第2話

咲花が部屋のドアを開けると、優吾が会議用のテーブルに一人で座っていた。

「お疲れ様」

 咲花は優吾に声をかける。

「咲花、今日体育のソフトボールでホームラン打ったでしょ」

情報端末を操作していた優吾が、咲花が部屋に入って早々突然言い放った。

「え、何で知ってるの?」

鞄を机の上に置き、胸元のリボンを少し下げる。咲花は優吾の隣の席に座った。確かに咲花は今日三時間目の体育の授業でソフトボールをし、その時にホームランを打った。

「見てたからさ」

優吾は自慢げに手にしていた端末を顔の横に掲げた。よく見るとそれは管理部で使用しているものとは異なるタイプのものだった。 

優吾の説明によると、その端末を使用すれば情報部独自のネットワークにアクセスすることができるらしい。そしてそこから咲花が通う学校の様子を見ていたそうだ。

「そんなところまで監視できるんだ」

咲花が画面をのぞき込もうとすると、優吾がさっとそれを後ろに隠す。

「咲花は見ちゃだめだよ。情報部以外の人が見るのは禁止されてるからね」

咲花は身を引いて、椅子に座り直す。それにしても学校のどこにカメラが仕掛けられているのだろうか。体育の様子を優吾が見ることができたということは、校舎の外にカメラがあるのかもしれない。

「情報部でも、本部への申請が通らなければ使用できないツールだけどね」

咲花と優吾の後ろにいつの間にか絵里香が立っていた。その片手には優吾が持っているのと同じ端末が握られている。

「絵里香さんも来てたんですか?」

「ええ。飯塚さんは一緒じゃないの?」

「まだ用事があるらしく、少し遅れるかもしれないとのことです」

「そう」

絵里香が優吾の向かいの席に座る。咲花は一旦席を立ち、絵里香のためにお茶を入れた。

「絵里香の端末の方がたくさんの情報にアクセスできるんだよ。ずるいなー」

キッチンにいる咲花に聞こえるように優吾は大きな声をだす。その声は正面にいる絵里香にも確実に聞こえているはずだが、絵里香はそれを全く気にかけることなく何やら作業をしていた。優吾は反応のない絵里香の顔を正面からじっと見る。

「まあまあ、優吾もこれから少しずついろんな情報が見られるようになると思うよ」

キッチンから戻った咲花がコップを絵里香の前に置きながら優吾に声をかける。

「それはそうかもしれないけどさ」

優吾はまだ不満げな様子だった。

「それに今は特別研修期間でしょ。もし優吾が高度な情報にアクセスできる端末をこの部屋に置きっ放しにしておいて、それを面白半分で光秀さんが触って中を見たらどうなるか。光秀さんの命のためにも今は我慢してね」

 優吾はその様子を想像する。

「確かにそうだね。我慢するよ」

しばらくしてから玄関の扉が開く音が聞こえた。

「お疲れ様です」

咲花と優吾はドアが開くと同時に、姿が見えた飯塚に声をかける。

「みんなそろってるね」

部屋に入ってきた飯塚の後ろには見知らぬ二人の男女が一緒だった。その二人は部屋に入る際にお辞儀をし、咲花と優吾もそれに返す。絵里香は作業を続けていて反応しなかった。

咲花の横に飯塚が座り、向かいの絵里香の横に男女が座る。六つある会議用の椅子が全て埋まった。

咲花は三人にお茶を入れる。僕が持ってくよと優吾が手伝ってくれた。お茶を配り終えると会議が始まる。

「それじゃあ、始めるね」

飯塚はテーブルの上に画面を表示させた。

「今日集まってもらったのは、昨日隣の県で発生した一家惨殺事件に関連して、ここにいる皆に仕事をお願いしたいからなんだ」

事件の概要をまとめた資料が映し出される。

事件発生は昨日の夜、二十一歳の男が両親と妹を刃物で殺害した後逃走。男は県内の大学に籍を置いていたが、一年ほど前から大学には通っておらず、その近況を知るものはいない。現在も男の行方は分からず捜索中だ。

事件の舞台となった隣の県は第五ブロックの管轄内でB地区にあたるところであった。

「事件の概要はざっとこんな感じだね。それでお願いしたい仕事というのは、この男を捕まえてきてほしいんだ」

飯塚は男の顔写真を指さす。学生服を着た髪の短い男。彼が通っていた高校の卒業アルバムの写真ということだった。画面の中で笑顔を見せる男からは、数年後に家族を殺してしまうことなど全く想像できない。

「この男は組織と関係のある人間なんですか?」

咲花は飯塚に質問した。

「関係があると言うと、少し違うね。でも組織にとって脅威になり得る存在なんだよ」

飯塚は絵里香に続きを説明するよう促した。絵里香は情報端末を操作し、新しい画面を開く。

「少し前にここに来て注意するよう言った、chAngelに対するインターネット上の書き込みです。解析の結果、これらの書き込みをしたのが事件を起こした男だということが分かりました。そしてこれが昨日の午後十一時頃になされた、最後の書き込みです」

画面の一部を拡大する。

『あいつは誰だ、俺の妹じゃない。俺の家族はどこに行った。あの薬を許さない。それを作った奴らも許さない。』

 書き込みの文章を読むためその場にいる全員が話をやめ、動きを止めた。その沈黙を終わらせたのは男の低い声だった。

「この書き込みに出てくる男の妹は、私達のお客様です」

飯塚に連れてこられた二人のうち男性の方が口を開いた。

「申し遅れました、私は調査部第五ブロック担当の高山です。こちらは私の部下の佐久間です」女性の方が何も言わず頭を軽く下げる。 

調査部は薬の使用者のことをお客様と呼ぶ。管理部と情報部はそのような呼び方はしないため、少しだけ違和感があった。

「組織の守秘義務に違反するため入れ替わりの動機や要望、相手などに関する情報をお話しすることはできませんが、顧客データに男の妹の名前がありました。彼女の調査を担当したのが佐久間です。マッチングに誤りは無く、入れ替わりも正常に行われたと我々は判断しております」

