夫を殺したはずなのに

里見しおん

第1話

 アニエス・オリヴィエールは今日、夫を刺し殺した。


 もう限界だった。


 あちこち刺して、動かなくなった彼を、更にぐさぐさと滅多刺しにした。



 大きな音がしただろうに、使用人は誰も来ない。

 夫婦の寝室が大騒ぎなのはいつものことなのだ。




「ふふふふふ」




 胸の真ん中に夫の護身用の短剣を突き刺し、踊るようにふわりと立ち上がる。

 目を見開いて床に倒れている夫の死体を見下ろし、アニエスは笑う。

 スッとした。最高の気分だ。



 悪魔はもう、いない!




「ふふふふふ!」



 浴室に向かい、少し冷めた残り湯で返り血を洗い流す。

 さっぱりとした体で夫の死体を飛び越え、ベッドに潜り込んだ。



 むせかえるほどの血の匂いの充満した部屋で、アニエスは微笑みをたたえ眠りについた。

 幸福だった、少女時代の夢を見た、気がした。




 *




 まだ薄暗い、夜明け前。

 目が覚めたら、殺したはずの夫が隣に眠っていた。

 アニエスは小さく悲鳴をあげた。



「ん、アニエス? まだ早いじゃないか、もうすこし寝よう」



 夫が甘えるように抱きついてくる。おぞましさに鳥肌がたった。

 室内に漂うのは血の匂いではなく、甘ったるい香油の香り。


 再び眠りについた夫は、記憶にあるよりも金の髪が長い。

 それにシーツから出たアニエスの手や腕に無数にあった、傷痕がない。

 夫の虐待が始まる前なのだ、とアニエスは知る。



 これは夢なのか?夫を殺したのが夢だったのか?それとも罰?

 日が高くなり使用人が起こしにくるまで、アニエスは天井を見つめ考えに耽った。






 身なりを整え、朝食を摂る。

 パンにスープ、蒸し鶏を添えたサラダ。それに蜂蜜をかけたヨーグルト。豪勢なものではないが、きちんとした食事だ。

 執事の告げた日付で、結婚してまだ1週間ほどなのだと知る。

 信じがたいが時間が巻き戻った、のだろうか。夢にしては現実感がありすぎる。空腹だし、スープはあたたかく、おいしい。


 ……この頃は、共に食事をしたのだったか。


 夫を殺す直前のアニエスは、寝室に閉じ込められ、食事は『ご褒美』だった。夫を満足させなければパンひとつもらえなかった。



 いつ食事抜きになるかわからない。

 アニエスは行儀よく、すべてを平らげた。






 食事のあと、夫はアニエスの頬にキスをして仕事に出かけた。

 翠の瞳が蕩けるように微笑むが、殺すほどに彼を憎んだアニエスはときめくわけもない。


「あぁ、新婚旅行に行きたかった。今度休みをもらえたら必ず行こう」

「はい、旦那様。いってらっしゃいませ」


 まったく同じやりとりを『前』のアニエスと夫もしたのを思い出す。仕事が忙しく長い休暇がもらえず、新婚旅行に行けなかったのだった。




 夫、ユージーン・オリヴィエールは伯爵家の次男で、王太子の側近である。

 近々王太子妃の輿入れがあり、調整などで忙しいのだ。

 そんな時期に急いで結婚した理由は、ユージーンがアニエスに一目惚れしたからだ。

 女性に興味を持たなかったユージーンが、夜会で目にしたアニエスに釘付けだったらしい。


 王太子がこの機会を逃すなと働きかけ、直々にアニエスとの婚姻を取り持った。急がせたのは、王太子より先に婚姻し子を成せば、王太子妃の産む子の側近に、あるいは婚約者にできる、との目論見があったためだ。

 そのくらいユージーンを気に入っているのだろうが、突然の指名で婚約期間1ヶ月で嫁に出されたアニエスはいい迷惑だった。

 アニエスの父は領地のない准男爵だ。王宮勤めの俸禄で細々と暮らしている。横暴な内容と思っても王太子の取り持った縁談を断るなどできなかった。



 どうせならあと数ヶ月前に戻りたかった。

 そうしたらユージーンに目をつけられた、あの夜会に出なかった。




「奥様、本日より大奥様が指導にいらっしゃいます」



 執事が告げる。

 今日から教育が始まるのだ。それなりの礼儀作法しか身についていないアニエスを、王太子夫妻の前に出しても恥ずかしくない嫁にするため、領地から出てきた伯爵夫人自ら躾にくるのだ。

