デイ・トゥ・デイ

かんな

デイ・トゥ・デイ

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。

 デイは欠伸を繰り返しつつベッドから起き上がり、カーテンを閉めた部屋を横切った。シンクで顔を洗い、栄養剤だけの冷蔵庫から一つ取ってコップに注ぎ、薄茶色い液体を一気に飲み干す。リビングへ戻るとテレビは天気を伝えていた。今日は晴れ、清掃日和でしょう──。

 大きく伸びをしてカーテンを開けると陽射しは既に強く、デイは目を細めてカーテンを閉めた。ベッドを整え、脱いだパジャマを空の本棚の上に畳み、灰色の作業服に着替え、テーブルの上で丸まっていた社員証をポケットに突っ込んだ。壁にかかった小さな鏡を覗き込むと、白髪の少年と目が合う。その顔に向けてデイは溜息をつき、テレビのリモコンを取る。高山植物のノビネチドリを紹介しているところでスイッチは切られ、「行ってきまあす」という声と共に扉は閉じ、自動施錠の音が響く。遅れてAIコンシェルジュが青年の声で「いってらっしゃいませ」と告げた。

 アパートの階段を駆け下り、夏を惜しむように咲く花壇の向日葵の葉をつついて大通りに出た。

 片側二車線の大通りは町を東西に走る。銀杏が青々とした葉を茂らせる中、去年倒れてしまった一本の所にはハナミズキが細い枝を健気に伸ばしていた。

 東西に走る大通りの東側、あまりの大きさに距離感を測りかねて目を回すほど巨大な建物が構える。窓も少なく、威圧的な雰囲気さえ漂わせているそれは工場と呼ばれ、デイを含めた大半が働く。

 一方、西側には林の中にドーム状の赤い屋根があった。

 目の前の細い道からマイクロバスが現れ、デイは立ち止まってバスの行方を見つめた。バスは大通りを西へ進み、林へと入っていく。

 西の建物は墓所と呼ばれ、いずれはデイも向かうことになる。



 デイは管理係だった。他に医務、教務とあり、二つの製造ラインに付随する。製造初期の第一ラインは四か月前に稼働を停止し、成長期までの第二ラインも先週止まった。教務が両方とも停止した一方で他は終わりに向けての業務が続いている。

 管理係の主な職場は巨大な円を描く管理通路である。その傍に管理係の事務所があり、係長のカプルに挨拶をしたデイは電子端末と電動カートの鍵を握り、共に事務所を出た。

 管理通路は暗く、そして長大だった。内円の壁全面に縦がビル四階分ほど、横は通路に沿って強化ガラスが伸び、こちらから向こうを窺うことは出来ても、その逆は出来ないという。この巨大な管理通路が製造ラインごとに存在し、第一ラインの管理通路は東にあった。

 管理係の仕事は窓から見える様子を観察、不備を報告して修正の繰り返しだった。ここ数日はカートに乗って流し見ながらチェックしていくだけだが、長い通路が短くなるわけではない。

「楽になった、って言っていいんですかね」

「お勤めごくろうさま、ってところよ。じゃあ午前はここまで」

 半周したところで彼女の腕時計が正午を示した。

 昼休憩には食堂を利用する。だが、管理通路からでは移動だけで休憩が終わってしまう時があり、故に管理係にだけ許された高速移動橋というものがあった。その入り口は管理通路の外円側の壁約二百メートルおきに用意され、カートを停めた二人はその内の一つの前に立つ。

「僕、これ最後まで慣れませんでした」

 跳ね上げ戸を開けると暗い穴が開いて待ち構え、風が薄く吹いた。その見た目と構造から皆にはダストシュートと呼ばれている。持ち上げた戸を壁に押し込んでカプルは笑う。

「明日には慣れているかも」

「慣れた頃には終わっています」

 かもね、と笑ってカプルは先に行く。デイは小さく溜息をつき、端末をしっかり胸に抱えて後に続いた。



 よろよろと食堂に着いたデイはコップ一杯の栄養剤をトレイに乗せ、空席の目立つ食堂を見渡した。テーブルの上へ逆さに乗せられた椅子の脚が林のようで、その向こうに少なくなった仲間を見つける。

