【小説】春の汽車

紀瀬川 沙

本文

 春真っ盛りの一日にあてもなく乗った南海線の汽車は、黒い煙を吐いて青空に届かせ、草木の翠をなびかせて前進してゆく。車窓から見ると、畦道に生える立壺スミレからモンシロチョウがひょうと吹き飛ばされたのが見えた気がした。無論、次の瞬間には遠くへ運ばれている黒い箱の中の私には、これを確かめるすべはない。

 私はさっき、塔之原駅でこの蛍沢・辻戸方面行きの上りの汽車に乗り込んだ。プラットホームで三十分も待ち、ようやく来た車両に吸い込まれるように乗って今にいたる。その後、片時、空席を探していたが、その時にはじめてその美人を垣間見た。手前の席で紳士がくゆらす巻き煙草の煙越しではあったけれども、垣間見ただけで十二分にその美しさは認められた。小さな幸福をささやかに祝う程度の気持ちで、私は煙のベールを肩で払いながら、その美人の座る枡形の席へと向かった。美人と筋違いに座った。酔いやすい私には苦手な、進行方向に背を向ける席であった。この選択からして理性的ではないのだが、美人の近くを志向したことは暗にご理解頂けるのではないだろうか。

 美人と私との最初のやり取りは、私が席に座るわずかの間に行われた。私は遠慮がちに、枡席に入ることの許可をうかがった。彼女は許諾をほのめかす眼差しと会釈を呈して、二人の仕草が連続した春のひとときとなった。ここから私は美人を盗み見る悦びを得た。

 春の午後を走る南海線上りの二等には、私がこの枡席に着くことが傍目にも不自然に映らない程度の数の乗客が既に乗り合わせていた。ところどころ控えめに開かれた車窓からは、東風がすべり込んでは車中に息吹をもたらしていた。これに呼応するかのように、初夏に先んじてほころんだ芍薬の花が私のはす向かいに咲いていた。美人は座っていたので牡丹が正しいたとえかもしれないが。

 私は通路側に座ったので、窓の外を眺めるには身を少しよじらないとならなかった。窓の外を眺めて、時々美人を見、どこから乗ってきてどこで降りるのだろうかなどと徒然に考えていた。汽車は早くも久津のあたりに至り、白砂青松の景色が見えてきた。海沿いには松が櫛比して、丘には遅咲きの八重桜が根元を菜の花に守られながら葉を揺らし、羊雲の下で春を誇っていた。私は風光明媚を愛でながら、美人の横目縦鼻を盗み見た。あくまで自然に、彼女越しの窓の風景を見るかのように。緑の黒髪が東風にそよいでいた。

 とかくするうちに、汽車は海沿いを離れて旭山を貫通した。トンネルの長い暗がりは明瞭に美人の顔を窓硝子に映し、ともすれば私の心のうちの猿を起こしかねなかった。私は目を瞑った。トンネルはすぐに抜けて、今度は瞑ったままの目に陽春の光が眩さを貫通させた。目を開けた私の前、彼女は変わらず佳しい人であった。

 岩原駅に着いた。この駅で一人の老婆が乗車した。そしてその老婆は、私と美人の枡席に踏み入った。老婆は私の目の前、すなわち美人の横に腰を下ろした。老婆が足元に置いた鈍色の風呂敷は私の磨いたばかりの革靴の光沢に砂塵をつけた。私は居ずまいを整えて姿勢を直すようにして、革靴を後方へ引いた。道中の安心感を得たいという理由から、私はこの老婆の様子をうかがった。幸いにも先方はうつむいているため心置きは不要だった。顔の皺は千尋の峪のよう、唇はしゃべらずとも嗄れ声が聞こえるようであった。『日本霊異記』から出てきたように思い、笑いそうになった。

 この時私は、老婆の着物の色あせた濃紫と、美人の纏う江戸小紋の藤色とのあいだに共通する色を見た。私はその共通から逃げるように美人だけを見るようにした。もはや当初のひそかは落剝していた。向こうから意識されることなど厭うていなかった。肌理はこまやかで、はだえは涅槃の雪も欺く白さである。唇は福良としてルージュが乗っている。

 美人の横は決して見るまいとしている私の前で、老婆が大きくくしゃみをした。前かがみになった老婆は私の太ももの上に頭をつけるほどに迫った。次いで私には老婆の膏と垢が混じったような気流をまともに受けた。汽車の汽笛がなぜかこの時に鳴らされた。汽車は廃駅を通過してこの先のターミナルへと急ぐ。美人と老婆のあいだのわずかの隙間に、云十年の年月が横たわっているのが私にはしかと見えた。しかのみならず、この隙間には白駒が過ぎ、無限の空蝉の虚しさが往来していた。しかと見えたあとの私の前には、夏をたがえただけの、同じ百合の花が咲いていた。朝に紅顔ありてうんぬんの警句がよぎった。

 窓外に見える花桃のひとむらと、あまかける雲雀がやけに刺激的に映った。

 私は自分がいつ汽車の席を立ったか覚えていない。気が付くと二等車の出口扉を開けてデッキに出ており、すぐ着いたターミナル駅のホームに降りていた。停車に向けた速度とはいえどまだ感じるであろう突風にもぶつかった覚えがなかった。ただ髪型が崩れていたことで突風には知らぬうちにぶつかったのだろうと推し量れた。

 私は進みだす汽車を振り返り、黒い煙を青空に吐く車両のうちをうかがった。さっきまで私が座っていた席に、老婆が座りなおして元のようにうつむいた。美人を見ようと思ったが、私が去った枡席には、老婆の他には一人、見るに忍びない苦々しい顰めっ面をして老婆を一瞥してから大仰にそっぽを向く見知らぬ女がいた。

 汽車が出て行って開けた視界には、古びたレールが青山に向けてホライゾンタルに敷かれているさまが見えた。汽車の行く先の空は花曇りで雨催いだった。あの雲はやがてそぞろ雨をもたらすだろう。なるべく急いで家に帰ろうと私は思った。


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