あなたの願いの、裏側で

タマキ

第1話

あなたが建てた真っ白な家

塀に囲まれた庭に咲く花、青々と茂る草木

朝五時、太陽が昇り始めたみずみずしい空

涼やかな風を感じながら自慢の庭に水を撒く

ふと塀の向こうに目を向けると隣の家の庭が見える

こちらよりもなんだが芝生の色が青く見える

嫌な感じ

目線を落とす

あちらよりもくすんだ足元の芝生

嫌な感じ


我々の日常生活のすぐそばで、陰ながら噂が広まっている薬がある。その薬の名前はchAngel。変化をもたらす神の使いという意味が込められたその薬を飲むと、他人と入れ替わることができるという。

年齢、性別を問わず入れ替わりが可能で、どんな人物になりたいかひとつだけ願いを叶えることができる。しかし誰と入れ替わるかを選ぶことはできない。生まれてくる子が親を選べないのと同じことである。そういう意味で、この薬の効果は入れ替わりというより生まれ変わりに近いのかもしれない。

薬の入手方法はとても簡単で、ホームページから購入することができる。chAngelと検索して出てきたホームページ。そこに必要事項を書き込み、お金を振り込む。金額は一回五万円。これを高いと思うか安いと思うかは人それぞれだろう。

この薬を実際に利用した人はどれくらいいるのだろうか。

あなたの隣で笑っている友人も、もしかしたら誰かと入れ替わっているかもしれない。


「おはようございます」

元気よく挨拶をしながらマンションのドアを開ける。今日はこれから会議である。何の変哲もないマンションの三階の一室。そこが、渡咲花が所属する管理部の拠点の一つだった。

管理部とはすなわち組織の管理をする部署である。その仕事は大きく二つに分かれ、一つは組織内部の管理である内部監査を、もう一つは組織外部の管理である組織に対する迷惑行為への対応を行うというものであった。咲花が担当しているのは後者の方で、会議もその仕事に関係するものだ。

今日は日曜日。組織の仕事に平日も休日も祝日も関係ない。

マンションのドアを開けると、目の前に三つの部屋のドアが現れる。左から順にリビングダイニング、洋室、洋室の扉となっている。咲花は進み、一番左のドアを開けた。

部屋の中はすっきり片付いており、キッチンのそばにテーブルと六脚の椅子が置いてある。その奥のリビングスペースにはクリーム色の絨毯が敷かれており、ソファやテレビや棚などごく普通のリビングにあるようなものが置かれている。

本来ならダイニング用に使われるテーブルのところに、二人の人がいた。このテーブルはここでは会議用に使われている。

「おはよう」

まず咲花に声をかけてきたのは飯塚良雄。椅子に座りながら、コーヒーを手に微笑んでいる優しい雰囲気の五十代の男性である。また管理部のこのブロックのリーダーでもあった。

飯塚の斜め前の椅子に座り、挨拶もせず新聞を読んでいる女性は井山絵里香。彼女のトレードマークはその赤い眼鏡だ。所属は管理部ではなく情報部というところで、咲花の先輩であった。

情報部も管理部同様、組織の部署の一つである。その主な仕事は情報操作と顧客情報の管理。絵里香は普段、この拠点とは別の場所で仕事をしているが、今日のように仕事を持ってここを訪れることもたまにあった。

そして組織には管理部と情報部の他に三つの部署がある。

一つ目は総務部。この部署は組織内の何でも屋である。その仕事の範囲は多岐にわたり、他の部署からは「何をやっているのか分からないところだ」と思われている。

二つ目は調査部。この部署の一番重要な仕事は、お客様の身辺調査である。またシステムによってなされたマッチングが正しいかどうか、その最終決定をする権限も持っている。

そして三つめは開発部。この部署は組織の主力商品の研究開発を行っている。それに加え、商品を作るための機械や、組織を運営していくためのシステムなどを作っている課があり、開発部に所属する人はみな技術職である。

これら五つの部署を抱える組織が扱っているのは、噂となっている入れ替わりの薬chAngelである。

入れ替わりの薬を作り、それを世界中の人々に売って、組織の利益を追求するとともに全人類の願いを叶える。それこそが、この組織が存在する意義であった。

「今日はお二人だけですか?」

 咲花は飯塚と絵里香に問いかける。

「あと、長谷川君も呼んでるんだけどね。まだ来ていないよ」

時計の針は集合時間の十分前を指していた。まだ来ていないからといって、責められるような時間ではない。咲花は荷物を置いて椅子に座り、飯塚達と話をしながら全員が集まるのを待った。

この組織に固有名詞はついていない。そして合計五つの部署にどれだけの人がいるのかも、上の人間以外は誰も知らない。

唯一組織の人間を見分けるのは、彼らの左手の甲に組み込まれたコードだけである。そのコードは特殊な装置でのみ読み取れるもので、結局普通に生活してれば誰が組織の人間か見ただけでは分からなかった。

 集合時間の二分前、部屋の扉が開く。

「おはようございます。ってあれ絵里香さんも来てるんすか」

遅れて部屋に入って来たのは長谷川光秀。咲花より少し年上の青年だ。光秀は寝ぐせのついた茶色の髪の毛を撫でながら咲花の横に座る。

「私がいたらいけない理由でもあるの?」

「いやいや、そういうわけではないっすよ」

絵里香の少し高圧的な態度はいつものことだ。飯塚が最後にやって来た光秀の前にお茶が入ったコップを置き、テーブルに四つのコップが並んだことを確認する。

「これで全員揃ったね」

このブロックを担当している管理部は光秀や咲花以外にも十数人いた。しかし、今日飯塚から連絡があったのはその中でも二人だけだった。

「井山さんから話があるらしくて、今日は二人を呼んだんだよ」

飯塚に話を振られた絵里香が新聞を置き、話し始めた。

「まず一つ目は管理部の皆さんにお伝えしておきたいことです。最近インターネット上にchAngelを悪く言う書き込みが増えました。定期的に削除はしているし直接組織に影響がなければ別に構わないのだけれど、一応注意しておいて下さい」

絵里香は鞄からファイルを出して、その書き込みの一部を印刷したものを三人に見せた。 

組織への迷惑行為以外であれば、chAngelをどのように使用しても問題は全くない。例えばchAngelを使用して悪いことをしたとしても、それは個人の自由であり個人の責任である。きちんとお金が支払われていれば、わざわざ組織が干渉することはなかった。

「他の方々にもお伝えいただくようお願いします」

「分かったよ」

飯塚が手にしている情報端末にメモを残す。

絵里香が、今度は咲花と光秀の二人に向かって話し出す。

「それで二つ目が本題。咲花と長谷川に私のチームの新人の研修担当をお願いしたいの」

研修とは特別研修のことである。組織に入った人間は、その特性から判断され一つの部署に配属される。そして基本的に、その部署にずっと所属し続けることとなっていた。

しかし、組織に入ってから半年以内の間に、二週間だけ他の部署に出向きそこで働くという期間が存在する。それこそが特別研修期間である。

組織が特別研修を実施している理由の一つは、他の部署との繋がりを手に入れるためである。この組織は存在そのものが透明なため、誰が組織の人間で、どこでどの部署の人々が働いているのかなど、それを明確に示すものが存在していない。飯塚達も定期的に拠点の場所を変えており、一度そこを訪れたことがあるくらいでは移動してしまったらもう一生会えなくなってしまう。要するに、他の部署と関わることが案外難しかった。