「問題があったのは妹じゃなくて、兄の方だったってわけだね」

優吾が佐久間をじっと見る。

「chAngelを使用する本人の、周りの人物に関しては調査をしてなかったの?」

 優吾がさらに言葉を加えた。

「その点に関しては、私のミスです」

口を開いたのは佐久間だった。

「犯人の男は母親、父親、妹と四人で暮らしていました。実はその母親と父親も私達のお客様だったのです」

「何それ?」

優吾があっけにとられた顔をしている。

「佐久間さんの担当だった妹さんがchAngelを使ったことにより、男の家族は皆別人に入れ替わったということですか?」

咲花が佐久間に問いかけた。

「はい、その通りです」

家族の中で最初にchAngelを使用したのは母親だった。二年ほど前のことである。

母親は持病があった。日常生活を送るには病院に通い、薬を服用する必要があった。それでも体はなかなか言うことを聞かなかった。そんな毎日が嫌になっていた。健康な体が欲しいと彼女は願った。

次に使用したのは父親だった。半年前のことである。

母親と入れ替わった人物は家庭を持つことを望んでいた。家族に対して異常なまでの憧れと執着を抱き、自分の思い通りにいかない家族に対してきつく当たった。母親となるには相応しくない人物だったのである。

そのような母親の変化に、父親は耐えきれなくなった。自由が欲しいと彼は願った。

佐久間は二人の調査を参考にして妹の調査を行った。その際、男のほんのわずかな歪みを見落としていた。過去二回の調査で問題無しとされた男のことを、もっと慎重に調査すべきだったのである。

「誰にでもそういう事はあるわ」

絵里香が下を向いている佐久間に声をかける。

「そうだよ。佐久間さんの調査自体に問題はなかった。人間の変化を読める人間なんていないからね」

飯塚が優しい言葉をかけると、佐久間は少し顔を上げた。

「この男の書き込みは情報部が全て削除しました。男は確かに感情をコントロールできない人間だったようですが、殺人を犯したこと自体は問題ではありません」

「問題は、男が捕まることによって警察が組織に介入する可能性があるということですよね」

咲花の発言を受けて、絵里香は頷く。

「お客様には、薬のことはたとえ家族であっても他言してはならないと契約していただいております。世に出回っているchAngelの情報は全て情報部の皆様が操作しているものです。

それにも関わらず、男は妹が薬を使ったと認識しています。これが根拠のない考えであるならば良いのですが、何か薬に関する情報を家族から耳にしている可能性があるのではないかと私達は心配しています。そこで早急に男の身柄を確保していただきたく、本日お伺いいたしました」

高山が深く頭を下げる。数秒遅れて佐久間も高山に倣った。

「ということで、ここにいるメンバーで男の確保を実行したい。良いかな?」

咲花と優吾は肯定の返事をする。

「それじゃあ、まず役割を説明するね」

飯塚は最初に優吾の方を向く。

「秋山君は男の行方を追って欲しい。前の仕事の際は外に出て少しだけ目立ってしまったからね。今回はこの拠点に留まり、情報部のネットワークを使用して内側から男の確保に協力してほしいんだ。そして井山さんは秋山君のサポートを」

「そのために監視の申請が通ったんだよ」

優吾が咲花に耳打ちをする。

飯塚は次に咲花の方を向く。

「そして渡君には長谷川君と共に男の身柄を確保しに行ってもらいたい。その後の流れはいつも通りでお願いね」

「はい」

咲花は返事をする。そこで今この場に光秀がいないことを疑問に思った。

「そういえば光秀さんは今どちらにいらっしゃるんですか?」

拠点に光秀の姿はない。そのためてっきり今回光秀は関係ないのかと思ったが、飯塚は咲花と並んで光秀の名前も口にした。

「長谷川君は開発部に行ってるよ」

 飯塚が答えた。


管理部の拠点で会議が開かれているころ、マスクをした光秀は病院の前いた。わざと数回咳をし、病院の自動ドアをくぐる。

ドアのセンサーの横に取り付けられた機械に向かって、熱を確かめるふりをしながら左手を向ける。青いランプが光ったことを確認し、院内に入った。

受付で診察券を出し、待合室の椅子に座る。平日の昼過ぎということもあってか、親子連れが多い。光秀は他の患者に違和感を抱かれないように、静かに座っていた。

「長谷川さん。長谷川光秀さん」

名前を呼ばれ、立ち上がる。

「三番にお入りください」

三と数字が大きく書かれた扉に向かって歩みを進める。スライド式の扉を開けると、診察室の中には誰もいない。光秀はそのまま部屋の奥へと進んでいく。

突き当たりに鉄でできた扉があった。診察室の扉とは比べものにならないくらい分厚く威圧感を放っている扉。その脇にある機械に再び左手をかざす。「ロックを解除しました」という機械音声が聞こえた後、ゆっくりと扉が開いた。

ここから先は開発部薬課の領域である。表の病院はカモフラージュ。表向きには普通の総合病院として機能しているが、組織の人間が頻繁に出入りしているという点では普通の病院とは言いがたい。

窓が無く、閉塞感のある長い通路をさらに突き進んで行く。もう体調が悪いふりをする必要はないため、光秀はマスクを外した。

通路の壁に埋め込まれた身体検査用の機械が時々光り、異常が無いことを示している。

しばらく歩くと、通路の奥に一人の女が現れた。見たところ歳は光秀より若く、白衣を着て、赤いストラップを首にかけている。

「管理部の長谷川さんですか」

女は感情のこもっていない冷たい声で光秀に話しかける。

「はい。君が開発部の人っすか?」

「そうです。こちらにどうぞ」

女は光秀に背中を向け、通路を進んで行った。光秀はその背中を追う。案内された先は異様に白い空間。大理石の床は天井に吊されたLEDの光を反射して青白く見える。まるで病人の顔を踏んでいるみたいだった。

その真ん中に置かれた応接用のソファーに光秀は女と向かい合って座る。どこからか小型のロボットがやって来て、テーブルの上にお茶の入った透明なグラスを置いた。

「改めまして、私は開発部の有川です」

女が名刺を差し出した。名刺の上部にはどこかわからない製薬会社の名前が刻まれている。もちろんこれはダミーだ。

「管理部の長谷川っす。こっちは名刺なんて持ってないんすよ、すみません」

有川は頷き、ずっと手に持っていた銀色のアタッシュケースをテーブルの上に置き開いた。

「こちらが、今回お渡しする薬になります」

中には白い小さな錠剤が二つ。一見するとただの風邪薬のようだ。

「これはどう使うんすか?」

光秀は有川に問いかける。

「説明させていただきます」

有川は横にいたロボットについているボタンを押した。するとロボットの反対側に位置する壁の前に画面が浮かび上がる。

「基本情報はこちらに示している通りです。薬の識別番号は9338、開発者は私です。こちらを服用するとすぐ、体が動かなくなります。持続時間は三時間ほどです」

光秀は画面に示されている9338に関する情報を全て頭にたたき込む。

「こちらで使用方法を実践いたします」

有川は薬の一つを手に取り、中身を自分の前にあったグラスに入れた。すぐに白い錠剤は溶け、何の変哲も無いお茶に戻る。

「このように9338は液体に入れると約二秒で完全に溶けます」

「体が動かなくなるっていうのはどういう感じなんすか?」

「意識はありますが、体だけが動かないという状態です。金縛りにあっているような感覚だと思っていただければ良いと思います」

光秀はどこでこの薬を使おうか考えていた。今回の薬は水に溶かして飲ませるために作られている。対象の男は警察から逃げている身であるため、公の場であるカフェやレストランなどの飲食店に呼び出すことはおそらく不可能だ。となると組織の所有するマンションの一室を借りて、そこに連れ込むのが良いのだろうか。

