊治城(宮城県一関)は多賀城より北にあり、紀広純が城を造ろうとしていた肝沢(岩手県北沢)は、北上平野のさらに北に位置する。


「ワーォー!」とモレが吠えた。

「どうした。モレ」と先を駆けていたアテルイが手綱を引いて振りかえる。

「最高だよ。今日の光と空は。俺をスルッと飲みこんで溶かしてくれそうだ」とモレも馬を止める。

「全てを包んで育んでくれる、この自然は、だれのものでもない。

俺たちは、ただ生きているだけで良かったのになあ」とアテルイ。

「戦は避けられないのか」とモレが馬を並べてきた。

「朝廷は大軍を送ってきた。

今のとこは城の近くでの攻防戦が続いているが、いずれ遠征して攻撃してくるだろうよ」とアテルイ。

「帰ってくれないかな。二度と会わないでいられなら良いのに」とモレ。

「会わなければ忘れられるのか」とアテルイ。

「恨みをか?」とモレ。

「俺たちが多賀城を襲ったために、身代わりに反逆者にされて殺された村人たちの痛みもだ」とアテルイ。

「忘れられるなら忘れたい。忘れたいけどムリだろな。

あの村の長は、切れない刀で何度も切り込まれて首を取られた。

獣のように縮こまって死んでいた幼い子のうえに、泥の足跡がいくつも残っていた」とモレ。

「山が白くなった。十日もすれば平野にも雪が降る。

雪が積もれば、ヤツラは動かないだろう。

ともかくヤツラが俺たちの身代わりに、穏やかに暮らしている蝦夷の村を襲わないように見張りを続けよう。

そろそろ皆が集まってくる。行くぞ!」とアテルイが馬を蹴った。モレが白樺の木をぬって追いかける。

大墓たいものきみ阿弖流為あてるいは二十五歳。盤具ばんぐのきみ母礼もれは二十二歳。二人とも山道蝦夷の族長の息子だ。



十一月二十八日、文屋大市が七十六歳で亡くなった。

七十一歳の光仁天皇も譲位を急ぎ始めた。山部皇太子には、井上皇后と他戸皇太子を犠牲にして皇太子になったいきさつと、渡来系の母を持つというマイナス要素がある。皇位に立ったあとも安定はしないだろう。


