タイガーリリーの告白

モーニングあんこ(株)

君を想う

 蝉の合唱が鼓膜を震わす暑い季節。爽やかとはいえない風が黒く長い髪が揺らした。そんな風のように爽やかではない、どこか湿り気のある声が蝉よりも鼓膜を震わせた。


「ねぇ、一ヶ月でいいから彼氏のふりをして?」


 赤くない君の頬、どこか疲れているような顔。黒い瞳には僅かに紅潮した自分の頬、ニヤケ顔を堪えている顔が映っていた。特別だけど、特別でないこの中途半端な関係に喜んでしまった自分がいる。犬のように尻尾を振っている自分がいる。


「……なんで?」


 あくまで彼女とは同級生。好意は見せちゃいけない。いつもより低く、無愛想な声に彼女は驚きもしなかった。


「ストーカーがいるの、と言っても元カレなんだけど束縛と嫉妬の激しい人だったのよ。小心者だし、喧嘩も弱い。だから今カレさえ作っちゃえば付きまとってこないと思ったのよ」


 彼女は微笑みすら浮かべず、鉄仮面な表情のまま淡々と告げる。対称的に俺の口角は緩み始めている。馬鹿みたいじゃないか、つまり都合のいい男になれと言われているようなものなのに……


「分かった。百合沢ゆりさわさんに何かあったら困るし」


「ありがとう。これらからは里奈りなって呼んで。私も、修吾しゅうごって呼ぶわ」


 彼女の声は鈴の音みたいだ。この瞬間だけそう思った。百合のように美しく、気品ある姿にさらに惚れてしまう。でも、彼女は男性経験も豊富だという噂もある。


 誰かに見せつけるように握られた手は少し湿っていたが、暖かくはなかった。きっと俺より前の人とも繋いで、こうして夕方なのに明るい空の下で帰っていたのだろう。


 嫌だった。


 でも、里奈と二人でいられることの方が嬉しかった。まるで犬の散歩でもしている気分なんだ。恋情なんて届きもせず、君はこうして俺を連れて歩くんだろうな。その時、繋がれていないはずの首がわずかに苦しくなった。



 一週間後


「ごめん、待った?」


「うーん、ちょっとだけ?」


「ごめんなさい。待たせるつもりは────」


「嘘だよ、部活お疲れ様。里奈はすぐ謝るなぁ」


 周りからみれば仲の良いカップル。


 彼女からしたら恋人ごっこで、都合のいい男。


 俺からすれば、奇妙なのに落ち着く関係で、片思いの相手。

 夕日が空の端を染め始めた頃、彼女は焦ることも走ることもなく微笑みながらやってきた。


 デートもまだ行っていない登下校だけの関係。雰囲気要素のためだけに繋がれた手はやはり冷たく今日は少しだけカサついていた。それでも、自分の手は赤く熱くなっていく気がした。


「今日は最悪だったわ。サッカーとバレー、どちらかを選んで運動しろと言うのよ? どちらも当たれば痛いじゃない」


 彼女は少しだけ眉を下げ、体育の授業についての可愛い愚痴を吐き続ける。普段は鉄仮面で大人びている彼女が年頃の子のように話す姿を見て、また苦しくなる。話せば話すほど、見れば見るほど惚れていく。


「窓から見てたよ。サッカーボールをあさっての方向に飛ばしていく姿をね」


「あなた……見ていたのね。私を見るよりも授業に集中してよ」


 自分の失態を見られたのがよほど嫌だったらしく、小さな唇を尖らしてはブスっとした表情となる。ごめん、と揶揄うように謝ると里奈はまたポツリポツリと今日あったことを話していく。だけど、里奈の目線はいつも前か足元で俺の事を見ようとはしない。しかも名前なんて呼ばれない。


 ストーカーがいるから行われているごっこ遊びなのだと知ると、また違った意味で苦しくなる。


 5時のチャイムがなり始めた頃、彼女は握っていた手を恋人繋ぎにかえる。白く小さな指がなんの躊躇もなく絡められたということは、近くにストーカーである元カレがいるということ。


