第8話


 傾きを強めていく赤い夕日が、部屋に塗りたくられた白を赤く赤く染め上げる。ブラインドの隙間から差し込む光の帯は、部屋の真ん中に据え置かれた介護用ベッドへと注ぎ込まれ、横たわる一人の男を照らし出している。

 その傍らには、ぼんやりと光を纏う半透明の同じ男の姿。光の届かぬ薄闇の中で、今にも泣きだしそうな表情を湛えた男の目は、反対側に佇むもう一人の顔を映し出している。同じように、いやそれ以上に泣き出しそうな男の顔を。

 またこの夢か。数えるのを諦めて久しい光景に、千樹は幾度目かのため息をついた。いつもと同じように。


 けれど、その瞬間胸に去来したのは、激情とも云うべき程の酷く激しい悲しみ。そして、羨望だった。


 羨ましくて、妬ましくて仕方ない。そう言って、頭の奥で子供のように泣きじゃくる千樹がいた。彼女は、灯里は欲しかった言葉を貰えたのに、どうせ自分は貰えない。聞きたかった声も、知りたかった言葉も自分にはどうしても得ることが出来ないのだ。

 なんで、どうして。そればかりを叫んで。千樹の心は千切れそうな程に痛み、苦しみに溺れまいと必死に藻掻いている。そのあまりの苦痛に、千樹は胸を押さえてしゃがみ込んだ。

 苦しい、誰か、誰か助けてくれ。懇願するように見上げた先で、悲しみを湛えた男の目が千樹を見つめ、その口がゆっくりと開かれていく。その瞬間、千樹は痛みも忘れて駆け出した。

 やめろ、止めてくれ。頼むからその言葉を口にしないでくれ。俺に声を聞かせてくれ。あの言葉をもう二度と聞かせないでくれ。

 相反する思いが同時に叫びとなって千樹の口から飛び出していく。言葉だけでは足りないと、伸ばした手が男の口を塞ごうとする。けれどもその両方共が、男の淡い身体を空しく掠めただけだった。


 『俺は――』


 男の口が開く。もう駄目だと、地に伏せて千樹は耳をふさいだ。


 『俺は、お前の事が何も分からない』

 

 今度は、ノックの音は聞こえなかった。


 「……夢か」

 微睡みから浮き上がりつつ、漸く口にした言葉は酷く乾いていた。本当に泣きじゃくった後のように、喉がカラカラに乾いて仕方がない。

 水を飲もうと、来客用ソファから体を起こす。その時、左目から冷えた雫が一筋流れていった。なんてことだ、本当に泣いていたなんて。軽い頭痛と羞恥の中立ち上がり、部屋の隅で埋もれている小型冷蔵庫へと向かおうとした。


 ――コンコン、と二回続けてノックの音が響く。


 瞬間、千樹はピタッと動きを止めると、油の切れた機械のようなぎこちない動きで首を扉の方へと向けた。

 いや、まさか。そんなはずは。あれから既に一週間、幻灯の残り滓ともいえる画像データは渡し、報酬の支払いも終わっている。彼女がここに来る用事など何も残っていない筈だ。しかし、そんなことを思っている間にもノックの音は続いていた。

 恐る恐る、といった足取りで扉まで近づく。覗き込んだ摺りガラスの向こうには、何故だか誰の姿も見えない。出てこないから諦めたか、それとも子供の悪戯だろうか。

 どちらにせよ、火事でもないならば扉を開ける必要は無い。そう思い、千樹が踵を返した時。


――コンコンコン。今度の音は三回だった。


 これはもうあからさまな挑発である。普段であれば無視しただろうが、この時は大変虫の居所が悪すぎた。挑発を無視できないくらいには。“むし”だけに。

良いだろう、そっちがその気なら打って出てやろうじゃないか。千樹はさっと振り返ると、取手を掴んで勢いよく扉を開けた。

 「いい加減にしろ! こっちは忙しいんだ! 」

 喉が渇いていたのも忘れて張り上げた大声が、コンクリートに囲まれた廊下に木霊する。視線の先、扉の前には誰もおらず、既に相手は逃げた後かと考えていると。


 「忙しいっていうならもう少し見た目を何とかしたら? もろ寝起きじゃないの」


 視界の外から、返って来ない筈の返答が返ってきてしまった。声の方向へと振り向けば、そこにはある筈の無い姿があった。

 「お前……何で」

 「ちょっと忘れ物を思い出したの」

 そう言って千樹の横をすり抜けた灯里は、ソファとテーブルが並ぶ前で仁王立ちになった。

 「やっぱりまだ掃除してなかったのね! 」

 そして、呆然とする千樹振り返った灯里は言った。

 「ねえ、掃除機とゴミ袋ってどこにあるの? 」

 「はあ? 一体何言って」

 「だから、掃除機とゴミ袋! 早く教えて」

 大きく一歩踏み込んできた灯里の勢いに、思わず「き、キッチンのすぐ横」と教えてしまったのは、不可抗力だったといえるのではないだろうか。

 気づいた時には既に遅く、千樹の目の前で床に積み上がった山……の脇に転がっていた紙ごみが、灯里の手によって次々にゴミ袋へと放り込まれていく最中だった。

 「ちょ、おい何してんだ! 」

 「見ればわかるでしょ。掃除よ掃除! ここ汚いから掃除しようと思って」

 「いらねぇよ! 勝手に触るんじゃねぇ! 」

 千樹の叫びなどどこ吹く風か。次々に手を動かしながら灯里は千樹へにこやかに告げた。


 「私、ここでバイトするから」


 「はああああああ!? 」

 都心の隅に建つ雑居ビルに、千樹の叫びが木霊した。


 誰しも死は平等に訪れる。が、その瞬間までの時間は決して平等ではない。ゆっくりと死へ近づく中で自らの意志を遺して逝ける者もいれば、突然命を奪われて誰に何を遺す時間すらない者もいる。そして、死んでいった者は二度と戻らず、過ごしてきた時間も、思い出も、感情も、意志も、遺せなかったものは永遠に失われたままだ。

 そして残されてしまった者達は、もう決して埋められない空白を嘆き、想像する事でしか慰めるしかない。


 しかし、その空白を少しでも埋めようとする者がいた。彼らは死者の有り様を写し取り、残された者に空いた暗い穴を優しい光で埋めていく。死者を通して現代社会に生きる人々の心を映し出す者。


 それが幻灯師である。

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幻灯師 彼方 @far_away0w0

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