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 それは今からおよそ三年前の、在りし日の記憶。

 二〇〇八年二月二十五日午後二時五十二分、東京駒場の試験会場の一室で私は死んだ。十九年あまりの、長くもあり短くもある命だった。

 東京大学の入学試験一日目、科目は数学の試験であった。私の座席は第七列Cの席だった。試験場は、一つで五人分のスペースがある長机が十五列、左右と中央に三つ並んでいた。本来の大学の講義では学生が詰めて座るべきところには、左からA、B、C、D、E、横の長机に移ってF、G、Hと一番詰まりの席のOまで符号があって、この試験においては受験生同士の間隔をあけるためAとCとEといったように一つおきに受験生が置かれていた。

 試験場は試験開始前から既に静まり返っていた。絶え間ない雨音のほか、今では受験生が力んで持つペンと彼らの運命をつかさどる解答用紙との摩擦音だけが気味の悪い音を立てている。はじめのうち冷え切っていた室内の空気は、籠もったままでようよう湿り始めていた。だが、熱せられ弛緩してきても無理はないはずの空気は依然、みなの緊張する心を映し出すかのように張り詰めていた。もっとも、私は不肖にも二回目の受験だったから慣れないことからくる緊迫の様子はなかったのだが。私にとっては問題が解けるか否かだけが最大にして唯一の大問題であった。この時に他のみなも同じだと気づけるような余裕は、私にはなかった。

 ここで、午後の試験開始からまだ五十分しか経っていないにもかかわらず、早くも私のペンがまるで誰かに強い力で抑え付けられているかのように微動だにしなくなった。私の顔は緊張とはまた違う色をたたえ始め、みるみるうちに青ざめてゆき、とうとう死相にまでなった。

 この時の私は、一問目の連立不等式とその領域に関する設問しか完答できていなかった。だがまあ私のことだから、この完答したと思った一問目ですら何かしら不注意からの減点があったであろう。

 試験開始後すぐに四問すべてに軽く目を通したが、結局は比較的取り組みやすく設定されている第一問から順当に取り掛かっていた。結果このざまであった。私は一問目から二問目の等比数列へと移ったが、三つある小問の二つ目までたどり着くこともできなかった。次いで逃げるように三問目に当たったが、落ち武者は門前払いを食らった。這う這うの体で最終の第四問確率の問題へと転進したが、そこでも外堀を埋めただけで本丸はおろか内堀にすら至ることはできなかった。

 このような経緯で、試験開始からたった五十分ほどで私の数学的思考は枯れ果てた。あとはもう何もすることがなかった。解けない問題の文章を熟読して考え続けることは続けるが、問題文の意味は最初から分かっていて、問題文に対して正答をささげることはいつまでもできなかった。考えるうちに刻一刻と時間が過ぎて、解法途中までの点数の上積みも望めないことが残酷に分かった。

 私は意味のない点数の計算を始めた。こうして試験時間中にとらぬ狸の皮算用に励むのは愚の骨頂でいよいよ破滅的であるのは自覚していた。それ以外に、することがなかった。一問二〇点、全四問で計八〇点の数学で、計算結果はどういい方面に転んでも三〇点ゆかなかった。楽観的、希望的に観測しても二〇点後半にさえ届かないだろう。文系の受験生としては数学で少なくとも三〇点台後半から四〇点ほどは取らなければ、文系科目でいくら点数を稼いだとはいえ合格が難しいというのがセオリーであった。私は絶望を確かめるために試験時間の一部を無駄にした。試験終了までの残りの時間すべてが、私にとって手持無沙汰な、そして不毛な自問自答を強いられる酷な時間となった。

 受からないとなると、わざわざ浪人したこの一年を非常に惜しく感じた。明日試験二日目の科目さえ出席するのが無駄に思えてきた。駒場にほど近い渋谷のホテルに一人で泊まっている身だから、別に二日目は大学へ行っても行かなくてもどちらでもよかった。静岡県東部の地元に帰ったら親や親せきに叱責されるかもしれないが、そんなもの私にとっては馬耳東風だった。点数未達でも未受験でもどちらでもよかった。受験も合否もあくまで私の問題であるから自らで終止符をどこで打とうがまったくの自由だと思っていた。ただ、完結した自己の問題と信じ込んでいるからこそ、なおさらどこまでも自己の呵責を逃れられない。