「9338を一錠だけお渡しいたします。万が一、計画が崩れこの薬を使用することがなくなった場合は必ずこちらまでお持ち帰りください」

有川が話し終わると入り口のドアがひとりでに開いた。

「あまり長いと他の患者様に不審がられてしまいますので、このくらいで」

光秀は立ち上がる。

「それじゃあ失礼します」

お辞儀をし、部屋から出る。

帰りの通路でマスクをつけ直し、けだるげな様を装う。診察室の扉をスライドさせながら、誰もいない室内に向かってありがとうございましたと軽く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

部長の挨拶に続いて、実は部員達と共に大きな声で挨拶をする。学校ではちょうど部活動が終了する時刻だった。

「高瀬先輩、今日調子良かったですね」

部室で制服に着替えていた実のもとに後輩の律が近寄ってくる。

「ありがとう。律こそ最後のスパイク良かったよ」

「本当ですか?高瀬先輩に褒めていただけると自信つきます」

 律はガッツポーズをした。

「そうだ、また新しいお店見つけたんですよ」

律は着替えの途中にも関わらず、鞄からスマホを取り出す。ブラウスの前のボタンが半分くらい開いたままスマホを操作し実に写真を見せた。

「ここなんですけど、二週間前くらいにオープンしたばかりのパン屋さんで。できたてのパンがふわふわで美味しいらしいんです。ちなみに私の一押しはこのノーマルな食パンです。帰りにでもお店の紹介がのったURL送るんで、絶対見てくださいね。そして絶対行きましょうね」

「そんなに食べてたらあっという間に太っちゃうよ」

「大丈夫です。毎日これだけ運動してるんですから。それにヘルシーが売りのお店も見つけたのでむしろ痩せますよ」

律は笑った。

学校を出て、駅で部活仲間と別れる。一人で家に帰る電車に乗った実は、ドア付近のちょっとしたスペースに体を収め立っていた。重たいエナメルバックは足下に置かれている。

電車の壁にもたれると心地よい揺れが実の眠気を誘う。大きなあくびをしてスマホを取り出すとさっそく律から四つのURLが送られてきていた。実は一番上のURLをタップする。

ちょうどその時、実が立っている側のドアが開いた。邪魔にならないようにスマホを胸の辺りに近づけて身を細める。

車内に入ってきた人をなんとなく眺めていると、そのうちの一人が優先席の前に立ち吊革を持った。

その少し奥、車両の一番端にグレーのパーカーを着てフードをかぶったままの人がいることに気づく。他の客がその人物を気にする様子はなく、皆持っているスマホや本に集中しているか目を閉じて眠るかしていた。

実はぼんやりとその人を眺める。体系的に男だろうか。よく見ると、ズボンの裾は濡れており全体的に汚らしい。

どんな格好をしてようとその人の勝手かと思い目線をそらした瞬間、男がちらりとこちらを向いた。その顔が一瞬見えた。

実は自分の足下を眺めながら考える。どこかで男の顔を見たことがある気がする。だがどこで見たのか分からない。知り合いだろうかと実は頭を巡らす。それともただどこかですれ違ったことがあるだけか。じっくり考えるが、なんとなく見覚えがあるだけで、どこで見た誰なのかは全く思いつかない。

まあ良いかと諦めスマホを再び見る。後輩が送ってきてくれた四つのURLはそれぞれ別ジャンルの飲食店を紹介しているものだった。 

そのうち、実は三つ目の中華料理屋が一番美味しそうだと思った。実は甘いものも好きだが辛いものも好きだったため、同じく辛いもの好きである美智子と今度一緒に行こうかなと頭の片隅で考える。

スマホの戻るボタンを押すと、ニュースが載っているブラウザのトップページに戻ってしまった。戻りすぎたと思いながら、もう一度律からのメッセージ画面を開こうとする。 

そこでトップニュースに添えられた写真が目に入る。

「あ、」

思わず声が漏れた。

電車に乗っていた男は、ニュースになっている一家惨殺事件の犯人と似た顔をしていた。


会議が終わり、咲花は調査部の高山と佐久間を駅まで見送った後、目に入った駅前のカフェチェーン店に寄っていくことにした。店のドアを開けるといらっしゃいませという店員の明るい声が聞こえる。

咲花は店の奥を眺め席が空いていることを確認し、カウンターで注文する。

「ミルクティー一つで」

「ミルクティーですね。ホットとアイス、どちらにいたしますか?」

「アイスでお願いします」

冷たいミルクティーを受け取り、トレーにミルクとガムシロップを乗せて席に向かう。

ちょうど店の表のガラスに面したカウンター席がいくつか空いていたので、咲花はその端の方にトレーを置いて座る。顔を上げると、駅から出てくる人達や駅前を歩く人達の姿がよく見えた。その人達をぼんやりと眺めながらストローをくわえミルクティーを一口飲む。

思っていたよりさっぱりした味だったので、ミルクとガムシロップを入れてかき混ぜる。もう一口飲んでみると、今度はちょうど良い甘さだった。

ミルクティーは甘い方が好きだなと一人思っていると咲花の二つ隣にマグカップとホットドッグをトレーに載せたスーツを着た男性が座った。その人の姿をちらりと見る。

ミルクティーを飲みながらスマホを触っていたらあっという間に時間が経ってしまった。あと二口くらいで飲み終わるというところで、なんとなくスマホの検索ボックスにchAngelと打ち込んでみる。出てきた検索結果の一番上をタップするとホームページが開いた。