蝦夷討伐に翻弄された一年の暮れに、夜の御座所で光仁天皇と山部皇太子が二人きりで酒を酌みかわしている。

僧網そうごうが奏上してきたことを聞いたか」と光仁天皇が言った。

「わたしに嫡子がいないから、即位のあとに立てる皇太子がないことを心配して、弟の早良さわらが希望したから還俗げんぞくさせたということですか」と山部。

「今は大安寺が預かっているが、早く親王宣下をして迎えにきてほしいと言っている」と光仁。

「早良も三十歳になりますか。

つぎの皇太子を望むほど、世俗的になったのでしょうか」と山部。

新笠にいがさの話では、子供のころと変わらないという。

物覚えがよく仏教の本にも通じているが、情感がないというのだ。

仏教の本はそらんんじているが、解釈して説法することができない。

新笠と会っても、子が母に示す情が感じられないそうだ。

そんな早良が、自ら還俗を願うと思うか」と光仁。

「寺が企てたのでしょうね」と山部。

「僧尼の数をへらせと命じて寺院を締め付けている。

僧網は、全国の寺が出す公験くげんの全てを調べるのは難しいと言い、そのあとで早良のことを持ちだした。

ようするに早良を皇太子にしたら、僧尼の数も報告すると条件を出したつもりだろう。

お前の子は幾つになった?」と光仁。

「息子の安殿あてなら六歳、娘の麻原あさはらは三歳です」と山部。

「安殿を宮中に召して、皇太子の嫡子だと認めたらどうだ。

嫡子がいれば、皇太弟を立てろとは言わないだろう」と光仁。

「幼い皇太子ほど危険な立場はありません。

安積あさか親王は成人を目の前にして不審な亡くなりかたをされましたし、他戸おさべ王も幼かった」と山部。

「おまえが言うな。

即位したあとで、直ぐに皇后と皇太子を立てないのか」と光仁。

「立てるつもりでしたが、良継と百川を亡くしてしまいました。

田麻呂は善良で、種継は位階が低い。式家は、ほかに男子がいません。

皇后と皇太子には強い後ろ盾がありません。

即位の後に、すぐに皇太子を立てるという決まりはありません。淳仁天皇も称徳天皇も、皇太子を立てないままでした」と山部。

「このままでは寺院勢力を押えられない。

このごろ、いかがわしい宗教に庶民が熱中しているが、あれにも寺院が絡んでいるようだ。寺は資金が豊富だ。なんにでも手を出すだろう。

成長したら安殿に譲るという条件で、一時的に早良を皇太子に立てたらどうだ」と光仁。

「子供のころと同じなら、早良は考えを変えるのがむずかしい子でした。

ずっと寺にいたから、わたしより僧の言うことを聞くでしょう。安殿に譲るかどうか分かりません。

帝。このくらいで酒は終わりにされた方がよろしいかと」と山部。

「このごろ寝つきが悪い。夢ばかり見て、夜中に何度も目が覚めるようになった」と光仁天皇。

「医師に薬を調合させましょう。寝不足がつづくと体にさわります」と山部。

浅眠せんみんを治す薬は、思考力が散漫さんまんになるから飲みたくない。

いいか。山部。わたしに残された時間はわずかだ。

蝦夷討伐にかかる費用と気候不順の不作で、飢餓で亡くなる人々がいる。

不安が高まるなかで、呪いや男女の睦み合いを儀式にする怪しげな宗教に民衆は熱中している。

このままでは寺院に扇動せんどうされて、民が暴動を起してもおかしくない。暴動が起こったら、守らなければならない民を取り締まることになる。

早良を皇太子にすれば一時的に抑えられるだろう。皇太子のことは、よく考えるように」と光仁天皇が言った。


光仁天皇は、この年の暮れと、つぎの年の正月の短いあいだに、異例の二回の昇位をさせて、左京大夫をしている藤原式家の種継を正五位下から従四位下に取り立てた。



七八一年。

元旦に光仁天皇は、伊勢の斎宮の上に美しい雲がでた祥瑞しょうずいを発表して元号げんごうを変え、大赦たいしゃ(罪人を許すこと)を行い、譲位が近いことを知らせた。

二月十七日に、光仁天皇の娘で、山部皇太子の同母の姉になる能登内親王が四十八歳で亡くなった。最初の造東大寺長官をしていた市原王との間に生まれた五百井いおい女王と五百枝いおえ王を残しての他界だった。

三月十日には、女官の長官である尚侍をしていた大野仲千も亡くなった。

一年前に焼かれた陸奥国府の多賀城の再建が進んでいる。そのむかし多賀城を築いたのは、仲千の父の大野東人だった。


去年の九月に新しく征東大使に任じられた参議の藤原小黒麻呂が、陸奥へ出立した。途中で徴兵を集めて、陸奥に着くころには総勢四千人以上になるはずだった。


三月末の夜。

光仁天皇の寝所に山部皇太子がいた。

「お目覚めですか」と山部皇太子。

能登内親王が亡くなってから、光仁天皇は気が落ちたのか夕餉の後でストンと寝ることが多くなった。一時、眠ると目覚めて、今度は寝付きが悪く未明まで眠れない。

「いたのか」と光仁天皇。

「はい」

用を足して温い白湯を飲み干したあとで、光仁天皇はつき添っていた侍従を下がらせて山部皇太子と二人きりになった。

山部皇太子が光仁天皇の左手をさすり始めた。天皇は中風を煩っていて、左半身がマヒして震えが起こる。それが歳とともに酷くなってきた。

「覚悟はできたか」と光仁天皇。

「はい。早良を皇太弟に立てましょう」と山部。

「思っていた以上に、この地位は大変だ。

駿河麻呂が奏上してきたときに蝦夷討伐を命じなかったらと、つくづく思う。

いや、それ以前に、行きたくないと断ってきた駿河麻呂を、鎮守府将軍として陸奥に送らなければ良かったのだ。

あれの最初の奏上は、討伐を止めてもらって都へ帰りたかったから出したのかもしれない。だから討伐軍が派遣されると知って、あわてて蝦夷は盗みをするが被害は大きくないという報告を送ってきたのではないかと思う。

