第二部 刃を振って血を流す

 あれから、三年ほどが経った。龍はあの日から、一日も姿を表していない。それでも少女は、飽きもせず、毎日と言っていいほど湖に顔を出していた。

 今日は花を見せに行くのだろう、少女の父の商売相手がどこからか持ってきた、色とりどりの花を両手に抱えて、湖に向かう道を走っている。

 龍に会ったことは、少女は、誰にも話さなかった。きっと誰も信じてくれないだろうし、何よりも、あの龍と会えたのは私だけという気持ちが、自慢したいという気持ちよりも優っていたからだ。

「すみません。遅くなりました」

 湖のほとり、背の低い草しか生えていない一帯に辿り着くと、しゃがみ込む。

 少女は約束通り、湖で騒ぐことはしなかった。眠りを妨げないのが、きっと龍の望みなのだと、少女は何故か直感していた。その代わりと言うように、手に持った花を、できるだけ波紋が立たないよう、丁寧に水面に浮かべていく。

「気が向いたら話しかけてくださいね」

 時偶、後ろから吹く風が、花を湖の中央へ導いてくれる。勿論花が湖を満たすことはなく、三分の二ほど流すと、肩に羽織っていた布を地面に敷いて座る。靴を脱いで足を水に浸して、ごろんと横になった。

 足から伝わる清涼な湖の感触と、森の音が心地良い。

 しばらく微睡んでいると、森の奥から見知らぬ数人の男の声が聞こえてきた。

 聞いたことのない声。少女の村の人間ではない。

 少女は険しい目つきで起き上がり、布の端で足を拭うと、靴を履き、音が出ないように立ち上がった。あの頃より伸びた朱色の髪をフードの中にしまい、腰の小刀を確認する。

 そのまま、森の奥に足を進めた。

 すると、不思議な服を着た二人の男が、草や花を踏みつけながら、森の中を歩いていた。先に銛のような物がついた銃を持った壮年の男と、やけに大きい狩猟銃を持った青年だ。

「なあ龍なんて本当にいるのかよ」

「いるさ。こんな時代でも龍信仰が残ってるなんて、絶対裏がある。お前も金が欲しいなら、ついてくりゃいい」

「……まあいいさ。俺は銀色の毛並みの鹿とやらが本命だからな」

 男達が話している言葉は、西方の大国の共通語だ。木の影に隠れた少女に気付く気配もなく、森を進んで行く。

 咄嗟に、少女は木々の影に隠れる。口を両手で押さえながら、密猟者だ、と呟いた。しかも、狙いは龍だと言う。

 少女は、自分が長の子だという使命感と、龍との約束を思い出し、止めなければ、と静かに決意した。

 ぐ、と足に力を込める。

「おい、誰かいるのか」

 先方を歩く壮年の男が、不意に声を発する。先程までよりも大きな声が、もう一人の青年へ向けられたものではないと示していた。

 反射的に、少女が足を止まる。

 壮年の男の視線の先には、少女が置き去りにした布と、足元に残った花。男が湖面に近付いていくと、水面に浮かぶ無数の花を見つけた。

「俺は湖の龍に取り掛かる。お前は、手伝う気がねえなら、周りを見ててくれ」

 壮年の男は青年に声をかけ、靴を履いたまま、湖に足を踏み入れていく。大きな波紋は、湖に広がっていった。

 激しい銃声が、森に木霊する。手応えはなかったようで、背中の替えの銛を装填し始めた。

「待って!」

 少女は木の後ろから走り出すと、銃を構えたままの男に向けて叫んだ。突然飛んできた声に、男達は慎重に少女の方を見る。怒気の混じった翡翠色の瞳が、真っ直ぐに密猟者の黒い目に映った。

