はつこい
名南奈美
はつこい
僕の初恋は動画のなかの女の子だった。小学五年生のある夜、つけっぱなしにされていた親のパソコンで、こっそりと観た動画。一目見て、衝撃が走った。
学校では見たこともないような、可愛い女の子だった。
画面外から親らしき人に促され、その子が言った年齢は、僕と同じ十一歳だった。
動画を最後まで観終わった僕は、すっかり真っ赤になってしまった。ドキドキとしてやまなかった。
すぐにもう一度観たかったけれど、階下から親が上がってくる音が聞こえたから、咄嗟に動画を閉じて、触る前のデスクトップ画面に戻して、そそくさと自分の部屋に戻った。布団のなかに潜って、ずっとその女の子のことを考えていた。
あの子はいま、どこにいるんだろう? 同じ日本にいるなら、いつか出会えてしまうのだろうか? そしたら、そのとき、その子は僕と仲よくしてくれるだろうか? 僕が好きだと言ったら、喜んでくれるだろうか?
想いを馳せながら眠ると、夢のなかにその子が出てきた。
そしてこれはとても恥ずかしい話だけれど、目が覚めたとき、僕は精通していた。
初恋の女の子には出会えないまま、僕は中学生になって、中三の辺りでそんな巡り逢いは起こらないって悟って、高校生になる。入学式の春、まだ新しい制服に袖を通した僕を見て、母は涙を流した。
「母さん。どうしたの」
「ごめん、だって、ちゃんとここまで育てられたんだなって思って」母はティッシュで鼻をかみながら言う。「お父さんが、小学生のとき、あんなことになっちゃって。引っ越すことになって。もうどうしていいかわからなかった。でも、頑張って働いて、おじいちゃんおばあちゃんにも助けてもらって、……本当に、ここまでこれてよかった」
「……母さん。ありがとう、ここまで育ててくれて」僕は母を抱きしめる。「高校生活に慣れたら、僕もバイトをするからね」
「うん。ありがとう、慶次」
家――二〇二号室を出て階段を降りる。アパートの名前が書いてあるプレートの前で、声をかけられる。
「慶次くん」
「あ、設楽さん」
設楽かならさん。
駅前で働いている女性で、二〇一号室に住むお隣さんだ。
「もう時間ない?」
「いえ、まだ急がなくてもいいです」
「そっか。じゃあ、これ」設楽さんは僕に、可愛らしい包みをくれた。クッキーのようだった。「入学祝い。高校、頑張ってね」
「わ。ありがとう、設楽さん。というか、いつもありがとうございます」
設楽さんには、僕達がこのアパートに越してきたときから、色々とお世話になっている――そういえば、中学に上がったときもお菓子をくれたっけ。僕が中学一年生のとき、帰りが遅い母のために夕食を用意できるようになりたいから少し教えてほしい、なんて願いを叶えてくれたこともあった。僕も母も設楽さんには伝えきれないほど感謝している。
「わたしこそ、慶次くんのお陰でずっと楽しいし。前にいつか食べてみたいって言ってた、ロシアンクッキーもあるよ」
「あ、本当だ。なんだかリクエストしたみたいですみません」
「ちょっと前、変なことに巻き込んじゃったでしょ。そのお詫びもしなきゃって思ったんだよ」
そう言われて思い出すのは、設楽さんの元彼の顔。
別れを切り出した元彼が夜中に、設楽さんの二〇一号室に押し入ろうとしたのだ。夜更かしをしていた僕は異変に気がついて、設楽さんを助けるために元彼を取り押さえようとして、逆に組み敷かれてしまった。彼氏だった時期のその人は柔和そうな雰囲気の大人だったのに、その夜は別人のようというか、犯罪者のようで恐ろしかった。
僕が馬乗りの状態で色んなことを――要約すれば「怪我したくなけりゃすっこんでろ」と――言われている間に、起きてきた母が警察に通報をした。そしてその旨を母が元彼に告げると、諦めたように帰っていった。それから警察がやってきて、三人で事情を説明した。
その元彼は結局、リベンジしようとしたところを巡回にきてくれた警察に抑えられた。それから一か月が経ったけれど、いまのところ何もなくて一安心だ。
「本当にあのときはごめんなさい。怪我がなくてよかった」
「いいんですって、設楽さん。気にしてないですし……それに、それで美味しいクッキーがもらえるなら、もうすげえ幸せですよ」
「……慶次くんは優しいね、きっと高校でモテちゃうよ」
「え。やったあ」
「あっはっは、正直だね! 彼女できたら紹介してね。ってこれは違うか」
「いえいえ。そのときが楽しみです」
その辺りで会話を打ち切って、僕は駅へのバスに乗る。駅に着いたら電車で恋川駅に行くとして……うん、十分間に合う時間だ。座席で揺られながら、彼女か、と僕は思う。
僕はまだ初恋の女の子が好きだ。諦めるってことは、好きじゃなくなるってことではない。
僕は高校で初恋を越えた衝撃を受けることができるだろうか? あの夜の興奮なんて、どうでもよくなるくらいの魅力に出会えるだろうか?
出会えるといいな、と思う。諦めた恋を引きずるなんて、そんな動機も利益もないことをいつまでもやるべきじゃない。
出会う。入学式が始まる前、生徒達がまばらに座り始めたとき。
教室の一番後ろ、窓際の席に和坂合符という女の子が座っていて、僕はその子に一目惚れをする。僕はちょうど隣の席だったから、目が合って、話しかけられる。
僕は初めて、母の名字になってよかった、と思った。
「前田慶次ってすごいねえ、狙ったみたいに」と和坂さんは微笑みかけてくれる。「よろしくね」
「よ、よろしくね。えっと、和坂さん」つい緊張してしまいながら、僕はまだ包みを開けていないことに気がついた。「あの。クッキー好き?」
「え、好きだよ」
「あるんだけど、クッキー。食べる?」僕はクッキーの包みをバッグから取り出して見せる。
「……作ったの? 前田くんが」
「いや、お隣さんが。アパートに住んでいて、お隣に住んでいる人からもらったんだよ。たまに作ってくれるんだけど、美味しいし、すごくいい人だから、毒はないよ」
「毒って。ふふ、じゃあ少しいただこうかなー」
「僕も食べたいから一緒に食べよう」
「そっか。じゃあ机くっつけよ」
え。
戸惑う僕を逆に不思議そうな目で見つめながら、和坂さんは自分の机をこちらにくっつけてくる。可愛い顔が近づく。僕、臭かったりしないよね?
