憨厚

おもち

第1話

 早く早くと急き立てられ、長いこと走ったり歩いたりを繰り返していた。沢山の人が列をなして進む中、飛び交うのは鬼気迫る怒声と金切り声と、絶望で塗り固めた泣き声。

 歯を食いしばって歩いていた男の子の足がもつれ、倒れそうになるのを回りが咄嗟に支える。その涙で汚れた顔を拭う余裕はなく、無言で背中を押された子もすぐに足を動かし、前に進もうとする。

 乾きに引き攣る喉が痛み、無力感にうちひしがれる。大丈夫、頑張ろう、そんな一言さえも出ない唇を噛みしめ、私は胸に抱えた荷物で表情を隠した。

 斜め前を歩く父や母の背中を追い、疲れた足にムチを打つ。あとどれくらい進むのか、進んだ先に待つのは何なのか、住み慣れた家を離れ、たどり着く先も知らない旅路をひたすらに往く。

 荷物をまとめなさいと言った父も、振り向かずに走るのよと声を震わせる母も、見たことのない顔をしていた。生まれてから二十三年、平和な毎日ばかりではなかった。厳しい寒さや洪水を、流行り病の恐ろしさを、家族で身を寄せあって乗り越えてきた。

 幼い頃に負った額の傷に結婚を諦め、手にした職を生き甲斐にするのだと決めてから数年、これからだと明るい未来を描いた矢先の出来事だった。世の中に不穏な空気が漂い、それは内乱として姿を表し、慎ましくも穏やかだった生活を一変させた。

 正直なところ、天下など誰が治めても同じだと思う。地を這いつくばって生きるような農民が受ける恩恵はないのだから。誰も手を差し伸べてくれないなら、自分で自分の命を守らなければ一日だって生きてはいられない。


 ふと、地鳴りに似た不吉な音が逃げる人々の鼓膜を叩いた。振り返った先に見えたのは巻き上がる土煙、不吉な音は馬の嘶きと猛々しい声だった。ああ、もうだめだ、見つかった、追い付かれてしまった、殺されるんだ。曇天にはためく旗に書かれた魏の文字に、私たちは死が近づいて来るのだと悟り、口々に嘆き涙を浮かべた。

 皆が一斉に走り出す、理性を忘れ本能に突き動かされ逃げ出したのだ。取り残される幼子を振り返る者もなく、怪我人を置き去りにしても自分だけは助かりたいと駆けていく。

 押し合い圧し合いの人波の中、懸命に両親の背を追いかけるも母を見失い、直後に父の姿も見えなくなってしまった。途方に暮れる暇もなく、立ち止まれば後ろから押される。焦る気持ちだけが膨れ上がるのは目的地が分からないからだ。はぐれた時の合流地点も決めておらず、二度と会えないかもしれない不安に胸が押し潰されそうになる。

 荒れた道の先にあった集落に雪崩れ込むも、やっぱり救いの手は差し伸べられず。家は戸を固く閉ざすか、家人を失った後のもぬけの殻か。

 もっと先に行けば大きな集落があるかもしれない、助けてくれる人がいるかもしれない、僅かな希望に縋ろうとしたけれど、目の前で飛び散った血と共に希望が切り裂かれたことを知った。

 赤い赤い血が淡い色の着物を染めていく。崩れ落ちる華奢な身体、切られた艶のある髪の一房が宙を舞い、幼い声が空気を震わせる。


「奥様!」


 駆け寄る細い手にも振り下ろされる一撃、鈍い音と苦痛の呻き、地獄があるなら眼前で繰り広げられる光景こそが地獄だろうと思った。

 足が力を失くし地面にへたり込む。濃い血の匂いに吐き気を覚え、咄嗟に両手で口を覆った。怒声と荒々しい足音、堅い物がぶつかる身の毛もよだつ音、幼子の高い声が心臓を揺さぶる。どうしてこうなったのか、誰のせいかのか、分からないけれど此処で死ぬのだと、逃げ惑う人々の顔に諦めが浮かぶ。

 女の人たちの甲高い悲鳴と怒声が交差し、顔を上げると甲冑姿の男が泣き続ける幼子に手を伸ばすのが見えた。駄目、殺されてしまう。あってはならない光景が浮かび、そこに過去の場面が重なった。

 あの日、まだ幼かった弟を突然失った日。無慈悲に振り下ろされた腕と鈍い音、倒れる小さな身体を庇い背に受けた衝撃。なくなっていく体温を認めなくないと抱き締めた身体の小ささが悲しく、悔しかった記憶。

 髪を振り乱し抵抗する母親の腕の中、少しだけ見えた顔は涙に濡れ、だけど生きたいと訴えているかに思えた。絶望に塗り潰された世界で、幼子の泣き声だけが力強く響く。理不尽な暴力に負けまいと渾身の力を振り絞って抵抗しているのだろうか。

「……だめ」

 死にたくないと、死なせたくないと思うと同時に目についた石を掴んでいた。震える手を叱咤し、右手できつく握り直す。空いた左手で頬を叩き、涙を拭う。

 石を一つ投げたところで状況は変わらないのは理解している、けれど黙って見ているのは耐えられない。大きく振りかぶり、力いっぱい放った石は右手を飛び出し、男の肩を目掛け真っ直ぐに突き進んだ。

 握っていた刀が地面に落ちる。すかさず二つ目の石を掴み視線を上げたが、肩を押さえた男に真正面から睨まれ、恐怖に竦み上がった。石を投げたのが私だと分かり、殺すために落ちた刀を拾い上げる。その間も視線は離さず、新しい獲物を睨む。

 掴んだ石を胸の前で握りしめ、後退ってはみるものの膝から力が抜け座り込んでしまう。立ち上がって逃げないと、そう思った分だけ足は重くなっていく。

 勝利を確信した男の顔が醜く歪む。笑みというにはおぞましく、嫌悪感に鳥肌が立った。心臓の音がやけに大きく聞こえ、終わりを悔やんでいるのが分かったが成す術はない。動かせない視界の隅で幼子を抱えた母親が立ち上がるのが見えた。

 そのまま逃げればいい。脇目も振らずに走れば、逃げられる可能性は零ではないはずだから。時間稼ぎがせめてもの抵抗、随分と虚しいが誰かの命の糧として終わるなら、悪くないのかもしれないね。

 納得するための理由をこじつけている間に近づいた男が振り返って動きを止めた。怒声、悲鳴、砂埃が巻き上がり、密集していた人が左右に別れていくのが見える。

 眩しい光が瞬く度に苦痛に呻く声がする、勇ましい馬の嘶きと悲鳴が交差する。振り返った男が鋭く舌打ちし蹲る母子の方へ戻ろうとした。


 何が起こっているのだろう。理解が追いつかずへたり込む私の前に現れたのは一頭の馬と、背に跨がった男の人。身軽に飛び降り馬を逃がす、両手で持った槍を振りかぶる、目で追えたのはそこまでだった。

 硬い物同士がぶつかる音と苦痛の声がして一人、また一人と地に倒れ伏す。踏み越え、掻き分け、その人は母子の元へ向かう。良かった、助かる。握っていた石を離し、倒れそうになる身体を手を着いて支えた。




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