遠く、萌葱色はいつまでも留まり続ける。
2016年12月4日
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
『JR北海道、留萌線の線区について来年度は国に支援を求めないと表明』
「"これにより留萌線の維持予算は本年9月を以てゼロへ。廃止は9月1日付"、って、これ…どういうことよ。」
「間に合わなかった、んだろうな」
神威鶉が淋しげに笑う。
「守れなかったんだよ」
自嘲気味にそう繰り返す。
「おれたちは…守れなかったんだよ」
「守れなかったって、鶉!あんたっ」
これで鉄道がなくなったあとの観光資源も確保できたね、なんて、取り繕いとも優しさともつかない大人の言葉も、全く心に響かなくて。
「それでいいの?あたしたちのこの夏はなんだったいうの!」
「わかってんだよ、そんくらい…」
「っ、だったらなおさらよ。全部否定しちゃったら――!」
「だって、なぁ!」
悔しげに鶉は拳を机へ打ち付ける。
「「っ」」
びくっと震える蘭留と楓。
「……ごめん」
鶉はすぐに俯く。
「わかってたんだよ、おれ」
自嘲気味にそう言葉を継ぐ。
「JR北海道の昨年度赤字は842億円。年々深刻になる道内の過疎化に苦しめられていたところへ、コロナがトドメを刺した形だった。おれたち学生で手が届くような域じゃなかったんだよ、これは」
「なによその言い方は…っ」
その手が震えていることに蘭留は気づいてしまった。
「留萌線の単年度赤字6億円。一日あたり172万円の純損失。この夏で…おれたちはどれくらい埋められた?」
ひと月通してイベントで十万単位の利益。
けれど、それを一桁も上回る額が一日に消えている。
「損失の十分の一も補えないんだよ」
「……それでいいの、
そう蘭留は、口に出していた。
かつて呼んでいたその名も、無意識に使っていた。
「だって、できるわけないじゃないか…」
蘭留の呼び方に、鶉は嫌でも思い出してしまう。
もう手を伸ばしても届かない、何か眩しかった日々を。
「JR北海道はもう10年も前から経営が危機的だったんだ」
だから、鶉の声にも自然と悔やみがにじむ。
「そこにあの疫病が直撃したものだから、ここみたいな末端の路線を…いくら地域の人達が必要としていても、維持することすら難しくなった」
コロナが始まってから、もう既に2つのローカル線が北海道からなくなっている。
2020年5月7日、
2021年4月1日、日高本線。
どちらも、大都市に近接したごくわずかな区間しか残らず廃止された。
「だからって…!」
「ここより、もっとはるかに多くの人が必要としてる路線がある。それを止めるわけには、もっといかない。だろ?」
新幹線を。特急を。本当の生命線を延命させるために、
辛うじて生き残り続けた
「そんなの…おかしいでしょう」
「会社全体での赤字は、一日あたり2億円。」
留萌線も、JRも。根本的な構造問題として、走らせれば走らせるほど蓄積していく負債がある。毎年拡大し続ける赤字の増え幅をどう狭めるかが第一問題で、返済の目処なんて二の次どころか、五の次くらいの話なのだ。
「最初から結果なんて見えてたんだよ。なのに、馬鹿みたいに頑張って…」
「鶉、あなたはいつもそう!」
たまらず楓は立ち上がった。
「いつも最初から否定する。全部諦めたほうがよかったって言うの?」
「だって実際そうじゃないか…!今こうしてるときだって時間の無駄ってわかってるだろ、楓も!」
「そうやってあなたは諦めて、あの日あんなになっちゃったんでしょう!」
「……っ!」
「あの日、
「それは」