机と机の境界線にクッキーの包みを開けて、一枚ずつつまんでいく。僕はロシアンクッキーを最初に食べる。ここで食べ逃したら、あとで感想を訊かれたときに困りそうだったから。でも、初対面で好きになっちゃった女の子とこの距離で、食べたものの味をきちんと覚えておくのも一苦労だった。
和坂合符。
ワサカアイフ。
それから入学式の間、僕は何度もその美しい響きを反芻した。傍でそれとなく目に焼きつけた顔を、髪を、声を、手を、思い出した。
仲よくなれたらいい。恋人同士になれたらいい。もしも恋人同士になったら、という妄想に耽って――和坂さんのことなんてまだよく知らないのに――肩を叩かれる感覚で目を覚ます。目を開けると和坂さんが目の前にいた。周りには他に誰もいなかった。
どうやら、僕達のクラスが体育館から出て行ったことに、気づけなかったようだ。
「前田くん不思議な子だね」と和坂さんは笑う。一緒に教室まで歩く。「考えごとでもしてたの?」
「あ……うん」
「へえ。どんなこと?」
まさか和坂さんとの新婚生活まで考えていましたとは言えない。
「世界平和」
「ふ。世界平和って何よ、ふふふ」
「えーっと、戦争が起きない世界かなあ」世界平和ってなんだろう? って哲学的な問いをしたい人はこの場にいないので、無難なところを言う。
「そうだね。戦争も、犯罪も、起きないといい」
そう言う和坂さんは、少しだけ真剣なテンションだった気がした。
あ、和坂さんは真面目に世界が平和だといいと思っているのだ、と僕は思った。いや、僕だって世界は平和なほうがいいけれど、空気を無視して真面目なテンションで願えるほど真面目じゃあない。真面目に何かを祈るとき、そこには確固とした理由ものがあるものだから、和坂さんにどこかで何かがあったのだろうか? 訊いてみたいけれど、話題が話題だから、もう少し仲よくなってからゆっくり訊いたほうがいいかな、と思ってやめた。
和坂さんとすっかり友達になる。連絡先を交換してやりとりをしたり、教室で一緒におやつを食べたりする。和坂さんからおやつを持ってくることもある。市販品で、父がいた頃は食べていたものばかりで美味しさや交流の楽しさとはまた別の嬉しさが込み上げてくる……!
というのが伝わっているみたいで、「前田くん美味しそうに食べるから持ち込み甲斐があるわー」と和坂さんは笑う。
和坂さんの他にも僕に友達ができたり、僕の他にも和坂さんに友達ができたりする。ふたつのグループにわかれちゃうかと思ったら合体して、男子三人と女子三人のグループになる。男子だけで遊びに行ったり女子だけで遊びに行ったりもする。
初夏、放課後に男子三人でカラオケをしているとき、そのひとりの羽佐間健太が僕に言う。
「慶次さ」
「何」
「どんな女子がタイプよ」
「それ俺も気になるわ」もうひとり、麻田倫も言う。「てかお前らの性癖知りたい」
「性癖って」それ誤用じゃなかったっけ?「訊くならそっちから教えてよー」
「ふっふっふ、俺はトリを飾ろう」と倫。「健太、どうよ」
「どうよって……まあ、束縛がキツくないなら他はだいたい許せるかな。あ、整形は無理かも」
僕は少し驚く。整形が許容できないタイプであることもそうだけれど、好きなタイプとかって、こういう面がなければいい、なんて消去法みたいな感じで言うものなの?
「えー。つまんないな、なんかねえの? 見た目の好みとか、どういうのに興奮するとかさあ」
「なんだろ。強いて言えば」
「強いて言えば?」
「パンツはピンクに限る」
と、『さんまは目黒に限る』みたいな感じで健太が言うので、僕と倫は噴き出す。昨日の国語の授業で先生が言っていたのと同じイントネーションだったから、確信犯だ……。ってこれも誤用だっけ?
「パンツ色指定やべえ。パンツは全部エロいだろ」
「いや、それでも優劣はあるでしょ?」
「ないない。パンツはスカートの下に平等」
「それスカートが一番上位なことにならない?」
「その通り!」と倫は叫ぶ。「パンツはスカートの向こうにあるからこそ光輝くのだ」
「光輝くパンツすごいな。ゲーミングパンツか? ライブ会場で振り回せば盛り上がりそうだ。ちなみに俺、ズボン派だからいまいちわかんない」
「健太はわかってない。何もわかってない。なあ慶次? お前ならわかるだろ?」
急に振られてどうしたものか。スカート派に合わせておいたほうが面倒臭くないかな、と思っていたら健太が、
「何を言ってるんだよ。慶次はズボン派だろ? 鉄壁に見せかけて腰のあたりにピンクのパンツがチラるのが一番いいに決まっているじゃないか。なあ?」
とか言ってきて既に面倒なので、もう正直に言う。叫ぶ。
「全裸が一番エロい!」
「……うわエロ。慶次エロボーイじゃん」
「慶次ないわ~怖い怖い」
ないわ~度は全員同じレベルだろうが!
と腹が立ったのでカラオケで『うっせぇわ』を入れる。最終的に『うっせぇわ』点数バトルが始まる。
楽しいっちゃ楽しい。
解散時間の午後六時半が来る。倫が先に帰って、僕と健太のふたりで電車を待っていると、健太が言う。
「そういえば、慶次の好きなタイプって結局何なん?」
「え?」
「全裸の女子がタイプってわけじゃないんだろ?」
「うぅん……」
僕は考える。そもそも好きなタイプを言えるほど恋をしてきたわけじゃないというか。初恋も、和坂さんも、一目惚れなのだ。どうして一目惚れをしたのか、が大事なんだろうか。初恋のほうはさておき……僕は和坂さんのどこにビビッときたんだろう?