「減ったね」

「そりゃ、あと七日だもん」

「遺っちゃったりして」

「ないない。時限装置は正確。寝坊したことないだろ?」

 午後は残りの半周を回り、定刻には工場を出た。遅い夕暮れ、微かに残る青空の中に気だるい暑気が漂う。

 ふと、道の先で喧噪が膨らんだ。上げた視線の先、緑色の作業服を着た男が辺りかまわず通行人へ掴みかかっている。地面に転がった大量の栄養剤の空き瓶を蹴飛ばし、その一つがデイの足元にまで転がってきた。栄養剤の過剰摂取は場合によっては機能不全に陥る。デイは多くの人と同様に避けて行こうとしたが、通り過ぎる間際に強い力が腕を掴んだ。

 おそるおそる振り向くと黄色く濁った眼が視界を埋め、男はすがりついて叫んだ。

「なあ、どうしてもう終わるんだ。俺だって、俺だってまだ……!」

「離してください」

 男の目尻が吊り上がる。

「散々使い倒して、俺たちに死ねと言うのか!?」

 すると、彼方からサイレンを響かせてパトカーが駆け付けた。青い制服の一団は瞬く間に男をデイから引きはがし、尚もわめく顔を車に押し込んで風のように去る。集まっていた野次馬が散る中、残されたデイはただ、大股で地面を蹴り飛ばすようにして足を踏み出すしか出来なかった。

 男に掴まれた部分が焼けるように痛い。駆け込むようにして帰宅し、コンシェルジュも無視して乱暴に脱いだ作業服を叩きつけた。

 荒い呼吸が薄闇に広がる。空気も時間も止まった部屋の中で、息と熱が鈍く渦巻いていく。渦の中心にデイは佇み、耳の奥で甲高い音が伸びる──。

 外の微かな喧噪が、さざ波のようにデイを撫でては去っていった。辺りは既に暗く、デイはいつの間に目を閉じていたのかと首を傾げる。深呼吸して男に掴まれた部分を確認すると、手の跡がわかるほど赤く染まっている。



 六日、五日、とカウントダウンを重ねていく度に、町から人が消えていった。風に乗る音は減り、遠くで誰かが生活している感覚が日々断ち切られていく。それでも葉はより青々とし、向日葵は花を大きくする。その傍らを通り過ぎるマイクロバスの台数は増え、工場よりも墓所へ向かう人の流れが太くなっていった。

 食堂で見かける人も格段に減った。喋るごとに自らの声の大きさに驚くほどで、誰もが顔を寄せ合って小声で話す。

「次、私です」

 終業時、カプルが静かに告げる。デイは太い線の一つが断ち切られたように感じた。何を言おうか考えている内に、カプルはその手を取る。

「元気で。あとはよろしく」

 デイは「ありがとうございました」と言うだけで精一杯で、管理係はこうしてデイ一人だけとなった。

 その日に第一ラインの全ての職員が墓所へ向かい、工場の一翼は沈黙する。

 夜、開け放した窓辺に腰かけてデイは外を眺めていた。消灯時間にはまだ早いが、明かりの消えている家やアパートが多くある。この町はこんなに暗かったのか、と思いながら空を仰げば星空が夜を埋め、青い月が浮かぶ。今や空の方が明るいかもと栄養剤を飲み、そうでもないか、とデイは考えを改めた。煌々と明かりのついたマイクロバスが数台、墓所へ向かっていく。

 つけっぱなしのテレビからは海洋生物の番組が流れている。カウントダウンを告げるキャスターの声が、マリンスノーの紹介をしていた。



 三日、町の大半が停止あるいは休眠状態へと移行し、主導権はAIへ移行する。

 全体へのカウントダウンに対し、個々では差があった。時限装置が期限と行動を元に試算するためで、最終日の前日にわかる。そしてわかった時点で彼らが行うのは、清掃と整頓だった。自らの痕跡を全て消し、可能な範囲で町の修繕、出来なければ報告書を残す。

 元より持ち物は少なくとされてきた。痕跡を消すことは容易く、報告書については日々町の維持を心がけているため書くことはほぼない。そして終わりの日の深夜から早朝の間、作業服を着て墓所へ向かう。

