婚約破棄された令嬢の恋人

菜花

イマジナリーフレンドと思わせて……

「イリーナ・メレンチェフ! よくも僕を騙してくれたな! お前は公爵令嬢という身分を笠に着て男爵令嬢であるレイラを苛めたというではないか! そのような女は僕に相応しくない! 婚約を破棄させてもらう!」


 第一王子のナザロフが卒業パーティーの場で人目もはばからずそう言うのを、イリーナは遠い世界のようだと感じていた。しかしこれまで未来の王太子妃として教育された賜物か、イリーナの口は自然と令嬢らしい言葉を紡いでしまう。本心はどうなのかなど関係なく。


「謹んでお受けいたします、ナザロフ様」


 その後、イリーナは余りにも体面が悪いために公爵家の別荘で療養という名の隔離を強いられた。父である当主は娘を愛していたので、イリーナをあんな方法で傷つけたナザロフが憎いが、かといって臣下の身で恐れ多いことなど考えられず、やむなく信頼できるメイドを同行させて別荘地に行かせた。



 卒業パーティーの日、レイラはほくそ笑んでいた。こんなに上手くいくなんて。貴族の娘に産まれた以上、望みうる限り最高の地位になりたいと思うのは誰も同じだろう。しかし今の王は老齢といっていい。いくら妻が亡くなったからといっても爺の後妻は嫌だ。だがその息子であるナザロフは美しい男だった。学園での地位も最高ながら成績優秀で運動神経も悪くないときた。問題は婚約者がいること。

 成功したらラッキー、くらいの考えだった。

 イリーナは美人で成績優秀ではあるが、人望があるかというと無いほうだった。休み時間は授業の予習復習にあて、学校が終わるとすぐ帰って王妃教育。周りに聞いたイリーナの感想は「優秀ですよね」 「素敵な人ですよね」 と無難すぎて誰にでも言えそうなものばかり。彼女の特徴などを詳しく聞こうとしたら皆逃げる。誰も知らないのだ。

 こんな社交性のない人王妃にしたってうまくいかないんじゃないの。社交性だけだったら私にだって……。

 そう思ったレイラは早速行動を開始した。男爵領地でしか取れない植物がある。それを加工した化粧品で財を成したからこの学園に入れたのだから。特に質のいいものは身分が上の令嬢にばらまいてコネをつくる。

 明るく元気なキャラクターで令息の信用を得る。

 彼らと楽しく話せるようになったきた頃に「実はイリーナ様に睨まれている気がする。勘違いかもしれないけれど」 と零してみる。

 さすがに恐れ多いとか言われるかもと思ったけど、返ってきたのは擁護の嵐だった。

「そうなの? 可哀想に。男爵の身分でつらかったでしょう」

「実はイリーナ様は前から好きじゃなかった。お高くとまってる感じで。苛めとか確かにやりそうだよな」

 まわりまわってナザロフの耳に入り、優秀ではあるが少々思い込みが激しいことだけが欠点の彼は間違った正義感を発揮した。

「身分差で苛めなど許せない! レイラは僕が守ろう!」


 本当だったら雲の上の人だった公爵令嬢が転落していく様は、正直見ていて楽しかった。罪悪感はあったけど、こんな男爵令嬢に陥れられているようじゃどっちみち王妃失格でしょ。私悪くない。身分ていうのはね、それにふさわしい行いをするから許されるのよ。ふさわしくないんだから馬鹿にされて当然じゃない。



 イリーナはよほど卒業パーティーでの恥辱が堪えたのか、別荘でみるみるうちに痩せていき、一日一食しか口にしないまでになった。

「アンナ……もういいのよ。こんな私のもとになど居ないで、もっと貴方が活躍できるところへ行きなさい……」

 そう主人が低いながらもしっかりした音量で伝えてくるのを、メレンチェフ当主から直々に世話を頼まれたアンナは心苦しく聞いていた。


 どうしてこの方はこんなに優しいの。何もしていないのにあんな目に合わされたら、自分だったら世界を恨むわ。それなのにこの方はただのメイドの未来まで心配して。

 アンナは悲しみと怒りを同時に感じていた。イリーナへの同情と、ナザロフへの怒りがアンナの中で膨れ上がる。

 苛めなんて事実無根だし、無実の人を陥れて平然としているのは貴族社会のほうがおかしい。遠い国ではそれが積もり積もって革命まで起きた国があるらしいのに、北の果てにあるこの国は影響が薄いからと呑気なものだ。