 空気を読まず、足元で花や草が穏やかに揺れている。

「へえお嬢ちゃん。どうして俺たちは待たなきゃならないのかね」

「それは、ここは無粋者が立ち入ってはいけない場所だから」

「この水溜りに龍が住んでいるって言われてるからかな」

 少女が黙り込むと、壮年の男は喉を鳴らした。随分と皮肉めいた笑い方だ。

「本当に龍とやらが住んでるなら、これまでの苦労が報われるってやつだ」

 唇を噛んで、少女は男達を睨みつける。

 男が呼ぶと、後方で見回っていた青年が、少女に向かって近付く。一歩前進するのに合わせて、少女も少しづつ後ろに下がる。

 地面に転がった流木や下草を視界に収め、一回、目を閉じた。左手から聞こえる水の音を聞く。深呼吸をして、目を開けた。一気に方向転換をして、ある程度湖から離れた所まで走り抜ける。

 一分程走り続けると、木漏れ日の当たる一角に辿り着いた。

 青年が、眩しさに目を細める。

 少女は振り返りざまに、腰の後ろから小刀を取り出した。逆手に持って、こちらに伸ばされた青年の手を切り付ける。反射的に手を引いた青年の腕の服が切れた。少女はぎゅっと口を結び、表情には焦りのためか汗が浮かんでいる。

 青年の前腕に一筋、赤い線が走った。少女の頬に伝った汗が地面に落ちて染みを作る。

 後ろに向き直し、再度逃げようとした少女の首の服の端を青年が掴み、離れないように引き寄せる。少女の手から小刀を奪うと、自身の腕を一瞥した。相方の元へ戻ろうと一歩足を踏み出す。

 すると、どこからともなく、冷たい空気が吹き付けた。地面が揺れる。

「な、なんだ?」

 森の奥から、どしんどしん、と巨体が走って近付いてくる音が聞こえる。相当重量のある四足歩行の、猪や馬のような足音だ。

 着実に近付いてくる足音に、二人の間に、これまでとは違った緊張感が走る。

 張り詰めた空気に、少女が冷や汗を流した。

「おい。いやにでかい足音が聞こえるが、こりゃあ何だ」

 青年は少女を引っ張り寄せると、焦ったように質問を投げかける。少女は首を振った。

「私達は、この森に立ち入ることを難く禁じている。狩猟は勿論、樹木を切り落とすこともだ。だから、知らないことだってある」

 足音の方向を睨みながら、少女はそう返す。青年が舌打ちをし、悪態を吐きかけた瞬間、青年の正面から、巨大な鹿が飛びかかるように現れた。

 銀色の毛並みを持つ、体長三メートルはあろうかと言う、立派な雄鹿だ。

 青年は、身を守るために少女を横に放り投げた。土埃をあげながら、少女は木にぶつかり、地面に転がる。青年は雄鹿の足を避けると、体勢を立て直しながら、淡く発光する銀色の毛並みを瞳に収める。

「銀色の鹿……」

 青年は呆然と見つめた後、我にかえって銃を構える。青年が、引き金を引いた。発射された銃弾が雄鹿の、おそらく心臓を狙ったのだろう、胴体に飛んでいく。

 きんっ、と硬質な音が鳴る。少女が顔を上げると、それは、雄鹿の毛が、銃弾を弾き返した音だった。

 雄鹿の体には傷ひとつ付いていない。体を震わせて、片足を上げる。そのまま、青年をうつ伏せに踏みつけてしまった。

 地面に叩きつけられるような衝撃に、青年の口から空気が吐き出される。

「早く行きな」

 雄鹿は後ろに振り向いて、未だ立ち上がっていない少女に向かって声をかける。少女は擦りむいた肘や膝に目を潤ませると、全身の痛みに呻きながら立ち上がった。

 フードが、少女の頭からずり落ちる。

「ありがとうございました」

 涙を袖で拭くと、少女は自分の前にいる雄鹿に一礼し、湖の方に走り去っていった。地面に落ちた小刀を拾うことも忘れない。

 自身を押し潰す鹿が人の言葉を喋ったことに、青年は驚愕して、目を見開いた。

「私にあのような奇妙な物を向けてどうするつもりだったか知らないが、お前が捕まえていた子は、あの方が久しぶりに話すことを許した人間なのだ。あまり出過ぎた真似をするでない」