特別研修はそれを補うために存在する。実際、部署の違う咲花と絵里香が初めて出会ったのも咲花の特別研修期間においてだった。

「どんな人っすか。女?男?」

光秀が絵里香に質問するが、絵里香はそれを無視して話を続ける。

「早ければ明日からお願いしたいと思ってる。飯塚さんからはもう受け入れの許可をいただいているから、あとは二人が研修担当を引き受けてくれるかどうかなんだけど、どうかしら?」

咲花と光秀は顔を見合わせる。飯塚には話が通っているということは、どんな人物を預かるのかそれを飯塚は知っているはずである。絵里香にその人物のことを聞いても答えは返ってこなさそうだったので、二人は後から飯塚に詳しい話を聞くこととして研修担当を引き受けることにした。

「私は良いですよ」

「俺も大丈夫っす」

二人の返事を聞いて、飯塚はうなずき微笑む。

「それじゃあここにサインをしてくれる?」

絵里香が差し出したのは誓約書。研修期間中に新人の身に何かあればその責任が全て研修担当のものとなるという旨の文章が書かれている。そしてその下には研修担当の心得七カ条が大きく書かれていた。二人はざっとその内容に目を通し、ペン立てからボールペンを取り出してそれぞれの名前を書いた。

「それにしても、誓約書はまだアナログなんすね」

 先にサインを書き終えた光秀は、その紙を眺めていた。

「そうだね。開発部の技術力があれば紙なんて使わなくても良いと思うけど、やっぱり重要なサインは形あるもので残しておいたほうが信頼できるからね。特に僕達の世代はそう考える人が多いんだと思う」

 咲花もサインをし終え、誓約書を絵里香が回収する。そしてすぐに絵里香は荷物をまとめて部屋を出て行った。話が始まってからここまで十分もかかっていない。

三人は絵里香の後ろ姿に向かって「お疲れ様です」と声をかける。しかし絵里香の耳には届いていなかった。

管理部の三人と、絵里香が使ったコップだけがこの空間に残った。

「絵里香さんは相変わらず無駄がないっすね」

最初に口を開いたのは光秀だった。

「無駄がないというか、なさすぎるというか」

顎に手を当て、絵里香が出て行った先を眺める。

「それでも彼女は優秀だからね。部署の仕事によって、井山さんのような効率的な思考や行動をする人の方が向いていることもある。情報部は特にそうだね。長谷川君は長谷川君らしくしてるのが一番だと思うよ」

飯塚が光秀をなだめる。

「俺らしくって、飯塚さんには俺ってどんな風に映ってますか?」

「非常に人間的で素晴らしいと思うよ」

「絵里香さんとは対照的に感情的だってことですか?」

「咲花、そう言うとなんか悪口に聞こえるぞ」

 飯塚が言葉を付け加える。

「感情的であることも、決して悪いことではないよ。ただ全てを感情に任せてしまうようであれば、少し困ってしまうね。そこはバランスが大切になるかな」

「バランスっすか」

 光秀はその言葉を反芻する。

「そう、僕達は社会に紛れることも時として必要になるからね。どれだけ優秀な点を持っていても、あまり突き抜けすぎていると仕事がしづらくなってしまう」

「確かに、絵里香さんはその突き抜けてるタイプっすよね。情報部的にはそっちの方が良いのかもしれないっすけど」

飯塚の言葉を受けて、光秀は納得したようだった。

「いや、でもそれにしたって絵里香さんは何考えてるか分かりにくすぎるっすよ。飯塚さんからもっと言ってやってください」

 全く納得していなかった。

「機会があったらね」

 飯塚は光秀の要求を軽く流す。その様子を横で見ていた咲花は、飯塚が絵里香に何か言うことはないのだろうなと心の中で思った。

「咲花も、研修担当が絵里香さんだったとかよくやっていけたな。二週間とはいえさ」

光秀は椅子に浅く座り、背もたれに完全に体を預けて天井を見上げている。

「絵里香さんは良い人ですよ。光秀さんには当たりが強いみたいですけど」

咲花は笑顔で言う。その様子を光秀は眉をしかめて見ている、良い人というのが理解できないようであった。

「やっぱり俺に対してなんか当たり強いよな。情報部の人間ってみんなあんな感じなんすか?明日から来る新人っていうのもそんな感じなのかな」

両手で目を塞いだ光秀の体はどんどん下に沈んでいく。

「そういえば、研修に来るのはどんな方なのか飯塚さんはご存じですか?」

「一昨日くらいに資料が送られてきてね。まだ直接会ってはいないんだけど、基礎的な情報は知ってるよ」

飯塚は情報端末を操作しテーブルの上に画面を表示させた。

「明日から来る子は秋山優吾君。今年十五歳の男の子だね」

「え、俺の十個下じゃないすか」

光秀が飛び上がり前のめりになる。

「まだ若いけど、報告によるとかなり優秀な人物みたいだね。組織に入る前はアメリカにいたそうだよ」

「そこでも情報系の仕事を?」

「詳しいことは資料に書かれていなかったけど、そうみたいだね」

「アメリカすか。グローバルっすね。俺、英語全く喋れないんで尊敬します。とどのつまり天才少年か。俺、自信なくなりました」

光秀が再び椅子に沈んでいく。

「まあまあ、情報部とうちではやっていることが全く違うから。秋山君が情報部としては優秀でも、管理部としてどうなのかは未知数だよ。いろいろと教えてあげてね」

飯塚は姿勢良く座ったままコーヒーを口にする。

「光秀さん、今日感情の起伏が激しいですね。何かあったんですか?」

 咲花からして、今日の光秀はいつにもまして情緒不安定のようだった。

「それがさ、聞いてくれよ咲花。俺の災難の数々を。

朝起きるだろ、食パンをトーストで焼いて、さて食べようと思ったらマーガリンを塗った面を下にしてパンが床に落下。慌てて拾おうとしたら何かのコードがコップに引っかかって、ココアが絨毯の上に落下。急いで片づけて家を出て駅に着いたら、ダイヤ改正してたらしく、俺が調べた時間と電車の時間が違ってて時間ギリギリ。もう俺は今日だめかもしれない」

救いを求めるように天に向かって両手を伸ばす。

「それは朝から災難でしたね」

「そういう日もあるよ」

今度は咲花と飯塚の二人で光秀をなだめる。

「日頃の行いが悪いんすかね。俺結構真面目にやってると思ってたんすけど。

それに絨毯にこぼれたココアって拭いても拭いても綺麗にならないんすよ。水気を拭き取っても色が残って、朝から血痕の処理でもしてるような気分になってより憂鬱でした。俺はそういう清掃系の仕事向いてないなと思いましたよ」

光秀の永遠と垂れ流れる愚痴を、咲花は時々相槌を挟みながら聞く。

飯塚は光秀の話の相手を咲花に任せて部屋を出て行った。

このマンションはどの階も南側にバルコニーがある。そのため三つの部屋いずれも日中明るい日差しが差し込む。この拠点は複数の人間が集まって会議をしたり情報交換したりしている場所で、主にリビングダイニングの一室だけしか使用していない。

洋室の一つはパソコンが設置された作業スペース、もう一室はカモフラージュのためにダブルベッドが置いてある。作業スペースは主に飯塚が、一人で何かをする際に使うこともあったが、寝室はこのマンションで寝泊まりしている人がいないため、全く使われていなかった。

飯塚は洋室に入り、パソコンの前に座る。そしてパソコンの電源は付けずに、情報端末を開き本部からの定時報告に目を通す。

管理部の中でも飯塚の部署は組織外の人や集団との接触が多い。そのため顧客やその周りの人物の怒りの矛先となることが多く、トラブルに巻き込まれる可能性も一番高かった。資料は全て組織から配布された情報端末に収められており、いざというときはその端末を破壊し情報の流出を防ぐことができるように組織独自のネットワークと常に接続されている。