というところまで考えて、気づく。
和坂さんは初恋の女の子に少し似ているのだ。
一度しか観ることができなかった動画だから、本当に似ているのかわからないけれど、よく考えてみると、そう遠くない顔をしていたような気がする……じゃあ、もしかして?
「どうした?」
「いや……小学生のときから好きな女の子がいて。もう諦めてるんだけど、似たような顔の女の子を目で追うことがあるから、そういうことかも」
「あー、好きな顔が決まっちゃう出会いってあるよな」それから健太は、そういえば、と少しにやつく。「慶次の家の隣に、社会人のお姉さん住んでるってマジ?」
設楽さんのことだ。
「あ、うん。誰から聞いたん」
「花谷」
花谷朝。女子三人のうちひとりで、和坂さんと仲のいい子だ。つまり和坂さんが話したことが巡ってきたんだろう。僕の知らないところで和坂さんが僕について話しているということ。どんな顔で僕の名前を口にしていたんだろう?
「そのお姉さんとはどうなんだよ」
「別に、なんか何年もお世話になってるから、家族みたいなもんだよ。僕が中学生のときは彼氏いたし」
「いまはフリーなわけ」
「うん。でもすぐできるんじゃない? また仲よくしてる人がいるみたいだから」
「へえ? 男好きなのかな」
「どうなんだろう? でも、たぶん健太には合わないんじゃないかなあ」
どうしてか、は設楽さんの個人情報だから伝えないけれど。
健太と別れてアパートに帰る。家に入ろうとして、僕は立ち止まる。設楽さんの二〇一号室から、何やら争うような声が聞こえる。悲鳴が上がったときに備えて待機してると、知らない男の人が出てきた。ひどく不機嫌そうに見えた。その姿が遠くに行ったのを確認してから、僕は二〇一号室に向けて声をかけた。
「設楽さん」
返事はない。
「設楽さん? 怪我とかありませんか。何か持っていきましょうか」
返事がない。
何があった?
僕は、「ごめんなさい、入りますよ」とことわって、靴を脱いで入った。そしてすぐ、背筋が凍った。
設楽さんは、ベッドに仰向けになっていた。服がはだけて、いくらか肌が見えていた。外傷はなかったし、僕を見て目を細めたから、殺人事件ではなかったけれど――事件性のある絵面だった。
「設楽さん」
「違うよ、慶次くん」設楽さんはダルそうに言う。「レイプじゃない。何もさせてない」
「でも、設楽さん。なんだか、すごく辛そうです」
「そっか。うん。すごく辛いよ。なんでこうなっちゃうんだろうね」
何があったんですか。
訊いたほうがいいのかどうか、逡巡してしまう――デリケートな生傷を目の当たりにしている気がしてならない。
「慶次くん。……これから予定ある?」
「え」宿題のプリントのことを思い出したけれど、でもそれはどうでもいいな、と忘れる。「大丈夫です」
「そう。じゃあ、十分くらいおうちで待ってて。それから、また来てね」
言われるがまま、僕は二〇二号室に入る。学習鞄を置いて、制服から着替える。友達や和坂さんからメッセージが来ていたけれど、それは緊急を要するものではないし、そんなにすぐに気持ちを切り替えることができないから、未読のまま放っておくことにした。水を飲んで、トイレを済ませて、頃合いを見て二〇一号室をノックする。
いつも通りの格好の設楽さんが出てくる。それでもいつもより、疲弊気味だ。
入ると、すでにふたりぶんの紅茶が用意されていた。乾杯をして、それから設楽さんは本題に入る。
「ねえ、慶次くん。好きな人、いる?」
「え?」
「彼女にしたいって意味ね」
「い……います」和坂さん。
「そっか。身体に触りたいって思う?」
「えっ……と」手を握りたいって意味じゃないんだよね? 恥ずかしいけれど、設楽さんが真剣に訊いているのは理解できるので、正直になっておく。「はい、ええ、まあ」
「そう。じゃあ、慶次くんに約束してほしいことがあるの」
「なんですか?」
「その子と付き合うことになって。それで、身体を触ってほしくないって言っていても――怒らないでね。嫌いになったり、無理矢理しようとしたりしないで。そういう子もいるんだな、って、尊重してあげて」
「あ、はい。約束します。というか、そういうの、学校でデートDVがどうこうって冊子に書いてありました」
「そっか。わたしのときも、そういうのあったのになあ」
「……設楽さん、優しい人に出会えることを祈っています」
「ありがとう。でもね、ずっと優しい人なんて、きっといないって気づいた」設楽さんは紅茶を飲み干す。「人間って多面体だし、性格なんて余裕の量が決めるものだから」
僕は思い出す。春休みに僕を組み敷いた、穏やかだったはずの元彼。
「ねえ、慶次くん」設楽さんが言う。「お母さん、まだ帰ってないよね」
「ああ、遅くなるって言ってました」
「晩ごはん、どうするの?」
「適当に作ってって言われてます」
「じゃあ一緒にカレーを作らない? お肉、解凍してあるから」
カレーはとても美味しかった。でも、僕が眠る前に思い出すのは、色んなものを切って煮てかき混ぜている設楽さんの、どこかに吸い込まれてしまいそうな、ぼんやりとした黒い瞳のことだった。もしかしたら設楽さんは、食材を自分の抱えるストレスに見立てていたのかもしれない。あるいは単純作業に没頭することで楽になろうとしていたのかもしれない。
どちらにせよ、と僕は思う。どちらにせよ、僕は設楽さんと約束した倫理を守らないといけない。僕は約束を破ることで設楽さんを傷つけたくないし、設楽さんを傷つけない形になったとしても、設楽さんを傷つける人と同じことは絶対にしたくない。
次の日から設楽さんは、またいつも通りだった。
でも、
「もう、男性と新しく仲よくするのは避けようと思う」
と設楽さんは言った。僕は「そうしたほうがいいと思います」と肯定しながら、じゃあ設楽さんと仲のいい男性は僕だけになるのかな、なんてことを思った。
だからどうしたってことは、ないのだけれど。
夏休み前のテストが終わる。四人とも部活のミーティングがあるとのことで、僕は和坂さんと一緒に帰る。昨夜に雨が降ったからか世界が蒸していて、全身がじっとりと不快だった。
「ねえ、慶次くん」和坂さんが言う。テスト前くらいから和坂さんは僕のことを名前で呼んでくれている。僕はまだ勇気が出ていない。「夏休み、どう過ごす?」
「バイトを始めるよ。家にお金を入れたくて」
「あ、一緒だ。家にお金入れろーって言われてるから。終業式が終わったら面接する」
「そっか」
