蠢く闇は悪意に満ちて

 室内に闇深く。


 音もなく稲光の差し込む残光だけが時折、主の姿を映し出す。広間を照らす灯りは乏しく、冷々とした空間に一人の男が豪奢な長椅子に座している。


 年の頃は五十も過ぎて、頭髪には白髪が目立ち。顔立ちの美醜を問う以前に不摂生を重ねてきたのであろう、お世辞にもふくよかと表現出来ぬ重度の肥満体が男の全ての印象を損なわせていた。


 瞬く雷光が男の容貌を再び照らし。額には玉の汗。不安に淀んだ眼差しは室内の映らぬ闇に向けられていた。


「本当に......上手く事は運ぶであろうか」


 問う声は小さく不安に満ちて。しかし......それが独白の類いではない事は、求める答えを闇に見る男の瞳こそが雄弁にそれを物語っていた。


 眼差しの先。


 ────案するな伯爵。全ての物事は汝の望むままに推移しておるであろうに。


 広間の隅で這い寄る闇の囁きが広間に低く木霊する。


「し......しかし......本当に其処まで成す必要があるのだろうか......」


 闇よりの肯定に。だが不安が勝り。不意に言い淀む男の表情は苦悩に満ちて。まるで侵すべからざる大罪に手を染めた咎人の如く様を見せる。


 ────弱きは奪われ全てを失う。ならばこそ、常に強く在らねばならぬのだ。


 広間には伯爵一人。と、誰もが感じていた程に声の主の気配は闇に溶け込み気配は薄く。されども常態を変化させ伯爵の怯えに応じて姿を現して往く。


 象る姿は痩身の魔術師。


 纏う黒色の魔術衣に覗く壮年の男の白濁した瞳は伯爵を見据え。袖から覗く右腕は関節の半ばで失われている。腫瘍の如く断面に鋭利さはなく。まるで有り得ぬ力で牽き千切られたかのようで。その無惨さが一層に不気味さを際立たせ。男が周囲に与える印象はまさに不吉の一字に尽きて。体現された凶兆が其処に在る。


「盤面は最終盤を迎え、配した手駒は選りすぐり。慎重に各所に手を回し一年半も懸けた計画に憂慮は要らぬ」


 魔術師の言霊は託宣の如く在り。


「領地の分譲など何を語り合ったとて持つ者が権利を手放す筈もない。ローエン卿......汝とて理解していよう。斬れぬ刃に意味はなし。変えれぬ道理を覆すには武力を以て現状を打破するしか手はないのだと」


 尚深く闇は囁く。


「汝の強欲は己が為のモノ。然れどその恩恵が貧する領民にまで及ぶなら、為すべきを成してこそ、推して通する気概こそが。民を導く貴族の責務と言うものぞ」


 歴史に刻まれるかも知れぬ惨事。その責任の全てをラフォーヌ側に。算段は整って。尚も最後の段で恐れて迷う伯爵を闇の手が強くその背を押すのであった。


「では責めて契約魔術師としてヴァレリウス殿も同行して頂きたい」


 覚悟と呼ぶには不埒に過ぎて。なれど道を定めた伯爵に。


「我もまた因果の楔は解き難く、絡めて離さぬ呪詛たる獣を前にして、軽々に壇上に上がるのは賭けにも等しい愚行なれど......良かろう。そして案ずるな伯爵。最後に手を下す役割は我であり我でなければならぬゆえ。計画の成就は定められた必然なのだ」


 其処に驕りはなく慢心はなく。確たる自信は確信に満ちて。隻腕の魔術師ヴァレリウス・メレクは天すら堕ちよと嗤うのであった。





 ラフォーヌ地方──領都オルフォード──


「へくしょょょょょょょょいっ」


 貴族の別宅の一つ。


 アフリーのくしゃみが盛大に木霊する。


 長らく中央に官職に就いて出向する一部の中流貴族たちの内。長期の不在となり用途も多くない別宅を借家として貸し出す者は少なからず存在し。この手の物件は組合に委託され入居の基準は厳しいものの、多くの街で類する借家は点在していた。


 それら物件は本来ならばアフリーの如く素性も怪しい討伐者が間借り出来る類いのモノではなかったが、組合が絡む案件とは言えど、契約を可能とさせるジョゼフの手腕と人脈は特筆するに値するものであったと言えるだろう。


「ったく......誰だ俺の噂をしてる奴は......不埒者めっ」


 広い寝室の床に胡座を掻いて座るアフリー。窓を望めばまだ日は高く。然れども床を見渡せば空の酒瓶が一本と言わず転がり。身なりは男モノの軽服をだらしなく着崩して、恥じらいもなく半裸に近い見姿は艶かしくはあるが堕落に過ぎて。


「女性として......ではなく人として見苦しいですなお嬢様」


 報告に訪れたジョゼフは辛辣な感想を述べる。


「何度も言ってるだろう。心配は不要。俺......おほんっ、私は態度も言動も外では上手く演じてるって」


 言い訳にしても今の姿を見ては覚束ないアフリーの言動に。もう諦めているのだろう、ジョゼフの物言わずとも抗議を帯びた深い溜め息が再び口から漏れるのであった。


 それでも流れる妙な空気は一瞬で。


 それは兎も角としまして、と。水掛け論に意味はなく。流石は一流と呼ぶべき切り替えの早さでジョゼフは本題を切り出す。


「アフリー様が護衛を新たに雇うと御訊きしまして」


「ああっ、返事はまだだけど、雇用の条件は文面に纏めたから正式の書式にして後で彼らに届けてくれないか」


 アフリーは軽い調子で答えると酒瓶の隙間に埋もれた羊皮紙を器用にジョゼフに投げて渡す。


 手にした羊皮紙をジョゼフは一読すると。


「別途に危険手当も支給され報酬額も相場の二倍ですか。アフリー様......相応に理由が有るとは察せられますが、限度と言うものも御座います。このままではお預かりしている私財も遠くなく底を尽きましょうが理解の上と?」


「ある意味で此処が私の終着なんだから半年も凌げれば十二分。それは大丈夫なんだろう?」


 余程の出費が嵩まねば、とジョゼフは肯定の意でアフリーに頷いて見せる。


「なら問題はない。其れより」

 

「会談に参加する中央の貴族様の件で御座いますな?」


 先んじて領都に到着していたジョゼフに抜かりはなく。他の準備と同様に調べは既に済んでいた。


「アルフレッド・ルメス・トリスタニア。第二王子殿下で御座います」


 ジョゼフの報告にアフリーは露骨に眉を潜める。それは二つの感情ゆえに。


 一つはアルフリーデの顔を確実に知るであろう、予期せぬ親族の登場に。そして────その名が起因する胸中に沸き上がる彼女の感情の残滓ゆえに。


 孤独と不安。


 満たされぬ愛情ゆえの強い渇望。


 記憶でも意識でもなく。それはアルフリーデが残す感情の欠片。


 それゆえに。


「クソ兄貴か......」


 アフリーの口から漏れる声音は苦々しく、苛立ちに満ちたモノであった。



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使徒アフリーと黄銅姫の夜想曲 ながれ @nagare

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