「そういえば、今朝の占いO型が最下位だったんだよ。占いとかあんまり信じてなかったけど、意外と当たってんのかな」

咲花と光秀が残った部屋では、まだ光秀の愚痴が続いていた。

「光秀さんってO型だったんですね」

「知らなかった?」

「はい、今初めて知りました」

 愚痴に飽きた咲花は話をすり替え、終わらせようとする。

「何型っぽい?」

「うーん、A型では無いなという感じはしますね」

 二人は血液型の話という、何の生産性もない会話を繰り広げた。

「ちなみに咲花は何型?」

「私はB型です」

「それなら咲花が刺されたり、撃たれたりして出血多量でやばい時は俺が血を分けてやるよ」

「それはありがたいですけど、そういう状況には陥りたくないですね」

 咲花は笑う。

「そうあり得なくも無い話だからな。用心しとけよ」

 冗談のつもりだった咲花に対し、光秀は少しだけ真剣な眼差しをしていた。

咲花は光秀とたわいも無い会話をしながら、飯塚が開いたままにしていた画面を操作する。そしてそこに書かれている秋山優吾についての情報を改めて確認した。

咲花がちょうど、秋山優吾の配属先の項目を読んでいたとき、光秀が横からのぞき込んできた。

「情報部ってどんなところなの?」

光秀が唐突に咲花に問いかける。咲花は特別研修期間に情報部で仕事をした経験があった。手を止め、その時のことを思い出す。もう七年くらい前の記憶だった。

「今はどうなのか分かりませんけど、私が研修で行ったところはこことは全然雰囲気が違いました。びしっとしたオフィスみたいなところに見たこともないような機械と画面が並んでいて、こんな風に誰かと会話をしている時間なんて全くなかったです。今はその頃と比べて使用している情報端末や機械も進化していると思いますし、どうなっているのか想像がつかないですね」

咲花が昔加わったチームは顧客情報の管理をしているところだった。調査部から上がった報告書と独自のルートで手に入れた情報を統合しデータを作成する。そのデータを元にマッチングシステムが入れ替わり相手の選択を行い、それに対応する薬を開発部がつくる。

莫大な数のデータを扱い、情報部のミスは他のどの部署にも支障を与える、かつ外部にその情報が洩れるなんてことがあってはいけないため、かなり慎重に仕事を行わなければならない。

「私の担当をしてくれた絵里香さんはあの雰囲気に合っていましたね。あの仕事において絵里香さんほど頼れる人はいないって感じで、存在感を放っていました」

その様子を想像してか、「俺はここで良かったよ」と光秀は噛みしめるように言った。

部屋のドアが開く。開けたのは鞄を手にしてグレーのハットをかぶっている飯塚だった。

「少し出てくるね。二人が帰るときは戸締りをするように」

そう言い残してマンションから出て行った。

「また新しい人がでたんですかね?」

咲花は光秀に問いかける。

管理部のリーダーにのみ任されている仕事の一つに、顧客のケアというものがある。一般的に管理部の外部担当は社会に紛れ、日常生活を送り、その中で発生したトラブルにその都度対応することが仕事である。そのため幅広い年齢層の人々が所属しているが、管理部の人間は誰がchAngelの使用者なのかを知る権利については持っていない。

しかしリーダーだけは自分のブロックの使用者情報を知ることができるという特権を持っていた。そして自分の担当ブロックで誰かが入れ替わった場合、その人物に異常がないか確認しに行かなければならないという義務がある。

「そういえば、入れ替わりは一人一回までって条件がなくなった頃からかなり増えたよな」

「そうですね。それ以前は今ほどではなかったです」

「飯塚さんも大変だよ」

 飯塚の様子から想像するに、今日もまたこのブロックで誰かがchAngelを使ったみたいだ。


翌日の午前、絵里香は情報部の新人を管理部の拠点まで案内するため集合場所である駅前に向かっていた。平日の午前かつ通勤時間が過ぎた時間であるのに、駅前にはそこそこの数の人がいる。その人達とすれ違いながら絵里香が進むと、噴水のところに外国人風の少年が座っているのが目に入った。

焦げ茶色の髪にくっきりとした顔立ち、色白な肌に青い目をしたその少年は良くも悪くもかなり目立っている。

少年の前にシルバーカーを押した見知らぬおばあさんが立ち止まる。何度か言葉を交わした後、おばあさんはポケットからキャンディーを一つ取り出す。少年はそれを受け取り、笑顔を見せる。立ち去っていくおばあさんが遠く離れるまで少年は軽やかに手を振っていた。

特別研修の先が管理部で本当に良かったのだろうかとその様子を少し離れた位置で見ていた絵里香は思った。彼は外で仕事をするのには向いていない。

絵里香はそのまま真っ直ぐに少年に近づいていく。

「はじめまして。井山絵里香よ」

少年の正面に立ち、名を名乗る。あらかじめ絵里香が迎えに行くということは優吾にも伝わっているはずであった。

「君が絵里香か。よろしくね」

少年は立ち上がり、右手で絵里香に握手を求めた。

「僕は秋山優吾。こんな見た目だけど正真正銘の日本人だから、言語の心配はいらないよ」

また面倒くさそうな新人が入ってきたと絵里香は思った。

「左手を出して」

優吾は絵里香の言葉に従い、右手を引っ込め左手を出す。絵里香はその手を掴み、開発部から特別に借りている親指ほどの大きさの機械をその甲にかざす。

「何してるの?」

優吾が不思議そうに自分の左手を見ている。機械の表面にアルファベットと数字の羅列が浮かび上がった。

「コードの確認よ」

それは間違いなく、秋山優吾のコードだった。確認が終わった絵里香は優吾の手を離す。

「それじゃあ、行きましょうか」

「今ので確認終わり?」

「ええ。あなたは確かに秋山優吾だと確認できたわ」

二人は光秀と咲花がいるはずのマンションに向かって歩き出した。優吾はしばらく自分の左手の甲を触っていた。


午前十一時。拠点では絵里香が新人を連れてくるのを光秀が一人待っていた。珍しく気を効かせて買ってきたお茶菓子のサブレがテーブルの上には置いてある。約束の時間になったのでテレビを消してリビングスペースのソファから立ち上がった。

ちょうどそのタイミングでインターホンが鳴り、光秀は鍵を開けるため玄関まで急いだ。ドアを開けてまず目に入ったのは絵里香。その隣に青い目をした少年が立っている。

「おじゃまするわ」

絵里香は光秀の横を通って部屋の中に入る。残された少年と目が合った。

「はじめまして、二週間よろしく」

外国人風の見た目に反して、屈託のない笑顔でくだけた日本語を披露した少年に対し、光秀はうまく反応できなかった。

「おう、よろしくな。とりあえず中に入れよ」

 ぎこちないながらも、少年を部屋に案内する。少年は玄関で脱いだ靴をきちんとそろえてから部屋の中に入っていった。

三人がそろい、絵里香と少年はサブレを挟んだ光秀の向かいに並んで座った。まずは自己紹介から始める。

「改めまして僕は秋山優吾だよ。よろしく」

「俺は長谷川光秀。俺ともう一人でお前の研修担当をすることになったから、よろしくな」

「お前だなんてひどいな。優吾って呼んでくれれば良いよ」

「分かったよ」

優吾は絵里香とは正反対の性格をしていた。明るく、快活で、コミュニケーション能力も高い、それと押しが強い。情報部と一括りにしても幅広いタイプの人間がいるのだなと光秀は驚いた。

