第三部 この体が朽ち果てるまでは
あれから更に時が経ち、少女も大人として、集落の仕事に関わるようになっていた。
男はあの後、無事に村に連行された。元々、男がやって来た西に位置する大国とは、少女達の集落とは、時偶起こるいざこざを抜きにすれば、良好な関係を築いていた。だから男は、罪人としての刺青を掘った後、祖国に送り返すこととなったのだ。
「それで、今、私のところに嫁入りの話が来ているわけなのですよ」
「どうしてそうなるのだ」
湖のほとりに顎を乗せている龍の鬣を、少女が櫛で梳す。なんと言っても、短くても少女の身の丈よりも長いので、毎日少しずつ整えていた。
あの日以来、数日に一回、龍は少女の前に姿を現すようになった。段々とその頻度は増えていき、今では二日と開けずに顔を出している。
「あ、白髪ありましたよ」
「黙っておれ」
軽口を叩きながら、毛先から梳かしていく。少女が最初に見た時は汚れ一つなかった鬣も、湖から出る回数が増えていくにつれ、ほつれが目立つようになっていった。それでも美しいことに変わりはないが、この数年、少女は飽きもせず梳かし続けている。
「この村は周りの国にも与していませんでしたし、その気もなかったのですが、次の皇帝が即位するのと同時に、うちと合併しないかと言う提案が、西の彼の国から来まして」
龍の首を欲した皇帝は、あの一件を皮切りに、乱心ぶりが明らかになっていき、先月、若い皇子が、早々に皇位につくことになった。
そして数日前、馬に乗った遣いの者が、厳重に封をされた箱を村に届けに来た。中には、蛇腹折りの二通の手紙と、真丸が黒く輝く、豪奢な宝玉の首飾りが入っていた。
太陽にかざすと、鮮やかな緑色に光る。主役の黒い宝玉は、黒翡翠と呼ばれる宝石だった。
どうやら、彼の国には求婚の際に装飾品を送る伝統があるらしい。片方の、少女宛に書かれた手紙には、直接渡すことができなかったことに対する謝罪も書かれていた。律儀な人だ。
「その流れのどこでお前が嫁ぐことになるのだ」
「話聞いてましたか? 国を合併するんです。それで、こちらの跡取りの私が、向こうの代表と結婚することになったんですよ」
龍は横目でぎろりと少女を矯めて見ると、ため息をついた。龍の吐息は、冬の冷たい枯れ木のような、静かな匂いがする。
「やっぱり、受けないわけにはいきませんしねえ」
「なぜだ。そのようなもの、お前は望んでいないであろう」
少女は龍の鱗を撫でる。薄く光を発するそれ。初めて触った時、予想よりも暖かくて、びっくりした。
「人間の世界には、いろいろと柵があるんですよ。まあ、大丈夫ですよ。皇子様は優しそうな方でしたし、酷いようにはされないでしょう」
半年前、雪の中をぼろぼろになりながら村を訪れた皇子の姿を思い出す。数回しか言葉を交わすことは叶わなかったが、それでも、聡明で、優しい人物ということは十分に理解できた。
彼ならば、良い皇帝になれるだろう。
ぼんやりと空を眺めると、高く澄んだ空の中に、雲が薄く散らばっている。都の空は、こことは違う色をしているだろう。夜見える星さえ、違うかもしれない。
寂しいものだ。
少女が顔を西に向ければ、山と山の隙間に、太陽が身を隠そうとしていた。空の端には、黒い、夜の始まりも見えている。そろそろ、帰らなければならない時間だった。
緋色の髪が一房、少女の肩から垂れる。
こうやって、龍の鬣に櫛を通すのも、これが最後になるだろう。手の中を、長い空色の鬣が滑り落ちていく。
「それでは、今までありがとうございました」
龍に向かって、少女は深々と腰を折る。龍の後ろでは、西日が、湖を橙色に染め上げ始めていた。
影になって見えない龍の表情に、困り顔で笑う。森の中から、雄鹿が歩み寄ってきた。
雄鹿の体をゆっくりと撫でる。
この雄鹿にも、少女はここ数年よくお世話になった。
「行かなくてもいいんだぞ。この森にいる誰も、お前のことを拒まない」
