第3話

光秀が仕掛けた盗聴器から、ペットボトルのキャップを開ける音、水を飲み込む音が聞こえ、それっきり男の周りからは音がしなくなった。

車の中で光秀が戻ってくるのを待っていた咲花は、総務部に電話をかける。管理部が確保した対象は総務部に引き渡すことになっていた。

三コール後に電話が繋がる。

「もしもし、どちら様ですか?」

電話の向こうから聞こえたのは、年老いた男性の声だった。

「管理部第五ブロックの渡と申します」

「ああ、管理部さんね。引き渡しかい?」

「はい。第五ブロックのC地区で対象を確保しました。使用したのは9338という薬で、持続時間は三時間です」

「分かった。それじゃあすぐに向かわせますね」

「よろしくお願いします。詳しい住所は後でそちらに転送いたします」

「はい、どうもありがとね」

電話を切って優吾に話しかける。

「優吾、飯塚さんに聞いてビジネスホテルの住所を総務部に送ってくれる?」

「分かった」

優吾はソファに座っていた飯塚に問いかける。

「総務部に送信ってどうやったらいいの?」

飯塚は首を動かし優吾の方を向いて、説明した。教えられた通りに住所を送信し終えた優吾は飯塚と話を続ける。

「捕まえた男を総務部に渡して、その後男はどうなっちゃうの?」

「総務部の特殊施設で保管されるんだよ」

「保管?」

「そう。生きた状態で保管され、あらゆる目的で利用されるんだ」

優吾はその様子を想像しようとするが、いまいち思い浮かばない。一体どれだけの人が、どこに保管されているのか疑問に思った。

「まあ、そこら辺はあんまり考えない方が身のためだよ」

飯塚は優吾を諭すように言った。

「そんなに残酷なの?」

飯塚は何も言わずに微笑んだ。

その会話を車の中で聞いていた咲花のもとに光秀がようやく帰ってきた。

「お疲れ様です」

咲花は光秀に声をかける。

三十分後、総務部の人が到着したとの連絡があり咲花は車を降りた。引き渡しに立ち会うため、ビジネスホテルへと向かう。

自動ドアをくぐると、受付前の待合スペースで二人の男が座っていた。一人は小柄な中年の男性で、もう一人はがっしりとした体格の大柄な青年。青年の方が、大きめの黒いキャリーバックを手にしていた。咲花は二人に話しかけることなく、受付に向かう。

綺麗な女性に部屋番号を告げ、鍵をもらうと。そのままエレベーターへと向かった。二人の男が立ち上がり、何も言わずに咲花の後ろに付いてくる。部屋の前まで来て鍵を差し込むと、大柄な青年が咲花の前に立ちドアを開けた。

部屋の中では、テーブルの横の床に薬を飲んだ男が倒れていた。大柄な青年が迷い無く近づき、男を持ち上げる。男は抵抗を見せず、薬はしっかり効いているようだった。

そこで初めて小柄な中年の男性が声を出した。

「お疲れ様です。男の身柄とその所持していた物は全て我々が預かりますがよろしいでしょうか」

「はい」

「確認になりますが、9338が混入されているのはこちらのミネラルウォーターで間違いないですか?」

「間違いないです」

「分かりました。ご協力ありがとうございます」

咲花と小柄な中年の男が話をしている間に、大柄な青年は動かない男の口に呼吸器を取り付け、その体を器用に曲げてキャリーバックに詰めた。いくつか関節は外されているだろうが男はまだ生きている。

男の荷物を部屋の中から探し出し、見落としている物がないか念入りに確認する。大柄な青年がテーブルの上に集めたその荷物の中にメモ帳があった。開いてある状態で置かれているメモ帳。それが咲花の目に入る。

そこには乱れた字で小林祐那と書かれていた。


「発進するぞ」

光秀がアクセルを踏む。仕事を終えた光秀と咲花は拠点に戻るところだった。

「お願いします」

咲花は耳の通信機を外し一息つく。男の確保自体は特に問題も無く、想定通りに完了した。運転席に座る光秀は機嫌が良さそうだ。

「少し眠っていても良いですか?」

咲花は光秀に尋ねる。

「どうぞ」

前を見ながら光秀は言った。

咲花は目を閉じる。まぶたの裏に、先ほど見た文字が浮かぶ。間違いなく咲花の友達である祐那の名前が書かれていた。そのメモを男が持っていた。これはどういうことなのだろうか。

頭の中を整理しながら、順を追って考えていく。

まず、あの文字を書いたのは誰か。あの男、もしくは別の誰か。

次に、なぜ祐那の名前が書いてあったのか。分からない。

メモが書かれたのはいつなのか。事件前か、事件後か。

そこで咲花は思い出す。あの時メモは開いた状態で置いてあった、そのため咲花はそこに書かれた文字を見ることができた。ということは男が最後に書いたもしくは見ていたのが祐那の名前が書かれたページだったということになる。

「光秀さんは、男がメモ帳を持っているのを見ましたか?」

咲花は目を閉じたまま、隣の光秀に尋ねる。

「メモ帳なんて持ってたのか?」

咲花は光秀の問いには答えない。

頭の中で一問一答を続ける。

男が最後にメモを見たのはいつなのか。ビジネスホテルに入ってから9338を口にするまでの間、もしくは光秀さんに会う前。

いや、メモが見つかったのは部屋の中からだ。鞄の中でもなく、服のポケットの中からでもなく。ということはホテルに入ってから薬を飲むまでの間に男は確実にメモを見ている。

何のために見たのか。分からない。

メモの他のページには何が書かれているのか。分からない。

男と祐那に関わりはあるか。住んでいる場所は違う、歳も違う、名字も違う。男は大学生だが、ここ最近家から出ていないと言っていた。直接的な関わりは一見するとなさそうだ。

「男の妹さんって何歳でしたっけ」

光秀に尋ねる。

「妹?確か十七か十八くらいで、高校生だったような」

関わりがあるとしたら妹の方かもしれない。もしかして同じ高校に通っているのか。でもそれならば学校でもっと騒ぎになっているはず。それは違うということか。

「どこの高校に通ってたんでしょう?」

「うーん、どこだったかな」

そういえば妹の調査を担当したのは調査部第五ブロックだった。ということは住んでいる家からそう遠く離れた学校ではないはず。少なくとも第五ブロック内の高校に通っていたのだろう。

他校の生徒と関わる機会があるとしたらどこか。祐那は部活はやっていない。習い事はやっているのかどうか分からない。学校外の活動の中で妹と接触していた可能性はある。

「咲花、寝るつもりあるのか?」

光秀は、咲花が眠ると言ってから一定時間ごとに質問が飛んでくることを不思議に思っていた。

「それともそれは寝言?」

「考え事をしていました」

咲花はまだ目を閉じている。

「メモと男の妹がどうかしたのか?」

咲花は答えない。あのメモのことを、組織に属する渡咲花として気にしているのか、祐那の友達である渡咲花として気にしているのか自分でも分からなかったからだった。

光秀は運転しながら気長に咲花の返事を待つ。

「光秀さんは友達いますか?」

赤信号のため、光秀はブレーキを踏む。

「どこまでを友達と呼ぶのかによるな」

「組織とは関係ない友達っていますか?」

「いることはいるけど、関係あるやつの方が多い」

「仕事をしている時に、もしその組織に関係ない友達がその仕事に関わっていたら光秀さんはどうします?」

信号が青に変わった。

「そういう場面に遭遇したのか?」

光秀は咲花に問いかけるが返事はない。

「どういう関わり方をしてるのかによるけど、仕事は仕事、友達は友達なんじゃないか」

「割り切っていくということですか?」

「んー、何とも言い難いな。とりあえず、俺なら自分が納得できる選択肢を選ぶかな。それは場合によっても、相手によっても違うと思うから一概にこうだとは言えない。どちらも大切にって感じ」

咲花はまた考える。自分が納得できる選択肢とは何か。祐那が事件に関わっているのかどうか、それを明らかにしてどうしたいのか。祐那を助けたいのか、助けるとは一体どういうことなのか。

「今回の男が事件を起こしたのって一昨日の夜でしたよね。水曜日の」

「そうだな」

咲花の問いを聞いて、光秀は「メモ」と「男の妹」と「友達」と「事件」を結びつける。咲花が何を考えているのか、光秀も考えながら返事をした。

事件が起きた次の日、すなわち昨日祐那は体調不良で遅刻してきた。その体調不良は事件と関係していたのだろうか。

その瞬間、咲花は一つの答えを閃いた。

いきなり隣で前屈みになった咲花に、光秀は驚く。

「大丈夫か?どっかでトイレ休憩でも挟むか」

咲花に問いかけるが返事はない。下を向いているため、どんな顔をしているのかも分からない。

咲花は笑っていた。楽しかったから、嬉しかったからという訳ではなく、笑うしかなかった。祐那がchAngelを使い、男の家族と入れ替わっていたのかもしれない。これが咲花が閃いた答えだった。