 食堂に集う面々もわずかな数となり、「管理係は最後かもな」と医務の仲間が告げた。

「医務じゃないの?」

「今はずっと片付けだよ。明日にはごそっといなくなってると思う」

 その言葉の通りだった。



 二日となれば、次は誰かと窺うような様子が見え始める。わかりきっている終わりとは言え、誰もが最後に残るのは避けたがっていたが、そうして一日前の帰り、町を歩くのはデイ一人だった。夕陽に照らされ、これまでは誰かの影にぶつかって狭そうにしていた影が背を伸ばす。

 家々は雨戸を閉め、商店はシャッターが下りていた。誰かが処分し忘れたのか、自転車が鍵のついた状態で置かれており、サドルに触れると指に埃がついた。

 夕風の中をささやかな涼が通り抜ける。デイはカウントダウンが始まってすぐに冬服を廃棄していた。ゴミ収集所が満杯になることを危惧したためで、実際に数日は溢れかえっていた。今では収集所に限らず町の全てが空になろうとしている。

 帰宅してシャワーを浴び、電気を点けずに窓を開けた。闇はより深く、暗い星さえ見える。町の明かりは非常灯が瞬くのみだった。

「……もしかして、もう僕だけ?」

 尋ねるともなしに呟くと、テレビがついて「そうですね」と応える。コンシェルジュの声だった。

「そんなこと出来たんだ」

「練習です」

「どこでも入れるの?」

「例外はあります。勿論、あなた方には入れません」

「冗談きついよ。……あのさ、墓所に行く日がわかるのって、どういう感じ?」

「個体差があります。時限装置による電気信号が表層化する際に様々な要因で以て変化するようですが、その理由は不明です。受信の約一日後にはエントリードッグへ、データの吸い取りを行った後に初期化されます。ですが、あなたの場合は故障が考えられます」

「故障!?」

「七日前、異常な温度上昇を確認。以降、時限装置の信号が沈黙」

 デイが中毒者に絡まれた時である。

「でも、朝起きられていたよ」

「習慣による学習効果と思われます」

 デイはテレビに詰め寄った。

「僕はどうなるの?」

「基本行動は変わりません。しかし、何らかの障害が発生する可能性があります」

「……そうしたら」

「最終日の午前0時を以て強制停止となります」

 前のめりになっていた体を戻し、デイはあぐらをかいた。冷たい夜風がカーテンを膨らませる。緩やかな曲線を伴った影がデイを何度か撫でる間、沈黙が続いた。

 ちらちらとテレビの光が揺れる。

「……デイ?」

 デイは顔を上げた。

「──…頼みごと、出来る?」




 テレビはニュースを流さなくなった。水道や電気は生きているが、それだけである。町は沈黙し、動くものは天気と風とデイだけだった。

 デイはその朝も時間通りに目を覚ました。栄養剤は既になく、水だけで喉を潤してから掃除を始める。はたきで埃を落とした後、箒で掃いて水拭きをした。乾いた雑巾で更に拭き、広げたごみ袋へそれらの道具や部屋着、食器を詰めて口を結ぶ。自身は作業着を着て、いつもの癖で社員証を持とうとした手が空を掴んだ。三日前に返却したことを思い出す。

 ブレーカーを落として全ての鍵を閉め、カーテンをひいた部屋に向かって玄関で一礼した。

「ありがとうございました」

 自動施錠の音を聞きながら一つだけのごみ袋を扉の横に置いた。そのうち収集に来るらしい。向日葵に見下ろされながらデイは大通りへ出た。

 足音だけが響く。わざとすり足で歩いてみたりしたが、終わりの幕は既に下りていた。銀杏の影を辿りながらデイが工場へ向かうと、施錠されているはずの門が開いていた。コンシェルジュは有能らしく、そこから管理係の事務所まで難なく進む。足元の非常灯を頼りに暗闇を進むのは不思議と楽しく、今が終わりの日であることを忘れさせた。

 事務所に着いて深呼吸した後、そこでも一礼をして辞去した。

 その後、デイは工場を散策した。これまで行ったことのない所を覗いてみよう、と思ったはいいが、有能なコンシェルジュは不要な開放をしなかったらしい。食堂で暇を潰すか、馴染みの第二ライン周辺をうろつくことぐらいしか出来ず、工場長の部屋などもってのほかである。