 あのナザロフ王子も愚かすぎる。事実確認を怠るし、断罪するにしても場所の一つも選べないのか。ああいう直情的な男には常に一歩引いて男を立てるイリーナ様こそお似合いだろうに。……よそう。あの男はイリーナ様に相応しい男ではなかった。ああいう暴走癖がある男と我儘嘘つき女が一緒になったことで王政がどうなるか、不謹慎だが楽しみではある。

 アンナは王都の惨状の妄想しながら夕食を作り、様々な具材を煮込んだスープをイリーナに差し出した。

「いらないわ」

「イリーナ様、それではお身体に障ります」

「……このまま儚くなりたいの。どうせもうこれから先、ろくな縁談がないだろうし、なによりナザロフ様に嫌われてしまった私には生きている価値はないわ」


 アンナは神を呪いたくなった。あんな裏切りにあってもイリーナはナザロフを慕っている。きっかけはイリーナの一目惚れだったらしい。厳しい王妃教育もナザロフへの愛ゆえに耐えられたのだとか。裏切られても愛していると言うのだから本物の愛だろう。けれどイリーナがあまりに不憫だ。

 ふと、アンナは思い出した。アンナの母は東方で薬師をしていた人間で、様々な秘薬に精通していると。もしかしたら、今のイリーナ様を救える薬があるかもしれない。数日休みをもらい、アンナは母を訪ねた。



「これは……?」

「イリーナ様。これは恋の妙薬です」

「あら……失った愛を取り戻せる薬があるのかしら」

「いいえ。そのようなものではありません。これは、服用した人間の頭に作用するんです。一種の幻覚剤です」


 月の無い夜に泉に現れる妖精だけが持っているという薬草。それを妖精に気に入られた人間が煎じると特殊な妙薬になるのだそうだ。

 母が言うには、その昔失恋した女性が泉に身を投げようとしたところ、「ここで死人を出すのはやめてほしい。代わりにこれをあげるから」 と薬草を渡された。半信半疑で女性が飲むと、なんと目の前に自分を振った男が現れ、女性に愛を囁くではないか。だがその男は誰にも見えない。女性にしか見えない。女性の脳内に棲むようになった幻覚の男だった。

 それでも声は聞こえるし話しかければ答えてくれるし、微笑みかければ笑ってくれる。女性はこの妙薬で心を癒し、やがて痛みから立ち直ったという。

「私に優しいナザロフ様が現れると?」

「はい。何より毒はありません。試してみるだけでも……」

 イリーナは半信半疑だったが、一縷の希望を抱いてその妙薬を飲んだ。

『イリーナ』

 すると、途端にナザロフが目の前に現れてイリーナに微笑みかけてきた。

「!? ナザロフ様? どうしてこのような所に……アンナ、もてなさないなんて失礼だわ、お茶を用意して!」

「……ごめんなさい、イリーナ様。私には何も見えませんし、聞こえません」

「え?」


 ということは、これが幻覚で出来た恋人ということか。言い伝えの通りだ。

『イリーナ、済まなかった。僕が本当に愛していたのは君だったとようやく気付いたんだ』

「……ナザロフ様、そのような……」

『償わせてくれ。なんでもしよう』

 アンナはいつの間にか部屋から消えていた。気を遣ったのだろう。

 幻覚のナザロフはイリーナの覚えているナザロフと寸分の違いもなく、それでいて記憶の中のナザロフよりも優しかった。おずおずと手を伸ばすと、イリーナの手を優しく包み込んでくれた。何だかぬくもりと感触があるような気がするけれど、思い込みの一種だろうか?