拠点に戻ると、優吾が勢い良く飛び出し咲花と光秀を迎えた。

「二人ともお疲れ、現場ってスリリングで楽しいんだね」

「お遊びじゃねーんだぞ」

飯塚は奥の椅子に座っており、戻ってきた二人に対して「お帰り」と優しく言葉をかけた。

「トラブルも無く、男の身柄を総務部に引き渡せて良かったです」

咲花はじゃれ合っている優吾と光秀を見ながら、飯塚に話しかける。

「そうだね。秋山君も研修期間ながら活躍してくれたし、今日はお疲れ様会を開くべきかな」

「なになに、パーティーするの?」

優吾が咲花と飯塚の方へ寄ってくる。

「何か美味しい物でも頼もうか。何が良いかな?」

 飯塚は電話機の近くに立っている冊子を手にする。そこにはこのマンション近辺で出前を頼むことができる店の電話番号が並んでいる。

「これ飯塚さんが作ったんですか?」

 初めて見るその冊子に、光秀が質問した。

「いや、違うよ。これは僕の前のブロックリーダーが個人的に作って置いていったものなんだ。中にはもう閉店してしまった店もあるんだけどね」

 優吾が飯塚の横で冊子をのぞき込む。

「趣味で作ったにしては、すごい情報量だね。これそのまま売れるんじゃないかな」

「そうだね」

「あ、僕お寿司が食べたい」

 優吾の一言で、今日の昼は出前寿司に決定した。

飯塚が注文した高級な寿司が届き、四人でそれを囲む。食べながら、咲花は優吾に近づいた。

「男の家族のことなんだけど、優吾は誰と入れ替わってるかとか何か知ってる?ちょっと気になっちゃってさ」

何でもない風を装うため、咲花はお茶をゆっくり飲む。

「知らないな」

優吾はすぐに返事をする。

「そんなことより咲花、今はお寿司だよ。早くしないと美味しいのなくなっちゃうんだから」

優吾が指さした。そこにはトロとサーモンばかりを食べている光秀がいた。

「一種類一つずつ」

優吾が叫ぶ。

「そんな約束、俺はしてない」

光秀は優吾に構わず、自分の好きなネタだけを食べ続けた。

「二人とも仲良くね」

 飯塚は二人の様子を眺め微笑む。

楽しい空間。先ほどまでの張り詰めた空気とは打って変わって、柔らかな空気がこの部屋を満たしていた。

しかし咲花の心は晴れなかった。ビジネスホテルで見た、男が書いたであろうメモがやはり気になっていた。あの後、メモはその他の所持品と一緒に総務部が回収してしまったため、もう一度確認することはできない。

なぜあそこで咲花の友達である祐那の名前が出てくるのか。咲花が導き出した答えは、祐那が男の家族と入れ替わっているということだった。そしてそれはすなわち、咲花がこれまで仲良くしてきた祐那はもうこの世には生きていないということを指す。

咲花は鼻で深く息を吸って、ゆっくりその息を吐いた。

不思議な気分だった。どうしようもなく悲しいと言うよりは、哀愁漂うような、儚い気分だった。そう、胸にぽっかり穴が空いてしまったような気分。

祐那は何を望んだのだろうか。咲花の目には、祐那に悩みがあるようには映っていなかった。

咲花は決意する。真実を知らなければならないと思った。男のメモは何だったのか、男の家族と祐那が本当に入れ替わっていたのか、それならば祐那の願いは何だったのか、それはchAngelを使うことによって叶えられたのか。

友達として、せめて自分だけはその真実を知っておかなければならないと思った。これは組織に属する渡咲花としてではなく、祐那の友達としての渡咲花の決意だ。


学校ではちょうど昼休みの時間で、昨日と同じ形で美智子と実と祐那が机を合わせてお昼ご飯を食べていた。

「今日は咲花が休みなの?」

机の向きを変えて、三人でお昼ごはんを食べる準備をする。

「両親が急に帰ってきたらしいよ」

美智子が先ほど先生から聞いた情報を実に伝える。

「そうなんだ」

三人が席につき、机の上にお弁当やコンビニのパンやおにぎりを広げた。

「うちも休めば良かったな。そしたらこんな現実見なくて済んだのに」

実は箸を右手に持ったまま、机の中からついさっき返却された英語の小テストを取り出す。

「再試?」

「合格点取るまで何度でもやるそうです」

テストの点の横に赤ペンで書かれている不合格という文字を眺めながら、唐揚げを口にする。

「同じ問題が出るのかな?」

「どうなんだろう」

祐那の問いに、唐揚げを口に含んだまま実が返事をする。

「でも同じ問題なら、答えを全部暗記しちゃえばうちの完全勝利だよね」

「もし違う問題が出たら、完全敗北だけどね」

美智子がお茶を飲む。

「痛いこと言うなあ」

実は手に持っていたテスト用紙を机の空いているスペースに置く。

「でもさ、英語って将来使うかな?うち日本から出るつもりあんまりないんだけど」

「実がバレー続けるんだったら、外国人選手と試合することもあるんじゃない?」

「でも試合相手なら別に話さなくない?」

「じゃあ、チームに外国人が入ってきたら?」

祐那が別の場面を提起する。

「頑張って日本語を話してもらう」

実が拳を握ってガッツポーズをした。祐那はその潔い姿を見て笑う。

「この前電車でスポーツ選手の集団を見たんだけどさ、日本人と外国人の混合チームみたいな感じで、日本人っぽい見た目の人が外国人っぽい見た目の人と英語で会話してたよ」

「え、そういうもんなの?」

美智子の発言を聞いて、実は眉間にしわを寄せる。

「実ちゃんも英語頑張らなきゃね」

祐那がそんな実に応援の言葉をかけた。

「善処します。でもなんだろな、テストになると途端にやる気なくなっちゃうんだよね」

実が天井を眺めて言った。

「実は英語ではなく、勉強が嫌いなのかも」

「そうかもしれない」

「どうしたら勉強が好きになりますか、美智子さん」

「とりあえずやるしかないかな」

「そのやる気がね?」

実が正面を向き直す。

「でもまあ、本当にやりたいことがあるならそっちを優先すれば良いんじゃない?人並みな人間を目指すというよりは一芸に秀でている人を目指すって感じで」

「それもあり?」

美智子の提案に実は首を傾げる。

「大ありでしょ。もし明確な目標があるのなら、周りに合わせてその目標の役に立たないことをするよりは、目標に近づく努力をした方が良くない?」

「でも、再試はちゃんと受けた方が良いと思うよ」

祐那が口を挟む。

「それは、ごもっとも」

美智子も祐那に同意した。

「美智子は私の味方なのか敵なのかどっちなのさ」

実がふてくされた様子でご飯をかきこむ。

「バレー頑張ってる実はすごいし、自分の目標に向かってこれからも頑張りなさいってこと。でも、卒業できるくらいには勉強をした方が良い。よって、再試の勉強もとりあえずきちんとやりなさい」

「はーい」

実が気の抜けた返事をする。

「美智子は勉強好きなの?」

いつも成績が良く、勉強ができる美智子に実は問いかける。

「好きって言うか、必要だから」

「必要か、うちはその必要性に気づけてないな」

実は自分と美智子の違いをかみしめるように何度も頷いた。

「そういえば昨日言ってた事件の犯人、まだ捕まってないらしいね」

美智子がネットニュースを見ながら言う。

「事件ってなんの?」

昨日の昼はいなかった祐那が美智子に問いかける。

「隣の県の一家惨殺事件ってやつ」

そこで実が音を出して箸を弁当箱の上に置く。

「うち、昨日その男を見ちゃったかもしれないんだよね」

口元に手を当てて、小声で言った。

「どこで見たの?」

「昨日の部活帰りに電車で。なんかフードを深く被ったボロボロの服の人がいてさ、気になって見てたらなんとなくその顔がニュースで流れてる男の顔写真に似てて」

話の途中で教室のドアが勢い良く開いた。ドアを開けたのは購買に行って帰ってきたクラスの男子だった。

「有川、担任が職員室に来いってさ。日直」

その男子の声が、教室の奥の方にいた三人にも届いた。

「ちょっと行ってくるね」

美智子が教室を出て行った。


授業が全て終わり下校の時刻となった。実はエナメルバッグに荷物を詰めながら、左斜め前で同じく鞄に荷物を詰めている祐那を眺める。

昨日から祐那の様子が少し変だと実は感じていた。体調が悪いせいなのかもしれないが、大人しいというか少し前に比べて人当たりが良すぎる感じがする。

実に対する態度もそうで、まるで数日前の実との口論を忘れてしまったかのようだった。それともわざとそういう態度を取っているのか、自分の中で忘れたことにしてしまっているのかと実は考える。

考えてもこのもやもやは消えず、実はいらだちを覚える。

「祐那、ちょっと話したいことがあるんだけど良い?」

後ろから祐那の姿を眺めてたはずなのに、気づいたときには祐那に話しかけていた。

「別に大丈夫だよ」

ここまできたら直接聞いてみるしかない。実は部活に行く前に祐那と話をすることにした。

あまり人が近寄らない特別教室が並ぶ階の端にある、透明な非常扉の前のちょっとスペースで実と祐那は向き合う。

「話って何?」

実は自分のためらいを打ち消すように、真っ直ぐ祐那の目を見た。

「祐那、昨日からなんか変じゃない?」

「え、」

昨日という明確な時を実が口にしたことに、祐那は動揺する。しかしそれを表には決して出さないように努める。

「変ってどういう意味?」

「上手く表現できないんだけど、なんか昨日から人当たりが良すぎる気がする」

「それは、変って言うのかな?」

祐那は尋ねる。

「昨日は体調悪かったから、皆への態度が雑になっちゃったのかもしれない。それで人当たり良すぎるなんて思わせちゃったのかも、嫌な思いさせてたらごめん」

祐那は実に頭を下げる。

「祐那は、月曜日のこと覚えてる?」

下を向いたままの祐那の頭に向かって実は上から声をかける。

「月曜日はうちが部活休みだから、途中まで一緒に帰ったよね。その時のこと覚えてる?」

祐那は頭を上げることができなかった。

「実はバレーの才能があって良いよねって祐那は言った。それにうちは怒った。その言い方がうちにはそれしかないみたいな言い方だったから、何の努力もしてないみたいな言い方だったから」

実は続ける。

「月曜日は途中で話にならなくなって、それで結局最後まで話せずじまいだったから、あの時言いたかったこと今言ってもいいかな?」

祐那は頭を下げたまま、小さく頷く。

「祐那が月曜に言ったように、確かにうちは小さい頃から運動ができる方だった。足が遅い子を見て、なんで速く走れないんだろうって疑問に思ってた。運動ができないっていうことの意味が分からなかった。才能というものが存在するのなら、うちは運動できるっていう才能を持っている方だとは思う。