「咲花はまだ来てないのね」

 絵里香が部屋の中に光秀しかいないことを確認し尋ねる。

「今日は月曜っすから。咲花は今は学校に行ってます」

「そう。咲花にもよろしく伝えておいて。私の仕事はここまでだから、これで失礼するわ」

 自分を連れてきて早々に立ち去ろうとする絵里香に、優吾も驚いているようだった。

「絵里香もう帰っちゃうの?」

優吾が絵里香に問いかける。

「しっかりやりなさいよ」

その一言をだけを残し、宣言通り絵里香は部屋を出て行った。優吾はその絵里香の後ろ姿に手を振った後、机の上のお茶菓子に手をつける。

「絵里香は素っ気ないのが玉に瑕だよね。光秀もそう思わない?」

サブレをほおばりながら言った。

「まあ、そうだな。もう少し愛想よくても良いんじゃないかとは常々思うよ」

「だよねー」

「優吾は前から絵里香さんと知り合いだったのか?」

「いや、ついさっきここに来る前に会ったばっかりだよ。今後は同じチームになるっていうのにあんなに素っ気ないんだもん。驚いた」

「お前、よく喋るな」

 優吾は光秀とも初対面なはずなのに、人と人の間にある距離というものを全く意に介さず飛び越えてきた。

「そうかな?別に普通だと思うよ」

 二枚目のサブレに手を伸ばす。

「美味しいか?」

「うん、美味しい。僕甘いもの好きなんだよね」

 優吾は青い目を輝かせた。光秀は自分が買ってきたものを喜んで食べる優吾に好印象を抱いていた。ちょっと距離感がおかしい気はするが、悪いやつではなさそうだ。

「優吾は組織に入る前、アメリカにいたんだよな?」

「そうだよ。向こうで組織に入らないかって誘われて、それでいざ入ってみたら日本に行くことになってさ、びっくりしたよ」

「優吾はアメリカ人?それにしては日本語ぺらぺら話すよな」

「僕は血が混ざってるだけで、日本人だよ。日本語だって母国語なんだからね」

「そうなのか」

 光秀はまだ、優吾の見た目と中身のギャップに慣れなかった。

「みんな僕を見ると英語かヨーロッパ系の言葉で話しかけてくるんだけど、本当失礼しちゃうよね。昨日なんてさ、組織の偉い人にちょっとお高い料理屋さんに連れてってもらったんだけど、そこの店員さんが僕に英語で注文を聞いてきたんだよ。まあ、僕も英語話せるし良いんだけどさ、やっぱり人は人を見かけで判断しちゃうんだよね」

「偉い人ってどんな人達と食事したんだ?」

 この質問は光秀の個人的な好奇心によるものだ。

「おじさん、おばさんばっかりだったよ。というより、おじいさん、おばあさんって言う方が適切かな」

「本部の人か?」

 組織の五つの部署の上には本部というところが存在している。本部は組織の中枢であり、そこに属する人達によってこの組織は成り立っている。光秀にとって雲の上のような存在であった。

「そこまではちょっと分からないや。僕もまだこの組織に入って間もないし、組織図とか誰が何をやってるのかとか、全部は把握できてないんだよね」

「そうか。でもそんな偉い人達と食事する機会が与えられるなんて、やっぱり優吾は特別対応なんだな」

「まあ、自分で言うのも何だけど僕は優秀だからね」

「それ自分で言う?」

「だから先に前置きしたんだよ」

 光秀は腕を組む。

「それにしても、アメリカか。向こうにもこっちと同じ部署があるんだよな?」

「そうだよ」

「ある日突然、外国に飛ばされることとかあるのかな。そうなると俺は困るな」

「光秀は、それはないと思うよ」

 優吾はあっけらかんと言う。

「なんでだよ?」

「だって英語話せないんでしょ?」

 優吾の言葉が光秀の胸に突き刺さる。

「まあ、確かにそうだけどさ」

 優吾は光秀と話しながら、部屋の中を観察していた。そして自然な動きでリモコンを手繰り寄せ、テレビをつける。優吾は何回かチャンネルを変えた後「何もやってないや」とテレビの電源を切った。

「優吾は俺達の仕事について絵里香さんか、他の誰かから聞いてるか?」

飯塚は今出かけている。咲花もおらず、この場にいるのは光秀と優吾だけだった。ずっと仕事に関係のない話をし続けるのではなく、研修担当らしいことをした方が良いのではないかと光秀は思った。

今のところ片付けるべき仕事は発生していないためやるべきことはなかったが、仕事の説明くらいはこの時間に済ませておきたい。

「うーん、ここの任務は主に組織の迷惑行為への対応。普段は人々に紛れて、何か起きた時に自然な形で対応できるように備えておくのが基本のやり方ってことは聞いたよ」

「簡単にまとめると、今優吾が言った通りだ。そんだけ分かってたら大丈夫だな」

これ以上説明することは特になかった。特別研修期間に何事も起きなければ問題はない。そこで光秀は絵里香がインターネット上にchAngelを悪く言う書き込みが増えたと言っていたことを思い出した。優吾も今は管理部の一員ということで、そのことを一応伝えておく。

「そういえば、光秀は平日の昼間にここにいて大丈夫なの?」

いつの間にかお茶菓子の残りが半分以下になっていた。優吾の横には包み紙の山ができている。

「俺は世間的にはフリーターってことになってるからな。別にいつどこにいても大丈夫なんだよ」

「フリーターか。それならいつもは何してるの?暇じゃない?」

「ブロック内をふらふらしてるよ。それで連絡があったらそこに急行する」

「ふらふらか。良いね」

優吾が突然立ち上がる。青い目が輝きに満ちていた。

「じゃあ今からふらふらしよう。光秀、このブロックを案内してよ」

管理部と調査部はブロックに、総務部と情報部と開発部はチームに分かれて仕事をしている。日本は九つのブロックに分かれ、北から順に一から九の数字がふられている。飯塚がリーダーを務めるここは第五ブロックだった。

第五ブロックは地図上で見ると縦長のブロックで、縦に三つ、横に二つの地区に分けられている。北側を上にして地図を置いたとき、右上から縦にA地区、B地区、C地区、左上から縦にD地区、E地区、F地区となっている。

この拠点はF地区の北東部に位置していた。なぜブロックの中心ではなく端のF地区にあるかというと、この地域が第五ブロックの中で一番都会だったからである。

都会の方が住んでいる人口が多い。それに比例して発生するトラブルもやはり都会の方が多かった。

「今日は光秀の一日を体験するってことでどう?それなら研修内容としてはばっちりだよね」

「結局何もしてないようなもんだけどな」

「そんなことないよ。光秀も特別研修受けたことあるでしょ。毎日報告書を書いて、配属先の部署に報告しなきゃいけないんだよ。今日は光秀とお菓子を食べてお喋りをしましたって報告書に書いたら、情報部の人に白い目で見られるのは光秀なんだからね」