 青年は森の奥に消えていく少女を眺める。

「あの娘、赤の民の子か」

 少女の背中で揺れる、鮮やかな赤髪を見て、青年はそう言った。古い書記によると、北方のある湖を祭る民族は、他の者は持たぬ赤髪を持つことで、こう言われていたと言う。特に、龍との交流を担う司祭の一族はその赤みが一層強いとされた。

「なんだ、お前、あの娘のことを知っていたのか」

「俺は西方生まれだが、親父が商人の真似事をやってたからな。北方にもそれなりに詳しい。そうじゃなくても、この国は、百年前とは違うんだ。赤い髪は、北に住む龍を祀る民だけが持つ、特別な髪色だって、首都では言われてるぜ。まさかここが、赤の民の地だとは思わなかったが」

「ほお」

 雄鹿は、背中を押す足の力を強くする。骨が軋む音に青年は顔を顰めながら、なんとか雄鹿に顔を向けると、琥珀のような瞳が青年を見つめ返した。知性を感じさせる、およそ獣とは思えない目付きだ。

「ただの噂さ。知る人ぞ知る、言い伝えみたいなもんだ。そのうち忘れられていくだろう」

 青年は、早口で言葉を付け加える。雄鹿の蹄が、男の背中を圧迫し続けていた。次第に、青年の呼吸が浅くなっていく。

「おっと、すまない」

 雄鹿はひょいと片足を背中の上から退かすと、酷く軽々に謝った。その様子は、どこかの湖の主を彷彿とさせる。

 咳き込む青年を見て、雄鹿は森に向かって鳴き声をあげる。森の奥から銀色に輝く鹿の角が一対、投げ込まれた。雄鹿はそれを咥えると、ぽい、と青年の足元に投げる。

「そいつでも持ってどこかへ失せな。銀色の鹿の角なんてそうそう無い。土産にはそれで十分だろう」

 青年は角を受け取ると、何度か雄鹿と角の間で視線を行き来した後、厳重に布で包み、鞄の奥底に仕舞い込んだ。

「優しいんだな」

「そんな物、この森には掃いて捨てるほど落ちている。ただ、早く出ていって欲しいだけだ。この森は誰でも受け入れるが、無礼者は出ていってもらう。さあ、故郷に帰りな」

 青年が雄鹿に向かってそのように言うと、雄鹿は不機嫌そうに言葉を返した。

 雄鹿が言い終わるのと同時に、あたりに霧が立ち込める。白い霧は男から周りを覆い隠った後、一筋霧が晴れ、真っ直ぐと続く長い道が現れた。

 雄鹿が、土を引っ掻く。

 凍てついた空気が、地面を這う。

「龍の首を、人が狙うなど烏滸がましい。本来、関わることすら危険なのだ。赤の民でもないお前が、わざわざそのようなことをする必要もない。お前も、子孫共々呪われたくないならば、これから、その手のものには手を出さないことだな」

「……待て、そりゃあ、どういうことだ。赤の民が、なんだって?」

 青年が後ろを振り返ると、雄鹿の琥珀色の瞳が爛々と輝いていた。男の言葉に雄鹿が答える前に、煙のように白色が男の視界を奪う。

 気付くと青年は、故郷の街の入り口の門の下に立っていた。これが、後に西方の街に伝わる、神が旅人を街に帰すと言う、神帰し伝説の正体である。

 霧が消えた後、森では、雄鹿が蹄で地面を撫でながら、緑の奥に消えていった少女を見つめていた。


 少女は、湖に残してきたもう一人を止めなければ、と木々の中を走っていた。

 後ろに僅かに漂っていた雄鹿の気配も消え、少女は、何ができるのかと自分に問う。もし男を止められても、その後どうすればいいのかも分からない。

 ただ、もしかしたら。大人を呼びに行っている間に龍が怪我をしてしまうかもしれない。死んでしまうかもしれない。それが怖くて、足を止めることができずにいた。

 右手に持った小刀に反射した太陽光が気まぐれに木々を照らす。

 湖に戻ると、壮年の男は、銃を構えたまま、水面を睨んでいた。開けた所に出たからか、湖の対岸から吹く風が少女の前髪を揺らした。後ろからは、木々のざわめきが聞こえる。

「あいつ、お前みたいな子供を捕まえることもできないのか」

 男は少女の方を向くと、ため息を吐いた。水を吸い込んで重くなった足を動かして、水中から出ると、銃を右手で肩に担ぐ。少女は、ひとまず男が湖から足を出したのを見て、ほっと息を吐き出した。