「みんな夏休みは結構部活ありそうらしいから、予定を合わせるの難しそうかなあ」
「そうだね。……遊べないのは寂しいね」
「うん。恋川駅の公園でお祭りやるらしいから、みんなで行けたらよかったんだけど。ひとりで行っても、ねえ」
お祭り。
僕は、それはもったいない、と思った。夕方、和坂さんと屋台を回れたらとても幸せだろう。行けないとなると残念だ――いや。
別に、行けないわけじゃない。僕も和坂さんも面接はまだなのだから、むしろいまのうちに言わないと、予定として空けておいてもらうことが難しくなるかもしれない。
そうだ、いまだ。いま、ここだ。
「そ、そうなんだ。いつ頃?」
「八月の……何日だっけ、最初の土日のはず」
「わ、和坂さん」頑張れ僕。「行こうよ、お祭り」
「え?」
「バイト、まだ決まってないから。日程つけられるから」
「ああ、そっか。いいよ」と和坂さんは得心したように頷き、スマホを取り出す。「そうだ、朝ちゃんとか文化部だし、いまなら予定として言いやすいかも。連絡してみるね」
「ま、待って。そうじゃ、なくて!」と僕は言って、それから、しまった、と背筋が冷えた。こんなに必死になったら不審じゃないか? このままだと……でもここで引っ込んでもそれはそれで妙だ。観念して言葉を続ける。「和坂さんと、一緒に行きたくて」
「え? うん、でも人が多いほうが楽しいでしょ?」
「……ふたり、で、行きたいんだけど」
「ふぅん? ……なんで?」
なんで、って。
天然で言っているのか、どういうつもりか理解した上で言っているのかどっちだろう?
……どっちでも、ここまできたら、正直に言うしかないか。周りに誰も歩いていないことを確認してから言う。思い切って。
「僕、和坂さんと付き合いたいなって思ってるんよ」
「……へえ? 本当?」
「うん」と頷きながら、やばいやばい言っちゃったよ、という気持ちでいっぱいになる。通学路の帰り道で、ムードも何もない住宅街で、訊かれたから言うみたいな感じで、人生初めての告白。ふたりとも汗だくで、蝉も車もうるさくて、生暖かい風が肌を撫でる七月のアスファルトの上で、喉が渇いていて、駅までもう少し歩かないといけなくて。本当にいま、ここだったか? 失敗した気がするけれどそれでも続ける。「だから、和坂さんとふたりで、お祭りに行けたら最高なんだよ」
「そっか。いいよ」
「え」
「いいよ。お祭り、一緒に行こうか、慶次くん」
「和坂さん、ええ、じゃあ、付き合ってくれるの? ……和坂さん、僕のこと、……好き?」
「ごめんねー、男の子として好きかは、まだわかんない」と和坂さんは困ったように笑う。「だけど、いい子だと思うし、面白いし、ふたりでいるの嫌じゃないし、付き合ってもいいかなって。彼氏とか作ってみたかったし。……ごめんね、そんな感じでもいい?」
「いいよ」とにかく和坂さんは僕の気持ちを受け入れてくれたのだ。それが事実なら、あとは僕が男子として自分を磨けばいい話だろう。「よろしくお願いします、えっと……」
「…………」
「合符、さん」
「ふ。こちらこそよろしくね、慶次くん」
ちょっと面白がられている気がするけれど、好きな子に面白がられるというのは、悪い気分じゃない。
「彼女ができました。同級生の子です」
と設楽さんに報告すると、自分のことのように喜んでくれた。今度紹介してね、と言われたから、夏休み明けくらいに、と返した。その頃には合符さんがきちんと僕を好きでいてくれることを願いながら。
そして僕と合符さんはお祭りには行かなかった。土曜を空けて楽しみにしていたのだが、当日、ざーっと雨が降ってしまい中止になったからだ。僕は日曜にシフトを入れてしまっていたから、今年はもう行けないということになる。これが初デートとなるはずだったから、どうにも切ない……と思っていた僕に、電話越しの合符さんは言う。
「慶次くんのおうちって最寄り駅が子芥だっけ」
「うん」
「こっち橋端駅なんだけどさ」
「そうだよね。知ってる」
「うちに遊びにこない?」
「え?」
「今日、親が帰り遅いから暇でさ。予定があったのになくなると普通の暇より暇だし。お茶とかアイスとか出すから遊ぼうよ」
「う、うん。……いまから準備するから待ってて」
「はーい。濡れないよう気をつけてきてね」
僕がマンション一〇二号室の和坂家の前に着いたとき、合符さんは夏らしいラフな私服で出迎えてくれた。電車を待つ間に駅の売店で買っておいたお菓子を渡すと、楽しそうに受け取ってくれた。それからリビングらしき部屋に通してもらった。
待ってて、と言われた通りに待っていると、先ほどのお菓子とチョコレート菓子が一緒に盛られた器と、ふたりぶんの麦茶が出てきた。そういえば合符さんはファミレスで働くことにしたんだっけ、と連想する。
「ありがとう」
「アイスあるって言ってたけど、朝、お母さんが食べちゃったみたいで。ごめんね」
「ううん、大丈夫。チョコ美味しそう。これは学校に持ってきたことないよね?」
「まあねえ。チョコって基本、色々と終わったあとに、癒しで食べたいから。学校のお昼休みじゃあ中途半端だよー」
「いまは終わったあとなの?」
「うん。朝に色々と忙しかったから」
器に盛られたものを食べながら、付き合う前と変わらない、他愛ない話をする。
付き合うことになってから、メッセージや電話でときどき話していたけれど、以前と全然変わらない話題ばかりだった。恋人らしい会話というのは、していないと言い切れる。
……でも、恋人らしい会話ってなんだろう? というか僕達は何が変わったんだろうか? 僕からの合符さんへの好意を隠さなくてもよくなったのはたしかだけれど、僕が合符さんをどれだけ好きか、みたいな話題が自然に出ることなんてない。
「ねえ慶次くん」と合符さん。「いま、何か別のこと考えながら喋ってたでしょ?」
「え。わかる?」
「ふふ、わかりやすいよ。隠さないで言って」
「いやあ、なんというかさ、恋人らしい会話ってなんだろう? って」
「恋人らしい? 式の日取りはいつにしようとか?」
「それは婚約者らしい会話では?」
「ただ意味が通じるだけじゃなくて原文のニュアンスや文脈、意義を汲むことが大事だよね」
「それは翻訳者らしい会話でしょ」
「この前のコンクールのとき指揮棒を家に忘れちゃったけど、リコーダーで代用したら誰にもバレなかったんだ」
「まさかコンダクターらしい会話なの? それでバレてなかったら誰も指揮者を見ていないでしょうが!」
せめて掃除棒のほうにしろよ!