少女の頬を舐めながら、耳元で雄鹿は囁く。少女が覗き見れば、琥珀色の瞳が悲しげに揺れていた。
「心配してくれて、ありがとうございます。でも、ごめんなさい。私は都に行きます」
返された言葉に、そうか、と未練が滲み出た声で雄鹿は答えた。
雄鹿の舌が少女から離れる。雄鹿が視線を送ってみると、数匹の動物が、森の奥からこちらを見つめていた。少女を見送りにきているのだろう。
「この森も、随分静かになるな」
「大丈夫ですよ! 私が来る前に戻るだけです」
少女は、頭を低くした雄鹿の頬に自身の頬を合わせ、角に指を這わす。雄鹿の顔に手を添えて、首をぎゅっと抱き締めた。
「達者でな」
「お元気で」
互いの額を合わせ、別れの言葉を交わす。少女が手を離すと、雄鹿は木々の奥に消えていった。
少女が湖に顔を戻すと、龍は湖から首を高く上げ、少女を見下ろしていた。
少女が近付くと、龍は首を曲げ、顔を近付ける。
「ここに来れなくなることを、お許し下さい。水龍様」
横に立ち、両手を龍の顔に置く。拳をぎゅっと握り締めた。頭を両手の間に埋めて、額を龍に擦り寄せる。腕の中から覗き込むように、すぐそばにある龍の瞳を見つめた。
「好きにしろ。お前がわがままなのは、いつものことだ」
龍は平坦に返すと、ゆっくりと瞼を閉じる。少女は龍の鬣に体を埋めた。柔らかい毛並みが、少女の体を包み込む。
目を閉じれば、龍の体から、湖と、森の鼓動が、体の中に染み込んでいく。指先を通って、肉や骨を震わせて、血の中を流れて、熱い熱い岩漿のように。体の内に熱を灯す。
これで、都に行っても、この森のことを忘れることは、きっとない。
どこにいても、目を閉じれば、この森の鼓動を思い出せる。この森の静けさを、甦らせることができる。
龍が目を開けると、透き通った群青色の中には、目をほんのりと赤くした少女の顔が映っている。
少女が、へらりと情けない笑みを溢した。
瞳には、涙が溜まっている。
「では」
それを振り払って、少女は顔を勢いよく上げると、湖から離れた。森へ足を踏み入れる一歩手前で、少女が振り返る。
「さようなら、皆さん。さようなら!」
最後に大きく手を振り、湖から走り去った。そのまま、森の深い闇の中に消えていく。
走り去る時に、少女は涙を一粒、空中に置き去りにした。
形を変えながら、風に攫われ、夕暮れの茜色に飲まれて。
そしてどこかに、消えてしまった。
三ヶ月後、都では盛大な催しが行われた。
皇帝陛下の即位式と、結婚式だ。
道の上を、パレードが進む。勿論主役は、この度結婚する皇子と、その妻となる、北の国の姫である少女である。
豪華絢爛な一行は、ラッパを吹きながら、足並みを揃えて城へと向かう。
通り沿いに並ぶ家には旗が掲げられ、窓から顔を出した国民達からは、祝福の白い花が散らされ、空中を舞った。
「北の国の、どこぞの土地の娘など、皇帝陛下に相応しいものか」
「誰が聞いてるかもわからんのに、あんた、変なこと言うんじゃないよ」
「とても美しい娘と言うぞ。赤い髪に、翡翠の瞳をお持ちだとか」
「北の民は、血の色の髪を持つと聞いたが、本当だったのか」
「龍を崇める一族という噂だ。先代の龍狩りも、あの娘の村の話というではないか」
通りの両脇には、人々がぎゅうぎゅう詰めになって、パレードを見ている。
その中からは、ちらほらと、少女に対する反感も聞こえてくる。たかが北の小国との親睦のために、妻を迎えるなど、といった具合だ。
上半分が開いた馬車の上には、絹でできた高貴な式服を着た少女が、つまらなそうに民衆を眺めている。
「やっぱり、文句は飛んできますね」
大衆の影に隠れて、こちらを見定めるように視線を飛ばす数人を視界に収めて、無頓着にそう言う。
「私は、そんなこと気にしていない」
「知っていますよ。それでも、嫌だと思う人はいるでしょう。皇太子殿下」
隣に座る皇子に視線を移すと、皇子はむくれた様子で、僅かに顔を顰めた。