 だから距離を詰めて、見せつけるかのように寄り添って歩く。夏だからだろうか、彼女の体温も上がった気がする。それとも、意識したから……そんな淡い期待は彼女の顔を見ればすぐに打ち砕かされてしまった。

 あぁ、君の中でやっぱり俺は都合のいい男なのか。


「……里奈」


「なに?」


 声だけはしっかりと甘かったが、顔は凛としていてツンとしているようにも見えた。百合の花のように美しい顔立ちだが、尖った美しさだ。近寄り難い雰囲気を醸し出しては俺との距離を少しだけ空ける。だけど、その声に惑わされて本音という嘘をついてしまう。


「好きだよ」


 その答えに対して、微笑んで小さく笑うだけで返事はない。名前も呼ばれない、愛も囁かれない、無意識なのか距離を置いたり目線も合わせない。なのに、会話をする時だけは恋人ごっこをしている時より楽しそうなんだ。


 まるで友達のような関係に優しく俺を否定する。


 握られた指はいつの間にか離れていた。行き場を失った右手は徐々に熱が冷めていった。


 本当に好きなんだよ……そんな意味も込めて里奈のカッターシャツの裾を掴む。ちらりと裾を見たかと思えば、何事もなかったかのように歩き始める。脈なしなのは明確であった。



 二週間後


「修吾、お前百合沢と付き合ってるってマジかよ」


「大マジだわ。俺はお前と違って一途なんだよ」


 揶揄うクラスメイトが増えてきた。人の傷口に塩を塗りやがって。


「やめときなよー、あの人すっごい美人だけど肉食すぎるから」


 女子も集まってきた。ゴシップ好きのあいつらにとって美味しい餌なんだろうけど、当の本人は迷惑極まりない。それでも、一目惚れして都合のいい男として扱ってくる里奈の過去は知りたいわけで、顔は自然と女子の方に向く。


「浮気はしないけど、キープする癖があるのかわかんないけど別れた次の日には誰かしらいるんだよね。しかも、男の趣味もバラバラで正直……モノがついてればなんでもいい感じに見える」


「しかも自分からは告白もしないし、フリもしない。高嶺の花って感じだから、自信なくして別れたり、あの子の強い雰囲気に負けて別れるんだって!」


「さらにさらに! 驚くことにフラれた男が口にするのは決まって"鬼百合のような人だった"なんだよ! 普通に美人はいるけど、あの子みたいに一生忘れられないような女はいないって、だから見た目も派手で印象に残る鬼百合みたいだって、言ってたよ!」


 元気の塊かと疑いたくなるような三人組が早口に話しては、キャイキャイと甲高い声で里奈の話をする。

 鬼百合、スマホでそう調べてみると、橙色の花弁に、散りばめられた黒い斑点が特徴的な百合が出てきた。


「鬼百合ねぇ……わからなくもない」


 一度見れば忘れられなくなる容姿と、俯きがちな白い顔、そして周りとは違って大人びた雰囲気に引き込まれる。


「なぁ、ストーカーに悩まされてるっていうけどよ、修吾は見たことあんのか?」


「え?」


 その言葉にハッとさせられた。彼女は近くにいると言っていたが、その姿も見たことないし名前すら聞いてない。ぽかんとする俺を見て、周りにいたやつらは口をひくつかせる。気づいてなかったのか、とでも言いたげに。


「騙されてんじゃん! 修吾かわいそー、代わりに私が付き合ってあげよっか!」


 冗談で抱きついてくる女子の一人はやけに香水臭かった。里奈は香水はつけないし、ほんのり香る柔軟剤の匂いが良い。この女はボディタッチが多いが、里奈は自分からは触れてこない。

