【小説】ニューカレドニア

紀瀬川 沙

本文

 あなたと恋人の二人を乗せたヘリコプターがニューカレドニアの海上を飛んでいる。時は二〇一〇年、平成二十二年の十一月の末。季節は南半球ではいよいよこれから真夏のトップシーズンになろうかという時節。

 もちろん二人は自分たちが生まれる前の時代の、この島について謳った小説や映画、音楽など詳しくは知らない。だが不思議にも、ここニューカレドニアが天国にいちばん近いことを二人は今知っている。なぜか。きっと極めて単純明快に、この島が自らに直接触れる二人にそう教えたのだろう。

 常夏の島を吹き渡る南風は、地上では極上の心地よさを与えてくれるが、この平和な風を乱して強引に飛ぶヘリコプターの機内でさえ、強風と化してもなお優しい。その優しさは、強い風にもかかわらずあなたの隣から恋人のつける微香性の日焼け止めの香りが感ぜられるほど。そしてこの優しい風はまるで子どもが戯れてちょっかいを出すように、恋人の南国柄のワンピースをそよがせ、なで肩の肩に掛かる紐をしつこくずらす。恋人が何度も何度もこれを直した後、いい加減困り果ててしまうと今度はあなたがそのつど直してあげる。だがヘリコプターが一定の高度まで上がると、いつの間にかその必要もなくなった。流入する風はただ、常夏の島でもあなたがこだわって身にまとっている白い長袖のワイシャツと、搭乗前に花付きの麦わら帽子をロビーに預けて今や自由を得ている恋人の長い髪だけをさらさらと透き通ってゆく。

 この南の島では、東京とかいうどこぞの遠い国の都とは異なって、潮風とビル風の区別が存在しない。島全体を包む空気は島のどこでも完全に一致していて完全に美である。かくいう今も、あなたと恋人の唇を同じ風がずっと、撫でては通り過ぎている。昨夜は長い空の旅の疲れもあってか二人は大人しくすぐに眠りに就いたので、じゅうぶんな眠りの後の一日の爽快さがカンカン照りの午後にも持続している。昨夜、夜を利用して余計に疲れることはしないでおいたことが幸いしたようだ。

 ヘリコプターはまず、二人が昨日降り立ったヌメア国際空港を横目に、眼下に市街を収めながら飛んでゆく。ヌメアの街の中心にはグランドホテルをはじめとする様々なビル群、郊外には海沿いにコテージを複数構えるリゾートホテル、海岸にはハーバーが見える。山の裾に並ぶコロニアルスタイルの建築はオフホワイトの色を呈して海に向かい日光を浴びている。あなたの隣の恋人は、まだ市内周遊だというのにもう感激してはしゃぎ、一泊目に泊まったリゾートホテルのタワーを指差して喜んでいる。

 白昼あなたと恋人が南国リゾートの雲一つない青空に浮かんでいるのと同様に、ヨットやボートの多く見えるハーバー付近のエメラルドグリーンの海には、主として白人の快活な旅行者たちが船を操り浮かんでいる。空と海の青さは最終的に水平線で結ばれるまで、そこまでの色合いのグラデーションさえも似通っている。この調子では、エメラルドグリーンの近海を越えてコバルトブルーの深い外洋の果ての水平線を境に空と海とがひっくり返ったとしても、さして支障はないようにも思えてくる。

 続いてヘリコプターはヌメアからすぐ近くの海に浮かぶカナール島のほうへと向かい旋回し始める。下には海路でカナール島へと向かうタクシーボートが何艘も並行して走っている。空から見ると、青い海の上にタクシーボートが残す幾筋もの白線が後方になるにつれて広がってゆくさまが美しく眺められる。カナール島の周りの海ではシュノーケリングやダイビングを楽しむ人々がぱらぱらと目につく。

 二人が大パノラマにうっとりしていると、白く輝く砂浜から遠浅の海、ボート、そして珊瑚礁の先にアメデ島の真っ白な灯台が見えてくる。さすがにこの島まで海路三十分強をかけてまで上陸する人は少ないようで、美しい風光をもった島はもったいなくも閑散としている。いくら空から短時間で来たとはいえ下りることはできないが、機内から見るだけでも島のまだあまり人の手が加えられていない自然美はじゅうぶんにうかがうことができる。それまで白い白いと思ってきたヌメアやカナール島の砂浜よりもいっそう白く、南国に似つかわしくない漢語を用いるならば皓々といったところが言い得て妙のような気がする。

 この時、今まででいちばん大きなはしゃぎ声がプロペラの規則的な機械音さえも越えてあなたの耳に届く。

 声のほうへとあなたが目を移すと、あなたは心から楽しんでいる恋人の可愛らしい笑顔を再発見する。これに心をつかまれたあなたはもう、海の美よりも空の美よりも、すぐ隣にある女性の美しか目に入らなくなる。だがそのようなことを知る由もない恋人は、あなたをうながして自分の側の眼下に広がる景色を見せようとする。うながされてあなたは隣に寄り添うようにして反対側の海を見遣る。今は眺望のため外してワイシャツの胸ポケットに差していたあなたのサングラスが、あなたと恋人の体に挟まれてカチンと鳴った。