「なのにあなたは止めなかった。"どうせ行かないし、行ったとしたらしたで、それくらい固い蘭の意思ならむしろ俺ら程度で止められるものじゃない" って―――」
そんな応酬を、蘭留は一切聞いていなかった。
"私は、君の運命を変えちゃったから。"
きぃん――と、脳裏にこだました声に、はっと気づいて。
違う。懺悔していても話は前へ進まない。
留萌線の廃止が決まった今、このままでは少女は魂ごと消えるしかない。ゆえに少女を救う道は、もはや少女を神々の世界から連れ戻すという方法しかない。そんな事を考えていた。
(奪還、かぁ……。)
ふと思い出す。
やがて蘭留は神社を継いで神主さんになる。その折の教えとして、いつの日か祖母から教わった話がある。曰く、「神々に隠された魂を、此世に引き戻す術」。
風水陣というらしい術式を組んで展開するのだ。
少女を神界から連れ戻す最適解である。しかしながらそれには重大な問題があり、組み上げた術式をどのようにして神界に送り込んで作用させるのか、ということだ。
「どうやって、境界を越えればいいんだろ……」
ふと、花火大会の計画スケジュールが視界に入る。
花火。8月31日予定。
花火の配置を術式の形に組んで、遠く、境界の彼方へと送れないだろうか。
(花火を送る…送り火…、あっ。迎え火)
迎え火。
頭に浮かんだ三文字は、死んだ魂や彷徨える魂を現世へと誘う儀式のこと。境界を越える力を与えうるという点では有効だ。しかしながら普通これはお盆の時期に行うものであり、通例7月13日から8月13日までとされる。8月13日はもう過ぎた。
けれど少女は死者ではない。あくまで神々にさらわれた魂。お盆にやらずとも―――8月31日―――いいや、むしろ月末にやるからこそ。
「そうっ…そうだよ。8月31日は
月末。神道で月が籠もると書いて
(そんな神様が籠もる…隠される。晦の8月31日の夜にこそ、夜を支配する神様の力は弱まるんだよね)
これは隙だ。
神々に隠された少女を奪還する、いわば神々への反逆を試みようとしている蘭留にとって好機なのだ。
(むしろ、31日の夜に迎え火を打ち上げて、境界をこじ開けることが勝機…!)
半ば戦争だ。いいや、なにせ天に楯突くのだ。戦争なんてすら生ぬるい。
「……神々への反逆、かぁ。」
幼さ残る外見とは掛け離れた言葉を呟く蘭留。
けれど、やるしかない。
「ねぇ、花火。」
「「?」」
「ここまでやったんだよ。せめて……花火大会だけでも、やり遂げようよ。」
蘭留は言葉を紡ぐ。
少女の記憶を封じられた二人に、境界の話は伝わらない。
ゆえに、花火を納得させるためにこれから口に出す言葉は、全て詭弁だ。
「送り火って形で送り出そうよ。最後の花道なんだよ、留萌線の。」
「……なんだよそれ。負け惜しみじゃないかよ、おれたちの」
「違うよ。だって、この夏に
楓に視線をやれば、頷いてくれる。
そうだよね。元はと言えば、楓は花火大会こそやりたかったんだから。
十年前のあの夜みたいな花火大会を。
「…はっ。あくまでおれが協力するって言ったのは廃止回避。それが失敗した以上付き合う義理なんざねえ」
鶉の言うことは何も間違ってはいない。契約としてあたりまえだし道理も通っている。そうだとわかっていて――蘭留は、
『何でも言うことを聞く券』
そう書かれたくしゃくしゃの紙切れ一枚を、ぽっけから取り出した。
「おまえ、それ…」
鶉が目を見開く。
十年よりもっと昔の代物。ずっと泣き虫だった
「なんで、まだ持ってんだよ」
「ね、まだ使ってないから。」
あの大切な四人の惜日の一枚だ。大事に保管してきて、あの写真と同じように結局捨てていなかったのだ。
「お前、そんなのでおれが動くとでも」
「
鶉は天を仰ぐ。
「……くそ」
