0-13 『そうして、物語は始まる。』

 自分で思っていたよりもはっきりとした声が出て、織雅は少しだけほっとした。


(声が出ないかもしれないと思ったけれど、そんなことはなくて良かった)


 これも、『揺籃の間』に入る前にルシフェルが勇気づけてくれたからだろう。

 何より、彼がとなりで座っていることが、彼女に力をくれる。


 気持ちを奮い立たせた織雅は、自身の懐から小刀を抜き出した。

 それを右手で持つと、彼女はそのまま左手の腹に、刃を走らせる。

 深く刃を当ててはいないこともあり、血はゆっくりと刃を伝っていった。


 鈍い痛みがあったが、しかしこれも儀式の一環だ。

 顔をしかめることなく痛みに耐えた織雅は、傷口から刃を話す。そして小刀の刃先が下に向くように調整しつつ、自身の目の前に置かれた蝶足膳ちょうあしぜんに乗った真紅の盃に、自身の血が落ちるように調整する。


 ぽた、ぽた。


 血がある程度落ちるのを確認した織雅は、あらかじめ膝の上に用意しておいた懐紙で刃についた血を拭ってから、それら一式を蝶足膳の上に乗せてルシフェルに渡した。


 自身の手のひらを確認すれば、浅い傷だったこともありすぐに塞がっていくのが分かる。


 これが、桜の神キルヘミリナの加護の一つだ。

 浅い傷ならすぐに、一般的には致命傷と呼ばれるような傷であっても、何度も深手を負わなければ死ぬことはない。

 そのため、織雅はもう一枚の懐紙で軽く自身の手についた血を拭いつつ、祝詞を再開した。


「高き尊き華の王を仰ぎまつり、清き赤き誠心まごころを以ちて誓ひ奉り拝み奉る状を、たいらけくやすらけく聞看きこしめうづない給いて」


 一言一言、丁寧に発音するよう心がける。

 目の前に座す、いと高き華の王の意識に、届くことを願って。


「結び固めし紅縄えにしの解ける由なく、契り交わしし誠心まごころの変わる事なく、今より行先更に広き厚き恩頼みたまのふゆを幸へ給いて、身健やかに心楽しく、互いに相睦び相親しみつつ助けあななひ」


 そうしているうちに、ルシフェルも織雅同様、小刀で手のひらを傷つけ、盃に血を落とした。

 元々入っていた織雅の血とルシフェルの血が混ざり合い、一つになる。


 その様がなぜだかとてもいけないことのように思えて、織雅はちらりとルシフェルの顔を窺った。しかし彼は終始無表情で、そこから何を考えているのか読み取ることはできない。


(……いけない。儀式はまだ終わってないのだから、しっかりしないと……)


 一瞬、気が逸れかけた織雅だったが、なんとかバラバラになりかけていた集中力の束を一つに戻した。

 そして、盃を両手で持ち、ゆっくりと立ち上がる。


 足がもつれないように、と気を配りつつ、緋毛氈の上をすり足で歩く。

 さほど長い距離ではないのに、なぜだかひどく緊張した。


 立ったまま池の淵にまでやってきた織雅は、すう、と息を吸う。


「別けも今し世の状常ならぬ時に在れば、力をあはせ心を一にして水杜国を振ひ興すべき業に勤み励み、神ながらの正道まさみち清く正しく踏み行はしめ給ひ、水杜国を立栄えしめ給へと」


 次が、最後の一文だ。

 ここまで、なかなかに上手くできている。


(あとは……最後の一文を読み上げてから、この盃を池に落とすだけ)


 そう思いながら。

 織雅は目を伏せつつ、唇を開いた。


「――かしこみかしこみも乞いねぎらくと白す」


 するり。

 織雅の白い手から、まるで滑るように盃が落ちていく。


 ぽしゃん。


 小さな水音を立てて池に落ちた盃は、そのまま吸い込まれるように水底へと沈んでいく。

 まるで水上に足跡でも残すかのように、ゆらゆらとたゆたっていた血はどんどん薄まり、水の一部になり、そして見えなくなってしまった。


 ――これらの儀式を、『真紅の誓い』と呼ぶ。


 王族が結婚をしたことを華王陛下に伝える際に必ず行なう、血による儀式だ。

『固めの盃』と呼ばれる、新郎新婦双方が酒の入った盃を互いに飲み合うものと似てはいるものの、こちらは血によって成立する儀式なため、より強い契約の意味を持つ。


 なんせこの世界において血というのは、それ相応に強い意味を持つからだ。

 織雅が桜の神キルヘミリナ代行という大仕事を過不足なく行えるのも、血による継承。つまり、血によって成される契約である。


 これをわざわざ護衛の政略結婚相手と行なうというのは、相手が絶対に水杜を裏切らないよう縛り付けるためだった。


 それなのに、実際の関係は夫婦どころか他人行儀のままだというのだから、なんとも言えない。


(けれど……何か起きると思っていたのだけれど、何も起きないのね……?)


