第4話
芦屋律の所属は調査部第五ブロック。
「次はこの人物の調査をお願いね」
ブロックリーダーから渡された資料に書かれた名前は小林祐那。男の妹を調査したのが佐久間だったのに対し、祐那を調査したのは律だった。
誰かがchAngelを購入した時、その人のもとに薬が届き入れ替わりが完了するまでの流れの中で調査部が果たす役割は二段階ある。
まず第一段階は顧客の身辺調査。その人物がどこに住んでいて、どのような交友関係をもっていて、何をしているのかなどを調査する。調査内容をまとめた報告書はマッチングの際に利用される。それ以外にも入れ替わった後、その人が周りに違和感を感じさせることなく生活を送れるように本人にその報告書を渡す場合もある。
その後、役割は一旦調査部の手を離れ、マッチングシステムが入れ替わり相手を決定する。
第二段階はそのマッチングの可否の最終決定である。自分の担当と入れ替わる相手の人物を調査して、その人物が担当の入れ替わり相手として適切かどうか判断する。その結果をうけて開発部が薬を作り、発送する。そのため薬の購入からそれが実際届くまでの期間は人により異なっていた。
律が祐那の第一調査を行ったのは二ヶ月前のことだ。担当と同じ学校に通っていれば、かなり近くで直接調査をすることができる。学校という閉鎖空間で大半の時間を過ごす学生が調査対象の場合、大人がそこに近づくことは難しく、律にとって学生であるという身分は仕事をする上でとても役に立っていた。入学して以来、律の担当となる人物は同じ学校に通う人物である場合がほとんどだった。
律の部活の先輩である実と祐那が親しく、実の近くにいれば自然と祐那の情報も入ってくるというのはさらに幸運なことだった。しかし調査を進めていくにあたり、祐那がなぜchAngelを使おうと思ったのか、その理由が律の中ではっきりと浮かび上がる。その一つの要因が実の存在だった。皮肉なものだ、と律は思った。
第二調査において、律は佐久間の担当の様子を調査しに行った。彼女の様子を見て思う。確かに彼女は祐那の望んだものを持っているが、それ以外に関しては明らかに祐那の方が良い物を持っていた。特にその生活環境は比べものにならないものであった。
律は調査部での仕事を通じて、chAngelの一つの欠点を感じていた。それは望むものを願うことはできるが、望まないものを願うことはできないということである。手にすると同時に失うこともある。それがこの薬の欠点であり、恐ろしいところだなと律は思っていた。
他の部署と比べて、調査部の人間はchAngelの使用者と接する機会が多い。他の部署では、人と全く関わることのない人もいるくらいである。
その人達と比べると調査部のメンバーは非常に人間的であると律は個人的に思っていた。高山が佐久間の意見を初めははねのけようとしたのは、その職務を全うするためである。サブとは言えブロックのリーダーを務める人間が組織の守秘義務に簡単に背くことは許されることではない。依頼を行う際に、顧客の情報をどの程度他の部署に明かすのか、それを決定する権限を高山が持っていたとしてもそう簡単に全てを伝えるという選択肢を取ることはできなかった。組織と使用者の間に立つのは心が痛むこともある。
放課後、咲花と美智子と実と祐那はジャンボパフェを食べにカフェに来ていた。お店は実が言っていた通り、学校の近くにありとてもオシャレだ。店内は涼しくソファは座り心地が良い。
「ジャンボ以外にもめっちゃ種類あるじゃん」
四人掛のテーブル席に案内され少ししてから店員を呼ぶベルを押した後、メニューを眺めていた実が声を上げた。隣に座る祐那にもメニューを見せる。二人はどのパフェが一番美味しそうか議論し始めた。
隣同士に座った咲花と美智子は二人を眺める。テーブルの上の、咲花の横には赤いカメラが置かれている。それこそが芦屋から受け取ったカメレオンだった。
カメレオンの形状はごく普通のカメラと変わらない。説明書に書かれていた使用手順によると、まずカメラの電源を入れる。次にモード選択でKと書かれたボタンを三回連続で押す。するとカメレオンが起動するという簡単なものだった。
シャッター以外の別のボタンを押すと、そのモードは解除される。Kボタンを押さなければ普通のカメラとして写真を撮ることも可能だった。
組織の情報端末は全てネットワークで繋がっているがこのカメラはそこには組み込まれていない。そのため撮った写真が組織に勝手に転送されることもなく、普通に新しいカメラを手に入れたようなものだ。
「私はフルーツパフェかな」
祐那がメニューを指ながら実に話しかける。
「確かに、乗ってるフルーツの種類やばくない?」
「すごい豪華だよね」
二人が顔を寄せ話していると、店員が注文を受けにテーブルにやって来た。
「ジャンボパフェ一つで」
実が元気よく注文する。それにつられて店員さんも笑顔を見せる。
「ジャンボパフェ一つですね。ドリンクはいかがでしょうか」
祐那がメニューをめくりドリンクのページを開く。
「どうする?」
「アイスティー一つ」
美智子が答える。
「私はミルクティーで」
「咲花はミルクティー好きだよね」
「だって一番美味しいから」
「アップルジュース一つでお願いします」
祐那が答える。
「うちはどうしよっかな。あ、この苺ミルクで」
最後に実が注文したのは一番人気と書かれたドリンクだった。
「これから甘いもの食べるのに、こんな甘そうなので大丈夫なの?」
美智子がメニューに載せられた苺ミルクの写真を見る。
「大丈夫、大丈夫。甘いものには甘いものでしょ」
実は正面に座る美智子に向かって親指を立てた。
「ご注文の確認をさせていただきます。ジャンボパフェがお一つ、アイスティーがお一つ、ミルクティーがお一つ、アップルティーがお一つ、苺ミルクがお一つでよろしいでしょうか」
「おっけーです」
代表して実が返事をすると、店員は去って行った。
