雨、傘を忘れて

永井とこしえ

その日

 雨はまだ降っていない。

 けど、心の中は、土砂降りの雨だ。



 高校生活一年目の六月のある日。

 今にも降り出しそうな曇り空のもと、私は三十分かかる道のりを一人で歩いて下校していた。

 いつもだったら幼なじみであり恋人である彼と一緒に下校するのだけれど、今日は違う。



****



 数時間前。今日の放課後のことである。

 私は彼を空き教室に呼び出した。

 先日、彼がしていたあることについて質問したいことがあったからである。


「ねえ、昨日の休み、年上っぽいのお姉さんと買い物してたって聞いたのだけれど、兄弟にお姉さんいなかったよね?」

「え、え? どこからそれを」

「う、わ、き、なの?」

「そんな、浮気じゃないよ、訳があってな? 説明するよ、だから聞いてくれ」

「いい、聞かない。私、帰る。じゃあね浮気者」



****



 その時の私は、どうかしていた。

 自分の言いたいことだけを言い、彼の説明なんか聞こうともしなかった。


「はぁ……」


 ため息が出た。

 冷静に考えてみると、今回の件は完全に私が悪い。

 彼はただ、買い物をしていただけ。

 別に浮気が確定したわけではない。

 おそらく私は、そのお姉さんに嫉妬していたのだろう。

 それに、彼は浮気ができるような人じゃない。

 わかっていた。わかっていたはずなのに……


 彼に、浮気者、と言ってしまった。

 これは言ってはいけない言葉。

 本当に申しわけないことをした。

(謝らないとなぁ……)

 思うのは簡単。けれど、実行するのは難しい。



****



「謝らなきゃ」


 気付けばそんなひとりごとを空に向かってぼやいていた。

 私に少しでも勇気があったら、彼に謝ることが出来れば。

 ここは一つ、いるかどうかもわからない神さまに祈ってみよう。

 どうか、私の願いを聞いてほしい。


「どうか私に、チャンスをくれませんか?」


 この願いが届いたかはわからない。けれど、空からはタイミングを見計らったかのように雨が降ってきた。

 そこで私はあることに気が付いた。

(学校に傘忘れてるじゃん……)



****



 雨が降り始めた。

 最初は気にならなかったが、一分もしないうちに勢いを増し、傘がないと歩きたくないほど、雨は強くなっていた。

 仕方なく私は近くの建物の軒先に避難し、雨宿りをすることにした。


 避難してから数分が経つ。

 私はぼーっと、降っている雨を見ている。

 雨が止む気配は、まったくない。


 そういえば昔にも似たようなことがあったっけな。



****



 あれは、私が小学生だったときの話

 そのときも幼なじみである彼と二人で下校していた。

 途中で雨が降り出し、私たちは雨宿りをすることにした。

 何分も経った。けれど雨は止まない。

 彼は、何かを決心したかのような表情をし、私にこう言った。


「傘持ってくる」


 引き留める間もなく彼は雨の中へ走りだした。



****



 あれ? その後、どうなったんだっけ。

 んー、思い出せない。

 というか、懐かしんでいる場合じゃなかった。


 どのくらい時間が経っただろう。

 雨は止むどころか勢いを増し、傘なんかじゃ出歩けない強さなってしまっていた。




 もう、濡れて帰ろうかな……


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 いつもなら絶対に考えないことなのだが、今日はそのほうがいいと思えた。


 雨に濡れる決心をし、一歩踏み出そうとしたその時。

「見つけた……」

 聞きなれたその声を耳にし、私は声が聞こえた方を見る。

 彼だ。

 彼はずぶ濡れの状態でそこにいた。

 息切れもしている。おそらく走ってきたのだ。




「本当にすまなかった。俺がちゃんと説明してれば……」

 彼はすぐに謝ってきた。けれど、それは違う。

 悪いのは私である。だから私はすぐに否定した。

「頭上げて! 悪いのは私。だから謝らないで!」

「いやでも俺が……」

「お願いだから、謝らないで」

「……わかった」


 お互い、黙ってしまった。

 雨の音だけが聞こえる。

 私にはどうすればいいのか、わからない。

 ただ、時間だけが流れていく。




 唐突に、彼は私を呼んだ。


「これ、持ってきたんだ」

 そう言って彼はその手に持っていたものを私に差し出した。

「……私の傘?」

 彼が持っていたものは、私の傘であった。

 彼は、私の傘を持って雨の中を走ってきたのである。


 普通に考えたら、おかしいと思うだろう。

 だって、傘を持って雨の中を走ってきた。

 なんでその傘を差さなかったのか。

 なんでわざわざ届けに来たのか。

 ほかの人だったら絶対しないだろう。


 しかし、彼はそれをした。

 違う。彼だから、それができたのだろう。

 自分のためではなく、誰かのために動く。


「ふふっ」

 気が付けば私は笑っていた。

 彼の、誰かのために、というところ。

 私はそこに惹かれた。

 だから、彼と付き合っている。


 笑っているのを見て不思議そうに私を見つめる彼。

 私が言うべき言葉は謝罪じゃない。


「ありがとう」


「ん、そうか」


 私と同じように、彼も笑顔になった。



****



 彼にタオルを渡し、二人で幼い時の話をした。


「前も二人で雨宿りしたよね」

「あったなぁそんなこと」

「最後どうなったんだっけ?」

「すぐに雨がやんで、俺だけが濡れた、だね」

「あー、そうだった気がする」


 二人きりの時間を過ごした。

 気が付けば、雨は止み、太陽の光が私たちを照らした。


「そういえば、なんでお姉さんと歩いてたの?」

 ふと、あの人は誰なのだろうと、疑問に思った。

「あー、その、来週、記念日あるだろ? だから、プレゼント、どんなものがいいのか、兄さんの彼女さんに相談乗ってもらってたんだ」

「あー、なるほど。よかったぁ、浮気じゃなくて」

「俺には君しかいないよ」


 その言葉を聞き、私の胸は高鳴った。

 ああ、やっぱり私は彼のことが好きだ。

 そしてこの気持ちはこれからも変わることはないだろう。


 結局、神さまがいたかどうかはわからない。

 けれど、上空と私の心の中には鮮やかな虹がかかっていた。

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雨、傘を忘れて 永井とこしえ @tokoshie25423

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