「国民は、私達の血筋に余所者を入れたくないのだろう。産まれる世継に、赤い髪が受け継がれるのが嫌なのかもしれないな」
少女は、皇子の言葉に苦く笑うと、自身の髪を指に絡める。
「これですか。私達の赤髪は、水龍様の加護があってのものです。あの森の外に出たのですから、殿下の系統に、赤毛は混ざることはないと思いますが」
瞳を静かに伏せ、少女が答える。村を抜け、なお赤さを保つ少女の髪は、帝都では、格好の噂の的だった。
曰く、龍の血の色。曰く、恐ろしき業火の色。下賤の民の神のもの。
それでも、少女にとっては、龍との数少ない繋がりの一つであり、その証拠でもあった。
「勘違いするな。私は、お前のその髪を忌まわしいなどと思ったことはない。鮮やかな、美しい朝焼けの色だ」
皇子は、綺麗に三つ編みのシニヨンに結われ、飾り付けられた少女の髪を掬い取って、手の中で滑らせる。
「……ありがとうございます」
少女は気まずそうに口ごもると、小さく感謝の言葉を返した。
着々と近付く城と、己を率いるパレードを見つめる。
豪華に飾り立てられた馬車や建物。硝子細工の装飾品。素晴らしい造形の彫刻品。確かに綺麗だとは思うが、あの日見た龍には、どうしても劣る。
「おい! なんだあれは!」
民衆の中の一人が、突然、空に向かって指を差した。
少女が声に反応し上を向くと、雲と雲の隙間を、何かが泳いでいた。
蛇のような長い体をくねらせ、銀色の光子を纏わせながら、空を駆ける。偶に見える体の一部は、光を反射して、白く光っていた。
少女は咄嗟に立ち上がる。皇子が席に着くよう注意しても、依然、空を睨んだままだ。
「あれは」
言い終わる前に、青空に、たくさんの炎が浮かんだ。龍に次いて空を滑り、様々な色の火花を散らしながら、空に花を咲かせる。
青から黄色、黄色から紫へと姿を変えながら広がり、最後には銀色の光になって、人々の元に舞い落ちる。
それは、どこかの国で見た花火に似ていると、少女は思った。同時に、故郷の、冷たい雪のようだとも。
少女が手の平を上に向ける。銀色の光は指に当たると、ほんのりとした暖かさを感じさせたあと、弾けて消えてしまった。
既に無くなった光を捕まえるように、少女は手を閉じる。
それは、最後に触った龍の体温に似ていて。太陽に照らされた暖かい芝生の寝心地に似ていて。森の暖かい日差しに似ていて。
少女があの森に置いてきた、たくさんの幸せに似ていた。
「……なんだ、お祝いしてくれるなら、言ってくれれば良かったのに」
少女が、天に向かって、泣きながら笑みを浮かべる。懐かしくて、愛おしくて、切なくて、悔しくて。でも、その冷たい気持ちを解すように、銀色の光は少女の包み込む。
頬を一筋、涙が落ちた。
「おい、何か降ってくるぞ」
横にいる皇子が、空から落下してくる何かを視界に捉える。皇子達が乗っている馬車の真上から落とされたそれは、あと数秒で自分たちの元にたどり着くだろう。
皇子の言葉に、少女が腕を伸ばす。空中から降ってくるそれに、少女の指先がなんとかそれに触れた、その時。
地面に落ちた花が、一斉に空に舞い上がった。
視界を埋め尽くす花びらに、少女は驚いて、空中のそれを奪い取るようにして掴み、腕を引っ込める。皇子も驚きに立ち上がった。通りの両脇からは、不意の出来事に、小さな悲鳴が聞こえる。
段々勢いを増す風に、ぎゅっと強く目を閉じた。
「餞別だ」
少女の真横を、勢いよく風が駆け抜ける。冬の枯れ木の、静かな匂いがした。
少女が、目を見開き、後ろを振り向く。
視界を覆い尽くす花々のせいで、少女が龍の姿を見ることは叶わなかった。
しかし、そこには確かに龍がいた。だって、少女が龍のことを間違えるわけがない。ずっとずっと、一緒にいたのだから。
未だ強いままの風は、地面に落ちたものだけでなく、人々が持つ籠の中に入った花弁も巻き込んで、小さな旋風になりながら、パレードの上を滑空する。