 池の底に沈んでしまった盃を見つめながら、織雅は拍子抜けしてしまった。

 だってこんなにも大仰な儀式で、夫婦以外の参列者は決して許さないなんていうものなのだから、儀式を終えたらもっと劇的な変化でも起こるのかと思っていたのだが。

 しかし、『揺籃の間』は来たときからずっと変わらず、蛋白石オパールのような独特な光によって、ゆらゆらと揺れているだけである。


 少し不安に思った織雅だったが、つい、と袖を引かれて我に返った。

 みれば、ルシフェルが織雅のことを見上げている。その視線からは、「早く退出しよう」という言葉が見てとれた。


(そ、そうね……儀式も終わったのだから、長居は無用よ)


 そう思った織雅は、元いた位置まで下がってから座り、来たとき同様、二礼二拍手一礼をする。

 そしてルシフェルに支えられながら履き物を履いて、両親が待つ『あわいの間』へと戻ったのだった。








「織雅ちゃん、お疲れ様!」

「織雅、すごいぞ! さすが僕たちの娘だ!」


『あわいの間』へと戻った織雅たちを出迎えたのは、感激した様子の両親だった。


「ええっと……どうされたのですか、お二人とも」


 緊張したせいなのか、それとも『揺籃の間』の神気に当てられたのかは知らないが、妙に疲れていた織雅は、呆気に取られてしまう。

 すると、和泉子と玉風(ユーフォン)は互いに顔を見合わせた。


「もしかして……『揺籃の間』では何も起こっていないの?」

「? は、はい」

「そうか……なら外に行こう」


 そう言われたが、前に進もうとして足がもつれそうになり、織雅はぎゅっと目をつむる。

 しかしそれを、支えてくれる手があった。


「……お気をつけください」

「あ、ありがとう……ルゥ」


 となりにいたルシフェルだ。

 しかしそれでも、織雅の足取りがだいぶおぼつかないことを悟ったのだろう。ルシフェルは少しため息をこぼしてから、スッと少ししゃがむ。


「……しばし、ご容赦を」

「え」


 そう言った瞬間、織雅はルシフェルに軽々と横抱きにされていた。

 あまりにもスムーズな動きに、織雅はあんぐりとしてしまう。


(いやだって、この赤無垢だけで相当な重量……)


 その上、織雅の体重を加味したら、こんなにも簡単に持ち上げられるはずがない。なのに、ルシフェルはまるで重量など感じていないとでもいうような態度で、すたすたと外へ向かってしまった。


(わ、私はこんなにもふらふらなのに、どうしてそんなにもシャキッとしてるの……じゃ、じゃなくて!)


 驚きのあまりすっかり失念していたが、これはいわゆるところの、お姫様抱っこというものだ。

 お姫様抱っこ。乙女の夢である。


 織雅は王族として、何かと自分に厳しくしてきたが、それでも乙女らしい思考は持ち合わせている。

 何より、今目の前にいるのは初恋の、そして絶賛片想い中の相手で。


 だから、現状はあまりにも刺激的すぎた。


(〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!?)


 なんとか声を出さずにはいられたが、先ほどとはまた違った緊張感で体がガチガチになる。


(お、落ち着いて私……横抱きのときは、変に力が入ると逆に相手が抱えにくくなるから……それにこれはルゥの善意によるもので、そういう意図はないから……!)