 何なら帰りに東海道線にでも飛び込んでしまおうか、いっそのこと東海道新幹線で派手に数キロ先まで飛び散らかってやろうか。いや、周囲が悲しむか。私も単純に痛いのは嫌だ。でも痛いと知覚する前に存在自体がなくなるのだろうか、それなら都合がいいかもしれない。

 などと混乱して考えていた私はほとほと疲れて、とうとう頬杖をついて窓外の雨を眺め出した。無論、試験中なので真横を向くことはできない。左斜め前の受験者の頭越しに、眼球だけ動かすようにして外を見た。外の冷たい雨も、室内の湿った空気も、横を向くことすら禁じられている私自身も、何もかもが沈鬱であった。

 思えば私はこの二年間、合格可能性を判定するための模擬試験ではすべて結果Aというまことにおぼつかない評価を得ていた。しかも極めて皮肉なことに、一年目に東大を受けて不合格だった後の、不合格者のなかで成績順に評価をつけられる際にも不合格者のなかのAランクだった。とんだ笑い話だった。模擬は模擬、判定は判定であって、本試験、合格ではない。百も承知だった。当時馬鹿らしくなった私は、いっそ合格している私立に行こうかとも考えた。そんな時、大手予備校から学費免除の知らせが届いた。予備校までの交通費は出ないので乗り気ではなかったのだが、通っていた高等学校の教諭にもことさらに勧められ、どうなるか分からないが惰性で予備校に通うことになった。そして今日吉日の絶望に至った。

 もちろん会場の試験官は、そのような七列C席に座る一介の浪人生の絶望を知る由もない。見るからに退屈そうに、ただ受験生に如才なく威厳を振りまくように、試験場内に革靴の音を響かせていた。

 試験官は二人いて、一人はマスコミなどで活躍の政治学者Kであり、もう一人は小柄な国文学者Wだった。Kのことは私でもマスコミを通じて知っていたが、Wのほうは当時の私にとって素性不明の初老の男だった。そもそも彼が国文学者であると私が知るのも、これよりずっと先、およそ一年半後のことである。

 と、場内にてWは、飽きっぽいのか、あるいは足腰にガタが来ているのか、おもむろに歩くのをやめて私の席とは反対側の窓硝子に近づき、窓枠に両手をかけて窓外を眺め始めた。学者という畳水練の職業でも、やはり政治学者より国文学者のほうが風流を解するのだろうか。休みなく律義に試験場内を行ったり来たりしているのはKだけになった。

 私は急に現実へと戻された。何かと思えば、右隣の席の受験生が大きなくしゃみをしたのである。反射的に視線を外の景色から机へと戻された私の横目に、隣の学生服の動きがかすかに映った。彼から見て左側、私にとって右側に広げられた彼の問題用紙から推察するに、どうやら彼は私のてんで解けなかった三問目の整数問題を解いているらしかった。彼のペンの円滑に進む音が、大いに嫌味をもって私に聞こえた。

 この第三問こそが受験生の合否をくっきりと二分する天下分け目として置かれた問題であることは、この大学の入学試験を知る者にとっては誰にでも明らかであった。私はそれを解けなかった。はじめのうちは数行だけでも何か書いて点数を得ようと果敢に試みていたが、この期に及んでは半ば開き直ってすべて消していた。私の解答用紙の三問目のスペースは閑散としていた。それまでは。

 ふと見ると、窓際のWはまだ遠い目をして心はもはや試験場外にある。当分は此岸へ帰ってきそうもない。

 右隣の学生服は、ずっと同じ位置に固定されたままだった首や肩が凝ったためだろうか、姿勢を変えるために問題用紙と解答用紙の机上の位置を左右反対に変えた。

 彼の解答用紙が私の右側へと繰り出された格好だ。あくまでも右側に置いた自分の問題用紙の問題文をじっくりと読む体で、私は見るともなく右側を見た。記された文字までは視界の限界で確認できなかったが、わずかだが確かに少しずつ、彼の解答用紙が私へと接近していた。他の科目には強い私は、これをのぞき見れば必ず受かるだろう。この時初めて、私はあのことを思い浮かんだ。もちろんまだ実行するまでは意を決していなかったが、これから、これ以上に私にとって好都合なことが生じたらその時に誘惑に打ち勝てるだろう自信はなかった。