まず目に入るのは十行の詩のようなもの。その下をスクロールしていくと、簡単な薬の説明と購入ボタンが出てくる。

咲花はそれをじっと眺める。このホームページをどれだけの人が見ているのか、その裏でどれだけの人が動いているのか、そんなことを考える。

駅には電車が到着した。たくさんの人が駅の出入り口から出てくる。その流れの中に光秀がいた。開発部からの帰りなのかなと咲花は光秀が視界から消えるまで目で追う。

ミルクティーが入ったグラスがからっぽになり、その表面についていた水滴もいつのまに無くなっていた。そろそろ家に帰ろうかとトレーを返却口に持って行き店を出ると、カフェの正面で咲花は美智子とばったり遭遇した。

「咲花じゃん」

美智子も驚いた様子だった。

「数時間ぶり?」

咲花と美智子は途中まで一緒に帰ることになった。

「カフェで何してたの?」

歩きながら美智子が問いかける。

「一人でぼけーっとしてた」

「何それ」

美智子は笑った。

「なんとなくそんな気分だったの」

しばらく話しながら歩いていると、二人の横を自転車に乗った警察官が通りかかった。

「こんばんは。高校生?」

制服姿の二人を見て、その警察官は声をかけてきた。

「はい。塾の帰りなんです」

 美智子が返事をする。

「そうか、もう遅いから気をつけて帰ってね」

「分かりました」

咲花と美智子は愛想良く対応し、何事も無く警察官は過ぎ去っていく。

「この辺パトロールしてるんだね」

咲花が言う。

「塾帰りにいつも会うの?」

「いや、初めて会ったよ」

咲花はどんどん小さくなっていく警察官の後ろ姿を眺める。

「あれかな、逃走中の犯人を警戒してるのかな」

咲花はつぶやく。

普段はこんなところをパトロールしていないのに今日に限って遭遇したということは、警察も男を捜す手をここまで広げたということだろうか。どちらにせよ早く男を見つけ捕らえなければならない。急がないといけないなと咲花は心の内で思った。


「光秀お帰り」

開発部から光秀が拠点に戻る頃には、辺りはすでに真っ暗になっていた。そしてまだ残っていたのは優吾と絵里香だけだった。

「開発部に行ってきたんだよね。どんなところだった?」

優吾が興味津々という様子で聞いてくる。

「どんなところって、別に普通だよ」

「えー、それじゃ全く分からないよ」

優吾が首を大きく振る。

「やっぱりみんな病院の先生みたいな格好をしてるの?」

「今日会ってきたのは一人だけだからな。確かにその人は白衣を着ていたけど、皆が皆その格好をしてるのかは分からん」

光秀は棚の引き出しのひとつを開き、中からペンダントを取りだした。

「気になるなあ。開発部ってあんまり他の部署と関わりが無いんでしょ?特に薬を作ってる部署なんて閉鎖的にもほどがあるって感じで」

「まあそうだな、システム課とかなら情報部でも会うことあるんじゃないか?」

その先に付いているケースを開き、そこに先ほど有川から受け取った薬を入れる。

「システム、確かにそうだね。でも僕はもっと変なもの作ってる人に会ってみたいな」

「あんまり無駄口叩くと絵里香さんに怒られるぞ」

 光秀は話に加わらず座っている絵里香を横目で見る。

「僕は絵里香から怒られたことなんてないよ。光秀と一緒にしないでほしいな」

「それはどういう意味だよ」

 光秀は優吾の言葉を軽く流す。

「そういえば、咲花はもう帰ったのか?」

「うん、明日も学校あるからって言ってたよ」

「そうか。優吾も早く帰れよ」

ペンダントを首にかけ、光秀は拠点を後にした。


光秀が帰った後、絵里香と優吾は情報部のネットワークを使い男を捜していた。出来るだけ早く見つけ出し、接触する機会を作らなければならない。

二人が現在用いている捜索方法は二つで、一つは至る所に仕掛けられた監視カメラによる映像チェック、もう一つはインターネット上の男の書き込みを見つけそこから居場所を割り出すというものだった。とはいえ、追われている身である男が追跡の容易なインターネット上に再び現れるとは考えにくい。

優吾は前者、絵里香は後者というように役割分担をし作業を進める。

「男の写真も調査部が持ってたし、簡単に見つかると思ったんだけどなかなかそうはいかないんだね」

優吾が頬杖をつきながらも、かなり速いスピードで会議用のテーブルの上置かれた複数の情報端末を操作する。映像が映し出された画面が、何度も切り替わる。

「あ、」

その時、優吾が声を漏らした。

「見つけたの?」

「咲花をね」

映像の中では制服を着た咲花が、同じく制服を着たボブヘアの女子と話しながら歩いている。場所は駅の近く、方向的に咲花は家に帰るところらしかった。

「やっほー咲花」

優吾は咲花達の姿を正面から捉える映像に切り替え、二人に向かって画面越しに手を振る。もちろん、咲花がそれに気づくことはない。

「それにしても、この角度からの映像どうやって撮ってるのかな」

画面を眺めながら独り言を言う。情報部が管理している監視カメラの映像は、町に設置してあるような普通の監視カメラとは比べものにならないくらい広範囲をカバーしていた。加えて、気になるところがあれば別視点の映像に切り替えることができる。組織の目が届かないところなど存在しないのではないかというくらいであった。

カメラがどこにあるのか、いやそもそもこれらの映像が一般的に普及しているカメラというものによって捉えられたのかすら、情報部の人間でも一部を除いて知ることはできなかった。もしかしたら目に見えない何かが、町中を徘徊しているのかもしれない。組織が研究開発を行っているのは、薬品だけではない。

「余計なことしてないで、ちゃんと男を捜索しなさいよ」

「分かってるよ」

絵里香に指摘され、優吾は咲花が写った画面を閉じた。

「絵里香の方はどう?」

絵里香はリビングスペースのソファに座り、赤い眼鏡をローテーブルに置いてホットアイマスクをつけて目を休めていた。

「昼から捜してるけど、対象のGPSが全く検出されないの。おそらく男は携帯電話含む電子機器の電源を切ってるわ。私の方は見つからなさそうね」

目をつむったまま答える。

「男のGPS情報なんていつの間に入手したの?」

優吾は体を起こし、椅子の背もたれに腕をかけ体を絵里香の方に体を向ける。

「総務部の知り合いが送ってくれたのよ」

数時間前、会議が始まった時に絵里香が情報端末を触っていたのは、その総務部の人間とやり取りをしていたからだった。

「絵里香も意外と交友関係広いよね」

「情報端末を操作しているだけでは分からない情報というのもこの世には存在するのよ。それを知っている人がいるならさっさと聞いたほうが得策だわ」

「確かにそっちの方がずっと効率的だね。でさ、総務部ってどんなところ?普通の会社にも総務ってあるよね。それとは全然違う?」

「総務は組織の何でも屋よ。他の部署とは違ってその仕事を限定することができないから、部署に特定の名前をつけることが出来ない。そのために総務と名付けたって聞いたことがあるわ」