突っ込んでたら合符さんは楽しげに笑っていて、うぅんめちゃくちゃ可愛いな……と思うけれど、結果としては冗談で躱されてしまっただけなのだ。
少なくとも合符さんはそういうノリのままでいたいのかもしれない。
と結論づけてみたところで合符さんは「恋人らしさ、ねえ。そうねえ」と何か考え始める。
「やっぱり、友達くらいの距離感だとやらないようなことをしたら、恋人らしくなるかなあ」
「……えっと、合符さん? 別に無理して恋人らしくしなくたっていいよ、合符さんがしたくないことならやらなくていいよ。気にしなくていい」
「そっちこそ気にしないで。はっきりしない感じで付き合っちゃってるけど、慶次くんが恋人同士でやりたいことがあるなら、ある程度、受け入れていいと思ってるし。じゃなきゃOKしてないよー」
「合符さん……」
「そうだ、アルバムでも見る?」
アルバム?
果たして、それは生まれてからいまに至るまでのアルバムだった。リビングの共有スペースらしき棚に挿されていた、ハードカバーのノート。取り出してみると、表紙には、『次女・合符 アルバム』とあった。
「次女?」
「言ってなかったっけ? お姉ちゃんいるんだよ」
「ああ、言ってたね。みんなでテスト勉強をしているときに。このアルバムには合符さんの写真だけがあるってこと?」
「集合写真とかもあるよ。お姉ちゃんと写ってるのは二枚焼いてそれぞれのアルバムに貼ってる」
棚を見ると、同じようなハードカバーが挿されていた。表紙は見えないが、きっと合符さんのお姉さんのアルバムなのだろう。
「どのあたりまで貼ってあるの?」
「中学卒業くらいまでかな。でもお姉ちゃんが出てってからはだいぶ減ったかも。どこから見る?」
「とりあえず、最初から」
というわけで一ページ目。むちむちの赤ちゃん。流石にこれは名前が書いてないとよくわからない。
「合符って名前、お母さんがつけたんだよ」
二ページ目。初めてのはいはいとか、初めての離乳食とか。それから、合符さんのお母さんらしき女性が合符さんを抱きかかえている写真。幸せそうに笑っている。合符さんにとても似ていた。
ページ全体を眺めていると、ふと、違和感を抱く。その正体にはすぐ気づく。
「……ね、ここ、写真を貼り間違えたの?」
紙面にそのような痕跡がいくつか見つかったので僕が訊くと、
「お母さんが剥がしたんじゃない?」
と合符さんは少しだけ低いテンションで答えた。
三ページ目。
三歳の合符さんと、一緒に写っている女の子を見て。
僕は心臓が冷たくなるような感覚に襲われた。
冷や汗がだらだらと滲み、叫び出しそうになるのを抑えるので精一杯になる。目を擦ってもう一度見ても、それが見間違いじゃないことが確実になるだけだった。
「慶次くん? ……どうしたの?」
「……この人、お姉さん?」
「え。ああ、うん! 三歳の頃だから、お姉ちゃんは十一歳くらいかな」
「そっか」
「うん。どうしたの?」
「ごめん、ちょっとお腹が痛いから、トイレ借りてもいいかな」
「ああ、大変だね。いっといれ」
冗談めかしながらも少し心配そうな合符さんの顔に心が痛みながら、僕はトイレに入る。便座に腰を下ろし、深くため息をつく。
十一歳。
小学五年生。
そうだ、考えてみれば――動画のなかで何歳と言っていたところで、その動画が過去のものであれば、現在の年齢なんて判断できるはずがない。
合符さんのお姉さんが、初恋の人だったって――なんらおかしくないのだ。
それに、僕自身、感じていたじゃないか。合符さんが、初恋の女の子に、少し似ているって。血のつながった妹なのだから、そりゃあそうだろうという話だ。あまり遠くないだろう、くらいだったのは、父親と母親どちらに寄ったかの違いだろうか。
合符さんに訊けば、お姉さんが現在どこにいるか判るだろうか?