「このまま……このまま手を握っていてくれませんか。私はそれだけで充分です」

『イリーナ、僕は今幸せを感じているよ』

「ああナザロフ様……。……まぁ! すみません私ったら、着ているものは粗末だし、こんなやつれた姿で……」

『いいんだ。どんなイリーナでもイリーナだ。僕が恋したイリーナだ』


 ずっと欲しかった台詞を浴びるように言われて、イリーナは絶望のどん底からそれまでの人生で幸せの絶頂に上り詰めた。

 食欲も出て体調も徐々に回復し、アンナもホッとしていた。……それにしても回復どころか前よりもずっとイリーナは綺麗になった。愛されているという自覚は女をこうも変えるのか。

 このまま完全に回復したら、妙薬もいらなくなるだろう。縁談に悲観的だったが、いっそ貴族社会を抜け出してアンナのつてで平民の良い男でも紹介して……。そう考えながらアンナが幻覚のナザロフといちゃいちゃしているイリーナの部屋に足を踏み入れた時、絶句した。

「やあアンナ。いつもご苦労様」

 幻覚のはずの男が見えている。喋る声が聞こえる。本人? いやそんなはずはない。本人はイリーナを嫌っているし、一国の王太子が一人でこんなところに居るはずがない。

「聞いてアンナ。ナザロフ様ったらおかしいのよ」

「おいおい。それは少し酷いだろう?」

「だって夢物語みたいなことを言うのですもの。自分が別の世界からやってきたナザロフだって。どうして別の世界なのに同じナザロフ様がいるんですの?」

「平行世界っていう概念があってね……。ああアンナ、僕の話を知りたければ君の母親に聞くといいよ。彼女は本当にイリーナを心配していたんだね。……こんな奇跡を起こすくらいに」

 アンナは一目散に母のところへ駆けた。


「私がなぜこの国に来たかって言うとね、イリーナ様みたいな目にあって国にいられなくなかったからさ。一度は自殺も考えたけれど、妖精が助けてくれてね。おや、気づかなかったのかい? 伝承の娘は私のことだよ」

 アンナは母親の過去に驚いたが、それよりも実体化したナザロフだ。

「お前か話を聞いた時、イリーナ様があまりにも哀れでね。妖精に話したら妖精は私以上に怒っていたよ。彼らはいたずらっ子で気まぐれだけど、一途に愛情を捧げる人間には優しいって一面もあるのさ。それで秘薬中の秘薬――平行世界の人間を連れてくる薬をくれてね。最初は驚いたけど、妖精世界ではそう珍しくないみたいだねえ」

「でも同じナザロフなら、あいつもイリーナ様に危害を……」

「いや、妖精はそんなにナザロフを愛しているなら、絶対に傷つけないナザロフが来るようにしてやろうと言っていた。安心していいんじゃないかね? なにせ私が無事だったからお前がいるんだ。疑うのは失礼ってもんだ」


 イリーナの別荘に戻ると、イリーナはナザロフとどこの新婚夫婦かというくらいラブラブ生活を満喫していた。二人で家事をしたり、イリーナがお嬢様育ちで慣れないながらも創った料理をあーんしていたり、夜になると二人抱き合って眠っているのだ。

 母親が異邦人ということもあって働き口のなかったアンナを雇ってくれたイリーナ。あの時からアンナはイリーナが大好きだった。そんなイリーナ至上主義のアンナだが、やはりナザロフと同じ顔同じ声は信用できず、イリーナのいないところでチクリと嫌味を言う。


「現れてから長いですけど、イリーナ様が王都でどんな目に合われたかはもうご存知ですよね? どんなに隠していても近辺の人間はひそひそしますし。知らないと仰るならイリーナ様に興味無さ過ぎで引きますから」

 アンナのそんな嫌味を、妙薬で現れたナザロフは鼻で笑った。

「当然知っているさ。……僕も元の世界で同じことをしたんだから」

「はぁ!? あんたやっぱり!」

「話は最後まで聞いてくれないか。それで……僕は間に合わなかったナザロフなんだよ」

 いわく、イリーナを追い出してレイラと結婚したものの、彼女はこれで安心とばかりに本性を見せた。元々金持ち育ちというのもあって、質素倹約がモットーの王家と致命的に合わなかった。実家と同じレベルの生活を空気を読まず要求し続け、最初は可愛い我儘だと思っていたナザロフも段々愛想が尽きてきた。それでも離婚はできない。元々の婚約者を追い出してまで得た妻を粗末にするなど外聞が悪すぎる。そうしているうちに妻の贅沢で税金がどんどん高くなり、無駄遣いを財政担当の大臣に詰られ新聞にリークされ国民から非難を轟々と浴びてやっと離縁した。