 ちなみに領地にいる伯爵は結婚式にも来なかったので、会ったことがない。





『カップの持ち方もなっていないわ。見苦しくてよ』


 優雅に微笑みながら、伯爵夫人は侮蔑を隠さなかった。


 何をしても見苦しいと言われ、アニエスの心は疲れ果てた。

 伯爵夫人は自慢の息子の妻が准男爵令嬢なのが気に入らないのだ。あれは躾ではなく鬱憤ばらしだった。どんなに上手にしてみせたって、「よろしくてよ」は聞けないのだ。


 授業で疲れてしまったと夜の営みを断ると、夫が豹変した。

 ネグリジェを剥ぎ取り、ほぐすこともなく乾いた秘所に昂りを突き立てた。

 アニエスの悲鳴を聞きつけた執事がやってきたが、荒々しい房事の一幕と知るや、静かに出ていった。

 それからユージーンはアニエスを酷く抱くようになった。縛り上げ、鞭を打ち、首を絞めたこともあった。

 逃げ出さないように鎖で繋がれ、溶けた蝋を垂らされたことも、焼けた火搔き棒を押し当てられたことも……



『アニエス、アニエス、おまえは私だけのアニエス』



 痛みと苦痛と共に注ぎ込まれた甘い囁きを思い出し、吐き気が込み上げふらりと体が傾く。

 しかし執事が抱き止めてくれて、倒れることはなかった。



「奥様」


「ごめんなさい。寝不足かしら。その、旦那様が、離してくださらなくて、昨夜はほとんど寝ていないの」



 額を抑えて俯く。

 執事の指示で数名の侍女が支えて、アニエスの私室まで連れて行ってくれる。



「大奥様には私から伝えておきます。奥様はお休みになってください」



 執事と侍女が退室して、アニエスは息をつく。

 あの執事もあの侍女も、『前』の鞭打たれて泣くアニエスを冷たく見下していた。どいつもこいつも、この家の人間は信じられない。


 酷い目に遭う前に、修道院に行こう。

 もう、痛いのも辛いのも苦しいのも、夫の健やかな姿を見るのも嫌だ。






 *




 修道院へは行けなかった。



 こっそりと屋敷を抜け出してすぐに、男たちに捕まった。

 アニエスについていた護衛だった。

 修道院に行きたい、行かせて、と泣いて縋ったが無情にも連れ戻された。

 そして、帰宅したユージーンは、悲しげに眉を下げ、アニエスを鎖で繋いだ。


『前』と同じ、虐待の日々が始まった。

 ユージーンは日に日に乱暴になり、ついに背中に鞭を打った。

 悲鳴をあげるのは我慢した。

 泣くほど、叫ぶほど、ユージーンが興奮しているのに気づいたのだ。


 これは虐待ではなく、加虐趣味なのだろうか。鞭打った背中に爪をたてながら激しく腰を打ちつけるユージーンが、憎くて不快で、殺したくてたまらなかった。




『前』のアニエスはユージーンを恐れていた。

 苦痛ばかり与える夫が恐ろしくていつも震えていた。

 しかしあの日、夫の脱いだジャケットから覗く短剣に気づき、自分でも信じられないほど素早く駆け寄り、手に取り、思い切り振りかぶって、ベッドに腰掛けたユージーンの、首の後ろに突き立てた。