「で、お嬢ちゃんはなんで戻ってきたんだ? 誰かを呼んだ方が良かったんじゃねえの」

「私は、そんなに賢くない。本当はお前が言う通り、村に戻るべきなんだろうけど、私は、お前が水龍様を傷付けるかもしれないなら、逃げることなんてできなかった」

「大した信仰心だな」

「そんなんじゃない」

 少女は小刀を両手で男に向けると、吐き捨てるようにそう言った。所々擦れて切れた傷の痛みも、見知らぬ大人に立ち向かう恐怖だってあるだろうに、少女は澄み切った、決意に満ちた顔を男に向ける。

「じゃあなんだってんだよ」

 少女が黙り込むと、男は愉快そうに笑う。

「いいじゃねえか。ここで俺が龍を狩っても、何も変わらんさ。実際に龍を見た奴なんていないんだろう? ああいうのは、そう簡単に姿を表さない。そんな存在、あんたらにとっちゃ、居ても居なくても同じだ」

 笑みを作りながら、同意を求める動作に、少女は眉根を寄せる。

「じゃあどうして、そんな不確かな噂で、居るかどうかも怪しい龍狩りなんてしようと思ったの」

「知り合いが、龍が居るならここだろうって言ってたもんでね」

 男は、その知り合いとやらを思い出しているのだろう、遠い目で空を見つめている。少女が瞬きをすると、男は既にこちらに視線を戻していた。

「それだけの理由で、ここに入ったの」

「お前だって同じだ。理由なく守ってる」

「どういう意味」

「お前だって、直に龍を見たわけじゃないだろ?」

 至極不思議そうに首を傾げる男に、少女は否定の言葉を返せずにいた。

 ここは湖の御前。嘘をつくことは、龍に誓って、少女達の村では禁じられている。龍に対して偽りを言うことと同義だからだ。

 少女も、ここに眠る龍が、嘘を嫌っていることは分かっていた。理由も、根拠もなく、漠然とした事実として、理解していた。

 それが少女に、この場で嘘をつくことを躊躇わせる。

「……あんたまさか、見たことがあるのか?」

 男は声を震わせながら、少女に問うた。男が、少女の内心や、村の掟を知っていたのではない。ただ、ここまで執拗に自分を止めようとする少女が、今まで一度も、龍を見たか、と言う質問には、明確な否定を返していなかった。

 そして、男にとって幸運なことに、少女にとっては不運なことに、この勘は当たっていた。

「眉唾物の可能性も捨ててなかったが、お嬢ちゃんが見たことがあるっていうなら、本気で狩りがいがある」

 男がそう言って銃を再度構え、湖に引き換えした。

 少女が男の銛の先を横目で見ると、先に、濁った色の粘液が付けられていることが分かった。狩りを生業とする知人を持つ少女は、それが本能的に毒だと察する。一応、男も勝算があってこの龍殺しに挑んでいるということだ。