 こうなると思い出すのは追い出してしまったイリーナのこと。レイラの本性が現れるにつれ、一体どっちが本当の悪者だったのかは察しがつくようになっていた。許されなくてもいいから謝りたいと彼女が居るはずの別荘に行くと、しめやかに葬儀が行われていた。王太子が中に入りたいと言ってもメイドに止められる。

「ええ。亡くなられたのはイリーナ様です。ですからその原因である貴方だけはここを通す訳にはいかないのです」

 そう睨みながら伝えたのはその世界のアンナだったそうだ。これを聞いたこの世界のアンナは、私は何処の世界でもイリーナ様の忠実なメイドなのだと誇らしくなる。

「イリーナ様はお優しい方でした。貴方の恨み言など何一つ仰いませんでした。それどころか王家の財政が逼迫していると聞いて、自分が死んだらわずかばかりある財産はどうにかして王家に渡してほしいとまで。あら、何故泣いているんですか? イリーナ様の優しさに感動しました? それともそんな女性をむざむざと死なせてしまった後悔? どっちにしても私は同情しませんよ。何でイリーナ様の財産をあんたらに渡さなきゃいけないんだって今でも思ってるけど、イリーナ様の意思に背くのも本意じゃないですから。……ほら、とっとと持ってって帰ってよ! 死後のことは私が一任していいって言われたんだから、あんたは絶対イリーナ様に会わせないし、会う資格なんかないから!」

 金貨の入った袋を投げられた。顔にしたたかに当たり傷もついたけど、責める気力もなかった。袋は有り難く受け取った。これも一応イリーナの形見になるのだろうと思いながら。

 罪悪感に苛まれ、ふらふらと近くにあった泉に迷い込む。この国の泉は全て妖精の管理下にあり、妖精世界に繋がっているという伝承がある。ここではないどこかなら、イリーナに会えるのではという希望に縋って泉に飛び込もうとした。

「神聖な泉で人死になんて冗談じゃないし、君にふさわしい世界があるからそこへ行ってくれない?」

 妖精の声が聞こえた。あの時は何だと思ったけれど、今思うと天の救いだった。


 気がついたらぼんやりとした体で生きたイリーナの前に居た。これほど神に感謝したことはない。一応異世界にあたるので最初は馴染まなかった身体も、妖精の力なのかイリーナの愛の奇跡か段々定着して生身の人間として生きられるようになった。

 イリーナからそれとなく聞きだすと、ここは自分のいた世界とほぼ変わらず、ただこの世界の自分はレイラと婚姻しているという時を少し巻き戻した世界のようだ。単なる逆行と違うのは、この世界にも自分がいるということ。

「……たとえ自分でもイリーナを渡すつもりはないよ。いや、自分だからこそ許せない」

 そう語るナザロフの目は真剣そのものでありながら、どこか病んだ様子で。

 アンナは少し不安を覚えなくもなかったが、イリーナ様が傷つかないならそれでいいと妥協した。だって何もしないならイリーナがこのまま死ぬなんて一番のバッドエンドだけは絶対に嫌だ。

「君も協力してくれないか? 僕には戸籍がない。イリーナも公爵令嬢に籍を置いたままでは幸せになれない。そして君の母親は有能な薬師として多数の信奉者がいる。イリーナを幸せにしたいなら、分かってくれるよね?」

 アンナは本音をいえばナザロフ以外と幸せになればいいのに、と思っていたが、イリーナがナザロフを好きなのでどうしようもない。そして目の前のナザロフはイリーナのために戸籍を買うという犯罪も辞さない覚悟がある。私と目の前のナザロフが悪魔に魂を売れば、イリーナ様が幸せになるというなら。




