龍の祝福
そらのくじら
第一部 魂に刻み付けたのだ
その昔、龍は、人を呪ったという。
冷たい氷の奥。余所者を近付けない、深い森と雪の向こう側。北の森の端に、ぽっかりと開く湖には、龍が住んでいると、言われていた。
「おーい」
ある日、身の程知らずの少女が、湖に石を投げ入れた。
それは弱々しい波紋を作り、僅かな水の揺らぎは、なぜだか龍の耳に留まった。
龍が浅く目を開く。覚醒したばかりの脳で、ゆらりと尻尾を動かして、水中をのろのろと降下する石を弾いた。
「おーい」
再び、石が水面に叩き付けられる、不恰好な音があたりに響く。
少女は、この近くの集落の長の娘だった。好奇心旺盛で、本来龍の機嫌を損なうことは禁じられている湖に、長の子供だからと我儘を言って湖に近付くだけでなく、石を投げ入れるような子供であった。
「おかしいなあ。父様は湖には龍がいるって言ってたのになあ」
不満そうに唸りながら、もう一度石を拾い、先程よりも勢いをつけて投げる。大きな弧を描いて落下した石は、またも湖に沈み、時間をかけて、尾の端にこつりと当たった。
龍は気だるそうに瞼を持ち上げると、水面の向こうの少女に向かって勢いよく尻尾を伸ばす。
「……うわ!」
次の石を拾う前に、龍の尻尾がぐるりと少女の体に巻き付き、息を吸う間も無く水の中に落とす。湖の底まで引き摺り込むと、少女を、二つ三つほど飲み込めるほど大きな口の前に放り出した。
水が、湖の果てさえ見えるほど澄んでいた。
少女はその時の光景を、大人になっても覚えているだろう。父への貢物のどれよりも清く、いつか見たどこかの国の王の身に付けていた、どんな装飾品よりも煌びやかに光を反射させる鱗。それが、青々とした水に運ばれた太陽の光の中で、美しく輝いていた。
神々しく尊厳に、湖の底に佇む。
自分の口から溢れた泡が水面に上がっていく様子が、やけにゆっくりに見える。瞳が、心が、この光景を脳裏に刻み込もうと必死だった。
しかし、少女がその光景を呆けたように眺めていられたのは、実際には数秒だっただろう。少女の口から、ごぽりと一層大きな泡が出たのを目にした龍が、少女を空中に放り投げる。
水面の数メートル上で一回転して、少女は、すぐにまた湖の中に沈んでいった。先程と違い、少女の体がすぐに湖面に浮かんでくる。
「ぷは!」
訳もわからず混乱する頭を置き去りに、少女の体は沈むまいと、闇雲に水面を叩き始めた。龍は、はあ、とため息をすると、酷く緩慢に尻尾を少女に伸ばす。
水を蹴るだけの両足にぐるりと尾を絡めると、今度は水中に吸い込むことなく、ゆっくりと湖のほとりまで連れて行った。
少女は地面の上に降ろされると、蹲って、必死になって息をする。
「おい」
龍はゆっくりと湖面から首を出すと、言葉を投げかけた。重い、憂鬱な声だ。
「何するんですか!」
少女は地面を見たまま怒鳴る。
桃色の髪は水を吸って、色を鈍く変えていた。背中にかかって、ずっしりと重い。びしょびしょに濡れて、額に張り付く前髪を横にずらして、後ろに振り返る。
ここで初めて、少女は自身を投げ飛ばしたのが龍だと気付いた。
「それはこちらが言いたい。私の寝床に石など投げ込んで、どういうつもりだ」
龍は憮然とした声で、少女に言葉を返した。鼻から出た吐息が少女の肌を擽る。空色の鬣が、水に濡れた様子もなく風に靡いている。
水晶玉のような群青色の瞳が、少女の顔を覗き込んだ。
「も、申し訳ありません」
少女は、自分が怒鳴った相手が龍だと分かると、地面に手を付き頭を下げた。重くなった髪が顔を覆い隠したのは、少女にとって幸いだっただろう。
内心では、少女は、龍が自分に姿を見せてくれたことに喜んでいた。喜色に満ちた瞳と、緩みそうになる口を、一生懸命一文字に結ぼうとする仕草が、その気持ちを物語っている。
頭を上げる様子のない少女にため息を吐くと、龍は、もう良い、と言い、湖に踵を返した。龍の巨体が水を切る。
「あの!」
龍が湖に体を沈めかけた時、少女はできるだけ大きい声で龍に話しかけた。このままでは、折角会えたというのに帰ってしまう。少女は焦っていた。
「……なんだ」
「あの、あの、あの」
「早く言え」
「静かにします。誰かが起こしに来たら追い返します! お返事くれなくても騒いだりしませんから。だから。だからまた、来ても良いですか?」
億劫そうに首だけをこちらに向けた龍に、少女は何を言えばいいの分からかった。目をぎゅっと閉じ、顔を上げた少女は、捨て鉢な気分で叫ぶ。
こう言いつつも、少女は湖の主が決して人間を好きでないことを知っていた。だからこれは、龍との会話を少しでも長引かせたい、必死な悪あがきのつもりだった。
「……好きにしろ」
だから少女は、龍が自分の質問に、予想よりも好意的な返事をしたことが信じられなかった。少女の父は、何度も湖で龍に豊作を願う祭事のために湖に立ち入っている。そのどれにも、龍が姿を見せたことはなかった。
そんなことでは、龍を起こすには足りないのだ。
「ほ、本当ですか?」
少女は、目を丸め、龍を見つめた。龍は否定を返さない。少女は、宝玉色の翡翠の目を綺羅めかせ、満面の笑みを浮かべた。太陽に向かって咲く、向日葵のような笑顔だ。
龍は一瞬、眩しそうに目を薄める。しかし、すぐに湖に視線を戻し、湖面の下に消えていった。
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