でもだからって、努力してないわけではない。いろんな人と出会って、美智子みたいに賢い子もいたし、咲花みたいに人に寄り添える優しさを持ってる子もいたし、祐那みたいに苦手なことも得意にしようと努力できる子もいるってことを知った。自分の周りには、自分と違う人がいてそれぞれがそれぞれすごいところを持ってるって知った。

だからうちも、自分は才能を持っているって他の人を見下して自分が優位であることを誇るより、その人達と一緒にそれぞれが目指すところに向かって努力していきたいって思った」

実の言葉が切れた合間に、グラウンドから運動部のかけ声が流れ込む。

「祐那は、うちとの間に線を引いているみたいだった。自分は努力の人でうちは才能の人だって」

「ごめん」

祐那は謝る。顔を上げるタイミングはここだと思った。

「そう思わせてしまったのなら謝る。でも線を引いてるっていうのは違う。私はただ、実ちゃんが羨ましかっただけ。だと思う」

実は祐那の話を黙って聞く。

「なんでそんなことを実ちゃんに言ったのか自分でもよく分からないんだけどね。自分の近くに自分のないものを持っている人がいるとその人が輝いて見えるの。強い光が当たると、その影も濃くなるでしょ。それと同じで、輝く人がその輝きが強く見えると、自分がダメだなってその影が濃くなるの。」

祐那が涙ぐむ。

「実ちゃんに嫌な思いをさせちゃったことは本当にごめん。ただ羨ましかっただけなの。

今の私は、実ちゃんと仲良くしたいと思ってる。一緒に輝ける人になりたいと思ってる。だから、私とこれからも仲良くしてくれませんか」

祐那の目から涙がこぼれる。泣くつもりはなかったのに、涙がどんどんあふれて止まらない。

実は祐那の思いに気づかなかったことを反省した。祐那の肩に手を置く。

「うちの方こそ、怒ってごめん。月曜日にもっとちゃんと話すれば良かったね。祐那のことは大切な友達だって思ってるよ」

実が優しく笑った。

「もう、そんなに泣かないでよ」

実が祐那の肩を叩きながら、なだめる。

「ごめん」

「謝らなくていいからさ」

 祐那は涙を必死にぬぐう。しかしその涙は止まらない。あふれ出た感情を止めることができない。

「変とか言ったうちが言うのもなんだけどさ、祐那は祐那らしくいたら良いと思うよ。自分がダメだなんて思う必要はないよ」

「うん」

 祐那は頷く。


お疲れ様会が終わった後、咲花は同じ学校の生徒の下校時刻と重ならないように少し早めに家に帰ってきていた。それからしばらくぼんやりと過ごし、もう夜だ。

咲花は机に向かい、ノートを開く。祐那が本当に男の家族と入れ替わっているのかどうかまずは確認する必要がある。そこで男の家族について事情を知ってそうな人の名前を書き出してみることにした。

一番有力なのは情報部の人間、優吾と絵里香。次に管理部の人間、飯塚と光秀。最後に調査部の人間、特に佐久間。これらの人物にとりあえず話を聞いてみようと考える。

優吾にはさっきも尋ねたが、知らないと答えた。本当に何も知らないのかは分からないけれど、もし何かを知っていたとしてもきっと言葉を改めることはないだろう。

絵里花は今回の仕事に関しては、優吾のサポートという形で関わっていたため男の家族についても知っている可能性は高い。

飯塚はおそらく全てを知っているだろう。さらには第五ブロックで誰が入れ替わったのか全て把握しているため、祐那が入れ替わっているとしたらそれは把握しているはずである。

光秀は咲花と同じ立場にあるため、咲花が知らない情報をどこまで知っているのか、それは定かではない。

佐久間は男の妹の入れ替わりに関して調査を行った。その際父親と母親の資料も見たと言っていた。男の家族全員の入れ替わり相手に関して、確実にその相手を知っているはずだ。

事情を知ってそうな人間の候補を挙げてみたは良いものの、たとえそれを知っていても咲花に教えてくれるかどうかということが問題だった。咲花が聞きたい情報を全てペラペラと喋ってくれる人はいない。それは咲花も分かっていた。そう簡単に組織の守秘義務は破れない。

ならばどうするか。話を聞けるだけ聞いて、聞き出せた細かい情報を繋げて全体像を導き出すしかない。明日の午前中に調査部で、午後に情報部で、そして夜に管理部で話を聞く計画を立て、咲花は眠りについた。


土曜日、咲花がまず足を運んだのは第五ブロックE地区にある調査部の拠点。建物は少しだけ古びていて、普通の会社のような雰囲気を持っている。そこで働いている人達も、スーツを着ているなどきちんとした格好をしている人が多かった。

佐久間さんに会いに来たと伝えると、半透明な板で仕切られた商談用のスペースに案内された。椅子に座り佐久間さんが来るのを待つ。そばに置いてあった観葉植物は立派な葉をつけている。

「おはようございます」

少ししてオフィスカジュアルに身を包み、髪をハーフアップにした佐久間さんが現れた。一昨日、管理部に来たときとは異なりその表情は明るい。

「お久しぶりです。今日はお時間いただきありがとうございます」

咲花は一度席を立ち、挨拶をする。

「こちらこそ今回はありがとうございました。無事に対象を確保するこができて本当に良かったです。どうぞお掛けください」

佐久間は笑顔を見せる。二人が着席すると咲花が話を始める。

「今日お伺いしたのも、そのことに関してなのですが、」

咲花は机の上に出しておいた手帳にボールペンで文字を書く。

「佐久間さんは小林祐那という名前を見たことはありますか?」

漢字を書いて、それを佐久間に見せた。佐久間は咲花の手帳をのぞき込んだ後、咲花の目をじっと見た。

「その方がどうかされたんですか?」

「私が昨日男を確保した際に、男の所持品のメモ帳にこの名前が書いてあるのを見たんです」

そこで咲花は思った。ここに来る前に、佐久間の前では自分は祐那のことを知らないという体でいこうと考えていた。しかし佐久間は男の妹の調査を担当しているのだ。もし祐那の入れ替わり相手が妹なら、私が祐那と同じクラスで友達だということを佐久間は知っている。優吾が、咲花が体育のソフトボールでホームランを打つのを見たと言っていたように、学校にも監視カメラが仕掛けられている。そして調査のためであれば、その申請だって通るはずだった。

「あの、渡さん?」

佐久間の声が聞こえ、咲花は現実に戻る。

「大丈夫ですか?」

「すみません。少し考え事をしていて」

「それで、メモに書かれた名前でしたっけ?」

咲花は心を固める。回りくどい言い方はもうしないことにした。

「佐久間さん、守秘義務があるのは承知の上でお願いします。詳しい話はお聞きしません、ただ小林祐那という名前を見たことはありますか。それだけ私に教えてください。お願いします」

咲花は佐久間に頭を下げる。

佐久間は知っていた。小林祐那を、そして祐那と目の前の咲花が友達であることを。マッチングの最終決定をする前に映像を通じて見た二人の笑顔を。

「頭を上げてください」

佐久間の言葉で咲花は頭を上げ、佐久間の顔を見る。

「その名前は存じ上げています」

佐久間ははっきりと言った。


調査部を出て、咲花は次に情報部に向かおうとしていた。そこで絵里香から話を聞くつもりだった。そこに行くため咲花はバス停にいた。

目的地に向かうバスが予定時刻の約五分遅れで到着した。開いた前の扉から乗り込み、後ろの方へ進む。この時間のバスは空いていて、咲花は後ろから二番目の二人掛席の窓側に座った。

右側の大きな窓からは、他のバスを待って並んでいる人達の姿が見える。先頭の若い男の人は首を折って携帯電話の画面を眺めている。その後ろの学校名が書かれたジャージを着た少年は、停まっている回送バスをじっと見ている。その後ろのおばさんは辺りを見回しながらそわそわとしている。その後ろの白髪のおじいさんは道行く人を目で追っている。 

そこに並ぶ人は皆時間を持て余している。なんと贅沢なことなのだと咲花は思った。

バスが発進する。咲花は大きな窓に頭をつけ、ぼんやり外の景色を眺めながら考えた。差し込む太陽の光が熱い。

佐久間は祐那を知っていた。ということは祐那が男の家族の入れ替わりであるということはほぼ間違いないのだろう。

それならば誰と入れ替わったのか。それは現時点では絞れなかった。

入れ替わったのが妹だとしたら、つい最近の話となる。咲花は父親と母親が入れ替わった時期について知らなかったが、そのどちらかならもう少し前の話になる。

咲花と出会った頃から祐那は本当の祐那ではなかったのかもしれない。それならば咲花から見た祐那は最初から何も変わっていないことになる。

ある人をその人たらしめているのは何なのか。容姿なのか、中身なのか。

入れ替わった人がいて、その人を昔から知っている人は現在のその人を見て別人だと感じる。しかしその人を最近知った人からしたらその人は紛れもなくその人である。

その人は偽物なのか、本物なのか。本物とは何なのか。何をもって人は相手をその人だと認めるのか。

思考がこんがらがってきたため、咲花は一旦考えるのをやめた。少しの間目を閉じる。

目的地に近づいたころ、絵里香から咲花にメールが届いた。情報部の建物に着いたら裏口から入るようにという内容だった。咲花は簡単に返事を送る。

バスを降り、情報部の建物に到着した。裏口の入館ゲートに設置されている機械に左手をかざす。情報部は他の部署と比べて明らかにセキュリティがしっかりしていた。

咲花はエレベーターに乗り込む際に、またコードをかざす。十一階のボタンを押し、上へ向かった。

ガラス張りのビルの十一階に、絵里香専用の個室があった。ドアをノックすると絵里香が出てくる。

「それで話って何?」

いくつのも情報端末やよく分からない機械が置かれた空間の端の方で、申し訳程度に置かれた椅子に座り絵里香と向かい合う。

「相談があるんです」

咲花は少しだけ下を向いて話を切り出した。

「昨日の事なんですけど、私達が追っていた一家惨殺事件の犯人の男を拘束した時に、彼が書いたメモを見てしまったんです。そこには小林祐那という名前が確かに書いてありました。それが私の友達なんです。

