椿の庭にて

ここのえ栞

雪流し



 やわらかい硝子細工のような青年だった。


 陽光を呑んだ黒髪が、その輪郭を金色に霞ませる。細く骨張った指が、膝に乗せた小説の頁をめくる。痩せた頬はすきとおるように白い。

 凛と伸びた背中には、触れるだけで簡単に傷がついてしまいそうな、音も立てずに割れてしまいそうな、そんな危うさが滲んでいた。

 歳の頃は二十程だろうか。白の着流し姿の彼は、もう随分長い間、縁側に腰掛けて本を読んでいる。

 青年は待っていた。おそろしく静かな光を秘めた瞳で、ほろほろと紙から零れゆく言葉を拾い上げながら、ただ、彼女を待っていた。


 昨夜の雪は脆かった。

 微睡むような午後の日差しを嚥下し、深雪の表面はとうめいに近い白と成り果てている。夜になればきっと骨も残さず消えてしまうのだろう。

 そこは夢の一幕のような庭だった。目の覚めるような赤を召した雪椿が、手の甲に口付けたくなるほど気高く佇んでいた。白い化粧がよく似合っていた。


「あら」

 ふと、座敷に掠れた声が響いた。

 青年が静かに振り返る。その視線の先には、布団に横たわる一人の老女がいた。

「お待たせしてしまいましたか」

 老女は淑やかな微笑みを浮かべ、少し嗄れた、染み入るような薄橙の声で青年に問うた。乾いた銀髪が枕に零れ、痩せた手が布団から覗いている。

「……いや、今しがた着いたところだよ」

 そっと本を閉じた青年は、傍に置いていた羽織を腕に掛けて立ち上がり、ゆったりと老女の枕元へ腰を下ろした。

「すまない、寒いだろう。障子を閉めようか」

「いいえ。今日は何だか気分が良いのです」

 どうかこのままで、と老女が控えめに強請る。青年は黙って頷き、掛け布団の上に白い羽織を重ねた。

 彼はひどく哀しげに笑っていた。骨と皮だけになった老女の手をそっと握り、まどろみのほどける様を見つめていた。硝子玉のような瞳には、息苦しくなるほど温かな色が滲んでいた。


「雪遊びでもなさいましたか」

 その色彩を一身に浴びながら、老女は青年の手を優しくさする。縁側には陽が差していたけれど、彼の体は柔らかく凍っていた。

「まさか」

「この時期の風邪は厄介ですからね」

「……お前も、指先が冷えているよ」

 青年が気遣わしげに言うと、老女は目元に愛らしいしわを寄せて微笑み、手のひらの温度を移すように青年の指を包み込んだ。



 *



 日本の冬はひどく静かだ。

 蟋蟀きりぎりすも、蝉も、鈴虫も泣かない。強くなったのか、はたまた死んでしまったのか。

 淡い空、雪の花。世界はこんこんと眠る。二人の密やかな話し声だけが、辺りに響いている。


「椿が見事でしょう」

 老女は嬉しそうに囁いた。

 静謐な庭に佇む、薄らと濡れた椿。それは白無垢姿の花嫁が点す紅とよく似ていた。昼の夢のような美しさを湛え、冬の寵花は咲き誇っている。

「弟子達がわざわざ世話をしに訪ねてくれたのです。私が毎年楽しみにしていたから、と」

 老女の言葉を聞いた青年は、瞬きをした後、椿から彼女へと視線を戻した。その表情にはまだあどけなさが残っている。

「弟子というのは、お前のか」

「ええ。先立たれてからは……」

 ふいに、老女は座敷の隅に目を向けた。そこには一張ひとはりの琴が佇んでいた。繊細な装飾の施されたそれは、老女が嫁入り道具としてこの家に持ってきたものだ。

「お琴を教えておりました。体が駄目になってしまって、数年前に退きましたけれど」

「……そうか、師範か。立派に生きていたのだな」

 遠い記憶が青年をくすぐる。色褪せた音が、彼の体に溢れ出す。

「お前の琴は、昔からほんとうに素晴らしかった」

 老女は琴の名手だった。さびしさに呑まれた静かな夜、青年はよく、琴を弾いてくれと若き日の彼女にねだったものだった。

 青年の言葉に、老女が眉を下げて笑う。

「有難うございます」

「特に……ああ、名を思い出せない。お前に何度も弾いてもらった、一等良い曲があったのだけれど」

「『雪流し』でしょう。お好きでしたね」

 青年は懐かしさに思わず目を細めた。座敷の奥に、過去が幻想となって浮かび上がる。

 月の澄んだ夜、揺らめく蝋燭の火。布団に横たわって目を閉じる彼、琴に触れる赤い着物姿の女。彼女が弦を弾く度、こつりこつりと雪が溶け、とうめいな水となる。雪解水はいつしか清らな川となり、春へ春へと流れゆく。

