第2話


「良かった」


 呟いて空を仰ぐ。安堵で失った力は元に戻らず、生きる気力も希望も見失ってしまったみたい。これからどうすればいいのか、父や母と再会できるのか、考えなくてはいけないのに、考えることが億劫になってしまった。

ぼやけた視界で母子が助けられている。空気を揺さぶる幼子の泣き声は強く、蹲る母の背中は弱々しい。どこかで道は別れるもの、生きる者がいれば死ぬ者もいる、これが現実なんだ。

 じゃあ、私は? 私は生きる者なのか死ぬ者なのか。死にたくない、でも独りで生きていく方法も分からない私は、どちらなのだろう。

 泣き止まない幼子を腕に抱いた人は母親に深く頭を下げ、側に置いた槍に手を伸ばそうとする。縋り付けば、助けてと足元に身を投げ出せば、生きられる?

 藁をもつかむ気持ちで大きな背中を見つめる。今なら、間に合うかもしれない。槍を掴み、立ち上がりかけた背中へ向かって一歩踏み出そうとした。拒絶されてもいい、無言でいるよりみっともなくても足掻きたいの。

「……あ、」

 建物の陰に隠れ、弓を構える男がいた。血走った目と矢が向かう先は言うまでもなく、幼子を抱え直そうと少し丸くなった背中だ。仰け反って泣く子を片手で抱くのは難しいようで、背後の気配にはまだ気がついていないらしい。

 さっき離した石を右手が拾い上げる、両足がしっかり地面を踏みしめる、届かないかもしれない不安は消え、ただ石を投げることだけに意識を集中した。

 助けたいでも、助けてほしいでもなく、力いっぱい投げた石が当たりますように、矢が逸れますようにと願った。生きるべき人がいるのなら、槍を持った手で手綱を握ったあの人と、腕の中で泣く幼子なのだと理解したから。

 頬を叩き、震える腕を叱咤し大きく振りかぶる。弓を構えた剥き出しの腕に血管が浮き上がるのが見えた、迷っている時間はもうない。

 届け、当たれ、命中じゃなくていい、矢の飛ぶ先が少しでも逸らせれば成功だ。投げた反動で地面に手をつき、倒れるのを堪える。

 石の軌道は追えなかった、どうなっただろう。鼓膜に突き刺さる苦痛の呻きと倒れる音はどちらが発したものなのか、恐る恐る顔を上げて確かめた。

 地面に刺さる矢と転がった弓、蹲って呻く背中の傍らにある槍、両手で抱き直す幼子は疲れを知らずに泣き続ける。

 飛んできた矢を払い落とし槍を投げつけた、のだろうか。無傷に見える足で苦痛に悶える背に近付き、片手で掬い上げた槍の柄で気絶させる。

 無駄のない所作で成すべきことをした人は槍を持ち直し、動けずにいる私へ視線を向けた。鋭い視線とぶつかり、立ち上がりかけていた足から力が抜ける。蛇に睨まれた蛙とは、こんな恐怖を味わうのかと思った。一歩距離が縮まる毎に心臓の音が早くなる、頭に登っていた血が下に降りていく、それでも視線を逸らせない。

 

 恵まれた体躯、手入れの行き届いた武具、立派な槍や馬、きっと平民とは全く違う世界に生きている人なんだ。助けてくれるわけないと、縋る資格もないんだと、半ば諦める。諦めきれないのは、幼子の抱える仕草が優しく見えるからだ。

 口も聞けずに見上げるばかりの私に嫌な顔もせず、手を伸ばせば届きそうな距離まで近づき膝を折って視線を合わせてくれる。

「助けてくれたんだな」

 恐怖も忘れ、まじまじと顔を見た。鋭かった目は柔らかいものに変わり、声は想像以上に優しく、何より思った以上に年若いのかもしれない。

 濃い茶色の目は真っ直ぐに私を見ている。父や母とはぐれてから、無関心か殺意を向けられていたけれど、やっとまともな扱いをしてもらえた。生きていて良かった、石を投げて良かった。