という考えがよぎる。振り払う。それじゃあまるで、現在の彼女を利用して初恋の女の子と出会おうとしているみたいじゃないか。それに出会ったところで何を言うのだ。昔、動画で観て好きになりましたって? 気持ち悪いと思われるに決まっている。そうだ、僕には話しかける資格なんかないのだ。
深呼吸して、落ち着きを取り戻す。何も出していないけれど、怪しまれないように流してからトイレを出る。手を洗ってリビングに戻る。
「お待たせ」
「あ、おかえり。いま、ちょっと先の写真を見てたんだ」
「へえ」
「これは十歳ぐらいかな。お姉ちゃんが十八歳で、高校を卒業して家を出る直前。寂しかったからツーショットを撮ってもらったんだ」
「え」
合符さんの隣にいたのは設楽さんだった。
「あ、わかっちゃった? お姉ちゃん、高校生くらいのとき整形したんだよ」
「いや……そっか」それは知っていた。設楽さん自身が前に言っていた。「まあ、そういうこともあるよね」
「というか、まあ、させられたんだけどね?」と合符さん。「お母さんが、お姉ちゃんにバイトさせて、そのお金で整形させたの。そんなことがあったからかな、お姉ちゃんは出て行ってから、和坂家に連絡を取ってくれなくなっちゃった」
「そう、なんだ」
「……何かわからないことがあるなら訊いていいよ」合符さんは僕の瞳を覗き込む。「色んなこと、打ち明けていいよ。恋人らしいでしょ、そういうの」
慶次くんはいい子だから、触れ回ったりしないだろうし。
「合符さん。の、お父さんは、どうしてるの。さっきから、アルバムのどこにもいないけれど」
「捕まって、離婚して、それっきり知らない」
「そっか。はは」僕は笑うしかなかった。「僕のお父さんも同じだよ」
僕はそれからすぐに適当な理由をつけて自分の家に帰った。
アパートの前で設楽さんに出会った。
「慶次くん。おかえり」
「設楽さん、ただい……」反射的に返そうとして踏みとどまる。
僕は設楽さんと話す資格なんてない。
「慶次くん?」
「……ごめんなさい」
僕はそれだけ言ってアパートの階段を駆け上がり、二〇二号室に逃げ込んだ。玄関の廊下に倒れ込む。少しして、設楽さんが二〇一号室に入る音が聞こえた。僕はため息もつけないほど苦しかった。
でもそんなの、設楽さんの苦しみに比べたら屁でもないだろう。
「僕は最悪だ」
何が最悪って、これまでそれをあまり最悪だと思っていなかったことが最悪だ。
ずっと優しくしてくれた、ずっと仲のよかった、ひとりの女性に――深い傷をつけた人間と同類だった。その事実に僕は耐えられない。駅のトイレで吐いてきたのに、まだずっと気持ち悪い。
僕なんて死ねばいいのだ。
「慶次くん」
玄関の向こうで、設楽さんが呼んでいた。
居留守は使えないだろう。それでも無視をすれば、諦めてくれるだろうか?
「大丈夫? 顔色がすごく悪かった」
設楽さんは、あの数秒で、僕のことをそこまで気にかけてくれた。なのに僕は。
「ねえ、何かあったんだよね? 体調が悪いだけじゃ、慶次くんあんなふうにならないものね。何か辛いことがあるなら、……落ち着いてからでいいけど、吐き出してくれていいからね」
そうだ、と僕は思う。せめて、懺悔しよう。それで、決裂しよう。もう、こんな僕のことを構わないで済むように。こんな僕のことなんて無視してくれるように。ひどく自分勝手かもしれない。でも、きっとちゃんと言わないと、設楽さんはずっと僕を心配するのだし、僕はずっとその心配を躱さないといけない。そんなの、どうせそのうち折れてしまうから。ならば。
「設楽さん」
ゆっくりと立ち上がり、玄関のドアを少し開ける。
「……慶次くん」
少しほっとしたような表情の設楽さんに、僕はこれから何を言うんだろう?
「設楽さん。好きです」
「……え?」
「設楽さんは僕の初恋の人なんです」
「え、……え? 急に? 待って、なんで?」慌てふためく設楽さん。「いつから?」
「僕が小学五年生のときに」心臓のアラート。そこから先は言っちゃいけない。わかってる。「あなたを見ました。動画で」
「ど……どうが」
「小学五年生の頃のあなたが、全裸で、色んなことをさせられている動画。それを観て、僕は恋に落ちました」
二〇二号室に戻る僕を、設楽さんは止めなかった。フリーズしているのだろうか、少しの間なんの音もなく、やがて二〇一号室のドアが開いて閉まる音が聞こえた。
僕は布団をかぶって、眠ろうとした。どうにも眠れなかった。
あんなこと、言わなくてよかったんじゃないか。やっぱり僕は後ろめたさを抱えながら設楽さんから距離を空けて、フェードアウトを図るべきだったんじゃないか。設楽さんだって、隣に住んでいるのがそんな男だなんて知りたくなかっただろう。十三年前に撮影された自分の動画が、五年前にも出回っていたなんて知りたくなかっただろう。そもそも、そんな話を突きつけられたくもなかったに決まっている。
そうだ。こんなの、僕が早くすっきりしたいだけじゃないか。
設楽さんも合符さんも僕をいい子だと言ってくれた。でも、実際はそんなものじゃあない。僕はただひたすら、自分が可愛いだけなんだ。僕が設楽さんに、設楽さんを傷つけた父親と同じような目を向けていた。その事実が重かっただけだ。その重みから、自白という自傷で楽になりたかっただけだ。大好きな自分の品位が台無しになった気がして、嫌になっただけなんじゃないか。品位なんて、動画の女の子が設楽さんじゃなかったとしても変わらず最悪なのに。
最低だ。最悪だ。害悪な失敗作だ。僕なんて。
そうだ。僕なんて愚かものは合符さんと別れないといけない。素敵な合符さんにふさわしくない。それに彼女も父親の被害者だろう。身内が逮捕される、ということの精神的な影響は僕だって知っている。だから合符さんから身を引くべきだ。何が男を磨くだ。僕なんて磨きようもないヘドロだろうが。
メッセージを送ろうとして、やめる。
これだって、僕が楽になりたいだけだ。
死にたい。死のう。でもそれも逃げだ。何も知らない母と合符さんに心の傷を遺して自分だけ楽になろうとしている。
僕はどうすればいいんだろう? わからない。僕は愚かさが招いた事態をどうすればいいかもわからないほど愚かだ。
母が帰ってくる。晩ごはんを断ろうとして、やはりいただく。僕は僕自身を追い詰めようとする僕を許さない。いつも通りをするのが、きっと一番、誰にも迷惑をかけない。
食後、入浴をして眠る前に、母が言う。
「慶次。どうしたの? 今日」
「どうもしないよ?」
「泣きそうな顔をしてる」
「……大丈夫だから。おやすみ」
「あっ」
僕は目を瞑る。明日は働かないといけない。
翌日も雨だった。バイトの休憩時間中、スマホにメッセージが届く。母からだ。忘れものはしていないから、やはり心配されているのかなと申し訳ない気持ちになりながら通知を開く。
僕は目を剥く。
「前田くん? どうしたの」
隣で休憩をとっていた先輩に訊かれる。ネットで欲しかったものが売り切れちゃって、と誤魔化す。
休憩が明けてまた頑張るけれど、メッセージの内容が脳裏に渦巻いていて、ときどきぼんやりとしてしまった。迷惑をかけてしまうことが悲しい。
バイトが終わる。十七時。あまり待たせてはいけないから、バスに乗って帰ることにする。降りやまない雨がバスの窓を濡らしていく。
僕の住むアパートの近くに公園がある。見つけにくいところなうえに今日は雨が降っているから、ベンチに十分な雨除けの屋根があってもあまり人が立ち寄らない。
そのベンチに設楽さんが座っていて、僕を見るや否や、手を振ってくれた。
公園の入口で立ち止まり、僕は息を整える。鼓動を抑える。
『設楽ちゃんが慶次と話したいことがあるんだって。よくわからないけど。バイト終わったら近所の公園に行ってあげて。』
そんなメッセージを思い出す。きっと設楽さんは僕のしたことを母に告げていない。僕と設楽さんの間だけで終わらせたいのだ。何を?