 その調べは冬を解いた。

 その調べは春を呼んだ。

「また、聴かせてくれるか」

 青年の言葉を聞いた老女は、微かに目を見張った後、はらりと微笑んだ。

「はい」


 真紅の端から雫が落ちる。やわらかな花弁がしなる。二人はしばらく黙り込み、ただ庭に佇む花を見つめていた。辺りは静謐な沈黙に包まれていた。

「私は、やはり椿が一等好きです」

 それを壊したのは老女だった。氷のように冷たい青年の手を握りながら、彼女は眠たげに目を伏せる。

「春が終われば桜はどうなるか、ご存知ですか」

「……散るだろうね」

「では梅は」

「散るだろう」

「いいえ。零れるのです」

 老女はゆっくりと言葉を織った。金色の糸をあしらったような、うつくしい紅色の言葉だった。

「桜は散り、梅は零れ、桃は舞い、牡丹は崩れ、椿は落ちるのです。……椿だけが、首を落とすように、花の姿のまま死にゆきます。その潔さが好きなのです」

 老女の瞼がゆっくりと開く。薄らと濁った黒の瞳が、からかうように青年を見つめる。

「それに、雪椿には香りがございません。お供えするのにぴったりでしょう」

「……知っていたのか」

 青年は数度瞬きをした。驚いた時に瞬きをするのは彼の癖だ。

 実の所、青年はあの香りが苦手だった。花の死に際、抗うように溢れかえる、微熱と狂気を帯びた甘い香り。しかし彼はそのことを老女に話さなかった。老女は花が好きだったから。そして青年もまた、花を愛でる彼女の姿が好きだったから。

「ああ、ほんとうに見事な椿だ」

 指のつけ根まで冷たくなった老女の手を握りながら、青年はそっと囁いた。その声の端はほんの少し震えていた。


 終幕は刻々と近づいていた。

 青年は使命を果たさなければならない。しかし彼は動けなかった。この家から、もう離れたくなかった。

 いつの間にか色褪せてしまったけれど、だからこそ完成された一枚の絵のように美しく、柔らかく、どこか現実味がなく、それでも体温がじわりと滲むような、泣きたくなるような千の日々の思い出が、此処には残っていた。

 そんな青年の葛藤に、老女も気づいていた。


「何か、心残りはないか」

 ぎこちない笑みを浮かべた青年が問う。その意味を正しく汲み取り、老女はしばらく思案した。

「……一つだけ。死装束の代わりにしたい着物があるのです」

 死装束という言葉に、青年が微かに目をすがめる。一方で老女は落ち着いていた。もう覚悟は決まっているのだ。

「昔あなたに頂いた、立派な着物がございましたでしょう。死に際にはあれをと常々思っておりました。私はもう老いてしまいましたから、あの鮮やかな色を着ることは叶いませんけれど、せめて羽織っていきたいのです」

 老女がそう言うと、青年はぐしゃりと唇を歪めた。喜びと哀しみと怒りとが綯い交ぜになったような表情だった。

 やがて彼は老女の手を持ち上げ、そっと自らの額に押し当てた。

「……どうして、お前はそう、私を……」

「あら、理由なんて一つしかございませんでしょうに」

 老女がくすぐったそうに笑う。その小さな手はいつの間にか、青年と同じくらい柔らかく凍っていた。

 祈るような姿勢で黙り込む青年に、彼女は、染み入るような薄橙の声で問うた。

「それより、連れて行ってはくださらないの?」





 青年に手を引かれ、衰弱していたはずの老女がふわりと立ち上がる。

 それは刹那の出来事だった。気づけば老女の姿は見えなくなり、そこには一人に少女が佇んでいた。


 腰にまで流れ落ち、濡れたように艷めく黒髪。無垢な光を秘め、とめどなく透きとおる瞳。薄紅を帯びた肌がみずみずしい。歳の頃は十七、八程だろうか。

 冬の寵花のような少女だった。たおやかな体躯は、上等な着物に包まれていた。目の覚めるような赤の着物。布地には金糸でこまやかな刺繍が施されている。その凛とした立ち姿は、手の甲に口付けたくなるほど美しい。

 少女は呆然と青年の顔を見上げた。

「……神様になられたのですか」

 くすぐるような薄紅の声に、青年がそっと頬をゆるめる。いとおしい響きだった。

「いいや。神様なんて上にもいなかったよ。ただ、琴が一張あるだけだ」

「まあ、嬉しい。弾いてみたいわ」

 あどけなく微笑む少女の肩に、青年が白い羽織をかけてやる。何十年ぶりの再会だろうか。若い夫婦めおとは、どちらからともなく、密やかに抱きしめ合った。

 少女の指先が歓喜に震えている。もう何十年、何万日、この時を夢見ただろう。すがりついた青年の体は、彼がこの家で病床に伏していた頃とほとんど変わらなかった。骨が浮くほど痩せているのに、少女のすべてを包み込んでしまえるほど大きいのだ。

 少女は憶えていた。目が眩むような絶望を。頬を焼く涙の痛みを。白い布に覆い隠された、冷たい唇の感触を。

 爪先で立つような薄紅の恋だった。

 髪先を梳くような深紅の愛だった。


「……再婚はしなかったのか」

「あなたの妻ですもの」

「自由にしなさいと言っただろう」

「ええ。ですから自由にいたしました」

 青年は呆れたように笑い、頬に一筋の涙を流した。

「私は、お前に何もしてやれなかったね」

 少女は堪えるように笑い、目に大粒の涙を溜めた。

「いいえ。いいえ、そんなことはございません」


 春に桜が咲くように、

 夏に蝉が鳴くように、

 秋に椛が染るように、

 冬に雪が降るように、


ㅤ──そのつばきが落ちるまで、

 彼女は、彼を待っていた。



「あなたと夫婦であれた三年間、私はほんとうに、ほんとうにしあわせでしたもの」








 その日、庭の椿は、一人の女が死ぬ音を聞いた。

 それは硝子が割れるような音でも、肉が抉れるような音でもなく、雪が流れるような、春が訪うような、うつくしい琴の調べだった。





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椿の庭にて ここのえ栞 @shiori_0425

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