オタクはキモいが優しい――そんな決まり文句があるだけはある。
それを平然と利用する蘭留のほうが、ずっと気持ち悪いってこともわかっている。
「お前のそのくそみてーな
「うん」
少女は蘭留のために禁忌に触れて、その身を神々へ献じたのだ。それに比べたら、
「……お前のそういうとこ、嫌いになれないんだよ。」
泣き虫な
やると決めたら、その小さな身体には到底似つかわしくない強靭な意思を蘭留は昔から持っていた。
オブラートに包んで言えば、やり遂げる力。
歯に衣着せぬなら『執念の貫徹力』。
「――やるからには、大花火上げねえと。」
なんたって留萌線の最後の花道だからな、と鶉は続ける。
「…ごめんね。ありがと、
「謝るなよ。これで意思までヘナヘナだったらそれはただのショタだ。そこに強烈な執着力が入って初めて、
その言葉に、ふふっと楓が笑う。
「一度決めたら絶対退かない負けず嫌いってとこ、確かにあなたの軸よ、蘭留くん。」
蘭留は困り顔で笑う。
ごめんね。これですら、二人を騙しているんだ。
「拾われた命だから」
もう一度その言葉を繰り返す。いいや、それもまた言い訳なのかもしれない。
しつこい、は「執恋」と書くらしい―――どこで見たのかそんな一文が、ふと脳裏をよぎった。
"だって、あの日も花火のあとの夜だったから。"
それから二週間。
休みはなかった。蘭留はときどき境内の少女にも手伝ってもらいながら、あの神社を中心に風水陣を組み上げて、その術式に組み込む形で108の花火筒の配置を決めた。
「花火、楽しみだねぇ〜♪」
留萌駅の跨線橋から真っ赤に染まった水平線を眺めて少女は、んぅっ、と伸びる。
蘭留はその言葉に頷く。この跨線橋から一面に咲くだろう花火は、それはもう、美しい眺めだろうから。
8月30日、夕刻。
明日の最終営業を控えて、駅には「ありがとう留萌線」の文字が並ぶ。「おもいで」「さようなら」「おつかれさま」――そんな言葉が綴ってあるけれど現実は、高速道路が出来たこの街には鉄道はもう不要であるというだけで。
ひとつ、ふたつ、哀を
『8.31 留萌線ラストラン!』
「留萌線って、私のことなのかなぁ?」
ポスターに書かれた文字を眺めて、少女は呟く。
「違うよ」
蘭留は否定した。
「だって、君にはちゃんと名前があるから」
「思い出してくれた?」
「……ごめん。まだちょっと、かかりそう」
少女の名前。
こればかりは、断片的な記憶もなくて。
「ありゃ?」
ふと、少女は自分の手元を見る。
手元から首筋にかけて、光の粒がほのかに舞い始めたのだ。
「あれっ…、力が」
ふらっと足元を狂わせると、少女は跨線橋の中腹に倒れ込む。
「!?」
「力が…抜けてっちゃう。」
驚いて駆け寄った蘭留に、力なく少女は笑う。
「あはは、ごめんね。
『おしらせ:8月31日を以て留萌本線は鉄道営業を廃止致します』
きらびやかなポスターの端っこに、そう書かれた一枚の事務掲示が目に入る。そして少女は、ゆっくりと光に透き通りながら――掠れた声で呟いた。
「そっか、もう寿命…だもんね。」
次の瞬間、ぱっと少女は光と散る。
"禁忌に触れた神様は、人の世から忘れ去られ――神々の世界へ還る。"
「どこっ…、どこぉっ!?」
蘭留は駆けずり回る。
留萌駅を、駅前通りを、街の中を。
明日のために着ていた神前服のままで。
「おね、がい…。出てきてぇっ…!」
見えなきゃ、
夜が更け、力が尽きて、へとへとに歩き回って、なお影一つ見当たらない。
線路が続く方角の稜線から朝日が昇って、31日が来てしまう。
花火大会当日。
朝から作業が始まるも、昼を過ぎても集合場所に姿を見せない蘭留を案じて、楓が探しに出た。
(あれは…?)