 応えない私を不思議に思ったのか、僅かに首を傾げる仕草は少年といっては失礼だろうが、青年としては何処か幼くも見えた。

 この人は誰なのだろう、何処の国の人で、どうして此処にいるのかな。聞きたいことが沢山あって、でも先ずは助けてくれた御礼をしないといけないのに、乾いた喉も唇も、声の出し方を忘れてしまったみたいだ。

 茫然としていたら、泣きすぎて赤くなった小さな目にぶつかった。鼻を鳴らし、目尻にも頬にも涙をくっつけた幼子が両手で空を掻き、何かを握ろうとしている。

 探しているのは母の手だ。目を丸くしているのは、母ではないと分かったから。この子の母は怪我をして蹲っている、ああそして……私の母は何処に行ったんだろう。母の顔を思い出し、父の顔を思い出し、いつまでも此処にいてはいけないのだと思い知る。

「……あ、」

 やっとの思いで絞り出した声を掻き消したのは怒声、馬の嘶き、数多の足音。被さる悲鳴、硬いものがぶつかる音、背筋を凍らせる雄叫び。遠ざかったかに思えた死の恐怖に直面し、両手で口を覆って出もしない悲鳴を殺した。

 血の気が引いていく、目の前が黒く塗り潰されそうになった。やっぱり死ぬのかな、家族にも会えずに独りで死ぬのは怖い。


 でも、まだ諦めなくてもいいかもしれない。素早く立ち上がった人に家族はどうした、と聞かれ首を横に振る。すると幼子を渡され、慌てて抱き直したら幼子ごと馬の背に乗せられた。

 こんなに高いとは思わず、目を閉じて恐怖をやり過ごす。死ぬ恐怖に比べたら、これくらい耐えられるはずだ。

 驚いて暴れないことを確認した人は少し待てと言い残して馬から離れる、この子の母を助けに行くのだろう。

 襟元をぎゅっと握る幼子を抱き締め、馬から落ちないように足に力を込めた。一生懸命に見上げてくる小さな顔と大きな目、何か言いたげに動く唇もただただ可愛い。

「怖かったね。頑張ったね」

 くるまれている布の端で涙の跡を拭ってやる。助けてくれる人がいて良かったね、すぐにお母さんも来てくれる、もう安心していいんだよ。

 そう続けようとした、続けたかった。でもそれは叶わず、背後で叫び声と鈍い音がして振り向くと……この子の母の姿が消えていた。

 血の染みた地面はあるのに、その血を流した人がいない。愕然とする横顔、空を掴んだ悲しい手、大きくなる騒音に掻き消される啜り泣き。転々と、まるで指の跡のように赤を塗りつけた井戸を見て、ああそうか、となんとなく悟った。じゃあこの子はどうなるの? まだこんなに小さいのに母を失ってしまった子は、どうやって生きていくの?


 温かくて小さな身体を抱き締め、無情な世界を呪いたくなる。例えこの子の母が罪を犯していたのだとしても、その罪をこの子が償うことはないと思う。母を失くした悲しみも苦しみも、本当なら味わう必要もなかったはず。

 苦しい現実を唇を一緒に噛み締めた人は立ち上がり、深く深く頭を下げた。無念だと、悲しいという感情を押し殺す背中にかける言葉は、思い付かない。

 その間にも恐ろしい音たちは近づいていて、一足先に土埃と血の匂いが風に乗って届いた。吸い込むのは良くない、幼子をくるんでいる布で口元をそっと覆い、苦しくない程度に露出した部分を隠す。

「その子を頼む」

 戻ってきた人は一言だけ言うと馬に跨がり、返事をするのを待たずに馬を走らせた。馬の脚は想像していたよりずっと速く、上下に激しく揺れる。いくら太腿に力を入れても身体は浮き上がってしまい、鬣を掴んだ片手だけでは支えきれない。刀や槍が交差する中、矢の雨が降る下を通る時は頭を下げろと言われ、上半身を伏せて馬の太い首にしがみついた。