 しばらくして、王都では国民の王家糾弾の声があがった。ナザロフが妻レイラのために絵画だの壺だの水源を買い取って王家専用の風呂施設だの新しい離宮だの、国を治めるうえで必要があるとは思えない贅沢を繰り返し、そのために税金をあげて国民を苦しませたと財政担当大臣が訴えた。不満が溜まっていた国民は各地で暴走。やむをえず……いや、本心では喜んでナザロフは離縁した。レイラがいなくなればイリーナを迎えに行ける。レイラから身分を取り上げ平民として放逐することに決めた。国民からせいぜい上手く逃げればいい。騙すのは得意なのだから。

 レイラ一人に罪を集中させることになったが、それはこうなってから手の平を返した貴族達のお陰だった。「実は前からレイラ嬢は信用できないなと思ってました」 「あいつよくイリーナ様の陰口を言っていて今思うと性格悪かったですね。被害者ぶるのが上手くて騙されました」

 自分もまんまと騙された人間だから責められないが、心の中で「イリーナを進んで迫害しといて何なんだよ。こいつら全員死ねよ。お前らの誰か一人でもイリーナの肩をもっていれば悲劇は起きなかったんじゃないか」 と当てこすりのようなことを思った。王妃になる人間が周囲の人間の心を掴めなかったのが一番の大罪、と言われればそれまでだが、だからといって調子の良い貴族達の罪が許される訳ではないと思う。後でなんらかの制裁を加えようとナザロフは決意した。最も、ナザロフが何もしなくてもイリーナを溺愛していた自分の父や彼女の父が何かしらするだろうが。


 ナザロフは国民が落ち着くまで待ち、何とか当面の政治を整えてやっとイリーナのもとへ出発した。今回の件でその素質が疑われたが、念入りに根回ししたおかげで王太子の地位は揺らいでいない。堂々とイリーナに会いに行けると信じていた。簡素な馬車でイリーナの居る別荘まで走る。揺れる馬車の中で、会えたら何て言おう、許してくれるだろうか、もし許してくれたら、今度こそは彼女を幸せにしようと希望を抱いていた。


 だが、唐突に不幸は起きる。


 馬車が山間の険しい道を走っている時、不意に山頂から大きな岩が転がり落ちてきた。岩は下りながらスピードをあげ、馬車を容易に押しつぶした。貴人のいる箱の部分は原型がないほどひしゃげ、御者はぶつかった衝撃で宙を飛び岩に頭をぶつけぴくりとも動かなくなった。走っていた馬は大きくバランスを崩して谷底に落ちていく。辺りは急に静かになった。


 どれほど時間が経っただろうか。生者の気配がしない潰れた馬車のもとへ現れたのは、アンナと平行世界のナザロフだった。

「全員死んでいるようです。馬も始末して何の証拠も残っていません。……本当に、これで良かったんですか? ナザロフ様」

「どうしてそんなことを聞く?」

「だって、ここに居るのは一応もう一人の貴方といえるわけで……」

 アンナの目は岩に潰されたままの箱を見ていた。ここにナザロフがいる。その証拠に、箱から血が漏れ出てるではないか。しかし平行世界のナザロフは揺るがない。燃やし終わったゴミを見るような目で一瞥するだけだった。

「ナザロフが二人もいたら災いの元にしかならない。どちらかが消えるしかないんだよ。それに、こっちのナザロフは僕と違って幸せだっただろう。やり直せるかもってお花畑の中で死ねたんだから。何にせよ、僕が来なかったらイリーナはとっくに死んでいたんだ。もし自分の進退を気にして貴族への根回しだの教会への寄付金だのをせず、僕より早くイリーナに会う行動をしたなら僕が引くことも視野には入れてたよ。けど結果はそうでもなかったし、残当だ」

「……はい、そうですね」

「それよりアンナ。今の僕はナザロフじゃなくて平民ルキヤンだよ。今はいいけど次からは間違えないでね。あとイリーナも。もうただの町娘ジャンナになったんだから」

「はい、気をつけます」

 アンナは気持ちを切り替えた。自分は、ただイリーナ、もとい幼馴染の町娘でいとこのジャンナを守ることが最優先なのだから。イリーナは戸籍上死んだことになっている。そうでなければ平行世界のナザロフとは結ばれないから。イリーナの父は先行きを案じていたらしくすぐ協力してくれた。ただ流石にナザロフとのことは秘密だ。庶民の青年と仲良くなったと伝えてある。反対されるかと思ったが、娘を追い詰めた貴族社会に思うところがあるのか「娘を幸せにしてくれるなら身分など関係ない」 と言ってくれた。