「何でも屋か。それならもっとかっこいい部署名をつけたら良かったのにね。この組織、組織自体に名前がないのは別に良いとしても部署名ちょっと古くさくない?横文字のかっこいい名前に切り替えたほうが人気出ると思うのにな」

「誰からの人気を得るっているのよ」

「え?それは一般の人達だよ」

「そんなに組織の存在を公に晒してしまったら、組織は一瞬で崩壊するわよ」

「そうなの?秘密結社みたいな感じで人気でるかなって思ったんだけどな」

何をやっているか分からない何でも屋。総務部の人間の中には、咲花の住んでいるマンションの大家さんのように、何食わぬ顔で町に溶け込んでいる人もいる。

「そこら辺にいる人が組織の人間かどうか見分ける方法ってないの?」

「左手のコード以外に、見分ける方法は知らないわ」

優吾は自分の左手の甲を眺める。

「これって特殊な機械を使わなきゃ読み取れないんでしょ。だったら「俺は組織の人間だ」って言ってくる人がいても、その人が組織の人間だって証明することはできないよね」

「そうね。顔見知り以外は組織の人間を名乗っていても信用しない方が良いかもしれないわね」

「それどころか、コードが入っていない人間が組織に混ざってるかもしれないよね」

絵里香が目を開け、眼鏡をかけて立ち上がる。

「それはあり得ないわ」

「なんで?」

優吾は近づいてくる絵里香に問いかける。

「組織の管理する建物は、ここも含め全てにそのコードを読み取る機械が設置されているの。そしてその記録は全て保管されている。コードのない人間が入ってきたらすぐに分かるわ。雑談はここまでにして、そろそろ仕事に戻りなさい」

絵里香がテーブルに戻り、作業を始めた。優吾も椅子にきちんと座り直した。そして突然笑った。その笑い声に絵里香が顔を向ける。

「この組織ってもっと密かに細々と活動してるのかと思ってたけど、意外とこの世界に馴染んでるんだね」

優吾は楽しそうで、その声は弾んでいた。

数時間後、二人はまだ男の居場所を突き止められていなかった。

「なかなか器用に隠れるね」

窓の外は完全に暗くなり、もう完全に夜である。

「入れ替わった家族の方の様子はどう?」

絵里香と優吾には男の捜索と同時に、その家族の安全を確認するという仕事が任されていた。本人達から許可を得て、家の中の様子も監視できるようになっている。絵里香はその一人である妹と入れ替わった人物が写る映像を眺める。

「今のところは問題ないわ」

勉強机の上に水色のリボンが丁寧に置いてあった。

「なら良いね。でも入れ替わった先の生活を監視できるってレアだよね」

本来、入れ替わり直後に異常がないことを確認したら顧客への干渉はそこでストップすることになっていた。

「優吾、あまり個人に踏み込みすぎないように気をつけなさいよ」

絵里香の忠告に対し、優吾は気の抜けた返事をする。

 そのさらに数時間後、時計の短針は十二を過ぎた。

「そろそろ私は戻るわ」

「僕はもう少しだけ残っていくよ。お疲れ」

絵里香は優吾に無理をしないようにと言葉をかけ、拠点を出て行った。これから情報部に立ち寄って別の事柄に関する資料の受け渡しと、報告が待っている。

優吾が一人残った部屋の外からバイクの音が聞こえる。それは絵里香が乗っているバイクで、音は次第に小さく遠くなる。

優吾はその音を聞くとキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。中で冷えていた二リットルのペットボトルを取り出し、テーブルに持って行く。コップにオレンジジュースを注ぎ、一休憩する。

ジュースを飲みながらズボンのポケットから個人用の携帯を取り出した。組織から支給されているものでも何でもない、優吾の個人的な持ち物である。その画面に表示されているメッセージのうちの一つに目が止まった。男を見たという人からの情報だった。

「今日、学校からの帰りの電車でそれっぽい人見たよ」

優吾はインターネット空間ではちょっとした有名人だった。もちろん本人の姿や年齢、居住地などを明かしているわけではない。インターネット空間での優吾は、全くの別人として存在していた。

昨日の事件に関して「怖い」「みんなも気をつけてね」という人並みな感想を発信した。送られてきたメッセージはそれに対して来たものだった。

優吾は情報部のシステムを利用して、それを送ってきた人物を特定する。性別は女で、咲花と同じ高校に通っていること、家は第五ブロックのC地区にあることが分かった。

学校からの帰りということはF地区北部からC地区へ移動する電車ということになる。C地区を越えてしまうと第四ブロックに入る。そうなると捜索が少しだけ困難になってしまうと優吾は思った。

現在もC地区に男が留まっていることを期待しつつ、映像の検出範囲をC地区に絞り片っ端から調べる。

ペットボトルのオレンジジュースが半分くらいなくなった時、優吾の手が止まった。

「みーつけた」

優吾の見ている映像の中に、二十四時間営業のネットカフェに入ろうとしている男の姿があった。場所はC地区北部の中心にあたる、都会とも田舎とも言えないような普通の市。

優吾は調査部から受け取った男の写真と画面に映っている人物を見比べる。その風貌は全く異なり、画面の中で周囲の様子を必要以上に気にしている男は汚らしい格好をしていた。

「これは、同一人物には見えないね」

テレビのニュースで流れていた男の顔写真とも、そこから受ける印象は全く異なっていた。メッセージを送ってきた女はよく気づいたものだと優吾は感心する。

しばらく男の様子を観察していると、ネットカフェの中に入っていった。その後もそこから出てくる様子はない。どうやら今日はそこで夜を過ごすつもりらしかった。

優吾はメッセージをくれた相手に「気をつけてね」と、さも心配しているかのような返事をする。そして立ち上がり、部屋から出る。

向かった先は隣の部屋、ドアを三回ノックしてゆっくりと開ける。

「秋山君、男を見つけたのかい?」

そこにいた飯塚が、優吾の目を見て言った。

「うん。咲花と光秀に連絡しておいてくれる?」

「分かったよ。秋山君はやっぱりそっちの仕事の方が向いているみたいだね」

飯塚は微笑んだ。

「経験してる年月が違うからね。前回は大変だった」

 優吾は前回の仕事の後、光秀にさんざん説教されたことを思い出す。

「僕はこうやって、影から世界を見ているのが好きみたい。光秀みたいに実際に現場で動くのは性に合わなかったよ」

「そうだね。でも良い経験にはなったんじゃないかな」

 優吾は飯塚の言葉に頷く。


「おはようございます」

昨日の夜遅く飯塚から男の居場所が判明したという連絡があり、学校に欠席の連絡をいれた咲花と光秀が拠点に集合した。部屋に入ると、中では優吾がじっと男が入っていったネットカフェ前の映像を見ている。