だが一度出した勅を、改めるわけには行かない。

民の暮らしが安定することを願っているのに、取り返しの付かない勅を出してしまうことがある」と光仁天皇。

「わたしが支えになれませんでした」と山部。

「なあ、山部。

わたしが死んだら葬儀に花はいらない。竹を飾って欲しい」と光仁天皇。

山部が目をそらした。

「なんだ。いい歳をして、親が去るのが哀しいか。

親が先だつのは自然の成り行きだ。わたしは充分に生きて疲れた。

死んでからまで世事に関わりたくない。竹で飾って送り出してくれ」と光仁天皇。

「昔を思い出されたのでしょうか?」と山部。

「竹林に囲まれて暮らしたかった。ときどき訪れる友と酒を酌み交わす」と光仁天皇。

「竹林の七賢しちけん(七人の賢者が竹林で気ままに生きたという古事)ですか。どなたが集うのでしょうか」と山部。

「さあて・・・」

文室浄三ふんやのきよみさん。文室大市おうちさん」と山部。

「吉備真備と、百済王教福」と光仁天皇。

「あとの二人は?」

「中臣清麻呂と、藤原永手ながてか」と光仁天皇。

「大中臣さんは、ご存命です」

「どうせ、すぐに来るだろうよ。

死しては俗世を忘れ、杯を交わして友と語らい、思う存分たわむれたい。

山部。おまえは神経が細かくて心根が優しい。おまえには皇位が辛いだろうが、おまえがいなかったら、わたしは皇位を引き受けなかった」と光仁天皇。

「竹林で戯れながら見ていてください。

先達せんだつたちの思いを継いでみせます」と山部。

「大変なものを、引き受けさせてしまったな」と光仁天皇。

「父上がおられたから、わたしがいます。父上の血は、これから先の皇系としてつがれていくでしょう」と山部。

「安殿一人しか皇子がなく、心許ないが」

「百川の娘の産子夫人や、永手の娘の曹司夫人とのあいだにはできませんでしたが、父上は六十を過ぎてから、若い女儒とのあいだに、わたしの六弟をもうけられたでしょう。

わたしは父上に比べれば、まだ若い。これから子も増えるでしょう。

そういえば、あの六弟はどうしましょう。親王と認められますか」と山部。

「まかす。母方に力がない。本人の器量に合わせて生きやすいように計らってくれ」

「兄の開成は?」

「本人が親王宣下を断ってきた。やりたいことがあるから僧として静かに生涯を送りたいそうだ。

子供の中では開成だけが、好きなことをしながら穏やかに暮らして行くのだろうな」と光仁天皇がしみじみとつぶやいた。



四月三日。

光仁天皇が譲位の詔を出した。

「体調がおもわしくない。ますます高齢となり、余命いくばくもなくなってきた。

そこで天皇位から去り、しばらくの間でも体を休ませようと思う。そこで皇太子と定めている山部親王に、天下の政務を授けることにする。

子を知るものは親にまさるものはないと言うが、この親王は幼少のころから、朝に夕にちんに従って、今日にいたるまで仕えてきた。

朕は神の身として、憐れみ深く孝行な親王だと知っている。ムカデは死んでもひっくり返らないのは、多くの支えが助けるからと聞いている。

みなの者は、この親王を助け導き、天下の民を慈しみ養うべきである」

そして神器じんぎと内印と駅鈴を、内裏で山部皇太子に授受じゅじゅした。

四十四歳の山部皇太子は、この日に光仁天皇から践祚せんそされて桓武かんむ天皇となった。

これは、いままでの譲位や即位とは異なるやり方だ。

これまでは新天皇が即位するときには、朝堂院に集まった官人たちの前で、大極殿で退位する天皇が譲位の詔を出して、神器、内印、駅鈴の譲与を行った。そのあとで新天皇が即位の詔を出した。桓武天皇は、これを行わずに天皇になった。

そして、この日に桓武天皇は東宮を引き払って内裏に入った。

次の四月四日に、新天皇の詔で早良親王が皇太弟と定められる。

早良皇太子の東宮傅には、嫡子の安殿王の後ろ盾となる中納言の藤原田麻呂が任命され、春宮しゅんぐう大夫には参議で左大弁の大友家持が任じられた。


四月十五日。

践祚から十四日後に、朝堂院ちょうどういんに官人が集められた。

太鼓の音とともに、官人たちが朝堂院に入って整列する。

大極殿の前には、真ん中が烏をかたどった銅烏幢どううとう。東に太陽の日像。朱雀旗、青龍旗。西に月の月像、白虎旗、玄武旗と、高さ約九メートルの宝旗ほうとう(旗竿)が並べられている。