 光秀は優吾の配属先が絵里香のいるチームであることを思い出す、ということは優吾の書いた報告書をきっと絵里香も読むことだろう。

「それだったら、光秀の一日に密着して行動を共にしました。その中で、現場について教えてもらいましたって書いた方が、良い感じに見えない?」

「よし、行くか」

 まんまと優吾の口車に乗せられ、光秀は外に出ることを決意する。

「やった。美味しいお店とかあったら紹介してね」

「もう発言が覆ってるぞ」

 光秀は優吾が外に遊びに行きたいだけだということに気づきながらも、ブロック内を案内することに決めた。

「さすがにブロック全体を回るのは無理かな?」

優吾と光秀はマンションの敷地を出たところでどこを回るか決めている。

「一日って言っても、時間的にはもう昼だからな。それだと全部はさすがに難しい」

「それじゃあ、このマンション周辺を散策することにしよう。最低限の地理情報は頭に入れとかないとね」

優吾は元気よく散策を始めた。光秀はその横を歩く。

優吾は光秀と話をしながらどんどん前へと歩みを進めていく。絵里香とは正反対の性格をしていると思っていたが、どちらもマイペースすぎるという意味では似ているのかもしれないと光秀は思った。仕方なく、優吾に合わせペースを上げる。

「優吾は十五歳だったよな。日本では学校とか行くの?」

優吾が突然左に曲がる、光秀も慌てて方向転換をする。もはやマンションの周りとはとうてい言えないところまで来ていた。

「いや、行かないよ。行ってる時間もないしね」

「そうか。まあ情報部だとそんなもんか」

ちょうど学校の横の道に差し掛かった。ここは咲花が通う高校である。校舎の周りは緑豊かな木で囲まれている。その向こうから人の笑い声が風に乗って聞こえた。

「光秀はいつからフリーターなの?」

優吾が横を歩く光秀を見上げる。

「俺は高校の途中で組織に入ったんだ。だからそのときからかな」

「結構長いんだね」

「まあな」

「七、八年くらいってことだよね?大先輩じゃん」

「もっと俺を敬ってくれても良いんだぞ。例えば敬語を使うとか」

「それはいいや」

「自分勝手だな」

道端の日陰にこちらをじっと見ている黒猫がいた。「猫だ」と言いながら優吾が近づいていく。

「光秀もおいでよ、可愛いよ」

しゃがみ込んで猫の頭を撫でる。その猫は警戒心を見せず、優吾に身を任せているようだった。

「俺は遠慮しとく」

「えー、後輩の誘いに付き合ってあげるのも先輩の務めだよ」

「それは後輩が言う台詞じゃねーよ」

高校のチャイムが辺りに鳴り響いた。昼休み終了の合図だった。

「なんだかちょっと騒がしくなったね」

 優吾は猫の体をなでながら、顔を上げ校舎を眺める。

「授業が終わったんだろ。まあ、この時間に生徒が学校から出てくることは無いだろうし俺らには関係ないけどな」

「光秀は高校に恨みでもあるの?」

「なぜそうなる」

「敵視してる感じがしたからさ」

 光秀も校舎を眺める。

「別にそんなつもりは無いんだけどな」

優吾が猫を触り始めてからあっという間に一時間が経過した。そしていつの間にか優吾の周りの猫の数が増えている。優吾はまだ飽きる様子はなく、猫とじゃれあっていた。次第に日の光が強くなり、二人の額には汗がにじんでいた。

「そろそろ動かねーか。暑すぎる」

光秀は少し離れた日陰の中から、猫に囲まれた優吾に声をかける。

「えー、もうちょっとだけ」

「同じことさっきも言ってたぞ」

「気のせいじゃない?」

「気のせいじゃない」

 仕方ないなという様子で優吾が猫とお別れをする。

「もう、光秀はわがままなんだから」

「それはどっちだよ」

「あ、次はあそこに行こうよ」

立ち上がった優吾が指さしたのは、光秀の後ろ。光秀が振り向くと、そこには店の案内看板があった。

少し歩いてたどり着いたのは小さなカフェ。四人掛けの緑色のソファ席に案内された二人は向かい合って座る。

「あんまり高いものは駄目だからな」

「はーい」

席に着くや否やメニューを開き、楽しそうに何を頼もうか選んでいる優吾に対し、光秀はズボンのポケットから財布をとりだし所持金を確認する。手持ちは三千円。

「よっぽど高くなければ何とかなるか」

独り言をつぶやいた。

「今何か言った?」

「気にするな。それより何頼むか決まったのか?」

「たくさんあって迷っちゃうんだよね。光秀は何にする?これとかどう?」

 優吾はこのカフェの看板商品らしきスイーツが載ったページを開いて光秀の前に置く。

「俺は今、甘いものの気分じゃないんだよな」

「そうなの?これ一緒に食べたいなと思ったのに」

 優吾が食べたがっていたのは三から四人前と説明が書かれた大きなパフェ。値段は三千五百円プラス税で、完全に光秀の所持金オーバーだった。

「優吾、よくここを見ろ。三から四人前って書いてあるだろ?今ここにいるのは二人、さらに俺は甘いものがそんなに食べれない。分かったな?諦めろ」

 光秀は他のページに載っているスイーツを優吾に勧める。仕方なく優吾は一人前のストロベリーパフェを頼むことにした。

しばらくしてから光秀の前にはアイスティーが、優吾の前にはストロベリーパフェが運ばれてきた。光秀はアイスティーを一口飲んだ後、ガムシロップを入れてかき混ぜる。疲れた体に冷たい甘さが染み渡った。

「管理部の仕事は楽しいね」

冷房の効いた店内。座り心地の良いソファ。優吾がパフェを食べながら言った。

「まだ仕事らしい仕事は何一つしてないけどな」

「そんなことないよ。こうやってパフェを食べるのも立派な仕事だよ。もしかしたら今この店のキッチンで何かトラブルが発生しているかもしれないし」

 光秀はキッチンの方を眺める。

「どう考えても、何も起こってないだろ」

「まあまあ。管理部の人達は何か起こってから依頼を受けて動くことが多いみたいだけどさ、こうやって先回りして動くってのも大事だよ」

「確かにそれは一理あるな。でも俺がこんなにフリーなのは特例中の特例なんだからな。本当は二重生活で結構大変なんだぞ」

「知ってるよ。拠点に行っても一人しかいないなんてことは他の部署だとあり得ないことだしね。それにしても光秀は良いね。chAngelを使うことがあったら、光秀と入れ替わろっかな」

「相手は選べねーよ」

アイスティーの氷がグラスの中で音を立てて動いた。

「光秀はさ、chAngelを使った人のうちどれくらいが幸せな日々を送っていると思う?」

 優吾は何気ないふりを装って光秀に尋ねた。

「さあな。俺たちはそこまで面倒見切れないから」

優吾は半分に切られたイチゴをスプーンにのせたまま、手を止める。

「まあでも、自分の力ではどうにもできないこともあるだろ。そういうのに縛られていた人たちは、新しい自分になってそこから解放されて、楽しくやってんじゃねーの」

「ふーん」

「ふーんって、お前なあ」

優吾の頭をチョップする。

「痛いなあ」と頭をさすりながら、優吾はイチゴを食べる。

カフェを出たのは午後四時。そろそろ咲花も学校が終わっているだろうと思い、マンションに戻ることにした。ずいぶん遠くまで歩いてきたので、帰るのにまた同じくらい歩くと思うと気が重い。運動不足だなと光秀は感じた。