 あとは、と足が慣れた道筋を選んだ。

 食堂の傍らから伸びる高速移動協の入口を覗き込むと風は動いているようであり、中の暗さもいつもの通りだった。最後まで慣れることなく、デイは移動橋の出口でしばらく動けなかった。

 深呼吸しながら広々とした管理通路を見上げる。非常灯しか明かりがなく、窓ばかりが煌々と明るい。デイは目が慣れるのを待ちつつ、通路の壁際に座った。

 業務以外で窓を見つめるのは初めてである。ただ静寂が降り積もり、いつだかテレビでやっていたマリンスノーのようだ、と思うと自然に口が動いた。

「……風景のやつはあまり見たことないんだよな」

 ぽつりと落とした言葉が大きく広がる。町よりも響く声にデイは笑った。

「ここには山がないから、大きな山を見てみたかったな。ああ、あと海も。マリンスノーは……潜ったら見られたかなあ」

 窓の光が滲み、辺りは段々と暗くなっていく。

 耳の奥で砂のこすれる音がする。それは寄せては返し、いつしか伸ばしていたデイの足を濡らした。それは波であった。波の彼方で窓が光っている。輝く窓の外で色づいた葉が舞い、その葉を揺らしていた風がデイに気付いて寄り添った。爽やかな秋の風だ──。

 重い音が管理通路に響く。それは、世界の終わりの音だった。



 色づいた林の中を男女入り混じった十五人ほどの集団が進む。下は十二から二十歳頃までの彼らは大きなリュックを背負い、その顔は期待に満ちていた。一番後ろを歩く明日香も同様で、ついてきた愛犬のタマを見下ろして微笑む。タマは長い自分の耳を踏みそうなほど駆けまわって皆の笑いを誘った。

 秋、孤児院を囲む林は豊かな色に染まる。風は爽やかに、陽射しは控えめに、穏やかな日が続いていた。

 進んでいくと次第に緩やかな上り坂となる。彼らは段々と駆け足になり、そのうち歓声を上げながら走り始めて孤児院の林を抜けた。その先では野原が広がり、斜面の上に人だかりがある。そこに別の孤児院の仲間たちを見つけ、彼らは息を切らせて合流した。

 手に手を取り、この日を喜ぶ彼らの後ろで、明日香は振り返った。

 彼方で雪を被った山々が峰を連ねている。連なる稜線は両翼を広げ、広がったそれはこの世界を囲んでいた。秋の日、澄んだ空気を通しても薄青く見えるその山に触れることは叶わない。それは空と共に『見えない壁』に浮かぶ幻であり、彼女たちに許されたのは足元ですり鉢状に広がる国だけだった。明日香たちはちょうどその境にいる。

 一番大きな町を中心に西では小さな池が幻の太陽を映して輝き、木々は燃えるように色づく。東に広がる耕作地では収穫の差で大地に模様を描いていた。

 そして周囲には大小の孤児院が存在した。この国は孤児が多い。死別の他、孤児院の運営を支えている教師たちがどこからか連れてくる。孤児の歳は様々だが、誰もが記憶をなくしており、同じような子供らは新入りを親身に受け入れる。明日香は両親との死別で孤児となったため、両者の形容しがたい繋がりを羨ましく思う反面、時々理解の追いつかないこともあった。

 教師たちは優しく、あらゆることを教えた。生物のこと、自然のこと、この国にはない海というもののこと。彼らは求められれば知識と技術を惜しみなく与え、明日香も以前、タマの怪我の治療を頼んだことがある。預かると言って教師はタマと共に姿を消したが、七日後には元気になったタマを連れて戻ってきた。

 皆、老人のような白髪だが若々しく、病や怪我に斃れたことはない。だが、三週間ほど前、彼らは突然「故郷へ帰る」と言い、保有する知識を書き留めた書物の山を残して、全ての孤児院の教師が一晩の内に消えた。

 後に彼らの部屋を覗いた子供らは、その何もなさに呆気にとられた。まるで生活の痕跡を消すように空になっていたのである。

「……明日香!」

 仲間の声に肩を震わせ、明日香は振り返った。見れば、人の波が動き始めている。

──約束の日、という昔話があった。

 その日、『審判の扉』が開かれ、あらゆる生き物を新たな世界へ導く。

 壁の北西に四角く区切られた箇所があり、その形から扉と呼んでいるのか、扉としての機能があるために誰かが呼んだのか、少なくとも明日香たちから見てそれは扉には見えないが、昔話の中ではそう扱われている。