パレードを見ていた人々は、訳も分からず呆然とその光景を眺めていた。龍が纏う花のせいで、直接龍の姿を見た者はいなかった。しかし、時折花弁の隙間から見える銀色の鱗や、空色の鬣は、確かに、自分たちの前に、恐ろしい龍がいることを指していた。
何人かの警備兵が、龍に銃口を向け、引き金に指をかける。指に力を込めると、銃は解かれたリボンのように形を崩し、花に変わってしまった。あまりの出来事に、腰を抜かす。
銃だった花弁は風に飲み込まれ、さらに勢いを増した。
最後に、龍は二人の上を通り、皇子に言葉を言い残す。パレードから離れる時、鈍く、龍は目尻を下げた。
赤く長い髪が解け、四方に散らばる。風に吹かれ、龍に向かって波打つ。
少女は、花弁の境界が自身の頭を通り過ぎる時、自分の内側から、すーっと、何かが抜け出していくのを感じた。
去り際、龍の風は、優しく少女の頬を撫でた。数滴の涙を拭い去り、頭を撫でる。
そのまま、龍は、再び空に戻っていく。集められた花弁を纏ったまま、雲の隙間を通り、高く高く、天に昇っていった。
「今のは」
皇子が呆然と声を漏らす。
少女は惚けたまま、しばらく龍の消えた空を見つめていた。
我にかえり、皇子の声に振り返る。
皇子は少女に、今のは何だ、と問おうとした。しかし、視線を少女に移すと同時に、息を呑む。
少女の髪は、今までの緋色とは似ても似つかない、純白に染まっていた。龍との交流の中で徐々に、濃く、鮮やかな赤になっていった髪は、今までの思い出を塗り潰すように、真っ白に姿を変えていたのだ。
「……?」
途中で言葉を切ったきり何も言わない皇子に、少女は首を傾げる。無造作に散らばる少女の髪は、動きに合わせてゆったりと揺れる。それを見て、少女は、ようやく自分の髪色が変わっていることに気がついた。
「あ」
なんとも間抜けな声を漏らすと、左手でもみあげの髪を掬い取り、太陽に翳す。髪と髪の間から、淡い銀色の光が透けて輝く。
「お前、その髪は……」
皇子が、少女に近付く。腰まである髪を掴み、髪色が奥まで満遍なく変わっていることを確認する。
「さあ、どうしてでしょう」
少女の声は、どうして、と疑問の言葉でありながら、どこか答えを知っているような口ぶりだった。軽い音が、空の下で空回る。
「お前の髪色は、龍の加護によるものだったのだろう?」
やけにあっさりとした返事に、皇子は、いいのか、という言葉を含ませて聞く。
少女はあの赤い髪を、大切にしていた。この国で偏見の目に晒されることになったとしても、決して切ることなく、隠すことなく、その意志を貫き通していた。
皇子には、少女がそれを、こうもあっさりと諦めてしまうのが、不思議だったのだろう。
「いいですよ。新しい髪色も、あの方に似ていて、私は好きです」
「……そうか」
白髪を指先で弄びながら、少女は答える。皇子は少女の無感動な声に、少しばかりの違和感を感じながら、言葉を返した。
少女の瞳は、酷く凪いでいた。今までの感傷的な気持ちが嘘のように、何か、胸の内に潜んでいた何かが抜け落ちて、踏ん切りがついた気分だ。
「おかしいですね。こんなに辛いのに、どこか昔のことのようです」
自分の手の平に視線を落とす。目は伏せられて、表情は読み取ることができない。
少女は不意に、ああ、と呟いた。
「これは、祝福で、縁切りなんですね」
今までの騒動が嘘のように、風は吹かない。さっきの出来事で、馬車もパレードも止まり、両側にいる民衆の騒ぎ声が当たりを覆っている。
だから、少女の声は、隣にいる皇子にしか届かない。
手摺に手を付いて、もう一度、少女は天を眺めた。
「祝福? 縁切りによる、祝いではあるかもしれないが」
「いえ、祝福というより、赦免といった方が、近いかもしれません」
空っぽの瞳に空の青さを映し撮って、悠久の時を生きる龍のように、瞳を細める。
「ねえ、殿下。私達の民の噂。龍を喰ったっていう噂。あれ、本当なのかもしれませんね」
少女は笑って、顔を皇子に向ける。とても穏やかで、過去を懐かしむような笑み。