「優吾は疲れてないか?」

「全然。もしかして光秀は疲れちゃったの?ちょっと散策しただけなのに?」

「ここまで歩くのはちょっととは言わない」

途中、光秀と優吾は駅の前を通る。ちょうど帰宅時間なのだろうか、駅は多くの人で溢れていた。

「そうだ、今日ここでおばあさんからキャンディーもらったんだ。良いでしょう」

 優吾はズボンのポケットからキャンディーを取り出し、口に入れた。

「知ってる人か?」

「いや、全然知らないおばあさん」

「あのなあ、知らない人からものを貰うなよ」

「光秀は心配性だな。大丈夫だよ。ちゃんとお話しして良い人そうだなって確認したんだから」

 優吾の脳天気さに光秀は感動を覚えるほどだった。優吾はこういうやつなんだと光秀は心の中で自分を納得させる。

「これからは一応気をつけろよ。優吾に近づいてきた人が悪いやつで、毒でも飲まされるかも知れないだろ?」

「それ、実体験?」

 優吾が首を傾げる。

「俺が悪いやつとでも言いたいのか?」

「あり得るかなって」

 優吾のその無邪気さが、素なのかわざとなのか光秀には分からなかった。

「まあそういう場合もあるから、多分」

「多分ね。まあこれからは気をつけることにするよ」

「それにしても知らないばあさんから飴もらうとか、やっぱりお前目立つよな」

「そうかな?」

 散策中もすれ違い様に優吾の姿をじっと眺める人が何人かいた。

「気にしすぎじゃないの?人はそんなに他人のこと気にしてないよ」

「優吾はもう少し周りを気にした方がいいぞ。これは俺からのアドバイス」

「受け取るだけ、受け取っとくよ」

 優吾がそう言ったところでちょうど電車が駅に到着した。駅の出口からはたくさんの人が列をなして流れてきた。

「人、多いな」

 その様子を光秀は眺める。

「みんな普通な顔して生きてるんだもん、不思議だよね」

 優吾が光秀にだけ聞こえるような小さな声でつぶやいた。


学校を終えた咲花がマンションの鍵を開ける。制服姿のまま部屋の中に入ると、会議用テーブルの横のリビングスペースでテレビに向かって光秀と優吾が対戦型のゲームをしていた。

「お疲れ、咲花」

光秀があまりにも緊張感が無い様子で絨毯の上で横になっている。光秀の隣にいた優吾が咲花の方を振り向いた。

「光秀、この子は?」

「俺と一緒に優吾の特別研修を担当することになった、渡咲花。優吾の二歳上くらいだったか?」

「今ちょうど十七です」

「そうなんだ。僕は秋山優吾。よろしくね、咲花」

優吾は咲花に満面の笑みを向ける。

「こちらこそよろしく」

優吾と挨拶を済ませた咲花は教科書が詰まった鞄を置いて、情報端末を開く。トラブルが生じたという報告はなく、第五ブロックは今日も平和だったようだ。確認を終え画面を閉じる。

 再び光秀と優吾の方を見ると、二人は仲良くゲームを続けていた。

「ずいぶんと仲良くなったんですね」

二人を横目に咲花はキッチンに向かう。冷蔵庫を開け、ペットボトルに入ったお茶を取り出しコップに注ぐ。

「今日一日、光秀とこの近くを散策したんだよ」

「全然近くではなかったけどな。咲花の高校の方まで行ったよ」

「ここから学校まで行ったんですか?車でですか?」

「歩きだよ」

「かなり距離ありますよ」

光秀が横になっているのは決してだらけているというわけではなく、一日中歩いていたことによる筋肉痛がひどかったからだった。光秀の両足のふくらはぎには湿布が貼ってある。

「光秀さんはもうおじさんですね」

「まだ若いに決まってんだろ。こんなに早く筋肉痛が来たんだから」

 光秀は転がったままだった。


優吾が管理部に来てから三日が経った木曜日の朝、咲花は目覚まし時計の音で目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込み、ちょうど咲花の顔を照らしている。起き上がり、カーテンを開けると青空。今日も良い天気だ。

ここは組織が管理している、拠点とは別のマンションの一室。そこで咲花は一人で暮らしていた。

眠い目をこすりながら学校へ行く準備を始める。学校に遅刻するわけにはいかない。まず初めに顔を洗ってから制服に着替える。半袖の白いブラウスを着て、紺色のスカートを履いて、髪を後ろで一つに結ぶ。時間割をしている途中で今日は体育がある日だと気づき、体操服をクローゼットから取り出し鞄に詰めた。

朝食はジャムを塗ったトースト。ぼんやりとテレビのニュースを眺めながら一口かじる。 スマホを見ると飯塚から連絡が入っていた。今日の授業後、拠点に集合するようにということだ。何か起こったのだろうかと気になったが、行って話を聞かなければ分からない。 

それよりそろそろ学校へ行く時間が近づいていることを確認した咲花は急いでトーストを食べ進める。

最後に水色のリボンを胸につけ、鞄を持って部屋を出る。建物の外、マンションの敷地内でおばあさんが花に水をやっていた。

「おはようございます」

咲花は丁寧に挨拶をする。このおばあさんはこのマンションの大家さんで、組織の人間だ。所属は総務部。現在は組織が所有するいくつかの建物の管理を担当していると入居の日に伺った。

「あら、渡さんおはよう。今日も学校頑張ってね」

「ありがとうございます。行ってきます」

白い自転車のカゴに鞄を入れ、鍵を挿す。自転車置き場の屋根から出ると、日差しが咲花の肌に降り注ぐ。サドルにまたがりペダルを蹴った。

学校まであと数分というところの交差点で信号に引っかかった。目の前を途切れることなく車が通り過ぎて行く。自転車を止め信号が変わるのを待っていると、後ろから歩いてきた女子生徒が咲花の横で止まった。

「おはよう」

咲花と同じクラスの友達である美智子だった。風で乱れた肩までの長さの髪を整えている。

「おはよう、今日も暑いね」

 咲花はハンドルから離した右手で自分の顔を仰ぐ。

「ここ最近で、急にまた暑くなったよね。あのボロボロの屋根何とかしてほしいよ」

 美智子は振り返り、歩いてきた駅までの道を眺める。その道の歩道の部分にはビニールでできた屋根がかかっていたが、ところどころ穴だらけでほとんどその意味を為していなかった。晴れの日は日差しが差し込み、雨の日は雨が穴を通って頭上に降ってくる。あってもなくても同じようなものだったが、初めからないのと、あるけど役に立たないのでは大違いだ。

「確かに、あれは直したほうがいいね」

「やっぱりそう思うでしょ?でもずっとあのままってことは、お金ないのかな」

 美智子が右手の親指と人差し指で輪を作る。

「あれ今日小テストあるっけ?」

美智子の左手に握られていた単語帳を見て思い出す。そういえば、今日の一時間目の英語の授業で小テストをやるとか言っていたような。

「あるよ、もしかして忘れてた?」

「完全に忘れてた」

信号が青に変わった。美智子にまた教室でと声をかけて、一つに結んだ髪をなびかせながら歩いている生徒たちの間をすり抜け進んで行く。

「咲花、おはよう」

 校舎に入り、下駄箱で靴を履き替えていると咲花の後ろからクラスメートがやって来た。挨拶を交わす。

「英語の小テストってどこが範囲だったっけ?」

 咲花はクラスメートに尋ねる。

「え、もしかして咲花勉強してない感じ?」

「ついさっきテストの存在を思い出したの」

「それはやばい」

「今からどうにかならないかな」

「範囲は単語と文法のどっちもあったよ。さすがに何もやってないとなると咲花でも再試に引っかかるんじゃない?」

 咲花のクラスの英語の担当教師は、ことあるごとに小テストを挟み、合格点を取れるまで何度でも再試を繰り返すというやり方を好んでいた。

「それは面倒くさい」

 咲花は教室についたらすぐに小テストの範囲の勉強を始めることを心に誓った。

二年三組の教室に着き、窓際二列目の後ろから三番目の席に荷物を置く。そこが咲花の席だった。教科書を素早く机の中に入れ、咲花は英語の単語帳と文法の教科書をどっちも開いて机の上に置いた。短期決戦。全ての内容を授業が始まるチャイムがなるまでに暗記するため咲花は集中した。