大極殿におかれた高御座たかみくらには、まだ御帳みちょう(たれ幕)が降ろされている。

朝堂院に官人が整列すると、大極殿で待機していた十八人の奉翳はとりの女嬬にょじゅが一斉に、天皇の姿を隠すために高御座の前にさしばをさしかける。翳はうす布を張った長い柄がついた大きな団扇のようなもので、さしかける翳のうち六本が3.6mで、残りの十二本は2.7mの高さがある。

翳がさしかけられている間に、褰帳命婦けんちょうみょうぶが高御座の御帳を開く。

すると袞竜こんりゅうの御衣を身につけて冕冠べんかん(五色の宝玉を垂らした冠)をかぶった桓武天皇の姿が現れる。

朝堂院に官人が整列するまえに天皇は高御座のなかに座って準備していて、御帳を開くと忽然と現れるという手はずになっている天皇出御のいわばイルージョンだ。

朝堂院に並んだ官人が、一斉に腰を曲げて拝礼する。

右大臣の大中臣清麻呂が、朝堂院の官人たちの先頭の真ん中に立ち、天皇のみことのりを読みあげる。

宣命体せんみょうたいなので、ほかの天皇の即位の詔と大きく変わりないが使われる天皇名は皇位を譲った光仁天皇と、始めて律令を定めた天智天皇だけになった。天智天皇から孫の光仁天皇へ、そして桓武天皇へと天智系の継承が頭に残り、天武天皇から草壁皇子系の皇位継承は薄れた。そして、この詔の中に、「天下の政をに行えるものと信じている」という言葉がすでに使われている。

宣読せんどくがおわると、官人たち「おう!」と声を上げて拝礼する。

そして高御座の御帳が閉じられ、かねが鳴らされて官人の退出がはじまる。


平城京の大極殿と朝堂院は最初に作られたものより小ぶりで小さいが、間に築地塀があり南門だけが開けられている。官人たちは朝堂院から南門を通して大極殿を仰ぎ見ることになる。ただし大極殿の中の高御座に座っておられる天皇の姿は、ほとんど見えない。この隔たりこそが、天皇の位地を示していた。

光仁天皇の在位中は侍従や中務卿として、後には皇太子として桓武天皇はいつも光仁天皇の側に影のように付き添っていた。見慣れているはずなのに、強い活気を発散させて鋭い眼差しで南面を見下ろす桓武天皇は、天下に君臨する大きな存在となった。


この日の詔で、高野新笠は皇太夫人こうたふじんになった。

このあと桓武天皇は中宮職ぢゅうぐうしきという役所を設置して、参議で宮内卿の大伴伯父麻呂を中宮大夫に任じる。

皇太夫人となった新笠は、内裏の後宮から中宮院に移った。

しかし皇后や夫人や、桓武天皇の子である親王と内親王の宣下せんげや叙位は、この日にも、それからもない。

皇太子として九年も過ごしているのに、多くの官人は桓武天皇の性格や私生活を把握できていなかった。立坊の経緯と卑母をもつ庶子という噂で勝手なイメージが先行して、反発したり見下げたりしていたせいもある。

新天皇は四十四歳になるのに子供も夫人もいない。皇太子に立てたのは、これまで宮中行事に参加したこともなく親王宣下もされていなかった同母弟だ。

これは、つかみどころがないというか、得体が知れない天皇が立ったことになる。

即位に伴う地方官の任命は行われたが太政官や高官に変動はなく、京家の浜足が大宰帥を兼任することになった。

高官が移動しなかったので、新天皇が即位した後も政務はとどこおりなく行われた。



六月一日。

即位から二ヶ月が過ぎて、桓武天皇の詔がでる。

「はじめ帝王が百官を置くのに人材を考慮して能力のある者を任命し、定員には限りがあった。しかしその後は政務が多くなって、劇しい仕事には程度に応じて定員外の職員が置かれるようになった。その習慣も改めず、近ごろは、ますます、職員をふやす傾向が広がっている。