「ジャンボって響きが良いね。変に洒落た商品名じゃなくて、素な感じがして」
美智子が窓の外に貼られたチラシの、反対向きのジャンボパフェという文字を眺めている。
「すごい、大きいよって感じが伝わるよね」
実が身振り手振りでその言葉の印象を表現する。
再び戻ってきた店員が運んで来たのは大きなガラスの容器に入れられたパフェ。下から順にチョコとアイスとクリームとシリアルとジャムが層をなし、一番上にはバナナ、オレンジ、キウイ、イチゴ、パインというフルーツがたくさん盛り付けられ、さらにはまるまる一個のプリンとチョコがかかったシュークリームが二つ乗せられている。
「これはすごい」
咲花が思わず口にした。
「すごい美味しそうだね」
祐那が言う。みずみずしいフルーツが輝いて見える。
「まずは写真撮ろうよ。これは絶対収めておかなきゃ」
実が咲花より先に赤いカメラを指さし提案した。
咲花は試しにパフェだけを普通のモードで撮影してみる。シャッターを押すと、問題なく写真が取れた。
「そのカメラってスマホにも画像送れるの?」
「できると思うよ」
「なら後で送って。絶対スマホより画質良い気がする」
実がカメラの画面に表示されているパフェをのぞきこみ言った。返事をしながら咲花はKボタンを三回押す。
通路側に座っていた咲花は手を伸ばし、画面に祐那がしっかり写るように構えた。
「はい、チーズ」
シャッターを切ったカメラを手元に引き寄せる。そこに写る祐那の首を見て、美智子と目を合わせる。
「どんな感じ?」
実がテーブルに身をのりだし咲花に尋ねる。
「私が変な顔になったから今のはなし。もう一回ね」
咲花は祐那の首が光ったその写真をすぐに削除する。何ともない風を装って普通のカメラに切り替えもう一度構える。
「撮るよ。はい、チーズ」
カメラのシャッター音が四人の笑顔を切り取った。
「今度は良い感じに撮れた?」
「うん、すごく良い感じ」
咲花と美智子はその写真を見て微笑む。仲の良い四人が写っている。たとえそれぞれの関係性が今までとは違うものになっていたとしても、友達であることに変わりはない。そんなことを教えてくれるようだった。
「うちらにも見せてよ」
咲花は実と祐那にも今撮った写真を見せた。
「素敵な写真だね」
祐那が言った。実もそれに同意する。
「それじゃあ、さっそく食べようか」
実がスプーンを持って構える。
「これ、上に乗ってるフルーツとかは早い者勝ちってことで良い?」
真剣な顔をして、三人に確認を取る。
「いいよ。好きなだけ食べなさい」
「そうそう、がっつくのはこの中だと実だけだから」
咲花と美智子がその真剣な顔を見て笑う。
「祐那も好きなの選んどかないと、実に全部食べられちゃうかもよ」
「それは困るなあ」
「二人して何なの。うちだって譲り合いの精神くらいは持ってるよ」
実が声を上げる。
「それじゃあ、このシュークリームはいただきますね」
「私はイチゴをもらうね」
「それなら私はオレンジを」
美智子、咲花、祐那の順にジャンボパフェの上に乗っているものから、好きなのを選んでいく。
「え、ちょっと待って。やっぱ譲り合いはなしで」
実が拳を差し出す。
「ここは平等にジャンケンで決めよう」
結局、食べたいものを選びそれが被ったらジャンケンで決めるという方式が採用された。
四人のスプーンが一つのパフェを切り崩していく。
「そうだ、美智子聞いてよ。英語の小テストの再試、一回で合格できたんだよ」
そろそろ食べるのに飽きてきた実が話し始める。
「すごいじゃん」
「でしょ?祐那が英語を教えてくれたんだ」
実と祐那は目を合わせる。
「実ちゃんの集中力はなかなかのものだったよ」
「やればできる子なんだよね、うちは」
咲花は黙って美智子と実と祐那の話を聞いていた。
「そういえば、咲花は金曜休んでたっけ。小テストの結果どうだった?」
咲花は三人から目をそらす。
「それは聞かないでほしいかな」
「え、もしかして咲花も再試?」
金曜日の授業を休んだ咲花は、今日の休み時間に職員室に行き英語の先生から小テストを返却してもらった。
「二点足りなくて、不合格でした」
合格点は取れていると思っていたテストは、凡ミスによる減点が重なり、ギリギリ合格点を下回ってしまった。さすがに今日再試を受けても受かる見込みが全く無かったので、明日一回目の再試を受けることになっている。
「まあまあ、うちが教えてあげるよ」
実が余裕のある表情をして、咲花に言う。
「ショックすぎる」
咲花の珍しく落胆している姿に、三人は笑った。
「美味しかったね。もうお腹いっぱい」
ジャンボパフェを食べ終えた四人は、料金を四で割った。咲花が代表してお金を回収し、レジでお会計をしている。
実がお腹をさすりながらその後ろを通り過ぎる。
「実は最初のフルーツばっかり食べて、最後の方全然食べなかったじゃん」
「いや、ペース配分間違えちゃったかな」
美智子と実が店のドアから出て行く。
「祐那はどうだった?私あんな大きなパフェ食べたの初めてだったんだけど、最後があんなにきついとは思わなかったよ」
お会計を終えた咲花は歩きながら財布を鞄にしまう。
ジャンボパフェは確かに美味しかった。しかし、終盤になり容器の底の方に残ったのは溶けたアイスと生クリームと、シリアルが少々。味が単調になり、さらには四人とも甘いものの許容量が限界に近づいていたため食べても食べてもなかなか減らず少し困った。
「食べ初めが一番テンション上がってた気がする」
「本当にそう」
咲花と祐那も店から出た。
「でもやっぱり美味しかったし、また来たいね」
咲花と祐那の前を歩いていた実が振り返る。
「絶対行こう!今度は一人前のパフェ全種類制覇を目指そうね」
総務部管轄内の保管室で、男はガラスの箱の中に入れられ眠っていた。その箱には液体が満ちている。体を動かすことはできないが、呼吸はできる。不快な感覚は一切無く、柔らかいベッドで眠っているような気分だった。