 男の後ろ姿を見た少女は、俯いて奥歯を噛み締める。自分が言った言葉で、男に龍の存在を確信させてしまったことを悔いた。

 少女は構えていた小刀を一度下げると、右手を握り締める。

 湖の端から、地鳴りのような音が響く。何かが水を切る音が、木々を揺らした。

 視線を移すと、湖の対岸に、龍の体が四つのアーチを作っていた。見える部分は徐々に変わり、水中で泳いでいるのが分かる。しばらくすると、ある一点で、動きを止めた。

 少女が見ると、男はぎらついた目で龍を見ていた。今すぐにでも銛を撃ち込もうと、銃を構える。男の意識は、完全に龍に向けていた。少女のことなど、眼中にない様子だ。

 銃口が、龍の鱗と鱗の隙間を的確に捉える。

 男が引き金を引いたのと同時に、少女は、男に向かって飛びかかる。腰を掴み、男を巻き込んで、水に沈んだ。

 銛は、龍から数メートル離れた場所に発射され、水面を切るに留まる。

 少女は男に馬乗りになって、小刀を大きく振り翳す。柄の部分と手の平の皮膚の間で、ぎぎぎ、と軋音が鳴った。男が素早く体をしならせて避ける。

 小刀は水面を叩き、男の帽子を貫いて、鋒を湖の底に深く埋めた。

「退け!」

 男は、少女の腕を掴んで突き飛ばす。少女の手から小刀が滑り落ちた。派手な音を立てて、少女が湖の中に転倒する。

 男は膝に手をついて立ち上がると、小刀を拾い、湖の奥に投げ捨てた。数回湖面を跳ね、そのまま、深い湖に沈んでいく。

 少女は体を起こしながら、男を見上げて、睨みつける。

 湖に浮かぶ波紋を横目に覗き、唇を噛んだ。

「慣れないことはしない方がいいぜ」

 男が少女にそう言い捨てる。

 突然、湖面から巨大な水飛沫が上がった。

 水沫は高く高く上がり、二人に豪雨のように降りかかる。反射的に目を瞑った少女が目を開けると、龍が湖から首を出し、瞳を爛々と光らせ、二人を見下していた。

 瞳だけで、男の体を竦ませる。

 続くように水面から飛び出した龍の尻尾は、男の手元の銃を弾き飛ばした後、体をぐるりと掴んで空中に持ち上げ、締め上げる。男が、苦しさに呻き声をあげた。

 しばらくすると、男は、龍の尾の中で気絶する。

 龍は、男を絡ませたまま、尾を湖の中に戻す。

「待って下さい!」

 男の口が湖に沈みかけると、少女は、制止の言葉を龍に言い放った。その声を聞き、龍が、首をこちらに向ける。先程までの煌めきの消えた、眠そうな瞳だ。

「その者は、私達が裁きます」

 図々しくも、男を引き渡せと、少女は言った。少女の言葉に龍は眉を顰めると、なぜだ、と問いかける。

「この森の守護は、本来私達の役目です。湖に立ち入らせ、あなたに手を出させるなど、許されることではありません。その男には、必ず。必ずや、私達の法で罪を十分に償わせます。だから、挽回の機会を下さい」