 近くの宿では平民服に身を包んだ元イリーナこと現ジャンナが待っていた。休憩所のような場所で、地味な格好で化粧もせず黙って座っているだけなのに、隠し切れない気品と美しさがもれていて、近くに座る男達はチラチラとジャンナを見ていた。そのジャンナはルキヤン達に気づくと花のような笑顔を浮かべた。

「あら、お帰りなさい。遅かったのね」

「少し仕事が残っていて。でも全部終わったから」

「まあ、お疲れ様です」

「少し汚れを落としてくるよ。先にアンナと食べて部屋で待っていてくれ」

 単に風呂に入るかのような言い回しだが、念には念を入れて証拠隠滅を図るのだろう。着ていた服を処分して、あの道に細工をして馬車の発見を遅らせて……。アンナは何も言わずにジャンナを食事処へと連れ出す。その道中、ジャンナはぽつりとつぶやいた。

「実はね、もしかしたら戻ってこないかもって思ってたの。アンナは最近ルキヤンと一緒にいるし、ルキヤンは……以前の彼では絶対しないような表情をするし」

 それは大いなる誤解だ。イリーナを愛する者同士というだけなのだから。

「少なくとも私とルキヤンがどうにかということは絶対にありません。妖精の保証つきです」

「そうなの? でも……やっぱり嬉しすぎて信じられない。ルキヤンが身分を捨てて私と生きてくれるなんて」

「あら、貴方が貴族社会で生きられないくらい貶めた張本人ですもの。好きならそれくらいはしてもらわないと」

「厳しいのね。でもアンナは違和感はないの? 長い間政略結婚の関係と思っていたからかしら、愛してくれる彼にどうも慣れないわ」

「……さあ、私は貴族ではないし、彼のこともよく見てた訳じゃないからいまだによく分かりません」


 アンナはただ誤魔化すしかなかった。自分が黙っていれば誰も不幸にならない。貴方が最初に好きになったこの世界のナザロフはさっき死んで、殺したのは違う世界のナザロフだなんて。妙薬が奇跡を起こしてナザロフをそのまま連れてきたと思っている。……それでも何も勘付かないなんてあるかしらとアンナは思ったが、元々あの婚約破棄でイリーナ様は壊れてしまっていたのかもと気づいてしまう。身の丈以上の相手との婚姻を夢見ていたのに、必死に築き上げたものが一瞬で壊れたあの日。


「ねえアンナ、私ね、とっても幸せよ」


 無垢な少女のように笑う主人を前に、アンナは倫理観を捨てた。私はずっと貴方が笑っていてくれればそれでいい。ずっと……。



 ナザロフと離縁したレイラは王国の片隅にある小さな村に隠れ住んでいた。自慢の金髪を切って男みたいな髪型にし、特殊な染料で地味な色に染めて、着ている服もぼろっちいもの。

 虫唾が走ると思った。

 せっかく王太子妃になったのに。近隣国から貧乏くさい国って言われてるから、まず国の顔である王族が贅沢しなければそれを払拭できないと思ったのに。貧乏人どもが数にものを言わせて王に訴えるから。財政を担当してた大臣の逆張り野郎が庶民の味方なんか気取るから。王家がケチくさいから。

 離縁のうえ爵位を強制返上で平民落ち。財産没収だけは免れたのが救いだけど、それだってこの先一生をまかなえる貯金はない。おまけに領地にはいられなくなりこうして逃亡しながら隠れた生活。

 可哀想な私。信じていた人には裏切られて、王家は分からずやで、庶民は男爵あがりというだけで私を嫌う。私ほど不幸な人はいないわ。

 自分は何一つ悪くないと心の底から信じていたレイラは未来を悲観する。

 この先どうしよう。生きてて良いことあるのかしら。こんなどん底まで落ちてそんなの無いわよね。両親はとにかく目立つ娘を人目に触れさせまいと外に出さない。娘を守るためにクワを振るって自分達はしがない農民ですという顔をしている。

 普通ならそこで自分を思う両親に感動しそうなものだが、レイラは違った。

 やあだ貧乏くさい。それに最近一気に老け込んだのよねあの二人。戻ってくると汗臭くてたまらないのに平気で話しかけてくるのも嫌。距離くらい取ってよデリカシーないんだから。貴族のプライドを捨てた両親なんて私の両親じゃないわ。つまり私の両親は死んだのよ。……ああ、なんて可哀想な私!