その箱の前に杖を持った年老いた男性と、同じくらいの歳の女性が立っていた。
男性の方は咲花からこの男の確保の連絡を受けた人物。女性の方は咲花の住むマンションの大家だった。
「君の所の子が捕まえたみたいだよ」
男性が女性に言う。
「そうらしいですね。あの子はしっかりした子ですから」
女性は男を眺めながら返事をする。
「それにしても、まさか君が住宅管理なんて仕事を引き受けるとは思わなかったよ。向いてなさそうだと思ったんだけどね」
「意外と様になっているでしょう?」
女性は自分の服を引っ張り広げ、男性はその服装に注目する。
「ああ、もうただのばあさんだな」
「あらあら。失礼ですよ」
女性は笑った。
「今の仕事は、若い子の成長を見られるから楽しいんです」
「成長か。今回の件もそう思っているのかい?」
「はい」
「他に頼めば良いものを、わざわざ関係者の友人である君の所の子に頼むなんて、少し酷だったと思うがね」
「あの子がそこにたどり着くのかは分かりませんよ」
「そんなことを言いつつ、どうせ追跡してるんだろ」
「あら、よく分かりましたね」
「当てずっぽうで言ってみたんだがな」
「昨日はあの子のお友達がいらっしゃったんですよ」
「それも組織の人間かい?」
「そうです。初めは知らないコードが検出されたので怪しく思ったんですけど、仲の良い友達が同じ組織に所属してるなんてことが本当にあるのですね」
「それが運命だ、とでも言うのか?」
「そんな非科学的なことは言いませんよ。私が以前どこにいたかご存じでしょう」
「冗談だよ」
男性は小さく笑う。
「でも、運命を完全に否定することはできませんね」
「あの二人の娘を、君の管理する住宅に住まわせることになったからかい?」
「ええそうです」
話をしている二人の後ろにある扉が開いた。入ってきたのはハットをかぶった一人の男。
「お二人とも、お久しぶりです」
「あら、良雄さんじゃない。久しぶりね」
飯塚が二人に歩み寄り、隣に並ぶ。
「今回の件にはお二人も関わっていたということをお聞きして、ご挨拶に参りました」
「あの子の体調はどうだい?」
男が横の飯塚に尋ねる。
「良くなりました。chAngelを服用した直後の不安定な状態の時に、過度なストレスがかかったことが体調を崩した原因だと思われます」
「そうかい。それは良かった」
飯塚はガラスの中に浮かんでいる男の姿を見つめる。
男の妹は才能を持っていた。小さい頃からピアノを習っており、大会で何度も賞を取るほどの実力の持ち主だった。上手く弾けると母親が喜んでくれること、それが彼女の喜びでもあった。
ある時、母親が変わった。どれだけ上手くピアノを弾いても、喜んでくれなくなった。その頃から、彼女の幸せは次第に奪われていく。
chAngelの存在を知ったとき、彼女は自分の両親もそれを使ったのではないかと考えた。そして彼女自身もそれを使うことを決意した。
彼女が願ったのは、ただ誰かと入れ替わりたいということ。それ以上の望みは無く、現状から脱出できればそれで良かった。その願いは叶えられ、現在は小林祐那として生きている。
入れ替わり直後、兄が家族を殺したというニュースを見てショックを受けた。なぜ自分は生きているのかと、生きていて良いのかと悩んだ。
初めて学校に行ったあの日に、小林祐那に好意を向ける咲花や美智子や実を見て彼女はさらに悩んだ。その好意が向けられている自分は、誰なのだろうか、この世界のどこにいるのだろうかと自分というものが分からなくなった。
「良雄のおかげだな。立派になって」
男は飯塚の肩を叩いた。
「ありがとうございます」
「その子は組織に入るのかい?」
何らかのトラブルに巻き込まれ、組織の干渉を大きく受けた者はそのまま組織に入ることが多い。飯塚が提案した記憶のリフレッシュを受ければ、彼女が組織に加わることは確実だった。飯塚自身もそれを想定していた。
「いや、彼女は結局入りませんでした」
飯塚は友達と共に歩く、彼女の姿を思い出す。彼女の居場所は組織ではなく、そこで見つけていくのだろうと飯塚は感じた。
律は学校の裏の公園で咲花と美智子が来るのを待っていた。どこから話そうかと頭の中で一人シミュレーションをしていると、スマホの画面が光った。実からのメッセージだ。
「この前教えてくれたお店に行ったよ」
添えられた写真は空っぽのジャンボパフェの容器と四人が写った写真。律は微笑む。
「完食したんですね。すごいです」
律は実に返事を送る。するとすぐにまたその返事が返ってきた。
「今度は一人前のパフェを全制覇したいと思ってる」
「その際は、私もご一緒させて下さいね」
律は実のことを尊敬していた。バレーが上手くて、でもそれは圧倒的な努力の上に成り立っていて。いつも明るく元気な実はまぶしく見えた。そんな人はめったにいないと思っていた。
「またたくさん良いお店紹介してあげよう」と心の中で一人つぶやく。
「おまたせ」
ちょうど咲花と美智子が到着した。律のいる方へ二人が近づいてくる。
「どうでしたか?」
律の問いに対して、「美味しかったよ」と咲花は答える。
カメレオンの結果について尋ねたつもりだった律は、咲花の返事に笑う。
「実が言ってた流行に敏感な後輩ってあなたのことでしょ?美味しかったよ」
美智子も咲花に続いて感想を述べる。
「それは良かったです。また他のお店も高瀬先輩にたくさん教えておくので、ぜひ四人で行ってみてくださいね」
律は二人に微笑みかける。
三人がベンチに腰掛け、律は本題を切り出す。
「お二人にお伝えしたいことがあります」
その真剣な表情に咲花と美智子も身を構えた。
「私は調査部第五ブロック所属の芦屋律です。そしてこれからお話しすることは同じ調査部の先輩である佐久間さんの計らいによりお二人にだけお伝えする許可が出た小林祐那に関する情報です」
咲花は息をのむ。
「カメレオンの結果はどうでしたか?」