僕は設楽さんから少し離れた距離に座る。それでも同じベンチだけれど、これより近くになんて、もう行けない。
「バイトおつかれ」
「……はい」
「単刀直入に訊くね」設楽さんは僕と目を合わせる。虎ばさみのように、逃げられなくなる。「どこで、それがわたしって知ったの?」
「設楽さんの小さい頃の写真を見たんです。見せてもらったんです」
「誰に」
「和坂合符さんに。……お付き合いをしていて」
「合符か。懐かしいなあ」場違いに微笑む設楽さん。「元気そうだった?」
「はい」
「そっか。あの子はお母さん寄りだからね。わたしはお父さん寄りの顔だったから、散々だったけど」
僕は何も返せない。『お母さんが、お姉ちゃんにバイトさせて、そのお金で整形させたの』と合符さんは言っていた。その理由そのものだったんだろう。そうですか、なんて、軽々しく言えない。
「わたしね。昨日、ショックだったよ。すごく」と設楽さん。「混乱も、すごくした。全然関係ないところまで来れたと思ってたから」
「ごめんなさい」
「何に対してのごめんなさい?」
「……僕が、自分が楽になるためだけに、設楽さんの傷を抉るようなことをして」
「そっか。……そうだね。傷だよ」設楽さんは目を細める。「小学生のときは、何がどうして、裸でカメラの前で色々とさせられてるのかわからなかった。痛いこともされてなかったからね。すごく変だなって思うくらいだった。お父さんが急にいなくなっちゃって、お母さんの様子がおかしくなったときから、悪いことが起こってるのかなって思った。傷つけられたって理解したのは、中学生ぐらいかな」
「二年越しに……」
「うん。時限爆弾みたいだよね。……カウンセリングとかも受けたけど、性的なことを受け入れられないの、治らなかったな」
「名字が和坂じゃないのは……その影響ですか?」
「いやあ、和坂ってお母さんの名字だし。色んな意味でお父さんに怒りまくったお母さんに、お父さんに似てるって理由で整形させられて。色んなとこいじるお金を稼いで手術していかないといけないせいで高校生活が潰れて、進学も就職もできなくて。離れても和坂って名字がついて回るのが嫌だから、独立してからは設楽って名乗ってるんだよ」
「仕事先でもですか?」
「うん。バイト自体は高校のときとは店舗が違うくらいだから働きを信頼してもらえていて、だから店長さんに事情をそこそこ説明してから、書類以外では設楽って名字で通してくださいってお願いしたんだ」
「そうですか」
「まあ、だから書類上はまだ和坂なんだけどね」
僕はまた何も言えない。雨音と、どこかで自動車が通る音が耳に届く。八月の十七時半は、まだ無遠慮に明るい。雨曝しの遊具達がいつかどこかの誰かを表しているようにも思えた。
「合符には、話した? 慶次くんのこと」
「いや……まだ、です」
「そっか」
僕は合符さんに僕の穢れた初恋のことを話すべきなのだろうか? 恥ずべき罪を晒すことが贖罪となるだろうか?
「話さないほうがいいよ」設楽さんは考えを読んだみたいに言った。「あの子もすごく傷ついてると思うから。……あの子の動画も撮られたってことじゃないよ?」
「わかっています。……親が逮捕されることが、どれだけのことが、僕だって知っていますから」
「ああ、なるほど。じゃあ、慶次くんのお父さんが動画を持っていたんだ」
「はい。いくつもダウンロードしていたみたいで。捕まったんです」
「そう。それを観たの?」
「……そう、です」
「どうして?」
「パソコンを触ってみたくて。父がデスクトップを点けたまま部屋を出ている隙に、マウスを適当にカチカチしていたら、フォルダが開いて。なんだろうって、ファイルをひとつ開いたら。……裸の女の子がそこにいました」
一目見て――衝撃が走った。同い年くらいの女の子が、すっぱだかで動画に出ているのだから。呆然と見つめているうちに、学校では見たこともないような、可愛い女の子だと気がついた。そうだ、見つめたりしなければ、衝撃の勢いで動画を閉じることさえできていたら、恋をすることもなかった。僕が愚鈍で、何もわかっていなかったから。
「その動画は、いまは?」
「色々と、警察が持って行ったので……僕がもう一度観ることはありませんでした」
「そっか。……ありがとうね、色々と経緯を教えてくれて。わからない部分が多くて、どうしていいかわからなかったから」
「こちらこそ、ありがとうございます。本当はこんな風に設楽さんと話す資格なんてないのに。こんな僕のために、時間をとってくれて。……すごくデリケートな話も聞かせてくれて。本当に、……どんな罰も受けますし、話しかけるなと言うなら、そうします」
「慶次くん。わたしね、慶次くんが悪いと思わないよ」
「え」
え?