 矢を弾き落とす硬い音が耳元で響く、槍と槍がぶつかる音が鼓膜に突き刺さる。幾つもの呻きが聞こえ、幾つもの悲鳴を踏み越え、馬は力強く駆けた。

 高い体温と皮膚の下で躍動する筋肉を感じ、心臓の音を聞きながら目を閉じていれば、少し怖さが遠退いていく。泣くと思っていた幼子が泣かずにいてくれたのも大きいだろう。ぐずりもせずに大人しく私の襟元を握り、時々小さく声を上げている。怖くて固まっているわけでもないみたいね、良かった。




 どのくらい走ったのだろ。激しく命を削り合う音は小さくなり、血と汗の匂いも薄くなった。今は土と、微かな緑の匂い。そして殺気や怒気を含まない、緊張した人の気配がある。

 大丈夫かと肩を叩かれ我に帰った。そろり、そろり、身体を起こして腕の中の幼子の無事を確認する。目尻にも頬にも涙の痕跡はなく、両手を元気にパタパタと動かす様子に、ほっと胸を撫で下ろした。

「……良かった」

 今日は何回この言葉を口にするんだろうか。この子が無事で、助けてくれた人に大きな怪我がなくて……自分が、死ななくて。

 震える足は上手く地面を踏めずに座り込んでしまったけれど、抱えていた温もりを渡した腕が寂しいけれど、まだ煩い心臓が生きていると教えてくれた。足と同じように震える手を握りしめ、落ち着こうと肺いっぱいに空気を吸い、ゆっくり吐き出す。どこも痛くない、大丈夫だ。

 少しすると気持ちも落ち着き、回りを見る余裕が出てきた。そういえば、此処はどこなのだろう。助けてくれたのは誰だったのか、名前を聞く時間もなかったから、助けてくれた人としか分からない。

 あの子は平気かな、泣いていないといいけれど。そう思った時、微かに鳴き声が聞こえた。さっきまで近くで聞いていた声に似ている、私の手を離れた時には泣いていなかったのに、母がいないと気づいて泣いてしまったんだろうか。

 徐々に大きくなる声の主は予想通りあの子で、助けてくれた人の困惑顔と共にやって来た。地面にへたり込んだままだった私を立ち上がらせ、顔を真っ赤にして泣く幼子を差し出す。

 反射的に受け取ってしまった小さな身体を抱え、背中や頭を撫でてやる。すると何故か泣き止み、私まで困惑してしまった。

 様子を見守っていた人は低く唸り、考え込む仕草で暫し動きを止め、意を決したように一つ頷いた。

 幼子の世話係を頼みたい、引き受けてくれるなら衣食住の提供をする、それが君主からの提案なのだと言われた。


 両親と会いたい気持ちは勿論あるが、今すぐに探しに行っても路頭に迷うだけ、それなら提案を受けた方が会える可能性は高いだろうか。いろいろ考えてはみたものの、頷く以外の選択肢は見つからない。それなら大人しく頷いておくべきだ。

「よろしくお願いします」

 精一杯努めます。不安はあるが、やるしかないのだから。泣くだけ泣いて満足したのか、幼子は眠たげに身を捩って居心地の良い姿勢を探し始める。微笑ましい姿に思わず頬が緩んだ。

「そうか、分かった。よろしく頼む」

 もぞもぞ動く様子を見下ろした頬も僅かに緩み、そうすると途端に幼く見えた。もしかすると、そこまで歳が離れていないのかもしれない。

 なに一つも知らない人を見上げ、名前を聞くなら今しかないと思い口を開く。作法も知らない平民に、気を悪くしないでほしいと願いながら。

「娟、と申します」

 名前を聞くなら先ず名乗らなくてはいけないと、自分の名前を告げる。名乗っていなかったことに気がつき、失礼したと慌てる人の誠実さを素直に好ましいと思った。うん、やっていける。なんとかなる。私に安心と希望の種を植えてくれた人は穏やかに、生真面目に名前を教えてくれた。


「趙雲、字は子龍という」

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憨厚 おもち @omochi-shiro

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