律の問いに美智子が答える。
「黄色い光が見えたわ。調査部ということは、あなたはそれを知っていたのでしょう?」
「はい。これからの話の中で登場する小林祐那は、今の小林祐那ではなく前の小林祐那のことを指します。それをご理解の上、お聞き下さい」
小林祐那の願いは、才能を手に入れること。
彼女は平凡な自分が嫌いだった。その願いが生まれるきっかけとなったのは彼女が幼い頃のこと。
いたって平凡な生活を送っていた彼女はテレビに出ている自分と同い年のスポーツ選手を見てショックを受ける。その子は世界レベルの大会に出場し、メダルを手にして笑っていた。自分とその子を比べて、年齢は同じなのに、同じだけ生きてきたはずなのになんでこんなにも違うのだろうと劣等感を抱く。
彼女は努力すれば自分もその子のようになれるのではないかと思い、何事にも一生懸命取り組んだ。
しかし彼女の前に現れたのは壁。才能という越えがたい壁を彼女は感じた。どれだけ努力しても、できないことがあった。才能のある子はたいした苦労も見せずそれをクリアし、彼女を追い越していく。それが彼女は辛かった。
高校に入り、高瀬実が目の前に現れた。実の姿が幼い頃に見たテレビの中のあの子と重なった。気づかないふりをしていたが、次第に彼女の心は弱っていく。
そしてchAngelの存在を知った彼女はそれに手を出す。
「それだけの理由で」
話を聞いて美智子はつぶやく。美智子にとっては取るに足らないことでも、小林祐那にとっては大きな問題だったに違いない。
咲花は目を閉じる。
「祐那にはもっといっぱい、良いところがあったのに」
その目元が少しだけ赤らむ。
「その良さを分かってくれる人が近くにいただけで、彼女は幸せだったと思いますよ」
律は最後にそう付け加えた。
カフェを出た後、美智子と咲花は一緒にどこかへ、実は電車で帰るため駅へ行くというので祐那は三人を見送ってから自分はどこへ行こうかと悩んだ。家に帰るにはまだ少しだけ早いような気がした。
小林祐那となってから今日で五日目。だいぶこの体での生活にも慣れ、友達とも仲良くできている。体調も良くなってきており、たまにその名残に苦しまされることはあれど、心身共に健康に近づいていると感じていた。
今ならば大丈夫かもしれない。
小林祐那となってから、あの家には一度も行っていない。そこに行けば思い出したくない記憶と罪悪感で自分が押しつぶされそうになってしまうのではないかと思い、意識的に避け続けてきた。しかしそれは一方で、ずっと頭の片隅にその存在が留まっているということでもあった。
それを昇華するなら今だと、内なる自分が叫んでいた。今ならきっと大丈夫だと根拠のない自信があった。
祐那はバス停に向かって歩く。
一時間半後、目的地にたどり着いた。空を見上げるとまだ青空が残っている。もう少ししたら日が落ち始める時間だった。あまりに帰りが遅くなるといけないので、祐那は早足で歩く。バス停から家までの道のりは覚えていた。地図を見なくても足が勝手に動いていく。それがなんだか悲しかった。
一週間ぶりくらいの我が家は、立ち入り禁止のテープでぐるぐる巻きにされていた。誰も住んでいないからか、エネルギーを感じない。空っぽの箱のようだった。
玄関の前にはお供え物が置いてあった。それを立ったまま眺める。中身は入れ替わっていたとしても、私という存在はもうこの世界からいなくなってしまったのだなと実感する。
「大丈夫かい?」
ぼーっと下を眺めていた祐那に、白髪頭のおじいさんが話しかけた。祐那は振り返り、声の主を確認する。
「具合でも悪いのかい?」
「いえ、大丈夫です」
祐那はおじいさんから目をそらす。
「君は、ここの家族の誰かの知り合いかい?」
おじいさんは構わず、祐那に話しかける。
「はい」
「そうかい」
おじいさんは笑った。
「誰の知り合いだったんだい?」
祐那はおじいさんの質問に答えるか悩んだが、悪い人ではなさそうだったし、まだ空も明るく人目もある時間帯だったので話を続けることにした。
「この家に住んでいた女の子です」
「あの子はとてもピアノが上手かったね」
おじいさんが懐かしむように言う。
「ご存じなんですか?」
「知ってるとも。ピアノが上手いだけでなく、とても優しい子だったよ」
祐那はそのおじいさんの顔を見たことがなかった。直接の知り合いではなさそうだったが、まるで自分と会ったことがあるかのような口ぶりだった。
「この家に住んでいた家族とどのような関係があるんですか?」
つい気になって祐那は尋ねる。
「今の僕に、ここの家族との直接的な関係は無いよ」
「え、どういうことですか?」
「君もそうだろう?」
おじいさんはポケットからカメラを取り出す。その画面に映っていたのは、ついさっきのお供え物を眺めてたたずむ祐那の姿。その首にはなぜか黄色い光が重なっていた。
「これは何ですか?」
おじいさんはカメラのレンズを自分の顔に向け、シャッターボタンを押した。そしてその画面を祐那に見せる。
「首に光が」
その写真に写るおじいさんの首にも祐那と同じような光が重なっていた。
「これは、薬を使った証拠なんだ。これで分かっただろう?」
祐那は知っていた。もし父親と母親が自分が使った薬と同じ薬を使っていたとしたら、今回の事件で殺された家族の中身は別人で、そして本当の父親と母親は別の誰かとしてまだこの世に生きているということを。
公園を出た咲花は拠点に向かう予定だった。しかしその前に昨日純平から受け取ったものを取りに帰ろうと自宅マンションに向かって自転車を走らせていた。正面から吹き抜ける風が心地良い。
途中どこかの家から美味しそうな晩ごはんの匂いがした。今日はお肉なのかなとつぶやき、一人微笑む。
祐那はやはりchAngelを使っていた。今の祐那と前の祐那は違っている。しかし咲花にとって祐那は祐那で、今の祐那も友達であることに変わりはないと今日一緒にいて思った。その一方で、前の祐那のことも忘れたくないと思った。どちらも咲花の大切な友達だった。