 不満とストレスが最高潮になったレイラは居ても立ってもいられず、近くにある泉に向かった。


 どうせ私に未来なんてないもの。だったらここで死ぬ方がいいわ。

 そう考えてこんこんと水の湧き出る泉の中ににざぶざぶと入っていくと、光の粒子が目の前に集まった。

「ここは妖精の棲む泉だよ。自殺はやめてほしいな」

 その声を聞いてレイラははたと思い至った。

 まるでお伽噺のような展開。そうか、不当に虐げられた主人公はこうやって未知の存在に助けられるものよね!

「でも、もう後がないの。お願い、ここで死なせて」

 金の斧銀の斧の童話のように、妖精なら助けてくれなんてがっつくような真似はしない。素直で欲の無い人間にそういう存在は優しいとレイラは分かっている。しおらしく振る舞い瞳をうるうるさせて言えば、妖精は少し間を置いて答えた。

「後がない? そうは見えないけど……。というか、君ってもしかして王都で離縁されたっていうレイラじゃない?」

「私のことを知っているのね。そうよ、皆が私を苛めるの。だから私もどうしていいか」

「……ねえ、イリーナ公爵令嬢って覚えてる?」

 どこか呆れたように言う妖精の声。しかしレイラはそれに気づかずきょとんとしながら言った。

「え? 誰だったかしら。王太子の婚約者になってから会う人が多かったから、いちいち覚えてないわ。記憶に残ってないなら重要な人じゃないんでしょう」

「……そう。それで、君はこれからどうしたいの?」

「ここじゃないどこかに行きたいの。ここはもう嫌よ。私ばかりつらすぎる」

「分かった。違う世界に連れてってあげるよ」

「わあ、ありがとう!」

 ほら、真のヒロインはこうなるのよ。可哀想な私には上位の存在こそ力を貸してくれる。それにしても、イリーナって何か引っかかるのよね。会ったことはありそうだけど。

 泉が光り出し、レイラの身体がどんどん透けていく。これから本当の薔薇色の生活が待っているんだわとレイラは浮かれた。

「……誰も君に都合の良い世界とは言ってないけどね」

 上機嫌のレイラの妖精のその言葉は聞こえなかった。

 完全にレイラの姿が消えた頃、妖精は取り繕うのをやめて大げさなほどの深い溜息を吐いた。

「本当に愚かな人間だった。ここにはまだ君を助けてくれる両親がいたんだろうに。せめて別世界でイリーナに償うんだな。その死をもって」

 妖精というのは気まぐれな性質なので、愛に一途な人間をそれはそれは珍しがって仲良くなりたがる。それでイリーナに優しいのだ。だが魔法の加護が強い王都に居る時にはどうにもできず、田舎の別荘に来た時には既に末期の病人状態。そこまで追い詰めた原因であるレイラを妖精達は内心恨んでいた。決して恋愛感情ではなく、好きな玩具を壊されたから遊べなかったという無念からの行動だ。

 そんな人間の子供くらいの感情で、妖精はいとも簡単に人間の運命を狂わせる。



 ふと気がつくと、レイラは元の世界と変わらないような田舎の村にいた。しいて言うなら、元の世界は森の近くの村にいたのに、ここは山間の村のようだ。

 ええー? 異世界の王宮とかが定番じゃないの? それにしても、山への入り口らしきところで人々がガヤガヤと騒がしい。

「ねえ、何があったの?」

 その辺の男をつかまえて聞くと、その男は顔色を変えた。

「おい……こいつ、手配書のあいつじゃないか?」

「あ! 本当だイリーナ様を貶めた悪女だ!」

「じゃあ、こいつがナザロフを殺したのか! 離婚させられた恨みで!」


 男達はレイラにしてみれば訳の分からないことばかりを言って、突然のことに事態が呑み込めていないレイラを引っ立てるようにして独房に押し込めた。

「痛い! 何するのよ!」

 その声には誰も答えなかった。だが自分本位な人間のレイラは何とかなるだろうと楽観的になる。だってここ異世界なんでしょ?