何かを呼んで、探し回る蘭留の姿を見つける。
随分体力を消耗しているようで、もう気力だけで立っているような状態だった。
しばらく様子を見て、楓は大抵のことを察してしまう。
「っ、
一番なってほしくない展開だった。
おそらく、少女がいない。
鶉への連絡を終えた楓は、一歩、蘭留のほうへ進み出る。
蘭留は一転、今度は微動だにせず、海沿いの稜線の、ある一点を見つめていた。
「どうしたの、蘭」
「
楓が声をかけると、蘭留はそう返事する。
「……なにが?」
「神社が、光ってる」
「いるの?」
もう何も隠さず、直接そう楓は聞いていた。
けれど楓の問いにはもう答えることなく、蘭留は遠く呟いた。
「ようやく見えたよ。」
楓は視線を神社のほうへと向ける。
楓の眼には何も映らないけれど、けれど、たしかに、あの少女がいるとすればそこだから。
「行かなきゃ」
いつになく真剣な表情で、蘭留が繰り返す。
「行かなきゃ、早く」
"境界線上を、一両の汽車が薙ぐ。"
探し始めてどれほど経っただろう。
昨日の夕方からずっと記憶が曖昧で、気づけば蘭留は留萌駅の外れの草むらのそばに立っていた。
「
そんな声が聞こえて、顔を上げる。
「早く乗れ!」
留置線の上に止められた足漕ぎトロッコの上から叫ぶ鶉を、なぜか持っている自転車を片手に蘭留は見上げていた。
「行くんだろっ!?あの神社に!」
蘭留は目を丸くする。
「ちょっ、
制止しようとする楓も、どうやら事情を知っているようで。
「待って、あの神社って…?」
「決まってるだろ!あの子がいるとこだよ!」
「ふたりとも…もしかして」
「ああ、思い出したよ、全部!!」
そう言い切ってしまった鶉に、楓は肩をすくめて、それから蘭留に言う。
「乗りなさい。トリガー、列車でしょ?」
「それも……知ってるんだ」
「だってわたし、十年前のあの夜、鳥居の前で待ってるあなたのことみたもの」
そっか、見られてたんだ。
蘭留があの子を見殺しにした一幕を。
「あなたは幸せ者よ、蘭。あの子はあなたを選んで、救ったんだから。」
選ばれた?
違う。蘭留は何の手も打てなかったのだ。あの境界を越えてから、激動する展開に呑まれるまま何一つ自分から動こうとしなかった。
「あの子に救われた命でありながら、あの子を捨てるつもり?」
それは芯に響く言葉だった。
無力なのは問題だ。けれど、だから何もしないのはもっと問題だったんだ。
見捨てる?無力だからさっさと諦めて、また十年前を繰り返すのか?
違うだろう。
「ごめんね、ふたりとも。蘭ね、やっと気づいたよ。」
足掻いて、藻掻いて、それで力及ばなくても――何もしないよりかは、残せるものがあるんだって。
「行かなきゃ」
御幣を持つ手を震わせて、されど一言、覚悟。
さっさと乗れっ、と鶉が差し出した手を取って車上にのぼる。ついでに自転車も車上へ引き上げた。
「なんで自転車も?」
「この坂を上ったあと、トロッコ降りて参道に先回りして待ってなきゃだから」
はふっ、と息を吐いて、自転車一輪をトロッコの上に乗せて。
「
少女のことを、あの四人の日々を、思い出してくれてありがとう。
そして、ずっと蘭留がふたりを騙していたことに気づいて、なお、こうやって手を貸してくれてありがとう。
本当に、ふたりには感謝に尽きない。
「あとで吐くほど奢ってもらうからね」
「さっさと行くぞショタカス」
散々な言葉だけどある意味当然だ。
神前服のままペダルに足を掛けて、蘭留は前を睨む。
「待っててね。」
線路の先を、御幣で指す。
「今、迎えに行くから。」
――パン
花火が咲く。
蘭留たちが計画から実施まで全部引き受けたけど、その主催者はいないまま。
夜空を華開く様は、どこまでも美しい。
ゆっくりと、軌道の上を蘭留たちは滑り出した。
留萌駅の端っこにある草陰を出た足漕ぎトロッコは、三人を乗せて、留萌線の線路を隔てる生死の境界を越えた。ここから先は廃線である。
夜空にいくつもの大花火が上がって、通行人の誰もが空を見る。十年前の列車の跡なんか誰も見やしないし、もうとっくに忘れ去られているから。たくさんの見物客が歩く橋の下をトロッコで駆け抜ける。
「んっ、ぬぅ…!」
目一杯漕ぐ足に力を入れながら、十年前の記憶を辿るように。