今朝、あの事件に関するニュースを見た。男は未だ逃走中で警察が現在も捜索活動を行っているとアナウンサーが言っていた。
それと同時に殺された家族についての報道もあった。妹はピアノが上手く、全国レベルの大会で何度も賞を収めていたと紹介されていた。祐那が手に入れたかったのはそれだったんだなと、律の話を聞いて思った。
マンションの自転車置き場に自転車を停めていると、大家さんと遭遇した。
「あら、こんばんは。今帰り?」
「こんばんは。荷物を取りに来ただけで、また出かけるんです」
「そうなの。良かったらこれ持って行って」
渡されたのは缶入りのクッキー。前回もらったものとは違う色の缶に入っている。
「ありがとうございます。前にいただいたのもすごく美味しかったです」
「そう、良かったわ。また良いお店を見つけたの、今回のも美味しいと思うからお友達と食べてね」
咲花は大家さんにお礼を言って、階段を駆け上がる。部屋に入りいただいたクッキーをテーブルの上に置き、代わりに和菓子屋の紙袋を持って部屋を出た。
鍵を閉め再び階段を下っていると、下から大柄な男が上がってきているのに気づく。向こうも階段を下りてきている人がいることに気づき顔を上げる。
目が合ったその顔を咲花は見たことがあった。ビジネスホテルで出会った、総務部の大柄な青年だった。咲花は言葉を発することなく、その大柄な青年に会釈する。相手も咲花に気づき挨拶を交わす。
再び自転車置き場に戻ってきたとき、大家さんはいなくなっていた。あの総務部の大柄な青年も同じマンションだったんだなと自転車に鍵を指ながら咲花は思う。
「こんばんは」
咲花が部屋のドアを開けると、中には光秀と優吾がいた。
「咲花やっほー」
優吾はソファに座っていて、光秀はキッチンの方にいた。咲花は和菓子の紙袋を持ったまま優吾に近づいていく。そしてそれを渡した。
「何これ?」
「優吾にお土産だよ」
「和菓子専門店?僕甘いものは好きだけど、どちらかと言えば洋菓子の方が好きなんだよね」
「今回は袋は関係ないの。だから中身は和菓子ではない」
「え、そうなの?」
優吾は紙袋の中に手を入れる。出てきたのは何の変哲も無い箱。
「開けて良い?」
「良いよ」
箱を開けると、中には繊細な和菓子からはほど遠い、いくつかの機械が雑にいれられていた。それを見て優吾は不思議そうな顔をする。
「これ、何の機械?」
「これは光秀さんがこの前の仕事の時に使って、優吾がすごいって言ってた小型のロボット」
咲花は箱の中からビートルを取りだし優吾に渡す。優吾はそれを受け取り、青い目を輝かせて咲花を見た。
「本当に?ありがとう、咲花!」
早速、付属の説明書を読み始めた優吾の顔は喜びで満ちていた。
「咲花、芦屋のところに行ったのか?」
その様子を見ていた光秀が近づいてくる。
「はい、光秀さんのお知り合いだったんですね」
「知り合いっていうか、あんまり知り合いたくないタイプの人間だけどな」
優吾の横に置いてある箱から、光秀は何か分からない機械を手に取る。
「また、たくさんもらってきたな」
「これでも減らしてもらったほうなんですよ」
咲花は苦笑いした。
「あいつは褒めるとすぐに調子のるからな、あんまり優しくするなよ。少し褒めただけで、関係ないもの作り始めるわ、関係ないもの紹介し始めるわで大変だから」
それは光秀の実体験から来た言葉だった。
「今回で学びました」
咲花が光秀の言葉に深く頷く。
「そうか、そうか」
光秀が自分が初めて芦屋に会ったときのことを思い出しながら笑った。
「そういえば、見てくださいこれ。すごくないですか?私は機械より、こっちの方が好きです」
咲花は優吾の隣に座り二人にさっき撮ったジャンボパフェの写真を見せる。
「あ、これ光秀が買ってくれなかったやつだよね?」
優吾が言う。
「お二人もこのカフェに行ったことがあるんですか?」
「僕がここに来た最初の日に、光秀と行ったんだよ。でもお金ないからって、これはダメだって」
「二人でこの大きさの甘いものはどう考えても食べきれないだろ、高いし。それに他のやつ買ってあげたんだから別に良いだろ」
「イチゴパフェも美味しかったけど、やっぱり食べたかったな。咲花、今度一緒に行こうよ。もちろんお会計は光秀が担当ね」
光秀はあきれ顔をする。
「優吾はもう少し、謙虚になった方が良いと思うぞ」
「何言ってんの、僕は十分謙虚だよ」
あっけらかんと答える優吾に、光秀は諦めの姿勢を見せた。
「多めに負担するからそれで勘弁してくれ」
三人が話をしていると、インターホンが鳴った。優吾が席を立ち誰が来たのか確認する。玄関の前にいたのは絵里香だった。
「絵里香だ、今開けるね」
優吾は小走りで玄関の扉に向かった。
部屋に残ったのは咲花と光秀の二人。
「なんのために芦屋のところに行ったんだ?」
光秀が手に持ったままの機械を掲げる。
「欲しい道具があったんです」
「どんなのだ?」
「カメレオンって言うんですけど、ご存じですか?」
咲花は手に持ったカメラを眺める。
「カメレオン、聞いたことないな」
「chAngelを使った人間を見分けることができる装置なんです」
そんな物まで芦屋は作っていたのかと光秀は驚く。それと同時に、なぜ咲花が芦屋のことを知っていたのか不思議に思った。二人に接点は無いはずだった。
「それを友達に使ったのか?」
「はい、そうです」
「どうだった」
「結果を言うと、祐那はchAngelを使っていました」
「そうか」
光秀は落ち着いた声で相槌を打つ。
「でもたとえ中身が違っていても、前の祐那も今の祐那もどちらも私の大切な友達であることに変わりはないと感じました。」
光秀の目に、咲花はどこか吹っ切れたように映った。
「友達、大切にしろよ」
「はい」
絵里香を迎えに行った優吾が軽い足取りで部屋に戻ってきた。