「昨日から寝てないのかよ」

優吾の目の下にくまができているのを見て、光秀が声をかけた。

「少しだけ仮眠はとったよ」

画面から目を離さず、優吾は素っ気ない返事をする。

「そんなんじゃ、背が伸びないぞ」

光秀は優吾の頭に手を置いて、髪の毛をくしゃくしゃにした。優吾の近くに置きっ放しになっているペットボトルのオレンジジュースは残り少しで、すっかりぬるくなっていた。

飯塚と咲花と光秀は空いている椅子に座る。

「それで、どうやって男と接触を図りますか?」

咲花が問う。

「そうだね、どうしようか。今回使うのはどんなものなのかな?」

「薬です。水に溶かして飲ませるもので、飲んでから三時間対象の体の自由を奪うという仕様になってます」

「薬ですか、珍しいですね」

「今回はあまり目立ってしまうと確保の意味がなくなってしまうから、そこに配慮した結果なのかな」

 管理部が誰かの確保を依頼された時、それに使う道具は毎回異なっていた。機械のこともあれば、薬のこともあるしそれ以外の場合もある。

「飲ませるとなると、少なからず男の意志が必要となりますからね。事を荒立てたくない場合は確かにぴったりです」

「問題はどうやって飲ませるかだよな」

 光秀は薬を受け取ったときからずっと考えていたがいまいち良いアイデアが浮かばなかった。咲花と光秀が静かになってしまったので、飯塚は話の角度を少し変える。

「対象の男に今一番必要なものは何だと思う?」

 二人は飯塚の問いを受けて少し考えた。

「やっぱり金っすかね」

「光秀はアホなの?組織が捕獲対象にお金を渡すわけないよね」

それまで黙って監視を続けていた優吾が口を挟む。

「分かってるよ。言ってみただけだっての」

「渡君はどう?」

飯塚の目が咲花に向く。

「隠れる場所とかですかね。男は逃げてる身であるわけですし、安心して隠れられる場所を必要としているのではないかと思います」

「場所か」

光秀が呟く。

「それなら、男にホテルの一室をプレゼントするってのはどうすか?」

「プレゼント?」

光秀の考えはこうだった。

まず光秀が男と直接接触し、あらかじめ予約しておいたビジネスホテルの鍵を渡す。居場所の無い男は光秀の誘いに乗り、ホテルに入る。そこで開発部から受け取った薬を飲ませ、動けなくする。そしてその部屋に突入し、確保する。

このメリットは、男を特定の場所に留まらせることができること。捕獲が容易になるし、万が一失敗した場合も男が部屋の中にいる限りは別の方法をためすことができる。

デメリットは男と直接接触しなければならないこと。男の精神状態が不安定で、突発的にこちらが意図しない動きをした場合、身の安全を脅かされるかもしれない。

「これなら密室なんで、俺らが薬を無理矢理飲ませることも、男が勝手に飲むように仕組むこともどちらも可能だと思うんすけど」

「悪くはない案だと思いますが、男がその誘いに乗ることがそもそもの第一条件ですよね。もっと確実な方法を探った方が良いのではないでしょうか。警察の手も広がっているみたいですし」

咲花は昨日すれ違った警察官を思い出す。

「その第一条件は俺がクリアしてみせるよ。伊達にフリーターやってるわけじゃないからな。全く知らない人の懐に入るのは慣れてるよ。

それに、本当に困っているときは相手が誰だろうと救いを求めたくなるもんだ」

光秀の言葉を聞いて、飯塚はゆっくりと頷く。

「僕が見たところだと、この男は攻撃性があるというよりは常に何かに怯えていて自分を守ろうという意志が強い。長谷川君が攻撃的な態度を見せない限りは、むやみやたらにこちらを敵視することは無いと思うよ」

「そうそう。それに僕が映像で監視してるから、万が一があったらすぐにお医者さんを呼んであげるよ」

優吾が不謹慎にも笑顔を見せる。

「お前のそれは冗談なのか、本気で言ってるのか分からないから困る」

 光秀は映像を眺める優吾の顔を見る。

「咲花はどうだ、納得できた?」

「そうですね、分かりました。不確定要素が多い気がしますけど、それは光秀さんにお任せするとして、私も上手く事が運ぶようサポートします」

飯塚の指示で、光秀と咲花はさっそく部屋を出て駐車場に向かった。優吾は部屋に残り監視を続けている。飯塚も緊急に備え優吾と一緒に残った。


「咲花は助手席で良いか?」

「はい」

マンションの駐車場に停めてあった光秀の車に二人は乗り込む。車内はかすかに煙草のにおいがした。

「光秀さんって煙草吸うんでしたっけ?」

光秀は咲花の横でシートベルトを締めている。

「俺は吸わないけど、前に乗せたやつが吸ってた気がする」

少しだけ窓を開けた。

車が発進する。目的地は現在地から南東の方角にあり、車で一時間半くらいかかる予定だった。現在時刻は午前五時すぎ、ちょうど朝日が昇り始めている

「良い天気ですね」

咲花は窓の外を眺める。

「そうだな。俺が運転してる間、飯塚さんや優吾から連絡がないかチェックしておいてくれ」

「分かりました」

咲花は黒い小さな機械を耳に付ける。これは骨伝導で相手の声を耳に届ける通信機器である。咲花の声は車内に設置されたマイク通じて、拠点にいる飯塚と優吾の耳に届く仕組みとなっていた。