 私の頭のごくごく片隅で、答案をのぞかれた者だって同じ受験生なのだから貴重な時間を削ってまで訴え出るようなことはすまい、試験後に言われたら徹底的に否認すればいい、咎められるなら咎めてみろ、といった悪魔が育ちつつあった。いずれかの時点において、この悪魔はいつの間にか巧みに狡猾に私の思考を支配しきっていた。

 だが現実としてはこの解答用紙の位置ではのぞくのにまだ首を大きく回す必要があって、試験官に発見される危険が非常に高かった。

 ここで断っておかなければならないのは、私はこの二年間、一度も、不正行為をしてでも試験に通ろうなどとは決して思っていなかったということである。幼い頃から郷土で秀才の誉れ高かった私は、むしろそのようなことをする者どもを下劣と忌み嫌いもしていた。ではなぜ、と思われるかもしれないが、実際にこのような場面に当事者として出くわしてみればよい、きっとあなたも神の思し召しと勝手に解釈するはずであろう。むしろ嬉々とした笑みが口元からこぼれるのを我慢するのに大変かもしれない。

 まあ、善悪の問題はやはり置いておき、それよりも私の続く語りを聞きたまえ。

 私は勇気がないままで、いたずらに時間だけが流れた。時計を見ると午後三時十五分を回っていた。試験終了、すなわち審判の時まではあと二十五分しかなかった。私は自分の解答用紙が机の前縁と前席の受験生の背中ではさまれていることも気にせず、ただただ右側に意識を集中させていた。まだ見えなかった。

 突然、右側の受験生の解答用紙がさらにこちらへと近づいてきた。彼は三問目を終えて四問目の確率の問題に歩を進めたらしい。彼が解答を記入するスペースを移すに連れて、その解答用紙が私のほうへと着実に近づいてきた。横目に罫線が見えた。文字が見えた。そして最終的に、不自然な動きをしなくとも、ただ眼球運動をしてわずかに軽く顎を右へとずらせば内容まで見える位置となった。仮に私が逡巡するうちに彼が四問目も終えて見直しに入ってしまったら、機会は完全に失われると思った。残された時間はもうごくわずかだった。否応なく決断が迫られていた。そっと確認すると、窓際のWの意識はまだ外を散歩していた。いける、と私は思った。

 問題は私の視界にもう一人の試験官Kがいないことだけだった。そしてそれは、残り唯一の、最大の問題だ。Kはおそらく私の座る第七列より後方を巡回中なのであろう。いくらわずかな動きで隣を盗み見れたとしても、それが傍から、ましてや後ろから監視されていたとしたら、ばれるかどうか想像もできなかった。万一にもばれたら目も当てられないことになる。そんな無謀な冒険者では私はなかった。私には、私の後ろで私だけを冷たく凝視し続けるKの視線が痛いほどに感ぜられた。疑心暗鬼に陥っていた。私は神経を集中して、Kの革靴の音を探した。

 にわかに恐るべき革靴の音がすぐ後ろから聞こえてきた。いや、正確にはさっきから音はしていたのであろうが、私の耳に入っていなかったのだろう。ちょうど私たちの列を前方へと過ぎゆくKの出現に、私は実際に一寸ばかりは飛び上がったはずである。幸いにもKに私の狼狽は気づかれなかった。Kが試験場最前列に行き着くまでにはまだあと五列分の距離がある。大仰に歩いているためか、Kの歩行速度はかなり遅い。この牛歩を続けてくれれば私には充分な時間的余裕が与えられる。どうか途中で気が変わって振り返らないでくれと、生まれて初めて私は得体のしれない神なるものに祈った。

 そのまま私は右隣の受験生の解答用紙を、あらん限りの力で眼球を右側に寄せて姿勢の変動は極力少なくして盗み見た。紙の上の文字を細かく追ってゆく余裕はない。解答のキーとなるものを盗むのが唯一の目的だ。この目論見は大成功を収めた。私はそこに簡単な表とグラフ、場合分け、そして三乗した変数の幾つかを発見した。これらをすぐに記憶に留めるできたことが、これまでの私の受験勉強における努力の賜物に違いなかった。私はすぐに目を離した。