 こうやって里奈と比較してる時点で、堕ちるところまで落ちてるんだと改めて思った。一目惚れって厄介だな、例え騙されてたとしても好きで好きで仕方がない。


「修吾くん、堂々と浮気かしら?」


 背後から冷たくも暖かくもない、湿り気のある声が背中を伝う。クラスメイトは顔を青くさせるが、自分は顔全体が赤く燃えていないか心配だった。胸が、いや、体全体がゆっくりとキツく締めあげられているような気分で思わず頬が緩みそうになる。


 振り返ると、黒く艶のある長い髪を耳にかけては花のように微笑む里奈がいた。

 嫉妬なんてしちゃいない。嫉妬のフリをしているだけ、牽制を込めたフリをしているだけ、それでも名前で呼んで柔らかく髪に触れてくる里奈が可愛くて仕方がない。


「百合沢さん、ストーカーなんて嘘でしょ? そうやって色んな男に引っ付いて何が楽しいわけ? このアバ──────」


「やめろ」


 暴言を吐きかけた女の口を手のひらで押さえてしまった。自分でもこんなことをするなんて思っちゃいなかった。怒りを感じるより先に女相手に睨んでいた。その時、後ろにいた里奈の小さく笑う声が聞こえ、耳元でこう囁かれた。


「ダメな人」


 吐息混じりのその声は全身を震わせたが、嫌われてしまったという焦燥感が襲ってきた。嫌だ、ごめん、都合のいい男でもいいから、ストーカーが嘘だっていいから……そんな冷たい声を出さないで。


「ごめん……」


 一体どちらに向けての謝罪か、自分でもわからなかった。



 クラスメイトの顔は見れなかった。

 いつものように他愛もない話をしては里奈を家まで送った。嫌われたくなくて、今日はいっぱい話したし、スキンシップはしつこいと思われないように抑えた。もう一度名前を呼んでもらいたくて、里奈の名前をたくさん呼んだ。


「今日はえらく甘えたね」


 里奈なそう微笑むばかりで名前も、嘘まみれの好きという単語すら話してくれない。絶対分かってやってる。夕日がいつもより早く沈んでいく気がした。夕日が沈む前には別れないといけない、でも、今日は、今日だけは……


「もう少し、一緒にいたい」


 玄関の前で、しゃがみ込んだまま里奈のスカートを掴む。顔なんて見れないし、顔を上げれば必然的に赤くなった顔を見られる。恥ずかしくて赤いのか、涙を抑えているから赤いのか分からないけど、どちらにせよ男の癖に情けないことだ。


 夕日はもう沈んでいた。


「いいよ。私の両親は海外出張でいないから。一人は寂しいからとても嬉しいわ」


 気遣った里奈の言葉が優しくて苦しかった。あの声は、男として見られていない証拠だ。子供が駄々をこねた時のような呆れにも近い声だった。

 それでも、無い尻尾を汚す勢いで振っているような気分になる。いいんだ、里奈の為なら都合のいい男でも犬にでもなるから、捨てないで。



 半泣き状態の俺の手を引いて里奈は部屋を案内する。対面式のキッチンに大きなダイニングテーブル。リビングには焦げ茶色のL型ソファーがあって、里奈はそこに俺を座らせる。あまり座っていないのか、布は硬くて座り心地はいいものではなかった。


「ねぇ、聞かないの? ストーカーについて」


 隣に座った里奈は垂れた大きな目でこちらを見つめる。


「……聞いてもなにも変わらないだろ? 俺は別に信じてなんか──────」


「ストーカーの話は半分本当で半分嘘。元カレはとうとう諦めて新しい彼女でも作ったみたいなの。それが一週間前なの」


「じゃあ、なんで」


「君といるのが楽しくなってきたから、かな?」


 悪魔の微笑みだ。里奈は鬼百合というには相応しい人間だろう。タイガーリリー、鬼百合の別名がこんなにも似合う人がいるだろうか。頬を撫でる里奈の顔は妖艶なのにどこか悲しげで目が離せない。どんどん自分がダメになっていく気がする、撫でられた部分が熱い、鼓動がうるさい、目も泳いでいるのに里奈の顔しか目に入らない。