相変わらず日本海を遠く望める線路の轍を。
砂浜すぐ後ろの海崖に溶け込む瀬越駅跡を。
海岸に並んで花火を眺めるたくさんの人々の背中の遠く後ろに、風を切る。
夜桜。星空。十五夜。晩翠。
十度巡って、この夜にまたあの場所へ立つために。
「来た…!」
長い登り坂が始まる。
蘭留たちは叫ぶ。必死に、必死に。
「ふゃぁあぁぁー!」
「んぅっ―――!」
「うぉおおぉおおお!!」
遥か夢の跡は、3人の少年少女を乗せて遠くまで。
「礼受越えたぞ!」
びゅん、と左脇に礼受駅のホームが過ぎる。
貨車を改造した小さな駅舎だけが残る礼受駅。廃駅だから、看板も取り外されてしまっているけれど、記憶には残っている。
ちゃんと覚えている。
「はぁっ、はぁっ…!」
もうすぐだ。
あの地点まで。
三人はギリギリで坂を登りきる。
列車時代も相当の負荷を掛けたらしい上り坂、その頂上まであと少しというところで、鶉が叫んだ。
「らんるっ、行け!」
一瞬の躊躇。
けれど、ここで逃げるわけにはいかない。
蘭留は一歩踏み出す。
「やぁっ!」
草地に向かって飛び込んだ。
強烈な衝撃が身体を襲う。
けれど御幣を持っていたからだろうか、幸いにも身体のどこかを壊したということはない。
「自転車降ろすからねっ!」
まだ走り続けるトロッコから楓が自転車を降ろす。
しばらく地面を航走した自転車もすぐガタッ、カランと倒れた。
「んっ!」
起き上がって駆け寄って、すぐに自転車を掴み起こす。線路の方を見てみれば、楓と鶉を乗せて、まだしばらく緩やかに続く登り坂をトロッコは去っていく。
「蘭っ!わたしと
「急げ、らんる!」
二人の声が届き、蘭留は頷く。
草陰から道へ出てから足を掛けて、花火に照らされる国道231号を疾走する。
「むぅぅううううっ――!」
海風が顔に吹き付ける。長く、御幣が靡く。
日本海は相変わらず暗く穏やかだ。
赤、黄色、緑。花火が咲くたびいろんな色で染まる影が、国道を走る。そんな花火の音すらかき消すような勢いで、ひたすらに漕ぎ続けた。そして。
「はぁ…っ、はぁ…!」
あの参道の前に立つ。
ごぉぉぉ―――っ!
向こうから、十年前の列車とは似つかない轟音で、線路の上をトロッコがやってきた。
蘭留を照らし出す懐中電灯は、まるで前照灯のようで。眩しくて、鶉と楓の顔は見れない。いいや、むしろ見えなくてよかったかもしれない。きっと今の蘭はひどい顔をしていると思うから。
ガラガラガラガラッ!
鳥居のすぐ先の線路に、トロッコの影が凪ぐ。
一陣の風。
その風が吹き終わらないうちに――飛び出す。
トロッコで無理やりこじ開けた境界を、蘭留は越える。大きく線路を踏み越えて――十年前の足跡ごと踏み抜くように。
ばさっと羽根が舞った。
ひらひらと、鶯色のそれが足下に舞い落ちて、蘭留は石段の下に立っていた。
一歩一歩踏みしめるようにのぼってゆけば――その本鳥居の脇に、ひとりの影を見留めた。
「久しぶり。」
短く編んだ耳元の後ろ。白い脚。
「こうして直接会うのは、十年ぶりだね。」
君も蘭も、少しは成長したようで、それでもお互いだってわかってしまう。
「るもい」
あまりにも滑らかに、ずっと求めていた名前が出た。
蘭たちの世界に降り立った少女は、確かにそう名乗った。
「るーちゃん」
惜日の一折を反芻するように、繰り返す。
失ってしまった
「知ってるよ。」
君は笑った。
「待ってたよ。キミが全部、思い出してくれること」
そうじゃないと、この想いを伝えられないから――。
唄を
「ずっと、ずっと、気づいてました。」
ひとつ、ふたつ、愛を
境界線はすれ
「この気持ちも。それが叶わないことも。」
みっつ、よっつ、哀を
手繰り結いた萌芽も、もう留まらない。
「ねぇ、知ってる?るーちゃん」
蘭留の返歌も、遠く世界に澄み渡る。
「巫女さんってね、未婚の人しかなれないんだよ。
神様と結婚しています、って意味で。」
元はと言えば姉から押し付けられた巫女の仕事だけど、継いでみようと思うんだ。
――できないとわかっていて、蘭留は言う。
「えへっ……嬉しいなぁ♪」
はにかむ少女は、そうして蘭留の手を取る。
その感触はもう、雲を掴むようなものじゃなかった。