「咲花、光秀、絵里香がケーキくれたよ」
白い箱の入ったビニール袋を両手で大切そうに持っている。
「咲花、お皿とフォーク用意して」
優吾はテーブルの上に置いた箱を開ける。中にはチョコケーキ、フルーツタルト、チーズケーキ、ショートケーキの四つのケーキが並んでいる。
「絵里香さんがケーキ買ってくるなんて珍しいっすね」
優吾とともに箱をのぞき込んだ光秀が少し離れた椅子に座った絵里香に問いかける。
「優吾が初めて仕事を成功させたお祝いよ。これからもしっかり働いてもらわないと困るからね」
自分の言葉に絵里香から返事が返ってきたことに光秀は拍子抜けして笑う。
「なんか今日はキャラ違いますね」
「何が言いたいの?」
「すみません。冗談っす」
「お皿は何枚いりますか?」
咲花の問いかけに「四つだよ」と優吾が答えながらキッチンへ向かう。
テーブルに集合した咲花と光秀と優吾は誰がどのケーキを食べるか決め始めた。
「優吾はどれが良い?」
「僕はショートケーキが良い」
「光秀さんはどれにしますか?」
「とりあえず、ショートケーキは優吾に譲るよ。主役は優吾だからな」
光秀の言葉を受けて、優吾は赤い美味しそうなイチゴが乗ったショートケーキを箱から取り出しお皿にのせる。
「そういえばパフェもイチゴだったよな。優吾はイチゴが好きなのか?」
「うん。光秀はどれにするの?」
「そうだな、俺はチーズケーキにしようかな。咲花はどうする?」
「私はフルーツタルトが良いです。あ、絵里香さんはどれ食べますか?」
絵里香は新聞を読んでおり、ケーキには目も触れなかった。
「私はいいわ。残り一つは飯塚さんにあげておいて」
「飯塚さんならとなりにいるぞ」
光秀が壁の向こうを指さす。
「お仕事中ですかね?私様子見てきます」
咲花は隣の部屋にいるという飯塚のもとに向かった。ドアをノックしてあけると、飯塚は椅子に座り情報端末を操作していた。
「飯塚さん、絵里香さんがケーキを持ってきてくださったんですけど一緒に食べますか?」
「ああ、もう少ししたら行くよ」
飯塚の返事を確認して、咲花は部屋を出ようとする。
そこで飯塚に呼び止められた。咲花は洋室のドアを閉める。
「渡君はどうしてchAngelという存在が成り立っているか分かるかい?」
飯塚は優しい声で咲花に問いを投げかける。
「人々が誰かと入れ替わりたいという願いを持っていて、それを叶える技術力を組織が持っていたからですかね」
「確かにそうだね。それじゃあ、それを叶える我々は善い行いをしていると思う?」
咲花は言葉に困った。
「僕達は、光の当たる存在では決してないんだ。もちろんchAngelという薬もそう。実際、僕達のことを悪だと思っている人達もいる」
咲花は男のことを思い出す。
「chAngelの販売ホームページの一番先頭に書かれた文章を読んだことはあるかい?」
咲花は頷く。
あなたが建てた真っ白な家
塀に囲まれた庭に咲く花、青々と茂る草木
朝五時、太陽が昇り始めたみずみずしい空
涼やかな風を感じながら自慢の庭に水を撒く
ふと塀の向こうに目を向けると隣の家の庭が見える
こちらよりもなんだが芝生の色が青く見える
嫌な感じ
目線を落とす
あちらよりもくすんだ足元の芝生
嫌な感じ
「そこに書かれている人物は、不幸に見えるかな?庭には綺麗な花が咲いていて、朝の空気を感じる心の余裕もある。真っ白な家の中には家族が待っているかもしれない」
少し間をあけて飯塚が続ける。
「人は誰しも良さを持っている。優れた長所を、恵まれた環境を、幸せを感じることができる何かを持っている。けれども人はそれに気づかない。それどころか周りと自分を比べて、自分は劣っているとさえ思う。
自分が望むものを誰かが持っているということは、誰かが望むものを自分が持っているということだよ。この文章が本当に伝えたいのはそこにあるんだ。
chAngelという存在もこれによって成り立っている。自分が望むものを相手が持っているように、相手が望むものを自分が持っているからこそ入れ替わりが成り立つ。
chAngelを使った人達はその人自身に価値がなかったのではなく、価値があったからこそchAngelを使うことができた。渡君の友達もね」
飯塚はやはり祐那のことを知っていたのだと咲花は思った。
「僕達は、そういう人達を救っているんだ。それが善い行いであると胸を張って言うことはできないかもしれないけれど、chAngelを使うことで救われている人はいる。それだけは忘れないようにね」
飯塚の言葉が切れるのと同じタイミングで部屋のドアがノックも無しに開いた。開けたのは優吾だった。
「二人とも、まだ?早く来ないと二人の分まで僕と光秀で食べちゃうよ」
飯塚が端末を置いて、立ち上がる。咲花は優吾に背中を押されて部屋を出る。その後ろを飯塚がゆっくりと歩いて行く。
優吾が振り返った。
「今の、良い話だね。僕もそう思うよ」
優吾は小さな声で飯塚にそう言った。
ケーキを食べ終わった後、光秀はバルコニーに出て電話をかける。
「もしもーし」
電話の相手は芦屋純平。
「俺だよ、長谷川光秀」
「ああ、光秀か。何の用?」
電話越しの純平の声はぼんやりとしていた。
「もしかして今まで寝てたのか?」
「大正解」
純平は電話の向こうの光秀にも聞こえるように、マイクに向けて拍手をする。
「そろそろ生活習慣を見直した方が良いんじゃないか?」
「まあ、まだ大丈夫だろ」
光秀と純平は同じ二十五歳。そろそろ体の不調を感じ始め、もう若くはないのだなと実感する年齢であった。
「昨日、咲花がそっちに行ったらしいな」
「渡ちゃん?実験相手になってもらって助かったよ」
「どうせまた、無理矢理相手にしたんだろ」
「そんなことないさ。許可取ったような取ってないような」
純平の声はだんだんと小さくなる。
「そういえば許可なんて取ってなかったわ」
純平は笑った。
