ウロの少女

蛙鳴未明

アナ

 黄昏も過ぎ、真っ暗闇となった山の中。荒い息遣いが登ってゆく。頭上、緑の切れ間より月光射し込み、擦り切れた服を着たうらぶれた男の姿があらわになった。


 細身長身、目元に大きな隈を湛えた男は、一巻のロープを肩に担ぎ、森につけられたひっかき傷を自身の汗で洗い流しながら、ひたすらに上へ、上へと進んでゆく。月が雲隠れ。再び彼の姿は闇に溶け、荒い息遣いだけが彼の存在を示す。雲間から月が再び顔をのぞかせた時、男は頂上近くの小さな空き地、古びたドラム缶の上に立って、ぎこちない仕草でロープを古木の枝に巻き付けていた。

 ああでもないこうでもないとロープを結んでは解き、結んでは解き、ようやく落ち着きどころを見つけると、満足気に木から垂れるロープを眺める。月のせいか、はたまた自分が何をしようとしているのか気づいたのか、その顔は青白い。能天気に揺れるロープをつかまえると、その手は震えながら、しかし手早く的確に手頃な大きさの輪をこしらえた。

 大きく深呼吸。背伸びしてゆっくりと輪を首にかけ、合掌して空を仰ぐ。


「さようなら」


 呟いて、ドラム缶を蹴飛ばした。直後、老いた枝が大きな悲鳴をあげた。枝の根元がぼろりと裂けて、たわむ間もなく根元から折れる。首に感じた圧迫感は一瞬で消え、代わって衝撃が男を襲う。息が止まった。視界が白く瞬く。五感が麻痺する中、耳だけは危険を察知した。とっさに転がったその瞬間、折れた大枝が目の前すれすれに着地する。枯れ葉が飛び散り、地面がたわむ。破れた地面に落ちる枝。ロープがピンと張る。なにがなんだか分からないうちに、男は突如口を開けた大穴に引きずり落とされた。


 幸いなことに、穴はそれほど深くなかった。彼は穴の底の枯れ葉の山に弾み、なめらかな斜面を半メートルほど滑ったところで壁に突き当たって止まった。しきりに咳き込みながら起き上がろうとして、彼は頭を穴の天井にぶつけていっそう大きな咳をする。口を拭い、彼はあたりを見回した。ちょうど人一人足を伸ばせるかどうか、といった広さの穴だった。冬眠中の熊の穴によく似ていた。ここらにもいるのだろうか、いやいやこんな裏山にいるはずがない、とばかりに彼は激しく首を振る。ちょうどその時、ぽっかり空いた頭上の穴から月光が差した。つられて目線を前にやり、彼は息をのんで固まった。

 月下美人がそこにいた。両の腕を交わらせて肩に置き、冠か何かを被った絶世の美女が、木の根の中に埋まっていた。月光に金色に舞い踊る埃もあいまって、彼女はまるで女神かのように神々しく、彼は気づけば、首の縄が張るのも構わず、大きく身を乗り出していた。滑らかに輝く肌、根と一体となって波打つ髪、今にも見開かれそうなまぶた――元は木像かなにかだろう、灰がかった胡桃色。が、それにしてはあまりにも精緻過ぎ、あまりにも妖しすぎる。しかし、ああしかし、ただ一つ惜しむらくはその顔――彼は手を伸ばす。首が締まる。引っかかった枯れ枝がみしりと歪む――その表情。一体何が気に入らないのか、口を尖らせ、眉をひそめたその顔はあまりにも――彼の指先が彼女の頬をなぞる――冷たすぎる。


 枝が折れた。解き放たれた彼は流星のような勢いで少女にへばりつき、滑らかな木質の頬を撫でて、息を荒らげる。閉じられたまぶたを焼きそうなほどに彼女の目を凝視する。見れば見るほど、不機嫌な顔なのが惜しかった。笑えばどんなに美しいだろうか――そうだ。雷にうたれたように彼は震えた。この子を笑わそう、なんとしてでも。