これを例えれば、十頭の羊を養うのに九人の牧者を用いるようなものである。人民が弊害を受けるのは、まさにこのためである。

朕は皇位を受けてするにあたり、人民をそこなう害を除き、心静かな生活と長寿を恵みたいと思う。

そこで、内外の文武の官で定員外の者は、すべて解任する。

また、在外の国司は法も怖れず、ほしいままに民から利益をあさっている。今後、内外の官人で、生き方が清廉で慎み深く、公正に事務を処理するものは、管轄の官司が詳しく調べて地位の高い官職を与えよ。欲が深くて残酷で、勤務状況が乱れている者は、調査して官位を下げよ」


これが、桓武天皇の個性を反映する最初の詔で、じつに事務的で明快だ。

恒例では即位したあとの、ちょうどこの辺で、民にも恩恵を与えるという名目で大赦の詔が出されていた。それを人民が障害を受けるからと、桓武天皇は詔だけで官人をリストラしてしまった。

皇太子のときは目立つ言動をせずに臣下のごとく仕えていたのに、新天皇は全官人たちのまえに諸手を広げて立ちはだかった。

光仁天皇の政策を継いだ新天皇は親政を執るつもりだ。こうなると井上内親王と他戸王を毒殺したという噂の怖さまでが、断固とした詔の味方になった。



「来ていたのか」と光仁太上天皇の寝所の前まで来た桓武天皇が声をかけた。

「いま休まれたばかりだから、わたしは引き上げるところ」と、ちょうど部屋から出てきた酒人内親王が答える。

「しばらく、そっちには行けない」と桓武天皇。

「即位したから、これからさきズーッと勝手な外歩きなどできないわよ。

お父さまに用だったの?」と酒人。

「いや。眠っておられるのならいい。これから帰るのか」と桓武。

「なにかあった?」と酒人。

「ちょっと寄ってくか?」と桓武天皇が内裏の寝殿に酒人を誘った。

「お酒のお支度をしましょうか」と出迎えた女官が聞く。

「たのむ。酒人。これが百済王明信だ。

なんでも気兼ねなく話して良い」と桓武天皇が紹介した。

「お兄さまの腹心の女官ね。

それで、お父さまの意見を聞きたいようなことでもあったの?」と酒人。

「陸奥から上奏文が来た」と桓武天皇。

「なんて?」と酒人。

「陸奥按察使の藤原小黒麻呂が、蝦夷討伐軍を勝手に解散した。

それを太上天皇に、ご報告するつもりだった」と桓武。

「勝手にって、どういうこと?」と酒人。

「なにかの切っ掛けがないかぎり、父上の勅で始まった蝦夷討伐を打ち切ることはできない」と桓武。

「そうね」と酒人。

「いまは官人と僧尼の数をへらそうとしているときだ。

官人たちの反発が大きい。まずは官人を掌握することが肝要だ。

少しの揺らぎも見せてはならない。優柔不断な動きは避けるべきだ。

蝦夷討伐は出費がかさむが、幸いに朝廷の兵の被害が少ない」と桓武。

酒人内親王が眉をひそめた。

「勝手に軍団を解散をした小黒麻呂たちを叱責して、しばらく様子をみよう」と桓武。

「どういう理由で、小黒麻呂は勝手に解散したの?」と酒人。

「こうやって飲みながら口にだしてみると、もっともらしい」と桓武。

「ねえ。お兄さま。なぜ勝手に解散したのよ!」と酒人。

「集められた兵士は四千人以上です。兵士たちを養う兵粮ひょうろうだけで国の大きな負担になります。それを理由に、先月の二十四日付けの奏上書で小黒麻呂が、五月中に返答がないときは軍を解散して兵士を故郷へ戻しますと言ってきました」と明信が説明する。

