君がカムパネルラと呼ぶのなら

天藍

君がカムパネルラと呼ぶのなら


「ごきげんよう、カムパネルラ!」


 春である。わたしは大げさなくらいの大声を上げる。


「こーんー、にーちー、はーっ!」

「はいはい、こんにちは」


 ぶらんと片足が楠の枝の中にはえた。濃紺のソックスにモスグリーンのスカート。そのついでと言わんばかりにばたばたと本と音楽プレーヤー、イヤホンが落っこちてくる。

 さいご、ひらんと赤いリボン。


「おはようございます、カムパネルラ」

「おはよう、まつり」


 夢想の時間、終わり。わたしは聞き分けの良い後輩の顔をした。


「先輩、上からもの落とすの危ないですよ。ウォークマン、壊れちゃったらどうするんですか」

「べつに、壊れて、いいんだよ」

「高いんですから。本だって、汚れますよ」

「べつに、汚れて、いいの」

「カムパネルラ」


 おりてきて、とわたしは言う。わたしのカムパネルラはいつも通りその要求を無視した。わたしは楠の根元に座り込む。

 ルルとミミ。夢野久作。あおい泉と噴水が描かれているやわらかな文庫本だ。


「これ、どんな本なんですか?」

「どうわ、みたいな、むかしむかしのお話で」


 春みたいな気だるい声が降り注ぐ。あおあおした楠の葉っぱは、年がら年中木漏れ日を作り出せるわけで、わたしはそれが先輩がこの木を気に入っている理由と知っているから、ちょっとだけ嫉妬する。


「あにと、いもうとの話で、父と、こどもの話で、氷の胸像を母と呼ぶような、氷の胸像をこどもとして抱きしめてしまうような、……聞いてないわね」

「だって先輩の言ってることなんてわからないですよ」

「そうだったね」


 文庫本を開く。先輩は空を見上げているだろう。葉っぱの隙間から覗いてしまえば、太陽光はそう眩しくない。

 眩しくない。先輩の目を焼かないなら、それで良いのだ。


「ルルとミミはかわいそう?」

「いいえ……、って、わたしは思います」


 ぱたんと本を閉じる。薄い本。濃い青に銀のスピン。滑らかな紙。箔押しの表紙。

 先輩の唯一の自由は製本であり、たった一冊を生み出すためにどれだけのお金と時間を重ねているのか、わたしは片鱗しか知らない。

 とても厳しい先輩のお父様方は、馬鹿馬鹿しいと笑うのだという。


「ルルとミミは、かわいそうじゃあないわ。……いいですねぇ、きょうだい仲良く死の向こうまで!」

「あんまり、言うもんじゃあ、ないよ」

「だって」


 ずるいわ、とわたしは言う。先輩の、木の葉が擦れるような笑い声がした。


「でも、あたしはいやだな。死にたくは、ないから」

「わたしも、先輩が死ぬのはいやだな」

「先輩が?」


 先輩の声がいじわるに高くなる。


「違うでしょ。先輩なんて死んでもいいんでしょう?」

「まさか」

「違う。違うよ。いい、まつり、ちゃんと覚えてて」


 視界のすみでひらりと先輩のしろい指先が揺れた。見上げたら、先輩がにっこり笑っている。背筋があわだつ。

 先輩が笑ってる時は、本当のことを言う時。ナイフを振り上げる時。


「あ、た、し、が、死んでも、まつりはへいき。まつりが死んで欲しくないのは、まつりのカムパネルラ」

「……、」

「あたしは、まつりのカムパネルラかもしれないわ。でも、まつりは、あたしのジョバンニじゃあないから」

「やめて」

「ええ、わかったわ」


 慈愛に満ちた女神さまのような答えだ。わたしがカムパネルラと呼んでも返事をしてくれない先輩は、いつでもいじわる。今日くらい、優しくしてくれてもいいのに。

 いなくなるくせに。

 あなたもカムパネルラも変わらない。


「遠くに行くのなら、傷付けないで」


 わざわざ振り返らないで。わざわざ電車に乗せて、思い出語りなんてしないで。わざわざ笑わないで。

 ジョバンニは、カムパネルラを憎んだに決まっている。


「ええ、わかったわ」

「遠くに行くのなら、手の届くところにいないで」

「ええ、わかったわ」

「……遠くに行かないで……」

「……ごめんなさいね」


 ぶらんと木からぶら下がって、すとんと降りる。春の若葉が先輩のローファーに踏み潰された。

 わたしの目の前に先輩がしゃがみこむ。


「まつり」

「……」

「ま、つ、り」

「……」


 わたしの膝の上の赤いリボンを先輩が取って、わたしの首元に手を伸ばす。思わず引いた上半身を、先輩がリボンタイをつかんで乱暴に引き寄せる。


「あたしのリボン、あげるわ」

「……いらない……」

「いいえ。まつりは受け取るわ」

「……はい」

「ウォークマン、壊れてない?」

「ええ」

「なら、あげる。誰にもないしょね」


 先輩はわたしのリボンを解いて、自分の首元に結ぶ。わたしのブラウスの首には赤いリボンが先輩の手によってきちんと結ばれている。


「ぜんぶ、ないしょ。その本もあげる」

「いいえ、これは」

「まつりは受け取ってくれるでしょう?」

「いいえ、これ、これだけは」


 じん、と痺れるほど痛く耳朶を抓まれる。先輩は先輩特有の薄茶色の瞳でこちらをじっと見つめる。


「いいえ。まつりは、受け取るわ」

「でも……、」


 これは先輩の唯一の自由だ。幼いころから一族の総領娘として厳しく厳しく育てられた彼女の自由。手のひら一冊分の世界。


「ゆるして、先輩、これだけは」

「どうして」

「あなたの自由でしょう」

「だから、あげるって、言ってるのよ。このわからず屋」

「……、」

「あたしの、最後の本よ。だからあなたにあげるの。だからわたしはあげるの。まつりは、受け取るわ」

「……ずるい」

「ええ、そのとおり」


 薄い単行本を手に押し付けられる。ため息が出そうなほど上品な本だ。銀の箔押しのタイトル。薄青の表紙。青のスピンには銀の糸が混じって水の流れのよう。

 不意に、先輩が顔を寄せる。まつ毛が触れ合いそうな。


「ばかね、まつり」


 瞳が笑みに融ける。


「こういうときは、キスでもするものよ」

「……、」

「だからカムパネルラは遠くへ行ってしまうのよ。さよならあたしのザネリ。あたし、あなたに殺されても構わないって、思ってた」


 じんと耳朶を抓られる。痛いと思う前に先輩は立ち上がって、そのまま去っていく。

 春である。

 先輩が卒業する、その日のことだった。

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