「いや、えっとね。わたしが思い出すような言いかたというか、そういうのをぶつけたのはデリカシーよくないなって思うけど。でも、さっきこうして話してくれる前から、切羽詰まってる感じだなって思った。なんかさ、弱み握っちゃったぜーニヤニヤって感じではなかったでしょ? それ、伝わってたから。昨日から」
「……それは、そう、です。弱み握ったなんて、思ってなかったです。そんな発想」
「ニヤニヤって感じだったら、わたし、絶対こんな風にふたりきりになろうと思わなかったよ」
「でも。でも、僕はあなたの傷を作った人達と同じだ。です。同じように、設楽さんの傷の記録を、初恋なんて言って、いい思い出みたいにしていたんです。子供の頃の設楽さんなんて知る前まで。僕はいい子なんかじゃなくて。どこかで理解していたはずなのに、それが悪い映像だということを気にしていなかった。自分に関係のある人が被害者だったと知って初めて、僕は」
「そんなもんだよ、人間なんて」設楽さんは言う。「職場の、わたしよりずっと歳上の人だって、犯罪者の子はロクでもない、とか言ってたし。身近にならないと気づけないものだし、そういう自省とかが人を成長させていくんじゃないかな」
「成長」
「うん。慶次くんもまだこれから成長していくんだよ。未成年なんだから。知ってる? 慶次くんの裸だって児童ポルノになるんだよ?」
「……まだ、子供ということですか」
「うん。まだ子供。そしてここからが一番大事なことだからちゃんと聞いてね」
「はい」
「動画の件だけど。慶次くんにはなんの罪もないからね」
「ど……どういうことですか?」
「結局のところ慶次くんのお父さんがそんなものを保存していたからいけないんだよ? 慶次くんは偶然、言ってしまえば事故で観てしまったんだし。そもそも児童ポルノに限らず大人は子供がポルノを見てしまわないように配慮する責任があるから。慶次くんはよくないものを見ちゃったけど、悪いのはお父さんだよ」
「……父が」
「うん。そして元を辿れば、わたしのお父さんが一番悪い」
納得しながら、どこかで、やっぱり甘いんじゃないか、優しすぎるんじゃないかと僕は思った。設楽さんはもっと色んなものを憎んでいいはずだし、僕みたいな馬鹿はさっさとシカトでもなんでもするべきだと思った。僕は楽になるために設楽さんを傷つけたのだ。傷口に指を突っ込んだのだ。だからもっと責められるべきだ。
こんな風に許されるべきじゃない。
なのに。
「だから、気にしないでね」
なんて。
この人はどれだけ痛みに慣れて、どれだけ思考をしてきたのだろう。
「じゃあ、僕は……設楽さんは、またいつものように、僕と接してくれるんですか」
僕はもう高校生なのに、子供みたいに泣き始めてしまう。設楽さんはポケットティッシュをくれる。僕の涙と鼻水が収まったあたりで、設楽さんは言う。
「それは駄目だよ」
「え」
「いつも通りに接するのはもう駄目。ちょっと話すならいいけど、一緒にご飯を作ったり食べたりはしないから」
「ど、どうして……やはり、印象が変わりましたか」
「わたしからの印象は変わらないけど、外からの印象は変わるよ」と言って、設楽さんは笑った。「駄目でしょ。新しい恋の相手がいるのに、初恋の人と仲よくしてちゃ」
「……そんなあ」
「あはは! 正直にがっかりするなあ。合符のこと泣かせたら許さないから、よろしくね」
「わかりました」
とりあえず会話が一段落したので外を見ると、雨はすっかり止んでいた。
僕達はアパートまで歩いて戻った。
「それじゃね」
「はい」
「ああそうだ。彼女、別に紹介しなくていいからね」
「よかった」
正直、設楽さんにも合符さんにも僕は敵わないので、ふたり揃われたらどんな挙げ句になるか、まるでわからなかったから。
さて人の死はいつも突然だ。次の週、合符さんのお母さんが事故で亡くなる。
土曜日のデート開始直前に合符さんが病院に呼ばれて中止となってしまったため、すごすごと帰宅していたところ、設楽さんと鉢合わせる。設楽さんには連絡が行っていないらしいので一応伝える。
「そっか。……わたしは別の名字で暮らしている身だし、お母さんにはいい印象ないからショックじゃないけど、合符が心配かも」
「一応、病院まで行ってみたらどうですか? 恋川病院らしいです」
「そうしようかなあ。ありがとうね」
で、結果として設楽さんは二〇一号室から引っ越す。合符さんの住むマンションの一〇二号室に。ふたりでバイトをして家賃などを賄って暮らしていくことになったらしい。隣が寂しくなるけれど、ふたりともそれで問題ないならよしよし……と思っていたら、さらに次の週、僕は合符さんと別れることになる。
「隠しごとをする彼氏って嫌なんだよね」
「隠しごと?」
「慶次くんの隣に住んでたお姉さんって、お姉ちゃんなんじゃん。アルバムで見たとき気づいてたんでしょ? だからあんなにびっくりしてたんでしょ? なんでそれならそうと言わなかったの? 疚しいことがあったんでしょ?」
疚しいことは、そりゃあ、あったけれど……。
「えっと、そうだけど、どうしてわかったの? 設楽さんが言ってた?」
「お姉ちゃんは何も言ってくれなかった。でも、クッキーを焼いてもらったから食べたら、形も味も入学式のときのクッキーと同じだったよ」
「美味しいよね」
「うん」
「ごめんね隠してて」
「やだ。許さない。人は人を許さない権利がある」
さようなら。
そんなわけで、僕の初恋も二度目の恋も滅茶苦茶に終わって、大人しく夏休みの宿題を片づけている間に夏が終わる。
秋になる。
クラスに転校生が来る。女の子。
僕達の六人組が七人組になる。
で、僕はその子に告られる。可愛いし面白い子なので付き合う。
僕も彼女も高校一年生で、どっちもまだまだまだまだ子供だから、ぶつかったり自責で暴走したりする。間違えまくる。でもなんだかんだ関係は続くし、続けていくための努力を僕は惜しまない。
「えへへ。あのね、慶次くんが初恋なんだよ、あたし」
と彼女が可愛らしく言っていたから、僕は頑張る。
初恋は実らないとよく言うし実際に僕の初恋はそうだったけれど、そればっかりじゃあ流石に悲しすぎる。
どう足掻いても別れてしまう未来が用意されていたとしても、僕は彼女の初恋の相手として、できる限りの愛を注ぐ。幸せでいてくれるよう優しさを総動員する。やりかたを間違えたらしっかりと反省して成長していく。そうしたいという気持ちと、そうしたほうがいいだろうという判断で。
だってどんなことも、初めてのときはできるだけ、優しいほうがいいでしょう?
了
はつこい 名南奈美 @myjm_myjm
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