 次の日の朝、彼は穴から出ると朝日に向かって大きな伸びをした。昨日まで灰色だった世界が、極彩色に輝いているようだった。イチ、ニ、サンシと慣れない動きでラジオ体操を済ませると、彼は穴の中に舞い戻り、少女を眺めて一思案。何をしたら彼女は笑顔になるだろうか――一晩にして既に、彼には少女が生身の人間に見えていたのだ。彼は額に手を当て、さびた頭を一生懸命回す。やがてぽん、と手を打ちあたりを見回した。掃除だ。掃除こそがベストアンサーだ。


 思いついたら行動は早かった。彼は枯れ枝を外に放り出し、枯葉を掻き出し、ネズミや虫の類は出てこないことに気づくといよいよ調子づいて、暗がりの奥の奥まで手を伸ばして埃をとった。もともとそう広い穴ではない。一時間もすれば穴はすっかり綺麗になって、彼はどこからか調達してきたボロ布で少女の顔を拭っていた。そっ……と優しく頬を拭うその一回ごとに、古井戸から汲んできた水を湛えた古バケツに雑巾を突っ込み洗う。水から引き上げてみるが、なんせ元がボロだから綺麗になったかどうか分からない。さらに入念に洗う。やっと彼が満足し、よくよく布を絞って少女の頬を拭う頃には、もう太陽はその角を変えている。その果てしない繰り返しの果てに、彼はようやくふやけきった手を下ろした。太陽は沈み、月も無く、穴の中は一寸先も見えぬ暗闇だ。だが彼には見えているようだった。星明かりに照らされて燦然と輝く少女の姿――


「ああ……ああ……」


 彼は震えながら地にひれ伏した。少女のあまりもの神々しさに身を撃たれたように。それはまさしく電撃だったろう。しかし、それは彼が求めていたほどではなかった。彼はもっと、受けた瞬間二度と動けなくなるような、ひれ伏すまもなく体が石となってしまうような――顔を上げるか上げないか逡巡する能力すら失うほどの鋭さを期待していたのだ。

 彼は顔を上げた。「期待外れ」という言葉が、ぽっかりと頭に浮かんだようだった。首を振り、頭をかきむしり、それを消し飛ばそうとしたが、目は勝手に少女の姿を追い、その顔を見るごとに頭の中の言葉は大きくなっていって、ついには彼をいっぱいにしてしまった。彼は笑顔が見たかったのだ。無機質な神々しさの上を繊細におおう有機の感情、それが笑みに変わったらさらにどんなに美しいか――その唯一無二の美しさが見たかったのだ。


 ――それなのに、これは……これはただ神々しいだけじゃないか。ただ美しいだけじゃないか。何も変わっていない。いや――


 それどころか、褪せたくるみ色の輝きは、嫌悪の情を鋭利に浮かび上がらせて、きらめくダマスカスナイフのように曇りなく彼の心を抉ってくるのだ。

「......これじゃだめだ」

 彼は呟いた。

 笑顔じゃなきゃダメなんだ。

 彼はさっきひれ伏した自分を恥じすらした。青い鳥を探していたら、虹のふもとにたどり着いた。それは確かに幸運だろうが、それではダメなのだ。求めているのはあくまで青い鳥である。青い鳥を見つけて初めて満足しなければならないのだ。

 彼は足を投げ出し、穴の壁に背をもたせ、緞帳のような闇を透かしてじっと少女の顔を見つめた。見れば見るほど胃がきゅうきゅうと痛む。

 ――なぜそんな顔をしている。どうして笑わないんだ。あんなに頑張ったのに

 彼は闇の中、更なる黒に目を向けた。たゆたいもしない、水面みなもの黒である。彼はふやけた手の中、もはや漁網のようにほつれた布を握りしめた。


 ――なんで――ッ!



