太宰治の『駆込み訴え』を下敷きにした作品ですね。はい。イスカリオテのユダがイエスについて独白するという構造、そして最初と最後の完全に一致する台詞からして、それで間違いはありません。
で、そういう作劇の仕方というのはちゃんとジャンルとして認められていて、いわゆるパスティーシュと呼ばれるやつになります。日本の作家だと清水義範が有名で、実際この方は太宰のパスティーシュも書いてらっしゃるわけで、方法論として悪いものではありません。
太宰の『駆込み訴え』と同様に、ユダが独特の宗教思想を開陳したり、イエスへの個人的な愛憎を語り散らかしたりするわけですが、その内容は太宰のやつと読み比べてもちゃんとオリジナルのそれになっていて、よく書けていると思います。
旦那様、と卑屈な調子で呼びかけ、語り始める冒頭、良いですね……。まず思い浮かべたのは太宰治『駆け込み訴え』です。
内容についてはネタバレに関わるので省略しますが、共通する登場人物とモチーフがあり、かつ、こちらは『駆け込み訴え』よりもう少し後の時系列から始まるお話。
この作品で好きなのが、彼による「信仰」の解釈パートです。
自分がそこにいて相手がいる、それは信じるも信じないもない。ただ知っているというだけの知識でしかない。
だが、自分がここにいなくとも、いないじゃないかという不安に打ち勝ち、いると信じるのが「信仰」である……と。
その理屈でもって、自分が愛するものが損なわれたという筋は見事な論理でした。
私も聖書を聞きながら育った者のはしくれなのですが、キリストはしばしば、己が神の子であるか疑い不安になったそうです。そういうところも含めて、彼はこの人を愛したのでしょうね……。