 少女は凛とした顔で、じっと龍の瞳を見つめる。龍の群青色の瞳には、少女の傷だらけ顔と、体中についた、血や泥が映り込んでいた。

 龍が、何かを思い出すように瞼を閉じる。

「良いだろう。今回に限り、この者を任せる」

 尾をくねらせて、男を地面に下ろす。

 少女は、自分が村に大人を呼びに行く間男を拘束しておくための物を探して、辺りを見回す。すると、木の根本に置かれていた鞄に目が止まった。

 中を見ると、食料や薬と一緒に、いろいろな道具が所狭しと詰まっている。

 いそいそと鞄を物色すると、中から縄を発見した。気絶したままの男を引き摺って木に背を預ける形で座らせる。

 後ろから、龍が湖に戻る音がする。前と同じ音に、少女がくすりと笑った。

 今度は慌てて止めることもなく、ゆっくりと振り返る。そして、ふわりと微笑んだ。三年前とは違う、穏やかな、春の風に揺れる花のような笑顔だ。

「これからも、来て良いでしょうか」

「……好きにしろ」 

 龍は、長い沈黙の後そう言って、体を引き摺るように湖面に潜っていく。前回と同じ言葉は、三年前よりも、少し柔らかい気がした。


「西の国の皇帝が、龍の首を御所望だ。俺をここで止めても、また次の奴がくるぞ」

 龍が帰った後、数分経つと男は目を覚ました。縄で縛られながら、男が少女に言葉を投げかける。少女が縄をきつくすると、ぐえ、と唸った。

「そう。それでも、私はここを守るよ」

「そりゃあどうして」

 男が、不満顔で少女に返す。少女は何も答えない。

 少女は男を縛り終わると、立ち上がり、森の奥に歩を進めようとする。木に手をかけ、森に足を踏み入れる。

「あの男なら、西の、故郷に送り返した。すまない。お前に渡した方が良かったか」

 青年を離れた所に戻ると、雄鹿は踏み荒らされた草を食みながら、少女のことを待っていた。耳についた葉を落とすために頭を振る。

「いえ。わざわざありがとうございます。あの青年は龍狩りには消極的だったようですし、故郷に返していただいたなら、それで構いません。痛い目に会いましたから、もう森にも来ないでしょう」

 少女が足元を見ると、雄鹿が食んだ土から、新しい草が生えてきている。少女は、口角を僅かに上げて、目を細めた。

 雄鹿の後ろにある蹄の足跡から、背の高い植物が芽を出し、花を咲かせている。

 水分を多く含んだ、若い花だ。点々と森の奥に消えている足跡は、少女が走り抜けた道をなぞるように続いていた。

 少女と青年が踏み荒らした土からは、もう、新しい命が芽生えている。

 こうして、森を治しているのだろう。

「あの小刀は良かったのか」

 雄鹿が、少女に向かって問いかける。

 少女の小刀は、ただの刀ではなかった。村に子供が産まれる際に特別な鉱石を使って作られ、誕生の時に贈られる。赤の民は、その刀と生涯を通して付き合っていく。

 民族の一員としての証。非常に大切な、この世に二つと無い逸品だ。

「良いんです。この湖に比べれば、あんな物」

「大事なものだろう。あんな物などとは、言ってはいけないよ」

「……はい。でも私、誇らしいんです。水龍様のために、私の刃を使えて。民としての命を、あの湖の中に沈められて、嬉しいんです」

 湖の方を、誇らしげに少女は見つめる。雄鹿が、物言いたげ少女を見た。

「あの、一ついいですか」

「うん?」

 少女が視線を戻す。雄鹿は、気さくに返事をした。

「どうして、私を助けてくれたんですか」

「それは、あの方が、お前と話すのをお許しになったからだ。……もしかしたら、少し似てるからかもしれないな」

 少女が首を傾げると、雄鹿は、やっぱり似てる、と呟き、目を伏せる。少女は、この目に見覚えがあった。龍が、少女を最初に見た時と同じ。寂しい瞳だ。

 あの頃は、それがなんの感情なのか分からなかったけれど、少し大人に近付いた少女には、それがなんとなく理解できた。

 そう。これはきっと、後悔だ。

「もうそろそろ、過去のことに囚われるのは、やめにしたいんだ。あの方も、昔は若かった」

 そう言って、雄鹿は二、三回頭を振ると、少女の背中を押す。戻らなければ、あの男が逃げてしまうぞ、と囁けば、少女は焦った様子で、湖の方に戻っていった。

 湖に戻ると、男は胡座をかきながら、仏頂面で少女を待っていた。

「なあなあ嬢ちゃん、俺はあんたのせいで仕事に失敗するわ、全身痛いわで散々なんだぜ。それぐらい教えてくれてもいいじゃねえか」

 太々しい男の態度にため息を吐きながら、少女は声を零す。

「私は、あの美しいものが傷付いてほしくないの。この湖が心地よい揺り籠だと言うなら、ここで眠っていて欲しい」

 毅然とした顔で、清々しい、芯の通った声で応える。翡翠の瞳は、陽の光が差し込む蒼い湖と、その奥で眠る龍を湛えて、絢爛と光り輝いている。

「……そうかい」

 男が小声で答えると、少女は、ええ、と返した。

 風が、少女の真っ赤な髪を、労うように揺らしている

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