 まぶたをくすぐる眩しさに、彼はうっすらと目を開けた。ピンぼけした木の根のベールが揺れている。その合間から見えるのは、知らない少女の燦然たる仏頂面ーー彼はうめいて天を仰いだ。茶色い天井に深い深いため息を吐く。彼の腹が軽快な音を立てる。その時、彼は初めて空腹を思い出した。

 ――考えてみれば、どれだけ食事をとっていないのだろう。一日、二日……

 彼は早々に数えるのを諦めた。とにかく腹が減っていることには変わりない。早く何か食べなければ――

 彼は起き上がろうと地面に手をついた。無遠慮に視界に入り込んでくる少女の顔。起き上がりつつそっぽを向いて、ふと動きを止めた。彼は中腰のまま横目で少女の顔を見る。そのやさぐれた目が大きくなる。思わず口を大きく開けて背筋を伸ばす――

 ゔっ、という悲鳴に小鳥が三羽飛び立って、その後を追うかのように穴から土くれまみれの彼が飛び出した。右手でポケットをまさぐり、左手でみるみる膨らんでゆくたんこぶを押さえながら、彼は一目散に坂を駆け下りていく。


「そうだパンだよ米だよ栄養だよ!」


 叫び声が森を揺らすより早く、彼は森に隠れて見えなくなった。




 穴に帰ってきた時、彼は片手にパンを握っていた。充血した目を少女の口に釘付けにして、木の根のベールをかき分ける。はやる気持ちが思わず手に力を込めさせて、ビニールの包装ががぱりぱりと音をたてた。


「ねえきみ、ほら見て。ジャムパンだよ、いちごジャムパン。これしか買えなかったんだけど、きみ、好きだろ? 女の子はみんな好きなんだ――」


 少女の閉じたまぶたを凝視しながら、彼は震える手でビニールを引き破る。


「ほら食べなよ。腹――お腹減ってんだろ? それでそんなお顔してるんだ……きっとそうだ……」


 奇々怪々な口調を並べつつ、彼は少女のとんがった口にジャムパンを押し当てた。もちろん彼女の口は開かない。それでも無理やり開こうと、彼はぎゅうぎゅうとジャムパンを押し付ける。――ほら食べなよ。好きなんだろ、空腹でいらっしゃるんだろ。きっとそうだ。そうじゃなきゃ――動く唇も固まった眼も真っ赤に染まっている。生地が破けてジャムがどろりと漏れだし、科学の甘みを振りまきながら少女の顎を伝って彼の膝に落ちる。彼は動きを止め、ブリキ人形のようにぎこちなく首を曲げてジャムを見下ろした。細長い指でそっとそれをすくうと、恍惚の表情でそれをなめる。

 ぎゅる、と腹が音をたて、彼は数分ぶりに瞬きをして身を震わした。我に返ったように後ずさりして、少女の顔を見る。口元を汚され、西日に半分影が差した少女の顔はさらに鋭さを増して、まるで彼を責めているかのようだった。みるみるうちに膨れ上がる涙を飲み込むように、彼はジャムパンを口に突っ込んだ。大きな一口を咀嚼しながら、堪えきれず嗚咽を漏らし、地に手をつく。許しをこうように少女に手を差し伸ばされたその手は、少女に届くことなく握りしめられ、地面に叩きつけられた。


 なんで――ッ!


 声なき叫びが穴を震わす。なんでこんな酷いことを――なんでこんなに笑わないんだ――なんでこんなに頑張ってるのに――後悔と怒りと悲しみの三原色が渦を巻く。浮かんでは消える感情に揺られて、彼は文字通り震えていた。涙の苦さとジャムの甘さを噛み締めながら続けられるなんでなんでの無限螺旋は、見覚えのある袋小路へと突き進んでいく。

 気づけば男は、かつて調べた死に場所のアルバムをめくっていた。廃ビル、海際の崖、淀んだ川、深い森――はた、と震えが止まった。ガラス玉のような眼には、一人には広すぎる2LDKがはっきりと映っていた。涙が落ちた。彼の眼が生気を取り戻した。鼻をすすり、袖で涙を押さえて地に伏せる。