男の家族のうちの誰かと、私の友達が入れ替わってるんじゃないかと思うんです。絵里香さんは何かご存じですか?」

絵里香は咲花の質問には答えられなかった。たとえ相手が組織の人間であっても、他の部署に情報を漏らすわけにはいかない。情報部に所属している絵里香だからこそ、その重みを知っていた。

知っていると言うことはできないし、知らないと言うこともできない絵里香は自信の教訓を口にする。

「咲花、組織の仕事に私情を挟んではいけないわよ」

「それは分かっています。ただ真実を知りたいだけなんです。知ってどうこうするつもりは無いんです」

絵里香が赤い眼鏡を手で上げる。

「たとえ咲花でも、それは言えないわ」

「そうですよね」

咲花は絵里香の目を見て無理矢理笑った。会話が途切れ沈黙が流れる。ブラインドが完全に閉められた窓の向こうから飛行機の通り過ぎる音が聞こえた。

咲花は絵里香から情報を手に入れることは諦め、さっきバスの中で考えていたことを絵里香に問いかけてみた。

「絵里香さんは、ある人をその人たらしめているものは何だと思いますか」

絵里香は少し考え、口を開く。

「そんなものは無いわ」

絵里香の予想外の答えに咲花は驚く。

「人間は変わる生き物よ。たとえ薬を使わなくたって、別人のようになることができる。見た目も中身もね。それに何らかの理由で記憶を失ってしまうこともある。ずっと時間の流れのある一地点で止まっていることは、生きてる人間には不可能よ。自分では変わっていないと思っていても、その人は確実に変化している」

「変わる生き物か」と咲花はつぶやく。

「そういう意味で、私はchAngelという薬も人間の道理から外れてはいないと思ってる。だからたとえ咲花の友達がchAngelを使っていたとしても、咲花がその人を友達と思っている限りはその友達は友達のままよ」

咲花は絵里香が自分を励ましてくれているようだと感じた。

「絵里香さんは誰かと入れ替わりたいって思ったことありますか?」

「ない」

「そうですか」

「でも、鳥になってみたいと思ったことはある。自由に空を飛んでみたいなって。あいにく、人間以外との入れ替わりは対象外だから不可能だけどね」

咲花は光の入ってこない窓を眺める。

「いつか、動物とも入れ替われる日がくるかもしれませんね」

「開発部になら何だって作れそうな気はするわね」

「あ、でもその場合だと動物と会話出来るようにならないとですね。私も迷惑行為を働く動物と戦わなければ行けなくなるかもしれません」

咲花の冗談で、二人は笑った。

「私、さっき調査部の佐久間さんにお話を聞きに行ったんです。その時に、佐久間さんは祐那を知ってるって、そのことだけを教えてもらいました」

「甘い人ね」

「はい。優しい方です」

絵里香が微笑む。

「昨日、もしかして祐那が組織の薬を使って誰かと入れ替わってるんじゃないかって思ってから、ずっと胸にぽっかり穴が空いている気がするんです。佐久間さんと話してもずっとそうでした。感情が波打つんじゃなくて、波が一切立たないような感じがしていて。これって何ですかね?」

 咲花は自分の胸を押さえる。

「誰もが経験する道よ」

絵里香は言った。その言葉には素っ気ないいつもの絵里香とは違う、人間らしい暖かみがあった。

「組織の人間は、特に大人は皆どこか冷静で落ち着いていて、余裕があるように見えるでしょう?優吾みたいなのとは対照的にね。それは皆、今咲花が感じているような虚しさを感じているから。まあ、中には例外もあると思うけど」

人間は誰しも感情を持っている。一見冷静に見える大人だってそうだった。心の虚しさはその感情を沈める。その結果、見える世界がぐっと広がる。

けれどそれは決して良いことだけではない。見える世界は広がっても、世界は子どもの頃に見たようにはその目に映らない。常にあったその彩りや輝きは、もうその目には映らない。

「その虚しさへの向き合い方は、人それぞれだと思うわ」

絵里香はその虚しさを、胸に空いた穴を埋めることができなかった。だから見えていないふりをした。穴なんて空いてないと、自分に言い聞かせた。

咲花はどうするだろうか。絵里香は咲花を昔の自分と重ねていた。


情報部を後にした咲花は次に光秀に話を聞くため、拠点に戻ろうとしていた。しかしそこで、戻る前にB地区の中程にある、事件現場に行ってみようと思い立った。

咲花は再びバスに乗る。

目的のバス停で降り、ごく普通の住宅街を少し歩くと白い四角い家が見えた。その周りには立ち入り禁止のテープが貼られており、警備のためか警察官が一人立っていた。家の玄関前のところには、花やお供え物のお菓子などがたくさん置かれている。

咲花は会釈して警察官の前を通り過ぎ、花の前にしゃがんだ。両手を合わせ、目を閉じる。

再び目を開け立ち上がろうとすると、ちょうどそこに花束を持った白髪のおじいさんが現れた。咲花の横にしゃがみ、花束を供える。

「君もこのご家族の友人か何かかい?」

 おじいさんは咲花に話かけた。よく見るとその人は、咲花が情報部へ行く前にバス停で見たおじいさんだった、

 おじいさんの問いかけに咲花は迷う。今の段階で、自分は誰に手を合わせに来たと言えば良いのだろうか。もし、男の家族が祐那と入れ替わっていたとしたら祐那に手を合わせることになる。しかしそうでなかったら面識のない家族に向かって手を合わせていることになる。

「あなたもそうなんですか?」

 咲花はおじいさんの質問にはっきりと答えなかった。

「僕は、この家族と直接関わりがあるわけではないんだ」

 おじいさんはそう言った。

「関わりが無いのに、花束を持ってこられたんですか?」

「ああ、最後に見ておきたいと思ってね」

 おじいさんの目は懐かしいものを見ているようだった。

「君はこの辺に住んでる子かい?」

「いえ、私はもう少し離れたところに住んでます」

「そうかい」

 咲花とおじいさんの間に沈黙が流れる。

「悲しい事件だよね」

 おじいさんがつぶやいた。

「なぜこの事件が起こったんだろうね」

 咲花はどきっとする。

「テレビとかだと家族仲が悪かったって言われていますよね」

「でも、それだけで親と妹を殺してしまうのかい?」

「私達には想像できないような深い悩みがあったんですかね」

 咲花はおじいさんとの話を切り上げようとはしなかった。

「君は入れ替わりの薬というのを知っているかい?」

 おじいさんの突然の言葉に咲花は驚く。この人は組織の関係者なのだろうか。この場合知っていると言う方が良いのか、知らないという方が良いのか咲花は悩む。ところがおじいさんは咲花の返事を待たずに話を続けた。

「誰かと入れ替わって、自分の願いを一つだけ叶えることができる薬というのがあってね。それは一見するとすごく魅力的な薬なんだけど、危ない薬でもあるんだ」

「その薬が、どうかしたんですか?」

 咲花は問う。このおじいさんは一体何者なのだ。

「いや、特に深い意味はないよ。君を巻き込んでしまってはいけないからね。でも誰かにこの話をしたかったんだ」

 おじいさんは目を閉じ、手を合わせる。そしてゆっくりと目を開く。

「もう会えないのかね」

 それがおじいさんが咲花の前で言った最後の言葉だった。咲花はそのおじいさんの姿を眺める。そして気づいた。その人が同じ目をしていることに、咲花と同じ虚しさを抱えていることに。


男の家を訪れたことで拠点に戻る時間が少し遅くなってしまった。部屋に入ると、そこでは光秀が待っていてくれていた。

「よお、咲花」

もう夕方だというのに、相変わらずその茶色い髪の毛には寝癖がついている。

「すみません、遅くなってしまって」

「全然大丈夫だよ」

咲花は光秀の隣に座る。

「それで、話っていうのは何だ?もしかして男の確保の帰り道で考えていたこと?」

 あの後、いつになく深刻そうな様子をしていた咲花のことを光秀は心配していた。そして、咲花が何を考えているのか光秀も考えていた。

「実は、」

咲花は祐那のことを光秀に全て話した。

「そうか、そんなことがあったんだな。俺は正直なところ、何も知らない。咲花の助けになるような情報は持ってないんだ」

 弱々しく微笑む。

「でもそんなに気になるなら本人に直接聞いてみたら良いんじゃないか?組織の人間としてではなく、その子の友達である咲花として。最近なんか変わったなって、もしかして噂になってる薬使ったのって聞いてみたら良いと思う」

「そんな、直球すぎませんか?」

光秀の言うことはもっともだった。しかし咲花にその勇気は無かった。

「もし違うなら冗談で済む話だろ」

咲花は光秀に言葉を返せないでいる。

男の家族と祐那が入れ替わっていることはほぼ確実だった。しかし確証はない。それに祐那が何を願ってchAngelを使ったのか、またその願いは叶ったのか、それらの手がかりは全く掴めなかった。

「そうやって祐那に直接聞いて、それでもし答えがイエスだったら私はどんな反応をすれば良いんですか」

「それはその時に考えれば良いことだ。そう言われたらどうするかなんて、言われる前から考えていても結局答えは出ない。その時に自分の心に従って反応すれば良い。友達としてそいつの真実を知りたいんだったら、友達としてそれを知ったときにも反応してやれよ」