 昔話は彼らにここが閉じた世界であることを強く意識させ、多くの者が挑んでは敗れた。ところが三日前の朝、聞いたことのない音が響き渡ると、誰かが扉を臨んで言った──「扉が開いている」。

 国を挙げて先遣隊の募集が行われ、ここにいるのが晴れて受かった五十名である。

 先頭集団の見つめる先、山を映した壁が扉の形に剥がれていた。剥離した壁のあった部分は金属のような表面をし、隊長が「行くぞ」と声を上げる。それを後方で聞いていた明日香だが、その内に先頭で歓声が沸いた。

 途端、怒涛のように人が動くと巻き込まれた明日香の足は地を離れた。もがきながら出口を探している内に辺りは暗くなり、人の流れが鈍くなったところで脇へ逃げる。そして下ろした足は、土とは異なる感触を掴んだ。

 金属のようだが鉄ではない。銅でも鉛でもなく、姿を映すほど滑らかな表面の金属を明日香は見たことがない。屈んで触れると冷たく、手の熱を瞬時に吸い取っていく。

「ねえ、これ」

 顔を上げた明日香は周囲が静まり返っているのに気付いた。皆の表情が固まり、視線はある一点で結ばれている。

 そこにいた──もとい、浮かんでいたのは逆さになった三角の積み木だった。形はやや細長く、床に使われているのと同じような表面をし、床から少し浮かんだ状態で先頭の青年と対峙していた。

「初めまして」

 三角形から青年の声が響いた。どよめきなど気にも留めず、声は続ける。

「私はスイ。ようこそ、コロニー272へ」

 誰もがその言葉の意味を図りかねて戸惑っていると、不意に犬の声が響く。強張っていた彼らの体は緩み、視線はスイからタマへと移った。

 タマは尻尾を振ってスイの周りを駆け、身を低くして前足をかく。タマはしばらく周囲をうろうろしていたが、その内に何かに気付いたように鼻を上げた。そして一声鳴いて駆け出す。

「タマ!」

 明日香の声が響く。その響き方に皆はようやく周囲を見渡す余裕を得た。

 辺りは暗いが真の闇ではない。左右に伸びた巨大な空間は通路を思わせ、その通路を照らす巨大な光源が彼らの出てきた側にある。気づいた幾人かが光源である透明な壁に近づいて声を上げた。

「何だ、これ……」

 光源は長大な窓だった。草花の間を蝶が跳ね回り、彼方で鳥が群れを成して飛んでいる。西の湖面、東の耕作地、木々の間に見える孤児院、そして先頭が止まって足止めされている先遣隊の困惑した表情。

 窓の向こうに広がるのは彼らの世界だった。

「今から説明いたします。どうぞ、こちらへ」

 スイは音もなく進む。明日香は「待って」と声を上げた。

「タマを探しに行かないと」

「知っている匂いを見つけただけです。心配はいりません」

 困惑する明日香を置いてスイは先を行く。仲間が「後で探そう」と促し、明日香は後ろ髪を引かれながら従った。

 スイは「昔話です」と語り始める。

「気候と地殻の変動により地球は壊滅。更に子供が出来にくい、短命など種としての存続が不可能と判断した人は動植物の種と共に地球を離脱。過酷な環境にも適応出来る新人類を作る計画を実行しました」

 先遣隊にとって未知の言葉と世界の話が続く。ゆるやかな弧を描く通路は彼らの世界の外縁をなぞるような道だった。

「複数のコロニーを建造し、補助にアンドロイドを作成。育成用温室などコロニーの基盤ができ、新人類製造が始まった頃、当コロニーの人口は八人まで減少。全員が病に侵されていました」

 誰かが息を飲む。

「計画は変更し、アンドロイドが行う予定の温室整備を八人が従事。温室の運用は全員死亡一年後と決め封鎖。四年後に死亡確認し翌年、七人の新人類を温室へ。以降、定期的に彼らを送りつつ、室内の種が一定数を越えるまで再度封鎖。アンドロイドたちはその時まで町を守り、次の人類を作り続けていましたが、四か月前に超過を確認、三日前に停止しました」