「俺また……おんなじこと」


 漏れでた声は、三原色に満ちていた。彼は涙を拭って身を起こす。少女の頬に手を伸ばし、ジャムをしっかり拭きとると、古バケツの灰色の水面に手を浸した。


「ごめんな……そうだよな、いちごジャムが嫌いな子もいるんだ。俺はそれを……」


 呟きながら手を洗う。ジャムはすぐに流れだし、ほのかに赤い筋を作って水面に彩りを添えた。



 それから、彼は毎朝山を降りては食べ物を持ってくるようになった。あんぱん、クリームパン、カレーパン。


「ダメか……もしかして、パン嫌いなのか?」


 シャケにぎり、こんぶにぎり、うめにぎり。


「これでもダメか。じゃあ寿司なら――」


 サーモン、あまえび、あなご、いくら、かっぱ巻き、鉄火巻き、かんぴょう巻き、トロ、中トロ、大トロ、ウニ……


「ウニダメか! 俺も苦手だ!」


 たい、ぶり、ほたて、うなぎ、あわび、関サバ、ふぐ、のどぐろ、毛ガニ、タラバガニ、松葉ガニ、伊勢エビ、フカヒレ、キャビア、からすみ……


「魚、嫌いか?」


 但馬牛、神戸牛、松阪牛、ヒレ、シャトーブリアン、フォアグラ、トリュフ、白トリュフ……


「果物、果物か?」


 メロン、マンゴー、パイナップル、スターフルーツ、ドラゴンフルーツ、ランブータン、ドリアン


「ダメ、か……」


 彼はがっくりと肩を落として、穴の壁に背を預けた。今にも落ちそうなまぶた。朝から晩まで食材を探して駆けまわる生活に、目元の隈はこれ以上ないほど深くなっていた。吐瀉物を花畑にぶちまけたような、なんとも言いようのない空気が穴の縁から漂ってくる。持ってきたものはなるたけ食べるようにはしているが、彼一人で食べきれるような量ではない。開いてるのか開いてないのかわからない目を少女に向けて、彼はため息をついた。


「なあアナ、もう俺の財布はすっからかんだよ。いい加減……笑ってくんねえかなぁ」


 少女は微動だにしない。彼は大きく息を吐き、丸い空を見上げた。折しも、雨。群青色から幾千幾万と落ちてくる細い針のような雨粒は、風に揺られ、枝に弾かれその形を変えられて、それでも必死に穴を目指して落ちてくる。そしてようやく穴に入ったかと思うと、地面に弾かれ儚く散ってしまうのだ。彼はいつしか、雨粒がはじけてミクロの霧が生まれては消えるのをじっと見つめていた。


 ――俺も何も成さずに、弾けて、消えていくんだろうか。


 彼の口角が釣り上がる。それもいいかもな。声がこぼれた。彼は雨粒から目を外し、また穴の壁に寄りかかって、出会って以来一度も動かない少女の仏頂面を眺めた。


 ――やることなすこと全部報われないなら、もう何もしないほうがいいのかもしれない。


 彼は目を閉じた。雨粒が頬をうった。世界はまたたく間に真っ暗になった……



 激しい揺れに彼は目を覚ました。あたりを見回すが何も見えない。ばらばらという轟音が耳を打ち、揺れはますます強くなる。彼はめくらめっぽうに手を振り回し、ようやく壁を探り当て――そして気づいた。


 ――震えてるんだ、自分が


 雷光が穴を真っ白に照らしだす。バケツが浮いている。彼はいつの間にか、腰のあたりまで完全に水に浸かっていた。雷鳴をかき消すほどの叫び声を上げて、彼は勢い良く――と思っていたのは彼だけで、実際は老人のようにガタガタとぎこちなく――立ち上がった。


 ――なんで――いつのまに――どうする――いったい――


 瞬いては消えていく断片を隅に追いやり、彼はひとまず穴から逃げ出そうと穴の縁に手をかけた――


 ――彼女はどうなる


 一瞬の閃きだったが、彼の動きを止めさせるには十分だった。振り返った先は、闇。数秒、雨と呼吸の音しか聞こえなかった。彼は何かを断ち切ろうとするかのように首を振り、上を向きかけ――その刹那、光が彼の瞳を貫いた。そむけた目の端に、真っ白に写った少女の顔は、苦悶に満ちているようだった。