二人は額をくっつけて、同じ言葉を紡ぐ。
「「あなたと出逢えたことが、幸せでした。」」
遥か、線路の先に光が輝く。
トロッコが走っていった方角から、朝霧に霞む一両の列車の輪郭が見えた。
ここは廃線のはずなのに、おかしな話だ。
「あれは…?」
「お迎えだよ。」
何のためらいもなくそう口にした少女に、蘭留は抵抗を試みる。
「ねぇ、いかないで」
「そういうわけにはいかないよ」
遠く、ひとひら夢うつつ。
境界線はまるで、ふたりを微睡みへ誘うようで。
「ふたつの世界は交わらない。」
そんな少女の唄もまた、夢と見紛う。
「私ね、神様になったんだ。」
あの夜から一つだけ変わってしまったことを。
それ以外全部が同じだったとしても、そこに境界線があるのだから。
「人間に気持ちを通わせちゃった、悪い神様だよ。」
時は無常だ。
ゆえに無情だ。
「ねぇ、連れて行ってよ」
『 最 終 』
存在しない行先幕を灯す単行列車がカーブを切って、参道を横切る直線区間へと入る。それを見た蘭留は、気づけばそう口に出してしまっていた。
少女は困り顔で笑う。
「だめだよ、
「なんで…?」
切ない表情で首を傾げる蘭留に、しゅる、と少女は髪留めを解いた。
「これ」
歌詠鳥の一枚羽根の髪飾り。
少女はそれを差し出した。
「いましばらくの別れだけど、きっと…ずっと、忘れないよ。」
カタン、カタタン――と迫り響く軌道の
「受け取れないよ…」
だって、これを手にしてしまったら、
ふたつの思いは同じでありながら、境界をひとつすれ違う。
それから幾瞬もなかっただろう。
「あっ」
蘭留のすぐ背を一瞥して、小さく呟いた少女は――刹那。
「ごめんねっ!」
ドン、と強い衝撃が走って、蘭留は石段から転げ落ちる。
ごろごろとそのまま線路を越えて、鳥居を抜けたすぐ先で止まる。
「!?」
飛ぶように起き上がった蘭留は、ひとつ憧憬を見る。
微笑んで、小さく手を振る少女。
儚げにもその頬には一滴を伝わせて。
「さよなら。」
ビュゥッ!
その姿を覆い隠す緑色の帯。
不思議に白く輝く車体が少年少女の狭間を遮って――風が吹く。
『 最 終 』
8月31日、留萌線最後の夜。
もう十年も前になくなった増毛と留萌の間の線路を、境界線は吹き抜ける。
そうして風が凪いだ先には、少女の姿はなかった。
代わりに鳥居の向こうから舞い上がったのは、一枚の羽根。
その萌葱色を反射して、吹かれるまま風になって、列車に運ばれてゆく。
「っ!」
その様を呆然と眺める間もなく、蘭留は自転車を掴み上げた。
"遠い、遠い、境界の彼方へ。"
6年前まで列車が行き交った線路に沿って、ひたすら自転車を飛ばす。
もう花火も終わって、すっかり人影のなくなった海浜に、一輪の自転車と、一輌の列車だけが駆ける。
窓に一片の萌葱色。
遠く、遠く、君だけを乗せて。
波打ち際の道道を駆け抜けてゆく自転車は、
木々も、
礼受の駅跡も、
国道に歩くふたつの影の脇も、
びゅう、と通り過ぎていく。
「わっ」
「きゃっ」
一陣の風が鶉と楓の間を薙ぐ。
自転車に乗って後ろに靡く黒髪には、微かな
「「らんる……?」」
はっ、とふたりは周りを見回して、蘭留のすぐ先に走る列車を見つける。
「あれは…!」
長く尾を引く緋色のテールランプ。
神秘的に輝く白色を纏って、夜路を疾走する。
廃線跡に、走るはずもない単行列車。
ひときわ輝いて ――『 最 終 』―― の行き先幕を灯す。
もう花火も上がらなくなった静ぐ夜空に一層映えるようで。
それはまるで、星空の彼方へ誘う銀河鉄道のようだった。
「るー。」
「るーちゃん。」
二人は別々に、その少女の名前を呼んだ。ずっと思い出せなかったのに、流れるように呟いてしまう。
カーブに消えゆく列車の窓から、返事をするように萌葱色が翻った。
「「やっと…見えた」」
楓は鶉と目を合わせて、顔を綻ばせる。
窓に手を振って笑う一人の少女の面影が、ちょっとだけ覗いたように見えたから。
(ありがとう、ふたりとも。)
別の世界へと飛び込んだ少年と、小さな神様に、楓は感謝を念を捧げる。
ふたりに勇気を貰って、いつになく楓は鶉の横顔を眺めてみる。
(おかげで…わたしも踏み出せそうだから)
ピィィイィッ―――!