「そうですね」

 光秀が話を少し変える。

「てか、男は何でその名前を知ってたんだろうな。入れ替わり相手の情報は入れ替わってみるまで分からないもんだろ、なら妹から聞いたって線は無くなる」

「入れ替わり後の祐那が自分の素性を喋った?」

「そうだったら、それは契約違反になる。俺はそっちの方が気になるな、飯塚さんは全てを知ってんのかな」

光秀は宙に向かって言葉を放つ。

「飯塚さんは今いらっしゃらないんですか?」

「ああ、結構前から俺はここにいたけどその時からずっといないよ。また仕事かな」

 今日、飯塚から話を聞くことは難しそうだと咲花は判断した。

「どちらにせよ、深入りは良くないぞ。分からないことがあって、それを知りたくても、組織に関係しているところが一つでもある限りそこにたどり着くことは不可能だろう。とりあえず、明後日学校行った時に聞いてみろよ」

光秀は咲花に優しく言った。

咲花は目線を落とす。そこでふと、テーブルの下、光秀の足下に白い紙が落ちているのに気づいた。咲花は手を伸ばしそれを拾い上げる。何やら名刺のようだ。

そこに書かれた文字を目にして衝撃を受ける。

有川美智子。

咲花の友達の名前が書かれていた。

「これ、光秀さんのですか?」

光秀が咲花の持っている名刺をのぞき込む。

「どれ?ああ、俺のだ。いつの間に落としたんかな」

「この人は?」

咲花は問う。

「開発部の人だよ。今回使った薬あるだろ?ミネラルウォーターに入れたやつ。あれを作った人」

「どんな人でしたか」

咲花は問う。

「どんなって、若い女だったな。あと感情のこもってない、抑揚の無い喋り方をするやつで機械みたいだった」

「どんな容姿でしたか」

咲花は問う。

「髪は黒髪で、肩くらいまでの短めだった。目はぱっちりしてたな。身長はまあ高め?低くは無かった。そんなに気になるのか?」

 そこで咲花は冷静になる。

「いえ、開発部の人って会う機会無かったのでどんな人なんだろうなって気になりまして」

咲花はごまかす。光秀が言ったその人の特徴は、機械みたいな話し方というものを除いて全て美智子に当てはまっている。

塾に行くと言っていたあの日、美智子は開発部に行き光秀に薬を渡していたのだ。

美智子に聞けば祐那のことが何か分かるかもしれないと咲花は思った。


開発部薬課、そこが美智子の配属先だった。

開発部は薬課、機械課、システム課の三つに分れ、さらに担当領域ごとにチームに分れる。美智子のチームは人間の身体機能を低下させることを目的とする薬を研究していた。

9338が完成したのは、事件が起きる少し前のことだった。自分が作ったものが実際に使われるというので美智子は少し嬉しかった。 

もちろんその薬がどのような用途で組織に使われるのかは知っていた。総務部への引き渡しというのがどのような意味を持っているのかも知っていた。しかしそれを作ることは組織にとっては必要であり、美智子にとっても必要だった。

薬課の中でもchAngelに携われる者はごくわずかである。人類の願いを叶える薬、それを生み出せる存在は皆にとっての憧れであった。美智子自身もいつかはchAngelの研究開発に携わりたいと思っていた。今の仕事は、そこにたどり着くために必要だった。

開発部の資料室にいた美智子の前に小柄な中年の男が現れる。総務部の人間だった。

「有川さんでしょうか」

「はい。そうです」

この組織では皆が実名で活動している。しかし総務部の人だけは自分の名前を名乗らない。名前がないのか、言えない理由があるのか。どうしても名前が必要なときも、必ず偽名を使っていた。美智子は目の前の男の名前を知らない。

「こちらが今回の回収品です。お返しいたします」

小柄な中年の男はペットボトルを美智子に渡す。その表面には9338と書かれたラベルが貼ってあった。

「それとこちらで作成したフィードバックになります。今後の研究にぜひお役立てください」

「ありがとうございます」

データの入ったチップを小柄な中年の男から受け取る。

「それでは失礼いたします」

小柄な中年の男が丁寧にお辞儀をして、美智子の前を去る。その去って行く後ろ姿を眺めながら美智子は違和感を覚えた。

シャツの襟の中から頭の下部に向かって黒いケーブルが這っている。美智子は気づいた、あの小柄な中年の男は人間ではないと。

美智子は受け取ったペットボトルを資料室の机に置き、椅子に腰掛け端末を起動しチップを入れて報告書を読み始める。

9338

開発者:有川美智子(開発部薬課)

使用者:長谷川光秀(管理部第五ブロック)

本件における9338の使用用途は対象の確保。

9338を溶かしたミネラルウォーターを使用者は設置。二時間後に対象が9338を摂取(録音音声より確認)。確保時、対象の生存を確認。抵抗はなし。

保管室へ移送後、摂取から三時間十二分後に四肢の動きを確認。摂取から三時間三十九分後に身体機能の完全回復を確認。

9338による副作用は見受けられない。

報告書を読み進めると、詳しい状況説明と参考画像が添付されていた。このような報告書を総務部から渡されるたびに、なんて分かりにくいのだろうと美智子はいつも思っていた。

守秘義務の関係上、情報が制限されることは仕方が無い。開発部に届くのは薬に関する情報のみで、使用者である管理部がどのような仕事をしていたのか、対象はどのような違反を犯しその身柄を捕らえられることとなったのか、それを美智子が知ることはできなかった。そのような点を省いているせいで、報告書に書かれた内容も飛び飛びで読みづらい。

美智子は報告書に一通り目を通した後、チップを取り出して白衣のポケットに入れる。そのまま9338の含まれたペットボトルを持って研究室へと向かった。


祐那はまた学校の裏の公園に来ていた。西の空に落ちかけている太陽が光を放っている。その蛍光色の赤のような光と空の水色が混ざり合う。オレンジ色のいつもの夕焼けとは違う景色だった。

「体調はどうだい?」

「おかげさまで、今のところは調子が良いです」

ベンチに腰掛ける祐那の隣にはグレーのハットをかぶる飯塚がいた。

「申し訳ないね。本当ならこんなに君に干渉することは無いんだけど」

「いえいえ、謝らないでください。むしろ私は助けていただいている方ですから」

そのまま続けて、祐那が飯塚に尋ねる。

「男が捕まったって本当ですか?」

「ああ、これでもう君に危害が及ぶことはないと思うよ」

「そうなんですか。ありがとうございます」

祐那は感謝の意を述べる。

「それで、今日をもって君の監視を終了しようと思う。カメラの接続はこちらで切っておくよ。本体の方はまたご家族が不在の時にでも取りに行かせるね」

「分かりました」

今日は遊具で遊ぶ男の子達はいない。

「学校生活はどうだい?」

飯塚が尋ねる。

「楽しいです。今度、友達と大きなパフェを食べに行くことになったんです」

言いながら祐那の中でこみ上げてくるものがあった。祐那の目に涙があふれる。それを乾かすように斜め上の空を見上げる。実に呼び出された時のことも思い出していた。あの真剣な言葉は本来自分が受け取るべきものではない。

「良いんですかね。私だけ楽しんでて」

祐那の声は震えていた。その様子を横に座る飯塚は横目にちらりと見る。

「君が自分を責めることはない。それよりも、これからの人生を楽しみなさい」

「はい」

「どうしてもというなら、一度記憶をリフレッシュすることも可能だよ。お金はもちろん必要ない。ただし、その場合は一人で何も分からない状態からスタートすることになるし、リフレッシュ後のこちらからのサポートもないけれど」

公園の横を自転車に乗った実が通る。ベンチに座る祐那の姿を見つけ、実は自転車のまま公園へ突っ込もうとするが入り口にあった車止めに引っかかりバランスを崩す。

「おっと」

その声に祐那が気づく。

「実ちゃん?大丈夫?」

祐那は立ち上がり、実に近づいていく。

「大丈夫、大丈夫。祐那を見つけたからそのまま入ってきたら引っかかっちゃって。それ拾ってくれる?」

実は体勢を整えながら笑う。祐那は自転車のカゴから落ちた実のランチバックを拾い上げた。祐那の顔を見たとき、実は祐那の目の周りが赤くなっていることに気づく。

「ありがとう」

そのことには触れず、ランチバックを受け取る。

「あの帽子かぶったおじさんは祐那の知り合い?」

実が先ほどまで祐那がいたベンチの方を見た。祐那は嘘をついた。

「いや、全く知らない人。夕日が綺麗ですねって話してただけだよ」

「何だそれ。てか祐那帰り?」

「うん」

「なら一緒に帰ろうよ。今日は一日練でさ、もうへとへと」

 実と祐那は公園を出る。

「外部コーチが来てたんだけど、その人が厳しくて」

「バレー部、外部コーチなんていたんだ」

「そうそう、実力は確かにあるんだけど教え方が厳しいのなんのって」

話ながら去って行く二人の後ろ姿を飯塚は眺める。祐那が途中、一度だけ振り返り飯塚に向かって軽く頭を下げた。


日曜日の午前十時半、美智子は白い絨毯の上に座っていた。外の暑さとは打って変わって、部屋の中はエアコンがついているおかげでとても涼しい。

「お菓子食べる?これ、大家さんにもらったんだ」

部屋の主である咲花が缶に入ったクッキーを木製のミニテーブルの上に置く。

「ありがとう。もらうね」

美智子は手を伸ばし、クッキーを一枚摘まんだ。

咲花は飲み物とコップを取りにキッチンに歩いて行った。冷蔵庫を開け、中から何かを取り出す音が聞こえる。冷蔵庫が閉まった。

昨日の夜、美智子のもとに咲花から明日家に来れないかという連絡があった。咲花の両親は海外出張中で、咲花自身は学校の近くのマンションで一人暮らししていると聞いていた。今までも何度か家に来たことはあったが、直前の連絡でしかも一人で来て欲しいと言われたため、どんな話が飛び出すのだろうかと美智子は緊張していた。

そして用件は伝えられぬまま、美智子は咲花のマンションまでやって来た。

「ところでさ、今日は何で私を呼んだの?」

美智子の横では咲花がキッチンから持ってきたレモンティーをコップに注いでいる。机の上にはクッキーの他に、美智子が手土産として持ってきたお菓子も無造作に置かれている。