「ッたくちくしょおぉ!」


 またも雷鳴はかき消された。彼は浮いたバケツを引っ掴み、猛然と穴から水を掻き出し始めた。すくっては投げ、すくっては投げ――雨が上がったのは、夜明けを過ぎた頃だった。


「ッたくよぉ……」


 バケツががらんごろんと音を立て、彼は穴の壁にへたりこんだ。


「これでも笑ってくれないんだもんなぁ……」


 むしろ土色の水滴が頬を伝って、彼女は泣いているようだった。彼はため息を吐き、身を乗り出してびしょ濡れの袖で少女の顔を丁寧に拭う。涙が消え、つやつやとした彼女の顔はやはり美しかったが、やはり何か足りなかった。


「どうしたもんかな」


 彼は丸い空に向かって大きく伸びをした。深呼吸して下を向く。一つだけ残った水たまりに、自分の姿が映っていた。泥で汚れ、濡れネズミどころかドブネズミのようになっている。


 ――これじゃあアナに嫌われるな。早く服を


「服?」


 どこかでまた雷が轟いたようだった。彼は少女を見、自分を見下ろし、そして空を見た。久しぶりの輝きが、彼の目に宿っていた。



「……なんか違うな」


 彼は数十回目の言葉を言って、ブルーのワンピースを背後に投げ、脇に手を伸ばす。空を切る。彼はちらりと背後に目をやって、ため息を吐いた。無数の服が積み重なったそこは、極彩色に青が加わり、一段と鮮やかさを増して、この世の全てが詰まった王族の間のようになっていた。しかし彼は何も手に入れてはいない。最後の望みをかけて集めた服は、一着たりとも少女に似合わず、一度も彼女は笑わなかった。


 ――やっぱり何をしても


「ダメなのか」


 彼はしばらく固まっていた。乾きかけた水たまりをじっと見つめていた。夜、彼の姿は消えていた。


 次の日になっても、その次の日になっても、彼は帰ってこなかった。どこからか飛んできた枯れ葉が穴の底を埋め、年老いたリスが迷い込んできてそこで生を終えても、彼は帰ってこなかった。雨の日も、風の日も、少女は相変わらず目をつむり、口をとんがらして不機嫌な顔をしていた。心なしか、さらに不機嫌になっているようにも見えた。少女の向かいにあった極彩色は、灰色の何が何だかよく分からない塊になってしまっていた。

 やがて空が黒雲に覆われ、雷が光り、雨が降り始めた。文字通りバケツをひっくり返したような雨だった。太陽も月も星も無い真の闇の中、雨音だけが場を支配し、少女はしばらくぶりに水に体を浸からせようとしていた。そんな折、山がにわかに騒がしくなった。誰かの怒号。サーチライトが闇を切り裂き、雨のベールを映し出す。暗闇の中、微かに聞こえる荒い息遣いが、藪を揺らして登ってゆく――


 べしゃ、と音がして、何かが穴の底の水を派手に跳ね飛ばした。闇の中でもさらに黒いそれは、うめき声をあげ、地に手をついて体を起こす。雷光が闇をつんざいた。それにはっきりと照らされて、かつて見た月下美人がそこにいた


「アナ、久しぶり」


 彼は苦しそうな息を吐き、少女の方へと這いずっていく。冷たい手が彼女に触れた。なにかどす黒いものが、その手を伝って流れ落ちた。


「アナ、俺、考えたんだ。何ならアナを喜ばせられるか」


 荒い息。雨の音。うめき声。彼は少女に捕まって体を起こし、少女の脇の壁に身をもたせた。横目でしっかりと少女の顔を見つつ、震える手を彼女の眼前へと持っていく。


「ほら、見て。取り返して、来たんだ」


 走る雷――赤黒い手の真ん中に、純に輝く白銀の指輪――


「俺、幸せだったから……この時、世界で一番幸せで、あの子も世界で一番笑ってて――だから、アナも嬉しいんじゃないかって、笑ってくれるんじゃないかって、そう、思って、返してもらったんだ」