 そしてぐさぐさあちこち刺して、床に仰向けに転がった夫の胸の真ん中に短剣を突き刺した。




 とても、気持ちよかった。

 もう一度同じように殺してやりたいと思う。



 しかし、もしもあの罰でもう一度虐待の日々をなぞっているのだとしたら。

 別の方法でこの暮らしを抜け出さなくてはならない。







 *



「もう一度」


 退屈そうに菓子をつまみながら、伯爵夫人が言う。

 今日は伯爵夫人による躾の日。先ほどから何度も、アニエスはお茶を嗜む伯爵夫人にカーテシーをし、やり直しをさせられていた。

 控える侍女たちの視線からも嘲りを感じる。皆伯爵夫人の配下で、皆アニエスがユージーンの妻であることが不満なのだ。


「大奥様、そんなにわたくしが気に入りませんか」


 姿勢を正し、低く問いかける。



「気にいると思って? たかが准男爵の、パッとしない小娘を」



 伯爵夫人は上から下まで、じろじろと値踏みするように見やり、鼻で笑った。

 アニエスは暗い茶色の髪に、くすんだ灰青の瞳。目鼻立ちも控えめで、体つきも貧相。食事は『ご褒美』になったので、結婚当初よりさらに痩せ、ドレスはあちこち緩い。

 アニエスは身分も、容姿も、際立ったところがない。



「ええ、もちろん思いませんわ」



 腰を曲げ、伯爵夫人の瞳を間近で覗く。

 夫人の、夫とよく似た美しい翠の瞳に、目をぎらぎらと光らせた、痩せこけた女が映り込んだ。



「どうか、わたくしを修道院にお連れください。たかが准男爵の生まれのみすぼらしいわたくしなど離縁し、ユージーン様に似つかわしい、美しい令嬢をお迎えください」



 伯爵夫人は目を見開き、まじまじとアニエスを見返した。

 アニエスはユージーンの妻という立場にしがみついている、と思っていたのかもしれない。

 しばし逡巡し、ようやく満足そうに微笑んだ。


「よろしくてよ」








 伯爵夫人による躾の時間は、アニエスが唯一鎖を外される時間だった。

『前』の疲れ果て怯え切ったアニエスは伯爵夫人に勝手に話しかけるなどできなかった。


 しかし、出て行きたいアニエスと、追い出したい伯爵夫人。利害は一致しているのだ。




 思った以上にすんなりと、アニエスは修道院に送り出された。

 婚約期間が短く、準備もままならないアニエスは身一つで嫁に来た。

 馬車に揺られ、身一つで王都から最寄りの修道院にたどり着いた。




「アニエス・オリヴィエール様。俗世との縁を切るべくいらっしゃったとのことですが、ほんとうによろしいのですか」




 皺が刻まれた目元を細めたシスターが、気遣わしげに問いかける。

 オリヴィエール伯爵家の家紋の入った馬車はアニエスを下ろしすぐに去っていった。

 体に合わない簡素なドレス姿のアニエスは、理不尽に修道院に追いやられたように見えたのだろう。




 アニエスはおもむろに手袋を外し、ドレスの袖を引き抜いた。



「アニエス様?! な、なにをなさって……ヒッ」



 止めようと駆け寄ったシスターが、息を飲んだ。

 紺のドレスをぱさりと床に落とし、下着姿になったアニエスの、身体中の傷に驚いたのだ。

 手、腕、背中、脚。

 ちょうどドレスで覆われるところに、傷が、鞭のあとが、火搔き棒のあとまであった。




 昨夜、ユージーンは甘い声で「泣いて聞かせて」と囁き、裸にむいたアニエスに鞭を打った。

 歯を食いしばり堪えるアニエスに、ユージーンは熱した火搔き棒を押し当てた。

 断末魔のごとき悲鳴を上げ失禁したアニエスの秘所に昂りを捻じ込み、揺さぶり、気を失うとまた火搔き棒を当てた。





「アニエス、アニエス、私だけのアニエス」





 ユージーンは美しい顔を快感に歪め、アニエスを見下ろした。


 そうしてできた、生々しい傷だらけの体を晒し、アニエスは膝をつき訴えた。



「夫はわたくしを、このように傷つけるのです。火搔き棒を押し当てる方を夫と敬うことなどできません。どうか、どうか、わたくしを俗世から切り離し、神の名のもとにお守りください。助けて、助けて! わたくしを助けてください!」




 ぼろぼろと涙をこぼし叫ぶアニエスの傷だらけの体を隠すように、シスターは抱きしめてくれた。




 *






 まだ薄暗い、夜明け前。

 揃いの修道服とベールを纏った女たちが聖堂に集い、厳かに祈りを捧げる。



 シスター・リタはそうっとまぶたを持ち上げ、美しいステンドグラスに描かれた神の姿を見つめた。





 アニエス・オリヴィエールは神の名のもとに保護された。

 髪を顎の下で切り落とし、リタという名を与えられ、シスターになった。

 アニエス・オリヴィエールという女はいなくなり、婚姻は無効になった。




 ユージーンは王太子の側近を外された。

 アニエスの涙の訴えは、修道院に慈善活動に来ていた貴族の令嬢たちに見られていた。

 彼女たちの口からユージーン・オリヴィエールの妻への虐待が貴族たちに広まり、清廉潔白なイメージを意識してつけていた王太子の立場に障ったのだ。



 ユージーンは側近の座よりも、アニエスを失ったことを悲しみ、自失しているらしい。

 愛していると叫びアニエスを探し徘徊するそうだ。


「そんなに愛していたなら、なぜあんなにもひどい仕打ちをなさったのかしら」


 噂話をする貴族の令嬢の不思議そうな声音が、リタの耳に届いた。





 伯爵夫人は、ユージーンの行いを知らなかったのだろう。アニエスは身に余る『寵愛』を頂いている、と侍女が告げていたのを聞いたことがある。まさか息子の寵愛の仕方が鞭打ちだとは、思わない筈だ。

 自慢の息子の失墜に手を貸してしまったのだ、さぞつらいことだろう。







 今度は、夫を殺さずに済んだ。

 だけどリタの心は傷ついたまま、血を流して泣いている。





 神様、ちっともすっきりしません。あの男への憎しみから解放されません。

 殺してやりたい。殺したほうが、気持ちよかった。





 静かに見上げるリタの額に、ステンドグラスの淡い光が祝福の聖花を降らせた。

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