 しかし即日裁判が開かれ、弁護人もいない状態でレイラの死刑が決まった。

「え……何で!? 私が何をしたっていうの!?」

「少なくともイリーナ様を陥れたことは事実だろうが」

「誰よそれ! 知らないわよ!」

 わざと知らない振りをしているということでなく、本当にイリーナの頭からは消えているのだ。苛めを受けた人間は何年も後遺症に苦しむが、苛めた人間は何も覚えていないものだ。

 訳も分からないままレイラは処刑台にあがる。目の前に絞首刑の縄がぶら下げられているのを見て、初めて自分の選択を後悔した。

 もしかして、あのまま元の世界にいたら普通に幸せになれてたのかしら……。

 しかしそれは反省には繋がらない。自分は人を騙すような妖精に引っ掛かった哀れな被害者だとしくしく自己憐憫に浸る。

 そうこうしているうちに刑は執行された。見せしめのためにレイラの遺体はひと月もの間晒された。

 王都に向かった使者は「全てはあのレイラという女が企てていたことのようです。逃亡が得意と聞いていたので、速やかにこちらで処刑しておきました」 と王に伝えた。王は恨みを向ける相手が出来てやっと振り上げた拳を下すことができた。王太子の新しい婚約者として一時は近くにいたものだが、立ち居振る舞いから考え方までとても貴族とは思えないほど低俗だったから納得だ。追放されたのを逆恨みしてことに及んだのだろう。悪女の例として末永く伝えるように、と書記官に伝えて王はイリーナへのせめてもの手向けとした。



『落石事故発生。通るな』

 その看板が山道に立てられていたために村人達に発覚が遅れた。この道ではさほど珍しいことでもないので、皆遠回りになる道を選んで通った。しかしいつまでも立てられているのを不審に思わぬ人間はいない。「いつになったら通れるんだ?」 自分以外の誰かが落石を処理しているだろうと村の人間全員が思っていたのも痛かった。

 道中で腐乱した王子の遺体が発見された。王にこれを知らせると、あまりに発覚が遅かったのを訝しがられた。わざと殺したのか? とまで言われた。息子に死に冷静になれなかったのだろうが、疑われる住人としてはたまったものではない。

 誰があんな看板を立てたのか。村の住人ではない、商隊の中継地点の村は様々な人が行きかうが、あの中に犯人がいたとしてももうとっくに逃げているだろう。だからといって王太子の死に「よく分かりません、残念ですよね」 なんて怒れる王に言える訳がない。誰かしらの生贄が必要だった。話し合った結果、もし手配書に書かれるような人間が通ったらそいつにおっかぶせてしまおうということになった。どうせ悪い人間だ、罪の一つくらい増えてもいいだろうと。よくよく考えれば人でなしの所業だが、村人全員が王の怒りに触れて死ぬか一人の犯罪者が死ぬかという状況だった。

 そこへやってきたのがレイラだった。


 ――この世界のレイラは相変わらずの自己中ではあるが、自分と同名でよく似た人間が「レイラ」 として王太子殺害の罪で絞首刑になったと聞いて震えあがり、極力家から出ないようになった。家族は鬱陶しいけれど、死ぬよりはマシだ。

「誰か知らないけど、私の身代わりになってくれてありがとう! もうしばらくしたら外も歩けそう!」


 妖精は水鏡に映ったレイラの様子を眺めながらぽつりと呟いた。

「両方不幸にしからならなかったところを、片方だけでも幸せにしたんだ。感謝してほしいくらいだね」

 ちょん、と妖精は指で波紋をつくって映像を消した。そして一連の出来事に興味を無くした。妖精はとても気まぐれなのだ。次は誰が妖精に好かれるのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

婚約破棄された令嬢の恋人 菜花 @rikuto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