「美智子はさ、長谷川光秀って人知ってる?」

咲花はレモンティーのペットボトルを右手に、コップを左手に持ちながら言った。その表情はいつもの咲花と変わらない。

長谷川光秀。9338を受け取りに来た管理部第五ブロックの人間。咲花が彼の名前をなぜ知っているのか、美智子は疑問に思った。一体どんな繋がりなのだろうか。

「聞いたことあるような、ないような。咲花の知り合い?」

クッキーを食べながら返事をする。

美智子は光秀を知っているはずなのに、それをはっきりと言わなかった。咲花はもどかしい気持ちになる。

組織の人間は左手のコード以外、その所属を証明するものがない。さらにその左手も、ただの1LDKの中では何の証明にもならない。

光秀には美智子が咲花の友達であるということは言わなかったため、昨日の名刺は今もまだ光秀の手にある。

美智子が組織の人間だと自分は知っているということを伝える手段がない。それどころか咲花自身が組織の人間であることを証明することもできない。

この場合はどうしたらいいのだろうか、いっそのことずばっと聞いてみた方が良いのだろうか。でも間違っていたらどうしよう。もし同姓同名の別人だったら。咲花は悩んだ。

そこで咲花は光秀の言葉を思い出す。

「もし違うなら冗談で済む話だろ」

そうだ間違っていたら光秀のせいにして冗談だったってことにしよう、と咲花は心を決めペットボトルから手を離した。

「美智子は薬を作ってるの?」

咲花の直球な質問に、美智子は一瞬動揺する。

「何の話?」

美智子はまだ真実を語らない。

「光秀さんから聞いたんだけど、違った?」

その時、美智子は気づく。咲花も組織の人間で、光秀と同じ部署なのではないかと。あの人は確か、

「咲花は、管理部?」

大当たりだった。美智子から導き出した管理部という単語に、咲花はあの名刺が本当に目の前の美智子のものだったのだと確信する。

「そう。美智子は開発部?」

咲花の言葉に美智子も確信する。

こんな偶然があるものか、と二人で顔を見合わせた。

「何で私が薬を作ってるって分かったの?」

美智子は咲花に尋ねる。

「美智子の名刺を見たの。光秀さんが落としたものだったんだけど、詳しく話を聞いたら9338を作った人からもらった名刺だって言ってて」

「長谷川さんが私の名刺を落としたのが原因ってことか」

「まあ、そうなるね」

「咲花はいつから組織にいるの?」

「十歳の時からだよ」

「かなり前からなんだね」

 美智子は驚く。

「それじゃあ、両親が海外に行ってて一人暮らしをしてるっていうのも嘘?」

「いや、それは本当のこと。私の両親も組織の人間なんだ」

「そうだったんだ」

「それで、日本を出ることになったときに私が組織に預けられたの。それが十歳の時って話」

 咲花は昔を思い出す。最初は組織が何をしているのかは知らなかった。そんな時からずっと組織にいるから、咲花にとってはこれが普通の日常だった。

「光秀さんも同じ時期に組織に入ってね、仕事を始めたのは私の方が遅かったけど一応同期なんだ」

 美智子は新しい咲花を見た気がして不思議な気持ちになる。まさかこんなに身近に組織の人間がいるとは思わなかったし、こんな形でそれが分かるとも思っていなかった。

「美智子は、やっぱりいつかはchAngelを作りたいの?」

「うん。それが私の目標」

「そっか」

 咲花はそう言った後、しばらく黙ってしまった。

「私が組織の人間であることを確かめるためだけに、今日呼んだんじゃないんでしょ」

 美智子は咲花の横顔に向かって問う。咲花の表情は先ほどまでと比べて硬かった。

「実は、祐那がchAngelを使ったかもしれないの」

 その言葉に美智子はあっけにとられる。

「今回の件、発端は隣の県で木曜日に発生した一家惨殺事件でね」

咲花は友達として、美智子に祐那の件を全て話す。今回の仕事について話しすぎないようにだけは注意しなければならない。

「その事件では、美智子も知ってると思うけど男が両親と妹を殺したの。学校でも何度か話題に出たよね。その両親と妹は実はchAngelを使っていて、男は薬と組織を憎んでいた。問題は男が事件を起こしたことでも組織を憎んでいるってところでもなくて、男が自分の家族が薬を使ったって知っていたところにあった。もし男が警察に捕まったりしたら組織内部に警察が介入する恐れがあるから、それで管理部が男を確保することになったの」

美智子は頷きながら静かに咲花の話を聞く。

「私もその男の確保に関わっていたんだけど、男を捕まえた時にその持ち物の中にメモ帳があった。そしてそこに小林祐那って文字が書かれていた。

それからいろいろ可能性を考えて一つの考えにたどり着いた。それが祐那がchAngelを使って男の家族と入れ替わっていたということ。なぜ男が祐那の名前を知っていたのかはどうしても分からないんだけど、男の家族について詳しい事情を知ってる人に昨日話を聞きに行ってみた。

守秘義務があるからやっぱり皆話してくれない、もしくは話せることは無いって感じだったんだけど、妹さんの調査を担当した調査部の人が小林祐那という名前を知っているとだけ教えてくれたの」

「調査部が知ってるってことは、祐那自身が入れ替わってる可能性が高いということ?」

「そう思った。でも決定打がなくて、あのメモが何だったのか、男の家族と祐那が入れ替わっているのかについても確かなことは分からない。

 美智子が本当に開発部の人間なら、私が知らないような情報を何か知ってるかもしれないと思って美智子を呼んだ。私はただ、本当に祐那が入れ替わっているのか、だったら祐那の願いは何だったのか、それはchAngelを使うことによって叶えられたのかが知りたいだけなの。友達である私だけは祐那の本当のことを知っておかなければならないと思ったから。美智子も協力してくれないかな」

美智子は知らなかった。自分の属する組織が、自分たちの作っている物がこんなにも身近なところまで押し寄せていたのだということを。それと同時に、咲花の思いも理解できた。

組織は透明な存在である。誰が組織のメンバーなのか、普通に生活しているぶんには分からない。それゆえに薬の存在も透明なものである。誰が誰と入れ替わっているのか、普通に生活しているぶんには分からない。

大切な人が入れ替わっていたとしても、それを証明できるものは無い。入れ替わった後にその大切な人がこの世からいなくなってしまっても、大切な人がいなくなってしまったことには気づけない。それに気づけるのは、入れ替わりに直接関わった人だけである。それが私達だった。

私達だけが、祐那の入れ替わりに、この世からいなくなってしまったのかもしれないということに気づける。

そこで美智子は昨日見た、総務部の小柄な中年の男に付けられた装置を思い出す。

あの装置の名前はスパイダー。開発者は美智子の知り合いで開発部機械課所属の芦屋純平。

「咲花、祐那が入れ替わっているかどうかが確実に分かれば良いんだよね」

「まずは、そうだね。そこが確実じゃなければ、それ以外も全て真実ではなく憶測になっちゃうからさ」

目の前に置いてあるレモンティーのペットボトルの表面を水滴がつたった。

「それならできるかも。chAngelを使ったかどうか、見分ける方法がある」

「見分けるってどうやって?」

調査部が作成し、情報部が保管する顧客リスト以外にchAngelを使った者を見分ける方法は無いと咲花は思っていた。

「機械課の人が作ったカメレオンって装置があるの。確か、サーモグラフィーみたいな感じでその装置を使って人を見ると、chAngelを使ったことある人は首のところが発光して見える仕組みになってるって言ってた気がする」

「発光するの?」

自分の首を押さえてみる。

「chAngelは一つとして同じものが無い。私も詳しいことは分からないんだけど、特定の相手と入れ替わるための薬だから皆一緒だったら入れ替わりができないじゃない?だから成分が微妙に違っていて、そこに含まれるある物質が薬を飲み込むときに首のところにくっつくようになってるの。それが反応して光って見えるらしい。人によって違う色に光るんだって」

咲花は全く理解できなかった。

「仕組みはよく分かんないけど、それは入手できるものなの?」

「完成したものは総務部が全て管理しているから無理だけど、作った人のところに行けばあるかもしれない」

「美智子はその場所知ってる?」

「知ってるよ」

咲花と美智子は二人でその装置を作った芦屋純平のもとに向かった。


「久しぶりだな有川。何の用?」

咲花と美智子の前に現れたのは天然パーマで作業着を着た若い男性。

「お久しぶりです」

美智子は表情を変えないまま純平に挨拶をする。美智子はオンとオフをしっかり切り替え、組織にいるときの自分と日常生活を送る自分を分けていた。

「初めまして。管理部第五ブロックの渡咲花です」

咲花は美智子の少し後ろから声をかける。

「第五ブロックってあれか、光秀と同じとこ?」

「はい、そうです。光秀さんをご存じなんですか?」

「ちょっと前の仕事で一緒になったんだよね」

「あ、もしかして小型のロボットを作った方ですか?自動で動く、情報転送用の」

咲花は光秀がネットカフェで使ったロボットを思い出し、純平に尋ねた。開発部で機械を作ってる人からもらったと光秀は言っていた。

「そうそう、ビートルの試作品をあげたんだよ」

「あのロボットはビートルという名前なんですか?」

「あの小さくて丸っこい感じがカブトムシみたいだっただろ?」

「そう、ですかね」

 咲花はそのロボットを見せてもらっていたが、カブトムシには見えなかった。

純平は自分が作った装置に生き物の名前を勝手につける傾向にあった。名前に深い意味は無く、すべて純平の直感により命名されている。咲花はその名前には深く突っ込まず、男の確保に貢献したあのロボットを作ったという純平にお礼を言う。