「学生時代はね、短いの。別にセックスがしたいとか、男を侍らせたいとかではないの。現に、私はまだ処女だし浮気だってしていない。みんな変なのよ、学生時代の恋人が将来の旦那になるなんて……ありえない」


 里奈は指を絡ませて、憂いを帯びた笑みを向ける。


「でもね? 私、君みたいな人になら貰われても良いと思ったの。ねぇ────── 好きよ?」


 全身に甘い電流が流れたような気がしたが、すぐに胸は苦しくなるし、何故かお腹はすく。ここで返事をすればもう元に戻れない。俺もいい思い出にされるだけなんだろう。ダメだ、ダメになりたくない。嫌われたくないけど、これは好きとか愛とかの話じゃない気がする。


 俺は近づいてくる彼女の肩を掴んで、グッと押し返す。俯くと制服のズボンに涙がぽたぽたと落ちては染み込んでいくのが見えた。俺、今泣いてんだ。それもそうか、好きな人を拒絶したんだから。


「俺は……いい思い出になんてさせて欲しくない。今までいた彼氏の中の一人になんてして欲しくない、里奈の、君の特別になりたかった、から」


 嗚咽混じりの声が届いたかどうかは分からない。好きだけど、彼女が思う好きとは違うんだ。元彼氏の一人として数えられるくらいなら、都合のいい男や犬として成り下がった方がマシだ。

 涙は止まらない。


「そう、残念だわ。修吾くん」


 本当に残念そうに聞こえた。でも、君は悪い人だよ名前を呼んで人の未練を優しくて撫でるだなんて……あぁ、好きだな。

 背中を撫でる手は冷たくて、頬を伝った涙を拭ってくれた指は細くて柔らかかった。俺は多分、一生忘れられないのだろう。17歳という若くて淡い青春時代にはあまりにも刺激的な恋だったから。



 ─────────……


 25となった今。彼女は真っ白なウェディングドレスを身にまとって、キラキラと輝くようなメイクをしている。黒く艶のある髪は纏められ、細い首があらわとなっていた。高校時代より大人の女性となった彼女は昔と変わらず鬼百合のようであった。


「皆さん、本日はお集まり頂きありがとうございます」


 湿り気のある声は昔よりも妖艶で、声だけでも美しいと思えてしまうものであった。スピーチをする彼女を、一番後ろの席で俺は見ていた。


 彼女は結婚した。


 誰にも届くはずのない、崖に咲いていた百合は今じゃ、花畑にある花の一部となってしまった。彼女と目が合うわけもなく、披露宴は終盤へと向かっていた。


 ロビーでスマホ片手にため息をついていると、彼女が目の前に立った。


「私は、本気で好きなのよ?」


 悲しげな顔で彼女は薄く笑う。


 やめろ、やめてくれ……また君のことを忘れられなくなる。諦めたはずなのに、なんで、今そんなことを言うんだ。


「これ、あなたにあげるわ。特別に作って貰ったのよ」


 渡されたのは鬼百合だけで作られたブーケであった。


 あ、花言葉……


「これで、修吾くんも私も忘れられなくなっちゃったわね」


 そう言い残して去っていく彼女の背中を追いかけることは出来なかった。好きじゃない、好きじゃないんだ。愛と呼ぶには軽すぎて、恋と呼ぶには重すぎるんだよ。悲しげに見えるのは自分にとって都合のいい解釈をしているからなのだ。違う、彼女は、里奈は結婚したんだ。


 花言葉は「私を想って」


 君はやっぱり悪魔だ。望んでない時にばかり名前を呼ぶ。まるで呪いかのように。


 鐘のなる式場になんて居られるわけもなく、俺は一人とっちらかった部屋で寝そべるほかなかった。


「里奈、好きだよ」


 声は虚空に消えて、枕は何年かぶりに濡れてしまった。都合のいい男に戻りたくなったよ。

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