「文書をやりとりして、五月二十四日に出した文の返事が五月中に戻るほど陸奥は近いの?」と酒人。

「いいえ。その奏上文は、さっき届きました。今晩は六月一日です」と明信。

「それじゃ脅迫じゃない? 小黒麻呂って、そんなに面白い人?」と酒人。

「一本気で真面目すぎるほど真面目で、笑う姿を見たことがない堅物です。

そこが面白いといえば、面白いかも知れません」と明信。

「可愛いかもしれない」と酒人。

「くだらない!」と桓武。

「小黒麻呂にやらせたんでしょう。征夷討伐戦争を中断させるために!」と酒人が桓武を睨む。

「そんなに見え見えか? 朕の指示だとすぐにバレるか?」と桓武。

「でも討伐を休止するのには、良い手よ。

このまま蝦夷討伐を終えてしまえば良いのに」と酒人。

「今回のことで、やっと陸奥の状態を調べはじめた。

太上天皇の即位のあとで、陸奥の人は陳情しようとしていた。そのときに戻れたら、血を流すことなく合併する道を探せたかもしれない。

それなのに、わたしは、幽閉した井上内親王さまが亡くなられる日を計算していた。

するべき大事があったのに、父上の助けにならなかった」と桓武。

「戦を避けられないの?」と酒人。

「東国の人々が受けた仕打ちは、あまりにも酷い。

聞いて吐き気がした。恨まれて当然のことをしてしまった。

すべての非は朝廷側にある。わたしの手落ちだ」と桓武。

「共存する道を探せないの」と酒人。

「犯した罪に悔をもち、山部だったら和解の道をさがそうとするだろう。

だが玉座に座るのは人ではない。統括者だ。

わが国は島国だ。一つの島のなかに、われらに深い恨みを抱く異人種を置いてはおけない。いずれ東国を制覇しなければならない」と桓武。

「・・・ねえ。飲もうか」と酒人。

「明信。用意してくれ」と桓武。

「はい。わたしは下がりますか」と明信。

「ああ、下がれ」と桓武。

「一緒に飲もうよ。明信」と酒人。

「では、お言葉に甘えましてご一緒させていただきます。

帝。明日の朝になると内臣の魚名がやってきて、東征に対してあれこれと提言します」と明信。

「あれの話しは、本筋を狂せるだけだ。

大中臣清麻呂が退官すれば、見識けんしき見解けんかいも劣る魚名を大臣に取り立てなければならないのか」と桓武。

「公卿の任官は年功序列ですから、仕方がありません。

今回は北家の黒麻呂が起したことですから、いつもにまして古例を並べ立てて身の安全を図るでしょう。それに浜足が、訳の分からぬ追従をします。

いまのごようすでは、言いたいことを口にして、酔い潰れて早寝されたが良いでしょう。ご相伴しょうばんさせていただきます」と明信。

「娘とわたしの女房たちが、お義母さまのところにいるの」と酒人。

「分かりました。お伝えしておきます」と明信が支度のために離れた。

「酒人。伊勢の斎王さいおうを決めなければならない」と桓武。

「分かっている。父親としては体の弱い娘をやるのは辛いが、統括者としては朝原しか内親王がいない。でしょう?」と酒人。

「朝原のようすは、どうだ?」と桓武。

「それなりに元気よ。しばらくは、お義母さまのところにいる」と酒人。

「ヒマを見つけて会いに行く」と桓武天皇が言った。



六月十五日に、桓武天皇は「太宰帥で参議で侍従兼任の従三位の藤原浜足は、歴任した官職において善政を行ったという評判を聞かない。今らしめて慎むようにさせなければ、どうして今後の活躍を期待できよう。よって降格して員外いんげの太宰帥として太宰府に送る。事務には関係させないようにせよ」と、太宰大弐だいにをしている佐伯今毛人いまえみしのもとへ京家の藤原浜足を送った。

藤原氏の太政官の中から人とのつき合いに問題がある浜足を選んで、桓武天皇は勤務状況が乱れている者への見せしめとして降格させた。

浜足が選ばれたのは、娘が氷上川継の夫人だからだ。桓武天皇は不平をもつ官人のより所となる、聖武天皇の外孫の氷上川継の周りを刈り取ったのだ。

光仁天皇は、重要なことを決めるときは魚名を呼んで伝え、太政官たちに根回しさせて奏上させた。天下に君臨すると詔した桓武天皇は、太政官に奏上させることなく詔勅だけて断定してしまう。