車の外に出た場合は、いたるところに設置された組織の監視カメラがその音声を拾う。そして専用のシステムがその音声を整え、通信相手に声を届けることができる。

咲花は耳に手を当て、通信機のスイッチをオンにした。それと同時に車内のマイクのスイッチもオンにする。

「渡です。聞こえますか?」

咲花は問いかける。すると耳元で優吾の声が聞こえた。

「聞こえるよ。こっちは僕が話し相手になるからよろしくね」

飯塚は優吾の働きをそばで見守っていた。

「光秀さんは運転中で通信機器をつけていないから、何か伝えることがあったら私に言ってね」

「そうなの?光秀もつければ良いのに。別に周りの音も聞こえるでしょ」

咲花は優吾が言っていることを光秀に伝える。

「どうせ優吾はしゃべり続けるんだろ。俺はできるだけ静かにドライブがしたいんだよ」

「僕は二人の声が聞こえてるのに、光秀には僕の声が届かないって無視されてるみたいだもん」

また咲花は光秀に優吾の言葉を伝える。

「それより、何か進展はあるか?あったら咲花に伝えてくれ」

「優吾、どう?」

咲花も問いかける。

「男に動きはなし。あと、ついさっきまでテレビのニュースで男の行方と警察の動きについてやってたからその情報を伝えとくね」

少し間を置いて、優吾が話を伝える。

「警察は現在も男の行方を捜索中。男の自宅があるB地区を中心に探しているらしい。ついでにそこよりちょっと栄えてるF地区も、パトロールを強化して捜査の手を広げてるって」

「まだC地区には目をつけてなさそう?」

「ニュースでは触れてなかった。実際のところはどうか分からないけど、監視している限りでもそんなに状況は変化してないと思う。急ぐ必要はあるけど、焦る必要はないんじゃないかな」

そこで、飯塚が話に加わる。

「こちらの動きは本部にも報告しているから、警察の手が邪魔になるようであれば確保までの間、その足止めくらいはしてくれると思うよ」

「怖いこと言うね」

優吾が笑った。

「あとは、交通情報とか?」

「どこか混んでる道があるの?」

「今のところは比較的空いてる感じだね。朝早いってのもあるから。通勤時間に重ならないようにだけは気をつけた方がいいかも」

「分かった」

咲花はその旨を光秀に伝える。

「今はこんな感じ。また何かあったら言うよ」

「ありがとう」

光秀の運転する車は無事にC地区に到着した。そこで最初に向かったのはビジネスホテルだった。ホテルの予約は飯塚がしてくれている。ここもまた組織の手が及んでいるところだということだ。

駐車場に車を停め、二人はビジネスホテルの中へと入っていく。自動ドアを入ってすぐの受付にいたのは若い綺麗な女性だった。

「予約してるんですけど」

「お名前をお願いいたします」

「長谷川光秀っす」

「長谷川様ですね。少々お待ちください」

女性はパソコンを操作し、予約情報を確認する。

「こちらがお部屋の鍵になります」

確認を終えた女性は光秀に部屋の鍵を渡した。

女性は予約情報に書かれている情報を見て光秀が組織の人間だと理解したのか、住所や電話番号などの記入や料金の支払いを求めてこなかった。予約した部屋はシングルルームなのに、今ここに二人いることも全く気にしている様子がない。

「それと、こちらはサービスになります」

女性が差し出したのはラベルにホテルの名前が印刷されたミネラルウォーター。咲花がそれを受け取ると、ペットボトルのキャップにご自由にお飲みくださいと書かれたカードがかかっている。

「ご利用ください」

そう言って女性は完璧な笑顔を見せた。

エレベーターで目的の階まで上り、部屋に入る。ドアが完全に閉まりきったことを確認して咲花が話し始めた。

「これを使えってことですかね?」

手にしているペットボトルを眺める。一見すると普通のペットボトルだが、キャップのところが少しだけ変な形をしていた。

「全く、用意周到すぎて怖くなるよな」

光秀はそのペットボトルを開ける。そして水の中に、首から下げていたペンダントに入れていた薬を入れる。瞬く間に薬は溶け、ただの水に戻った。

光秀は再びペットボトルのキャップを閉める。するとその切れ目がくっつき、新品のペットボトルと同じ状態になった。

「すごいですね。そういう風になってるんですか」

「どういう仕組みかはさっぱりだけどな」

「私初めて見ました」

 咲花はキャップのつなぎ目をまじまじと見る。

「組織の中でも、たまにこれ使ってるところあるんだよ。咲花も空いてないペットボトルだからって、安全とは限らないから気をつけるんだぞ」

「分かりました」

カードと9338の入ったペットボトルを机の上に置き、二人は部屋を出た。エレベーターで一階まで降り受付の前を通り過ぎる。

「いってらっしゃいませ」

女性の声が響いた。

「優吾、男の様子はどうだ?」

 ビジネスホテルから移動し、ネットカフェの近くに駐車した光秀は通信機をつけた。優吾に向かって問いかける。光秀は運転席、咲花は助手席に座ったまま待機していた。

「まだ出てきてないね」

車の中の時計は午前六時半を示している。男がすぐに店を出るのか、夜までずっとそこに留まるつもりなのかは分からない。何にせよ、しばらくは男を待つしかできなかった。

「店の中の様子は分からないのか?」

「さすがにそこまでは見えない」

「優吾なら何とか出来るだろう、ネットカフェの監視カメラに侵入するとかさ」

「やろうと思えばできるけど、勝手な行動は控えるように絵里香に釘を刺されてるんだよね。僕の行動は組織の行動になっちゃうから」

「仕方ねーな」

優吾の反応を受けて、光秀はつぶやく。そしてエンジンはかけたまま、車のドアを開けた。

「ちょっと行ってくるわ。咲花、車見といて」

「あ、はい」

外に出てドアを勢い良く閉めた光秀は、髪の毛を乱して耳元を隠す。そしてそのままネットカフェの入り口へ歩いて行った。店の前で一旦立ち止まり、料金看板をしばらく眺める。そして自動ドアの前に立ち、中へ入っていった。

「いらっしゃいませ」

薄暗い店内では、覇気の無い店員が光秀を迎えた。

「今ってどれくらいお客さんいる?」

「えっと、一名様でしたら空いているブースはあります」

店員の声は尻すぼみに小さくなっていく。

「うーん、どうしよっかな」

光秀はカウンターに腕を置き、わざとらしく頭を掻く。

その三秒後。

「すごい!何これ、すごい!」

通信機越しに優吾の興奮した声が聞こえた。光秀はそれを確認すると、カウンターから離れる。

「やっぱやめとくわ」

店員に断りを入れて、踵を返す。歩きながら優吾の声が耳に流れる。

「何これ、意味分かんないんだけど!どんどんデータが転送されてくるよ、光秀!何これ!」

優吾は笑い声を上げる。

「何が起こったの?」

咲花の不思議そうな声が聞こえる。

「咲花、咲花、聞いてよ!なんかネットカフェの監視カメラの映像とか、お客さんのデータとかとにかくいろんな情報がどんどん僕の情報端末に転送されてくるんだよ。すごくない?え、すごくない?」