「あのなあ、そんなことしてるとまた追い出されるぞ」
純平は一度別のチームを追い出されている。その怠惰な生活と人の気持ちを考えない強引な性格が原因だった。
「作った物で組織に貢献してるんだからそれくらい多めに見てくれたっていいと思うんだけどな。あ、光秀お前、俺が前にあげたビートルの試作品使ったらしいな、渡ちゃんから聞いたよ。あんなにいらないって言ってたのに役に立ってんじゃん」
「ちょうどそこにあったからって理由だけだ」
「またまた、素直になれって」
「確かにお前の作った物は良いものばかりだよ。作った物は、な」
光秀は後ろを向く。するとカーテンの隙間から、室内の様子が見える。優吾がよく分からない機械を飛ばしていた。
「あんまり褒められた気がしないけど、褒め言葉として受け取っておくよ」
「それで、なんで咲花がお前のところに行ったんだ?」
光秀は疑問に思ったことを純平に尋ねる。
「俺も渡ちゃんとは初めましてだったよ。有川が一緒にいたから、そいつが連れてきたんだと思う」
「有川?」
「有川美智子。薬の方の部署やつ」
そこで光秀はそれが9338を受け取った際に出会った人物だと気づく。
「咲花と有川さんは知り合いなのか?」
「よく分かんねーけど、仲よさげだったぞ」
光秀は土曜日、美智子の名刺を咲花の前で落としたことを思い出す。もしかすると、その出来事によって咲花は有川美智子の存在を知ったのかもしれない。
「俺、組織の存在的にあまり良くないことをしたのかもしれない」
「は?何だよそれ」
急に深刻そうな声を出した光秀を純平はからかう。
「もう光秀とはここで一生のお別れコース?」
「縁起でも無いこと言うなよ。その場合はお前も道連れだからな」
「それは困るな」
バルコニーから見える向かいの家の灯りが消えた。
「咲花が世話になった、その礼だけしておこうと思って電話したんだよ。もう用件はすんだから切るぞ」
「はーい。渡ちゃんによろしく伝えといて」
光秀は電話を切った。
パルコニーから部屋に戻ると、優吾か駆け寄ってくる。
「ねえねえ、これってどう使うのかな?」
「説明書に書いてないのか?」
光秀はテーブルに置いた自分のコップを手に取り、口を付ける。
「それがさ、これだけなかったんだよね。適当に触ってたら使い方分かるかな、どこを押したら良いんだろう?」
優吾は光秀の目の前で純平が作った機械のスイッチを入れた。
祐那は帰宅し、二階の自分の部屋のベッドの上で寝転んでいた。目をつむり、今日の出来事を思い出す。
まずは、咲花と美智子と実と四人でジャンボパフェを食べに行ったこと。すごく楽しかったなと一人で笑う。
次に、少し前まで自分が住んでいた家を訪れたこと。そこで出会ったおじいさんは、結局何者だったのだろうか。祐那はおじいさんにカメラを見せられた後、余計な詮索はせずに話を切り上げ家に帰ってきた。
それはあまりに帰るのが遅くなると家族に心配をかけてしまうからということと、あのおじいさんが知っていることを自分が知ってはいけないような気がしたからというのが理由だった。
祐那は昨日までカメラが取り付けられていた場所を見る。いつの間にかカメラは回収されていた。あのカメラの向こう側での人生を、祐那は選択しなかった。
ベッドの上に転がっているスマホを手に取る。そして咲花から送られてきた今日の写真を眺める。この写真は、祐那の初めての思い出となった。
スマホから目を離し、部屋の中を見回す。そこにあるのは前の祐那の痕跡。祐那はゆっくりと深呼吸をする。
祐那は前の祐那とともに生きていくことを決めた。彼女の思いを、背負って生きていくことに決めた。それが、自分ができる唯一のことだと思った。
昨日、勉強机の引き出しを開いた時、祐那は大切そうにしまってあったノートを見つけた。そのノートを開くと、そこには小林祐那の夢が書かれていた。あれをしたい、これをしたい、こうなりたい、ああなりたいという大小様々な夢が書き連ねられていた。
祐那はその夢を一つずつ叶えていくことを誓う。今度は薬に頼るのでは無く、自分自身の力で。
そして小林祐那の夢を叶えると同時に、新しい小林祐那の夢を見つけていこうと思った。そしてそれも全て叶えて見せようと心に誓った。
祐那はもう一度深呼吸をする。そして写真を見る。自然と笑顔になる。もう大丈夫だ。
「そろそろお風呂入りなさいよ」
階段の下から母親が叫ぶ声が聞こえた。
「今行く」
祐那は返事をして階段を下りた。お風呂場に向かう前に一度リビングへ入る。リビングの端に電子ピアノが置いてあった。
祐那はなんとなく近寄り、鍵盤の上にかかっていた布を取る。
「あら、めずらしい。近所迷惑だからあんまり大きな音は出さないでね。それと早くお風呂入りなさいよ」
母親はキッチンで食器を洗っていた。
「はーい」
祐那は返事をして椅子に座る。電子ピアノの電源をつけ、鍵盤の上に手を置いた。覚えていた曲を、指が動くままに奏でる。
一曲弾き終えた祐那は自分の指を眺めながらつぶやく。
「やっぱり上手くいかないや」
食器を洗い終えた母親がタオルで手を拭きながら、祐那に近づいてきた。
「なかなか良かったじゃない」
母親のその一言がとても嬉しかった。
「なんでこんな時間に出歩かなきゃいけないんだよ」
光秀は夜道を歩きながら文句を言う。
「仕方ないよ、光秀が絨毯に飲み物こぼしちゃうんだもん」
「何言ってんだ。優吾が芦屋からもらった機械を変にいじるからだろ」
数分前のこと。絵里香が持ってきたケーキを食べ終わりくつろいでいたところ、優吾が触っていたよく分からない機械がよく分からない動きをし、光秀の持っていたコップをかすめ取り盛大にその中身を絨毯の上にぶちまけた。
「まさかあんな動きをするとは思わなかったんだから」
光秀と優吾はその責任をとって、絨毯をクリーニングに出しに行くことになった。今の時間ならギリギリ営業時間に間に合うため、ビニール袋に入った丸めた絨毯を光秀が抱えクリーニング屋に向かっていた。