光仁天皇がはじめた寺院と官人の縮小は、桓武天皇によって強力に推し進められそうだ。

光仁天皇が井上内親王と他戸王を廃してまでも、後継者として桓武天皇を選んだわけを、ようやく官人は理解した。


浜足を更迭した六月に、参議の太政官で南家の乙縄が亡くなった。

そして六月二十四日には、またまた大切な人が離れていった。

去年から大納言をしていた石上いそのかみの宅嗣やかつぐが、五十二歳で逝ってしまったのだ。

大臣は大納言から選ぶ。いずれ大臣として一緒に国を支えてくれると思っていたのが、藤原百川と石上宅嗣だ。この二人の早すぎる死は、桓武天皇にとっては身ぐるみを剥がされるようなできごとだった。

即位も見ずに百川が去ったときは、ただ哀しかった。

宅嗣が亡くなったと知らされたときには、哀しみより先に凍り付くような寂しさにとらわれた。文室浄三や吉備真備は七十歳を過ぎても元気だった。どうして有能な二人に、天は充分な時を与えてくれなかったのか・・・。

能力のある官人は育ってきているが、かれらは桓武天皇が引き上げて引っ張ってこそ力を出せる。百川と宅嗣は違った。同じ方向を向いて一緒に歩いてくれていた。


石上宅嗣は仏教に帰依して、邸を阿閦寺あしゅくじという寺にしていた。

その一角に芸亭うんていという儒教に関する蔵書を多く集めた院をつくり、読みたい人が誰でも読めるように解放していた。

「仏教と儒教は根本は一体である。斬新的であったり極端であったりする違いはあるけども、うまく導くなら同じである。この場所は仏教就業の寺院であって、修業のさまたげとなることは何事も禁じ戒めねばならない。どうか同じ志を持ってここに入ったものは空か有かと論じて滞ることなく、あわせて執着の心を離れるように。また世々来る者も世俗の垢や苦労を超越して、悟りの境地に入るようにと願うものである」 

父の罪を背負って生きた宅嗣が、芸亭に掲げた約束事だ。人柄をよく表している。


即位して、まだ二ヶ月。桓武天皇は一人で官人たちに立ち向かうことになった。




             太上天皇 光仁太上天皇

               天皇 桓武天皇

              皇太子 早良親王

             皇太夫人 天野新笠皇


          太政官(右大臣)大中臣清麻呂・辞意

              内大臣 藤原魚名  北家

              大納言 石上宅嗣  死去

              中納言 藤原田麻呂 式家

              中納言 藤原継縄  南家

               参議 大伴伯父麻呂

               参議 藤原浜足  京家 左遷

               参議 大伴家持

               参議 藤原小黒麻呂 北家

               参議 藤原是公  南家

               参議 石川名足

               参議 紀広純   刺殺

               参議 神王

               参議 藤原乙縄  南家 死去



藤原式家

     田麻呂(中納言)

   故・清成――――――ーー――――種継

   故・百川―――――――――――緒嗣

                  旅子  

                  産子 光仁天皇夫人

                  帯子

   

                  諸姉

                  人数

   故・良継―――――――――――乙牟漏

                   ‖――――――――――安殿親王

高野新笠              桓武天皇

 ‖――――――――――――――――早良皇太子       

光仁天皇              能登内親王―――――――五百枝王         

 ‖                            五百井女王

 ‖――――――――――――――――酒人妃―――――――――朝原内親王

故・井上内親王            ‖

                  桓武天皇            


藤原北家 

   故・鳥養―――――――――――小黒麻呂 征東将軍

     魚名―――――――――――鷲取

                   ‖

                  人数 式家良継娘


藤原南家                    

                百済王明信 女官

                   ‖

                   ‖

   故・豊成―――――――――――継縄  太政官 

   故・乙麻呂――――――――――是公  太政官

                   ‖

   故・橘佐為―――――――――橘真都我 女官


藤原京家

   故・麻呂――――――――――浜足―――――――――――娘

                              ‖                聖武天皇―――――――――――――不破内親王        ‖  

                   ‖―――――――――氷上川継

               故・塩焼王

 

                 高麗福信

               故・奈貴王

                 坂上苅田麻呂――――――田村麻呂

                             又子

                             登子

                 伊勢老人――――――――継子

                             惟子

                 道嶋嶋足

         

                 伊治呰麻呂

                 アテルイ(大墓公阿弖流為)

                 モレ(盤具公母礼)



 







 








 























 

















 





 








元(めもと)を和(なご)ませた。








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