 一応景色を見たものの新しいものを発見できずにいるあなたに、笑顔の恋人が華やぎながら或る方角の海を指し示す。

 そこへ目を移したあなたにも、広い珊瑚礁の海に浮かぶ海亀が二匹、あたかも連れ添うように悠々と泳いでいる様子が見えた。二匹の海亀という同じものを見ているあなたと恋人は、考えていることもまた同じ。そしてそれはどちらが先に言い出すまでもなくお互いに了解せられている。あなたが気恥ずかしくて言い出すのを躊躇っていると、果敢な恋人が先に口にする。あの連れ添う海亀はまるであなたと私のようだわ、と。当然あなたもまったくの同感で何の異論もあるはずがない。あなたはただ何も言わずに恋人を抱きしめれば良い。だが何分ヘリコプターのシートに安全装置で固められているのでそれも叶わない。あなたは、はにかみながら相づちを打って、隣の長い黒髪を撫でるだけ。でも心配するまでもなく、今の二人ならそれだけで十分あなたの心は恋人に伝わっている。にわかに幸せが機内に充ちる。この幸せは空と海の青に囲まれて、そのどちらに融け合っていっても消えることはないに違いない。

 と、この空中遊覧もいよいよフィナーレに近づいたと見え、ヘリコプターはアメデ島の上空を旋回して離れ、Uターンして取って返す。往路にはなかったスピードがぐんぐんと増してゆき、発着所のあるヌメアに近づいても依然スピードは衰えない。かえって増しているぐらいだ。機内に流入する風がより強くなり、恋人は長い髪をおさえ、あなたはもみあげから襟足までを撫でつけて整えようとする。出し抜けに訪れたスリルにあなたと恋人は驚きながらも楽しんでいる。途端に、ヌメアまでもうほんの少しという距離の海上で、ヘリコプターは速度は少し緩めただけで旋回をする。その上さっきより高度を落として飛行し、安全な高度ではあるものの機内の二人にはまるで海面をなめるように低く飛んでいるように感ぜられる。

 突然、眼下の海の色が変わる。その綺麗さに二人は揃って息を吞む。今眼下にあるターキッシュブルーの海はこれまではもとより、ここニューカレドニアでもまだ見たことはないものだった。ようやく操縦席のメラネシア系のスタッフが流暢な英語で地名を告げる。流暢ななかにも、やはり仏領としての公用語フランス語の訛りが聞き取れるのも面白い。彼によると、ここは海の独特な色彩で南太平洋に浮かぶ宝石にも例えられる場所で、イル・デ・パンというところらしい。

 ニューカレドニア南西部の端に位置するここイル・デ・パンのターキッシュブルーの海の上。その海上すれすれをすべってゆくのは銀鴎とあなたたち二人しかいない。こんな贅沢な眺めはテレビの海外旅行特集や自然特集でしか見たことがない。こんな光景をじかに見ているのは、今に限って言えば、あなたと恋人の二人だけしかいない。はじめのうち速度に驚いていた二人も今や素晴らしい景色をふんだんに堪能している。飛ぶ能力が退化した、ニューカレドニアの国鳥カグーが二人をうらやむように見上げている。

 こうして空中遊覧は終わった。ヘリコプターは予定通りヌメアの発着所まで戻って二人を下ろした。

 二人は旅程通りにニューカレドニアの国内線に登場するため空港へと向かった。目的地に着く頃にはちょうど薄暮になっているだろうから、着いたら夕暮れの渚に出てみようかと話す。向かうところは、何とついさっき全景を一望したイル・デ・パンである。二人は島に渡る前に上空から全景を眺めることができて、あのように素晴らしい島に向かう感激もひとしおであった。

 ちょうど夕暮れ迫るいい頃合いに、二人は二泊目に予定している五つ星ホテル、ル・メリディアン・イル・デ・パンに入ることができた。部屋に荷物を置いて一通り設備を見て回ったら、すぐさまホテルの面しているオロ湾の浜へと向かう。高級ホテルだけあって、歩いてすぐの距離にリゾートを構える好立地である。南洋諸島固有の杉の森を抜けるとどこでも白い砂浜と美しい海が広がっており、穏やかな夕凪の潮騒が耳に入る。渚の広大さに比べてこの離島にいる観光客は圧倒的に少ないので、同じ浜にいる他の客といえどもはるか彼方に点在するだけである。ほとんど誰もいないに等しかった。

 元々のターキッシュブルーに夕日の色を溶かして海が薄紫のパステルカラーを呈している。

 海辺に来たとはいえ、今の夕刻の時間帯に全身海水に浸かるつもりはなかった。膝下くらいの深さの海辺で水遊びをするだけでいい。それでも恋人は羽織っていた洋服を脱いで上半身の水着を露わにする。水着の上からでも、西日のために一時掛けていたサングラスを通してでも、目の前の恋人の胸の豊潤がはっきりとわかる。恋人はあなたよりも一足先に渚に入って水をすくったり蹴ったりして遊んでいる。そしてこちらへ盛んに手招きをする。あなたは微笑みながら恋人に応え、サングラスを外す。外してみて初めて、恋人の水着が今年の北半球の夏には見たことのなかった色柄であることに気づく。ちゃんと新しい水着に言葉で触れてあげないといけないとあなたは思う。あなたは白いワイシャツの長袖をまくり、裸足になって、黒いボトムスの裾を上げて水際へと歩き出す。

 晩餐にはここからすぐ近くのレストランの展望デッキで、南国風の篝火に照らされた藁葺き屋根の下にトロピカルダイニングが待っている。夕食を済ませた後は暗くなるのを待って星空を眺める。今日の昼間の晴れ渡っていた青空、そして今のこの綺麗な夕焼けならば、きっと南十字星はあなたと恋人の上に輝くであろう。それから、到着当日の昨日とは打って変わって疲れていない二人はおそらく。

 夕日が燃え上がり、沈みゆく前の最後の赤光をあなたと恋人の瞳の奥に宿らせた。夜はもうすぐそこまで来ている。


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