 そう自分に言い聞かせ、ルシフェルの腕の中で借りてきた猫のようにおとなしくなっていた織雅は、しかし渡り廊下に出た瞬間それどころではなくなってしまった。


 桜。


 視界を、桜の花びらが散っていく。

 そんなこと、『永遠咲きの桜』が年中咲き続ける『櫻庭さくらば』では普通のこと。そのはずなのに。


 視界を横切る花びらは、いつもと違い淡く緋色の光を帯びていて。

 何より、その量が桁違いだった。


「何、これ……」


 手を差し出せば、ひらめく花びらが一つ、二つと手のひらに降り積もる。

 呆然としたまま空を見つめる織雅とは打って変わり、ルシフェルは無表情のまま足を進めた。


 そうして訪れた『永遠咲きの桜』は、降りしきる花びらと同じ淡い緋色をまとった桜が、満開に咲いている。


 心なしか、いつもより花の数が多い気すらした。


 強い香りを持つ花ではないのに、ほのかに甘くて柔らかくて、けれど今にも消えてしまいそうな淡い香りが優しくたちのぼる。


 そのあまりにも幻想的な光景に、何が起こったのか分からず目を瞬かせていると、ついてきていた和泉子が柔らかく微笑んだ。


「華王陛下が、二人の結婚を祝福してくださっているのよ」

「……そんな、まさか……」

「だって赤は、華王陛下のお色じゃない」


 織雅たち王族が緋色の瞳を持つのも、赤が桜の神キルヘミリナの色だから。

 今、織雅が赤無垢を着ているのもそれが理由だ。


 そして本日、織雅とルシフェルが婚姻を結ぶということは、水杜中の民が知っている。


 だから、『永遠咲きの桜』が紅く色づいたのを見て、きっと誰もが和泉子と同じことを考えるだろう。


「そうじゃないと、こんな状況は説明がつかないわ。わたしたちのときは、こんなこと起こらなかったもの」


 それを聞いて織雅は、「そうだったらいいのに」と思う。


 ちらりとルシフェルのほうを見たが、彼は目を細めるだけで特に表情を変えたりはしていなかった。


(華王陛下からの祝福だなんて……最高の声援だわ)


 しかしそれを声に出すことはせず。

 織雅は、まるで雪のように降りしきる桜の花びらを、ただ見上げていたのだった。


 そしてこの光景を見た水杜の民たちは、織雅のことを『歴代最高の神様代行の誕生なのではないか?』と噂するようになるのだった。











 ――しかしそんな中、一つの波紋が織雅の元へ静かに落とされる。

 それは、一通の手紙だった。


『わたしは、あなたたちの罪を知っている。

 あなたが即位するのであれば、あなたは最後の桜の神キルヘミリナ代行者となるであろう。』



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《結婚の祝詞》

かけまくも綾にかしこきはなの王の大御前おおみまえに――かしこみかしこみまおさく

高き尊き華の王を仰ぎまつり、清き赤き誠心まごころを以ちて誓ひ奉り拝み奉る状を、たいらけくやすらけく聞看きこしめうづない給いて

結び固めし紅縄えにしの解ける由なく、契り交わしし誠心まごころの変わる事なく、今より行先更に広き厚き恩頼みたまのふゆを幸へ給いて、身健やかに心楽しく、互いに相睦び相親しみつつ助けあなな

別けも今し世の状常ならぬ時に在れば、力をあはせ心を一にして水杜国を振ひ興すべき業に勤み励み、神ながらの正道まさみち清く正しく踏み行はしめ給ひ、水杜国を立栄えしめ給へと

かしこみかしこみも乞いねぎらくと白す


以下、現代語訳になります。

(素人が色々なものと睨めっこしつつ整えたものなので、もし間違ってるんじゃ?と思われましたらこそこそっと教えてくださると助かります)

思い浮かべるのも恐れ多い桜の神キルヘミリナの大御前に、恐れ畏んで申し上げます。

高く尊い華王陛下を仰ぎ奉り、清く明るい誠の心をもって結婚の誓いをさせていただく様を、華王陛下には平成で平安な心でご覧いただきたく存じます。

ここで結び固めた縁は解ける理由もなく、契りを交わした誠の心は変わることなく、今から未来に渡って華王陛下の広く厚い恩頼によって幸福にしていただき、体は健康に、心は楽しく、互いに相睦み合いながら助け合わせていただきたく存じます。

特に今のような常に変動する世の中にあっては、力を合わせて心を一にして水杜国を振るい興すべき事業に勤め励み、古くから築いてくださった道を踏み進ませていただき、高らかに栄えさせてくださいますよう、謹んでお願い申し上げます。




降りしきる祝福と、一抹の不穏。

序幕、これにて幕引き。

――そしてこれより、第一幕が開演します。

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敏腕従者な政略夫と神様のおしごとはじめます 〜華神秘譚〜 しきみ彰 @sikimi12

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