小テストの範囲全体にざっと目を通し終わった頃、実が机の横を通る。

「咲花おはよう。疲れたー」

実が通った後には柑橘系のにおいが残っている。おそらく制汗剤のにおいだろう。下敷きで自分を扇ぎながら咲花の二つ後ろの席にエナメルバッグを置く。

「朝練?」

「そうそう。大会近いからね」

実は女子バレーボール部に所属している。運動神経が良く、どのスポーツをやっても大概は上手くこなしてしまう。この学校のバレー部はかなり強い方で、その中でも実は一年のころからレギュラーであるほどの強者だった。運動が苦手ではないが、特別できるわけでもない咲花からしたら少し羨ましいところもある。

「今日の英語、小テストあるらしいけど実は勉強した?」

振り返り、まだ人が来ていない咲花の後ろの机に寄りかかる。

「え、やってないよ」

実は汗をタオルで拭きながら、あっけらかんと言った。実は運動はできるが勉強の方はからっきしだった。

「まあ何とかなる、何とかなる。美智子に出そうなところ教えてもらおうっと」

そう言い残して、実は廊下側の一番後ろの席に座っている美智子のもとへ軽い足取りで近づいていく。咲花も単語帳を手に、その後ろについていく。あわよくば自分もテストに出そうなところを教えてもらいたいというのが咲花の魂胆であった。

朝礼が始まる時間になっても咲花は単語帳を眺めていた。担任の先生の声が聞こえ、顔を上げる。横を向くと、咲花の隣がまだ空いていた。そこは咲花と仲の良い、祐那の席だった。今日は休みなのだろうかと回ってきたプリントを後ろに回しながら、空いている席の向こうに見える窓の外をぼんやり眺める。先生の話を聞き流しながら、飛行機雲を目で追った。

「先生、祐那は今日休みですか?」

咲花は朝礼が終わって職員室に戻ろうとしている担任を呼び止めた。この時点で小テストは何とかなるだろうと咲花は確信していた。

「小林さんは体調不良で遅刻よ」

「そうなんですね。ありがとうございます」

祐那が来たら休んだ時間のノートを見せてあげようと思い、咲花は今日一日丁寧にノートを取ることを決意する。

しかし昼休みになっても祐那はまだ学校に来ていなかった。遅刻ではなくこのまま今日は休みなのだろうか。そんなことを考えながら咲花は美智子と実と机を合わせてお昼ごはんを食べている。

「英語のテストどうだった?」

美智子が意地悪気な顔で実に尋ねる。

「いやー、あはは」

実は笑ってごまかし、お弁当の卵焼きを口に放り込む。

「この調子だと、次の定期テストも悲惨なことになりそうね」

「そのときは、ね。また助けてください」

実が机に頭を近づけて美智子にお願いしている。その姿を咲花が見て笑う。

「咲花はどうだった?」

 実が姿勢を変えぬまま顔だけを咲花の方に向ける。

「合格点は取れてると思う」

「おお、すごい。朝私と会うまではテストのことなんて忘れてたのに」

「その後、全力出したからね」

「咲花も何だかんだ勉強できるからなー。うちの仲間はどこにもいませんよ」

 実が咲花の自信のある様子に、不満げな顔をする。

「美智子が見放しても、私が助けてあげるよ」

咲花はサンドイッチの袋を開けながら実に言う。

「さすがは咲花様。持つべきものは勉強ができて優しい友だねー」

実が咲花に調子よくウインクをする。

「二人は学校の近くに新しくカフェできたの知ってる?」

勉強の話を切り上げた実がスマホの画面を開いて机の上に置いた。そこには人の頭二つ分くらいの大きさのパフェが写っていた。

「バレー部の後輩が行ったらしいんだけど、これすごくない?ジャンボパフェ。五人で食べても結構な量だったって。今度祐那も一緒に四人で行こうよ」

「どこにあるの?」

美智子が尋ねる。

「駅とは反対方向に少し歩いたところ。学校の横の道路から店の看板が見えるくらいには好立地。内装も超おしゃれなんだよ」

画面をスクロールして次の写真を見せる。店内はナチュラルなインテリアで統一されており、緑色のソファと、こげ茶色の木のテーブル、オレンジ色の間接照明が良い雰囲気を出していた。

「いいね。行きたい」

咲花は実の提案に賛成する。四人で予定が合う日に行こうということになった。

「それにしても実の後輩はこの手の情報に詳しいよね。私、このカフェ知らなかった」

お弁当を食べ終わった美智子が野菜ジュースを飲みながら言う。

「駅の反対側だと電車通学の人はあんまりこの辺通らないからね。その後輩は無駄に流行に敏感で、いっつも美味しそうな店を見つけては紹介してくれるんだよ。そのおかげで、うちも乗り遅れずに済んでる。ただその守備範囲は食に限るけど」

実は笑った。

「そういえば、隣の県で起きた事件のニュース見た?これも今日の朝練の時に後輩が言ってたんだけど、怖くない?」

咲花は今朝見たニュースを思い出す。

「一家惨殺事件?」

「そうそう、男が両親と妹を殺したってやつ。まだ捕まってないらしいし、こっちに来なきゃいいけど」

「よっぽど大丈夫でしょ」

美智子が落ち着いた声で言う。

昼休みが終了する直前、咲花は教室の前方の入り口付近にあるゴミ箱にサンドイッチと菓子パンのゴミを捨てに向かった。そしてついでに教室を出てトイレに向かう。

「ねえねえ、あの話って本当かな?」

「chAngelって薬のこと?さすがに怪しすぎるでしょ」

「だよね。実際に使った人いるのかな」

「振り込め詐欺みたいな感じじゃないの。もしくは本当にやばい薬とか」

すれ違った女子生徒二人組が、chAngelのことをひそひそと話している。

「もし一つ願いが叶うならどんな人と入れ替わりたい?」

「えー、やっぱ美人になりたいかな。あと頭も良くなりたい」

「それは同意。私も頭良くなりたいなー。今日も数学で当てられて答えられなくて恥かいたし。あの先生嫌なところばっか当ててくるよね、こっちは目合わせないようにしてるのにさ。まじ最悪」

楽しそうに話しながら通り過ぎる二人を見て、あの子たちはきっとこの先もchAngelを使うことはないだろうと咲花は思った。それにしても学校で薬の話を聞くなんて、いつの間にこんなにもその存在が広まっていたのかと驚く。一体どれくらいの人が入れ替わっているのだろうか。

「いや、そんなことを考えても意味はない」と咲花は自分自身に言い聞かせる。

決して私情を挟まないこと。これは昔、咲花が絵里香から言われたことだった。

組織に対して迷惑行為を行うのは、何もchAngelを使った人達だけではない。組織の崩壊を企む者や薬の偽物を作り金儲けをしようとする者など、普通の高校生であれば関わることのないような人々を相手にすることもある。咲花はまだ若手なため、そのような仕事を任されることは少ないが、これから先そういう人々と関わることも増えていくだろう。

昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。

「咲花、次理科室に移動だけどまだ?」

名前を呼ばれて振り返ると教室のドアから実が体を半分だし、叫んでいる。

「今行く」

トイレに行くのはやめて、踵を返す。今はただ、この日常を楽しんでおこうと思った。

四時間目は理科の授業。理科室の席は名簿順にあらかじめ決められていて、美智子と実と咲花は遠く離れた席だった。自分の席で待っていても暇なので先生が来るまでの数分を一番前の美智子の席でつぶす。