「先日、そのロボットにお世話になりました。ありがとうございます」

咲花がそう言うと純平が笑顔を見せた。

「それは嬉しいな。光秀のやつ、こんなもんいらないとか言いやがったんだけど役に立ってんじゃん」

「うちの部署に特別研修で来てる情報部の新人も、すごいって言ってましたよ」

「だろ?やっぱり分かるやつには分かるんだな。あ、良い機会だしそいつにお土産持ってけよ。渡ちゃんも好きなの持って行って良いよ」

純平は自分の倉庫兼作業場に咲花と美智子を連れて行った。コンクリート打ちっ放しの壁とかなり高い天井。入った部屋には天井までの高さがある棚がいくつも並べられ、さらにその棚からあふれた機械や工具が床に散らかっている。

「その辺いろいろ落ちてるから踏まないように」

純平は脚立に乗り、棚の上の方にある段ボール箱を取り出す。その箱を落とさないように慎重に二人の前に戻ってきた。

「これがビートルの完成品」

光秀が持っていた試作品は一回しか使用できないものだったが、目の前にあるビートルは自動で持ち主のところまで戻ってきて何度でも使えるように改良されていた。

「そういえば、光秀さんが持ってるビートルは使った後どうなるんですか?回収とかしてないと思うんですけど、大丈夫ですかね」

「野生のカブトムシは死んだ後どうなると思う?」

純平は言った。

「つまりそういうこと」

「どういうことですか?」

咲花は首を傾げる。開発部の人の言うことはやはりよく分からない。

「まあ、そこは秘密って事でね」

純平は口元で人差し指を立てた。

「他にも面白いものがあるんだよ。見てく?てか見てくよね」

純平は咲花を連れて部屋の奥へと入っていく。咲花は戸惑いつつも、純平の誘いを断り切れずそのまま棚の間に消えていった。美智子はその場に留まりその様子を眺める。これは長引くぞと腹をくくった。

一人になった美智子の足下にケーブルがはみ出た段ボールが置いてあった。美智子はしゃがみ、その箱を開ける。そこに入っていたのはスパイダーだった。

開発部に入ってまだ間もない頃、薬を作るための新しい機械の開発を頼むため美智子は純平のもとを訪れた。そしてこの部屋に足を踏み入れたとき、一番に紹介されたのがスパイダーだ。

「これか?これは人間の肉体を操る装置だ。本人の意志がなくてもこの専用プログラムで思うままに人間を動かすことができる。もちろん動物も可」

今と同じように床に転がっていたそれを不思議そうに眺めていた美智子に、純平は説明してくれた。

「どのような場面で使うんですか?」

当時の美智子が問う。

「疲れたときにこれつけるだろ。そしたら眠りながら作業ができると俺は考えた。

でもまあそうだな、組織が考えた使い道はちょっと違ってさ。これを使えばどんなやつでも肉体さえそろってれば一人の人間としてカウントできるようになるだろ?つまりそういうこと」

開発部の人間にとって、自分が作った物がその想定外の方法で使用されるのはよくあることだった。

「上のやつらは、俺らなんかより格段に頭が切れていかれてるんだよ。有川も気をつけな」

その時の純平が悲しい目をしていたのを美智子は覚えている。

祐那がchAngelを使っていたとして、それで祐那の願いは叶ったのだろうかと美智子は考える。chAngelを作るということは、誰かの願いを叶えるということ。それはとても素晴らしいことだと思っていたが、chAngelを使っても願いが叶わない人も実際はいるのかもしれないと思った。開発部は物を作るのが仕事で、それがどのように使われ、どのような結果を招くのか、そこに手が出せないというだけでなく、それを知ることさえ大抵の場合はできなかった。

自分は何のために組織にいるのだろうと、美智子は考え始める。その答えはそう簡単には見つけられそうになかった。

しばらくして美智子のもとに戻ってきた咲花は両手にたくさんの機械を抱えていた。

「いやー、持って行って良いって言われちゃって」

美智子の前で咲花は困った顔をしている。

「それ全部持って帰れるの?」

「全部は無理かな。三分の一、いやせめて半分くらいで勘弁して欲しいところなんだけど」

 咲花は少し後ろで、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている純平の方を見る。

「芦屋さん、全く聞く耳を持ってくれなくて」

仕方ないなと思った美智子は、咲花に代って純平に断りを入れる。

「芦屋さん。咲花は今持ってるものいらないそうです」

「え、そうなの?なんで?」

「すみません。こんなにいただいても置く場所が無いですし、使い時も」

咲花は苦笑いした。

「それは残念だな」

純平は咲花の手から機械取り上げ床に置く。これでさらに部屋が汚くなったことは言うまでもない。

「これだけお土産な」

純平はビートル含む小さめの機械を箱に詰め、和菓子屋の紙袋に入れて咲花に渡した。 

咲花はそれを受け取り、お礼を言う。明日にでも拠点に行って優吾に全てあげようと考えていた。優吾ならきっと何でも喜んでくれるだろう。

「そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか?」

美智子が切り出す。そういえば、何のためにここに来たのか忘れるところだったと咲花は思った。

「カメレオンはここにありますか?」

「うーん。多分あると思うけど探してみないと何とも言えないな。それが必要な感じ?」

「はい」

「ちょっとだけ見てくるから、ここで待ってて」

純平は棚の奥に消えていった。

その数分後、棚の向こうから純平の叫ぶ声が聞こえた。

「有川ちょっと来て」

声のする方へ美智子は歩いて行く。咲花も一応美智子の後ろをついて行った。

「こっちこっち」

 棚と棚が交差する魔境のような場所を通り抜けた先で純平が手招きをしている。美智子と咲花はなんとかして純平のもとまでたどり着く。

「あったはあったんだけど、あそこなんだよね」

純平が指さしたのは棚の一番上、すなわち天井とほぼ同じ高さに目的のものがあるらしかった。

「どうやってあそこに収納したんですか?」

咲花がつい疑問を口にする。

「覚えてないな。多分誰かがやってくれたんだと思うけど、どうしよっかな」

先ほど使った脚立では到底そこに届かない。そこで純平はわざとらしく良いことを思いついたという顔をする。美智子は察し、純平と目を合わせないようにした。

「あったよ、あった。一つだけ方法が、渡ちゃん手伝ってくれるよね」

純平はどこからか機械を取り出し、手際よく咲花の腰に取り付けた。そしてそのまま咲花を放置して軽い足取りでまた棚の奥に行ってしまった。

「え、これどういうこと?」

 訳の分からない機械を腰につけた咲花が美智子に尋ねる。美智子はただ首を振るだけだった。

戻ってきた純平は情報端末を脇に抱え、両手で別の大型の機械を持ってきた。

「あの、これ何ですか?」

 咲花は直接純平に尋ねるが、やはり聞く耳を持たない。腰につけられた機械はさっきからずっと音を出している。だがどこかが動いている気配はない。純平は咲花を気にせず別の機械を操作していた。

「よし。じゃあ始めるから」

「いや、あのこれは」

咲花の問いかけにまたも純平は答えない。可哀想にと美智子は戸惑う咲花を眺める。

次の瞬間咲花の体が数センチ宙に浮く。

「何ですかこの機械?もしかしてこれで飛んで取りに行くってことですか?」

咲花が両手を広げバランスをとりながら大声で叫ぶ。気を抜くと倒れてしまいそうだった。

「どんな感じ?」

純平は急に質問し始める。

「どんな感じって、倒れそうです」

「うーん。もうちょっと上にしようかな」

咲花の体がさらに上に浮かぶ。ちょうど立っている美智子の目線の高さに、咲花の腰がくるくらいだった。

「ちょっと力を抜いてみて」

「力ですか、本当に抜いて大丈夫なんですか?」

「大丈夫、大丈夫。俺を信じてよ」

 咲花の中で純平への信頼はもはやゼロだった。

咲花がバランスをとっていた力を抜く。すると咲花の体は後ろに倒れ逆さまになる。腰に付けられた機械が軸となり地面に落ちることはなかった。

「そのまま起き上がれる?」

咲花は芦屋の言葉通り、体を起こしてみる。ちょうど体が真っ直ぐになったと思ったら、頭がまた後ろに落ちて逆さまの状態に戻ってしまった。

「あらら。まだダメか」

芦屋は咲花のことには構わず、また別の機械をいじっていた。どういう状況なんだと、頭に血が上った状態で咲花は考える。

「諦めなさい」

美智子が咲花の顔が正面にくるようにしゃがんだ。

「ああなったらしばらくはこのままだろうから。咲花はちょうど良い実験相手になってしまったってことよ」

「美智子はこうなること知ってたの?」

「まあね」

「それなら先に言ってよ」

 咲花の声は尻すぼみに小さくなる。

「じゃあカメレオンはどうなるの?」

「芦屋さんの気が収まるまで待つしかないわね」

咲花は逆さまの美智子の顔を見ながら呆れた顔をした。そしてそのまま、咲花は純平の実験相手となることとなった。

「いやいや、助かったよ。渡ちゃんありがとう」

なんだかんだ二時間くらい芦屋の実験に付き合わされた咲花は疲れ切っていた。慣れない体勢と、慣れない重力のかかり方のせいで体の節々が痛む。

「お役に立てて何よりです」

咲花は膝に手をついた状態でお世辞を言う。一刻も早く帰りたかった。

「それでカメレオンをいただいてもよろしいでしょうか」

美智子は咲花の横で背筋を伸ばして立っている。

「良いよ。使い方は説明書付けとくから勝手に読んどいて。いらなくなったら捨てるんじゃなく、組織の回収係か誰かに渡すこと」

「はい」

カメレオンが入った箱を芦屋は眼鏡屋の紙袋に入れ美智子に渡す。膝に手をついた咲花のちょうど顔の横にきたその紙袋を見て疑問に思う。芦屋は紙袋を集めるのが趣味なのだろうか。