咲花が何が起きたのかよく分からないでいると、光秀が車に戻ってきた。

「お待たせ」

「光秀さん何をしたんですか?」

運転席に座り、ドアを閉めミラーの位置を何度か調節した。

「光秀!これどんな仕組みなの?僕も欲しいんだけど、絵里花に言ったらくれるかな!」

「落ち着け、優吾」

光秀が使用したのは自動で動く、超小型のロボット。目的となる電子機器の半径一メートル以内でそのロボットを起動すると、勝手にありとあらゆる情報をあらかじめ設定しておいた端末に転送するという仕組みとなっている。

何でそんなことができるのかは光秀には分からない。もちろんどのように作られたのかも全く分からない。

「前回の仕事で、開発部機械課のそういう機械作ってるやつに報酬としてもらったんだ。開発途中だから一回しか使えない使い捨て。それを一ダース分押しつけられた」

「いいな、僕も欲しい。あと何個残ってる?」

「やらないぞ」

「えー、けち」

優吾は心底そのロボットを欲しがっているようだった。

「それで、男についてはどうだ?」

「ちょっと待ってね」

優吾は新しい端末をもう一つ持ってきてテーブルの上に置いた。それを使って送られてきた情報を整理する。

「男は今七番のブースにいるみたい。カメラの映像からは、後頭部しかみえないんだけど、たぶん寝てるかな」

「まだまだ出てきそうにないってこと?」

「あ、でもこの人五時間パックを頼んでるよ。入店時刻が午前二時十一分だから七時すぎには出てくるかもしれない」

「分かった。店から出てきたらそのまま追跡してくれ。それで良い感じのタイミングで俺が男に話しかけるよ」

しばらくしてフードを被り、周囲を必要以上に警戒する男が出てきた。

「行ってくる。咲花は車にいろよ。いざとなったら運転してくれよな」

「分かりました」

高校生が車を運転するのは法律違反なんだよなと思いながら、咲花は光秀を見送る。免許こそ持っていなかったが、車の運転はお手の物であった。

「歩き出したよ。男はかなり周りを気にしている様子ですごいキョロキョロしてる。気づかれないように気を遣ってるつもりかもしれないけど、これじゃあ分かりやすすぎ。見つけてくれって言ってるようなものだよ」

優吾が映像に映し出された男の様子を見て言った。

「優吾はそのまま男の足取りを報告してくれ、俺は男がいる一本隣の道を行くよ」

光秀も歩き出した。咲花は車のナビを開いて、地図上で優吾の言う男の居場所と光秀の居場所を確認する。

「男はまっすぐ歩いてる。今若い女性とすれ違った、女性はすごく不審そうに男のことを見てる」

「周りに警察官はいない?」

咲花が優吾に尋ねる。

「今のところは大丈夫かな。あ、でも男の現在地点から約一キロ先に交番がある」

「自首するつもりじゃないだろうな?それは困っちまうぞ」

光秀は少しだけ歩くスピードを速くして男に迫ろうとしている。

「今コンビニのところを左に曲がったよ。光秀もその十字路を左に曲がって」

ネットカフェから何メートルかまっすぐ歩いた後、男は急に左に曲がった。そこは住宅街のようで、商業施設はほとんどなく、人通りもあまりないエリアだった。

「男が止まった。周りに人がいないし、今が一番良いかも」

優吾がそう言うのが聞こえた光秀は一気に歩みを進め、道端に設置してある自動販売機の前で立ち止まっていた男に馴れ馴れしく肩を組む。

「よお、お兄さん」

光秀が肩に触った衝撃で男のフードが後ろに落ちる。急に現れた光秀に男は面食らっているようだった。

「お兄さん、困ってんだろ。俺が助けてやるよ」

「いや、その」

戸惑う男のフードの中に、光秀は盗聴器を仕込んだ。

「どうせそこのネカフェ帰りだろ?これ、そんなお兄さんにプレゼント」

光秀はポケットに入っていた鍵を取り出し、人差し指にかけて男の顔の前に持ってくる。そして男が喋るまもなく、次の言葉を挟み込む。

「そこのビジネスホテルの鍵。困ってる時は、お互い様だからな」

「お金ですか?」

ようやく男がか細い声で言った。

「金?いやそんなの良いって、ここで会ったのも何かの縁だろ?いやー俺っていいやつ」

「調子よすぎない?」と通信機から優吾の声が聞こえた。

「あ、お兄さん何歳?」

「え、二十一」

「なんだ、俺より若いじゃん。俺は二十五」

「はあ」

やはり男は困った様子である。その肩を強引に押し、光秀は進み始めた。

「案内してやるよ。すぐそこだから、別にやましいことなんてないからな。ほらほら行くぞー」

光秀は笑顔で明るい声を出しながら男を連れて行く。ビジネスホテルの前につくと、「じゃあな」と男に笑顔を向ける。

「あの笑顔うさんくさいな」と優吾が笑いながら言った。

男もその笑顔にだまされたのか、光秀に対して敵意は抱いていないようだった。そのまま男を一人残し、ホテルの前から立ち去る。

「男は光秀の後ろ姿を眺めてるよ」

優吾が光秀の背後にいる男の様子を報告する。完全にホテルから見えないところまで来たところで、光秀は後ろを振り返る。

「あ、入っていった」

耳元で優吾が言った。

「警戒心があるのかないのか、よく分かんないね。というか光秀強引すぎない?」

「あれだろ、運が良かったとかお気楽なことでも考えてるんじゃねーか。強引な態度は優吾の真似をしてみたんだよ。上手くいってよかった」

「僕の真似?僕ってあんな感じに見えてるの?」

「まあ、面影くらいはありましたね」

 咲花が会話に加わる。

「咲花までひどいなあ」

フードをかぶり直した男は、下を向いて受付の女性の前を通り過ぎる。女性は何も言わず、男に気づいていないふりをしていた。男はエレベーターに乗って鍵に書かれた番号の部屋へ行く。

部屋のドアを開けると、中には綺麗に整えられたセミダブルのベッドと椅子とテーブルがあった。窓は付いていたが、白い硬い布が貼ってあり外を見ることはできない。周囲の目を気にしなくても良いその空間に、男は一息つく。

テーブルの上に一本ミネラルウォーターが置いてあるのを見つけた。その下には「当ホテルをご利用いただきありがとうございます。ご自由にお飲みください」と書かれたカードが置いてある。

男はペットボトルを手に取り、ふたを開ける。精神的な負担から来る喉の渇きを潤すように、一気に水を飲み込んだ。

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