「ちょっと休憩」
光秀が絨毯を一旦地面に置く。
「ちょっと、早くしないと閉まっちゃうよ」
「この絨毯意外と重いんだからな」
水分を目一杯含んだ絨毯は、一人で持って歩くには重かった。
「優吾も一回持ってみろよ」
「えー、嫌だよ。そこは年功序列でいこう」
「普段から年功序列を意識してくれるなら、確かに俺が持つべきなんだろうけどな」
「もう、先行くからね」
優吾は軽い足取りで夜道を進んで行った。
「優吾だけ行っても意味ないだろ」
光秀は仕方なく、絨毯を持ち上げた。
「あ、なんか聞こえる」
道を歩いていると、どこからか音楽が聞こえてきた。
「ピアノの音か?」
「うん、そうみたいだね」
聞こえてくる旋律は決して上手いとは言えなかったが、心に響く何かがあった。
「良い感じだね」
優吾がそのメロディに合わせて体を揺らす。
あと少しでクリーニング屋にたどり着くというところで二人の前に猫が現れた。光秀は嫌な予感がした。
「光秀、猫だよ」
優吾は案の定猫に近寄っていき、そばにしゃがみ込んだ。普通の猫は近づいたら逃げるものじゃないのかと、逃げないその猫に向かって文句を言う。
ちょうど疲れていたため、光秀も絨毯を地面に置いて休憩する。クリーニング屋が閉まってしまわないように時間を確認しようとしたが、腕時計は外してしまっていた。仕方なくスマホで時間を確認しようと、ポケットに手を入れる。
出てきたのはスマホではなく、咲花が持っていたカメラだった。絨毯に飲み物をこぼした時に、濡れないように一時的に自分のポケットに入れておいたことを思い出す。
光秀は絨毯に寄りかかりながら、電源をオンにしてみる。
「確か、使い方は」
Kボタンを三回押す。
「本当にこれで分かるのかよ」
試しに猫とじゃれている優吾の後ろ姿を撮影してみる。
「はいチーズ」
光秀は小声でつぶやきシャッターを押した。
二秒後、カメラの画面に映った優吾の首には赤と青の二本の光が入っていた。
それを見て光秀は固まる。
「光秀、どうしたの?こっちおいでよ、猫可愛いよ」
優吾が振り返り光秀に手招きをする。光秀は突然の衝撃で頭が真っ白になった。何かを考えようとしても考えられない。今なら単純な計算だってできないかもしれない、そんな状態だった。
「優吾、この質問は聞いてなかったな」
「何?」
「お前はchAngelを使ったことがあるか?」
数秒間を開けて、優吾は口を開く。
「あるよ。光秀は?」
優吾も同じ質問を光秀に返す。
「俺はないよ」
「そっか」
光秀はもう一度質問をする。
「使ったのは二回か?」
「よく分かったね」
優吾は目を見開く。そして光秀の手に握られているものに気づいた。
「もしかしてそれはカメレオン?」
「ああ、そうだ」
「それ、僕達からしたら結構厄介なんだよね」
そして笑った。
「優吾はなんでchAngelを使ったんだ?」
上手く頭が回らない光秀は質問を繰り返す。
「光秀は、七年くらい前から組織にいるんだったよね」
優吾は立ち上がる。猫は走ってどこかへ行ってしまった。
「それなら昔、chAngelを使う条件に一度使った人間はもう一度それを使うことはできない、元の体に戻ることはできないっていうのがあったのは覚えてる?」
薬の特性上、一人の人間が入れ替われるのは一回のみ。そして元には絶対に戻れない。少し前まではそれが条件として存在していた。しかし最近になってその条件は姿を消した。
「僕は一度、この体を奪われたんだ」
優吾は自分の胸に手を当てる。
「奪われたって誰に?」
「分からない。僕と入れ替わった相手の間に立っていた人間がいたんだよ。その人は組織を崩そうとしていたみたいでね、セキュリティの穴をついて僕と相手の入れ替わりを成立させたんだ」
「そんなことが可能なのか?」
「もうかなり前のことだし、そのころ僕はまだまだ小さかったからね。僕自身も実際に入れ替わるまで自分が狙われていたことに気づかなかったんだよ」
優吾は空を眺める。まん丸な月が二人を照らしていた。
「でもようやく研究が進んで、二回目の入れ替わりが可能になった。入れ替わり相手は、確かに使用者には選べないものだけど、結局それも組織が決めていること。組織の許可があれば、元の体に戻れるようになった」
「それであの条件はなくなったのか」
「そう。アメリカにいる薬の研究者が、その方法を発見したんだよ」
そこで優吾はいつもの調子に戻った。
「僕って結構目立つでしょう?これって明らかに管理部の仕事には向いてないよね。実際、光秀と行った仕事でもあんまり役に立てなかったし。そんな僕が研修先としてここに来たのは、咲花がいるからなんだ」
「咲花が?」
光秀にはそこで咲花の名前が登場する理由が分からない。
「咲花がどう関係するんだ?」
「そのアメリカにいる研究者っていうのが、咲花の両親なんだよ。僕はその二人に助けられたんだ」
「そうだったのか」
「そう。咲花はああ見えて、組織の超重要人物の一人娘なんだよ。本人がそれを知っているのかは分からないけどね。その二人に助けられた人は僕以外にもたくさんいるから、咲花はそのたくさんの人達に守られて生活してるんだ」
「俺が咲花に失礼なことをしたら、俺の身が危なくなったりするのか?」
「さあ、光秀が何をやらかすのかによると思うけど、咲花に優しくしておいた方が良いと思うよ」
優吾は光秀が捕らえられる姿を想像して笑った。
「おい、今何を想像した?」
「何でもないって」
そこで光秀は優吾と出会った最初の日、優吾が聞いてきたことを思い出した。それを今度は優吾に尋ねる。
「優吾は、chAngelを使った人のうちどれくらいが幸せな日々を送っていると思う?」
「少なくとも一人は、僕は今が幸せだよ」
あなたの願いの、裏側で タマキ @tamaki_
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