 ただちに前方の試験官Kを見たところ、Kはまだ前を向いて第二列近くをゆっくり歩いているところだった。彼の目が後ろにでもついていない限り、見つかっている懼れはなかった。もう一人、窓際のWはまだ外を見ていた。それから私は、何事もなかったかのように時計を見て、現在の時刻午後三時二十三分を確認してから、自分の解答用紙を机の前縁から引っ張って手元に寄せ、残り時間に焦る普通の受験生のように解答作成へと戻っていった。

 二人の試験官にはもちろんのこと、右隣の学生服にも気づかれなかったようだった。後方の受験生にはどうだったなど、気にしてはいなかった。畢竟、私の目的は首尾よく達せられた。

 まさか三問目の整数問題でこのような解法を当てるとは思いも寄らなかった。独力では絶対に解けなかった。だがこれだけのキーを持てば、難問も容易に解くことができた。解答作成には十五分もかからなかった。試験終了の三分前、午後三時三十七分には既にペンを擱いて試験終了の合図を待っていた私の解答用紙には、理路整然とした三問目の解答が記されていた。

 数学の試験が終わり、一日目が終了となった。

 二日目は得意な日本史・世界史・英語だったので、もはや記憶にも残っていないぐらいに何の苦労も感動もなくこなした。特筆すべきことは何もなかった。

 当然のことながら、私の、いや正しくは右隣の学生服の受験生の数学第三問の解答内容は、予備校各社発表の模範解答と一致していた。


 そして二〇〇八年三月十日、私は晴れて東大生になった。最初の年には本郷キャンパスまで合格者掲示を見には行かなかったので、本郷での合格発表の光景は初めて目にするものだった。そこで私は直接自身の合格掲示を見た。人並みに嬉しかった。その頃から内心では嬉しいものの上手く表情にできなかった私は、おそらく傍目には不合格だった者のように見えたはずである。乏しい表情のまま、私は自らの番号の下方へと視線をずらした。私は自分の受験番号と試験場の座席縦一列分だけ異なる番号がそこにあるかどうかを確認したかった。あの時の右隣の受験生の番号を探したのだった。そこに彼の受験番号は存在しなかった。ふいに私は周囲を見渡した。悲喜こもごもの人々がごった返し、仮にいたとしても、彼の姿など見えるはずもなかった。

 私はその場から離れた。受かったとなれば本郷も駒場も飽きるほど通うのだ、もういい、とっとと実家に帰ろうと思った。教育学部の建物を右手に、総合研究棟を左手に赤門まで一直線の道を一人で歩いた。なぜか笑いが込み上げていた。その笑いは、最初は喜びの笑い、途中で卑屈な笑い、最後には邪悪な笑いへと変わっていった。この状態では実家へ吉報を伝えるのもちょっと憚られた。

 最後に込み上げてきた邪悪な笑いをはり付けたまま、喉を突いて出てくる声にならない音を殺して赤門をくぐった。合格発表に詰めかけた大勢の人々で混み合う赤門前で、信号を待っていた私は大音声を伴う笑いを抑えるのに必死だった。


 入学後しばらくして、入試の点数を開示する制度を利用したのだが、それによると私の入試における総得点が合格最低点を上回ること、二〇点にも満たなかった。あの日あの試験場のあの席で私が完答した、本来なら白紙であったはずの数学第三問一つ分の得点がなければ、私は不合格であったのである。きっと先に受かっていた私立大学に入っていた。それはそれで面白かったかもしれない。どこに所属しようが私は私だ。と言えれば何と良かったであろうか。

 ちなみに、私は入学後、あの日の試験場たりし教室を講義で利用するときは決まって、あの日自分が座っていた座席、ではなくその右隣の学生服が座っていた座席に腰を下ろした。そして講義のあいだじゅうほとんど寝て過ごした。ある時、またその席で眠りに落ちる寸前、自分のよだれが机の上に落ちるのを見て、人生なんてしょせんはこうして決まるものか、馬鹿らしい、と私は思った。


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【小説】東大入試 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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