二度と響かないはずの汽笛が澄み渡る。それに押されるように。
「あのね、鶉。」
「なんだ?」
銀空の彼方へ消えゆく単行列車と一輪の自転車。そんな光景を背に、くるりと鶉の前へ立って。
そして、
「話、あるの。」
"されど――その色は、いつまでも。"
必死にお祓い帽を携えながらハンドルを切って、バンプの衝撃をいなす。
御幣の白織が棚引いてますます蘭留にあたる。
追いつけ、あの汽車に。
やがて道路と線路が離れて、単行列車は坂道に入る。
けれど、僕は漕ぎ続ける。
この道を行けばやがて、あの終着駅にたどり着くから。
ぽつぽつと増え始めた家々も、多くは明かりを落としている。夜も更ける国道を疾走して、交差点を曲がれば――。
街の真ん中にぽっかりと開いた広い更地に、僕は足をおろす。
かつてのターミナル。
小さな小さな、終着駅に。
『普通列車、深川行きです。』
更地の奥の方に止まる一輌の列車。
何度も聞き慣れた案内放送がホームの外まで聞こえてくる。
「見つけた」
淡く、白く、列車を不思議に包む光の折に、微か灯るあの色を。
留萌駅2番ホーム。
かつて、あの神社の方角へ留萌線の列車が出たホームも、いまや終着駅。
その留萌線も今日限り。
『 最 終 』の幕は、いつの間にか、見慣れた『留萌↔深川』の表示に切り替わっていた。
手元の時計に目を落とす。
22時18分。
最終列車の出発時刻。
8月31日、最終営業日。夜。
120年に渡る留萌線の歴史を
ピィィィイィ―――ッ!
高く、遠く、汽笛が響く。
ディーゼルの白煙が上がるとともに、列車を淡く包んでいた白い光も、満天の夜空へ立ちのぼる。
光の粒は、星々の隙間に溶けて、還ってゆく。
僕は呆然と、ただただ、汽車と、駅と、天ノ川が織り成すその憧憬に立ち尽くすばかり。
けれど。
一粒だけが、まるで花びらのように、ふわりと蘭留の方へ舞い降りる。
蘭留は慌てて手を出すと、その手のひらに光の粒が触れて、ふっと輝きを失う。
見てみれば、それは一枚の羽根だった。
ほのかな萌葱色を灯す――見慣れた髪飾りだ。
「……こんな大切なもの、もったいないよ」
蘭留なんかに釣り合うわけもないのに。
「こんなことしなくても、忘れるわけないよ、君のこと。」
忘れないし、忘れられないだろう。
あんな微睡みのような、
恋と見紛うような折々を。
「でも。きっと
そこまで口に出して、力なく首を振る。そうじゃない。
伝えるべきはもっと大切なことで。
もう遠くへと旅立つ君に送る言葉は決めている。
「…やっと言えるや」
十年前、何もかも言いそびれた。
だからせめてこれだけは。
「ありがとう」
蘭に現れてくれたこと。
蘭を選んでくれたこと。
掌の羽根を、静かに包みながら想う。
「今度こそ、ちゃんと言うから。」
こんな蘭に、出会ってくれた。
ほのかにあたたかい、微睡みのような日々をくれた。
もうしばらくの別れだけれど、忘れない。
「さよなら、るーちゃん。」
この掌に残る萌葱色は、いつまでも留まり続けるから。
――――――――――
8月31日 留萌本線 営業終了
9月1日付 全線廃止
境界 占冠 愁 @toyoashi
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