 先遣隊は足を止めた。スイは、どこが正面かわからない体で言う。

「こちらです」

 外円側の壁にスイは取りつく。すると壁の一部が動き始め、隙間から光と風が溢れた。吸い込まれる風にたたらを踏みつつ手をかざしていると、次第に風は弱まり、目は白い闇を抜ける。

 その頃には鼻が慣れた匂いを風の中に見つけていた。

「……土の匂いだ」

 明日香の呟きに「本当だ」と声が上がり、固まっていた体が動き出す。

 伸びた雑草が柔らかく出迎え、足に力を込めると土が見える。左右に緩い曲線を描いて伸びた林の緑は濃く、白くなぞる陽射しは夏のそれだった。彼らの国では過ぎ去った季節がここにはまだある。

 青空に浮かぶ太陽を眩しく見上げていた明日香は、視線を転じて目を丸くする。

「……なんですか、これ」

 木立の切れた向こうに見慣れぬ物があった。

 形は家だが、彼らの知る家とは素材や造りが明らかに違う。様々な色の屋根や箱のような家、二階建ては勿論、四階建ての物もあった。その下に広がる地面は石のようにも見える別の物で、それが整然と歪みなく道としてあらゆる場所に繋がっている。

 到底、理解が及ばない。異質な風景の片隅で植物だけが彼らに寄り添った。

「ここは皆さんに渡すため作られたかつての生活圏を模した町、失われた日々です。我々の使命はこれを地球に取り戻すことです」

「待ってくれ、何の話か全くわからない」

「ご安心ください。アンドロイドたちが支援します。初期化していますが学習内容は残っています」

「……先生みたい」

 明日香がぽつりとつぶやくと、スイは肯定した。

「教師役を担っていたのは、教務アンドロイドです。彼らからのフィードバックのお陰で、全てのアンドロイドが十分な働きをお見せできます」

 沈黙が応える。困惑と混乱、中には怒りを滲ませてスイを睨みつける者もいる。

 隊長が尋ねた。

「一つ聞きたい。ここはどこだ?」

 スイはわずかに黙した後、「では」と答える。瞬間、熱気を残して辺りは暗くなり、空には彼らも見たことのないほど多くの星々が浮かび上がる。その背景は暗く、夜にしては闇が深すぎることに何人かが気付いた頃、誰かが声を上げた。

「月が青い」

 夜空に浮かぶ大きな光、彼らはそれを月だと知っていた。だが、その月は青と白の入り混じった複雑な色をし、彼らが知るよりも大きい。

「あれは地球、皆さんに取り戻してもらう日々です。そしてここは月。複数建設されたコロニーの中で十分な生育を見せた唯一の地です」

 茫漠とした闇が広がる。砂粒のような星が瞬き、その彼方で星の光さえ圧倒するような青い星が彼らを見下ろして、狭い世界の終わりを告げた。

「……改めてようこそ。そしてお帰りなさい」



 タマは走った。この暗闇に出た時、知っている匂いがした。かつて怪我をしたタマは、この闇と匂いを覚えていた。その匂いは孤児院の教師に似て、タマを優しくなでてくれた。後に明日香の膝の上で目覚めた時その匂いはなく、もう二度と会えないと思っていた。

 走る内に匂いは濃くなり、そして見つけたタマは叫んで駆け寄る。だが、途中で爪が滑って転び、そのまま滑り続けて寝転ぶ彼にぶつかった。

 それで起きると思っていたタマは、おや、と離れる。鼻で押してもびくともせず、鼻を鳴らして遊びに誘ったり、少し吠えてみたりもしたが何もない。

 だが、匂いは段々と強くなっていく。タマは辺りを見渡した。夜のように暗いから、まだ眠っているだけなのかもしれない。そう思うとタマも眠くなり、体を伸ばして大きな欠伸をし、固い腕の中へ体を潜り込ませた。ひんやりとして心地よく、タマは再び欠伸をすると夢へ走った。



 暗い管理通路にバセットハウンドの寝息が響く。いびきも交えた寝息は穏やかに静寂を乱していった。

 彼の寝息に合わせて腕が上下する──その指先が毛並みをすくった。

 そして、世界の始まる音が鳴る。



終り

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