三人が話をしていると理科室の前側の扉が開いた。先生が来たかと思ってそちらを向くとそこにいたのは祐那だった。実が一番に駆け寄っていく。

「祐那だー。来るの遅いよ」

実が祐那に体当たりする。祐那の長い髪が揺れた。

「ごめん、体調悪くて」

「今も?」

ドア付近から座席の方へ歩いてきた二人に向けて美智子が座ったまま声をかける。

「ちょっとだけね」

「大丈夫?」

咲花が祐那を気遣う。祐那はいつもと比べてどことなく大人しく、気弱そうに見えた。もしかしたら今もどこかが痛いのかもしれない。

そこで眼鏡をかけた理科の先生が実験用具を持って教室に入ってきた。咲花は一番後ろの自分の席に戻る時、「無理しないでね」と祐那に一声かける。すると「ありがとう」と弱々しい言葉が返ってきた。

四時間目が終わり、理科室からクラスに戻った。隣に座る祐那に咲花は話しかける。

「これ、一時間目と二時間目のノート。貸してあげる」

黄色と青のノート二冊を咲花が渡す。三時間目は体育だったため二科目分のノートを祐那に貸した。

「ありがとう」

「明日にでも返してくれれば良いよ。祐那に見せてもいいように綺麗な字で書いてあるから安心して」

祐那が笑った。

「午前中は病院行ってきたの?」

「うん、頭痛がひどくて。薬をもらいにね」

「風邪でもひいた?」

「そういうわけではないんだけど、頭だけが痛いって感じ」

「それもそれで辛いね。お大事に」

校内放送が流れ、教室内が一瞬静かになる。自分たちには関係のない部活動の呼び出し連絡だと分かると教室内は再び騒がしくなった。 

騒がしさの原因の一人である実が寄って来て咲花と祐那の机の間にしゃがみ、祐那の机に手をかける。

「祐那、今月暇な日ってある?」

「暇な日?」

「そうそう。お昼にうちと咲花と美智子と祐那の四人で学校の近くのカフェに行きたいねってなって。これ見てよ、ジャンボパフェ。絶対食べなきゃじゃない?」

お昼に咲花と美智子に見せた写真を祐那にも見せる。いかにこのカフェが素晴らしいか、実のプレゼンが始まった

「すごいね。美味しそう」

「でしょ?」

「私も美智子もまだ、いつが空いてるか言ってないけど」

咲花が口をはさむ。

「そういえばそうだった。じゃあ、後で四人で日程決めよ」

終礼が終わり四人が実の席の周りに集まる。

「いつにしようね?」

「うちは部活があるから、平日なら月曜日しか空いてないな。土日は週によって練習のある時が違うから日によるって感じ」

祐那の問いに、実が答えた。

「私は実の予定に合わせられると思うよ」

「私も美智子と同じく、実の都合の良い日に合わせるよ」

「ありがとう。それなら、来週の月曜の放課後とかどう?」

四人の予定が合い、来週の月曜の放課後にジャンボパフェを食べに行くことが決まった。その後、実は部活があるからと急いで体育館に向かい、祐那は先に職員室に寄ってから帰るという。咲花と美智子は実と祐那を見送ってから、ゆっくり二人で教室を出た。校舎を出て、自転車置き場までのグラウンド沿いの直線を歩く。

「美智子は今日も塾?」

「うん」

「偉いなあ。だから成績トップなんだよな、私も勉強しなきゃ」

カラフルなランニングシューズを履いた陸上部の集団が、校門に向かって横を走っていく。

「咲花はテストの成績も良いし問題ないでしょ」

「美智子にそう言ってもらえるとは光栄です」

 咲花は大げさにお辞儀をする。

「二年になって模試も本格的になってさ、受験まっしぐらって感じだよね」

「そうそう。実とか見てるとまあ良いかなと思っちゃうからいけないや」

「実はバレーで大学行く方が近道だと思う」

自転車置き場にたどり着き、白い自転車を押して屋根の下から出る。足元のコンクリートには昨日の雨で水たまりができていた。水が跳ねないようにゆっくりとタイヤを動かす。

校門のところで咲花と美智子は別れた。

「じゃあ、また明日」

「ばいばい」

美智子は駅の方へ歩いて行った。咲花は自転車に乗り、左右を確認する。車が通らないことを確認してから校門前の道を横切り、拠点となるマンションへ向かって自転車を走らせた。

自転車に乗った咲花は頭を切り換える。学生としての自分はここまで、ここから先は組織の人間としての自分。スピードを出して風を切りながらペダルを漕ぐ。

道の途中で、進行方向にグレーのハットをかぶった飯塚が歩いていることに咲花は気づいた。自転車の速度を緩め横につける。

「飯塚さん、お疲れ様です」

飯塚がかぶっていた帽子の前を少し上げる。

「渡君か、学校帰り?」

「そうです。飯塚さんもこれから行くところですか?」

「いや、僕はもう一件用事があってね。少し遅れるかもしれないから、他の人たちにも言っておいてくれる?」

飯塚は汗一つかいていない涼やかな顔をしていた。

「分かりました」

途中まで方向が同じだったので、咲花は自転車を引いて飯塚の横を歩く。

「秋山君の様子はどうかな?」

「優吾は光秀さんと仲良くやっていますよ。この前も仕事が片付いた後、二人でずっとゲームをしていて、いつの間にこんなに仲良くなったんだって驚きました。一昨日の任務も二人でやり遂げたと聞いて、そこでまた絆が深まったのかもしれません」

 一昨日の火曜日、優吾の特別研修期間初となる少し大きめの仕事が入った。その内容は開発部薬課からの依頼でchAngelの偽物を回収せよというもの。取引現場には優吾と光秀が向かった。初めは優吾一人で仕事を行う予定だったが、優吾が取引現場であまりにも目立っていたため結局光秀が回収を行った。

「そうか。気が合うようで良かったよ」

「二人を見ていると、歳は十も違うのに精神年齢が同じような感じがして面白いです」

咲花は二人の様子を思い出して笑った。

「秋山君は子供らしくもあるけれど、大人らしくもある不思議な子だからね」

「確かにそうですね」

飯塚が立ち止まった。

「じゃあ僕はこっちだから、また後で」

「はい。お疲れ様です」

飯塚は交差点を左に曲がって行った。咲花は再び自転車に乗り、青信号を直進する。どこかの家から風鈴の音が聞こえた。


学校の裏にある学生があまり来ない公園。時計の真下のベンチに座り、祐那は約束の時間を待っていた。終礼後、咲花と美智子に気づかれないように職員室へ行くと嘘をついて急いで教室を出た。そのまま職員室の前を通り過ぎ下駄箱で靴を履き替え、学校の裏門からこっそりと外に出た。そのままこの公園に足を運んだのだった。

目の前にある砂場のそばに、古びた子供用の三輪車が落ちている。誰かの忘れ物なのか、それともこの公園にもともと置いてあるものなのか祐那には分からない。奥の遊具では小学生くらいの男の子三人が大声ではしゃぎながら、楽しそうに遊んでいる。彼らの姿をぼんやりと眺める。

朝から続いていた頭痛は比較的落ち着いてきたが、それでもふとした瞬間に痛みが走る。そのたびに思い出したくない光景がよみがえるような気がした。

祐那は両手で頭を抱え、下を向く。公園に植えられた木々の、葉が風に揺れて音を立てる。

「こんにちは」

そのざわめきの中に男の人の優しげな声が聞こえた。祐那は顔を上げる。

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