月曜日、いつもより早く登校した咲花は朝の下駄箱で美智子と出会った。

「おはよう。今日は早いんだね」

いつも通りの挨拶を交わす。

「早く起きれちゃったから、早めに来てみた。美智子こそ早いね?」

「私も咲花と同じ理由」

美智子は咲花が上履きに履き替えるのを待っていてくれた。二人で教室に向かって歩いて行く。まだ登校時間には余裕があるため、校舎内にいる人は少ない。

「カメレオンは持ってきた?」

「持ってきたよ」

咲花はそれが入っている鞄を美智子に見せる。

「使い方はどう?」

「結構簡単だったから完璧」

「これで白か黒か、はっきりするね」

「うん」

二人は階段を上る。

「美智子は、もし黒だったらどうする?」

周りに話が聞かれても問題がないように、重要な単語は避けて会話をする。

「知ってしまったからこそ、難しいよね」

祐那が入れ替わっているかもしれないということを知ってから、祐那に直接会うのは二人とも今日が初めてだった。

「よく観察したら、違うところがあるのかな」

二人の横を別の生徒が追い越して行く。

「気づかないふりをした方が良いと思う?」

咲花は尋ねる。

「あまりにも違うところがあったら、指摘しても良いんじゃない。むしろそっちの方が自然な気がする」

「確かにそうだね」

「咲花は木曜日の段階で、本人を前にしてその異変に気づいた?」

「少しだけ大人しいなとは思ったけど、体調悪いせいかなって思ってた。私達の名前も知ってたし、教室移動の時とかも迷うようなそぶり見せてなかったよね」

「咲花が休んだ金曜日も、特に困ること無く学校内で生活できているようだった。私たちの個人情報や学校の様子も全て把握してるってことかな」

美智子は廊下の窓から外を眺める。

「どこで誰が見てるか分からないよね」

美智子の言葉を聞いて咲花は目線を落とす。学校内の様子も、組織の人間であれば監視できることを咲花は知っていた。

「二人ともおはよう」

後ろから実が走ってやって来た。

「おはよう」

「あれ、今はまだ朝練の時間じゃないの?」

練習着を着たままの実が汗をかきながら二人の横を通り過ぎる。

「ちょっと、忘れ物しちゃってさ」

実は振り返り咲花と美智子に告げた。その後ろからもう一人誰かが走ってきている。

「先輩、速いですって」

「律こそもっと速く。どこに置いたの?」

「確か、ロッカーの近くだったと思うんですけど」

実の後ろにいたのは後輩の律だった。律は咲花と美智子の顔を見て、軽く会釈してから二人の横を通り過ぎ、実と共にどこかへ走って行く。

その律の顔が咲花と美智子の目に焼き付く。

「あの子、似てるよね」

「うん」

律は昨日二人が会いに行った純平とよく似た顔をしていた。

三時間目が終わり昼休みに入ったころ、咲花と美智子は教室を出た。

「なんか忘れている気がしてたんだけど、まさかお昼ごはんを忘れるとは」

咲花がつぶやく。

持ってくるのを忘れたお昼ごはんを買うため、二人は購買に向かっていた。

「まあまあ、早くしないと購買混むよ」

「そうなの?それなら逆に遅く行った方が空いてる?」

「咲花が食べるものなくなるかもしれないけど良いの?」

「いや、良くない案だった」

二人が廊下を突き進み階段を下りようとした時、そこに律が立っていた。

「あ、お待ちしていました」

律は笑顔で挨拶をする。咲花と美智子はその挨拶が自分たちに向けられているということに一瞬気づかなかった。

「私達?」

咲花は自分と美智子を指さし、律に問いかける。

「はい、そうです。渡咲花さんと有川美智子さんですよね」

「そうだけど、」

「お話ししたいことがあるので、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

咲花と美智子は階段を下るのを止め、律に続いて階段を上っていく。四階を過ぎ、屋上へと続く階段を上る。この学校では屋上には生徒が入ることができないため、四階の上に続く階段は普段全く使われず階段の端にはほこりがたまっていた。

「もしかして、購買に行くところでした?」

最後の一段を上り、屋上の入り口前の何もないスペースにたどり着いた律が財布を手にする咲花を見て尋ねる。

「まあ、そうなんだけど」

咲花が言葉を濁す。

「こんなところまで連れてきて何の用?実なら教室にいたけど」

「今は高瀬先輩ではなく、お二人にお話があるんです。先輩に秘密だからというようなことではなく、先輩は全く関係ない話です」

「私と咲花に?」

美智子と咲花は首を傾げる。

「まだ自己紹介していませんでしたね。一年、女子バレー部所属の芦屋律です。お二人が昨日会った芦屋純平は私の兄になります」

「芦屋さんの妹?」

美智子が驚く。

「はい」

この段階ではまだ、律が何を目的として咲花と美智子に話しかけたのか二人には分からなかった。

「昨日、兄からカメレオンを受け取ったんですよね。もう使いましたか?」

 律はカメレオンの存在と、その使い道を知っていた。

「まだ使ってない。今日の放課後、私達と祐那と実の四人で集まる予定があるの。そこで使おうと思ってる」

 咲花が答えた。

「分かりました」

 律はしばらく考え事をするように黙る。律は組織の人間なのだろうかと咲花は疑問に思う。

「お二人はこの近くにお住まいですか?」

「私は近いけど、美智子は少し離れてるよね」

 咲花は自転車通学だが、美智子は電車通学だった。

「そうですか。放課後の四人での集まりの後に、学校裏の公園に来ていただくことは可能ですか?」

 咲花と美智子はお互いの予定を確認する。

「何時に解散するか分からないけど、それでも大丈夫?」

「はい、私の方は大丈夫です。お二人がいらっしゃるまでお待ちしています」

「それなら良いよね?」

 咲花は美智子に尋ねる。美智子は頷いた。

「それではまた後でお会いしましょう。お時間をいただきありがとうございます。急がないとお昼ごはんがなくなってしまいますから」

 律の言葉を聞いて、咲花と美智子は急いで購買へと向かった。


「律ちゃん、今時間良いかな?」

日曜日、担当の報告書を作成していた律に話かけてきたのは佐久間だった。

「大丈夫ですよ」

律は手を止める。佐久間が会議室に行くと言うので律もその後をついていく。

「お待たせしました」

佐久間は会議室のドアを開け、中に向かって話しかけた。律が佐久間に続いて部屋の中に入るとそこには高山がいた。高山はこのブロックのサブリーダーで、律にとっても上司に当たる人物である。

「高山さん、お疲れ様です」

「ああ」

堅苦しい雰囲気をまとった高山の近くまで行き、椅子に座る。律は状況を把握しようと二人の姿を見る。どうやら高山も佐久間に呼ばれたようだった。

「お忙しいところすみません。実はお二人にお願いしたいことがありまして」

佐久間が話を切り出した。

「実は昨日、管理部第五ブロックの渡さんが私を尋ねてきてくださいました」

渡咲花は律と同じ高校に通い、部活の先輩である高瀬実と仲の良い人物だ。そして咲花が組織に所属していることも律は知っている。

「彼女は小林祐那について情報を集めているようでした」

「何か話したのか?」

高山が佐久間に問う。

「一つだけ。小林祐那という名前を私が知っているかということだけ教えて欲しいと真剣な眼差しで頼まれ、知っていると答えました」

「ということは渡さんは、小林祐那の変化に気づいたということですか?」

「総務部からの連絡によりますと、男の持っていたメモに小林祐那の名が記されていたそうです。渡さんはどこかのタイミングでそれを見たのだろうと思います。

 それでお二人にお願いしたいことというのは、渡さんに小林祐那の情報を教える許可をいただきたいのです」

佐久間は頭を下げた。

「なぜ、渡咲花に情報を教える必要がある?」

「私は調査中に渡さんが小林祐那と親しくしている姿を目撃しました。彼女たちの間には、強い友情が見えました。

昨日渡さんが小林祐那の情報を求める様子を見て、私は真実を彼女に教えてあげたいと思ったのです。それが渡さんのためだけでなく、小林祐那のためにも私ができる最後の仕事なのではないかと思っています」

高山からも佐久間の調査に否はないと言われていたものの、やはり佐久間はどこか責任を感じていた。イレギュラーでその願いを叶えきる前に命を失ってしまった小林祐那のために何か自分にできることはないのかと考えていた。

「佐久間の考えも理解できる。だが、個人的な心情に左右されて守秘義務を破るようではいけない」

高山の言うことはもっともだ。咲花が何のために情報を集めているのかその目的が明らかでない限り、むやみに情報を提供することで組織の敵を作ってしまう可能性もあった。

「それに我々の組織は万能ではない。chAngelという薬を提供し、願いを叶える機会を提供しているだけであって、その願いを実現する力を持っているわけではない。

変化をもたらす神の使いなんて名がついてはいるが、我々は神ではない。その名称はあくまで使用者に向けてつけられたもの、その本質を勘違いしてはいけない。一人の人間にそこまで踏み込みすぎるな」

高山は冷たく言い放った。律も佐久間に助け船を出すことができない。

その時、律のスマホがメッセージを受信した。送ってきたのは兄である純平。律はその内容を素早く確認する。

そのメッセージを読んで律は笑った。

「高山さん、渡さんには余計な詮索をされる前に真実を話しておいた方がもしかしたら良いかもしれません。彼女はもう真実に近づいたようです」

律は二人にメッセージとともに送られてきた写真を見せる。そこには宙に浮かぶ咲花と、その姿を横で見ている美智子が写っていた。

律は説明する。

「この写真の中央にいるのが渡さんです。そして横にいるのが開発部薬課の有川美智子さん。お二人は今、私の兄である開発部機械課の芦屋純平のもとを訪れています。その理由はおそらくカメレオンを手に入れるためでしょう」

「カメレオン、chAngelの使用者を見分けるあれか」

「はい」

高山は静かに考える。

「仕方ない。そこまで知ることとなるなら、いっそ全てを明かしておいた方が良いのかもしれないな」

高山から咲花、そして美智子にも小林祐那の情報を教える許可が出た。そして伝える役割を担うこととなったのは律だった。

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