 雷鳴。荒い息。雨の音。彼は、右手を左手で支え、少女の方へと近づけた。


「なぁ……どうかな」


 か細い、か細い声だった。ほんの小さな雨粒が落ちただけで切れてしまいそうな、そんな声。


「笑って……くれよ」


 雨の音。少女の顔は動かない。次第に高まる荒い息。嗚咽が混じる。


「なんで……なんでだよ……」


 雷鳴がとどろき、彼の体がぐらりと揺れた。彼は咄嗟に少女に手を着く。指輪が閃いて、水面みなもの黒に吸い込まれた。雨粒か、涙か、次々と吸い込まれていく。彼は体をくの字に折り曲げ、顔を覆ってさめざめと泣いた。悲しく、悔しく、辛かった。もはや怒りなど湧いてこなかった。どこからか怒号が微かに聞こえ、彼は体をびくりと震わした。


 ――逃げるか――いや、無駄か


 彼は手のひらがあるはずの場所をぼうっと見つめた。


「結局なにもだ。結局なにも……」


 うつろな声は雨音にすぐ埋められる。彼はこのままゆらりゆらりと揺れながら来るべき時を待とうと思ったその時、また稲光。彼は真っ白に染まった自分の手のひらを見て、驚きに目を見開いた。血が、ついていなかった。指輪を湛えていた赤黒い泉が影も形も無かった。時間が遅くなったように感じた。彼はジャムのようにどろりとした時間の中で少女に振り向き、雷が落ちるのを待った。そして時は来た。少女の姿が真っ白に照らし出される――その無垢な体のどこにも、血の一滴もついてはいなかった。驚き見上げた少女の顔は――微かに穏やかになっているように見えた。


 雷鳴。雨音。荒い息。彼はもう何をしたらいいか分かっていた。


――どうせ捨てた命だ


 そう思って、高鳴る心臓を抑えようとした。吸って、吐いて。吸って、また吐いて。彼はまた大きく息を吸うと、尖った爪を思いっきり両の手のひらに突き立てて、そのまま歯を食いしばって肩に置かれた少女の手に、手のひらを押し付けた。

 根のベールが波打った。少女の体に複雑に絡み合っていた木の根が一斉に生き物のように震え――そして瞬時の内に彼の手を巻き取り手のひらの傷に根を差し込んだ。脳天まで貫く痛みに、彼は絶叫した。根が血管の中を伸びてゆく――毛細血管の一本たりとも逃さずに、彼の手の甲を、前腕を、二の腕を、血管に沿って盛り上げながら登ってゆく。絶叫、絶叫、絶叫、しかし、彼は忘れていなかった。もう痛みなのかも分からない強烈な刺激と、自分が吸われていく今までにない感覚が腕を登り、首に達するのを感じながらも、彼は自分の見たかったものを忘れていなかった。

 彼は明滅する視界を無理やり前に向け、思いっきり舌を噛んだ。更なる激痛に体が震え、視界がはっきりと晴れる。彼が求めていたものがそこにあった。少女の頬に赤みがさし、眉が穏やかに下がり、そして彼女の口角が上がり――私は笑っていた。それを見た時、彼も笑っていた。喉から出たのは絶叫で、頬にまで根が張りぎこちない笑いではあったが、確かに彼は笑っていた。彼の全てが、私に流れ込んできた。


 ――ああ幸せだ、幸せだ。やっとあなたの、笑顔が見れた。





 その年一の嵐が過ぎた後、どこかの山の天辺で、古木が花を咲かしていた。初々しい細い緑の若枝の先で、季節外れの紅の大輪がそよ風に揺れていた。


                  (終)

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ウロの少女 蛙鳴未明 @ttyy

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