皇子の目を、少女の瞳が真っ直ぐ覗き込む。吸い込まれそうな碧色。底のない湖を彷彿とさせる、どこまでも広がる水の色。
白い髪に、碧色の瞳。北方特有の、精緻に配置された顔のパーツ。その姿は、どこか先程の龍に似ていて、神懸かって見える。
皇子の首に、冷たい汗が伝った。
「どうしたんですか、殿下。大丈夫ですよ。あの方は、決して私たちを気付けません」
少女は皇子の方に寄って、頬に手を近付ける。
「いや、そうじゃないんだ」
その手を止めて、皇子は、酷く安堵した様子で、息を吐き出す。片手で、前髪をくしゃり掴んだ。皇子の顔が歪む。
「私は、先程の龍が、とても恐ろしかった。あの美しさは、人からは遠すぎる。だからお前が、私があの村から連れ出してしまったばかりに、どこかへ連れていかれてしまったのではないか。ここにいるお前が、もう抜け殻なのではないかと」
少女の白い髪を梳かして、ゆっくりと抱きしめながら、皇子は少女にそう言った。不甲斐なさが悔しいのだと言って、唇を噛む。
「そのようなことは」
「だが、それは、間違いだったな」
否定の意を発そうとした少女の声を遮って、皇子は言葉を続ける。
「去り際、あの龍が私に言葉を残していった。お前を、頼むと言われたよ」
少女が顔を強張らせる。皇子が抱きしめる力を強めれば、少女も、皇子の背中に手を回す。
「……私、あの人がとても大切だったんです」
「ああ」
少女が零した声に、間髪入れず皇子が応える。
背中に回した手を、ぎゅっと握り締めた。顔を皇子の肩に埋めて、独り言のような声は、ほんの少し、震えている。
「でも、もう、未練を残すのは、駄目なんですって。私の赤を、持っていってしまいました」
「ああ」
「だけど。だけどね、殿下。私があの人を大切にしていたのは本当だったんですよ。本当の、本物の、私の気持ちだったんです」
目を閉じて、少女が静かに声を漏らす。目の奥が熱くなる。少女の心臓には、今だって、あの森の記憶が、色褪せることなく残っている。
でもその全てを、少女は過去のものにしなくてはいけない。思い出にして、前に進まなくてはならない。龍の祝福を、少女は受け取らなければならなかった。
少女を赦した龍を、その想いを、少女は分かってしまったから。
「すまない。村から連れ出したのは、お前の幸せでは無かったな」
「私との婚姻は、合併のためのものではなかったのですか?」
皇子は、数回、首を横に振る。
「あの小さな村に閉じ込めるには、お前は惜しいと思ったんだ。外の世界を見せてやるべきではないかと。ただそれは、私の自己満足だったのかもしれない」
皇子が頭を下げる。それを見て、少女は、なんだ、と呟いた。十全十美な人物だと思っていたけれど、こんなに人間らしかったのか、と。
背中に回した腕に、力を込める。自分よりも、随分と大きな背中を摩った。
「確かに私はあそこにいて、幸せでした。それは、決して嘘にはできません。けれどね、殿下。私は、これから幸せになるんですよ」
少女は皇子から体を離す。右手を頬に添えて、その目を覗き込む。いつもの凛とした理知的な光は鳴りを潜め、不安げな影を落としている。
「これから、貴方が幸せにしてくれるんです」
柔らかく顔を綻ばす。皇子が息を呑んだ。
多分、龍を慕って、森に通ったあの日々を、少女はずっと忘れない。大人になって、老いて、朽ちて、その体が解けて無くなっても。
それでも、まだ息をしている間は、皇子の傍で生きていこうと思った。
いつかこの魂が、湖に還る日まで。
少女の手には、かつて、龍のために失った小刀が握り締められている。幼い少女が湖に沈めた、あの頃の姿のままに。
龍は、その光景を瞳に映すと、静かな湖の底で、そっと、目を閉じた。
龍の祝福 そらのくじら @soranokujira
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